大平良平考


新時代の象徴人  大平 隆平
 凡そこの宇宙間にありとあらゆるものにして一つとして変化をしないものはない。例へば空に漂ふ雲のたゝずまひも地を流るゝ川つ瀬も一刻として同じ所に止まつてゐるものは ない。たとひ一見して何らの変化なきが如く見ゆるものも仔細にこれを観察すれば必ずや何らかの変化をなしてゐるのである。これは自然界に於てそうである計りでなく人間界に於てもそうである。今試みに紀元十億三十七年十二月大晦日の夜の銀座の一角をとつて研究せよ。そこには 来る可き正月を待ち焦れてゐる少年少女もあれば来る可き正月を如何にして楽むべきかに ついて考へつゝある青年男女もある。これ丈けならば大晦日の夜の銀座は至つて平和なも のである。けれども社会は而かく単純ではない。更らにそれ以上多くの人が歳末の勘定に苦心しつゝ往来しつゝあるのである。行く人来る人その中には債鬼もあれば債鬼に苦しめ られつゝ逃げ廻る人の子もある。凡て此等の人間が相交錯して大晦日の夜の銀座は希望と 失望と歓楽と悲哀との劇場である。然るに一夜明けた元旦の朝の同じ銀座の一角を見よ。そこには昨日の債鬼も債鬼に追は れた人の子も顔の相好を直して新春の気分に酔ひながら右往左往してゐる。吾人の日常生 活の上には常に大晦日と元旦程の大なる変化はなくとも昨日の世界と今日の世界、昨日の 人と今日の人との間には眼にこそ見えないが大小の変化が表はれてゐるのである。人は或は考へるであらう。昨日此処を歩いて居た人、昨日此処で働いて居た人、其れは 成程影も形もない。又た昨日の雨と昨日の風と昨日の塵と昨日の埃とは此処にはない。けれども軒を並べて立つてゐる建築物と我が現在立つてゐる敷石のみは昨日の侭ではないか と。これは大いに誤つてゐる。如何にも肉眼をもつて観察すれば凡て此等のものは昨日の侭であらう。けれどもこれを細微な顕微鏡をもつて観察する時は其の間に何等かの変化を 生じてゐるに違ゐない。其の証拠には去年の春建てた新築の家屋は今年の春に於て決して 同一の新しさを保つてゐないのに見ても明かである。凡て変化は世界の常態である。それは自然界にも起れば人間界にも起り、物質界にも起 れば精神界にも起り、主観界にも起れば客観界にも起る。釈迦は此の宇宙の変化相を見て 有為転変の世の中とも無常迅速の世界とも云つた。今之れを最も卑近なる物質文明の上に徴するに彼の灯明である。太古に於ては今日の如 く灯明もしくは灯火と云ふものはなかつた。日月が即ち灯明であり雪や蛍が即ち灯明であ つた。それが人智の発達するにつれて自然に灯明もしくば灯火を発明する様になり夜の焼火が発明せられた。それから自然の必要上野外灯では松明が発明せられ、松明が提灯とな り、提灯が手提灯となり、手提灯が懐中電灯となつた。又た室内灯にては焼火が暗灯とな り、暗灯が蝋燭となり、蝋燭がランプとなり、ランプが瓦斯となり、瓦斯が電気となつ た。これは物質文明の上に起つて来た変化の一例に過ぎないが変化は物質界にのみ限られ ては居ない。更らに其れ以上の大なる変化を精神界に引き起してゐる。今日は即ち其の空 前絶後の大変化期に際してゐるのである。
 天理教では教祖出現迄の世界を一世の世界と云ひ、教祖出現以後の世界を二世の世界と 云ひ、それ自身を二世の建て換への教と云つてゐる。一世の世界とは即ち旧世界を意味するのである。二世の世界とは即ち新世界を意味するのである。天理教は即ち旧世界の生んだ凡ゆる文明を破壊して全然新しき新文明を創造す るにあるのである。天理教の第一の特色は陽気な宗教であるといふことである。凡そ一つの物もしくは一つ の場所もしくば一人の人より得る所の気分は其の物其の人其の所が真であるとか善であるとか美であるとか云ふものを感ずる前に先づ明るいとか暗いとか陽気だとか陰気だとか云 ふ気分を感ずるのである。これは宗教とか哲学とか芸術とかに於ても亦其うである。吾人が今日迄呼吸して来た旧世界の空気は何となしに陰気な重苦しい空気であつた。と云ふのは人間に水中生活や穴居生活の習慣性が残つてゐたからである。けれども今日は神の所謂「明るいところへ出た」のである。従つて其の思想迄明るく陽気になつて来るのは 蓋し自然の要求である。

 天理教の第二の特色は積極的であるといふことである。積極的と陽気とは同一特色の様 に考へられるけれども陽気と云ふのは気分を指したものであつて積極的と云ふのは力の方 向をさしたものである。

 天理教の第三の特色は活動的であるといふことである。過去の宗教はやゝもすれば消極的、隠遁的、観照的、冥想的であつたが天理教の特色は既に/\其れ等の境を超越して真に活動の境に入つたのである。これは啻に天理教の特色である計りでなく、来る可き新時代の特色である。

 天理教の第四の特色は向上的であると云ふことである。これは前代の頽廃的気分堕落的 分子の反動である。

 天理教の第五の特色は進歩的であるといふことである。これは前代の思想が進んで人格の改良社会の進歩を計らうとするよりは寧ろ退いて自分一身の一時の安全を計らうとする 退嬰的気分保守的分子に富んで居つた。けれども来る可き時代は其う云ふ亡国的思想に生 くべき時代ではない。更らに大いに人生の向上発展を計らなければならない。この進化の 思想を引提げて生れて来たのが天理教である。

 天理教の第六の特色は創造的であるといふことである。天理教が創造的宗教であるとい ふのは今日迄の旧世界の文明を破壊して全然新しき第二の世界を創造するにある。これは 従来の宗教の何れも多少持つていた特色であるが天理教の如く而かく根本的に第二の新世 界を創造せんとする宗教は未だ曾つてなかつたのである。

 天理教の第七の特色は建設的であるといふことである。これは天理教の所謂「限なし普請」の理想が最もよく表象してゐる。 「限なし普請」とは不完全なる自己不完全なる社会を破壊しては創造し創造しては破壊し て真に完全無欠の神の社(自己、社会)を建設するにあるのである。これを称して「第一 義の限なし普請」と云ふ。「第二義の限なし普請」とは地場即ち大和三島天理教本部の神 殿の不断の建築である。

 天理教の第八の特色は現実的であるといふことである。従来の宗教はやゝもすれば現実 を離れて理想に傾く傾向があつた。これは宗教ばかりではない。哲学でも芸術でも倫理で も道徳でも其うであつた。けれども今日は時代が一変した。今日は理想を理想として貴ぶ よりも理想の現実化云ひ換へれば理想的の現実を貴ぶ様になつた。この気運の先駆者とし て生れたのが天理教である。

 天理教の第九の特色は実際的であるといふことである。天啓の声に 「論は一寸も要らん/\。論は世界の理で行ける。神の道には論は要らん。誠一つなら天の理。実で行くが良い」。従来の宗教は教論に重きを置いて其の実際的方面を閑却していた傾向があつた。云ひ換 へれば証拠より論を重んじた傾向があつた。けれども天理教は其の反対に論より証拠を重 んずる宗教である。此の論より証拠を重んずる天理教の特色は現代並に未来の特色であ る。

 天理教の第十の特色は実行的といふことである。これは前二者の特色と血縁の関係にあ るのであるが天理教が実行教である何よりの証拠は世人が奇異しつゝある御神楽のお手振 りである。彼れは人間は凡て心と口と手の三つが揃はなければ完全な人間でないといふ点 より心に思い、口に唱ひ、手にて舞ふのである。この実行を重んずる点こそ新時代の思想 の一角である。

 天理教の第十一の特色は天理教は生産的の宗教であるといふことである。教祖の言葉に 「働きなさい/\。人間であつて働かない者は我が教の子ではない」 と云つてあるが無為徒食することは天理教の第一の厭む所のものである。

 天理教の第十二の特色は平民的であるといふことである。これは天理教の特色であるば かりでなく実に近代文明の特色である。将来世が進歩すればする程此の平民的思想が勃興 して来るのである。 けれども此処に一つ誤解してはならぬことは貴族的といへば直ちに上品を連想し平民的 と云へば直ちに下品を連想することである。これは貴族的とか平民的とか云ふことを真に 理解しない為めに起る誤解である。平民的と云へば「低い心」と云ふことであつて全人類 を一列平等視するところより起つて来る思想なり、態度なりを指して云ふのである。従つ て天理教は平民的だと云ふことは過去の宗教の如く階級的でないといふことを意味するの である。更らに平民的と云ふ第二の意味は実質的内容的であるといふことである。即ち貴 族的と云ふ言葉の与へる暗示は繁文褥礼、形式儀礼、虚儀虚礼、虚飾虚偽、誇大負誇とい ふ意味を連想せしめる。平民的と云ふ言葉は其の反対に正直、実直、勤勉、素朴と云ふ様 な意味を連想せしむるのである。之れを古い言葉で云へば剛毅朴訥仁(真実、自然)に近 しと云ふに相当するのである。又た貴族と云ふ言葉の内容は「巧言令色鮮いかな仁」に相 当するのである。従つて天理教が平民的だと云ふことは天理教が実質的だと云ふことを意 味するのである。この平民的特長こそ実に近代文明の特長である。

 天理教の第十三の特色は普遍的だと云ふことである。凡て平民的と云ふ言葉の中には一 般的もしくば普遍的と云ふ意味を含んでゐるのであるが此処では其れと別種の意味で普遍 的だと云ふのである。即ち此処に普遍的だと云ふのは世界的とか人類的とか云ふことを意 味するのである。其れは勿論全世界を大日本国にすると云ふ天理教の終局の理想より見れ ば特殊的にも見えるであらう。けれども其れは形式上の論であつて其の内容は全然世界的 人類的のものである。

 天理教の第十三の特色は通俗的だと云ふことである。従来の宗教が兎角難解の辞句を並 べて人類の求理心を妨害せしに反し天理教は極通俗平易の大和の時代方言をもつて述べら れてゐる。これは実に教祖の 「固いものは若い者が食べても老人や子供は食べられぬ。柔かいものは若い者も食べる事 もできれば老人子供も食べられる」 といふ言葉に表はされてゐるが如く学不学、識不識を問はず凡てのものに理解せしむるを もつて目的としたのである。然るに時代の進歩するにつれて此の通俗平易と云ふことが 益々必要になつて来た。何故なれば時勢の進歩は次第に難解なる辞句の為めに多大の時間 と労力とを費す余裕がないからである。天理教の通俗味は実に此の時代の要求に適応した ものである。

 天理教の第十四の特色は実質的だと云ふことである。此の実質的だと云ふのは「外の錦 よりも内の錦」と云ふ神の言葉に尽されてあるのであるが凡て無用の装飾や無意義な儀式 の為めに時間と労力と精力と物質とを費すことは天理教の極力反対するところである。こ れがやがて近代文明の底を流れてゐる新しい潮流である。

 天理教の第十五の特色は単純だと云ふことである。これは近代芸術の最もよく表してゐ る時代相であつて凡て創造期に通ずる特色である。

 天理教の第十六の特色は社会的だと云ふことである。即ち従来の宗教は多く社会と離れ て社会生活とは没交渉な隠遁的生活を送るをもつて理想としたが天理教の理想は山の仙人 (不生産的人物)より里の仙人(生産的人物)をつくるをもつて理想とするのである。此 の一つ既に新時代の羅針盤として充分の価値がある。

 天理教の第十七の特色は家族的であるといふことである。此の家族的と云ふ言葉は天理 教が他の宗教よりも特に家庭生活を尊重すると云ふ計りではない。実に世界一列が一家族 として結合せんとするところにあるのである。此の特色は基督教以外の過去の宗教の何れ にも見ることの出来ない天理教の特色である。

 天理教の第十八の特色は平和的であるといふことである。近代文明の主潮は一二の除外 例はあつても大体戦争よりも寧ろ平和を愛する傾向を有するに至つたのは悦ぶべき現象で ある。天理教は実に此の平和の使徒である。けれども東洋人の通弊として一口に平和と云へば無念無想無作為の状態を想像すれども 天理教で云ふ所の平和は其ういふ希望もなければ生命もない無活動の状態をさして云ふの ではない。人類相互が平和の関係を保ちつゝ各自の天職に向つて勤勉する積極的平和状態 をさして云ふのである。今日の戦争論者は何んな議論を述べるにした所で人生といふものは結局平和の状態に入 らなければならないものである。何故なれば戦争は決して人生の終局の幸福を意味してゐ ないからである。

 天理教の第十九の特色は楽天的であるといふことである。凡そ宗教の数も数ある中に天 理教程楽天的宗教はない。此の楽天的と云ふこともこれを浅く解釈するものには浅薄なる 享楽派に堕ちる憂はあるが天理教の楽天主義は人事を尽して天命を楽しむといふ点にある のである。天理教の楽天主義は人間は悲しむも楽しむも結局成る様にさへならぬと云ふ断 念的態度より来たものでもなく又た泣いたところが悲しんだ所が泣く丈け悲しむ丈け損で あると云ふ功利的運命観より来たものでもない。神が人類を造つたのは人類の陽気遊山を 見て楽しみたいといふ意志に基くこと並に人生一切の事は凡て神意の発現であるが故に人 事を尽して天命を待つと云ふ信仰上の主義から来たものである。此の楽天的と云ふことは 新思想の一つの特色である。

 天理教の第二十の特色は相互扶助的であるといふことである。これは必ずしも天理教特 独の初説の真理ではないかも知らない。けれども人生は今日迄の所謂生存競争と云ふ残忍 な動物的世界を脱して真に相互扶助の世界に入らなければならぬものである。従つて相互 扶助といふことは新人生の内容であらねばならない。

 天理教の第二十一の特色は日の寄進的であるといふことである。日の寄進といふことは 日々の誠を神に寄進するの謂であるがこれを実生活の上より云へば日々結構に通らして戴 く神の大恩に対する感謝の一念より生れた利害観念を離れた献身的労働をさして云ふので ある。来るべき新人生は正さにかくの如くあらねばならない。

 天理教の第二十二の特色は科学的であるといふことである。科学的だと云ふことはやが て又た実験的、実際的だといふことを意味するのである。即ち今日迄事実を無視した空想 の跋扈に対する反動である。

 天理教の第二十三の特色は一元的であるといふことである。これは神と人と人と人との 関係が一元的であるといふ計りでなく全人類がこれ迄もつて来た異つた風俗習慣地理歴史 政治を全然手一つの理に統一せんとするのである。これが新時代の必然の要求である。

 天理教の第二十四の特色は地場中心的と云ふことである。これは新人生の空間的焦点で ある。
 天理教の第二十五の特色は神霊中心的であるといふことである。今日迄の人類生活は或 は法律を中心とし、或は芸術を中心とし、或は哲学を中心として生活して来た。云ひ換へ れば人間中心的であつた。けれども来る可き新時代は必らずや神の絶対理想に統一せられ なければならない。云ひ換へれば信仰中心の時代に到達しなければならない。

 以上は天理教と旧思想との比較研究の上に成立する天理教の大体の特色であるが更らに 之れを実質的方面より観察すれば天理教の齎らせる新しき特質と使命とは過去の宗教哲学 のなさんとしてなし得ざりし精神的革命を根本的に完成するにある。云ひ換へれば過去の 宗教哲学の荒い熊手を逸したる小埃即ちほしい、をしい、かはゆい、にくい、うらみ、は らだち、ゆく、かうまんに満ちたる現在の人類社会を根本的に清掃して塵一点も止めぬ清 浄潔白の甘露台世界  黄金世界  を此の地上に実現せんとするのである。此の新時代 の特色と使命とを負ふて生れた新時代の象徴人こそ人類の原母伊邪那美命の後身と称せら れつゝある天理教祖中山ミキ子である。

 釈尊(宇宙の根本現在の神国床立命の化身)在世の予言に  我が歿後の世界には正法世に住すること一千年像法世に住すること更らに一千年、其の 間に月光菩薩が表れて仏法を説くけれども奸悪なる世は之れに向つて耳を傾けるものがな い。為めに正は蔽はれて邪ははびかる。けれども其の後に弥勒の世界が来る。弥勒の世界 が来たならば正法は復活して世界は根本的に改革せられるであらう。 と。思ふに月光菩薩の出現とは基督の降誕をさしたものであらう。而して天理教祖の出現こ そ将さに吾人の待ちに待ち倦ぐんだ弥勒菩薩の再来なりと信ずるのである。教祖在世の予言に 「此の道を世界中に附け通したならば百姓は蓑笠要らず。雨が欲しけれは雨を授けてや る。多ければ預つてもやるで。又た百姓の仕事の邪魔になる様な時には雨は降らさぬ。月 六斉に雨降らし、風はそよ/\と吹かせ、地震もなければ海嘯もなく、噴火もなければ地 辷りもなく、大風もなければ洪水もなく、旱魃もなければ飢饉もない。四時の気候が調和 せられて厳冬もなければ酷暑もない。外へ行くにも提灯要らず笠要らず小遣銭要らず。尚 ほ人間の徳が進んで行つたならば病まず死なずに弱りなき様にしてやる」 と説かれてある。

 誠にかくの如き黄金世界の到来は人類が長い間望んでゐた所の理想であ つた。而かも其れは早晩此の世界に実現せられて来るのである。其の時来らば此の世界に は一人の貪婪者もなければ一人の吝嗇者もなく、一人の邪愛者もなければ一人の憎悪者も なく、一人の怨恨者もなければ一人の憤怒者もなく、一人の強欲者もなければ一人の高慢 者もなくなる。凡てが同胞兄弟として相親しみ教祖の所謂 「提灯要らず笠要らず鎖さぬ(夜戸を)御代にするが一條」 の世界が宛然に此の地上に実現せられるのである。

 教祖の降誕
 教祖の降誕日について今日伝はつてゐる所説に二つある。其の一つは寛政十年四月十八 日説であつてこれは今日普通伝はつてゐる所の説である。最う一つは四月四日説であつて これは古い戸籍簿に依つた誕生日である。今日何うして四月十八日説が一般に用ゐられて ゐるかと云へばこれは生前教祖の誕生日に就ては無頓着であつたものが教祖歿後に至つて 憶測によつて定めたものらしい。これはよくある例である。殊に戸籍法の不完全なる時代 にあつてはかくの如き誤謬は往々免かれないのである。けれども私は此処に戸籍に依つて 四月四日説をとるのである。凡て釈迦の誕生にせよ基督の誕生にせよ不世出の偉人の誕生には必らずや一種の奇瑞を 伴ふものである。教祖の誕生にも亦此の種の奇瑞を伴ふてゐる。 伝説に依ると教祖の降誕日即ち寛政十年の四月四日の朝旭日の昇天する頃教祖の生家な る大和国山辺郡三昧田の前川家の家根の上には五色の雲が棚引いた。其れと同時に家内に は赤児の泣声が聞えた。かくの如くにして此の新時代の救世主は生れて来たのである。
 幼少年時代の教祖
 揺籃時代の教祖は泣いて両親を困らせると云ふことはなかつた。夜はよく眠り昼は温和 しく母の懐に抱かれて只管成長を待つてゐる様であつた。普通の子供では四つになつても 五つになつても汚物の世話を親にさせてゐるが教祖には二つの時から其れがなかつたとい ふことである。三歳にしてよく物事を理解し四五歳の頃には生来の慈悲心が発芽して来た。即ち食物を貰つても其れを自分で食べて了ふといふことなく近所の遊び友達に分配して其の喜ぶのを 見て自分も喜んだ。七八歳の頃には花だの蝶だの鳥だのといふものゝ形を切つて友達に与へたり又た編物や 袋物を拵つて子供に与へて喜んだ。近所の母親達の忙しい時なぞには自ら其の子を預り朝から晩まで色々な玩具を取り換へ 引き換へて子供の守りをして遊ばせてやつた。将来全世界の母たる所謂親心は既に此の時 に芽組んでゐたのである。寺小屋に通つたのは七八歳より十一二歳頃迄と伝へられてあるが其の頃のミキ子は他の 小供の様に家を離れて遠く遊ぶといふことはなかつた。多く両親の側にあつて其の細かし い用を手伝ひながら家事を見習ふのを唯一の楽みとした。かくの如くにして十二三歳のミ キ子は裁縫にせよ料理にせよ糸機にせよ婦人一人前の仕事は充分出来たといふことであ る。凡て一技一能の名人は早くより其の天才を顕すものであるが教祖も亦早くより其の宗教 的天才を顕はしてゐる。 前川家は元来浄土宗の信者であるがミキ子は早くも其の浄土和讃の全文を暗誦して朝夕 両親と並んで之れを仏前に唱へることを此の上ない楽みとした。それが年と共に発達して 十一二歳の頃には剃髪して尼にならうと云ふ決心を小さな唇より漏らす様になつた。
 教祖の結婚
 十二歳の秋官幣大社石上神社の大祭に父-前川半七正信-に伴はれて隣村庄屋敷村の親戚 中山善右衞門方へ行つた。之れを機会に中山家と前川家との間に縁談が開始せられたので ある。ミキ子は此の縁談に対しては敢て進んで同意するでもなかつたが又た強ゐて不同意 を表はすでもなかつた。唯 「結婚後観経和讃を許されるならば」 といふ世にも珍らしい条件にて両家の間に婚約が結ばれた。中山家では始め此の条件は少女の口より出た無邪気の戯談として受取つたのであるがミ キ子にとつては決して無邪気な戯談ではなかつた。彼女にとつては真に真面目なる宗教心 の要求より出たものであつた。其の証拠に結婚後ミキ子は 「中山家の嫁御は気が狂うたのではあるまいか」 と善悪なき村の賎女の噂に上つてゐるのにも耳を傾けず朝夕の観経和讃を実行したのに徴 して明かである。ミキ子と善兵衞氏との正式の結婚は或は十三歳とも云ひ或は十五歳とも云はれてゐるが 当時両家の縁談を立ち聞きしたミキ子は母に漏らした言葉に 「嫁なら行くし子なら行かぬ」 と云つたと云ふ言葉より推測して見ると両家の間には一二年の間は養女として貰ひ受け改 めて一定の年齢に達してから正式に結婚をさせやうと云ふ下相談があつたらしい。其れを 聞いてミキ子は此の言葉を母に対して漏らしたものと思はれるが兎に角十三歳の時中山家 に行く時は養女として行つたものではなく嫁として五荷の荷物をもつて行つたことは明か なる事実である。 (大和地方では嫁の身分を示すに荷物の荷数によつて定める習慣がある。五荷の荷物と云 へば上の部である)
 花嫁時代の教祖
 教祖は元来蒲柳の質であつたが其れにも係らず中山家に嫁してよりは朝は家族に先つて 起き夜は家族に遅れて寝ね暫時も身体を遊ばせて置くと云ふことはなかつた。往々内の雇 人等が眼を醒して起き出やうとすると 「お前さん達は昼の働きで疲れて居るからもつと休んでお居でなさい」 と云つて休ませて自ら焼火から朝飯の用意をするを常とした。又た夜休む時は一同を寝せ てから自分は家人の気附かぬ様に起き出でゝ昼仕残した仕事をした。殊に常人に出来ない 事は其の臥床前の三十分乃至一時間は両親の身体を按摩せずに床に就いたことはなかつた といふことである。後日教祖が人に語つた言葉に教祖のしなかつた仕事は荒田起しに溝掘り。此の二つを除 く外の仕事は何んな仕事でも手にかけない仕事は一つもないと云ふことである。而かも一 旦仕事に従事するや天性の器用と生得の熱心とは常に常人の二倍の仕事をしたといふこと である。両親を始め夫善兵衞氏は余りに教祖の過激なる労働をするのを見て屡々其れを止めたが 教祖は常に之れに向つて 「身体は使ふ為めに神様がお貸し下されたのを今迄は余り大事にされ過ぎた為めに却つて 弱かつたがこれから確つかり使はして戴かうと思いまして」 と答へるのを常とした。かくの如く彼女が両親や夫を始め下女下男に対する態度が何処一つとして非点の打ち所 のない鮮かな勤め振りであつたから結婚後五年即ちミキ子十七歳の時両親より一家の世帯 を任せられた。もつて彼女が尋常一様の婦人でなかつたことを知ることができる。
 主婦としての教祖
 庄屋敷では安達金持ち善右衛門様地持ちと云はれた程の豪農であつたから召使の者も一 人や二人ではなかつた。ミキ子が其等の雇人を使ふ方法は世間の所謂使へば使へ得と云ふ が如き無法の使用法ではなかつた。使ふ時は充分使つてもいたはることも亦充分にいたは つた。殊に祭日とか休日等には弁当迄持たせて遊びに出したといふことである。ミキ子が中山家の主婦となつた二年目即ちミキ子十八歳の時一夜中山家の綿倉に一人の 綿盗人が入つた。が幸か不幸か其の盗人が綿を一荷ウンと盗み出さうとした所を内の下男 に発見せられた。盗人は其処に荷物を投げ出して心得違ゐを詫びたが中山家の隠居善右衛 門氏は将来の為め代官所へ引き出す様にといふことを下男に命じた。其処へミキ子が出て 「此の盗人も貧の盗みで腹からの盗人ではなからうと存じます。此処で此の人を代官所へ 出せば罪人となつて一生人中へ出られない人間となります。将来の為め心得違ゐの所は充 分申し聞かせますから此の度は私に免じて免るして戴きたい」 と願つた。善右衛門氏もミキ子の殊勝な心掛けに感じて之れを免るした。其処でミキ子は 盗人に向つて其の不心得を説き聞かした上更らに一重の綿を添へて 「サアこれをお持ちなすつて下さい。これは何代か以前の内の先祖が貴方に借をして置い たものですから遠慮なく御持ちなさい。又此の綿は之れは利息だと思つて持つて行つて之 れを資本にして堅気の商売をして下さい。これが私の頼みで御座います」 と詫びられる人が却つて詫びて傷を附けずに其の盗人を帰した。其れから再び両親の前に 出て 「誠に今程は有難う御座いました。就ては誠に御両親に申訳のないことを致しました」 と云つて盗人の盗んだ綿と尚ほ其の上に綿を添へて帰したことを述べ 「其の代り私は木綿物は一生着るだけ内から貰つて来て居りますから其れで通らして戴き ますから」と云つて両親に謝した。両親もミキ子の英断を賞讃して 「其れは良い事をなさつた。今後も決して心配に及ばんから内のものを使つて下さい」 と云つて其の場は首尾能く治まつた。其の後二三日経つと前の盗人がボテ振りになつて来 て 「私も彼れを資本に此う云ふ商売を始めましたから今の後共に宜敷く御願致します」 と云つて礼に来たといふことである。此の真心をもつて人を愛するこれが彼女の一生を通 じて変らない唯一の感化法であつた。

 其の頃孫見たさの両親の寝物語に 「内の嫁は申分のない良い嫁だけれども何分子供がなくて困る」 と語り合ふ声がミキ子の耳に入つた。ミキ子も成程子供がなくては先祖に申訳がない。こ れは剃髪して尼となつて衆生済度の傍此の家を立てる様にと決心して其の意志を近隣のあ る懇意なお婆さんにほのめかした。お婆さんはミキ子に向つて 「貴女マア其う短気をお出しになるものではない。十九や二十で子供のあるもないもあり ません。マア最う暫時お辛抱をなさつたが良う御座いませう」 と云つて止めた。ミキ子も其の言葉に力を得て出家を思ひ止まつたといふことである。こう云ふことが動機になつてミキ子は益々仏法に親しむ様になり遂に文化十三年二月勾 田様の善福寺で五重相伝を受ける様になつたのではないかと思はれる。其れにミキ子をして最う一つ仏法を頼らしむるに至つた他の動機があつた。其れは夫善 兵衛と下女かのとの不正の関係である。
 妻として耐へ難き苦痛の経験
 或る書では夫善兵衛とおかのとの関係を中年の恋の様に書いてあるが彼れは誤つてゐる。此の二人の関係は善兵衛氏とミキ子との間に子の無い間而かも両親在世中の出来事で ある。ミキ子は此の両人の間の不正の関係を知りつゝも決して世の常の婦人の如く嫉妬に気を狂はして常規を逸した醜態を演ずるといふことはなかつた。否寧ろ其の反対に二人の関係が密なれば密なる程皆なこれ自己の不徳の致す所と足納して静かに両人の迷夢の醒めるの を待つていた。然るに凡婦の浅間敷さにはおかのは教祖が柔しくすればする程増長して教祖殺害の悪心をおこし一夜教祖を刺さんとして果さず、更らに毒殺せんとしてこれも失敗した。本人の教祖はかのの悪計によつて一旦毒は嚥下したが幸ひ吐瀉して了つたので身体には何の障りもなかつた。其の時周囲の人々はこれをかのの悪計と知り表向きの沙汰にせうと したが教祖はこれを止めて 「これはかのが悪いのではない。私に何か心得違ゐの所があるから神様が私の腹の中を掃 除して下すつたのだ」 と云つて二人に対する態度は聊かも従前と異る所はなかつた。凡婦には出来難いことであ る。然るに善兵衛もおかのもこれに依つて自分等の関係が道ならぬ関係であつたことを自覚 し遂に教祖の前に今日迄の罪を謝するに至つた。其の時の教祖は弥陀の精神其の侭両人の心よりの懴悔を納受しおかのには尚ほ半年の間 行儀作法等仕込んだ上嫁入の仕度迄して相当の家に嫁せしめた。此の敵も味方も一視同仁 の教祖の至誠に感応して今迄仇敵であつたかのは改つて教祖の無二の味方となり終生中山 家に出入したといふことである。

