| 教祖の諭し話し逸話1、教理諭し |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年11.21日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「教祖の諭し話し逸話1、教理諭し」を確認しておく。 (「教祖の諭し話し逸話1 - れんだいこブログ」) 2003.8.29日 れんだいこ拝 |
| 教理諭し |
| 【教祖の諭し話し考】 | ||
| 教祖の諭し話は非常に有益であった。「今日はどのようなお話しを聞かせていただけるのだろうか」、「一刻も早く教祖にお目にかかりたい」と、知らずと足がお屋敷へ向かった。こうして連日連夜、教祖を囲む集いが持たれた。「今夜もまた、ええ話をしていただいた」とその余韻を噛み締めながら家路に向かった、と伝えられている。 「正文遺韻抄」は、140、141Pで、教祖の次のように御言葉を伝えている。
本部の「稿本天理教教祖伝」が教祖の実像を描き出していない事情に鑑み、教祖の諭し話しで補足していくことはかなり重要であると考える。そういう意味で、「天理教教祖逸話遍」(「おやさま逸話編(抜粋)」)(「天理教教祖伝逸話篇<目次 1-100>」)(「教祖逸話篇」)、「生きる言葉」(道友社、1995.10.1日初版)その他は貴重な資料の提供となっている。「天理と刻限」の「教祖直々の諭し」も大いに参考になる。こういう類の発掘と資料化、公開化、整備化が望まれている。 |
| 【神とは】 | ||||||||
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明治18.3.28日、山田伊八郎が承って記した教祖のお話の覚え書き。
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「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「東西の長さは(その二)」を転載する。
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| 【世界の広さ】 | |
ある信者が、「わたしどもの住んでいるこの世界というものは、随分広いと思われますが、一体どのくらい広いものでせうか」と尋ねたところ、教祖は両手を広げて、「この世界は広いで。丁度人間が両手両足を広げたくらいの広さがあるのやで」と答えた。両手両足を広げたくらいでは大したことないのでポカンとしていると、続いて次のようにお話しされた。
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「教祖口伝<明治12年7月5日、村田に対する教祖直々のお諭し>」。この神様はどういう神様でございますかと尋ねられたところ、
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| 【諭し悟りの道】 | |||||||
教祖は、「お道教義」の特徴につき「諭し悟りの道」として、次のように仰せられている。
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| 【お道の教えとは既成学問にない本当の教えや】 | |||
教祖は、「お道教義」の特徴につき「既成学問に無い本当の教えや」として、次のように仰せられている。
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| 【天然自然の道、本元の教え】 | ||||||
教祖は、「お道教義」の特徴につき「天然自然の道、本元の教え」として、次のように仰せられている。
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| 【世界中一列は神の子、兄弟姉妹(きょうだい)や】 | |||
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| 【元の屋敷の理】 | |||||
| 明治18、9年頃のことと言い伝えられている。大和国笠間村の大浦伝七妻なかは、急に人差指に激しい痛みを感じ、その痛みがなかなか治まらないので、近所の加見兵四郎に願うてもろうたところ、痛みは止まった。が、しばらくすると、又痛み出し、お願いしてもらうと、止まった。こういう事を、三、四度も繰り返した後、加見が、「おぢばへ帰って、教祖にお願い致しましょう。」と言うたので、同道して、お屋敷へ帰り、教祖にお目通りして、お願いしたところ、教祖は、その指に三度息をおかけ下された。すると、激しい痛みは、即座に止まった。この鮮やかな御守護に、なかは、「不思議な神様やなあ。」と心から感激した。(「天理教教祖伝逸話編」182) その時、教祖は次のようにお聞かせ下された。
他にも、次のようなお言葉が遺されている。
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| 【おじばの理】 | ||||
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| 【伏せこみ】 | ||||
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| 【つとめ】 | ||
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| 【神の理を立てよ】 | ||
明治13年秋の頃、教祖は、つとめをすることを、大層厳しくお急き込み下された。警察の見張り、干渉の激しい時であったから、人々が躊躇していると、教祖は刻限を以て次のように厳しくお急き込み下された。
そこで、皆々相談の上、「心を定めておつとめをさしてもらおう。」ということになった。 ところが、おつとめの手は、めいめいに稽古も出来ていたが、かぐらづとめの人衆は、未だ誰彼と言うて定まってはいなかったので、これもお決め頂いて、勤めさせて頂くことになった。また、女鳴物は、三味線は飯降よしえ、胡弓は上田ナライト、琴は辻とめぎくの三人が、教祖から長ダメ頂いていたが、男鳴物の方は、未だ手合わせも稽古も出来ていないし、俄のことであるから、どうしたら宜しきやと、種々相談もしたが、人間の心で勝手に出来ないという上から、教祖にこの旨をお伺い申し上げた。すると、教祖は次のように仰せられた。
皆、安心して勇んで勤めた。場所は、つとめ場所の北の上段の間の、南に続く八畳の間であった。 |
| 【鳴り物】 | ||
おつとめの九つの鳴り物をつとめるに当ってのお言葉。
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| 【手踊り】 | |
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| 【日々の運び】 | |
貧のどん底時代のこと、山中忠七は白米一升を提げてお屋敷へ参るようになったが、いっそのこと五斗俵でもお供えさせてもらえばと思い立ち教祖に伺った。教祖は次のように宣べられた。
忠七は大いに悟るところがあった、と伝えられている。 |
| 【ひのきしん(日の寄進)】 |
| 【真心のお供え】 | |
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| 【待つ理】 | |
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「教祖口伝<◆明治10年11月28日、側な者に対する教祖直々のお諭し>」。
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「教祖口伝<◆明治10年11月28日、枡井、村田、辻に対する教祖直々のお諭し>」。
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「教祖口伝<◆明治14年2月7~8日 辻、村田、山沢に対する教祖直々のお諭し>」。
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(私論.私見)