天理教学原典考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年10.28日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、天理教学の原典考をものしておく。


【天理教学原典考】
 天理教学では、「おふでさき」、「みかぐらうた」、「おさしづ」を三原典といい格別に重視し、信仰生活の拠り所となっている。次のように諭されている。
 よろづよの世界一列の者が、日常生活の上に、あるいは悩み苦しむときに、お筆先、み神楽歌、その他お言葉と共に、しばしばお指図を紐解いて、この神の声を頼りに、確(しっか)りした行先の心定めをするならば、必ず救われる有難いみ教理である。道に勤しむ者は、末代変わりなきこの真理によって、我が身我が心を助けると共に、これを何処の国、如何なる人へも諭し伝えることを忘れてはならないのである。

 「おふでさき」は、教祖が自ら筆を執って記された直筆書き物で、十七号、1711首のお歌からなる。 「教理宣明と、傍な者への叱責と指導」を主とする。「みかぐらうた」は、みきが歌詞を作り、 曲をつけて側近者に説いたつとめの地歌として教えられたもので五節からなる。かぐらの地歌として第一節、第二節、第三節。てをどりの地歌として第四節(よろづよ八首)、第五節(一下り~十二下り)から成る。それぞれ手振りが付き、第五節は数え歌になっている。 「おさしづ」は、教祖ならびに本席の口述の口述神言を側近者が筆録したものである。「教理の説き明かしと、教団運営に関する叱責と指導」を主とする。その時々に応じて神意を述べられたものを「刻限のさしづ」、人間の側からの伺いに対して答えられたものを「伺いのさしづ」という。

 天理教学には他にも次のような教典がある。
 「天理教教典」は、1949(昭和24)年に刊行され、教会本部が原典に基づき教義の大綱を体系的に編述した書物である。全十章からなり、信仰の基準となる正統教義を示している。前後各五章の前篇(教理篇)、後篇(信仰篇)に分かれている。

 「稿本天理教教祖伝」は、1956(昭和31)年に刊行され、教会本部が編纂した教祖中山みき様の伝記である。史実を踏まえて編述されており、教祖のひながたをたどるという信仰実践の基準ともなっている。

 「稿本天理教教祖伝逸話篇」は、1976(昭和51)年に刊行され、稿本天理教教祖伝が理を明らかにすることを主眼とするのに対し、信者たちを教え導かれた教祖の親心あふれるお姿をほうふつとさせる二百編の逸話を収録したものである。

 「お書き下げ」は、教理を説いたもので要点が集約されている。八つのほこり、たんのう、ひのきしん、誠真実、つくし・はこび、にをいがけ、おたすけ、その他からなる。

 「天理教学の扉を開く おやさと研究所長 井上昭洋 」参照。
 「天理教事典 第三版」によれば、天理教学は「信仰の内側からなされる、信仰を前提とした研究であり、天理教の教えを信仰する者の実存が要請する信仰行為としての学問、すなわち信仰の学である」。

  澤井(2006)は、天理教学とは 「親神の啓示とその真理性に対する信仰をその基本として、教理内容を探求し人間存在のあり方を理解しようとするものであり、もしもこうした天理教学の根本的立場を踏まえることなく教義研究を進めるとすれば、たとえそれが教義および信仰を語るものであったとしても、それは天理教学研究ではない」と宣言する。極論すれば、信仰的情熱に基づかない教学研究は天理教学にあらずということだ。現在、天理教学の研究者を自認する者はおしなべて天理教の信仰者であると思われるので、澤井の主張を待つまでもなく、彼らはそれぞれの信仰信念に基づいて天理教学研究を行っているはずである。

 信仰者の言葉で言えば、親神から与えられた「ようぼく」学者の「御用」として教理の研鑽に励み、教学研究を展開しているのだと思う。天理教学に勤しむ者全てが信仰者であれば、信仰の学としての天理教学と いう位置づけは揺るぎないものと考えてよいだろう。