 此等は教祖ミキ子が青春の色香もさめぬ新妻時代に残 した世にも貴き不滅の足跡であるが此処に止まつて暫時考へなければならぬことは教祖ミ キ子に依つて示された絶対道徳と世間一般の相対道徳との区別である。
 絶対道徳と相対道徳
 今日の一般の婦人の道徳は夫夫たらざれば妻妻たらず夫夫たれば妻妻たることである。 (男子の場合も同じ)即ち相手の態度の善悪に依つて自己の去就を決するのが今日一般に 行はれてゐる婦人道徳である。けれどもミキ子の通つた絶対道徳は、夫夫たらずとも妻妻たり、夫夫たるも妻妻たり と云ふのである。即ち相手の態度の如何に係らず終始一貫真実をもつて貫く此処に絶対道 徳の権威がある。前者の道徳即ち相対道徳は一見合理的の様に思はれる。けれども其れは真に自己並に社 会を治める所以の道ではない。何故なれば他人が我に向つて善をなしたるが故に我も亦他 人に向つて善をなし、他人が我に向つて悪をなしたるが故に我も亦他人に向つて悪をなす ならば此の世界には悪の亡ぶる時がない。此の欠陥を救ふものが天理教の所謂絶対道徳で ある。凡て凡夫凡婦の手にて授けられたる瓦は聖者の手より再び凡夫凡婦の手に帰る時は既に 玉と変じてゐるのである。而かも此の真実自然の絶対道徳は一身の利害を中心として進退 を決するものにとつては不可解の道徳である、けれども此の不可解の道徳を万人に理解せ しむるのがミキ子の使命である
 母としての教祖
 文政三年に隠居の善右衛門を失つた中山家は翌年の七月二十四日に長男善右衛門(後秀 司と改む)を挙げミキ子は始めて人の子の母となつた。これで結婚後長い間教祖の胸を痛 めて居た子供の問題は解決せられたのである。之れより先き夫善右衛門氏を失つた善兵衛氏の母(姑)は大病で五体の自由を失つたが 教祖は妊娠中に係らず之れを負ふて其の好む所へ行つた。
 教祖の精神
 蓋し教祖の精神を解剖すれば彼女には人を喜ばせる人を楽ませると云ふより外何物もな かつた。従つて人を喜ばせ人を楽ませる為めには自分は如何なる難境に立つも敢て辞する 所がなかつた。これが真実の愛である。此の真実の愛は後に我が二人の寿命と我が寿命迄 天に捧げて人の子を救ふ大慈大悲の善行功徳とはなつたのである。
 教祖が一生の中に経験した最大の愛
 教祖は文政四年に長男善右衛門を挙げてから同じく八年に長女政子を挙げ、同じく十年 に二女安子を挙げた。教祖は出産の度毎に乳が沢山あつたから隣家の足達源右衛門の息照 之丞の乳の不足なるを憐れみ引き取つて養育してゐたが文政十二年の四月に疱瘡にかゝつ て十日目には黒疱瘡に変じた。近所の医者と云ふ医者にかけて見たが何れも皆匙を投じて 了つた。其れで教祖は最早や人力の如何ともすることの出来ないことを悟り一夜氏神に詣 で 「もし照之丞の生命をお助け下さるならば長男を除いて二人の子供の寿命を捧げます。も し其れで足らない様ならば我が寿命迄も捧げます」 と云つて一心篭めて祈願した所忽ち霊感あつてさしも危篤と伝へられた黒疱瘡が薄紙を剥 ぐ様に本復した。此の事あつて以来間もなく二女安子は歿した。其れから天保二年に三女春子を挙げ、四 年に四女常子を挙げたがこれも三年目即ち天保六年に歿した。最後に生れて来たのが末女 小寒子である。

 天保九年に教祖に神憑があつて刻限/\のお話に 「此の世に何が可愛いと云つても我が子程可愛いものはない。其れを二人迄も天に捧げ尚 ほ其の上に我が寿命迄も上げて人の子を助ける精神と云ふは元人間を生んだ伊邪那美命の 魂であるから。其れを天より見澄して天降り万人助けの道を授けるのである」 と。又た二女安子の死について 「いかに覚悟の前とは云へ一時に二人の子供を引き取つては気の毒故一旦安子一人を引き 取り其れを常子として生れさせてこれも引き取り其れで二人の寿命を天が受け取つた」 といふ天啓があつた。此の常子の魂が生れて来たのが後に「若い神様」と云はれた末女小 寒子である。此処に吾人々類が心を鎮めて学ばなければならぬのは教祖の絶対無限の愛と云ふことで ある。世人は往々愛と欲とを混同視して愛即ち欲欲即ち愛と思つてゐるけれども其の間には天 地の区別があるのである。欲とは取ることである。愛とは与へることである。教祖の愛に は欲はない。唯純粋無垢の愛がある計りである。而かも我が子二人の寿命を与へ尚ほ其の 上に我が寿命をも与へると云ふことは愛の極致である。凡そ大なる価値を得んと欲せば大なる犠牲を払はなければならない。教祖に神憑があつ たのも偶然ではない。誠や此の絶対無限の愛なればこそ今日並に今日以後万人の母として 尊敬せらるゝのである。天啓の声に 「サア/\これを良ふ聞き分け。価と云ふもの与へる心なくばならん。与へのない処へ何も価はあらせん。これだけ心にもつてくれにやならん」。我に与へる心あつて天に与へる心あり、我に施す心あつて天に施す心あり。価は即ち与 へである。与へ即ち人に慈悲善根の愛がなくば天の価は決して我に下ることはない。 「我が身捨てゝも構はん。身を捨てゝもと云ふ精神もつて働くなら神が働らく」 のである。教祖九十年の生涯其の間有形無形の所有物を人に施与した慈悲善根は数へるに遑がな い。けれども此の眼目はと云へば我が子二人の寿命を与へ尚ほ其の上に我が寿命迄も与へ た偉大なる愛に如くものはない。此の一事は実に教祖伝中の花であり、実であり、核であ る。
 神憑
 教祖に神憑があつたのは天保九年十月二十三日教祖四十一歳の時である。此の日麦蒔き に畑に出て居た長男の秀司が小昼過ぎに足が痛いと云つて畑から帰つて来た。中山家では 人を長滝村の修験者市兵衛の元へ走らせたが市兵衛は恰度中山家の隣家の乾家に亥の子に 招ばれて来て留守であつた。其れで使を再び隣家に走せて市兵衛が来て祈祷の用意に取り 掛つた。其れが恰度二十四日の夜明前であつた。 (秀司氏にはこれまで七八回も同じ様のことがあつた。其の度市兵衛に祈祷を頼んで全治 した。今度市兵衛を頼んだのも其れが為めである)  然るに其の日は何時も市兵衛の加持台に立つ勾田村のおそよと云ふ巫女が矢張り亥の子 に招ばれ出て行方不明であつたので臨時ミキ子を加持台に直して祈祷に取り掛つた。暫時 するとミキ子の容貌態度が一変すると見るや一人の神が降つた。市兵衛下つた神を尋ると 「我は天の将軍である」。市兵衛もこれまで色々の神に接したが天の将軍と云ふのは始めてゞあるから 「天の将軍とは何方様で御座います」 と尋ると 「天の将軍は月日じや」、 「根の神実の神である」、 「此の屋敷は世界始めの元の地場世界一列助けに天降つた。皆が心得」。其の音声と云ひ態度と云ひ恰かも三軍を叱咤するの漑があつた。其処に居合せたる人々 は其の威厳に打たれて思はず平伏して居ると神は其の宣言を水の流るゝが如くに述べて行 く。 「よつてミキの身体は神の社と貰ひ受ける。異存はあるまい」。善兵衛を始め其処に居合はせたる人々は余りに思ひ掛けぬ突然の要求なので返答に困つ てゐると 「今云ふたこと異存はあるまい。今云ふたこと不承知あるまい。主人返答は何んとある? 」。其処で善兵衛よりミキを神の社とすると仰せられても彼女は五人の母でありますから差 上かねますと云ふことを申上ると 「神の云ふこと聞き入れぬとあらば家は断絶。当屋敷を一夜の中に黒焦にする」 と云ふ強硬な宣告である。此の云ふ問答が神と人との間に続くこと二昼夜。其の間ミキ子は水一滴飯一粒口にしな い。其の様子を見るに見兼ねて漸く二十六日の朝に至つて承知の旨を申上ると 「満足/\」 の二語を残して神は退参になつた。これが天理教の立教日である。
 天理教成立の由来
 此処に注意して置かなければならぬことは天理教成立の由来である。天理教々典には人間の徳が進歩して所謂、霊淵に一瑣滓なきに至れば神明之れに授くる に救世の大任を以つてすと云ふ様なことを云ふて居るが天理教の成因と云ふものは徳さへ 積めば誰でも済世救人の大任を授けられる、其んな単純なものではない。屋敷に人間始め 元の地場と云ふ深い因縁あり、教祖に人間最初宿し込んだ元なる親と云ふ切つても切れぬ 因縁あり、瞬刻限(時節)と云ふものがあつて始めて天理教と云ふ世界最後の宗教が成立 したのである。従つてこれを以つて在来のありふれた宗教と同一視することは出来ないの である。此の点に於て天理教々典の如きは全然天理教の立場を誤解して居る。
 天理教々祖としての中山ミキ子
 世間では今日の天理教は始めより今日の如きものであつたと考へる人があるかも知らな い。又た天理教の教祖も始めより晩年の教祖の如く神秘不可思議な天啓人であつた様に思 ふものがあるかも知らない。けれども其れは皆誤つてゐる。天理教は始めより三百万四百万の信徒を有した天理教でもなければ天理教祖は始めより 晩年の教祖の如き精神内容をもつたものでもない。皆小より及ぼして大に至つたのであ る。お言葉に 「道の発達は世界の発達」 と云ふお言葉があるが初期の天理教は其うではない。寧ろ道の発達は教祖の発達 と云つて良かつたのである。

 天啓後の教祖は凡そ二期に分つことが出来る。第一期は物質的救世主としての教祖である。第二期は精神的救世主としての教祖である。第一期の物質的救世主としての教祖は四十一歳に天啓があつてから以後夫善兵衛氏の帰 幽後迄約二十年の間であつて此の間は専ら物質をもつて社会を救済した。教祖の言葉によ ると六十になつて始めて神の世帯をもつたと云はれてゐるが真の意味の救世主としての活 動は六十歳以後である。其れで天啓以前の教祖を救世主として第一期の準備時代とすれば 天啓後六十歳迄は救世主としての第二期の準備時代と見ることが出来るのである。真の意 味の救世主としての活動は晩年の三十年である。
 貧のドン底
 天啓後間もなく教祖の受けた天啓は 「世界助けの為め谷底に落ち切れ其処から本道が見えて来る」 と云ふことであつた。其れで教祖は先づ自分の手廻りの物から施を始めたのである。其の施をなすにも教祖の 施は世の所謂慈善家と異つてゐる。 彼女は先方より襤褸を纏ふた寒相な人間が来ると先づ其の人の行く先きに廻つて着物を 置いて置く。其の人が正直な人なればこれは内のものではないかと云つて届けて来る。其の時教祖は 「これは内のものではありません。其れは貴方へ授かつたのだから遠慮なくお持ちなさ い」 と云つて持たせてやる。其の人が 「其れを有難う御座います」 と云つて持つて行けば其の後姿を見送つて手を合せて 「御苦労様」 。此う云ふ風に食ふ物がなければ食ふ物を持つて行つてやる。着る物がなければ着る物を持 つて行つてやると云ふ風に成らん者不自由なものに施して自分の実家から貰つて来た五荷 の荷物は忽ちの間に施して了つた。其れから段々中山家の金銭米穀を施してやる。其れも限りあるものであるから何時かは 尽きる。今度は田地田畑に手を附ける。其れを拒めば直ちにミキ子の身体は病気になつて 了ふ。止むなく夫の善兵衛も黙つて見て居たが段々内の財産が減つて行くにつけて世間で は色々の噂さも立つ様になり親類よりも注告されるので神に誓つた誓言も忘れて一夜教祖 を先祖の位牌の前に座らせて来し方往く末のことを語り聞かせた上もし狐狸の業ならば此 の止め度もなき慈善を止めて呉れ止めぬとあれば先祖への申訳にお前の生命を貰はねばな らぬと云つて先祖伝来の刀に手を掛けて迄嘆願したが教祖はこれに対して 「貴方の仰せは尤もでは御座いますが最う暫時の御辛抱を願ひます。神様は一粒万倍にし て返して下さるから」 と云つて手をついて夫の前に謝した。夫も人に物を貸しても催促もし得ない様な善人であ るから其の場は其れで治まるが其れも永くは座視するに忍びない。其れで度々異見もし反 対もした。此の間にあつてミキ子の経験した精神上の苦痛は善兵衛の経験した其れよりも より以上に深刻なものであつた。即ち神の云ふことを通さうとすれば内々の者が反対す る。内々のものゝ云ふことを通さうとすれば神の言葉を無にする様になる。遂に煩悶の結 果死を決すること前後三度其の度に彼女の耳に聞ゆる神の声 「短気を出すな。今暫時の辛抱」 強ゐて決行せうとすれば五体が縮つて動くことが出来ない。其れで仕方なく思ひ返して自 分の不心得を神に謝すると再び身体が動く様になる。

 此う云ふ具合で天啓後の中山家は一家の心が個々別々で統一と云ふものを失つて了つ た。従つて傍の見る眼は随分哀れに陰気なものであつた。けれども其れにも係らず神の思 はくは着々実行されて天啓後十年には中山家の財産は殆んど施して了つた。けれども神は 其れでは満足しない。更らに家を毀つて施せと云ふ神命であつた。

 其の家を毀つ時には人は中山家の零落するのを気の毒がつたが一人教祖のみは大勇みで 「サア/\皆さん祝つて下さい。これから世界の普請にかゝるのだと云つて神様は大喜び で御座います。何もないけれども祝つて下さい」 と云つて手伝に来た人達に酒肴の御馳走をして其の労をねぎらつた。此処に教祖の偉大な る精神が遺憾なく発揮せられてゐる。天啓の声に 「天理王命と称する源由は元無い人間無い世界を拵へた神である。サア神の社になること は小さい百姓家より大きな百姓家へ来た様なものである」 と云ふ言葉があるが此の時の教祖は最早や何処から観察しても中山家の主婦中山家の母で はない。 世界の主婦万人の母 である。彼女が自分の家の毀されるのを見て大勇みに勇んだのは彼女にとつては最も自然 な行為である。
 夫の死
 中山家が毀たれた屋敷の跡に雑草が生えるのを見て夫の善兵衛は亡くなつた。其れが嘉 永六年教祖天啓後十六年目である。其の頃の中山家は貧の谷底に落ち切る真最中であつて一家族が塩と水とで通る様なこと も往々あつた。其の間にあつて教祖は道を宣伝する傍賃機を織つたり賃糸をとつたりして 衣食の資を得長男の秀司は薪や青物を町に売つて生活を支へて居た。又た末女の小寒子は 仕事の傍母を助けて布教に従事した。(此の頃は二人の女は既に他に嫁してゐた)此の二 人の兄妹が神命を奉じて始めて大阪に布教に出たのも此の年である。
 最初の産屋助け
 産屋の理を説けば長くなるが婦人が七十五日産屋にあると云ふのは人間の母親伊邪那美 命が七十五日かゝつて人間を全部生み下ろした御恩報じの為めである。けれども此の度人 間元生み下ろした元の親が表れてだめの教(世界最後の宗教)を始める証拠として七十五 日の産屋の不自由を三日に縮め三日目より常の如く働かしてやると云ふのである。其う云 ふ理由で初期の天理教では天理王命のことを特に産屋神様/\と云つて方々から願ひに来 たものである。凡て産屋助け計りではない。病人の救済で貧人との救済でも教祖が身自ら一度実験しな いと云ふことはない。教祖が貧の谷底に陥つたのも人間は難儀不自由をして見なければ難 儀不自由な人の苦労がわからぬ。難儀不自由な人の苦労がわからねば同情と云ふものがな い。同情がなければ真の助けと云ふことは不可能である。其れで神は教祖を一旦貧の谷底 に落して貧苦の味を経験せしめ更らに産屋助け病助けの実験までなさしめたのである。

 第一回の産屋試しは教祖神憑後四年目自分自身に産屋試しの経験を受けられた。其の時 は分娩後自分で一切掃除して何時もの如く立ち働かれたのである。第二回の産屋試しは安 政二年教祖五十八歳の時三女春子の出産の時産屋許るしをなされて安産させた。これが親 戚に産屋試しの始め  第三回は安政五年六十一歳の時隣家の百姓惣助と云ふ者の妻お雪といふ婦人に産屋許る しを与へられた。これが他人に対する産屋許るしの始まり。

 爾来神を信じてお願ひに来るものにはお助けがあつた。今日大和地方では未信者でも難 産の時は天理教へお助けを戴きに来る。其れでも不思議にお助けを戴いて軽るきは生むと 直ぐ重きは三日目より常人の如く働くことが出来るのである。これが為めに庄屋敷の産屋 神様と云ふ名が一時専ら地方に喧伝せられたのである。
 最初の病助け
 教祖が始めて病助けの霊力を天より授かつたのは天啓後十年目である。一日一家は朝来の断食の為めに空腹を忍んでゐると表より杖に縋つた一人の病人が 「庄屋敷のおみき様といふのは此方で御座いますか」 と云つて入つて来た。 「私は人から庄屋敷のおみき様へ行つて願へば病気がよくなると云ふことを聞いて参りま したが私の病気をよくして戴けますまいか」 。其の頃のミキ子は未だ病人助けの経験はなかつたから 「私はミキで御座いますが其れは人違ゐで御座いませう」 と云つて見たものゝ兼ての天啓に 「貧の谷底に落ち切れ。其れから先きは珍らしい助けをさす」 と云ふことを思ひ出して 「マアお上りなさい」 と云つて病人を上げ、胸に手を当てゝ考へて居ると 「あしきを払ひ助け給へ天理王命とこれを三遍づゝ三遍唱へて病人の身体を撫でれば助か る」 と云ふ天啓に接したので其の通りすると不思議にも其の病人は即座に癒され帰る時は杖を 捨てゝ帰つた。これが病助けの始めである。
 道の発展と社会の迫害
 此等が原因となつて元治慶応にかけてはボツ/\信者が出来て来た。其れと同時に神官 僧侶の間に反目嫉視するものが出来て一難去れば一難来る、教祖の一身は全く火中に包ま れる様の悲境に陥つたのである。殊に明治七八年より明治二十年教祖昇天に至る迄の間は 官憲の圧迫甚しく一人の信者でも屋敷の中へ引き入れゝば直ちに罰金もしくば拘留に処せ られたのである。其の為めに一時は宿屋兼空風呂の鑑札を受けて信者の便宜を計つて居た が何処迄も教祖を誤解して居る官憲は其の空風呂の中に薬品を投じて迄罪に陥れんとし た、其れ計りでない御簾を飾れば御簾を取つて行く鏡を飾れば鏡を取つて行くこれを今日 より論ずれば当時警官が天理教に対して用ゐた法の乱用は随分問題になるのであるが如何 にせん当時の天理教は四面楚歌の中にあつたので如何ともすることが出来なかつた。  巡査が拘引に来ると教祖は 「サア/\又来たで/\子供にや何うも仕様ない」 と云つてサツサと仕度をして何処かへ客にでも行くかの様にイソ/\として出て行くを常 とした。  警察や監獄へ行つても警官や獄吏に対すること子供の如くであつた。最後に櫟本署に十 五日間の拘留に処せられた時の如きは巡査の苦労をいたはる為め表を通る菓子屋を呼び入 れて買つてやらうとして付添人に注意せられ始めて警察署なることに気附いた様であつ た。  彼女に取つては至る所これ我が家逢ふ人これ我が子であつて人の様に自他の区別はなか つた。唯監獄もしくば警察の飯のみは不浄の飯だと云つて一粒も口にしなかつた。其の間 の飲食物と云つては唯水あるのみ。

 当時官憲の彼女に加へた暴行は随分甚しいものであつた。或る時は頭より水をかけたり 或る時は親指と親指とを縛つて天井に釣るして拷問したことさへある。而かも如何なる暴 行を加へられるも神色自若として毫も動ずると云ふことはなかつた。かくの如くにして彼 女が警察もしくば監獄に監禁もしくば拘留せられること前後十八回罰金もしくば科料に処 せられたこと数を知らない。
 昇天と昇天の理由
 今日の天理教界では彼女の長男秀司氏も末女小寒子も共に一身を捧げて教祖を助けた様 に云つて居るけれども実際は其うではなかつた。成る程末女小寒子のみは身装も構はず母 を助けて神に仕へたが其れも晩年には教祖の止むるをも聞かず梶本家へ嫁入して死んで了 つた。秀司は始めの程は善かれ悪かれ教祖と生活を共にして来たが晩年松枝子を娶つてか らは両人共教祖に反対して余程彼女をして苦境に陥らしめた。殊に松枝子(松枝子は明治 十五年教祖に先つこと六年前に死んだ)の欲深い歪んだ性質は事毎に教祖の感情を害する 事多く為めに五十年の後半生中真に一日と雖も心の休まつたと云ふ日に逢はずに明治二十 年正月二十六日百十五歳の定命を二十五年縮めて昇天した。  これについては色々の不審を抱くものがあるが彼女が定命を縮めて昇天を急いだのは 「何時迄此うして居ては傍も分らん。世界も分らん。助け一条遅れて了ふ」 と云ふにあるのである。宜なるかな彼女の昇天と共に世界の天理教に対する圧迫も止み翌 年二十一年には教会を設置して公然布教が出来る様になつた。
 天理教祖の理想
 天理教の理想は 「谷底をせり上げ高山を見下し世界を直路に踏み平らすといふことにあつた。之れを詳し く云へば今日の世界は上流下流の区別があるが将来は人類の人格的価値を向上せしむると 共に其の生活の程度も向上せしめて人類間に上下の区別を根絶せんとするのである。此の理想を具体的に表現したものが地場中心主義である。地場中心主義とは御神楽歌の十下り目に示されてゐる  一ツひのもとしよやしきの かみのやかのぢばさだめ  二ツふうふそらうてひのきしん これがだいゝちものだねや  三ツみればせかいがだん/\と もつこになうてひのきしん  四ツよくをわすれてひのきしん これがだいゝちこえとなる の所謂人間始め世界始めの元の地場大和庄屋敷天理教本部甘露台霊地を中心として不老不 死無病息災の道徳的理想の世界を実現せんとするのである。この理想の世界を称して甘露台世界と云ふ其の時来れば全世界には一つの歴史一つの地 場一つの風俗一つの習慣一つの言語一つの文章一つの宗教一つの政治に統一せられるので ある。而してこれを統一するのは実に日本人ー神の長子ーの先天的特権である。日本見よ小さい様に思たれど根が表れば恐れ入るぞや  だん/\と何事にても日本には知らん事をばないと云ふ様に 今迄は唐(外国)や日本と云ふたれどこれから先きは日本計りや。
 信ずべき人格と信ずべき宗教
 世間では天理教と云へば愚夫愚婦を迷はす愚民の宗教の如く信じ天理教祖と云へば愚夫 愚婦を迷はす妖婆の如く信じてゐる。けれども其れは其う信ずる人自身に真に宗教に対す る批判力人格に対する批判力の欠けたることを証明するものである。天理は明かに愚民を迷はす愚夫愚婦の宗教ではないのである。もし天理教を利用して愚 夫愚婦を迷はすものがあらば其れは天理教其の者が悪いのではなく天理教を利用して邪欲 を充さんとする教師が悪いのである。此の二者の区別を明かにしなければならない。

 次には教祖の人格である。古来何時の世にか生命土地財産名誉を捨て更らに其の上に最愛の夫に反き最愛の子供を 捨てゝ迄万人の為めを計つた悪人があるか? もし其れをしも悪人と云ふならば此の世に 善人と称すべきがあるであらうか? 吾人は未だ曾つて其う云ふ者のあつた例を聞かな い。天理教をもつて愚夫愚婦を迷はす妖婆の如く毒言するものは正に此の種の黒白顛倒論 者である。何故なれば、 人は皆日の寄進をなさゞるべからず  人は皆互ひ助け合ひをなさゞるべからず  人は皆朝起きをせざるべからず  人は皆正直ならざるべからず  人は皆働かざるべからず と教へ且つ自らこれを実行した彼女の思想生活はこれ天理であり、天理に合した生活であ つて些の非点を打つべき性質のものではないからである。否な/\今後の人類は是非共か くの如き思想を有しかくの如き信仰に生きざるべからざるからである。
 新時代の象徴人
 古来宗教の数は多い。又た偉人の数も多数である。けれども今日は人生の定義が変つた 如く人の定義も亦変つた。今日並びに今日以後の人間は家庭を離れ社会と断つた遊離的人 物不生産的人物であつてはならない。家庭の一人社会の一員として活動する活動的人物生 産的人物でなければならぬ。云ひ換れば今日並に今日以後の人間は所謂「山の仙人」であ つてはならない。「里の仙人」とならなければならない。更らに詳しく云へば今日並に今 日以後の人物は  第一に朝起者ならざるべからず  第二に正直者ならざるべからず  第三に働き手ならざるべからず  これが天理教祖の画いた新時代の理想の人物である。而して彼女は此の新時代の理想を 具体化した新しき象徴人であつた。

