中山ミキ思想の古神道との通底考

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.7.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、中山ミキ思想の古神道との通底考をしておく。


【「中山ミキ思想の古神道との通底性」について】
 「中山ミキ思想の古神道との通底性」を確認しておく。中山みき思想が日本古来の縄文的古神道の精華である出雲-三輪山神道と通底している気配が認められる。例えば、天理教では柏手を四つ打つが、これは出雲大社も同じで、真柱という用語も共通している。「中山みきによる古代神の復権」は次のように記している。

 「その理由は、起源を縄文時代にまで遡ることのできる古き神の道を、政治的な理由によって天皇家を中心とした国家神道へと変質させ、やがて破滅に向かって突き進んでしまうこの国を救う為だったからではないでしょうか。私には中山みきさんの生涯には人を助けるという目的だけでなく、国家神道に決して屈服しない古き神の意地というべきものがあるように思えます」。


 興味深い指摘であり、これについては改めて考察する。

【「中山ミキ思想は神道か仏教か」について】
 「中山ミキ思想は神道か仏教か」は一考に値する。私説は、神道に比すれば古神道(出雲神道)であり、仏教に比すれば古神道に通じる範囲の仏教に通じると読む。従って、大和朝廷以来の神道との違いを強調しての神道との繋がり否定論には与しない。同様に、奈良仏教以来の仏教との違いを強調しての仏教との繋がり否定論には与しない。これを分かり易く言えば、今どきの神道であるようでそうではない、もっと古くの古神道(出雲神道)に通底している。仏教との絡み然り、今どきの仏教であるようでそうではない、もっと古くの原始仏教に通底していると評したい。

 「ウィキペディア(Wikipedia)天理教」。

天理教(てんりきょう)は、中山みき開祖とする日本発祥の宗教江戸時代後半に成立した宗教の一つ。かつては教派神道の一派とされていたが、本来は神道とは別の宗教であり、仏教の影響もみられる。一般的には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人(宗教法人天理教)およびその傘下の被包括宗教法人(教会本部および一般教会)を指すが、広義には中山みきが伝えた教義そのものを指す場合があり、その教義を信仰する単立の宗教法人もある。

概要

「ようこそおかえり」の標示
天理本通りの自転車および歩行者専用標識
月次祭(全国から信者が集まる祭り)がある毎月26日とその前日は自転車の通行が禁止されている。
1950年代に撮影された「天理教」のハッピ

「宗教法人天理教」およびその被包括法人である「宗教法人天理教教会本部(略して教会本部)」は奈良県天理市にあり、またその傘下にある一般教会は各地に点在する。

崇拝対象のの名称(神名)は天理王命(てんりおうのみこと)で「親神(おやがみ)」または敬称を付けて「親神様(おやがみさま)」とも呼称。天理教公式ホームページでは「親神天理王命」と紹介しており、人類創造神とされている。[1][2]なおまだ宗教として公認されておらず明確な教典も存在しなかった教祖存命時の神名は一定しておらず、「天輪王命」などの様々な名称で文献上表記されており、教会の公認後も天理教教典上「天理大神」が神名とされている時代もあった。[注釈 1]教会本部、各地の一般教会では、天理王命とともに教祖と御霊の社を置き礼拝しているが、一神教(一つの神のみを信仰する宗教)である。「陽気ぐらし」という人間がみんなで助け合う世界の実現を目指している。教祖は中山みき[注釈 2]。天理教では「教祖」と書いて「おやさま」と呼称している。明治20年(1887年)に、教祖・みきは90歳で死去したが、天理教では目に見える存在の「現身(うつしみ)を隠した」のであり、その魂は今でも「元の屋敷(現在の教会本部、教祖殿)」に留まっており、人々の暮らしを見守り守護しているとしている「教祖存命の理」が、天理教信仰の根本的な精神的支柱となっている[6][7][8]。 現在の統理者は真柱(しんばしら)・中山善司。次期後継者は中山大亮

