天然自然の道、本元の教え

 更新日/2026(平成31.5.1改元/栄和8)年5.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「天然自然の道、本元の教え」を確認しておくことにする。

 2011.5.26日 れんだいこ拝


【天然自然の道、本元の教え】
 教祖は、「お道教義」の特徴につき「天然自然の道、本元の教え」として、次のように仰せられている。
 「この道は、人間心でいける道やない。天然自然に成り立つ道や」。
 「あっちたこっちとえらい遠回りをしておいでたんやなあ。ここへおいでたら、みんなおいでになるのに。世間に神を祀る場所は数々あるが、それらは手に例えれば指一本ずつの如きもの。ここは両手両指揃いたる如きもの」。
 「社(やしろ)にても寺にても、参るところ、手に例えれば、指一本ずつの如きものなり。本の地は、両手両指の揃いたる如きものなり」。
 「産土(うぶすな)の神に参るは、恩に報ずる道である。何の社、何の仏にても、その名を唱え、後にて天理王命と唱え」。
(私論.私見)

【神さん目標(めどう)】
 教祖は、入信後間もない梅谷四郎兵衛に、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」とお諭し下された。生来、四郎兵衛は気の短い方であった。明治16年、折りから普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたが、「大阪の食い詰め左官が、大和三界まで仕事に来て」との陰口を聞いて、激しい憤りから、深夜、ひそかに荷物を取りまとめて、大阪へもどろうとした。足音をしのばせて、中南の門屋を出ようとした時、教祖の咳払いが聞こえた。「あ、教祖が」と思ったとたんに足は止まり、腹立ちも消え去ってしまった。翌朝、お屋敷の人々と共に御飯を頂戴しているところへ教祖がお出ましになり、次のように仰せ下された。
 四郎兵衛さん、人が目標(めどう)か、神が目標(めどう)か。神さん目標(めどう)やで。人が何んと云うても、云おうとも、人の云うこと、心にかけるやないほどに。
 私の祖父梅谷四郎兵衛が、当時大阪で左官の統領をさせて頂いていた頃のことであります。大阪の船場で十三代続いた統領であった祖父は、喜んで私が左官のひのきしんをさせて頂きたいと申し出ました。何日、何時と打合せをすませ、その日時にお屋敷に帰ってくると仕事の段取ができておりません。仕方なくおやさまの御用をさせて頂いて大阪に帰りました。三度目にやっと壁をぬる運びとなりましたので、嬉しい思いでお屋敷の台所で夕食を頂いていた時のことです。お台所の隣の部屋からでしょう。『梅谷さんは大阪に仕事がないので来ているのや。飯を食いに来ているのやろう』との話し声が聞こえて来るのです。丁度三杯目のお茶づけで口の中に御飯が入っている時ですから文句が言えません。口をモガモガさせながら口惜し涙にくれるのでした。というのは、大阪の中央で十三代続いての左官統領であり、読み書きそろばんばかりでなく、お茶お花の仕込みも充分受けているし、骨董品を見る眼も養われているし、立派なお屋敷に出入りして旦那との世間話も、壁の色のことからあらゆる美術関係について話し相手になるだけの教養を身につけているのが、当時の統領であったわけですから、統領中の統領と自任もし、又出入先の家も何百軒とあるその忙しい中を、十二里の道程を山を越え、おやさま敬慕の一念に燃えてひのきしんさせて頂こうと、はるばるお屋敷に馳せ参じた祖父にしてみれば、余りに心外千万であります。『大和三界まで食いに来ているんだ』といわれたその言葉は、どんなに辛くひびいたことでしょう。とても辛抱できるものではなかったのです。そこで祖父は夜中、大阪に逃げ出そうと道具をかついで、門前をぬき足さし足で出掛けようとしたのであります。ところがその門前、即ちおやさまの御休みになっておられるお部屋の内から、『コンコン』と二つの咳払いが聞えるのです。途端に祖父の足は動かなくなりました。『おやさまだ』。こう思ったら、もう一歩も動けないのです。『腹が立っている時は、わしはおやさまを忘れている』、『ああ、おやさまだ』、『大恩をうけたおやさまだ』と心に思った時、おやさまから日常お聞かせ頂いた来た御言葉を思い出したのであります。おやさまは、『梅谷さん人を救けなされや。やさしい心になりなされや。自分の癖性分をとりなされや』と何回も仰って下さった。何故自分に同じことを何度も聞かされるのであろうか、と聞かして頂いている時はその御心が判らなかったが、今始めてその御心が判らせて頂くことができた、と悟れたのであります。おやさまは、口では具体的にお前はこうや、ああやとハッキリおっしゃらない。人に赤恥をかかされるようなことは仰らなかったのであります。人を救けなされや、やさしい心になりなされやといわれる。あんたは腹立てや、強情者やとは仰せられないのでありますから、こちらがよく悟らなければ理解できないのであります。悟りないのが残念である、と神様は仰せられていますが、祖父はこの時におやさまの仰ったのがココやと初めて悟ったのであります。そしてスゴスゴと道具をかついで部屋に戻り、何事もないように床に入りました。翌朝、朝御飯を頂いていると、おやさまが、『梅谷さん、この道は人がめどうか神がめどうか』と仰せられるのです」。
 (「人がめどうか」、養徳社発行・本部員叢書12「旧きを尋ねて」梅谷忠雄より。逸話篇123「人がめどか」)

【信仰は一名一人】
 信仰は一名一人。間に合わせの連れを作って教祖のお話を聞きにお伺いしても、教祖はそんな時に限って快くお話くださることがなかった。
 真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで。





(私論.私見)