 けれども此処に一つ注意しなければならないことは天理教祖の教へた朝起きと正直と働 きとをもつて利己的の方便として同一視せざらんことである。何故なれば彼女の教へた朝 起き、正直、働きは決して一個体の盲目的欲望を満足さする為めではなく其れ自身が人生 の真の目的であつたからである。わけて働きの意義については注意しなければならぬこと は世人は屡々働らきの意義を誤解して利己的労働と同一視するからである。 けれども教祖の教へた働らきの意義は傍楽即ち周囲の人々を安楽ならしめんが為めの活 動を云つたのである。これが即ち彼女の所謂互ひ立て合ひ助け合ひ」である。此の「互ひ 立て合ひ助け合ひ」の教理と表裏の関係を有する教理に「日の寄進」がある。これは日々 の真実を神に寄進するの謂にして其の本体は正直其の者に外ならない。従つて今日並に今 日以後の人間はかくも定義することが出来る。第一 新時代の人間は相互扶助主義者ならざるべからず。第二 新時代の人間は日の寄進主義者ならざるべからず  之れを縮めて誠の人(真人)と云ふ。奸悪なる世界と幼稚なる社会とにあつては天理教は愚夫愚婦を迷はす淫祠邪教と誤解せ らるゝであらう。又奸悪なる世界と幼稚なる社会とにあつては天理教祖は愚夫愚婦を迷は す妖婦と誤解せらるゝであらう。けれども 、人は互ひ助け合ひをせざるべからず、人は日の寄進をせざるべからず、人は朝起きをせざるべからず、人は正直ならざるべからず、人は働かざるべからず。 更らに云ひ換へれば、人は誠(真実)ならざるべからず と教へた天理教祖の言葉を其の言葉を自ら実現した彼女の人格と生活とは真実である。更らに偉大なる真実は人類を生み且つ育てゝ今日の人類に迄発達せしめた計りでなく更 らに彼等をして真の幸福に達する道を教へんが為めに一身の利害を忘れ有りと凡ゆる人生 の難苦を通つて根の教、本の教、実の教、止めの教を実伝した偉大なる真実である。此の 真実こそ今日は知らず将来の人類より永遠に感謝せらるべきものである。  教祖歿後高弟飯降伊蔵を通じて語られた天啓の声に 「雛型の道より道はないで。何程急いだとて/\行きやせんで。雛型の道より道はない で」 と教祖は実に神が人類の為めに下した新しき典型人であつた。今日迄天理教に反対した 人々並に将来天理教に反対する人々も最後の終局には神が人類の為めに示した此の最後の 雛型の道を通らなければならん様になる。これは世界の進歩と神の予言とに徴して明かで ある。(紀元十億七十七年 一月六日)
 生れ故郷  前川静子
 「生れ故郷は其の侭置いて置くのや」 と神様が仰せられますから其の侭に致して置きますけれども雨漏りだけでも直さないぢや 何うもならんと管長様(前管長)が仰せられますから雨漏りだけ普請させて戴いて居りま す。教祖様も始終生れ故郷/\と仰つてな暇さへあれば此方へお居でになりました。此の家はこんな丸天棒で御座います。只今は皆んな立派な家が建ちましたけれども昔は 此んな丸天棒で立てたのは中々立派な家で界隈でも此んな家は御座りませなんだ。神様が 「生れ故郷は其の侭置いて置くのや」 と仰りますから大地震にもあひますしな大風にもあひますしなそれでも此の家は何うもな りません。私は教祖の姪になりますが矢張り此の家に生れました。九つの時中々の大地震が揺り ましてな。其れからチヨイ/\地震が揺りますけれどもほんの埃見たいのもので御座いま すが其の時は中々内へ入つて居られん様で御座りました。其の時向ふの灯篭がこけてかけ た侭で建てゝあります。此の間も管長様が御いでになりまして 「彼の灯篭はこけてゐる。危いなあ」 と仰ゃりました。唯今は方々から本部/\と云つて皆様が集つて参られますが 「早う此の道についた者程因縁ある者や程に」 と神様が仰ります。未だこれから先き何処迄拡がりますか分りません。私共三つ位の時からお叔母さん/\と云つて教祖様の所へ参じましたが年のゆかん頃から 「お前達は何も知らんで居るけれどもな此の神様は何も無い所から人間を拵らへかけた元 の神やでこれから先きは何んぼ端々の国でも近うなつて戻つて来るで」 と仰やりました。私共は未だ其の頃此んなになつて来ることは分かりませんから其の頃江戸今の東京 のことを江戸/\と申して居りましたへ行くのもならんのに何うして其んなことにな るのかしらんと不審に思ふて居りました。 「唐やな唐人やと云ふてな皆んな恐れて居るけれどもな唐や唐人やと云ふたとて皆んな此方へ従つて来るのやで」 と云ふこともお聞かせになりました。此の屋敷は教祖様のお生れになつた時も私共の生れた時も同じことで御座りますが東が 十二畳の米倉で西が十四畳の綿倉其れに納屋や隠居所と倉計りも七戸前も御座りました。 倉から納屋迄はヅーと木一本なく裏を通り抜けると又た裏で其処に何か作つてあります。此の屋敷は「屋敷に因縁ある故に」と仰せられますが此屋敷一軒限りぐるり道になつて 居ります。其れから教祖様のお父様のことも聞いて置くが宜う御座ります。教祖様のお 父様と云ふ方は矢張り神様の御魂で御座りました。先き御教祖様の御父様が御生れになり まして其処へ教祖様がお生れになりましたので御座いますから世界並に御生れになつたの と違ゐます。

 御兄弟は五人御座りまして一番兄さんが杏助其の次が教祖様。教祖様の次に女の子が二 人ありまして一番末に出来たのが半三郎と申して私の父で御座ります。  此の半三郎と申しますのは女の子供が二人ありましてから九年目に出来たので御座いま すから同じ兄弟と申しましても教祖様とは九つも違うて居ります教祖様のお出でになりま した家は立派な家で御座りました。其れを神様から神の館にするから皆んな毀つて了へ /\と仰やるけれども杏助と云ふ方が此の家だけでも残さんと先祖に対してすまんからと 矢釜しく云つて守屋筑前此の方が神様に詳しい方だから此の方を連れて行つて神様と問答 させても終ひには神様に従ふて戻つて参じました。其処で此の兄様も神様がなさることや から人間業では仕様ないと云つて皆んな毀つて了ひました。  本部で一番最初建てましたのは勤めの場所で御座いますがこれは毀つて了ふ とが出来 ませんから教校の所へ建てゝ置きます。彼れを建てました時国床立命から十柱の神様のお 面を拵ふ様に此の兄様に仰せつけになり雛型を此の兄様がお造りになりました。  此の兄様が九日の患ひで御崩れになりました時教祖様は御帰りになりましてなチヤント 御自分で此の兄様の身仕終ひをなされてな 「此うして置けば明日御葬式をして良いのやさかい」 と云つて御帰りになりました。  此の間管長様御帰りになつて 「此処の叔父様も巧者の人やつたな」 と仰やりました。  教祖様と云ふ方は色の御白い口元と眼元の柔しい白髪な奇麗なお方で御座いました。八 十幾つかにおなりになつても腰も屈まずスラツとした御方で御座いました。  お召しは赤衣をお召しになつて居りましたが毎月御換へになりました。其れをお下げに なりますと御守り様になります。  教祖様のお引き取りの時は私の四十二歳の時で御座いました。  此の琴も彼地らにかゝつてゐる開き手の鍵も教祖様の遺品で御座います。(了)
 別鍋  伊賀名張 細川なほ子  
 直子様は教祖の妹お桑様が忍坂の西田様へ嫁して一番末に挙げられた方である。若い 時には教祖より深く愛せられて始終往復をしてゐられたといふから色々と古い事を知 つてお居でになると云ふことを聞いて昨年の秋永尾氏と態々伊賀の名張迄出掛けて行 つて御面会を願つた。此処に掲げたのは其の時の談話の一節である。

 私は今年七十一で御座います。七つの年から二十歳の年迄は度々庄屋敷へ参じました。 其の頃は教祖様のことをお母さん/\と云つて居りましたが教祖様もチヨコ/\おいでに なり(忍坂へ)私も宇陀に縁につく迄はよく参じまして三十日も五十日も止めて戴きまし た。中山家と前川家とは代々親戚の間柄です。お叔母さん(教祖様)の姑さんて方は前川か ら行つた方です。其の前にも前川から庄屋敷へ行つて居ります。ですから中山家と前川家 とは二代の親戚関係で御座います。私の所(忍坂の西田)では勇助が一番上で西田の跡をとりました。其れから藤助は一時 庄屋敷の小寒さんの所へ養子に行きましたが三十日程居て帰つて参りました。其の時教祖 様から七十より下で死ぬことはないと申されました。小寒さんと私とは七つか八つ違ひましたが行けば姉妹見たいに心易くして居りました。善兵衛さんには妹が一人ありましたがこの人は不仕合の人で森本へ行つて五人も子供が ありましたのに庄屋敷へ帰つて参りました。お伯母さんに神憑のありましたのは小寒さんの二つの時でありました。其れ迄は田地も 三町余りあつたといふことでしたが皆んな売つて了ひました。母家は私の九つの時まであ りましたが其れもバラ/\に売つて了ひました。其れも皆人にやつて了ふので始めより売 らんならんで売つたのではありません。其の頃の本家の前には堀がありました。何んでも家の間数は大分ありましたが玄関はあ つても門はありませんでした。倉は西にもあり北にもあり綿倉だの米倉だの何んでも六戸 前もあつた相で御座います。 家を毀つた跡に甘露台だと云つて棒を一本立てゝ居りましたが私は未だ子供の時分で御 座いますから其れを抜くとお伯母さんは 「棒は幾らもあるから其んなものを抜くのやないで」 と仰せになりました。私の前に姉さんが一人ありましたが其の姉さんの死んだ時母は女の子がないと云つて大 変悲しんでゐると教祖様が私の母に向つて 「其んなに女の子が欲しくば授けてやる」 と仰りましたが私の母は 「此んな年になつて其んなことはない」 と云つて居りますと二月三月経つと身篭りまして生れたのが私で御座います。 私の生れたのは弘化二年で母の四十四五の時の子で御座います。其の年お伯母さんは四十 八になつて居りました。末の子で御座いますし身体も小さかつたので何時迄も乳を呑んで居りましたが七つの時 お伯母さんがおいでになり 「此うして何時迄も乳を呑んでも仕方がない庄屋敷へ連れて行つて育てゝやるから最う一 遍乳を呑ませてお呉れ」 と仰つて呑み納めに乳を最う一遍呑んで庄屋敷へ連れて行つて戴きました。これが庄屋敷 へ行く始めで御座います。 其の頃はお伯母さんの云ふことを誰も信じるものはありません。私が宇陀へ行つた頃よ りつく様になりました。其の頃は豊田のサユミさん(仲田)と云ふ方が来てゐました。お伯母さんの兄弟は一番兄が杏助で二番目が教祖、三番目が私の母、四番目がお力さん と云つて朝和村の竹内へ行かれました。五番目が半兵衛さんで御座います。西田にはチヨコ/\おゐでになり南半国の出張り場所と仰りました。文久の夏私の一番の兄さん(勇助)と小寒さんと秀司さんと又次郎(勇助の弟)と四人 が太鼓と鈴とをもつて大阪へ布教に参りました。其れが私の十九の年で御座います。其の日の小遣いが当百六枚あれば良いのですが其れ丈けの小遣ひは秀司さんが賭博場へ 行つて儲けて参りました。所が七八日経つて欲になつて其の日の小遣は儲けたのに最う一 儲けしようと思つて行つた所が今度はスツカリやられて帰る時は腹を空かして帰りまし た。其れを教祖様は内へお居でになつてチヤンと知つて居られました。其の頃は庄屋敷では何もかも売つて了つた後で何も御座いません。私の小供の時分庄屋 敷へ参りまして 「此んな家は結構が悪いや」 と申しますと 「又たお金が出来ると大きな家を建てるのやで」 と仰りました。私の身体が小さいので何うして此んなに小さいのだからと申しますとお伯母さんは 「身体は小さくても寿命さへ貰つて来れば良いのやで」 と申されました。同じ兄弟の中でも六本木へ行つて居る兄は身体も大きゅう御座いますが 私と藤助は小さう御座いました。私の十九の時の七月十七日。其の頃は私は宇陀へ嫁附いて居りましたが忍坂から男衆が 来て庄屋敷のお伯母さんがお居でになつてお直さんを呼んで来いと仰るから直ぐ来て下さ いと云つて迎ひに来ました。行くにしても髪も結はんけりやならんから髪を結つたりなん かしてゐると十七日には行けませんから十八日に立つて忍坂へ来ました。其の時私は始めて別鍋と云ふものを炊きましたお伯母さんの仰るのに 「お地場では小寒が炊き此処ではお前が別鍋を炊くのやで」 と申され別鍋と云ふものを炊きました。別鍋と申しますと御飯と御汁と御副食物とを朝から三遍昼から三遍夜一遍一週間の間炊 くので御座いますが其れを一粒残らず召し上りました。而して三品共内の人とは別にして 雪平で炊くので御座います。御米も一遍に洗ふことはなりません。一度一度に洗ふので御 座いますから朝から晩まで御飯拵らへにかゝつて居りました。私には何う云ふ訳か分りま せん唯炊けと云はれるから炊いて居りましたが其の間何もなさりません。七日経つて打ち 明けの日風呂へ入つてお帰りになりました。其れが私の十九の年の七月の二十六日の晩で 御座いました。お帰りになります時夜分だから車引きでも頼もうかと申しましても聞かずに歩いてお帰 りになりました。提灯を上げやうかと申しましても 「私の先きには火の玉が行くから提灯は要らない」 と仰つた其の頃は私も未だ若い時分で御座いますから 「火の玉が行くなら恐い」 と申しました。お帰りには小寒さんがお伴をして帰られました。三仏庄から細い道になり ますが水溜り等ありましてもドン/\お歩きになりまして夜の十二時頃お帰りになりまし た。其れからお粥等暖めてお上りになりました。其の頃から匝線蝶の紋をつけてお居でに なりました。  お伯母さんの云はれるには 「夫婦と云ふものは同じ魂寄せるのやぜ」 と云ふことでありますが私のお爺さん(夫)の魂は先代多吉と云ふ人の魂で御座いまし た。其の連れ合ひはお民と云つてじんらく寺から来ましたが多吉さんが子供を一人残して 亡くなつたから其の弟の勇助と夫婦にしました。其れで位牌には勇助と一手にしてありま した。其の多吉と云ふ人の生れ変りが此の間亡くなつた内のお爺さん(次郎)で私がお民 で御座います。其う云ふ訳で前には忍坂で夫婦でありましたが今度は宇陀へ来て夫婦にな りましたからつまり二代の夫婦で御座います。 私の母(お桑様)は一寸も信心は致しませんから 「お伯母(教祖)さんがお前は長生きすると云つても何時死ぬかも知れんから当てにする でないで」 と云つて聞かせましたが未だに此うして長生きして居ります。  今の西田の主人(伝蔵)は顔面に大きな痣がありますが彼れは生れて来ない中にお伯母 さん(教祖)が 「何も悪い事はないけれども祖父に悪いことをしてゐるから面体に印をもつて表れる」 と仰つて置かれましたが彼れは彼の人が私のお父さん(伝蔵)に粗忽をして其の侭納まつ てゐるから表はしたのだと仰せになりました。  庄屋敷へ行つて居た時は時々染め物を致しました。其の時は小寒さんが井戸から水を汲 むお伯母さんは側で早く入れろ/\と云はれるから手早く入れると梅鉢でも何んでもチヤ ンと表はれました。  お政さん(教祖の長女)つて方は何時迄も嫁附いても又出て来てブラ/\してゐました がお伯母さんは何時迄も其う気侭にさして置いてはならぬと云つて勝手に八木へ行つたの を迎ひにやり秀司さんが迎ひに行くと 「今行かうと思つてゐる」 と云つて来て其れから豊田へ嫁に行きました。  お政さんの嫁に行く時は何もありません。夜具が三枚ありましたが其の中一通りはお春 さんにやり一通りはお政さんが持つて参りました。  お伯母さん(教祖様)が嫁入りなさつたのは十三の時で御座います。其の時福知堂のお 叔父さん(教祖の父の弟)が媒介者で貰ひに来るとお伯母さんは其れを蔭で聞いて 「お母さん私子なら行かん嫁なら行く」 と云つたと云つて私の母は姉さんは可笑な人だ十三やそこらで私子なら行かん嫁なら行く つて云つたと云つて居りました。十三の春庄屋敷へ行き十六の時入籍しました。  十三の時嫁入する時には空で参りました。十五の年泊りに来る時髷に結つて帰りますと お母さんから 「お前未だ其んな髷になぞ結ふものでない」 と云はれた相で御座います。  十六の年お母さんから念仏をして貰ひ、十九の年に自分で五重を受けました。  三昧田と庄屋敷と忍坂とはお互ひに前々から親類で御座いました。即ち教祖のお父さん の一番姉がお久さんと云つて三昧田から西田へ参りました。二番目の女の人が庄屋敷の善 右衛門様の所へ行きました。これがお伯母さん(教祖)の姑で御座います。三番目の女の 人これは櫟枝に参りました。四番目が教祖さんのお父さんの半七さんで三昧田の跡を継ぎ 五番目が福知堂お叔父さんで御座います。其れから教祖のお兄弟は一番目が杏助さん二番 目が教祖さん三番目が私の母四番目が竹内へ行つたお伯母五番目が半兵衛で御座います。  お伯母さんは小供の時分から違つて居つた相で御座います。何んな子供とでも良う遊び なされた。  内に居てもコツソリして居てチツトとも何んとも云ひなさらぬ。外の小供はお母さん何 か欲しいと云つても教祖様はチンとして 「お前も行け」 と云はれて始めておいでになりました相で泣くなぞと云ふことはなかつた相で御座いま す。  寺小屋へ参りましたのは九つからで九つ十、十一、十二の四年で御座いました。裁縫は 内で習つたので嫁に入つてから教へられたのではありません。縫ひ物は中々達者で針は一 針でもかゝりません。私子供の時行つて見るとよく鳩を拵らへてお呉れになりましたが其 れを上げると羽がパツと広がり下げると縮まりました。袋等もよくお拵らへになりまし た。  お伯母さんは私を可愛がつて始終此処へおいで/\と仰やるけれども私は何んだかお伯 母さんが恐くて側へ行く気になれません。其れで寝る時には小寒さんと並んで寝るので御 座んすが其れでも眼を醒すと何時の間にか教祖様の側へ行つて寝て居りました。 (教祖様は本宅にお休みになり私共は長屋に休みました)  其の時お伯母さんの仰るには 「お前私と寝るのを厭だと云ふけれども神様はお前を好きだで」  其れでもお伯母さんを恐い人と思ふ感は年頃になつて嫁に行つてからも変りませんでし た。其れで庄屋敷へ行くと帯の紐でも襷の紐でも小寒さんの手と私の手とを縛つて一手に なつて寝るのだけれども朝になると何うしても教祖様の側へ行つて居りました。  何か下さる時にも教祖様が食べてから私共に下さいました。  教祖様には前申した通り別鍋でお上りになると云ふことはなされたけれども断食なさる と云ふことは御座いません。唯気に入らぬ時はヂツと目を塞いで何も上りません。  御酒は御上りにならず味淋を一杯位御上りになりました。  神様がお下りになると教祖は   紙筆! と仰やるから直ぐやるとスラ/\とお書きになるが遅れると抜けて了ふ。其れで側に居る ものは何時でも紙と筆の用意をして其らと云つたら即ぐやる様にして置かなければなりま せんでした。  私には十八歳の時神様から棒寄せと云ふことをお授けになりましたが何か分らないこと があると火箸でも何んでも良い棒を一本づゝ両手にもつて分らんことを伺ふと其うだと云 ふ時は合ひ、其うでないと云ふ時は離れて合ひません。又た道中をして何処/\まで何里 と云ふことを伺ふ時には何んでも良い其の辺にある棒を二本拾つて天理王命の名を唱へて 御伺ひをすると一里なら一つ二里なら二つ打ちます。所が私の母が 「私の所だけ其んなことをしてはいかん」 と云つて返して了ひましたから残念だと思ふて居ると其の晩 「何も心配することは要らん。水で助けるで」 と云つてお水のお授けを頂きました。  お授けを戴かない先きは御筆先を読んで聞かして貰つて居るうちに良くなりました。  教祖の亡くなられたのは私の四十三の時で御座います。其の前に忍坂へおいでになつた 時鏡と延紙とを戴きました。延紙の方は使つて了ひましたが鏡の方は戸棚へ放り込んで置 きましたが此んなことして置かんで蔵つて置いたら良からうと人が云ひますので半分は京 都の細川七郎(直子様の女婿)へやりました。未だ外に帯も貰つて居りますがこれは私の 母が貰つたのを私が母から貰つたので御座います。(文責在記者)  
 人が望めば神も望む  永尾よしゑ子
 私の所で此の道に入り始めはお母さんの産後を助けて戴いたのが原因で御座います。お 母さんの産後が何うも良くないのでお父様は前裁の側で産薬を買ひに出た途中で人から庄 屋敷の産屋神様に参つては何うかと云ふことを聞いて其の侭西に行くのを東に向いて庄屋 敷に来て御願すると 「無い寿命でも心次第で踏ん張つてやるからこれをもつて行つて上げなさい。而して三日 たつたら又おいで」 と仰つて御供を三服下された。其れを戴いてお母さんに呑ませると三日目に元の侭と云つ ても良い様になり四日目に夫婦共御礼参りに庄屋敷へ参りました。其の時教祖様は 「思はくの大工が出て来たと云つて八方の神が手を打つて喜んでゐる」 と云つて喜ばれた。  其れから何んでも嬉しい/\一点張りで神様がお喜びなさるからと云つて半期位詰め切 つて内へ行かぬことも御座いました。  其の頃は天理教と云へば人が馬鹿にしてゐる頃でありましたから風呂に行くと櫟本の大 工が来るからと云ふので早くから集つて周囲から嬲り物にすると云ふ風でありました。  然し未だ其の頃は全然庄屋敷へ詰め切ると云ふことができませんから仕事をしながら通 つて用をさせて戴いて居りました。  彼れは明治何年頃だつたか覚へて居りませんが兎に角私共の大きくなつてから二階堂村 の前裁の博労の家を畳建具附千三百円で請取つて仕事をした所が唯つた二百円呉れた切り で後はスツカリ倒されて了ひました。貰ひに行くと 「此の牛を売つたら渡さう」 とか云ふが中々渡す所か一文も呉れやしません。其れで私と母と政甚と政枝とが仕事見た いに通つたがとう/\倒されてしまいました。  此方では其れを貰ふ筈にしてゐた所がスツカリ当が外れましたから年の暮になつて掛け 取りが来ても払はりやしません。けれども掛け取りに来る人は内の人が正直な人だと云ふ ことを知つてゐるから其んなら負けてやらうと云ふ。お父つ様は又たお父つ様で几帳面の 人だから負けては要らんと云ふ。其れを後から掛け取りに来た人が聞いて居る。  これは此処の家では払ひが出来ないなと思つて入つて来る。矢つ張り払が出来ないから 其の人も負けてやらうと云ふ。お父つ様は負けて要らんと云ふ。其れで勝手道具迄払ふ様 なことが出来ました。  博労は其う云ふ事をして其の家に入りは入りましたが半期程入つた計りで人に取られて 粉もない様にされました。其れでも私所の家は何うなり此うなり煙を立てさせて戴きまし た。  其の頃の私共は職人が十四五人も居りまして忙しいから私も学校へ行かないで守りをし て内にゐました。  其の内に私の母の鼻に瘡瘍が出来ました。医者に見せると牛を食べろと云ふ。牛を食べ なければよくならぬと云ふ。其れで牛を食べると顔中に瘡瘍が一杯に拡がりました。其れ から神様の所へ来て願ふと直ぐ御守護を戴いた。  教祖様の仰せになるには 「お里さん此方が手不足でならんから早く彼地を引き上げて来てお呉れ」 「有難う御座います。何れは寄せて戴く心算で御座いますけれども子供も大勢御座います から小遣でも少し出来ました上で寄せて戴きます」 「其んな欲なことを云つたつて何うもならん。早く来て呉れ」 「寄せて戴きます」 と云つて帰るが又々二年程誑まして其の侭延び/\になつて了ふ。  兎に角千円も偉い目にあつてゐるから小遣儲けに一寸煮売りみたいのことをしました。 内が内だから職人が来るが其の中には一寸酒屋の通を貸して呉れ呉服屋の通を貸して呉れ と云つて品物を取つて金を寄来さない。其れで其の時もスツカリ損をして店をしまいまし た。  神様(教祖様)櫟本にお出でになつて笑はれた。 「皆んな落し紙かせんち紙のやうなことをして喜んでゐる。神には深い/\思はくある。 何んなことも成るか訳らん。其ら放つて了へ。これも放つて了へ」 ふと云つてサン/\笑はれた。其れで商売を止めて了ふと何うなり此うなり優しになりま した。  商売を止めると教祖様も御機嫌が宜い。其れで今度の正月は寄せて貰ふと云つて又た行 かない。又た身上に御異見を戴き父は一夜の中にスツカリ盲目になりました。其れから眼 の玉は梅干の様になつて白も黒もない。 「これでは乞食するより外仕方ない」 と云ひながら神様へ来て願ふと 「其んな先きの見えないことを何時迄もしてゝは何うもならん。早く帰つて来な」 と云はれる。  スツカリ助けを戴いて盆の関丈け済まして寄せて戴きますからと決心しても亦明かな い。其うして居る中に又た政恵が一晩の中に風眼で潰れた。人が寄つて来て医者に連れて 行けと云はれたが医者へ行かずに神様へ連れて来ると一週間の中にスツカリ助けて貰つ た。助けて貰ふと又心が後へ戻る。 「子があるさかい/\」 と云ふて送り/\してゐるうちに又たお父様が櫟本の神田といふ内の仕事を受取つて仕事 をしてゐると木片が右の親指の肉と爪との間に入つて何うでも抜けぬから又た神様へ参つ てお願すると 「ウカ/\して居ては何うもならん。私に一人何時も任せて置くから何うもならん。」 と仰せになつたが直ぐ抜けた。抜けた跡に傷も何も行かない。勿体ないことだと思ひ 「普請を済ましたら帰らして戴きます」 と云つて帰つたが愈々庄屋敷へ越さして戴かうと云ふので其の事を鍛冶屋のお父つ様に話 すと鍛冶屋のお父つ様が 「彼んな庄屋敷の様な所へ行つたつて仕様がないから止めなさい」 と云はれるので其の時も其の侭になつて了つた。  明治十三年に何んでもない紺屋の藍壷の廂を直す丈けですから樽桶を台にしてやつて居 ましたら落ちて腰抜けになり立つ事も出来ないから櫟本から戸板に乗つて来て七八日置い て戴いた。其の時神様は 「何んぼ来い/\云ふても聞かなければ何時迄も此うして置く」 と云はれ愈々懴悔をして 「今度は寄せて戴きます」 と云つて教祖と物語して助けて貰ひ一週間目に帰つた。  これから愈々庄屋敷へ引つ越すと云ふので顧客先へ暇乞ひに廻ると顧客先では 「何んだつて庄屋敷見たいの所へ行くのだ。乞食しても庄屋敷見た様な所へ行くな」  此うなる。其うすると 「此んな細かい子供があるのにな」 と考へる様になる。其処へ来て顧客先では 「内が狭ければ大工の手のものだから建てたが良い」 「金がありません」 「金がなければ何うにでもしてやる」 と来られるから其んなら子供が一人前になる迄待たうかと云ふことになると政甚が五日か 六日物を言へない様になる。其れから又た身がすくんで起きない。其処で神様へ行つて 「何時も詐計り云つて済みませんがこれを助けて戴いたら寄せて戴きます」 其れで御守護を戴くと其の侭になる。  明治十四年に政甚も政恵も目の縁が腫れて牡丹餅見た様になつた。其処で十四年の旧十 一月の十七日か十八日頃と思ひますが寒い/\時に二人連れて庄屋敷に母が来られまし た。而して政甚と政恵と二人が加減が悪くてお願ひに上つたことを申上げると神様は 「お里さん政次郎のことを知つてゐるかい」 「ハイ知つてゐます」 「知つてゐるのなら良いけれども知らなければ確つかりしいや」  政次郎と云ふのは五つの時人に迷はされて死んだのであります。 「ハイ有難う御座ります」 「早う来ておくれ」 「寄せて頂かう/\と思ひますけれども櫟本で惜しがられますによつて」 「人が望めば神も望むで。人の惜がる人間は神も惜しがる。人が望まん様になつたら神も 望みやせん」 と云はれる。又た 「寄せて戴きたう御座いますけれども子供が細かう御座いますから最つと大きくなつてか ら寄せて戴かうと思ひます」 と申上ると 「子があるから神の方も楽しみだ。親丈けなら楽しみあらせん」  其れで其の侭居て明治十五年の正月の朝に 「一日丈け休ませて貰ひに帰つて来た」 と云つて帰つて来ました。其の時お父つ様の云はれるには 「お里こんな所でも行くな/\と云ふ人があるから止めにしやう」  けれどもお母さんは 「私盲目になつても行きます」 と云つて日帰りにした。チヨト一ケ月計り居て櫟本へ行き 「神の方で何もかもするからあるものは皆な人にやつて了へ」 と神様が云はれるからと云つてあるものは皆な人にやり二月の八日にお地場に引つ越さし て戴きました。彼の時辛いからジツとしてゐたら春が遅れる。  何も持つて来るなと云つても着物丈け持つて来ないじや直ぐの間に合ひませんから着物 と錠前障子四枚と鍋釜夜具蚊帳お膳等一通り持つて来ました。  明治十五年には私が十七で妹が十政甚が七つか八つで御座んした。私身体は小さいし妹 や弟は未だ子供ですから全身の着物は一枚もあらしません。神様は遠慮なしに何んでした が良いと云はれるが其の頃はしたくても出来やしません。  其れ迄は中山家で空風呂と宿屋をしてゐられたが四月の一日から宿屋と空風呂とを伊蔵 の方へ任せました。  其の頃私共が櫟本から持つて来た鍋釜は中山家で使ひ中山家の道具は損料で貸す。スツ カリ南と北とに分けて了ひました。これを分けたのは松恵さんですが私共が此方へ参りま す時神様は一つの所帯一つの家内と云はれたのを松恵さんが今云つた様に南と北とに分け たから神様が 「南と北と分けたのが神の残念。神の云ふ事背いたら何んな事になるやら知れんで」 と云はれました。  松恵さんは私共が寄せて戴くと間も無く亡くなりました。  其れから其の年の九月十九日に道の上に大節が出て慈福寺の認可が取り消しになりまし た。教祖様始めとして監獄へ七人行きました。教祖様が明日か明後日お帰りになると云ふ 日に私の所のお父つ様も監獄へ引かれる様になりました。其の頃私の所では宿屋をして居 ましたから警察で止宿改めに来るのですが音松と云ふ弟子の寄留届がしてなかつたので引 かれました。其の日お父様は明日か明後日教祖様が監獄からお帰りになると云ふので御召 しになる赤衣を丹波市の岩井に誂らへに朝の八時に出て行きましたが十時になつても十二 時になつても帰つて来らりやしません。此方も忙しいから見に行けない。止宿人挙げの届 けに丹波市の警察へ行つて飯降伊蔵は何うなつたかと尋ねると 「飯降伊蔵見たいのものは監獄へ送つた」 と云ふ。其れを聞いてビツクリしました。然し明日は教祖様監獄から出られるでせう。だ から人から教祖様のお召しになる赤衣をとつて貰らひ監獄に居るお父様の所へ差入れもし やうと思つて次の日奈良の監獄へ行つて尋ねると 「飯降伊蔵見たいのもの監獄へ来てない」 と云ふから南の門から出て行くと向から腰縄で来るのがお父つ様です。其の時梅谷四郎兵 衞さんが私と一手に行つて呉れなされて 「芳枝さん御父つ様に何か云ふことがあるなら云ひなさい。私頼んでやるから」 願つても 「余計な事は云ふはいらん」 と云ふ。其れでお父つさんは 「私の来る迄に音松を外へ預けて了へ」 と云つた限り引かれて監獄へ入つて了つた。  御父様前の晩何処へ止められたかと云へば帯解の分署へ一晩止められた。帰つてからお 父つ様の云はれるには 「分署には天野さんと云ふ人が居て私が腰縄附きで入つてるのを見て伊蔵さんお前の様な 人が何う云ふ事で腰縄で来る様になつたのか聞かして呉れと云つて来た。私は実は弟子の 音松と云ふ男の寄留届がしてなかつたから此うなつたと話す天野さんは  私が丹波市の分署へ居るなら此んなことはしなかつたのに  御夕飯は食べたか?  イエ食べません  其れじや己が持つて来てやるからと云つて其の人が持つて来て呉れて夜の十二時頃御夕 飯を食べた其れから其の人が  食べたら其の侭にして置きなさい。私がとりに来るから と云つて後から取りに来た。  父は何処へ行つても受けの良い人であつた。  其れから私は教祖様が監獄から出ておいでになつたのをお髪をすかして戴いて一手に帰 らして戴いた。  所が一方丹波市の警察の方では何か落度を見附けて父を罪に陥れ様と思つて 「空風呂に薬を入れてないか」 と云つて調べて来た。 「入つて居ません」 と云ふと 「入つて居ないなら良い」 と云つて行つて了ふ。又四つ日目に尋ねに来て釜の中を見 「入つてなければ良い」 と云つて了つた。其れが教祖の帰つておいでになる晩である。  所が何うかしてお父つ様を罪に陥れやうと思つてゐるから行く時コツソリ薬を釜の中へ 投げ込んで行つた。其れを後から芦津の役員で善吉といふ人が見附けて 「何んでもこれは薬を入れたに違ゐない」 と云ふ。其れから大騒ぎになつて竃の火を引けと云ふので火を引かして釜を明けチアンと した所へ巡査と刑事が六人計り入つて来た。もうチアンと空風呂はしまつて了つたから向 ふでも当が外れた様の顔をしてキョロ/\見て 「愈々おみき婆さんも帰るから急がしいだらう」 と云つて出て行つた。彼れを彼の侭にして置けば薬が入つてゐると云つて難題云つて一本 やる所であつたが神様の御守護でチアンと了つて了つた後ですから的が外れた様子で帰つ て行つた。  其の後足達様が区長をしてゐたから私の父の身元を尋ねに来た。 「伊蔵さんは何処に非難を入れる所はない。天理さんのお婆さんに続く人だ」 と云つてお爺さんが私に聞かした。 「彼んな好い人あらしません。天理さんのお婆さんか貴女の所のお父つ様かつて云ふ人 だ。其やから十日もたつたら帰つて来ますで」 と云つて行きましたが其の通り十日計り経つて帰つて来ました。其の頃は警察が偉いこと で何時調べに来るか分りませんので夜もロク/\休まれませんでした。  其の中に明治二十年の大節が来て教祖様は身をお隠しになる様な偉いことになりました が其の前に神様から御神楽勤めをせ/\と云はれるけれども皆警察へ引かれるのが恐いか らしないでゐると神様からは 「勤めしてもかゝる。せいでもかゝる」 のと云はれるので勤めをしても勤めをしないでも警察へ引かれるなら勤めをしろと云ふの で(当時の人々は神様の言葉の意味を取り違ゐて居た。これは教祖昇天の時期の迫つたこ とを指されたのである)勤めにかゝつた。  其の頃は縞の着物を着て其の侭御勤めをしました。私共は襷掛けで台所に働いて居てお 勤めをせいと云はれると襷を外して袢天着て何時でも警察へ引かれる様にして勤めにかゝ りました。而して十二下り目の  大工の人衆も揃ひ来た と云ふ所まで来ると兵神の会長が教祖様が息をお引き取りになつたと云つて知らせに参り ました。其れが恰度昼の十二時頃で御座いました。  其の前に二十五日に一遍息をお引き取りになりましたのが一旦御吹き返しになりやつと 安心した所へ遂ひにお引き取りになりました。彼の頃のことを思ふとまるで夢の様です。   