天理教では、人間のの発祥地の中心を「ぢば」(地場)と称し、1875年(明治8年)6月29日(陰暦5月26日)に教祖の「ぢばさだめ」という啓示でその場所を定めている。2代真柱の中山正善によれば「ぢば」という言葉には特別に意味は無く、教祖はあくまで「場所」という日本語のニュアンスで使用していた。その後の教勢の発達と時間的な経過とともに「ぢば」は天理教義的な観点から「人間の宿し込みの地点」と意味が明示され、場所という視座ではその証拠として据えられている「かんろだい」のある特定の地点と定義されるようになったとされる[9][7]。かんろだいは木製六角の台が13段積み重なっており、上の柱の部分が男性の陰茎、下の台が女性の女陰をかたどり、それが合体している姿である。かんろだいの据えられた地点である「ぢば」は「元なるぢば」「かんろだいのぢば」の意味もあり、天理教の信仰の対象であり、中心であるとされている[注釈 3]ため、明治8年のぢばさだめから数度の大規模な増築を重ねた現在に至るまで、まったく変わらぬ位置にある。このようなぢばの意義は「ぢばの理」と呼ばれている。天理教教会本部は、この「ぢば」を中心に建られており、神殿の四方に建てられたすべての建物を「かんろだい」の礼拝所とし、全国大多数の各教会の神殿も「ぢば」の方向にむけて建てられている[10]。通常は、丁寧語の「お」をつけて「おぢば」と呼び、人がこの地を訪れることは、故郷に帰ることであるから、「おぢばがえり」と呼んでいる。そのため天理駅や天理市内の関係者の宿泊施設である信者詰所などには「お帰りなさい」や「ようこそおかえり」などという看板が見られる。

天理教教会本部南礼拝場と教祖殿をつなぐ回廊

天理教教会本部の最も中心である「神殿」は階段を上ったいわゆる二階部分に相当し、さらにその中央部は一般信者や参拝者が立ち入る事のできないよう結界が設けられ、祭典時に祭主が祭文を奏上したり、手おどり、毎朝夕のつとめが行われる一段高い木製の「神床」がある。神床の東西南北には「真座」へ降りる階段が設けられ、中心(ぢば)に人間創造をあらわす六角形の「甘露台」(かんろだい:木製、高さ約2.5m)[11]が据えられている。真座の四周約6間四方は床はなく、純白の玉砂利が敷き詰められている。さらに甘露台の四周約1間四方は花崗岩の延石で区切られ、その中には直径約5〜6cmの丸くて平らな那智黒の石が敷き詰められ中央に甘露台が鎮座する。神床の結界外は信者・参拝者が礼拝する畳敷きの広大な四つの「礼拝場」(らいはいじょう:北礼拝場・南礼拝場・東礼拝場・西礼拝場、合わせて3157畳)があるが、真座は地面(いわゆる一階部分)であるため、礼拝場からは甘露台の上部が見えるのみで真座の全景を見ることはできない。なお神殿の屋根は甘露台の上部一間四方がぽっかりと開けられているため、雨天時は甘露台に直接雨が降り注ぐ。

そのほか教会本部には、教祖が存命のまま暮らしているとされる「教祖殿」(きょうそでん)、御霊を祀る「祖霊殿」(それいでん)などがあり、信仰に関係なく誰もが自由に出入りすることができ、南礼拝場は24時間開かれている[12]。「神殿」では、毎日朝晩に「おつとめ」という定時定例の礼拝が行われており、また毎月26日は、「月次祭」(つきなみさい)という祭典が行われる。傘下にある一般教会などにおいてもその例に倣い、「親神」「教祖」「御霊」を祀る御社を設置し、「おつとめ」や「月次祭」が行われている[注釈 4]

「おつとめ」の「お」は丁寧語としてつけられたもので、天理教での公式な呼称は「つとめ」であり、その定義や種類は複数存在する。特にこの朝晩におこなう「つとめ」は「朝づとめ・夕づとめ」「朝夕のつとめ」などと呼ばれ、礼拝する際には、信者は「あしきをはろうてたすけたまえてんりおうのみこと」などと唱え、そこに定まった手振りを加え、主神の親神天理王命に感謝したり祈りをささげている[13][注釈 5]

