| 信仰観、諭し悟りの道その5、本当に一神教なのか、それで良いのか考 |
更新日/2023(平成31.→5.1改元/栄和5)年3.1日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、お道教理としての「信仰観、諭し悟りの道その5、本当に一神教なのか、それで良いのか考」をものしておく。 2003.8.29日 れんだいこ拝 |
| 【本当に一神教か考】 | |
| 天理教教理の解説で、「天理教は天理王命(てんりおうのみこと)を親神(おやがみ)とする一神教です」、「天理教は一神教の教えです」、「天理教は一神教の神様を信じでいるので、タイプ的にはキリスト教のほうが近いかもしれません」としたものが多い。果たして天理教は一神教だろうか。ややましな解説は、「天理教は一神教だけど、万物を神と考える点では汎神論的な性質が強い特徴をしてます」。拙い解説に、「天理教は一神教の神様を信じでいるので、タイプ的にはキリスト教のほうが近いかもしれません」なるものもある。 | |
これに対する、2026.10.9日現在のAI解説は次の通リである。
AI解説の方がよりマシなことが分かる。 |
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別の解説はこうである。
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| 【本当に一神教か考に対するれんだいこの解】 |
| 上記の解説は果たしてそうだろうか。れんだいこは違うと思う。よって、これを検証する。 天理教は、「元の神、実の神」と位置づけられている天理王の命を崇めるので、これを論拠に一神教と捉えていることになるが、一神の天理王の命を崇める故にこれを論拠に一神教とするのは早計であるように思われる。正確には、天理王の命は十柱(とはしら)の神々によって構成されているので、分類上は多神教に属すとすべきである。天理王の命が森羅万象に働きくだされている「十柱の神名の総称」であることを踏まえれば、多神教的十柱の神の総合神として認識されるべきであると考える。「天理教はどの宗教とも違う、純国産の宗教である」との解説もある。これは間違いではなく、こういう認識が大事と思う。 この分別は、天理教教理を日本神道、そのうちの古神道の系譜で捉えるのか、西欧的なユダヤ―キリスト教&イスラム教系譜で捉えるのかという重要な問題に関わっている。それは、教祖みきの神がかりの際の問答を始めとする天理教教理を、日本古神道と調和すべく解するのか、ユダヤ―キリスト教聖書の教理に沿って解するのかという問題に関わってぃる。れんだいこの解は、天理教教義をユダヤ―キリスト教聖書の教理と対抗的に屹立(きつりつ)しているところに値打ちを認めているので、ユダヤ―キリスト教聖書の教理と親和傾向に脚色していくのは愚昧と思う。 具体的に、みきの神がかり時の様子の解析をしてみよう。現在の稿本教祖伝のそれはユダヤ―キリスト教的聖書の教理に即して記述している気配が認められる。それを今後どう書き換えるのかという問題に関わっている。 |
| 要するに、「天理教は一神教である」説は大いに間違っていることを確認せねばならない。「一神の天理王の命を崇める故に一神教とする」というのは単純過ぎよう。天理王の命は十柱(とはしら)お神々によって構成されているので、分類上は多神教に属すが、正確には「十柱(とはしら)総合一神教」とすべきである。そういう意味で、天理王の命はユニ-クな多神教的諸神の総合神であり、そういう神、神々として認識されるべきであると考える。決して一神教に収斂だれるものではない。 教祖みきは、みき教理がこういう風に歪められるとは思っていなかったであろう。どうしてこういう間違いが起こるかと云うと、明治維新の底流にユダヤ―キリスト教的ネオシオニズム思想が浸潤しており、天理教教理がその影響を受け、迎合したことに因があると思う。これについては追々に解析する。 |
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| 尾上貴行/おやさと研究所准教授の「D.C. グリーンの『Tenrikyō』(3)」。 |
| 前回(本誌10月号)に引き続き、今回は『The Japan Weekly Mail』1895 年 6月1日号に掲載されたグリーン氏の 天理教に関する論文『Tenrikyō;
or The Teaching of the Heav enly Reason』(天理教―天の理の教え)についての記事を見ていきたい。この記事は、同年5月22日の午後4時から東京の築地で開催された日本アジア協会の例会において、同論文に関してグリーン氏が行った2回目の発表の内容をまとめたものである。以下、抄訳する。
おやさと研究所准教授 尾上貴行 Takayuki Onoue onotheism)的傾向を妨げるものではなかっ た。このことはのちに、信者たちの説教のなかでより明白になっていった。