 附記 永尾よしゑ様は御両親(御本席御夫婦)と共に早くよりお地場に御住み込みに なり当時の   事情に最も良く通じて居られる一人であります。此の度感謝と記憶とを 出すについて特にお話   を願ふ筈であつたが御一門に御産があり取り込んでおゐでに なり伺ふ暇がありませんので以前   からズーと聞かせて戴いて居た談話の一節を抜粋 して掲ぐることに致しました。文責は元より   記者にあります。此の文を此処に掲げ るについて一応述者並に読者に対してお断りを致して置   きます。(編者
 新真婦人の典型 大平隆平
 「新しい女」と云へば一時思想界の流行語であつた。けれども当時の新しい女と云ふの は西洋では三四十年前乃至五六十年前にイプセンだのシヨーだのズーダーマンだのと云ふ 人達に依つて書かれた所謂机上の新しい女を気取つて見たと云ふ迄で何等深刻なる自覚と 云ふものはなかつた。  イプセンでもシヨーでもズーダーマンでも成る程婦人問題の喧しかつた当時にあつては 面白い問題であつたに違ゐない。けれども人類の自覚の進歩した今日から見れば彼等の所 謂舞台上の技巧を除いて思想問題として見る時は誠に浅薄皮相なものたるを免かれない。 其の浅薄皮相な思想を思想上の教養の乏しい日本婦人が模倣するのだから其の気障さ加減 は見られたものではなかつた。勿論これも或る古い時代より或る新しい時代に到達する過 渡時代には必らず共に表はれて来る共通の現象であるから昨日の問題は昨日の問題として 更らに深奥なる婦人問題に就いて研究の歩を進めたいと思ふ。  凡そ如何なる問題に係らず真に公平に其の問題を解決せんと欲せば判者は須らく周囲の 輿論より超越して公平なる観察と偏らざる判断とに待たなければならない。殊に人生問題 の殆んど一半を領して居る婦人問題の如きに於て最も其うである。  イプセン、シヨー、ズーダーマンに依つて提出されたる婦人問題並に我が国の青踏一派 の婦人連中に依つて提出せられたる婦人問題は何れも近世の婦人問題として初期の婦人問 題に属す。彼等に真の婦人性とは如何なるものか? 又た真の意味の婦人生活とは如何な るものか? と云ふ様な最も緊要なる実際問題に対しては何等の自覚もなく唯今日迄造つ て来た女性に不利なる風俗習慣に対する反抗の声、破壊の声を挙げたに過ぎなかつた。  凡て一個の新しい家を建てんとせば古い家を破壊しなければならない。新時代の女性が 婦人にとつて不利なる風俗習慣を破壊して真に自由の天地を創造せんとする企ては元より 自然の要求である。けれども只管旧道徳旧習慣旧風俗の破壊にのみ熱中して真の婦人性と 真の婦人性に従つたる自然の生活の如何なるものなるかを忘れたる所謂「新しい女」達は 男女同権を唯一の信条として男が料理屋へ行けば料理屋へ行き、男が酒屋へ行けば酒屋に 行き、男が女郎屋へ行けば女郎屋へ行き、男がマントを纏へばマントを纏ふ。其れで自ら 新しいと思つてゐた。けれども男の食ふものを食ひ、男の衣る物を着、男の行く所に行つ たからとて其れは男性に対して詰らぬ反抗をして見るだけのことで其れが為めに真の婦人 性は聊かも進歩せず真の婦人生活は聊かも発達してゐないのである。否却つて此の自覚の ない反抗の為めに如何に深く婦人性は傷けられ如何に大きく婦人生活が害せられてゐるか 彼れ等は知らない。  殊に彼等にとつて最も憐れむべきことは世界は二つの同一物を要しないといふことに就 いて全然無知なることである。もし彼等の信ずるが如く男女が同一の生活をなし同一の事 業をなすべきものならば男女の区別は始めより必要がなかつたのである。其れを神が男女 に造つたのは  此う云ふことは彼等は信ぜぬかも知らぬが  男性には男性の天分があ り女性には女性の天分があるからである。此の男女両性の天分の区別を没却して全然男子 と同一生活を営まんとするが如きは最も憐れむべき幼稚の考である。  教祖は男女同権主義者  教祖は 「男も女も寸分違はぬ神の子供である」 と云ひ 「此の木いも雌松雄松の隔てなし如何なる木いも月日思はく」 と云ひ、明かに男女同権論者の最新先駆者であつたが然し彼女は一面に於て又た  女には女の道がある と云つて明かに男女両性の天分の差を認めて居る。 「女には女の道がある」 これは女性の生理的組織を見ても明かなることである。婦人は即ち男性と自ら異つた天分 と其の天分を生かすべき先天的義務があるのである。即ち妊娠、分娩、哺乳、育児の大任 である。これを婦人特独の天分として一切の微細なる仕事は婦人の天職に属するのであ る。  今日の所謂「新しい女」は此の婦人の天分を没却して居る。これ彼等の思想が聊かも徹 底して居ない所以である。  先づ愛を解決せよ  今日の婦人は男女両性間に利害の衝突があると直ぐ彼等の持前の武器である男女同権を 振り廻して自己の権利を主張したがる悪癖がある。  これは彼等が徒らに自分一身の利害観念のみ強く他人即ち夫もしくば子もしくば親に対 する利害観念の全然欠乏して居ることを証明するものである。云ひ換へれば利に敏くして 愛に疎きことを証明して居るのである。  けれども此処に注意しなければならぬことは両性間の愛と人間としての愛とを混同視せ ざらんことである。  普通夫婦の間に愛があるとか愛がないとか云ふことは恋愛を指すのであるが恋愛は決し て夫婦間の第一戯的愛ではない。夫婦間の第一義的愛は先づ人間として互に相愛すること である。性的の愛は寧ろ第二義的のものである。  例へば人形の家のノラである。彼女はイプセンに依つて新しい女の第一の雛型に使はれ て居るが彼女は元来其んな気の利いた女ではない。彼女の本来の性質は夫を愛することの 出来る女に造られてゐる。けれども彼女の家出が本当の自覚から出たものでない如く彼女 の愛も本当の自覚から出た愛ではなかつた。もし彼女が夫と子供に対して相対的の愛でな く真に絶対的の愛をもつてゐたならば彼女は決して夫と子供とを捨て得なかつたであら う。其れを敢て捨てたと云ふのは彼女も亦夫と同一の利己主義者であつたことを証明する ものである。  愛と欲  世間では自分を愛する者を愛することを愛だと云つて居る。けれども其れは利己的の愛 であつて真の愛と云ふものではない。誠の愛と云へば我を愛するものも我を憎む者も同一 の愛をもつて愛することを云ふのである。  更らに最一つの誤は真女なるが故に愛し善女なるが故に愛し美女なるが故に愛すると云 ふことである。これも本当の愛ではない。本当の愛と云ふものは偽なれば偽なる程悪なれ ば悪ある程醜なれば醜なる程愛するものである。これが超人の愛であり、神の愛である。  例へば此処に不品行の夫がありと仮定する。普通の女ならば直ちに嫉妬の炎を燃やすか もしくば直ちに離縁して他に理想の夫を求むるかゞ普通である。けれども真に絶対の愛を 自覚してゐる婦人のみは其うでない。彼女は夫が如何に自分に対して無情であつても其れ を聊かも怨とせざるのみならず却つて如何にせば夫をして真に幸福ならしむべきかについ て考慮するものである。これが真の愛である。夫が我を愛せざるが故に怒つて去るが如き はこれ全然利害観念より出たる欲の行為であつて真の誠心より出たる愛ではないのであ る。  嫉妬は利己心があるから  古来嫉妬は婦人の共通の欠点である計りでなく男子にも共通の欠点である。其れは男な るが故に嫉妬心弱く女なるが故に嫉妬心の強いと云ふものではない。利己心が深ければ深 い程嫉妬も亦深いものである。  凡て此等の婦人問題に対して真の解決を与へたものが天理教教祖中山ミキ子である。  若かきは若かきの雛型  教祖の言葉に「若きは若きの雛型になれ」と云ふ言葉があるが幼女時代の教祖はこれ幼 女の雛型、少女時代の教祖はこれ少女の雛型(模範少女)であつた。「泣かぬ子」「温和 しい子」「親の手数をかけぬ子」「真面目の子」「上品な子」「大人げな子」と云ふのが 彼女の幼少時代に持つてゐた特徴であつた。殊に「大人げた子」であつたと云ふことは彼 女の性格が早くより円熟の境に入つてゐたことを語るものである。  教祖には娘時代がない  彼女の伝記が世界一般の婦人の伝記と異つてゐる第一の点は彼女には所謂娘時代がなか つたといふことである。あつても其れが非常に短かつたといふことである。従つて娘時代 (処女時代)の教祖といふものについては殆んど云ふべき点がない。あつても少い。  彼女の少女時代には裁縫とか料理とか糸機の如きは家庭で何時習ふともなく習つた。又 た遊芸とては琴を嗜まれた様であるが今日の都会の上中流の家庭の令嬢達が結婚の資格の 様に思つてゐる茶の湯だの活花だの長唄だの舞踏だの絵画だのと其んなものはやられなか つた様である。即ち彼女が短かい少女時代に習得した婦人としての智識は今日のハイカラ の令嬢の兎角避けたがる実用的の技芸が多かつた。これは新時代の婦人として最も注目す べきことである。  けれども此処に一つ注意しなければならぬことは彼女が習得した技芸が多く実用的のも のであつたと云つても彼女の全体の特徴より云へば今日の実科女学校実践女学校等の如く 何んで実用的であれば良い何んでも実際的であれば良いと云つて無暗に手先きの修養を尊 重して頭の修養を怠ると云ふ側ではなかつた。彼女の一面には実際的の所がありながら他 の一方には非常に神秘的宗教的の特徴のあつたことは争ふべからざる事実である。これが 今日眼と手先きの技芸のみを重んじて頭と心の修養を閑却してゐる実科女学校式実践女学 校式と大いに異る点である。  即ち少女時代の彼女の性格を云へば一面に於て非常に現実的の所があると思へば他の一 面に於て非常に理想的の所があつた。趣味と実益、神秘と実際、これをつき交ぜたのが彼 女の性格であつた。  妻としての教祖  彼女は非常に若かいうち即ち婦人としては殆んど蕾の時代に人妻となつてから彼女に恋 愛があつたか何うかと云ふことは疑問であるが一体に彼女の性格より云へば彼女は今日の ハイカラの女の様に星だの菫花だの恋だのと云つて騒ぎ廻る方の性質ではなかつた。何ん な夫でも天の与ふる者は凡て満足すると云ふ信仰の深い婦人として作られてゐた様であ る。其証拠に彼女の長生涯に於て一度も恋愛に関する物語のあつたことを聞かないからで ある。  昔し或る高徳の女菩薩が或る男子を救済する為めに自分より徳の少ない其の男に嫁いだ と云ふことを聞いて居るが教祖は恰度其の女菩薩の様な人である。彼女は今日の若かい婦 人の求むる様な所謂理想の夫なるものを外に求めなかつた。彼女は何んな不肖の夫でも天 の与へる夫に満足し自分は自分として行くべき道を側目も振らず歩いた道である。これは 今日の青年男女がいや理想の夫人だとか理想の夫だとか云つて直接自分に都合の良い好き な男や女を求めて歩くのとは大分違つてゐる。彼女には夫は賢くても愚かでも美男でも醜 男でも善人でも悪人でも其んなことは構はなかつた。否寧ろ賢人よりも愚人美男よりも醜 夫善人よりも悪人を選んで之れを賢人とし美男にし善人にして行かうと云ふのが彼女の主 義であつた。これが今日の青年男女の考へてゐる愛と彼女の考へて居た愛との大いに異る 点である。  超人の愛! 神の愛!  今此の二種の愛を比較すれば自分の好きな男もしくば女を理想の男だの理想の女だのと 云つて居るのはこれは明かに自分の小なる利害を中心とした愛であつて真の愛と云ふもの ではない。真の愛と云ふものは美男であらうが醜夫であらうが善人であらうが悪人であら うが賢夫であらうが愚人であらうが凡て其等の差別を超越して唯其の人をして真の満足真 の幸福を得せしむるの外何物もないのである。即ち前者の愛は相対的の愛にして後者の愛 は絶対的の愛、前者の愛は利己的の愛にして後者の愛は利他的の愛、前者の愛は人間的の 愛にして後者の愛は超人の愛、神の愛である。  凡て自己の利害を中心とした愛  私は其れを商人の愛即ち欲と云ふ  と云ふものは 其れが自分に都合の良い間は一手に生活してゐるけれども其れが自分に都合の悪い時は直 ちに離反して去るのである。其れは欲と云ふもので愛と云ふものではない。利と云ふもの で誠と云ふものでない。誠の愛と云ふものは相手が敵にならうが味方にならうが其んなこ とは聊かも自己の問題ではない。自分は唯先方に対して如何にせば先方を幸福ならしめ得 べきかに就て考へるより外何物もないのである。  かくの如く此の方の愛は出発点に於て既に其の目的を異にしてゐる。即ち前者は如何に せば自分を満足せしむべきかに就て考へ後者は如何にせば他人を満足させ得べきかに就て 考へるからである。今日夫を愛するとか妻を愛するとか云ふのは多く前者の所謂自己の好 悪を中心とし利害を中心とした愛云はゞ利欲より出た愛であつて真の誠より出た愛ではな い。真の誠より出た愛は自分一身の利害を超越した愛である。  凡て自分一身の利害を中心とした愛(欲)は他の動静に依つて常に変化するものであ る。即ち自分にとつて有利なる間は先方を愛し、自分にとつて不利なる時は直ちに捨てゝ 去る。従つて其の愛には一定不変と云ふ要素が全然欠けて居る。けれども自己の利害を超 越した愛は決して変ることはない。何故なれば彼は始めより自分の利害を捨てゝ他人の利 害を中心として生活するが故に先方がたとひ自分に辛く当らうが親切に当らうが聊かも此 方の愛には関係がないからである。此の時と所と人とに依つて愛を異にしない平等不偏の 愛を称して誠の愛と云ふ。教祖は即ち前者の所謂自分一身の利害に依つて自分の精神や態 度を豹変する世界並の利己主義者でなく始めより自己を空うして他人の幸福の為めに生活 する真の意味の愛である。  夫善兵衛と下女かのとの不正の関係に対する教祖の態度  もし教祖が夫に対して世間一般の相対的愛が持つて居ない婦人であつたら夫善兵衛と下 女かのとの不正の関係があつた時必らずや離縁を要求するか何か一悶着起したに相違な い。然るに其うはせず却つて益々二人を大切にした見上げた態度は其うでなくてさへ夫が 不品行をしはしなかつたか夫が他の女と不正の関係を結びはしないかと常に嫉妬と疑惑と の眼をもつて夫の行為を監視して居る様なさもしい慮見の女の全然解することの出来ない 態度である。  此の時の教祖の態度は怨に報ゆるに徳をもつてすと云ふ様な意気づくの様な態度でなく 全然愛はあつても怨はなかつたのである。其の証拠には夫がかのを伴れて何処へ行くと云 へばこれに自分の晴衣を貸して着せて出し尚ほ其の上自分が毒殺に逢ひながら我が身を怨 んで人を怨まなかつたのに徴して明かである。此の見上げた精神見上げた態度を罪もない 夫に無実の罪をきせて世間の前に赤恥を掻かせ其の上に出るの引くのと云つて我と我が心 に疑心暗鬼を作つて騒ぎ廻つて居る其辺等近所の嫉妬狂に見せたいものである。  凡て嫉妬と云ふものは女性特有の悪徳の様に称せられて来たがこれは独女性にのみ限つ た悪徳ではない。男子にも同様に此の厭ふべき悪徳があるのである。といふのは彼等に人 を愛すると云ふ精神がなく唯一身の利害をのみ考へるからである。其う云ふ我利/\亡者 には教祖の爪の垢でも煎じて呑ませたいものである。  母としての教祖  凡そ婦人性の中最も発達したものは母性である。婦人は此の円満なる母性の修養によつ て完全の域に達するのである。教祖は即ち此の母性の最も発達した婦人であつた。  普通の婦人にあつては母性は子をもつてから余程経つた後でなければ表はれないのであ るが教祖の母性は決して子供をもつて後始めて表はれたものではなかつた。随分子供の時 から早く表はれたものであつた。即ち他の子供と遊ぶにも彼等を決して自分の遊び友達と して遇するのでなく恰度母親が子供を遊ばせる様な精神なり態度なりで彼等に接した。其 れであるから近所の母親達が野良仕事で忙しい時などは良く彼女に頼んで仕事に出たもの である。彼女は其の預つた子供に玩具を差し換へ引き換へて一日愉快に遊ばさせて母親の 帰るを待つて送り届ける事も珍らしくなかつたといふことである。  此の母性は年と共に発達して遂に晩年には一男五女の母としてゞなく万人の母として其 の先天性を発揮する様になつた。  愛は教祖の生命  之れを要するに教祖九十年の生涯は人間として決して短かいものではなかつた。其の長 生涯の間彼女は人の娘として、人の妻として、人の母として、婦人の通るべき凡ゆる道を 通つた。けれども晩年万人の母として通つた五十年の間の生活貴い意味深い生活はなかつ た。  古来救世主と称し予言者と称せられた人達の説いた愛は皆これ自己の利害を離れた絶対 の愛である。けれども実際に於て釈迦の感じた人類に対する愛と基督の感じた人類に対す る愛とミキ子の感じた人類に対する愛とは其の感じ方が一様ではなかつた。釈迦の感じた 人類に対する愛は人類の父としての愛である。基督の感じた人類に対する愛は人類の兄と しての愛である。ミキ子の感じた人類に対する愛は人類の母としての愛であつた。  更らに之れに対して一言の説明を加ふれば彼女が人類に対して感じた愛は天地が万物を 生み且つ育てると同一の至情に充ちた愛であつた。  愛は此の世の無上の権威  今日の天理教徒は教祖の精神を忘却して愛をもつて人に臨まずして権威をもつて人に臨 まんとする悪風がある。此の悪風は教界内部に於て殊に甚しい。  けれども真の権威は浅果敢な人間心の造つた傲慢や尊大より生れるものではない。唯愛 のみぞ真の権威である。  見よ打たれても叩かれても母の跡を慕ふて走る人の子を。  凡て権威をもつて臨む者には我も亦権威をもつて反抗せんとするのが自然の人情であ る。けれども愛のみは之れに敵する害意を挟む余地がない。其の最も良き実例は猛獣であ る。彼等に対するに武器をもつて感服せしめんとせば彼等怒つて必らず我を害すべし。け れども何等害意なき真の愛をもつて臨めば彼等は来つて必らず我が足の指を嘗むるであら う。これが愛の権威である。而かも此の世界に於て体力が大である智力が大であると云つ ても愛の力に如くものはない。かくの如くにして愛は此の地上に於ける無上の権威であ る。  愛なき所に貞操なし  旧道徳の牢獄の中に育てられたる今日の上中流社会の婦人の大部分は貞操とは生理的に 二人の男子に接しないことであると云ふ風に解して居る。成る程生理的に二人の男子に接 しないと云ふことは愛を二つにしないと云ふことにはなる。けれども其れ丈けで貞操の定 義は全うされたものではない。真の貞操には必らず真の愛を伴はなければならないもので ある。而かも其の愛たるや今日の青年男女の考へて居る恋愛ではない。吾が一生の幸福を 挙げて其の人の幸福の為めに捧げるの謂である。この献身的愛なきものは決して真の貞操 を有することはできない。何故なれば今日の所謂新人達に依つて唱へられつゝある所の愛 即ち異性に対する興味のある中は同棲し其の興味が去れば離別すると云ふ様な生活はこれ は動物と何等異る所なき野獣的性欲生活であつて真の意味の愛ではないからである。真の 意味の愛とは何処迄も自分一身の幸福を其の人の為めに捧げ且つ其の人より何等の要求を もなさゞにある。これが真の愛であり、真の貞操である。  けれども今日の人間は皆狡猾で利己的であるから誰も自分にとつて不利なる生活を続け て行かうとはしない。彼の上流社会の婦人が多少の不満を忍んで尚ほ且つ貞操の美名の下 に良妻賢母を粧ふて居るのは其の心の底を洗へば卑怯なる自己保存の為めである。  けれども将来の婦人は其う云ふ形式に囚れたる偽善生活を捨てゝ真の意味の貞操、貞操 は即ち愛なりと云ふことを自覚しなければならない。此の自覚に到達しないうちは此の世 界に於て決して理想の家庭幸福の家庭を実現することはできない。現に今日上中下流を通 ずる一般家庭の不和合は其の家庭の各員に真に他人の為めに我が一心を捧ぐると云ふ真実 の愛が欠けてゐる為めである。もし其れと全然反対に夫婦兄弟親子が真に自分を捨てゝ家 庭の幸福を計つたならば其の家に決して春の来ない筈はない。これは自明の問題である。 此の愛の問題の解決せられざるうちは決して真の意味の婦人問題は解決せらるゝことはで きない。  先づ権利を要求する前に義務を尽せ  かく云へばとて私は決して現在の婦人が幸福なる地位にあるとは思はない。けれども婦 人参政権運動や婦人解放運動に依つて真に婦人の地位が向上され得べしと信ずるのは余り に早計に失して居る。現代の婦人は其う云ふ形式上に於て婦人の地位を高むる以上更らに 実質上に於て婦人の地位を向上せしむることを計らなければならない。之れを云ひ換へれ ば先づ権利を主張する前に先づ義務を尽さなければならない。何故なれば婦人がたとい一 時の運動に依つて法律上男子と同等の権利を獲得しても婦人其の者の品性婦人其の者の生 活が改良せられなかつたならば彼等は前にも増して不幸な生活を味はなければならないか らである。  婦人の解放は過去の問題である  之れを要するに婦人の解放と云ふことは既に過去の問題である。将来の婦人問題は  婦人性の発揮 にある。 欧羅巴に於ける五六十年前に生れた新しい女今日の日本に生れた新しい女其う云ふ人達に よつて行はれもしくは行はれつゝある反性的生活は決して永続すべきものではない。時代 の発達はやがて自然の婦人性に帰れと男子側より新たなる要求を呈出せらるゝ時期が到来 するであらう。何故なれば今日の所謂「新しい女」と云ふ変態女性に依つて真に円満なる 人間生活は行はれないからである。  今日の婦人は余りに利己的なり  凡そ一家でも一国でも利己的の人間が多いければ多い程其の家其の国は衰亡するのであ る。これは現在の支那に徴して明かである。  今日の婦人は余りに利己的である。彼等の眼中には自分一身の幸福を得れば夫や兄弟や 両親や子供の幸福等何うでも良いのである。而して其う云ふ事に一身を捧げて居る婦人を 無価値の女の様に思つてゐる。けれども此う云ふ婦人が全世界に跋扈した暁には此の世界 は治まり様はない。  新時代の理想の婦人  従つて来るべき新時代の要求する新しい女は今日の所謂古い女でもなければ今日の所謂 新しい女でもない。新時代の教育を受けたる愛の婦人これぞ未来の世界の要求する理想の 婦人である。  新は深なり真なり  之れを要するに新は深なり真なり。此の最後の二要素を欠いたものは奇であるかも知ら ないが真の意味の新しさではない。真の意味での新しいと云ふことには必らず古き物もし くば人よりもより以上の深さとより以上の真実さとをもつてゐなければならない。今日の 所謂「新しい女」の仕事は唯旧い型を破壊したと云ふ丈けである。其れ以上に何等婦人と して積極的の深と真とがないのである。これ吾人が彼等の思想並に生活に対して全然同感 し得ざる所以である。  新真婦人の典型  世間では天理教祖は愚夫愚婦を迷はした魔女か妖婆かの様に信じてゐる。更らに之れを 今日の所謂「新しい女」に見せたならば全然自覚を欠いた旧式の女と見るであらう。けれ ども「新しい女」と云ふものは何も妻たることを拒み母たることを拒むことではない。も し其ういふ女が新しい女ならば此の世界には全然新しい女は不必要である。又た「新しい 女」と云ふものは何も夫を捨て子を捨て親兄弟を捨てゝ迄自分一身の欲望を満足する女の ことではない。もし其う云ふものが新しい女ならば此の世界には全然新しい女は不必要で ある。真の意味の新しい女は婦人性の真の自覚を有すべきことは云ふ迄もないが更らに其 れ以上に公人としては父母兄弟夫子を捨つることをも敢て辞せない真正の勇気と私人とし ては一身を犠牲にして父母兄弟夫子に仕へる自由の愛と此の二つを具へた独立した人格の 婦人でなければならない。此う云ふ意味に於て真の意味に於て婦人の天分を自覚した新真 婦人の典型であつた。  近き将来に於て婦人の自覚が最つと進んで来た暁には創世の始めより神が女の雛型人間 の苗代と定めた此の人類の原母伊邪那美命の人格と生活とに真の意味の人間生活真の意味 の婦人生活の意義及び価値を発見するであらう。其の時こそ此の世界に真の理想の男女の 充満する時である。私は其の時の到来を待つて居る。(紀元十億七十七年一月九日)  私は百姓をしてゐました                         宮森与三郎  宮森氏は元岡田と称して居た。早くより本部に入つて農事を担当する傍布教に従事し た。平野楢蔵氏の媒介に依つて宮森家を継ぐ様になつたのであるが其れには氏の夫人が最 も進んでゐたらしい。宮森家入籍の事を神様に願ふと  今三年は外へ出せない と云ふことであつた。其の事を氏の未来の夫人に通ずると  本部に勤めてゐる人を貰ふなら三年が四年でも良い と云ふことであつた。 本部員に引き挙げられる人は何れ何等かの功がなければ引き挙げられないのであるが  長々御苦労であつた と神様からお礼を云はれたのは氏一人である。  氏は性率直にして詐も追従も飾り気もない人である。世間では氏の辞令に巧みでないと 云ふ点をつかまへて彼之れ云ふが其れは真人と云ふものを知らない俗人の嫉みである。  凡て俗人の常として口先きや手先きの動くのを以つて偉いと信じてゐる。けれども神の 見る眼は全く違ふ。神の見て以つて偉大なりとなすものは口云ふこと能はず手行ふこと能 はざるが如き素朴の人間である。  此の点に於て現在の本部員中最も多分に宗教的素質をもつた一人である。私は氏の淡々 として水の如き性格を愛する。                                    (R O  生)  私の信仰しかけたのは明治八年頃でありますが本部へ寄せて戴く様になりましたのは十 年から此方でした。其の時分には本部の屋敷と云つて六畝か七畝位の所で此の辺は百姓計 りで何もありませんでした。  内の親爺は早くから信仰して居ましたが其の頃は或は狐つきだとか或は狸つきだとか悪 口を云はれてゐる頃ではありますし私も子供の事ですから、信心せい参拝せいと云はれて も参らないで居りました。  内の親爺の信心して居ります頃は唯産屋助けて下さる産屋神様だと云ふ風に聞いて居り ました。自分の兄弟には姉もありますし妹もありますが大抵此処で産屋許しを願ひ外では 助からぬ様に思つて居りました。  私の兄は只今城法の分教会をやつて居りますが兄貴とか姉とかは私より早かつたので す。私は兄貴から十柱の神の御守護だとか八つ埃だとか云ふお話を聞いて居りましたが世 界から色々の話を聞いて居りますから信心する気になりませんでした。  其うしてゐる中に私は身上になり左の肱が何うしても直らんから彼方の医者にかゝつた り此方の医者にかゝつたりしてもいかんからとう/\此の神様を信心する気になり道の四 五十町さへない所だから参つては直ぐ帰るといふ風に致して居りました。  其の頃はお地場に空風呂がありましたから空風呂に入れて貰つたり世話をして居ます内 に段々心易くなり二三日遊ばせて戴く様になり良くなると内に帰つて仕事をするのですが 内へ行くと身体が良くないから此方へ来るといふ具合で自然と此方へ寄せて戴く様になり ました。  其の頃神様から余計心のすんだ神の人衆が欲しいと云ふことを聞かせられました。  其う云ふ訳で段々此方へ来て空風呂の薪を割つたり、其んな世話をさせて戴いて居りま したが其のうちに空風呂もなくなりました。  其の頃中山家も段々楽になり十年の年切質に入れて置いた田地が帰つて来たから私は百 姓の方を引受けてやらせて戴いて居ました。  然し其の頃は未だ認可がありませんので上から矢ケ間敷くて教祖様も度々警察や監獄へ 御苦労下されたが多分教祖様が奈良監獄へ御いでになつた時分だと思ひますが其の時分か ら代り番にやらせて戴いて居りました。  其れからスツカリ参詣人は止められて了つたので豊田のサユミさんは来ることが出来な くなりました。  辻さんは昼百姓をして夜分参詣に来ましたが中田さんは其の方一方で ありました  私共も矢ケ間敷いもんですから寄留をさして貰つて百姓をして居りました ので楽で御座んした。  教祖様が一番終ひに警察へ行かれたのは櫟本へ行かれたのが一番終ひでした。私共も其 処にゐたもの六七人も呼ばれましたが(管長様も御いでになりました)後の者は皆其の晩 帰りましたけれども教祖さんと桝井伊三郎さんが残されました。其れが拘留の納でした。  其れから彼れは何年で御座いましたか旱魃の時で御座んしたが村方より雨乞ひに頼みに 来ましたが管長様は断つた。村からは苦情があれば後は引き受けるからやつてくれと云 ふ。神様は雨乞ひせいとお急き込みになる。管長はいかんと云ふ。其れでも結局村の者の 頼み通りに雨乞いすることになり、村の東の方の氏神様(春日神社)で雨乞いをして二回 目に辰巳の牛剥ぎ場でやりました。宮様へ来た時は暑くて困つたが其れから牛剥ぎ場に行 きました時は東の山に雲がありました。其れが段々大きくなつて郡山の詰所へ近くに行つ た時は其れが頭の上一杯に拡がつて来幸田様と云ふ神社の前に来た時は偉い雨で頭の上が 痛い様の雨が降つて来ました。其の時外処では雷様が落ちて柱がさけたと云ふことでし た。其れから豊田の方へ行き御墓地の下でお勤めをした時は雨が上つて居りました。其れ から再び宮様へ帰りました時は前には埃が立つて居たのが此度は水が溜つて居りました。  其の頃は甘露台は外にありましたが其処で御礼勤めをしてゐた時警察で三人計り来まし て皆んな引つ張つて行かれました。教祖様も引つ張つて行かれました。  其の時村の者は水掛け行つて側から行つた人丈け残つて居りましたから攫まへられて始 めの者が三十銭の罰金二度目のものが五十銭の罰金でしたがな何んでも前に一遍引かれた 事のあるものは罪が重かつた様です。其の時は教祖様も罰金ですみました。  其の時差渡し三寸の十二の菊の紋を戴いたものは神の人衆を仰りましたが其れを今の夫 人様から貰ひ神の人衆と云ふことになりお勤めに出さして戴く様になりました。私も其の 赤い菊の紋を戴いてお勤めに出さして戴いたが中には御紋を戴いても返しに来た人もあり ました。  其の時の年限は忘れましたが何んでも黒い着物の上に其の紋をつけてお勤めに行きまし たら雨に降られシツクリ濡れて了つたから警察へ行つて着換へたら紋まで取られて了ひま した。  其の頃お神楽は男の神様は男女の神様は女が勤めることになつてゐましたが男でも女の 神様になる時には女の帯を締めて女の形をするのです。私は其の時大食天命になり女の帯 を借りて女子の面を冠つて勤めて居ると巡査が来て 「此の奴は男の癖に女の姿をしてやがる。