かつて教派神道の一派として公認され活動していた(詳細は後述)ため、葬儀式などに見られるように神道の影響を大きく受けており、現在も「神道系宗教」とみなされることが多いが、教団側では新宗教諸派と称しており、宗教法人としての届けは「諸教」としてなされている。文化庁の宗教年鑑では「諸教の諸教団」として分類されている[14]

教祖である中山みきが、民衆にも分かりやすく説きたいとの意思から、『おふでさき』『みかぐらうた』が仮名で書かれている。教義などに使われる言葉の多くが「かな表記」にされている[注釈 6]

基本的に信者達は、ハッピを平服の上から着用する。明治22年(1889年)に、奈良県秋津村(現・御所市)の新道開削のために地元の信者数百人が揃いの法被を着用したのがはじまりとされている[15]。その後に「ハッピ」と表記されるようになり、昭和2年(1927年)にその表記が統一され、基本的に黒地で、背中には「天理教」「TENRIKYO」の文字が、襟表には所属団体名などが白字で記載されている[注釈 7]。現在では、祭典などの公的行事のほかひのきしんやにをいがけなどの活動時などにも着用し、天理教のトレードマーク、象徴となっている[16]

教義・教理

天理教の教典の一つである『天理教教典』の第三章「元の理」には、天理教の根本教義が示されており、「この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」と書かれている[17]。親神が人間を造ったのは、泥海と表現されるような混沌と化した状態であった世界を面白くなく感じて、人間が明るく勇んで暮らす「陽気ぐらし」を見て、人間とともに「よろこび」「たのしみ」たいと思ったからであり、親神の守護と恵みにより、人間は生かされており、天然自然が存在すると説かれている[18]。人間の役割は、親神が見たいと説く陽気ぐらしの実現にほかならず、親神によって生かされているという謙虚な気持ちを持ち、欲を捨て、嘘をつかず、平和で豊かな世界を目指すことが重要であるとされる[17]

改訂天理教事典によれば、天理教には「この世は神のからだ」、「いちれつ兄弟姉妹」、「身の内のかしもの・かりもの」、「ほこり」、「いんねん」のおもに5つの教理が存在する[19]。 このうち「この世の中は神のからだ」「身の内のかしもの・かりもの」「ほこり」は中心的な教説であり、この世の中は親神の守護の世界であり、人間の身体的生命(身上)をはじめとして、一切の物事は親神の「かしもの」であり親神からの「かりもの」であるという天理教独自の教理が存在し、心だけが自分のものとして自由に使うことが許されているとされる[17]。親神の教えに反する心遣いを埃(ほこり)にたとえて「ほこり」と呼称し、心の使い方次第でこれがたまると説き、自己中心的な心遣いを慎むよう、また親神の思いにそって身体を使うことが重要であり、常日頃から「ほこり」を払う(掃除)ように説いている[20]。 「いちれつ兄弟姉妹」の教えでは、人間はすべて親神天理王命を親とする同一兄弟姉妹であるとされ、互いに助け合い神人和楽の陽気世界の実現を目指し、弛むことなく努力を続けるべきだとされる[21]。天理教のこの教えは、キリスト教の「隣人愛」や「兄弟愛」に類似する点があるが、天理教では単に同信、同宗のみならず、他宗教や敵対する人々も兄弟姉妹とみなしており、その点では異なる[22][要出典]。 「いんねん」(因縁)は元は仏教用語であり、天理教での教理としては現在の事象が過去の事象に基づいて存在するという考えや、現在の事象のもととなる過去の事象をさす一般的な用法に近いとされる[23]。天理教ではうまれかわりが教義として存在するため、因縁は一代かぎりではなく、前世のもの、あるいは末代の理とされ、陽気暮らし世界実現のために人間を創造した親神の「元のいんねん」を自覚し、懺悔し、その悪しき心遣いといんねんを納消しなければならないととかれている[23]