 しかし、天理教学者のエトスが、天理教の信仰を天理教学の前提条件とするのであれば、天理教学はネイティ ブ(信仰者)によるネイティブ(信仰者)のための閉じられた学識となる。このようなパラダイムにおいて、ネイティブ宗教学としての開かれた天理教学は果たして可能なのだろうか。確かに、天理教学は他宗教の神学や教学と同様に、歴史的には信仰の学として形成されてきた。しかし、単なる学識ではなく「学問」(ディ シプリン)であることを目指すのであれば、その出自において信仰の学であったからといって、未来永劫そうあり続ける必要はないのではないだろうか。

 ところで、天理教学は一般に、原典学、 歴史教学(教会史)、教義学、実践教学(教 会学・伝道学)の4つの研究領域に分けられる。この4つの領域のうち、教義や信仰について研究する原典学や教義学はともかく(この二つを射程に入れて論じるには紙幅が足りない)、教会史や伝道学の教学的研究において天理教の信仰が前提条件とされるのであれば、それはどのような理由においてなのだろう。この条件のもとでは、例えば、未信者の日本宗教史研究者による天理教教団組織の近代化についての研究は、日本の一新興宗教についての歴史学研究であって、教学研究にあたらないことになる。一方、同じ研究トピックについて天理教を信仰する研究者が論じるのであれば、それは教学研究と見なされる。しかし、この場合、史実のなかに無意識に神意を読み取ろうとしてしまう信仰者のバイアスがかかるかもしれない。さらに、それがネイティブ(信 仰者)の視点に基づく解釈であるという ことに気づかないのであれば、その歴史学的研究において信仰が足かせになっているとさえ指摘されるだろう。

 私の考えるネイティブ宗教学としての 天理教学は、ノンネイティブ(非信仰者)による天理教学を許容する「開かれた」天理教研究でもある。信仰の学としての天理教学の扉を内向きに閉めたままにするのではなく、その扉を開くことの可能性について考えてみるべきではないかと思う。

[註] (1)『天理教事典 第三版』pp. 609-610. (2)澤井義次(2006)「天理教学のパース ペクティヴとはなにか」『天理教学研究』 42,pp. 7-19.

 「「立教」再考その3 天理教とは何だったのか」が次のように述べている。
 概要/「中山みきの教え」として「天理教教典」その他で語られている現在の天理教の教義のかなりの部分は「秀司派教義」であり、中山みきの本来の教えとは真逆なものになっているというのが私の見解である。もとより、「秀司派教義」は「中山みきの教え」が先に存在していたことを条件として形成されたものであるわけで、全く無関係なものだとは言えないのだが、そのことが話をややこしくしている。天理教の教えの中で「中山みきが説いたこと」と「秀司(達)が勝手に付け加えたこと」とは文字通り、ぐっちゃぐちゃになっており、どこからどこまでがみきさんの本当の教えで、どこから先が「みきさんの名を借りた第三者の主張」にすぎないかということを正確に見極めることは、容易なことではない。
 「秀司の気持ちならよく分かるが、中山みきという人のことは、結局のところよく分からない」と感じている人々が、天理教の中には数多く存在している。私自身も、かつてはそう感じていた。けれどもその人々が「学んで」きたのが「秀司という人自身の作った教義」であったとしたなら、その人々は秀司という人が中山みきという人のことを「わからない」、「おそろしい」と感じ続けてきた正にその感覚を「追体験」し続けてきたのだということになる。「わからない」と感じるようになるのは当然のことだと思う。自分は「教祖の教え」に学び「教祖のひながた」を歩んでいると信じている多くの信者さん達が実際に歩かされているのは、「秀司のひながた」に他ならないわけなのである。
 意訳/人は、どこまで行っても「自分の見たいもの」しか見ようとしないし、「自分の信じたいこと」しか信じようとしないものである。その人の器量に相応しく思想し行うものである。




(私論.私見)