| 【出直し論】 |
お道教義では、「借り物の理」は、人はいつかは借りていた身体を創造主へ返さねばならないということへと帰結する。丁度、セミやヘビが殻や皮を脱いでいくようなものと考えられる。これを「出直し」と云う。「出直し」とは、「心得違いは出直しや」というお言葉にあるように「やり直し」という意味での生き方の切り替えをも意味している。そこには、日々の再生という意味での出直しと、死生観における「出直し」の二義がある。
出直しには、心の出直しと身上の出直しがある。
| 「心の出直しをしたら身上の出直しを助けるで。心のたてがかへれば、身上のたてがかはる」(「天理一代記」)。 |
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み神楽歌に次のように記されている。
| 六下り目 |
七ッ |
なんぼ信心 したとても
心得違いは ならんぞえ |
| 六下り目 |
八ッ |
やっぱり信心 せにゃならん
心得違いは 出直しや |
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| お筆先に次のように記されている。
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教祖のお諭しは次の通り。
諸井政一集後篇「御講話傍聴録三」。
| 「『心の出直ししたら、身上の出直し助けるで。心のたてをかへたら(かえたら)、身上のたてがかはるで(かわるで)』と常住(常々)お聞かせ被下(下され)た」。 |
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(私論.私見) 「出直し」について |
| 「出直しの理」の理解は案外難しい。なぜなら、本部教理では「存命の理」との絡みで云われており、信仰上は一理あるからである。「存命の理」とは、教祖が現身(うつしみ)を隠されて後、本席を次ぐことになる飯降伊蔵の「お指図」で打ち出された神言であり、概要「教祖は、子である人間が可愛いばかりに、その成人促すため、これから先25年もある命を縮めて現身を隠した。これからは、いよいよ世界救済のために駆け巡る」と云う言葉から発生した。つまり、生前同様に働いて、道人の成人を見守るという「存命」の立場に立たれたことになり、そこから教祖殿において毎日お食事とお茶、お召し替え等の儀式が為されることになった経過がある。それはともかく、本席の「お指図」の真意は奈辺にあったのか、興趣の注がれるところである。 |