また、天理教では人間社会の根本的な基盤として親子・夫婦関係が重要視されている[24]。人間創造の経緯を示した「元初まりの話」や[注釈 8]、教典のひとつでもある『みかぐらうた』の中にも夫婦について言及した部分は多い。 結婚観については基本的に男女の両性が愛し合うことが前提とされており、2015年度に発行された信仰の指導文書である『諭達』でもその保守的な立場を堅持している[21][24]。離婚についての否定は存在せず、教典『おさしづ』には夫婦の縁は切れても、「いちれつ兄弟姉妹の理」は忘れてはならないとの記述がある[24]

天理教の教理には「かしもの・かりものの理」があるため、誕生は親神から体を借りることであり、死は借りた体を返すだけであるという死生観が存在する。教義では、死ぬことは終わりではなく最初から新しく「出直す」のであり、死は「出直し」と呼称される[25]。体を借りる主体者は「魂」(心)であり、その実在の場は「この世」以外にないとし、主体者である自己の同一性は魂によって存続すると説かれている[25]

「人たすけたらわがみたすかる」という教祖の言葉が重んじられるように、天理教では「人助け[注釈 9]」が基本理念にあり、それは「自らが真にたすかる道」とされている[21]

信者の積極的な神恩報謝の行為をすべて「ひのきしん(日の寄進)」と呼ぶ。「ひのきしん」は天理教信仰を具現化、行為化した姿そのものであると説かれている[26]。日々健康に生きられることを親神に感謝し、その感謝の意味を込めて、親神のために働くことをいう。歴史的には天理教草創期から存在し、元治元年(1864年)の「つとめ場所」の棟上げからはじまり、その後の神殿や教祖殿、「おやさとやかた」など教団関係施設の建設の普請につながっている。現在では、教会本部や傘下の一般教会での清掃活動をはじめ、地域における奉仕活動、災害時における「災害救援ひのきしん隊」の派遣などが行われている[26]

天理教の祭典の中心の行事となるのが「つとめ」であり、幾つかの種類が見受けられる。教義上で最も重要とされるものは親神天理王命に「たすけ」(救済)の実現を祈る「つとめ」であり、その中でも「神楽面」を被り「元初まりの理」や親神の守護の様子を表現する「かぐらづとめ」は特別視され、現在では教会本部でしか行われておらず、一般教会で面をつけることは禁止されている[27][注釈 10]。一般教会でも執り行われるのが「てをどり」と呼ばれる「つとめ」であり、『みかぐらうた』の「十二下り」をつとめる。これは親神への感謝を捧げ、世の中が陽気世界への建て替わっていくことを祈ることを意味している。「かぐらづとめ」は12通りあるものの、現在ではほとんどの場合そのうちの一種類が行われ、これと「てをどり」をあわせて「よろづたすけのつとめ」と称している[27][注釈 11]

教勢

天理教の信者数は明治末から大正・昭和初期にかけて大きく増加し、最も多かった時期である昭和初期の1938年(昭和13年)の『時事年鑑』には信者数4,559,000人の記述があり[29]、多いときには300万人から500万人以上にのぼったといわれている。特に教祖30年祭および40年祭が執行された大正から昭和初期頃にかけて行われた「教勢倍加運動」によって信者を獲得しており、時を同じくして分派団体が多く発生している(分派については後述)。また、当時の日本であった朝鮮半島や台湾においても布教が進み、現地人の信者が増加した(海外布教については後述)。戦前においては新宗教の中で最も大きな教団に成長した。終戦後は、戦後復興期には増加の傾向が見られたものの、その後は減少の一途を辿り、平成4年末での公称では185万人程度としている[29]。この中には、他の宗教に帰依した状態で天理教の信仰を行なっている者の数も含まれている。みさと原典研究会の代表で天理教御里分教会長をつとめる植田義弘によれば、統計を比較した場合に、ようぼく(天理教の布教伝道者、後述)の誕生数が、信者の増加を目指した「1・3・3運動」が展開された教祖80年祭(1966年)の最盛期(年間3万7681 人)と比べて、2014年度のようぼくの誕生数(5850 人)は85%減少しており、実際には多く見積もっても50万人程度ではないかと指摘している[30]。文化庁の『宗教年鑑 令和6年版』では1,122,790人となっている[31]。 教会数は2015年末の教内統計で16677とされている[32]