太い奴だ」 と云つて数珠継ぎに継いで引つ張つて行かれお面だの御神楽道具だのを取られて了ひまし た。其れが櫟本へ行かつしやる前でした。其の時サユミさん忠作さん豆腐屋のおかゆさ ん、嘉市の権十郎さんも行きました。  私がお道につかして戴きました頃は東の方の今の手水鉢のある辺に門がありました。其 れが表門で御座いました。門を入ると西側に窓がありますが彼処の窓際にお居でなされ た。今は其の窓は形が変つてゐますが其の頃は突き上げで御座いました。其の窓際に幅三 尺丈け七尺位の台の上に上つてお居でになりました。台の高さは私の腰の辺まで御座いま した。最初は下の方にお居でになつたが下の方は身体が苦るしくてならんと云ふので台を 拵へて其の上にお居でになりました。其の下は十畳の間で一寸床の間がついて居りました が先生だとか御家内だとかは其処へお居でになりました。  御本席の時分には刻限と云ふて願はんでも御指図になる事もありましたけれども大抵此 方から願つてお指図を戴くのですが其の頃は教会も何もありやせんので事情願もありやせ んですし又た此方のついて居るものも幼稚なものですから聞かして貰ふ丈けで大抵お尋ね するといふ事はありませんでした。  其の次は「説き流し」と云ふて歌見た様にヅーとお云ひなされます。本席のとコロツと 違ゐます。戦争の起ること等も折々説き流しでお云ひなさつたこともあります。  お話は一体夜分に多う御座いました。夏なぞにはサアお話しと云ふと裸体の侭で飛んで 出ると云ふ風でした。其の時分に御筆先だとか色々なものをお書きになりましたが御筆先 も一遍に彼れ丈けのものが出来たのでありません。何遍も出ました。私共が行くと此んな ものを書きましたと出されることもありました。教祖様に筆もて/\と神様が云はれる。 教祖様が筆もつと一人手に書かれて行きます。墨すつて其処へ置くと一人手に書かれて行 きます。其れを纏めたものが御筆先です。門の所へお居でになりました時も筆先を仰山に お書きになりました。  私共は百姓の方を引き受けて居りましたから夜分等教祖の所へ遊びに行きますと楽しみ な話をお聞かせ下されました。道の働きについても 「人の事と思へば皆んな人の事になる。我が事と思へば皆んな我が事になるのやで」 と度々お聞かせになりました。  其の頃は百姓の間にお助けにも出さして戴いてゐたが忙しい時などは百姓の方も放つて 置けず又た来て呉れと云ふ所に行かん訳にならんから困り教祖様に伺ふと 「百姓の方計りしてゐるのではない来て呉れと云ふ所があつたら行つてやれ」 と云はれる様になり百姓専務と云ふことは出来ず、自然道一筋に働かにやならんと云ふ様 になりました。  其の頃の百姓と云つても勤めもチヨコ/\あるし其う百姓一方と云ふことは出来ません でした。其れに教祖様は 「一日朝から晩までノベツに働くのではない。半日働いたら半日陽気遊びをする様になる から」 と仰せられました。  今日は日の寄進をする人は沢山ありますが其の時分は私と中山重吉さんと二人で百姓一 方にやつてゐました。彼の人はお助けに行かれませんでしたが夏の忙しい時になると愚 図々々してゐられませんでした。米等も夏の忙しい時は昼間ついてゐられませんから夜の 明ける頃二臼もついたこともあります。  教祖様は 「其う朝から晩迄働くでないから招待のある所へ行つてやれ」 と仰せになるので百姓の方は自然出来なくなりました。  明治十六年に遠州へ来て呉れと云ふので行きましたが其の日私と高井さんと門屋で米つ きをしてゐました(門を入つた所へ席嚢を据へて)が  遠州へ行つて来うか? と云ふことになり  行かう と云ふことになり早速相談が極つた。其うなると其れをつき終る迄辛抱し切れないで其の 侭にしてお磁場を立つて河内の榛原に寄り夜通しで大阪迄行きました。大阪では井筒さん が綿屋をしたり真明組の講元をしたりしてゐるから其処へ寄つて誘つて行く心算であつた が未だ夜が明けませんから川の側で蜆を捕つてる所で夜を明かし其れから本田の井筒さん を叩き起こしました。其の前に井筒さんに十二下りの手をつけて心易くなつて居るから遠 州へ行かうと云ふと行くと云ふ。其れから最う一人橘善吉と云つて魚屋をしてる周旋方を 誘つて四人連れで莞莚蓑に菅笠で東海道を草津に廻り六七日目に遠州へ行きました。其の 頃諸井さんは其の頃広岡村と云ふ所に居られました。袋井より二十町程入つた時宿屋へ泊 り井筒様が十二下りの手が皆んなついてないから稽古をしてゐましたら宿のお客様さんが 賽銭を上げてくれたことがあります。  諸井さんの内には一月程居りましたが其の間に講社が九千何戸つて出来ました。帰りに 汽車がありませんから伊勢の四日市から伊賀の上野へ出て上野から島ケ原を通つて帰りま した。これも六日程かゝつた様に思ひます。  教祖お崩れの頃は此方へ居りましたが 「勤をせい」 と云ふことを頻りに云はれる。其の頃お勤をせいと言はれると警察が出て来ることが定つ て居りました。内の先生方は其んなことをすれば矢ケ間敷いからと云つて止めてあるし、 しなければ助からんのでお勤めに出ました。其の時高井さんも居りました。古い人が居り ました。お勤めをすれば拘留せられにやならんと云ふので足袋を二足位はいて何時引かれ ても構はんと云つてお勤めをしてしまふと教祖様の息をお引き取りになるのが一手でし た。  其の前に御伺ひしましたら(其の頃は扇をもつてゐて御伺ひしなされたが始めのうちは 扇が渦巻いて居るが終ひにピタリと膝についた時お願するのである) 「扉を開いて世界を直路に踏み平らさうか? 扉を閉ぢて世界を直路に踏み平らさうか? 」 と云ふお言葉があつた。其の頃は余り門を閉ぢたりなんぞすることが多いから 「扉を開いて世界を直路に踏み平らせて戴きたい」 と願ひましたが後で考へて見ると教祖のお崩れを願つて居たのでした。其の時御本席のも つてゐた扇がピユーツと開きました。  其れから医者にかゝつて居ませんし何うも仕様がないから苣原の勝治さんといふ薮医者 を頼みに参りました。此の勝治つて医者は薬三服呑んで利かぬ時は天輪さんを頼めと云は れた位信心して居ましたが私が頼みに行きましたら寒い時ですが来て呉れました。其の時 は本部の西側の煮売屋迄勝治と云ふ医者を連れて来り其処で一服させつはつて帰りました が診断書等は彼の人が書いて呉れました。  教祖お崩れより葬式迄は四五日も間がありました。葬式の時は私と山澤さんと倉掛りを して居りましたからよう見送りませんでしたが何んでも偉いことでした。沿道は両側田ま で道の様にして了ひました。(其の頃は信徒が大和地方から河内近辺にヅーとありまし た。)  教祖お崩れになつた時分は皆ガツカリしてゐました。世界でも天理教はお終ひの様に思 つて居りましたが彼れからヅーと道が拡まりました。  教祖一年祭の時なぞも中々の人でしたが警察からスツカリ差し止められて参拝人は彼地 へ追はれ此地へ追はれたりして参拝することが出来ないで帰りましたが装束を着けてゐた ものは帳面につけられました。  教祖御存命中は何うしても教会の御許しがなかつたのです。其れは真柱の年が行かん故 かも知れませんが教祖お崩れになつて一年祭がすんでから世界の子供が可哀相だから許る す。許るす限りは往還道で怪我をすな。細道には怪我はないと云つてお許るしになつた。 其の頃は此方で願はうと思つても矢ケ間敷いから東京でお願ひして認可を得今の東大教会 のある所へ教会を設置してそれから此方へ引いて来ました。  これより先きお地場で空風呂が出来なくなつてから一時金剛山の慈福寺を出張所として 願つたことがあります。其の頃は護摩をたいたり天輪如来の掛地をかけたりして内の先生 (今の夫人様の親)が上から矢ケ間しいと云ふので参拝しても差支へない様にお願したが 神様が出て 「其んな所へ頼みに行つたら神が退く」 と立腹なされたことがあります。其れから開講式に護摩をたくのが護摩札は吉野で書くの で先生が頼みに行くのに誰も随いて行く者がない。私は頼みに行くのではないからマサカ 神様が退きなさる様なこともあるまいと思つて私お伴をさせて戴きますと云つて吉野へ行 きました。先生は足が悪いから道の悪い所は車に乗り好い所は歩かれるのですがサテ越峠 を越える時は矢立も何も私が持ちました。芋越から吉野の川上へ出て渡しを渡つて吉野の 宿へ行き護摩札を頼み其処で一晩泊り翌くる日金剛山の慈福寺に行つて護摩をたく日を極 めて大豆越まで帰りました。先生は足が悪いから其処で泊り私は帰つて来て内で寝まし た。其の定めた日には坊主が来て護摩をたいて説教する。其の時は大分賑かでした。其れ を暫時やつて居りましたが其の後に警察が来まして神仏混合してはいかんと云つて取り払 つて了つた。其の時神様が出なはりまして 「神は願ふのやないと云ふても聞かないから警察怨むやない。神が取り払ひに出したの や」 と云はれた。其の頃掛図はかけて居つたがお願ひする時は二十一遍のお勤めをして居りま した。  其の前に大神楽の鑑札を受けたこともありました。教祖様はお願しても御許しがない し、世界からは非難せられるし何んとかして表向きにして参拝させたいと思つて色々のこ とをしました。  教祖の食事は別になさつてゐました。側にゐて御飯を食べてゐると 「食べなさるか?」 と云つて箸につけて出される 「汚な御座んすか?」 「イエ結構で御座います」 と云つて戴いたこともあります。  年老つても中々達者なもので御座んした。カラサホで麦等かつてゐますとやつて来られ て 「私も少し手伝ませうか?」 と云つて手伝なされたこともあります。  力競べをしますと大概負けます。お互ひに手頚と手頚と握つて力の入れ競をしますと教 祖様が力を入れて来ると此方の手が離れて了ひます。又たよく小指と人指し指とで手の甲 の皮を上げなされた。又た後で合掌に組んでお見せになつたこともあります。  教祖の右の親指が少し歪んでゐましたが其れは奈良の監獄へ行きました時親指二本括つ て釣り上げられたクツクと云つて曲つたと云つてゐられたが其んな目に逢はれたこともあ りました。  教祖は至つて謙遜の方で空風呂に入る時自分がお入りになり人の前を通る時も御免なさ い/\と云つて手を下げてお通りになりました。  子守唄に  庄屋敷小在所西から見れば足達金持ち、善右衞門さん地持ち と云つてる通り此の村でも田地田畑は一番余計持つて御座つた。其れを神様の御命令で 「埋せ込み場所迄立てゝ入れ」 と云はれた迄落ち切られた。埋せ込みになつたと云ふことを聞いて居りますが実際埋せ込 み場所に入られたか何うか訳りませんが兎に角これ以上に落ち切ることは出来ないと云ふ 所迄落ち切つた時神様が 「内は立派なもので寄り附き憎い。これで充分だから此屋敷を一夜の中にも元の通りにし て返へす」 と云はれたが其れから十年の後に元の通り返へりました。(了)  男で御座んす                    深谷 源次郎  私が此の道についたのは明治十四年で御座います。其の頃私は京都の三条下り大極町に 居りました。富川久吉と云ふ鋳物師が居ました。其の人が町内に御千度をした。其の時富 川の云ふには 「深谷さん今日は私の云ふ事を聞いてくれ」 「何んだ?」 「マアお茶屋に行かう。お茶屋に行かなければ話が出来ないから」 と其処で二人は退けた。 「貴方は信仰家であるから云ふが大和にはおみき様と云ふ神様があるが信心しては何う だ?」 「オウ人間が神様妙だな/\。お前様其れに誑されてゐるのだぜ。人間が神様と云ふ事は ない。」 「マア/\誑されても何んでも結構な事と思つて信心してるから明誠社へ来て呉れ」 と云ふから其の頃富路小路にあつた明誠社へ行つた。其処の講元と云ふのは京都の西陣の 陶器の元祖奥六兵衞といふ人である。此の人が極道して親に勘当せられ此の道を聞いて説 教するのだ。其の人の云ふには 「此の神様は元此の世界を造り無い人間を始め下された親神様である。天には月様、世界 ではな湿い のご守護。重足命様は火一切のご守護。此の柱二の神が世界一列をつくり下された神様 だ。其うだろうな。日がなかつたら生きて居られまいがな。これも子供可愛さに一日も休 まずに働いておゐでなさる。二十人も講社があるが殖さうと思つてやつてゐる。  月日があればこそ此の世界も人間もある。世界では月日様と云ふものは当り前だと云ふ てゐるであろう。  世界は元泥海であつた。人間と云ふものはなかつた。其の時月様が子供をよう清めて拵 へ様ぢやないか。其ら其うや子供拵らへたらば楽しみでよからうと其処で泥海中をお立ち 上りになつたから国床立命と云ふのやぜ。  然し人間を拵らへるに就ては皮継ぎ息吹き分け大便小便のご守護又た種苗代がなくては ならぬ。其処で其れ等の道具を見出す為めに七度浮きつ沈みつなされた。其れで浮き沈み と云ふやろうがな。  其処で人間の親になつたのは伊邪那岐様此の神様は男雛型種とおなりなされ伊邪那美様 は女雛形苗代とおなりなされた。其れから国狭土命皮継ぎ其れから骨のご守護月読命様其 れから物を食べても肉になると大便小便出分け其の人は雲読命様と云ふ。其れから又息吹 き分けのご守護は惶根命様。其れから粉成すものがなくてはならぬ。即ち歯がなくてはな らぬ。其れは大食天命様。其れから人間の食物蔬菜一切のご守護其れが大戸辺命様。  大食天命様と云ふのは人間の子供が出来た時肉縁を切つて下さる神様。其れから大戸辺 命様は引き出して下さる神様。世界は木の芽から種一切引き出しのご守護の神様。其れか ら今申した通り伊邪那岐様は男雛型種となりかり伊邪那美様は女雛型苗代となり其処で十 柱をもつて天理王命と証し奉つた。  其れから人間の魂と云ふものがある。之は三寸の鰌これを魂として伊邪那岐様に仕込み 夫婦となり種を下ろす所から極楽浄土と云ふ。けれども元は土浄だ。此の世に来るから浄 土である。死んだら土浄だ。又た人間の心のことを胸三寸の魂と云ふであろう。これは 元々三寸の鰌から出てきたから胸三寸と云ふのである。  其れから伊邪那岐伊邪那美命様が夫婦になつて宿しこみ人間五分から成長して五尺の人 間と成る迄には九億九万年かゝつた。即ち九十九年づゝかゝつてゐる。其の時は天の親様 が息を吹きかけてお育てになつた。其れで今でも親の息がかゝつてゐなかつたら何処で行 くか行つて見ろと云ふやろ。  此処まで世界一列何もかも出来る様になつたのは神様が人間に入り込んで此処まで漸々 出来たからだ。其れを知らないからほしい、をしい、かはゆい、にくい、うらみ、はらだ ち、よく、こうまんの出て病となる。  八つの埃には裏と表とあつてほしいと思ふのは働いて丹精して求めたら当たり前だ。そ れが価もなくてあれほしいこれ欲しいと云ふから埃となる。又た金がなくて物を借りるか ら掛取りに責められる。凡て米蒔けば米麦蒔けば麦が生えるのが天理である。米蒔いて麦 が出たら詐や。  一列は兄弟や。其れを他人と云ふてゐるやろ。其れだから人を倒す様になる。然し何ん な種でも其の日蒔いて其の日生えない。段々と其の理が廻って子供が悪かつたり我が家が 倒れて来る様になる。其れが可哀愁相だと思召して此の数をお説きくだされたのである。  先祖から伝つて来たものや親の拵へて呉れたものを大切に始末するのは良い。けれども 物を出し惜しみ骨惜しみするのは天理に叶はん。  凡て吾が心からしたものだから此の世に来て何時迄も苦しみ働いて何時でも銭が足らな い。これをよう思案して見い。  可愛と云ふも其の通り人間は身贔負身勝手する。一列可愛いと云ふは良い。極道や馬鹿 やと云ふ隔て心するから隔てられる日が来る。彼んな水くさい人と云つて隔てられる日が 来る。マア此う云ふものだ。  其れから又た憎いと云ふは罪を憎んで人を憎まぬのは良い。  怨みと云ふたら我が行き届かぬ所を怨んで通れば良いが同じ侍なら同役を怨むから埃で ある。  又た腹立と云ふのも其の通り道理から腹を立てゝ来たら尤もだ。私もすまなかつたと云 つて笑ですむ。これが天理に叶ふ。向ふも得心するやろ。其れを名々聞き分けせずに勝手 の事に腹を立てゝ居る。これは埃になる。其うやらうがな。  又た欲と云ふのも其の通り家業を正直に働くのは結構であるが其れを商売しても欲のこ と計りしてゐる。其れ貪欲強欲色情これは大埃だ。  高慢は国の為め人の為めになるのなら高慢にはならない。其れを知つたか振りして眼下 に見下すから埃となる。  此の八つの埃を良い方に取れば良いが悪い方にとるから病となつて来る。此の八つの埃 をよく聞き分け。  其れから館は神の貸物借物である。これを良う聞き分けなされ。 お伊勢様へ参る時には  ヤイトコセ。ヨイヤナ。アレワイセ。コレワイセ。ソリヤナンデモヨ。 と云ふであらう。お伊勢様に参る時は何を置いても参るでせう。彼れは天照大神宮と云つ て伊邪那美命様を祀つてゐる。  其れで世界では五本目の指を子指々々と云つてゐるが彼れは子指と云ふのやないで。小 親指と云ふのやぜ。右の親指はこれは国床立命、左の親指は重足命、右の人指し指は惶根 命、左の人指し指は国狭土命、右中の指は大戸辺命、左の中指は雲読命、右の薬指は月読 命、左の薬指は大食天命、右の小親指は伊邪那岐命、左の小親指は伊邪那美命の御守護で ある。御膳食べるのも親字を書くのも親の御守護があるから出来る。  其処で人間は元魚であつたのが人間に出世したと云ふので魚丈けは上つたと云ふ。外の 者は落ちた死んだと云ふ。其処で一人助け親に孝行、主人なら忠義、兄弟仲良ふと其の通 りなされたなら何うでも此うでも結構な所に生れて行く道を神様がおつけ下されてある。 貴方が人間助けをすれば神様は一粒万倍に受取つて下さる。」 「成る程其うだ其れに違ゐない」 「此の道は医者要らぬ。坊ん様要らぬと云ふが其うではないで。医者も坊ん様も神様の子 だぜ。医者が要るから大学迄出来たであらう。坊ん様は仏法を弘めて来た」  其れ丈け聞いて帰つて来て家内に此う云ふ話を聞いて来たが己は信心しやうと思ふと話 すと家内は「貴方誑されてゐる」 と云ふ 「イヤ誑されてゐない」 「月何んぼ要りますか?」 「十銭か十五銭あれば良い。」 「貴方は又たシヤバの云ふ事を聞いて誑されて来たのだ」 と家内が云ふ。 「何んでも良いからお前も一遍来て呉れ」 と云つて家内を連れて明誠社に行つた。家内も神様の話を聞いてこれなら私も入れて貰は ふと云ふことになつた。其れから信心しかけて昼は働いて夜は講社をひろめた。  其れから大和へ参つて教祖様にお目通りをすると教祖様は 「よう来なさつた。サア心直して勢出しなさい。京は市やで。偉いことになるのやで。 気張りなされ」 と云はれるけれども分かりやせん。又信心するに連れて参ると 「サア/\京にはな教会といふのが出来るのやぜ。冠を着てヒヨンと出るのやで。内裏雛 の奥様見たいの着物をきて出るのやで」  又た 「世界これから汽車懲役が出来るのやで。懲役といふものは赤い袢天を着て腰縄つけて働 くのやで。其れから電信が出来て五分間で用が足る様になるで。又た東京へ十八時間で行 けるやうになるのやで」 「ヘイ」 「人間は見てから云ふのは世界並。見えぬ先から云ふて置く。これをよく聞き分けてく れ」  京都へ帰つたが一つの講を結んで今度と云ふと 「これから授けと云ふものを渡す。万人の中に一となるのやぜ」 と云はれる。  神様がお前の熱心を見てお働き下さるのだぜ。  今世界では人を笑つたり譏つたりしてゐるけれども笑はれたり譏られたりして置きなさ れ。向ふがボロクソに云へば云ふ丈け向ふがボロクソになるのださかい。何を云はれても 神様が見てゐる」  其れから御神楽歌を見せて 「人が何事云はうとも神が見て居る気を鎮め」 と云ふ所を読んで聞かしなされ 「人が何事云つても怒つてはならない。何んぼ信心しても心得違ゐはならん。  サア/\何んな茨/\畔/\サアそれを越したら細い道もある淵もある。其れが心の道 やで  此の結構な道を例へて云へば百間の金の橋がある。其れを渡つて行けば向ふに万石の倉 がある。けれども大抵の人は其の橋の中途迄行つて戻つて了ふから万石の倉迄行けないの やで。シツカリ信心しなされ」  其れを聞いて帰つて一生懸命に信心してゐると町内では私が家持ちだから放り出しには 来ないが度々異見に来る。 「貴方は人が善いから天輪さんに馬鹿にされてゐる」  何んと云はれても私が聞かないから今度は親に異見せい云つて来る。私の親は 「兄が何んなことをしやうが私共は唯兄に末を見て貰へば良いから兄のする通りにさせて 置きます」 と云つて断る。 「オヤ/\親爺さん迄誑されてゐる」 町内で三人寄ると 「貴方彼れは山子ですで。彼んなものを信心して家迄質に置くと云ふのは誑されてゐるの だで」 と云ふて止める。 「此の道は盲目なら手を引いて通る道である。人を助けるには商売は出来やせん。其処で 私は商売を捨てゝ此の道を一生懸命に働いてゐるのだ。其れがいけないのか?」 「其れは結好だが同じ信心するなら稲荷さんを信心した方が結構ですぜ」 と。何んと云はれても私が聞かないから親類二十一軒皆私と交際しなくなつたが今は其う 云つた人が皆なボロクソになつて了つて私丈けは甲賀、水口、湖東を入れて二十万からの 講社が出来た。其れは私が働いたのではない。神が働いてくれたのである。其の間に前生 何んなことをして来たのか分らないが中途で妻に分かれ云ふに云はれぬ苦労をしたが其れ でも何んな中でも通つて来た。其の後 「お前は此方へ来るのやで」 と云はれて此方へ本部員として勤めさして戴く様になつた。  教祖様からは 「公事訴訟に先追従これ大嫌ひ。正直が天理やで」 と云ふ様な不思議なことをタント教へられた。  私が来てゐた時或る時信徒の人が気狂ひを連れて来た。教祖様頚をかたげて 「これは山子やで。其れは気狂いではないぜ。其れは父親が死ぬ時此の千五百両の金は弟 にやつて呉れ頼むと云つて死んだ。其の弟が成人したから其の金を呉れと云ふと兄はない ものはやれるかいと云ふ。気狂の真似をしたら気狂ひになる位だから本当にないのだと思 はせ様と思つて其の金出すのが惜しさに気狂ひの真似をしてゐるのだ。金はないと云はせ ぬで。神が呼んで神が入れる。三千八百三十円あると云つてやれ」 と仰つた。其れ迄気狂の真似をしてゐた男はビツクリして駕篭から飛んで出て逃げて了つ た。  其れから此処へ三人の盲女が篭つてゐた。二人は良くなつて行つたが後の一人は良くな らない。其れで後に残つた一人が云ふ 「私は眼がよくなりません」 「お前さんは未だ懴悔が出来ないからだらう」 「イエ私は充分懴悔をして居ります」 其の事を教祖様に申上ると 「懴悔してると云ふのなら云つてやれ。其んなら明日人の中で恥を掻せてやると云つてや れ」  其れから其の事を其の女に云ふと 「私は懴悔をしてゐる」 と云ひ張つて聞かない。  教祖様の仰るには 「其れは忘れてゐる。何年何月の十一日を思ひ出せ」  すると其の女は暫時考へてゐたが 「あります/\」 と叫んだ。 「私は商人の家に嫁入りしておかみさんになつたが息と嫁との留守に近所の若い者と一手 になつて子が出来た。其れを下ろしました」 「其れやから盲目になるのだ」 「神様よう知つてゐなさるな」 「神がなすのだ」  其れを見てゐるから何うでも我が精神をつくつて人を誑す様なことはしてはならん。自 分の持つてるものは売つても人を助けなければならんと云ふので皆払つて了つた。  私の通つて来た道すがらを詳しく云へば兎ても一日や二日や三日では話し尽されませ ん。或る時は牢屋の中へも入りました。或る時は盗人にも入られましたし、或る時は人に 倒されもしました。  私が信心し初めて半期程経つた時金を切る時ー私は鍛冶屋をしてゐましたー金が目に入 りました。人は目医者に行かんじやならんと云つて勧めたが私は神様に願ひました。  「神様私は忠臣蔵の天野屋利兵衛ではないが男で御座んす。私は前生何んなことをして ゐたか存じませんがこれからは親が何んと云はうが弟が何と云はうが此の道の片腕となつ て行きますから何うかお助けください。其れでお助け下さることが出来ない様な神様なら 信心やめます。」 と云つて一寸囃しをして御願すると痛みがピタリと止まつて一週間目に直りました。其れ が私の心の定まりである。其れから今日迄色々な大難に遭ひました。中には私の講社を取 らふと云ふものがありましたが皆尚障りを受けて中にはあやまりに来たものもある。  此の道は神様仰つた。 「人を立てたら我が立つのやで。なんぼ見下ろしても見下ろせば見下ろす程見下ろされる のやで。この理を聞き分け」 「天理は人を崇めたら我が身崇められる。何んぼ信心しても心得違ゐはならんでな」 「教会へ行つて掃除するのも皆我が徳になるのだで。其れを神様教へて下さるのやで」  教祖様のお言葉は何でも歌見た様にお説きになる。私がお側に居た時アア…と大きな欠 伸をなされ  イン/\/\/\/\/\/\/\  サア/\月日の云ふこと聞いてくれ  飯喰も仕事するのも皆月日やで  口先き追従詐高慢これ大嫌ひ  これ聞いてくれん残念/\/\/\ と仰せられて其の侭こけてお睡りになつた。 (了)   附記 凡そ人間に癖のない人と云つてないが其の中に於て最も癖のない人を求むれば 深谷氏の如   き蓋し最も癖の少ない人であらう。氏の人の善い素直な精神は何人をも 親しまする力がある。分けて氏の大なる特長は教会の差別に依つて親疎を異にしないと云 ふことである。この円満な性格がやがて甲賀、湖東、水口、河原町の四大教会の父たり得 た所以であらうと思はれる。考ふべき人である。  私が第一回目に伺つた時はお客があると云ふので二回目に再び伺つたが今度は快く接し て色々有益な話を伺ふことの出来たのは風来の書生にとつてこれより大なる感謝はなかつ た。私は氏並に氏の有する教会及び其の子教会の繁栄を切に祈る一人である。(RO生)  おばさん                             飯降 政甚  私は六つの年から此地へ寄せて戴きました。自分は良く覚えて居ます。母と共に櫟本か ら相乗車に乗つて来たことを。其の時分は六つか其処等ですから腕白盛りで訳が訳らずに 唯櫟本に居るより此方が広くもありますし、其の時分は道は余程進んで来て居りますし、 以前の困難な時と違ひ大変楽になつて居りましたから子供心に唯良い処へ来たと云ふ考で ゐましたが色々前の言葉を聞いて見ますと神様より来いと云ふお話があつたが都合があつ て延々して居ました。  其の中に母に連れられて小学校に通ふ様になりました。其の時分は恰度中南と云つて元 門を入つた処へ教祖の御居間が出来てゐました。私共が入れて戴いてから後に今教祖殿の 横に保存建築になつてゐる教祖様の御居間が出来てから私共は中南に入れて戴いた。現に 中南も保存建築にさせて戴いて居るのですが彼れは教祖から私が貰つたのであります。彼 れは非常に理がある相です。彼処に門屋がありますが彼の門は中央が門になり向つて右が 倉左が教祖の居間(十畳)になつてゐました。彼の門を建てる頃は未だ/\本部は困難で ありました。  彼の門屋は私の父が建てたのですが 「此の門屋は政甚にやるのやで」 と仰つたことを聞かせられてゐます。  大抵の倉に窓無しの倉つてありませんが彼処の倉丈けは窓無しの倉であります。彼れは 道が進んで行くと勤めの人衆の生姿をおさめる所だといふことであります。  私は非常に有難い因縁で腹の中から名前を戴きました。私の先代が政治郎と申し五つで 出直した相で御座います。其れから女計りでしたが神様が貰ひ返してやらうと仰つて名前 をマサジンとつけて下さいました。  マサジンと云ふのは 「木では靭より堅いものはないから名を政靭とつけよ」 と仰せになつた相ですがジンと云ふ字は何んな字を書けば良いか分らぬから役場で政甚と つけたのだ相です。  其の頃は理も浅いから非常に疑ふて居りました相ですが生れた子が男の子でありました から非常に驚き其れから信仰も進んで参りまして如何なことがあつても道の為めにせにゃ ならんと決心の度を固めたと屡々其の事を話されました。  私共の子供の時分は教祖様とは申しません。私等はおばさんと申しましたことが御座い ます。何にした処で始終学校から帰りまして行くと色々なものを戴く其れが何より楽しみ でした。  勿体ないことですが私は三度も五度も教祖様に負はれたことがあります。  教祖様は私のことを  トンヨ/\ と申されました。其れは私の先代の政治郎が先代に留治郎と申して教祖様の長女政子様の 腹に生れて居つた相であります。其の頃はお政さんもお地場に居られましたからよく戯談 に 「お前は私とお里さんの合ひや子(仲間の子)や」 と云つて非常に可愛がられました。  彼の方も教祖の子だから精神は良いけれども酒を呑むと酒癖が悪くて女にはあるまじき 振舞があつたのです。後に彼女は教祖から「埃の館」として残して置いたと仰せられまし た。矢張り教祖様の子でも何んな子もあると世界一列に縮めて見せたのだと思ひます。  お政さんの次がお春さん。お春さんの次が小寒さんであつた。お春さんは前管長様のお 母様であります。其の方が早く亡くなつたから後へ小寒様が御いでになりました。其の時 教祖様は行つてはならぬからと仰つたが後で出来た子供が可哀相だからと云つて嫁がれ た。教祖の御言葉を用ゐずして行つたから早く逝かれたらうと云はれてゐます。  小寒様は道の細道の頃長男の秀司様と色々憂き目を見一家を支へて居りました。後で若 かい神様と申上げて居りました。  隠くしたり包んだりすることはよくないことでありますがこれ迄は秀司さんにしろ松枝 さん(秀司様の夫人)にしろ善いこと計り書いて悪いことは書いてないが秀司さんにしろ 松枝さんにしろ何うも仕様のない方らしかつた。其の為めに教祖様の心を休ませられたと いふことはなかつた相です。其の証拠に跛を助けてやりたいと云つて足の跛のお勤めを半 月程行り私の姉等もお勤めに出ました相ですが秀司様は 「其んなことしても何に助かるものか」 と云つて息の切れる迄反対で本当に懴悔をして行かれたのではない相であります。  お崩れになつたのは今の門屋の入つた所で御座いますが其の時私の父が 「親さん先生が今息をお引き取りになりました」 と申上げると教祖様は 「アヽ其うかい」 と云つて一段高い処から降りてお出でになり秀司様の枕許に立ち額をゴロ/\として 「最う剛情は張らせんやろ。張れるかい。張れるなら張つて見いや」 と云ひ、内の父を振返つて 「伊蔵さん。内の態を見ておくれ。金を溜めると此の不始末だで」 と涙一滴こぼさず元の所へお上りになつたといふことであります。  其の時父の感慨は何んともたとへるにも例へることが出来なかつた。親様の御精神は此 う云ふ所にあるかと無量の感慨に打たれたといふことを父から承りました。  松枝さんのおかくれの時は子供心によく覚えて居りますが腹が膨れて口からは泡が始終 出て居りました。亡くなつた時其の事を教祖様に申上ると御休息から中南ー松枝さんは中 南で亡くなりましたーへお出でになり 「偉い溜めたな/\。何ンぼ溜めてもあかせんで」 と仰せになりました。其の時は私の未だ子供の時分でありますから 「偉い銭入れてあると云ふことですが彼れ切つたら偉い出るで」 と云つて母から偉い叱られたことを覚えて居ります。八つ位の頃は其んな馬鹿なこと考へ てゐたと思ひます。  松枝さんが亡くなつてから一年も経たないうちに教祖様がお湯を使つてお居でになり姉 が教祖様の背中を流して居りますとくづ屋葺きの屋根の廂の上に鼬がゐた。教祖は其れを 見て 「アヽ松枝帰つてゐるぜ」と云はれたと云ふことを聞いて居ります。 「彼女は再び人間界に出さんが此処より何処へもやらん。屋敷の中に置く」 と仰せられたといふことですが成る程屋敷の中に居ります。私等子供の時は松枝さんを姉 さん/\と云つて居ましたが其の鼬にあふと 「アヽ姉さん/\姉さん居るで」 と云ふと今の夫人様  其の頃はいと(お嬢さん)/\と云つてゐましたが 「甚さん又た彼んなことを云つて私をいぢめる」 と云つて泣かれたことを覚えて居ります。(終)   付記 私は此の文を書く時始めて飯降氏に面会したのであるが氏に接して見ると矢張 り御本席の子だけある。頭が大きい。而して最も宗教家らしい気分に富んでゐる。  今は思想の上からか生活の上からか兎に角蔭の道を通つてゐられる様であるが氏の為め 道の為め折角の自重を祈る。(RO生)
