平仮名の教え、宝の山の教え

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、お道教理としての「平仮名の教え、宝の山の教え」教理を確認しておく。

 2003.8.29日 れんだいこ拝


【平仮名の教え】
 「高弟列伝第五編/鴻田忠三郎」の「道の祝詞」(大正13年1月、三才社、発行兼編集人は桝井孝四郎より)。
 (要約)「祭事の祝詞を作らせて頂くにあたり、鴻田忠三郎さんが親戚の神官・守屋秀雄さんから草稿を貰って作られていた時に、教祖様が仰られた御言葉。『鴻田さん、お道にそんな難しい祝詞はいらん。心通りの御守護下さる、これが祝詞や』」。
 教組みきの教えは『かなの教え』。中山みきは、お道の概念を一般の人にも分かり易いように平易な言葉で伝えている。農業や大工などに例えて話をしている。1下り目は経済の教え、2下り目は政治の教え。
 「やわらかやさしい教え」。(大正十一年十月五日号みちのとも「山澤為造先生の御話(一)」より)
 教祖は、『一般の人に解らん様なむつかしいことは一つも教えんで』と仰せられました。『子供でも年寄でも、又少々届かぬ者でも解る様やわらかやさしい教えやで』と仰せ下されました。『堅い四角四面なことを云うて教えては、学問のある賢いものには解るけれども、とどかん者には解らんやろう、解らん様では信心はできようまい。それでは不公平である。眞の親の教えとは云えようまい』と仰せ下されました。『食べ物でもそうであろう。一方の者には食べられるけれども、又一方の者には食べられぬという様な事では、親が見て居られようか。見て居られようまい。親はたとえ子供が五人あれば五人とも五本の指の如く、十人あれば十人とも可愛いのが親心である。十人あれば十人とも皆が喜んで食べてくれてこそ、親も満足なら、子供もそれで育つのやで。親の教えは丁度そういう道理やで』と仰せ下されました。(中略)

 又或る時、御教祖は、豆に例えて御話聞かして下されたことがあります。この頃はだん/\贅沢になって、そら豆などは子供でも余り食べませんが、我々の子供の時分には「何ぞ欲しい」と言えば、親はそら豆をつかんでくれたものであるが、そのそら豆を例にとって仰ったことがある。『同じ豆でも煎って出して見よ。歯の善い者は食べられるけれども、歯の悪い者には食べられようまい。それをやわらこう煮(た)いて出して見よ。十人居れば十人とも食べてくれる。歯の悪い者でも食べられるやろう。丁度この親の教えはそういう道理やで』と聞かして頂いたことがある。

【宝の山の教え】
 「171.宝の山」は次の通り。
 教祖のお話に、『大きな皮に橋杭のない橋がある。その橋を渡って行けば宝の山に登って結構なものを頂くことができる。けれども、途中まで行くと橋杭がないから揺れる。そのために途中から帰るから宝を頂けぬ。けれどもそこを一生懸命で、落ちないように渡って行くと宝の山がある。山の頂上に登れば、結構なものを頂けるが、途中で険しいところがあるとそこから帰るから宝が頂けないのやで』、とお聞かせ下された。




(私論.私見)