沿革

教祖在世時代

天保9年10月23日1838年12月9日)の夜四ッ刻(午後十時)、みきの長男・秀司の足の病の原因究明と回復のために、修験道当山派内山永久寺の配下の山伏、中野市兵衛に祈祷を依頼した[注釈 12]。その時市兵衛が災因を明らかにするためにする憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となる。この時、みきの様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる憑依状態に入った[10]。このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいる[注釈 13]。このときに憑依を悟った市兵衛が「あなたは何神様でありますか」と問うたところ、みきは「我は天の将軍なり」あるいは「大神宮」とこたえた[8][33]とされる。市兵衛があらためて「天の将軍とは何神様でありますか」というと「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。[34]」あるいは「我はみきの体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けたい。[33]」と語り、親神天理王命がみきに憑依天啓を受けたとされている。中山家は古くから村の庄屋や年寄といった村役人をつとめる家であり[8]、同時に質屋業を営んでおり、みきの伝記である稿本天理教教祖伝には「子供は小さい、今が所帯盛りであるのに神のやしろに差上げては、後はどうしてやって行けるか善兵衞としても、元の神の思召の激しさに一抹の懸念は残るが、さりとて、家庭の現状を思えば、どうしてもお受けしようという気にはなれないので、又しても、一同揃うて重ねてお断り申し、早々にお昇り下さい。」とあるように、再三辞退を続けたが、みきが「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」と申し出を受け入れるならば、世の人々を救済するが、拒めば中山家を滅ぼすとこたえ、最終的にみきの家族の反対を振り切る形で、10月26日(同年12月12日)になって、夫の善兵衛がみきを「月日(神)のやしろ」となることを承諾した[10][8][33]。そのときのみきは「満足、満足」とこたえて、憑依が終わったとされている[8]。みきの孫で後の初代真柱中山眞之亮の手記に「御持なされる幣を振り上げて紙は散々に破れ御身は畳に御擦り付けなされて遂に御手より流血の淋漓たる」と書かれているように、この間のみきは衰弱していた[8][35]。天理教では、この日を「立教の元一日」と称し、ここから天理教の歴史が始まったとされる。 こうして天理教が立教されたが、みきはしばらくすると屋敷内の内蔵にこもりがちになり、遂には終日出てこずに内蔵に籠った教祖が誰もいないはずの蔵の中で誰かと話をするかのように眩く声が蔵の外まで漏れて聞こえてくることもあった[8]。次第に中山家の評判は悪化し、史実でも庄屋中山善兵衞の名前は天保10年(1838年)3月晦日付「宗旨御改帳」を奉行所へ提出したのを最後に地方文書から消えている[8]

その後、みきは神命に従い、近隣の貧民に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その信念は変わらなかったとされる。

41歳で「月日のやしろ」に定まったみきの精神状態は不安定で、幾度か池や井戸などに身を投げようとしたこともあった[36]みきだが、その後、内蔵に籠もることもなくなり、精神状態は回復したものの、家財や道具を貧民に施したり、屋敷を取り払い、母屋や田畑を売り払えといったみきの言動は家族や親戚のみならず、村人や役人までもが不信感を抱くようになり、天保13年(1842年)には夫・善兵衛をはじめ多くの親族が、みきの行為を気の狂いか憑きものとして、元に戻るように手を尽くしている[36]