 眼のお助け                       増井 りん子  増井りん子様は一旦失つた眼のお助けを戴きましてより熱心に信心し其の後針の心を許 され御息きの御授けを戴いて居る方で本部員中唯一人の婦人であります。  此の度「感謝と記憶」とを書くについて特別にお話を承りたいと思つたが何分多忙で緩 然御伺する暇がない為め以前特別私の為めに山名迄お出でを願つた時伺つたお話を掲げる ことに致しました。                                       (R O生)  私が此のお道に入り眼のお助けを戴いたのが明治七年であります。其れから昼夜御詰め 合ひいたしました。御承知の通り誠にいろはも知らない不行届の者で御座いますが神様は  阿房が好きやで と仰せになり馬鹿なものでも今日迄御使ひ下され何んとも恐れ入る次第で御座います。  御教祖様のお生れになつたのは寛政十年四月。御生なされて僅か三歳の頃で御座います が人々は何も結構なお方様と存じませぬからあゝ不思議なお方であると感心致して居りま した。  御年が優り六歳におなりになりますと母親の側にて裁縫を見習ひ遊ばし糠袋巾着等をお 拵らへになり出来上つたものを御友達に上げて其の友達が喜ぶのを見てお楽しみなされま した。  其の頃折々外へ遊びに出ますれば近所の人達が自分の子供が無理を云ひまして難儀をい たして居るのを御覧になつて御気の毒なものと思ひ御自分も六歳頃では玩具や宝石が欲し い御年頃でありますのに其れを無理云ふ子供にやり其の子供の心を慰め其の親の喜ぶのを 見てお喜びなされました。  九歳の年より三ケ年の間御手習遊ばされ余る時間で裁縫を遊ばされ十一歳にて一人前す ぐれにお成り遊ばした文化七年の九月当所お祭りに前川家と中山家とは御親類の間故お立 ち寄りになりましたが其れから縁談が調ひ十三歳の時五荷の荷物を整へて中山家へおいで になりました。  中山家は庄屋敷の紋附様と申しまして下女下男も沢山居りましたが教祖様は何をせんと 仰やられず何んでも引き受けておやりになり通常人の二倍の仕事をなされたと申すことで 教祖様のなさらぬ仕事は荒田起しと溝掘り丈けだと云ふ事で御座います。  余りお働きになるので御両親から 「其の様に働いては疲れてはならんから」 と申されますると教祖様は 「これが結構で御座います」  其の頃は殿方も一般御頭をお結びになりましたが教祖様は自ら砥石剃刀をお扱ひになつ て父親様の御頭をお剃り遊ばされました。  御自分の身粧装は荒唐の風をし物見遊山に半日も御出でになつたことは御座いません。 其れ丈け僕に与へて喜ばれました。殊にお祭等には其弁当をお拵へになり其れを持たせて 遊びに出されました。  下女に致しましても御暇を戴く丈けでも結構で御座いますのに其の上御自分の物を貸し 御自分の手を下ろして髪を結ひて御やりなされました。  十六歳になりますと庄屋敷の紋附様と云はれる大世帯を御請け遊ばしました。  或る本には倉に盗人が入つて米を盗み出したと書いてありますが其うでは御座いません 壁を毀ちて「サシ」を入れて出してゐる所を捕へたので御座います。  其の時盗人は教祖様の御説諭に感謝して帰り本心に立ち帰つたといふことであります。  二十四歳の時御妊娠中母上様御病気になりましたことなれば何処へ行きたいと仰せられ ます。自分は御身重でありながら何処へでも背に負ふてお出でなされたと申す程御孝心の 方で御座います。  二十八歳の時政子様、三十歳の時安子様、三十四歳の時春子様、三十六歳の時常子様、 四十歳の時小寒嬢様を御出産遊ばされましたがお出産の度毎に乳が沢山御座りますから誰 彼の区別なく乳をお与へ御助けなされました。二女安子様を御出産遊ばした時他人の子を 御預りになり自分の子を他人に預けられました。折悪しく隣村に疱瘡が流行いたし其の預 り子もこれに伝染し遂に黒疱瘡に変り医者も手放す様になりました。教祖様は何うぞして 此の預り子の生命を助けんと思召し 「自分の子供一人丈け残し後二人を差し上げます。さる代り此の子一人の寿命をお助け下 さいまし」 と申し上げますとさしもに思き黒疱瘡が見る/\間にお助けを戴きました。其の後間もな く安子様が四歳にてお引き取りになり次に常子様が三歳で御亡くなりになりました。此の 常子様と申す方は安子様といふ方の生れ変りで一度に二人迎ひ取つては気の毒だと云ふの で魂を入れかへて御迎ひとりになりました。  教祖様の真心は日々人を助けたい人を救ひたいと云ふ助け一條の御心にてお通り下され ました。  或る時女乞食が門に立ちました。教祖様は其の乞食を御招き遊ばし粥を与へ沢山食べさ せられた。暫時しますと子供が泣き出す。其れが乳呑み子故自ら其の子を御下ろし遊ばし 御乳をお与へになつた。其れから御自分の着物を御出しになり 「此の着物を持ち歩いて人に疑はれてはならん。纏ふて御いでなさい」 と云つておやりになります。 「一杯の粥も戴けぬ身の上なるに結構な物迄戴いて誠に有難う御座いました」 と乳を戴く間に着物を纏ひ、其の間に子供は乳を放すと御自分の子につくつた御布団を其 の子に与へました。  人に依ると人に乳を呑ませて其の真実なるに依り神憑があつたと云ひますが其うではあ りません。  御屋敷の因縁と教祖様に依つて御憑りがあつたので御座います。 「人間を始め出したる屋敷なり其の因縁で天降りたで」  此の屋敷は四方正面鏡屋敷と云ひ又た教祖様は「手本」とも「雛型」とも申されて居り ます。内も外も隔てないのが此の道で御座います。  神憑がありましてから 「神の社にする程に通れる限りは貧乏の道を通れ」 と云ふので五荷の荷物を始め中山家のものも皆施して終ひには唯つた一枚の着物が残つ た。其れを人の通る所に出して置くと 「アヽ結構な着物が落ちて居ります」 と持つて来る。すると教祖様は通り合せたものなら貴方にお授けになつたのでありませ う」 と云ふと其の人は御礼を云つて行つた。 「アヽ喜ばしいことをした」 と御喜びになる。其れから周囲の立ち屋を払ひ終ひに本家を取り払らひ田地は質に入れた り売つたりして人にお施しになつた。誰か金が要る人が通ると其の人の通る所にお金を置 く。其の人が拾つてこんなものが落ちて居りますと告げると 「其れは貴方に授かつてゐるのでせう」  昼は御助け致し夜分は糸を紡ぎ針仕事を致し、仕事のなき時は木綿を織つて其れを人に 与へて楽まれた。其うかと思へば日々の間に無心を云ふてくる者もある。 「アヽ世の中の子供は何も分らんで人に難儀をかけるが人を難儀さすならば自分も難儀す る事が出来て来る。理が廻る。可哀相や」 と仰ります。  其れ計りではない度々警察や監獄へ御苦労下され明治八年がかゝりで其れから十八回も 御苦労下されました。  十日間の拘留の時なぞは御枕はなし、湯文字を解いて其れを枕に遊ばしました。左様の 所へ入るのは悪人故火の気はありません。御老体には布団一枚あるでなし御咎人ではない が咎人同様の着物を御召し遊し日々其の中にて御住ひ下さるのは微塵も御厭ひなく夏向き には暑いけれど暑さを凌ぐものもなく蚊に食はれても厭ひなく御苦労下されました。其の 御恩は海に例へる時は幾百尺の海で御座ります。  又た秀司様に小寒様は茄子をつくり芋をつくり薪を荷ふてお売りなされ誰も買ひ手がな い時は頼んで貰つて貰つても良いからと仰やる。其うすると教祖様は 「アヽ頼んで貰つて貰つて呉れたか」 と御喜びなされたことが御座ります。  小寒様は髪は結ひたいけれども結ふ金はなし、其処を足納してお通りになつたのはお若 い方には中々出来ぬことで御座ります。  又た教祖様は 「成人して縁についてから裁縫が出来ぬと云つてはならぬ」 と云つて近所の子供を集めてお教へになつた。  さて此の御道に於て何が頼りかと申しますると此のお道すがらの理が頼りで御座いま す。 「苦しみが楽しみ」  足納と云ふ理を治めまして其の理を定規と致しますれば大儀大相も御座りません。 「足納と云ふことは第一やで。足納が足らぬと案じが出る。案じが出ると埃が出る」 と御聞かせ下されて居ります。  私は四十年余り前に眼を助けて戴き本部へ帰らして戴き日帰りする日もあり一夜とめて 貰うこともあります。 「雨が降ります故最う一晩御泊めなされて戴きたい」 と申上ると 「足止め/\」 と笑つて仰せになられます。  三島へ帰りますと途中で御腹が痛む。 流れの水を呑んで神様の方に向つて願ふと良くなる又た良く又た痛む。其う云ふことが二 度三度御座います。帰つて来ますると 「おりんさん又た帰つて来たぜ」 其れから 「此処は何ふですぜ」 と仰ります。柔しき言葉で仰つてさ下ります。 「此処は生れ故郷やぜ。彼所は行くのやぜ」 と御聞かせになりました。(終)  國六分の人を寄せる                        諸井 国三郎  諸井国三郎氏は遠州広岡村の人。明治十六年に此の道に入つてから今年まで三十有四 年。一旦道の上に一大事のある時は十里の道を跨にかけて走せ参じた此の道の柱石の一人 である。  其の為めに神様よりは  国六分の人を寄せる と云ふ有難いお言葉を賜はり令嬢には生れて一ケ月目にお水のお授けがあつた。今日教会 の数も数ある中に神様よりお面道具の御許しになつたのは氏が創立した山名大教会あるの みである。  氏は今年七十七歳の高齢に達し現在本部員中の最高齢者であるが而かも其の元気の溌剌 たる恰かも壮者を凌ぐの慨がある。道の為め氏の静養を祈る。(RO生)  私が始めてお地場へ登参したのは明治十六年三月である。其の頃御内と云つては教祖様 に管長様と夫人様丈け。未だ御結婚前で夫人様より管長様をお呼びになるには兄様/\と 申して居られました。先生としては仲田儀左衞門(サユミと云ふ名を教祖より賜つた)此 の人の御取次で教祖様に御拝顔を願つた。  其の時教祖様の仰るには 「諸井さん手を出して御覧」 と云つて畳の上に掌をつけてお見せになる。其の通りにして出すと私の手の甲の皮を右の 人指し指と小指とで押へて釣り上げ 「此うして御覧」 と云つて今度は御自分の手の甲をお出しになる。けれども私には何うしても其れが出来な い。其れで 「恐れ入りました」 と申上ると今度は 「私の手をお持ちなさい」 と仰つて私に御自分の手頚を握らせになる。而して御自分は又た私の手頚をお握りになり 「サア確つかり力を入れなさい。然し私が痛いと云つたら離して呉れるのやで」 と仰る。  其れで此方で一生懸命に力を入れて教祖の手頚を握ると力を出せば出す程此方の手頚が 痛くなつて来る。 「もつと力を入れなさい」  出せば出す程此方が痛くなりますから 「恐れ入りました」 と申上ると 「其れ限りしかないのかい。神の方には倍の力や」 と云つてお離しになる。  今度は背向きになつて両手を背中で合掌に組み 「諸井さんこれ出来ますか?」 と仰る。自分も背向になつて一生懸命にやつて見るが何うしても出来ない。其れで又た 「恐れ入りました」 と申し上げるとお笑ひになつて 「誰にでも出来るのやがな」  誰にでも出来ても此方は其れ丈けの徳を積んでゐないのだから仕方がない。  其の時はお地場に一日滞在した限り帰つた。  第二回目の登参は十六年の九月である。此の年は偉い干魃で田地は皆亀裂を生じ百姓は 皆困つてゐた。  其の頃大工をしてゐた飯降御本席は建築中の教祖御休息所の仕事をすまして豆腐屋の前 の腰掛けに涼んでゐられると急に大変なお障りが来た。其の事を奥様から教祖様に申上る と教祖様は 「其んなビツクリ周章てずとも良いで」 と仰せになり詰所にゐた仲田さんを召んで 「早く扇を伊蔵さんに持たせなさい。其れから遠州の講元さんも連れておいで」 と仰せになつた。其れで仲田さんが直に二階に登つて来て 「遠州の講元さん。今伊蔵さんが大変の御障りで神様に伺ふと扇を持たせろと仰せになり 其れから遠州の講元さんも連れて行けと仰るから一手に行つて下さい」 と云ふから私も急いで二階の飯降様の所へ駆けつけて見ると蚊屋の中で手を握つての苦し みである。然し不思議なことには仲田さんが扇を持たせるとウンと云つて顔も確つかりし 身体もチヤンとして神様がお降りになつた。而して 「サア/\珍らしい事や/\国へ帰つて勤めをすれば国六分の人を寄せる。なれど心次第 や」 と仰せになつてお上りになつた。其れと同時に飯降様の御苦しみも直つた。  私共(私と木村林蔵)がお地場へ着いて四日計り経つと伊勢へ廻つた清水重作外五名の 者が到着した。丹波市迄来ると清水が云ふには 「聞けばお地場では此の頃矢ケ間敷くて警察が参拝人を止めてゐるといふ話だが何う云ふ 具合だか一つ様子を探つて見てのことにしやう」 と云ふと其の五人の中の守屋国蔵といふ男が 「其うか己等其んな所だとは知らないで随いて来た。其んな警察で参拝人を止める様な所 なら己等参拝しないでも良いから直ぐ帰らう」 と云つて怒り出した。其れを漸くなだめて豆腐屋迄連れて来たが 「己は帰る」 と云つて中々聴かない。帰るにしては国蔵一人返へす訳に行かないから誰か随いて行くか と云ふことを相談したが次の日になると国蔵が急に胸がつかへて飯が喰へなくなつた。明 くる日も食へない。又た明くる日も喰へない。食つても皆吐いて了ふ。到達三日間と云ふ もの寝通し。十一日の夕方に御地場より遠州の参詣者に皆な来いと云つて使が来た。早速 行くと神様(教祖様)より 「御苦労であつた」 といふ御言葉があり、続いて月日のお模様のついた陶器の三つ組の御盃で御自身御召し上 りになり後で其の御盃をお上げになつた。夫から守屋も飯が喰へる様になつた。それで守 屋も恐れ入つて申訳がなかつたと云つて懴悔をした。  其の前に清水外五名の者が丹波市へ着いた夜お地場では神様がお下りになつて 「サア/\遠い所から遥々参詣に来て見れば野原の様な河原の様なさもない所と思ふ者が あるで」 とお聞かせになつた。後で守屋国蔵の精神を予め神が仰せになつたのだと云つて皆な恐れ 入つた。  第三回目の登参は明治十七年の一月である。途中伊勢参宮をする心算で二十一日に内を 出立し途中豊橋の町を通ると提灯屋がある。其れから私は思いついて 「これは一つフラフを拵つて立てゝ行かう」  早速大幅四尺の天竺木綿を買つて真中へ日の丸を書かせ其の中に天輪王講社と書き其の 下に遠江真明組と大きく書かせて其れを立てゝやつて来た。お地場に来ると表門通りの四 辻に巡査が一名待ち受けてゐた。其の前を通らうとすると巡査が 「コラ待て」 と云つて立てゝ来た籏を抜きとつて 「此の籏は何か天輪王へ来たか?」 「これは講社の目印。天輪王へ参りました」 「降りろ」 「今其処まで行けば降ります。車豆腐屋迄やれ」  車夫が引き出すと巡査は籏持ちになつて随いて来た。 「天輪王へ来るには何か持つて来たであらう。此処は参り所ではない。婆々が赤い着物を 着て愚民を迷はして金平糖を喰へば腹痛が直るとか水を呑めば腹下りが止るとか云つて居 るから大阪府で厳重に止めて居る。何故来たか直ぐ帰れ」 「拙者は何も持つては参らぬ。昨夜扇屋へ一泊すると女中が此の籏を見て天輪さんへお参 りですかと尋るから天輪さんが何処にあるかと聴くと三島にあります。お婆様で御座いま すと云ふから其んなら明日人力を雇つて案内をさして呉れと申し附けました。只今参りま すと貴方が天輪王へ来たかと申されたから是幸ひと思ひ参りましたと答へましたが実は始 めて聞いて喜んで参りました次第であります」 巡査 「貴様何処か?」 「籏にある通り静岡県遠江国天輪講社の講元を父の代から致して居るが拙者父に死に別れ て未だ天輪王が何処にあるか知らなかつたが図らず此処に天輪王のあるといふことを聴き 尋問致したいと思つて参りました。」 「静岡県何ちゆう?」 「静岡県は山名郡広岡村……」 「名前何ちゆう?」 「未だ番地が御座りません。無番地。諸井国三郎」 「む番地ちゆうが有るかい。六番地か?」 「イエ無番地」 「無番地ちゆうが有るかい。不都合なこと云ふな」 「む番地とは無番地と書きます。拙者も役場へも勤めて居る人間で詐は申しません。拙者 此の度新宅を設けたから戸番の改正迄無番地として置きました。疑ひなさるなら静岡県庁 へ照会なさい」 「参詣はならぬ。帰れ」 「拙者は素より参詣には参りません。当所の婆々でも爺々でも良いから天輪王の由来を尋 問したいと思つて参つたのだから得心の出来る迄尋問する心算ですから帰りません。其の 代り拙者の滞在中は此の籏を此処の表へ出して置きますから御用の節は何時でもお招きに 預りたい。お招き次第警察へ上つて何んなことでもお答へ致しますから。又た此の旗の無 い時は立つたものと心得て戴きたい」  巡査も大変弱つて手帳に住所と姓名とを書いて帰つたが其の翌日(旧正月の元日)来る かと思つたが来なかつた。其の日の朝丹波市の西尾と云ふ酒屋が来て云ふには 「今日は警察は参りません」 「何故か」 と聞くと 「昨夜警部と部長と巡査と三人で色々話をして居ましたが明日は止めに行かんけりやいか んでと一人が云ふと一人は放つて置いたら五ケ国も七ケ国も集まるだらうから止めに行く が良からうと云ふ。其うすると巡査が幾ら五ケ国が七ケ国の者が集まつても今日の様に頭 を抑へれば尻に抜ける。尻を抑へれば頭に抜ける。ヌベコベ/\問答しても終ひに立ち場 がない様な事に成つても困るから考い物で御座いますと云ふと警部が其んなら明日は放つ て置かうか? 其れがよからうと云ふことでありましたから今日屹度来ません」 と云つて行つたが其の前の晩即ち巡査と問答した晩神様がお出でになつて今酒屋の話して 行つた様な警察の三人の問答をお聞かせになつた。  私が巡査と問答をして居る時には豆腐屋の前は人で一杯であつた。が余り其の場の様子 が険悪であつたので御本席様も大変御心配なされ、御家内様は豆腐屋の裏へ廻つて立ち聞 きなされたといふことである。これが為めに 「遠州の講元は偉い!」 と云ふ評判が村中に広まつた。此の時実地を見聞した人々の中で今生きてゐるのは村田幸 助(豆腐屋の弟)足達秀次郎北村平四郎(時計屋の老人)等の人達であるが今でも此の人 達に逢ふと昔話の一つになつてゐる。  其の前に私共がお地場に到着する前に予め私共の来ることを神様御承知であつて 「アヽ/\だるい/\此うだるくては叶はない。遠方から子供が来るで。アヽ見える/\ フラフを立てゝ来るで」 と仰せられたといふことである。  これから私がお地場に参ると必らず刻限があつた。其れで 「又た遠州の講元さんが来たから神様がお出でになるで」 と云つて他処から来た参詣者も足を止めて一日滞在すると云ふ風であつた。  此の時お地場に滞在したのが二十七、二十八、二十九、三十、三十日に大阪の真明講の 講元井筒梅次郎氏から教祖に向つて(其の時高井猶吉氏も同席した) 「神様へ恐れ入ります御願ひで御座りますが遠州では郡長も懇意で御座りまして咄し致し て置きまして十二下り立ち勤め出来ます故御神楽御道具を御許しを願ひたう御座ります」 と御願申上ると教祖様は暫時ジツとして御居でになりましたが 「サア/\許す/\私が許すでない。神が許すのやで」 と仰せになつて御許しになつた。此う云ふ事は殆んど前後に例のない破格の恩典であるか ら一同非常に喜んで早速大阪へ参り梅谷四郎兵衛氏に御神楽道具の調製を頼んで遠州に帰 つた。  此う云ふ具合に神様から色々破格の御引立を蒙つたが明治十九年四女の秀子が亡くなつ た時お地場に来て 「何か違ひがありますかお聞かせ下されたい」 と云つてお願すると 「小児の処事情があるから尋る。三才も一生地場一つに心を寄せよ。地場一つに寄せれば 一方折れても三方に根が張る。二方折れても二方根が張る」 と云ふお指図を戴いたが其のお指図を戴いて帰つて十月目に家内が妊娠して出来たのがお ろくである。  おろくの出来る前にお地場へ上つて安産の御願をすると教祖様御自身に御供を包んで下 さらうとしたが其れを側にゐた高井さんが 「私に包ませて戴きます」 と云つて紙を曲げて御供を包んだ。其れを教祖様は良いとも悪いとも仰らず黙つて見て御 居でになつたが高井さんが包み終へると別に紙をお出しになり 「鋏を貸してお呉れ」 と云つて鋏をかりて紙をチアンと切り四半斤計りの金平糖を御包みになりて私にお手づか ら下され 「これが産屋許しだで。これで高枕もせず腹帯もしないで良いで  今は姉の時だでな柿を食べても大事ないで。  余つたものは人にやつても良いで」  凡て教祖のなさる事やする事にこれはいかんと仰つたことはない。  赤衣様をお下げになるにも御休みになつてゐる一畳の台の下から御出しになり 「これは私が着せて貰ふたのであるが赤衣には中に月日が篭つてゐるから明るい処が見え るのやで」 と仰つてお下げになる。お下げになるにも盆に載せるとか下に置くといふことはない。必 らず手渡しにお渡しになる。  私が戴いた時は南の門屋にお居でなされたが其れを祭れとも拝せとも仰らない。唯此の 中に神が篭つてゐるでと柔しく仰る丈けである。  其れから直接聞かして戴いたことでは物参りになつても乞食にくれ/\と云はれた時一 文をやらうと思つて財布を開けて四文銭さへなかつた時には決してやるでないで。今日は 小さいものがないから今度やるでと言葉に文を残して帰つておいで  乞食は四文貰へば喜ぶが神がお受け取りがないから」 と云つてお聞かせになつた。  又門屋にお居でになつた頃門前に乞食が沢山居るのを御覧になつて 「アヽ門前に沢山乞食が来てゐる。けれども彼等を見てうたていと云ふでないで。彼れは 前生彼んなものは食べられない。こんなものは食べられんと云つて食物を放つたから理が 廻つて来て此の世で人の捨てたものを拾つて食べなければならない様になつたのだで。可 哀相なものだと可愛がつてやつてくれ」 とお聞かせになつた。可哀相なものだと云ふのは精神が可哀相だと云ふのである。  其の頃はよく警察で来て拘留に処したり罰金に処したりしたが教祖様は 「皆んな警察や巡査と云ふと怖がつてゐるがな何も怖がつて居ることはないで。彼れは何 も知らない四つか五つの子供見た様なものだで。此処に止めに来るのもな皆んな役で来る のやで。真に心から止めに来たら息が止まるで」 と仰せになつた。  何時伺つても 「良ふ来なされた。内には皆な変りはないかい」 と仰る御言葉に何んとなく慈愛が篭つてゐる。 「有難う御座ります。神様の御蔭で結好に通らして戴いて居ります」 「其りや結好やな」  既にお話と云つて下されないでも仰せになるお言葉が一々深い意味をもつてゐる。 「何んでもな人を助ける心なら何を云はないでも自分に帰つて来るで」 と精神を直せとも何んとも仰やらないけれども味つて見れば其処に無限の意味がある。  殊に数多いお言葉の中に一生忘れないのは 「道について来ても足場になるなよ/\。足場と云ふものは普請が出来ると取り払つて了 ふ何んでも国の柱となれ」 と仰せ聞かせ下された。これ等は忘れやうと思つても忘れることの出来ないお言葉である が此の他にさもない御言葉を御聞かせ下されてもあゝ有難いなと自然に浮ぶ様になる。其 れだから御教祖様に直接接した方は普断に有難いお言葉を戴いてゐるから教理治め方が違 ふと思ふ。  当時のお話と云つては重に泥海時代の御事で御本席時代の様な詳しい事はお聞かせがな かつた。 「世界には元々を聞かしたことがないから仕方がないが此の侭居ては親が子を殺し子が親 を殺しいぢらしくて見てゐられぬ。其れで元を聞かさにやならん」 と仰つて月日二柱の神が道具雛型を見出して人間をお拵らへになる道すがらをズーとお説 きになり 「此う云ふ訳だから何んな者でも仲良くしなければならんで」 と云ふことをお説き聞かせになつた。  教祖お崩れになる前年即ち十九年の秋には天理教会設置の運動の為め鴻田、清水、増野 の三氏と築地五丁目に宿をとり古記/\と云つた古い記録を集めて神様のお言葉と人間の 想像とを区別して一冊を神道本局に差出し一冊を清水氏が持つて帰つた。これが十九年の 十二月である。  其の中に増野氏はお地場に用が出来て帰る。其の他の同行者も夫々長く東京へ止つてゐ ることができなくなり清水氏は船で神戸へ行く。私と鴻田氏は江の島鎌倉を経て遠州に行 き途中名古屋に匂掛けをしたのが愛知分教会の元である。  此うしてお地場に帰つて見ると教祖はお休みになつてゐる。弟子達は毎晩門をしめて水 をあびてお勤めをした。其れが旧十二月の十一日になつて急に御様子が変つて来たので御 本席を以つて伺ふと 「サア/\もう充分につみ切つた。是迄何にようの事も説き聞かしてあるが解らぬ。何程 云ふても解るものはない。これが残念。よく思案せよ。さあ神が云ふ事嘘なら五十年以前 より今迄此の道続きはせまい。今迄云ふた事見えてある。これで思案せよ。さあもう此の 侭引いて終うか納つて終うか」 とお指図があり其れと同時に教祖様の御身体は冷めたくなつた。其れに驚いて十二日には 御詫び勤めをした。然しお勤めをすると云つても門を閉めて夜分内々にすることであるか ら神様の思召に叶はないと見えて何も召し上らない。其れで十三日の夜一同が揃つて相談 の末世界並二分お道八分で心を入れてお勤めさして戴くといふことに決めると翌日は大変 御気分も宜敷く御飯もお上りになつた。其の為め皆心を緩めて相談もしないでゐると神様 がお降りになつて 「サア/\年経つて弱つたか病で六ケ敷いと思ふか。病でもない弱つたでもないで。だん /\説き尽してあるで。良く思案せよ」 と云ふお指図があつた。而して十七日には大変御気分が悪くなつた。其れで又た一同が驚 いて御本席様に御伺すると 「サア/\これ迄何によふな事も皆な説いてあるで。最う何うせ此うせは云はんで。四十 九年前よりの道の事如何なる道も通りたであろふ。訳りたるものもあろふ。助かりたるも あろふ。一時思案。思案するものがない。遠いも近いも皆引き寄せある。事情訳らん。最 う何うせ此うせの指図はしない。銘々心次第。云ふてあかん。サア銘々心次第。最う何も 指図はしないで」 といふお指図があつた。其れが十七日の午後の三時頃である。伺つた間は六畳で梶本様に 前川様に管長様の三人である。私共は次の間で伺つて後で二階で書いたものである。  其の時其の場に列した人達は前川菊太郎、梶本松次郎、桝井伊三郎、鴻田忠三郎、高井 直吉、辻忠作、梅谷四郎兵衛、清水与之助、増野正兵衛の諸氏と私とで十人である。  此の御指図に驚いて一同が管長様に心定めを御願すると  マア考へて といふ仰せであるが何時迄経つて返事がない。其れで夜の九時頃から再び相談を始めて徹 夜して管長様の御返事を待つたが御返事がない。遂に夜の明ける迄其うしてゐた。其の時 相談の仲間に入つたのが鴻田、桝井、梅谷、増野、清水の諸氏と私であつた。  其れから十八日になつて一同が前川様と梶本様の手を経て管長にお伺ひすると 「今日は真之助(管長)さんは酒を召し上つてお休みになつてゐるからいかん」 と云ふ。其れで十九日には御返事があるだらうと思つても夜になつても御返事がない。此 うして三晩寝ずに相談した。漸く二十日の明け方の三時頃に前川様と梶本様との二人が管 長様に附き添ふて神様に御伺すると云ふ事で私共は次の四畳半で襖の外で聞いていた。 「如何なる処、尋る処。解りなくば知らそふ。確つかり/\聞き分け。コレ/\良ふ聞き 分け。最うならん/\。前以て伝へてある。六ケ敷い事を云ひかける。一つ事にとつて思 案せよ。一時の所何ういふ事情聞き分け」 といふ御指図があつた。其れから中山様から 「前以つて伝へてあると仰せになるは勤めの事で御座りますか? 勤め致すには六ケ敷事 情が御座ります」 と申上ると  神「今一時に運んで六ツケ敷いであろふ。六ツケ敷と云ふは真に治まる。長ふ/\四十 九年以前から何も分らん。六ツケ敷と云ふ事あるものか」  中「法律がある故勤め致すも六ケ敷う御座ります」  神「サア/\答へる処それ答へる処の事情。四十九年以前より誠と云ふ思案があろ実と 云ふ処があろ。事情分かりあるのかないのか」  中「天子様と云ふも神様の御守護で此の世を司り下さるで御座りませふ。神様の仰を守 れば天子様の道理に背きます。依て両方の立つ様に御指図を願ひます」  神「訳らんではあるまい。元々よりの段々の道すがらサア/\一時応へる処何うでも此 うでも押し切る事情いかん。唯一時ならん/\。今と云ふ今先の道を運ぶと一時」  中「明日迄の所御猶予を願ひます」  神「サア/\一度の話を聞てチアンと定め置かねばならん又々の道がある。