グリーン氏はまず、天理教の原典の一つ「みかぐらうた」 を聖歌(the hymns)と称して次のように説明した。この聖歌 は聖典の中で唯一印刷されているものであり、その点からしても大変興味深い。これらは「神楽歌」と呼ばれたり、12の歌があることから単に「十二聖歌」とも呼ばれたりする。修辞表現はほとんどみられず、言葉は洗練されていない。また、リズムにもほとんど工夫はみられないため、韻律的な解釈はできない。しかし、節や句にはある種の調和が見られ、ヘブ ライ語の詩編(the Hebrew Psalms)の対句法を思い起こさせる。ただし、似ているのは単に外形だけである。これらの聖歌の言葉は平易であるが、その多くはそのままではほとんど理解できない。しかし、そこには何かしら感銘を与えるよう な崇高な思想があるように思われる。 そして、グリーン氏は自身で行った聖歌の試訳をいくつか 読み上げた後、天理教の教義の説明へと移り、まず神道など 他の教えとの関係において次のように説明した。 教祖みきの 教えは、心学や鳩翁道話と同様に、広く民間に流布している道教に負うところが多い。また彼女は万物には男性と女性の原理が具現化されているとする中国哲学の真理と両部神道と呼ばれる神道の一般的真理を踏襲している。彼女には、新し い一派を始めよう、あるいは伝統的な教えと対立しようとい う意図がないことは明らかであった。単にこれまで流布して いる信仰に新たな教えを加えようとしただけであった。 続いて、天理教の神についての説明を行った。教祖みきの 教義体系の中心に10柱の神がおかれている一方で、礼拝で はテンリ・オー・ノ・ミコトという語句が絶えず繰り返され、人間が忠誠を尽すべき真の対象は月と太陽であるとみきは主張している。彼女の説教における教訓的かつ勧告的な部分で は、ほぼ「月日」(月と太陽)という言葉のみが使われているが、 これは、マクス・ミューラーが単一神教(henotheism)と呼 んでいるものに、中国哲学と矛盾しない範囲で非常に近づい ていったことを示している。実質的に彼女は、自然界におい て月と太陽また天と地を象徴する、そして人間社会において は夫と妻の関係を象徴するこの2神のみを信じていたように 見受けられる。これらの神々は人格的属性を有しており、そ れゆえ人間の心を揺さぶるあらゆる感情を感じることができ るのである。彼女は折に触れこれら2神は共にすべてのもの の根源(the great First Cause)であると主張していた。しかし、 彼女に哲学の知識があったわけではなく、管見の限りにおいては、その二神論は未完成かつ未熟であり、彼女の教えに見られる一神論(m 前回(本誌10月号)に引き続き、今回は『The Japan Weekly Mail』1895 年 6月1日号に掲載されたグリーン氏の 天理教に関する論文『Tenrikyō; or The Teaching of the Heav enly Reason』(天理教―天の理の教え)についての記事を見 ていきたい。 グリーン氏はこのように、天理教は多神教なのか一神教な のか、あるいはその教えを二神論から理解すべきなのかと議 論をした後、教祖みきの教えにおいて興味深い点はほかにもあるとして、神と人間の関係、そして病気治癒について次のように説明した。天理教の教えのなかで特筆すべきは、神々と人間は親子の関係にあるというみきの教えであった。人間は神々の子供であり、親を慕い、とくに苦悩や病気からの救済を求めている。そしてここから信仰治癒の教えが生まれてきたのである。最初、みきは病気の平癒には医者も薬も必要ないと説いていた。しかし、世論の圧力によって徐々にこの点は説示されないようになり、医者や薬にたすけを求める信仰は、奨励されないまでも許されるようになった。また、最初に神がこの世に現れた際にカミオロシが果たした役割とい う点からすると、現在この教団のなかでそれが実践されている様子がほとんどみられないのは大変奇妙なことに思われる。おそらく、これもまた世論への譲歩であろう。さらに、みきは神の愛(the divine love)を説くにあたって、この愛という ものを決していい加減にうけとめてはいけないこと、そしていかなる宗教的儀礼や行いにおいても心の浄化なしではご利 益がないことを人々へ強く戒めていた。 グリーン氏は次に、人間は皆兄弟であるという教えについて解説し、そのうえで教祖の未来観についても言及した。神々は人類の親であるという教えは、必然的に人類の兄弟性 (the brotherhood of man)を導き出す。しかし、この教えはみきよりも、むしろのちに説教者たちによって強調されるよ うになった。彼らの説くところによれば、天皇は一番年上の兄、一家の長であり、そして人類の親である神々の特別な代表者なのである。そして、これは教えの普遍性を主張することへと繋がっていった。