この後、長らく具体的な布教は行われず、嘉永6年(1853年)に夫・善兵衛が死去すると、当時17歳であった五女のこかんに浪速(現在の大阪)・道頓堀へ神名を流させに行かせたとされている。[注釈 14]。翌年、三女・はる懐妊の際にみき自ら安産祈願の儀式的行為である「をびや(おびや)許し」をはじめて施した。これが従来の毒忌みや凭れ物、腹帯といった慣習に従わなくても、容易に安産できるとして次第に評判を呼び、これをきっかけとして近隣の住民の信仰を集め、また人々の病気を治すなどの奇跡を起こし、みきの評判や教えは広がっていた[36]

元治元年(1864年)ごろにはみきを慕う者も増え、旧暦10月26日に専用に「つとめ場所」を建築。またこの年春ごろより、天理教の救済手段とされる「さづ(ず)け」のはじめとして、みきが信者に授けた扇によって神意をはかることができるとする「扇のさずけ」と「肥のさずけ」を開始[注釈 15]、この頃には辻忠作、仲田儀三郎、山中忠七ら古参として教団形成に影響を与えた人物や、みきから唯一、「言上の許し」を与えられて神意を取り次いだ後の本席である飯降伊蔵夫妻が入信している。しかし信者らは、天理教への信仰さえあれば、みきから「をびや許し」や「たすけ」を受けられ、医者から治療を受ける必要はないと説いたために大和神社の神官や地元の僧侶、村医者などが論難にくるようになり、これは明治7年(1874年)に教部省から出された「禁厭祈疇ヲ以テ医薬ヲ妨クル者取締ノ件」という布達に違反、また明治13年(1880年)に制定され、翌年から施行された当時の大阪府の違警罪の一項「官許を得ずして神仏を開帳し人を群衆せしもの」にも違反し、警察からの取り締まりを受けるなど権力との対立が表面化していった[37][28]。こうしたなかで、信者らは各地に出向き布教を行いはじめ、みきも慶應2年(1866年)、『あしきはらひ たすけたまへ てんりおうのみこと』の歌と手振りを教示、翌年には『御神楽歌(みかぐらうた)』の製作を開始し、手振りのほかにも鳴り物の稽古もはじめた。地元住民からも苦情が相次ぐ中で、側近達は、教団としての認可活動を得ることを試みたが、親神は教会の認可活動を認めず、幾度と無く反対の意思を示している[37]。同年に長男・秀司が京都神祇管領吉田家に願い出て、7月23日に布教認可を得て公認となり迫害は収まった[注釈 16]。その間にみきは神命に従い、明治元年(1868年)には、『みかぐらづとめ』を完成、翌明治2年(1869年)正月から『おふでさき』を書き始め、第一号(正月)と第二号(3月)を執筆、翌年には『ちよとはなし』『よろづよ八首』の教授、同6年には飯降伊蔵に命じての「甘露台(かんろだい)」の雛形(模型)製作、同8年6月29日(旧暦5月26日)の「ぢば定め」など、天理教の基を築いていった。

しかしながら、このころより官憲の取締りが再び活発化、神具の没収に続いて信仰差し止めの誓約書の署名を強いられた。この中でもみきは天命を貫き通し、1875年(明治8年)には奈良県庁より呼び出しがあり、秀司らとともに留置される。そして明治15年には「かんろだい石」の没収、および『みかぐらうた』の一部改変が断行される[36]。取締りが厳しくなった1880年にはみきの長男・秀司が既成宗教に傘下に入ることを試み、高野山真言宗へ願い出て、光台院末寺の金剛山地福寺のもとに「転輪王講社」を結成したが、翌年に活動の中心を担っていた秀司は死去している。眞之亮は神道の一派として講社を立ち上げることを試み、1885年(明治18年)5月23日に、神道本局傘下の六等教会「神道天理教会」として認可されたが、大阪地方局の認可が下りず、6月18日に教会設置が却下されている[38]。その後もみきだけではなく、信者や家族も度々留置、拘留を受け、1886年(明治19年)には「最後の御苦労」と呼ばれるみき最後の12日間の拘留を受ける[36]。こうした動きを止めようと眞之亮らをはじめ、古参信者らが教会設置公認運動を展開する中、その認可を見ることなくみきは翌年2月18日(旧暦1月26日)午後二時ごろに90歳で死去した。