一つの道も 如何なる処と聞き分けて唯止めるはいかん。順序の道/\」  中「講習所を立て一時の所勤めの稽古をさして貰ひたう御座ります」  神「安心が出来んとあるならば先づ今の所夫々今の所談事/\と云ふ処サア今と云ふ今 と云ふたらサア抜きさしならんで承知か」  中「勤め/\と御急き込み下さいますが唯今親様の御障りは人数定めで御座いましやふ か何うでも勤め致さねばならんで御座いませやか」  神「サア/\夫々の処心定めの人数定め事情なければ心定まらん。胸次第。心次第。心 の得心の出来るまでは尋るがよかろふ。降りたと云ふたら引かんで」  中「教会本部を置き其上は神様の仰は如何なる事も致します。夫迄の御猶予を願ひま す」  神「サア/\事情なくして一時定め出来難い。サア/\一時は夫々是三名の処で屹度定 め置かねばならんで。何れ願ふ処其処は任せ置く。必らず忘れぬよふ」  中「有難う御座います」  神「サア一時今から今と云ふ心三名の心確いかりと心合せ返答せよ」  中「第一此の屋敷の道具元の魂生れ出てあるとの仰此の屋敷をさして此の世界始まりの 地場故天降り無い人間無い世界を拵へたとの仰一天万乗の君様をして神の御魂と心得居り ます所我々同様魚介の魂との仰右三ケ条一統の者より御上様へ申上ましたら我々何んと答 へて宜敷御座りましやうか差支ます。人間は法律に逆ふ事は叶ひませぬ」  神「月日あつて此の世界あり。世界あつて夫々あり。夫々あつて身の内あり。身の内あ つて律あり。律あつても心定めが第一」  中「右仰せられますれば我々身の上は承知仕りましたが親様のお身の上を心配仕りま す。さあと云ふ時は如何様とも御利益を下されましやふか」  神「サア/\実があれば実があるで実と云ふは知ふまい。実と云ふは火水風。サア実を 買ふのやで。価をもつて実を買ふのやで」  これに恐れ入つて一同が退つた。  其の後お気分も漸次快方に向つて旧正月の元日には床から起き上つてお髪をお上げにな つた。而して一同に向つて 「サア/\充分にねつた/\。此の屋敷始まつてから充分ねつた。充分受け取つてある で」 といふ有難い御言葉を戴いた。此のお言葉を戴いた人は鴻田、桝井、梅谷、清水の諸氏と 私との五人である。  此う云ふ具合で御容態が大分良いので新の二月七日迄お地場にゐて一旦国へ帰り、講社 廻りをして福田村の宮本勇次郎(講元)方へ泊つてゐると其の晩お地場から急用があるか ら来いと云ふ手紙が来た夢を見た。其の手紙は誰が書いたのか分らん。唯大至急用がある から帰れと云ふことが書いてあつた。其れで急いで御地場へ帰ると恰度教祖の御葬儀がす んで後始末をする所であつた。  教祖御昇天の前に 「何時迄此うして居てもはたも分らん。世界も分らん。之れが残念。此の侭おさめてしま おふか。扉を開いて世界を直路に踏みならそふか」 と云ふお言葉があつたが私が国へ帰ると間もなく旧正月十五日頃から御容態が変つて遂に 御昇天になつたのである。  此のやうにして御相談のある場合には始終置いて戴いたのが独り御昇天の際に省かれた のは返へす/\も残念である。これについては私に余程の深い因縁がある。其の因縁と云 ふのは六人の親をもつて一人も親の死に目に逢はないことである。即ち父の死ぬ時は私は 学問の為め他へ預けられてゐて逢はなかつた。母の死ぬ時は東京にゐて死に目に逢はなか つた。先妻の両親の死に目にも今の家内の両親の死に目にも遂に逢ふことが出来なかつ た。御教祖の場合も角目々々の御相談には何時も加へて戴いたが御臨終にも御葬儀にも逢 ふことが出来なかつたといふのは余程深い不孝な因縁である。(終)  教祖の降誕日と昇天日とに就て                             大平 隆平  教祖の誕生日に就いては今日の所二説ある。其の一つは四月十八日説にして他の一つは 四月四日説である。  四月十八日説は天理教祖を始め天理教祖真実伝天理教祖観の如き今日一般に伝つてゐる 誕生日であつて四月四日説は一部の篤志研究家の外知らない説である。  前説の出所に関しては今日正確のことを知ることが出来ない。けれども後説の出所には 明かに戸籍が残つてゐるのである。  其れで今此の二説の中何れが正確なものであるかと云へば私は四月四日説をもつて正確 な誕生日であると信ずる。  然らば何故四月十八日説の如き根拠のない空説が生れたかと云へば私の想像する所に依 ればこれは教祖の昇天日二月十八日(一説二月十九日)の十八日と混同視したものと思は れる。これより外に四月十八日説を確める何等の根拠がないのである。  刊行はされてゐないが長らく本部にゐて研究せられた故諸井政一氏(諸井国三郎氏の長 男)の著教祖「みちすがら」には明かに四月四日としてある。これは戸籍を調べても其う である。明治十一年以後ならば或は新暦と旧暦とに依つて多少の相違を生ずるかも知らな いけれども其れにしても唯つた十四日の差と云ふことはない。此等の点を総合して見ると 四月十八日説は全然虚説にして四月四日説が最も信ずべきものであることが訳る。  其れから昇天日であるがこれも二月十八日説と二月十九日説とある。中山家の菩提寺善 福寺の過去帳(愚かなる前管長は先祖の位牌と共に過去帳も焼いて了つたから中山家には 何等信ずべき記録はない。)に依れば二月十九日と書いてあるが天理教祖の年表は二月十 八日とある。けれどもこれは旧暦より繰つて行けば明治二十年の旧正月二十六日は新暦の 何日に相当するか古い暦を調べれば直ちに判明することであるからこれは後日の問題とし て残して置く(今手元に暦がないから調べることは出来ない。)  次に教祖の年齢であるがこれは伝説に依つても天啓に依つても戸籍に依つても九十歳に なるのであるが善福寺の過去帳には八十歳十一ケ月と書いてある。これに就いて善福寺の 主張する所は当時戸籍法の完全でなかつたことを唯一の論拠としてゐるがこれは役場の通 知書に落ちたか善福寺で落したか分らぬが兎に角八十九歳十一ケ月の九を脱落したもので あることは明かである。これは善福寺で如何に主張しても此方には其れ以上の有力なる証 拠があるから深い議論を要しない。  兎に角教祖昇天後二十年や三十年に此の様な異説が生ずる様では百年千年の後には教祖 だの伝記だの歴史だのについて何んな異説が生ずるかも知らない。これ今日の天理教研究 者の最も注意して精確な調査をして置かなければならぬ所以である。  之れは序だから云つて置くが仏教でも基督教でも其の他の宗教でも教祖の降誕を盛大に 紀念するが天理教では立教日と昇天日とを紀念する計りで降誕日といふものを全然記念し ない。これは決して謝恩の真義に叶はぬ。宜しく降誕祭を規定して教祖の降誕日を祝福し なければならない。これを特に此の祭に於て云つて置く。(紀元十億七十七年一月十四 日)  卯の助参れ/\                       忍坂  西田 伝蔵  私の祖母さんが教祖様の妹のお桑さんと云つた人ですが随分長生きしてゐました。其の 人に出来たのが藤助に勇助に幸助に名張のお叔母さんで御座います。  藤助さんが三島の小寒さんの所へ行きましたが暫時居て戻つて来て外へかたづきまし た。此処を継いだのは勇助さんですが其れが私です。わたい等も子供の時分良く御父つ様 と庄屋敷へ行きましたが善右衛門さんつて人(秀司)は足が悪くてヒヨコ/\歩いて居ま した。何んでも布留の辺で医者にならうと思つて学問し一週間位山へ入つて学問したと云 ふことを聞いて居ます。  教祖様は良う知つてゐます。私の子供の時分(私は今年六十三歳になりますが私の十位 の頃)此の座敷へおゐでになり三十日も御いでになり私の御父様と御母様に扇のお授けを 下されました。御幣を切つて床の間に飾つて長い事おいでになつたことを良う覚へて居ま す。お帰りになります時は此方から提灯もつてと云つても私はよく見えるからと云つて帰 られました。  私が彼地へ連れて行かれました時南瓜の御飯を炊いて貰つて食べたことを覚へて居りま す。其れは小寒さんの居た頃でした。其の頃は米の粉を御供にして居りました。  今でも親類の中で彼の神様を重んじる方は此の座敷へ入らして貰つて/\と云ふ人があ ります。普通なら此んな古い所を喜ぶ人はありませんけれども。  元来私の御父つ様も御母様も一心に神様を拝んで天理王命と紙に書いて貰つて信心して ゐましたが其の頃教祖様もよく御いでになり盛大になりかけた内のお母さんの兄さんの安 倍の北村五郎兵衛と云ふ人が大嫌ひで百姓も放つといて其んなことをして居てはいかんと 大分非道く反対したので内のお父つ様もお母様も止めて了ひました。其んなことで私共も 信心を止めて百姓をする事になりましたが其の中に父も母も死んで了ひました。  教祖様おいでになると  卯の助参れ/\ と仰つ可愛がつて下さいました。  今も神様は有難いと思つて居りますけれども彼の道には何うも良うつかぬ様に思ひま す。(終)  怒られるから行かぬ                       忍坂  増田喜三次  増田喜三次氏は一時小寒様の女婿になつた藤助氏の息である。今は忍坂で小さく百姓を しながら此の道を信心してゐる。  私共が尋ねた時氏は稲をこいてゐたがお父つ様のことを尋ねに来たと云ふことを聞いて 仕事の手を止めて汚ない上り縁に汚ない座布団を延べて招じて呉れた。話してゐる間は十 分か十五分であつたが其の人の善さ相の顔と飾気のない態度とは云ふに云はれない快感を 与へた。  其処を暇乞ひして去つた後にも貧苦の中に満足しつゝ生活しつゝある其の家の家族の幸 福が長く私の胸に刻まれた。  私のお父さん(藤助)の亡くなつたのは七十六で今年で十一年目になります。若い時庄 屋敷の小寒さんの所へ行きましたけれども子供が死んで了ふし帰つて来たと云はれてゐま した。  帰つて来ましてから暫時ブラ/\して居ましたが内のお母さん(お歌)と一手になつて 四十三の時私が出来ました。  本家は南半国の打ち分け場所と仰つて教祖様が時々御いでになりました。私共も子供の 時分彼処で十二下りの手をつけて貰ひました。自分は要らないと云つたけれどもせいと云 はれて六本のお叔父等と一手に手をつけて貰ひました。  親爺の居る頃は本部にもチヨイ/\行き行けば大事にされるのですが段々お側附きが出 来て此んな粧装をして行くと怒られますから自然遠のく様になりました。(豊田の仲田さ ん等がよく怒りました)教祖様は来い/\云はれ色々お話も聞かして戴きましたけれども 今は其う云ふ訳で本部へ参らして戴いても内の方に面会すると云ふことはありません。( 了)  人類教育家としての中山ミキ子                          大平 隆平  現代並に将来の経世家の最も注意しなければならぬことは政治や法律や倫理や哲学に依 つて此世界を得べしと考へる根本的誤解である。成程現代の社会には政治や法律が必要で ある。もしこれがなかつたら此の社会に生活しつゝある人間は一層不幸な地位に堕落しな ければならない。けれども一部の政治万能論者や法律万能論者の考へるが如く政治や法律 さへ完備すれば此の世界をして理想の世界たらしめ得べしと考へるのは大なる誤解であ る。何故なれば人間其れ自身が自らを統治する信仰と勇気とを欠いて居たならば当局者が 如何に活動しても到底統治するに由なかるべし此の法律上の欠陥を埋める為めに生れたの が倫理である。  今日の政治家今日の教育家は法律の欠陥を埋めるのに此の方法をとつてゐる。けれども 倫理の世界も法律の世界に比ぶれば一層高い世界には相違はないが尚ほ形式儀礼の上に立 つて精神界を統一する権能がない。此の実践倫理の欠陥を補ふものが哲学である。  哲学と云ふ言葉を一層訳り良く云へば人生観である。人生観と云ふものは個人に依つて 各々相異してゐるから一定の標準哲学なるものを挙げることは出来ないが真に偉大なる哲 学者の占める世界は偉大なる道徳家乃至偉大なる法律家の占むる世界よりも一層根本的の ものである。  けれども政治と云ひ法律と云ひ、倫理と云ひ、哲学と云ひこれは皆人間力の創造になつ たものであつて自然の理法とは其の間に大なる区別があるのである。  例へば此処に偉大なる哲学者がある。彼の考へる所は確かに自然の一角に触れてゐる。 けれども彼は偉大なるが故に果して疾病不幸に遭遇せぬであらうか? 世界の哲学史を繙 く所其う云ふ哲学者は一人もなかつたのである。  天理教教理より云へば凡て天理に叶つた精神生活を行ふ者には疾病不幸がない筈であ る。何故なれば彼れには肉体の疾病不幸を引き起す精神病がないからである。けれども今 日世間の哲学者の伝記を繙くに無病息災で一生を幸福の中に生活したものは少ない。これ は彼の持つて居た精神上の法則が自然の法則と一致しなかつた証拠と見なければならな い。これは世の所謂偉大なる法律家乃至偉大なる道徳家と称せらるゝ人間の伝記に於ても 同様の事実を発見することが出来るのである。  これは直接政治や法律や倫理や哲学の不完全なる証拠とならないかも知れない。けれど も法律上の罪を犯さないが為めにもしくは犯しても法律上の罪人として取り扱はれない為 めに其の人は神の前に無罪の人として取り扱はれるであらうか? 又た此処に哲学者があ る。彼の哲学の論理は一糸整然として乱れない。けれども論理の正しいことは必ずしも道 理の正いことではない。彼は自己の哲学上の論理の正しいが為めに神の前に正義の人とし て承認せらるゝことを要求する権利があるであらうか? もしあると思つてゐたら彼は大 なる錯誤家である。  けれども多くの場合人間は監獄もしくは警察に監禁もしくは拘留せられたことがないこ とをもつて一人前の人間だと思つてゐる。又た多くの場合人間は自己の論理が誤つてゐな い為めに自己の道理迄正しいものと信じてゐる。これは悲しむべき人間の誤解である。  吾人は至る所の病院に種々の生理的故障並に心理的故障をもつてゐる天の罪人を発見す る。けれども彼等は聊かも自ら天の罪人とは思つてはゐない。  浅果敢なる人間は人の眼を暗ます事さへ出来れば窃盗をしても良いものだと思つてゐ る。けれども女(男)を見て色情を起したものは中心既に姦通してゐるのである。況して 其れを現実に実行せるものをや。  愚かや人の物を取れば我が物もとられ人の眼を暗ませば我が眼も亦暗まさるべき天の理 法を知らない論理の上で勝つことは必ずしも道理の上で勝つことではない。もし我が精神 我が生活が天理に合して居なかつたならば人は善人と認めても神は善人とは認めないので ある。  今日の政治家や今日の道徳家は法律(人間の作つた)や道徳(人間の作つた)が完備す れば其れで此の世界を理想の世界となすことが出来ると思つてゐる。けれども其れは笑ふ べき浅薄な考である。此の世界は人間の作つた法律や人間の作つた倫理に依つては決して 完成せられない。此の世界を完成するものは天理である。人道である。自然の法則であ る。神の意志である。この自然の法則神の意志を称して宗教と云ふ。此自然の法則神の意 志を自ら実行もし且つ他人に伝へるものを宗教家と云ふ。これぞ宇宙の最高法律でありこ れぞ世界の最大政治家である。  天啓の声に曰く 「さあ/\明ければ五年と云ふ。万事一つの事情を定めかけ。定めるには人間の心は更々 要らん。弱い心は更らに持たず気兼遠慮は要らん。さあ思案してくれ。これから先は神一 条の道国会では治まらん。神一条の道で治める」  誠や来るべき時代は法律の時代でもなければ哲学の時代でもない。宗教の時代である。 神の時代である。此の宗教の時代、神の時代の先駆者として生れて来たのが天理教祖中山 ミキ子である。  古来人類教育家として最も偉大なる天分をもつてゐた者に釈迦あり、基督あり、孔子あ り、マホメツトがある。けれども我が天理教祖中山ミキ子の人物養成の目的並びに手段は 其れ等の何れの人とも違つてゐた。  天理教祖の画いた理想の人物  彼女は釈迦の如く単に頭の人を造るが目的ではなかつた。彼女は基督の如く単に心の人 を造るが目的ではなかつた。彼女は孔子の如く単に手の人を造るが目的ではなかつた。彼 等の目的は智情意共に円満なる理想の人物を造くるにあつた。此の目的を具体的に表現せ るものが御神楽歌である。御神楽歌の主要の目的は彼を単に知る丈けではない。彼を更ら に口に移し手に表はすにある。即ち意と口と手と三つを一致せしむるにある。之れを人物 養成の上に就いて云へば意と口と手の揃つた人物即ち智情意の円満に調和した完全の人物 を養成するにある。  これは客観的に見たる天理教の理想の人物であるが之れを主観的に見れば天理教の目的 は「山の仙人」よりも「里の仙人」を養成するにある。云ひ換へれば不生産的人物よりも 生産的人物を養成するにある。非家庭的人物よりも家庭的人物を養成するにある。非国家 的人物よりも国家的人物を養成するにある。非社会的人物よりも社会的人物を養成するに ある。非活動的人物より活動的人物を養成するにある。非実際的よりも実際的人物を養成 するにある。非現実的人物よりも現実的人物を養成するにある。貴族的人物より平民的人 物を養成するにある。保守的人物より進歩的人物を養成するにある。自己中心的人物より 神霊中心的人物を養成するにある。わけて天理教の主要の目的は平民的、活動的、実際的 理想人物を養成するにある。凡て此等の要素を総合したものが天理教祖の所謂「里の仙 人」である。  凡そ此の世界に於て何が困難だと云つて人類の教育より困難なるはない。彼の庭園の草 木を養成するにさへ朝夕之れに水かひ土かひ贅枝を切り害虫を除くに幾年の苦心を要する か知らない。更らに其れよりも貴い神の用木を養成することは更らに幾層倍の慈悲と注意 と忍耐とがなければならない。これは子をもつたものゝ何人も経験する所である。  彼女の教育法  彼女が人間生活に対する態度は常に論より証拠を重んじたと云ふことである。此の論よ り証拠を重んじたといふことは必ずしも事実を重んじて理論を排斥したと云ふ意味ではな い。先づ口に云ふより行に示すことをもつて第一義としたといふことである。  事実守屋筑前や小泉の不動院や法林寺、光蓮寺の住職や其の他彼女を屈服せしめんとす る敵意をもつて来た人達に対しては彼等の心服する迄諄々として其の教理を説いたのであ る。而かも彼女の説く所の教理と其の態度なり生活なりが一分一厘の隙なく一致して居る が為めに反対者は之れに向つて強弁することが出来ないで退却したのである。  唯彼女の特色は世の所謂議論の為めの議論家にあらずして人生の為めの議論家であつた といふことである。  (一)実物的教育法  彼女の教育法の特色を挙ぐれば第一に実物教育法を用ゐたといふことである。即ち火を 見れば火火鉢を見れば火鉢湯沸を見れば湯沸鉄瓶を見れば鉄瓶について説明を与へた。乞 食が来れば直ちに乞食について説明を与へる 「彼れはな前世に贅沢計り云ふて彼んな物は食へん此んな物は食へん。彼んな物は着れ ん。此んな物は着れん。彼んな所には住めん。此んな所には住めんと贅沢計り云つて物を 粗末にした理が廻つて今生には人の捨てたものを拾つて食ひボロを纏つて人の軒下に住ま はんならん様になる。けれどもな彼れも皆な神の子供であるから目をかけてやつてくれ。 神が喜ぶから」 と此う云ふ論法である。  彼の秀司氏の死骸に臨んで 「伊蔵さん内の態を見ておくれ。金計り溜めて」 と云つて涙一滴こぼさなかつたといふのは一面に於て彼女の偉大なる精神を語ると共に他 の一面に於て自己の愛子を実例に挙げて天地の理法を説明した血あり涙ある人類教育家の 真面目を表はしたものと見ることが出来る。  わけて彼女が偉大なる実物教育家であつたと云ふ最も著るしい例は彼女自身が新時代の 典型人として自ら人類に向つて新しき雛型を示した点にある。  これより大なる実物教育法はないのである。  彼の神を説明するに月が神であるとか火水風の外に神はないとか云つて眼に見える偉大 なる物象に依つて眼に見えない偉大なる存在物を推測さした如きも確かに彼女の実物教育 法の一例であらうと思はれる。  (二)実際的教育法  彼女は客観的に教理を説かないことはないが其れが彼女の唯一の目的ではなかつた。更 らに其れを実地に就て経験し且つ応用することが彼女の最後の目的であつた。其の為めに 彼女は機会がある毎に其の事件を捕へて其れに向つて生きた説明を与へることを怠らなか つた。これ物体に接する毎に其れに向つて生きた説明を与へたと。蓋し同一の教育法に依 るのであつた。  一例を挙げて云へば彼女の弟子達が貸物借物の理を聞き倦きて新しき話を求めた時に彼 女は黙つて奥から一刀を携へて出て来て今願い出た弟子の真向見かけて切り下げやうとし た。弟子が驚いて後退りした時彼女が微笑の中に発した言葉は確かに千金の価値がある。 「貸物借物の理が訳つたと云ふから珍しい話を聞かさうと思へば逃げる。其れでは本当に 未だ訳つたのではない。貸物借物の理が訳らいでは人の師匠となることは出来ない。もつ と勉強せんならんで」  これは彼女の実際的教育法を説明する充分の例にはならんかも知らぬ。けれども其の一 般は之れに従つて推測することが出来る。  (三)実験的実感的教育法  彼女は人を助けるには先づ自ら助かつたのである。彼の産屋助けの如き病気助けの如き は皆自ら第一に之れを実験した後に行つたのである。  彼女が信徒を教育するにも決して理論を授けて其れで満足しない。必らず先づ教理を実 行して実地の経験を味はせるのである。  即ち 「雛型通らにや雛型要らん」 の如き彼女の実験的教育法の精粋を語つてゐるのである。  即ち教祖の通つた「道すがら」を一度実地に通らなければ生きた教理を味感することは 出来ない。生きた教理を味感することが出来なければ宗教生活は全然無意味である。彼女 が実験的教育法に意を用ゐたのは此処にある。  (四)啓発的教育法  教育法に二つある。注入的教育法と啓発的教育法である。今日旧式の学校にて多く用ゐ て居るのは注入的教育法である。けれども此の注入教育の弊害として注入せられたる智識 に対しては確実なる記憶を有するも其れ以外の新しき事物に対してはやゝもすれば応用の 才を欠くことである。  教祖の用ゐた教育法は前者よりも寧ろ後者に属してゐた。即ち相手の力量を計らずして 無暗に注入することを避けて専ら既得の智識を総合して未得の智識を獲得せしむることに 努力した。  例へば彼の懶惰者の下男を改心せしめた如き其の一例である。  彼女は始めより其の男に向つて働けとも稼げとも云はない。彼が懶ければ懶ける程優待 し遂に其の男を本心より改善して勤勉な男としたのである。  此の道は悟りの道であると云ふのも此処である。  (五)暗示的教育法  前に述べたる如く彼女が人に物を教ゆるに決して一から十まで全示すると云ふことはな い。大抵其の人間の力で解釈の出来る程度に止めて置く。これが彼女の教育法であつた。  (六)比喩的教育法  釈迦でも基督でも随分巧妙な比喩家であつたがミキ子も亦其れに劣らぬ巧妙な比喩家で あつた。  彼女が「貸物借物の理」を説くに神を富豪に譬ひ人間の中借物を粗末にする人間と大切 にする人間と感謝を知らぬ人間と感謝を知つてゐる人間との二種の型と老人と最う一人の 百姓にたとひ借物を、重箱と袱紗にて表はして一篇の寓話を造り上げた手段の如きは中々 凡手ではない。わけて私の感心するのはやゝもすれば卑俗に流れ易い女性の月経を説明す るに茄子や南瓜に譬ひて説明した手腕の如きは教育家として誠に上乗のものであると思 ふ。  此の他信仰の径路を説明するにも山坂や茨や畦や崖道や剣の中火の中、淵中、細道、大 道と云ふ風に様々の艱難辛苦の道を比喩を以つて表はせる如き又純金の長橋や宝の山の比 喩に依つて信仰の帰途を示した如きは最も著しき比喩的教育法の一例である。  (七)漸進的教育法  けれども彼女が教理を説くにも始めより難解の教理を説いたものではない。始めは泥海 時代の如き基礎教理より順次貸物借物の理の如き八つ埃の如き互ひ助け合ひの如き日の寄 進の如きを説いたのである。即ち信徒を教育するにも易より難に入り簡より繁に入つて信 徒を教育したのである。  (八)個人的教育法  其れから天理教祖の用ゐた教育法の中最も研究に価するものは個人的教育法である。  凡て教育上の真の効果を納めんとせば多くの人間を一堂に始めで説明すると云ふことよ りも直接個人個人に接して所謂人を見て法を説くに如くはないのである。此の方法は今日 最も進歩した理想的の教育法である。  (九)自然的教育法  彼女の教育法を見るに人工的教育法に依つて不自然な人物を造らうとはしなかつた。凡 て天真爛漫に人間の本性を発揮せしむるのが彼女の目的であつた。この自然的教育法も亦 実に彼女の教育法の一つの特色である。  (十)平民的教育法  彼女の教育法の多くの特色の中に平民的教育法と云ふことは一つの大なる特色である。 これは新時代の教育法中最も出色の一つである。  (十一)通俗的教育法  凡て人類教育の目的は相手をして真に真理を理解せしむるにある。其れには難解の説明 を用ゐるといふことは大なる禁物である。 「六ケ敷いことを云ふては訳る人もあれば訳らん人もある。其れは道とは云へん」 「柔りこいもの/\柔りこい物は若い者も食べれば老人も食べる」  此の自覚の下に彼女は最も通俗平易の方法をもつて人類を教育せんとした。偉大なる卓 見と云はなければならぬ。  (十二)人格的教育法  宗教の目的が安心立命にあるか人格修養にあるかは宗教哲学上の大なる問題である。も し宗教の目的が前者にありとすれば浄土宗の如きは理想的の宗教と云はなければならな い。けれども精神的に醒めて来た近代人に取つては人間生活について自覚なき他力信仰に 安心立命することは出来ない。この欠陥を補ふ為めに天理教の如き自力主義的他力主義の 宗教が生れたのである。  天理教の第一の目的は決して礼拝や祈祷ではない。人格の改造社会の改造が其の第一義 的目的である。此の目的の下に生れたものが教祖の人格的教育法である。凡ての天理教祖 の教育法は此の人格教育に結合せられるのである。  以上は天理教祖の人類教育法の一般であるが彼女の教育法は教育法としても最も最新式 の教育法に属するのである。殊に彼女が最も力を入れた実際的教育法、通俗的教育法、個 人的教育法の如きは最も教育の真義に徹底したものである。  今日の社会は天理教祖と云へば主義も理想もない無学の一巫女の如く解して居る者が多 い。わけて悲しむべきことは国民教育の当局に当る所の人々が此の偉大なる人類教育家の 人格、思想、生活に就て全然無知なることである。これは今日の教育家の思想が如何に低 級であるかを語つてゐるのである。  私は断言するのである。此の社会を根本的に統治するには法律の力丈けでは駄目である と。私は又た断言するのである。新時代の国民を養成するには倫理や修身の力では駄目で あると。見よ今日の女学生の中一人でも礼法の真義を解して居る者があるか? 又た真に 其の必要を根本的に解して居る者があるか? 私は悲しいかな其の一人をも発見すること が出来ないのである。此の仏作つて魂を入れざる現代の教育現代の政治を救ふものは何う しても宗教の力に待たなければならない。  私をして将来全世界の教育を左右するの権能を与へられたりとせば私は先づ全世界の修 身科を廃して天理教科を置くのである。これは今日並に将来の世界を救ふには今日の倫理 や今日の哲学や過去の宗教ではならない。何うしても神の最後の理想を表象した天理教で なければならぬと信ずるからである。  けれどもこれは天理教の教義及び理想をしらない者には容易に信ずることの出来ないこ とである。私は其等の人々の為めに簡単に教祖の思想を紹介せう。  天理教祖に従へば此の世界の元始りは泥の海の中で月(国床立命)日(重足命)両神居 るばかり。其処でお月様よりお日様に相談するには 「吾々両神居る計りでは誠に淋しい故人間と云ふ者を拵らへ其の陽気遊山を見て楽まう」 と議此処に一決して鰌をもつて人間の魂とし人魚と巳とを人間の父母とし其れに当時の最 高動物の凡ゆる特徴をとつてつくつたのが原人である。けれども当時の人間と云つても決 して今日の人間の姿を有したものではなかつた。其れが段々介鳥魚獣の時代を経て今日の 人間に発達した。其の間実に九億九万九千九百九十九年。其の中九億九万年は水中生活。 六千年は智識の仕込み。三千九百九十九年は学問の仕込み。其れに依つて十のものなら九 つ迄仕込んだが後の一つが仕込むに仕込まれなかつたから天保九年に元なる地場(大和国 庄屋敷)に元なる神が表はれ人間の原母伊邪那美の命(巳)の後身なる天理教祖を立てゝ 万委細の元を聞かすのである。  其れで今迄何の様な教へもあつたけれども皆な人間の成人に応じて教へて来たものであ る。今度の教へは教へ始めの教へ終ひこれ一つ仕込んだなら後に何も教へることはないぞ よと云ふのが天理教の序論である。依つてこれを根の教、元の教、だめの教、止めの教と 云ふ。  今其の教理の一斑を挙ぐれば人間の肉体及び肉体の生活に必要なる凡ての物質は神が人 間をして日の寄進的生活相互扶助的共同生活をなさしめんが為めに神が貸し与へたもので ある。其れを勝手に我が身の思案我が身の欲に使ふから之れを小にしては疾病不幸の如き 個人的不幸之れを大にしては天変地異と云ふ人類的不幸に遭遇するのである。従つて人類 全体が無病息災不老不死の理想の世界に安住せんと欲せば先づ利己的精神を捨てゝ人を助 ける精神にならなければならないと云ふのである。  此の教理を具体的に説明したものが朝起き、正直、働き、互ひ助け合ひ、日の寄進であ る。  其れで天理教祖の画いた理想の人物は朝起者、正直者、働き手、相互扶助主義者、日の 寄進者である。これが即ち彼女の所謂「里の仙人」である。天理教祖の目的は即ち全人類 を里の仙人化せしむるにある。而して其の模範を彼女自身に示したのである。  凡て時代は変遷するものである。人間の定義も亦其うである。吾人は最早や昨日の太陽 や一昨日の太陽に依つて今日の光を求めてはならない。今日の熱と光と力とは今日の太陽 に求めなければならない。此の不完全なる論文は即ち其の生成化育の力を見んとする努力 に外ならない。                               (紀元十億七十七年一 月十四日)