日本人は神々の直系であり、親である神により近い存在であり、世界中のすべての人間は最終的に偉大なる親の存在を知り、大和の社に集まるのである。みきは未来に関しては明言しておらず、将来的に現れてくる恩恵や罪といった状況についてあいまいに述べるに留まってい た。 また彼女は、転生理論の真理(the truth of the theory of transmigration)についても述べているが、この理論によって 現生における各個人の責任の意識が弱まることのないように 注意を喚起している。 以上が、『The Japan Weekly Mail』1895 年6月1日号に 掲載されたグリーン氏の天理教論文『Tenrikyō』についての報告記事の前半部分である。ここでは、「みかぐらうた」の自身の試訳が紹介されたり、また天理教の神や、神と人間の関 係などについて解説されたりしており、天理教の教えの根幹に対するグリーン氏の理解の一端が明らかになっている。次回では、礼拝や布教活動など天理教の信仰実践について発表している同記事の後半部分について見ていくことにする。 |
| 「聖地巡礼」 おやさと研究所長 井上昭洋 |
| 現在では聖地の意味が拡張されて、宗教性をまとわない「聖地」も存在する。たとえば、甲子園が高校野球の聖地と呼ばれるのは、高校球児にとって一度はプレーしたい特別な場所であるからだ。一方、ロンドンのアビー・ロードの横断歩道や米国ミシシッピ州
テューペロのエルビス・プレスリーの生家は、ビートルズやプレスリーのファンが訪れる 聖地である。また、テーマパークのディズニー ランドもディズニー・ファンにとっては聖地と言って良いかもしれない。これらの「聖地」を訪れることも巡礼と呼ぶことができる。ディズニーランドの場合、訪れた人が目当てとする複数のアトラクションを巡るその様は、それこそ前号で紹介した聖地内のミ
ニ巡礼そのものである。本来、巡礼は聖地を訪れることであるの で、「聖地巡礼」という言葉は日本語として やや冗長な印象を与えるが、昨今この言葉は映画やアニメにゆかりのある場所を訪れることを意味して用いられるようになった。それは経済効果が期待される町おこしのコ
ンテンツとして新たに誕生したものとも言 える。 女子高生の日常を描いたアニメ『ら き☆すた』の舞台となった埼玉県久喜市の 鷲宮神社は、アニメ放送前の2007年に9万人だった初詣客が翌2008年には30万人に増加し、それ以降の10年間の経済効果が約31億円と算定される最も成功した“巡礼地”となった。また、映画『君の名は』の場合、東京・四谷の須賀神社の男坂や岐阜県飛騨市の飛騨古川駅、飛騨市図書館、気多若宮神社など、幾つかの人気スポットがあり、ファ ンの間で映画の舞台(のモデル)となった場所を巡る「聖地巡礼」がなされる。聖性を伴った場所に遠方より参詣することが一般的に考えられる巡礼である。それは信仰者が自らの信仰を新たにする宗教的な儀礼行為でもある。 一方、「聖地巡礼」は、ある社会集団にとって特別な意味を持つ(しかし宗教的な聖性を伴わない)場所を“聖地”と呼び、そこを訪れることを“巡礼”と見なして行う行為である。形容矛盾になるが、聖性の欠落した俗的な聖地を訪れ、そこで神や仏に祈りを捧げることのない巡礼をするのだ。それはアニメブームに乗った観光産業のなかで繰り広げられる一種の娯楽、消費活動とさ え見なすことができる。このように「聖地巡礼」を捉えると、その行為を巡礼と呼ぶことにある種の違和感を感じる人がいるかもしれない。それはアニメブームのなかで始まった “まが い物”の巡礼であって、宗教儀礼としての“本物”の巡礼とは異なると考えるのである。しかし、はたして伝統的な巡礼と「聖地巡礼」を比べた時、前者が本物で後者がまがい物と言い切れるのだろうか。八十八カ所の霊場を巡る四国遍路は、21世紀に入ってから長期的なブームが続いているが、その巡礼参加者は必ずしも熱心に弘法大師の教えを信仰しているとは限らないだろう。むしろ彼らの多くは大師信仰に拘こだわることなく自分探しの旅として観光も兼ねて霊場を巡っているのではないか。スペインのサンティアゴ巡礼に赴く日本人もみな敬虔なキリスト教徒 というわけではなく、海外旅行や巡礼そのも のが趣味という人が多いのではなかろうか。そのように考えると伝統的な巡礼も非宗教 的な要素を内包しているように思われる。第75番札所の善通寺を訪れた真言宗の信徒が境内で弘法大師の存在を身近に感じ、自身の入定信仰を新たにするという体験と新海 監督のファンが須賀神社の男坂に佇み、映画のワンシーンを思い返すという行為は、前者が信仰的な営みであり、後者はアニメブーム に乗った一種の観光と捉えることができる。 確かに伝統的な巡礼と「聖地巡礼」との間 に聖俗の線引きはできるのだが、いずれにおいても巡礼者は自らの思いを確認するために “ 聖地”を目指すのであり、そのことを考えれば両者は地続きであるとも言えるだろう。 |
(私論.私見)