教祖殿。天理教では、現在もこの場所で人間の暮らしを見守っているとされる。

教団の組織化・国家統制時代・戦後

教祖殿から見る北礼拝場

教祖死亡後は、教祖の生前中からの側近であり、本席に定められた飯降伊蔵と後に初代真柱となる教祖の中山眞之亮が教団運営の中心となった。

みき死去の翌年1888年(明治21年)4月10日に東京府より神道の一派として「神道天理教会」として公認されたが、引き続き神道本局のもとに置かれていたため、教団としては独立が悲願であった[38]1900年(明治33年)8月から5回に及んだ請願と政府の意向に配慮した「明治教典」などの編纂を行うなど各方面で努力をした結果、1908年(明治41年)11月27日に神道本局から別派として独立し[注釈 17]教派神道となった。眞之亮は天理教管長[注釈 18]に就任し、天理教教庁を設置した。しかし、悲願であった別派への独立を果たしたものの、日中戦争勃発後は、文部省が国家非常時体制を期し、全宗教団体に対して、全面協力を依頼、天理教でも中山正善二代真柱が招請され、遂に内務省や文部省宗教局の指示により教団運営に関してさまざまな制限、改変が加えられた。おもなものに、三原典の内『おふでさき』と『おさしづ』の使用を禁止(各教会から回収)し、天理教教典(明治36年編集の明治教典)のみを教義とすることや『みかぐらうた』から「よろづよ八首」、「三下り目」、「五下り目」を削除すること。泥海古記、「元初まりの話」に関する教説配布の禁止。全国各教会を通しての鉄材、金物の供出協力。天理教輸送部への満州、南方作戦の軍事物資と軍隊の輸送協力など指示された。教団側はこれらの内、特に『みかぐらうた』の改変や泥海古記の禁止などに難色を示したが、これより前に宗教界では大本事件に対する危機感から主立った宗教は諸手を上げて国家へ協力さぜるを得ない空気が流れ込んでおり、天理教でも二代真柱の中山正善が諭達第7号、第8号を相次いで公布[注釈 19]、全教一丸となって、国家へと協力するようにという指示はその後、『諭達』第14号まで出されている[40]

諭達第8号公布日の1938年(昭和13年)12月26日、教団では13名の委員からなる「革新委員会」が設置され、二代真柱列席の元に於いて内務省と文部省宗教局より指示された事項に全て従うという決定が為された。この決断を天理教内では「革新」と呼称している。

以降、教団内ではかぐらづとめに於ける十柱面の着用中止。『みかぐらうた』から「よろづよ八首」、「三下り目」、「五下り目」を削除した『新修御神楽歌』の刊行、文部省の指示に則った「天理教教典衍義」の発表、『おふでさき』、『おさしづ』の引用自粛と冊子自体の回収。青年会や婦人会、教師会などを統合した天理教一宇会の結成、天理市内の「詰所」の名称使用を中止し「寮」に改め、軍関係の宿泊施設として提供。「革新教理」と称して、軍部の要請に合わせての戦争協力教理を説明する「革新講習会」の定期的な開催。全国各地に「いざ・ひのきしん隊」の結成を奨励(老若男女を問わず各地で炭坑掘りひのきしんが行われた)など、強制、自発問わずあらゆる形で戦争へ突き進む国家への協力が終戦まで続けられた。

1945年(昭和20年)8月に第二次世界大戦が終戦、即日、二代真柱は終戦の詔書に関する『諭達』第15号を発布、同年10月の秋季大祭で「かぐらづとめ」「十二下り」が復元され、終戦によって政府からの干渉から完全に解放され、教祖・中山みきの教えに基づく本来の天理教の姿に戻る宣言が二代真柱よりなされた(この動きを天理教内では「復元」と呼称しているが、教祖存命中の教えには至っておらず完全な復元とは言えない)[41]。昭和45年(1970年)4月には、教派神道から脱退している。






(私論.私見)