 中山家過去帳  中山家過去帳  文政三年六月十一日六十二歳ニテ逝ク     善兵衞父   戒名 専 誉 称 念 禅 定 門  文政十一年四月八日             善兵衞母   戒名 唯 誉 妙 念 禅 定 尼  天保七年四月廿四日             二女常子   戒名 智 玉 慧 弁 童 女  嘉永六年二月二十二日(玄米三斗)      善兵衞   生 遊 軒 宝 誉 長 岸 栄 寿 居 士  明治三年三月十五日             秀司長女秀子 行年十八歳   戒名 摂 取 軒 光 誉 明 照 禅 定 尼 元トハ光岸明照信女贈五重ノ約定ニテ布留街道迄神葬トス。ソレヨリ善福寺二十七世達誉 上人取扱ヒ片鉢伴二人  明治八年九月廿七日             小寒子   戒名 光 唯 軒 明 誉 顕 赫 信 女  明治十一年四月六日 櫟本梶本宗治郎ヨリ小寒ヘ贈五重ス      桂現善福寺住職   戒名 光 唯 軒 明 誉 顕 赫 禅 定 尼  明治十一年四月六日入行(旧三月四日)    長女政子  善福寺ニテ五重相伝ス                      桂現善福寺住職   戒名 実 誉 貞 信 禅 定 尼  明治十二年七月十四日            秀司子   智 生 童 子  明治十四年四月九日(教祖年譜四月十日)   秀 司   徳 樹 軒 門 誉 霊 山 秀 司 禅 定 門  明治十五年十一月十一日           松 枝 神葬ニテ送リ善福寺ヘ葬ル。墓所ニ見立テナシ焼香引導ト五重約定ニテ   宝 参 妙 樹 禅 定 尼  明治十年一月   堺県大和国第一大区三小区戸籍之五十一               山 辺 郡                 三 島 村           ・         大和国第一大区三小区山辺郡庄屋敷村           ・             第五番屋敷住平民農           ・              実父善兵衞亡長男  氏神同郡同村   ・                      中 山 秀 治     春 日 社 ・                          五十五 歳七月           ・ 文政四年辛巳年七月廿四日出生           ・ 明治十四年巳年四月九日病死           ・                                              ・ 寛政戊午十年四月四日出生        母   み   き  当国同郡勾田村  ・                          七十八 歳十月  浄土宗      ・ 実父当国同郡三昧田村平民農前川半七長女     善 福 寺 ・ 文政元戊寅年二月五日入嫁           ・                                              ・ 嘉永四年辛亥年三月三日出生       妻   ま つ ゑ           ・                          二十五 歳十一月           ・ 実父当国平群郡平等寺村平民農小東政吉亡二女           ・ 明治三庚午年八月二十六日入嫁           ・                                              ・ 安政戊午五年一月二十三日出生      長男  音 治 郎           ・                          十九歳 一月           ・                                              ・ 文政八乙酉年四月八日出生        妹   ま   さ           ・                          五十一 歳十月           ・ 明治十一年戊寅二月十六日分家相続           ・                                              ・ 明治十一年丁丑二月十五日出生      長女  ま   ち           ・     ・                       以  上            ・     ・                                              ・     ・     ・                                    編集室より                            R O 生  教祖三十年祭も待つて居る中に来た。兼て予告の通り教祖の音容に一度なりとも接した 方より感謝と記憶とを募つたが其の中に一人として自分から進んで投稿して下さる方はな かつた。  目前の利害には随分悧巧だが此んな永久的の仕事に対しては全然注意を払はれないのが 天理教徒の特色である。  本誌の主義として雑誌の紙数が多くなつても少くなつても一定の定価以外には一文も多 く戴かず又た少く戴かない事に定めてゐるのであるから本号の如き実費が定価以上に上つ ても決して外の雑誌の様に定価を変更する様なことはしない。  実は最つと載せたいのであるが其う無制限に紙数を増すと云ふことは道の友の様な七千 も八千も読者を有する雑誌なら兎に角僅かに五百や七百の読者しかない本誌にとつては到 底不可能の事である。其れで材料は未だあつても遺憾ながら割愛することにした。  けれども本誌が兼て予告した感謝と記憶の蒐集は之れで終つたのではない。本誌は更ら に永久的の仕事としてより以上の材料を蒐集し最後に単行本として発行する心算である。         私は此の頃つく/\考へた。天理教の人達に何を頼んでも駄目だと云ふ ことを。彼等は自分や自分一身の事になると夢中だが少しく範囲が広まつて来て教界全体 とか国家とか社会とかの事になると全然無頓着だ。其れは/\冷淡なものだ。此んなこと で世界最後の宗教で御座る等とは片腹痛い。最つと大きな自覚を望んで置く。  改名の理由                       旧 大平 良平                       新 大平 隆平  凡そ名前を換へると云ふことは瓶詰のペーパーを張り換へる様なものである。ペーパー を張り換へた所で正宗が月桂冠にはなりはしない。けれども人間丈けは特別である。彼は 張り換へたペーパーの暗示を受けて清酒とも名酒ともなるのである。  私が大平良平を大平隆平に換へたのは必ずしも姓名哲学上の理論に囚れた為めではな い。隆平の二字が良平の二字よりも一層適切に神の理想即自己の理想を表現してゐると信 ずるからである。  私の解釈に依れば大平は大平原即ち世界を意味し隆平は高原即高天原(甘露台と云つて も良い)を意味するのである。大平隆平は即ち此の世界に高天原(最高理想の世界)を実 現することを意味するのである。  之れを天啓の言葉に徴するに  谷底をせり上げ高山を見下ろし世界を直路に踏み平らす と云ふ神の理想は同時に私の理想である。  此の世界直路の理想は大平良平にも表はれてゐるが「世界を良くならす即ち理想の世界 にする」谷底をせり上げ高山を見下ろして現在よりも一層高い理想の世界を実せんとする 神の理想は良平よりも隆平により多く表れてゐる様である。これが改名の第一の理由。  改名の第二の理由は良は女性的であり且つ活動性に乏しい。然るに三十年祭以後の私の 理想は一層大なる活動を熱望して居る。これ良を捨てゝ男性的活動的の隆を選んだ第二の 理由。  改名の第三の理由は大平隆平は縦と横との八方へ拡がる意味を有す。これは空間と空間 とに亘つて永久無限に自己拡張を行はんとする私の理想に一層叶つてゐる様に思はれる。 これが改名の第三の理由である。  此の他二種の姓名について何れも長所と欠点とをもつてゐるが大体に於て大平良平より も大平隆平の方が世界直路の神の理想に一致して居ると信ずるから前者を捨てゝ後者をと つた。  是を定めるに就ては三度神籖を頂いた結果三度共隆平の御指図を戴いた故後者に決めた のである。  元来世間では改名について必らず欲があるのであるが私には欲がない。唯世界直路の理 想を姓名計りではない。凡ての方面に亘つて実現せんとするより何等の欲望はないのであ る。且つこれは私の先天的使命だと信じてゐる。私の姓名は其の理想なり使命なりを実現 したものである。元より人にとつては児戯に過ぎないかも知らないが私にとつては真面目 な仕事である。  わけて今年は私の思想も生活も立て換への時期に迫つてゐる。私は思想の上に於て旧思 想を捨てゝ新思想をとり、生活に於て先祖の財産を断つて神の世帯をもつのである。独姓 名に於て変化せざる理由はない。私の新しき姓名は私の新しき性格に向つて下されものと して有難く甘受するのである。 ・  教主政従の時代                        大平 隆平  凡そ人間社会の治め方に二途ある。其の一つは自治(もしくば内治)にして他の一つは 他治(もしくば外治)である。  自治とは他の干渉圧迫を待たずして自分自身を統治して行くことである。他治とは他人 の干渉圧迫を待つて始めて自分自身を統治して行くことである。更らに詳しく云えば自治 とは人の見て居ると見て居ないとを問わず、人の聞いていると聞いていないとを問わず、 他人の干渉、圧迫、恐喝迫害するとせざるとを問わず自ら善と信じた事は時と処と人とを 問わず断行して憚らざるを云ふのである。他治とは此うすれば監獄の罪人になるとか他人 の感情を傷くるとか人に擯斥せられるとか云ふ利害打算の上より自己の欲望に反して風 俗、習慣、流行、輿論、法律、道徳に従ふことを云ふのである。  今日の社会の殆んど大部分は皆後者の打算心より善人を粧ふ偽善者にして一旦法律の力 の及ぼす社会の眼の届かぬ所にあつては直ちに野獣の本性を顕して非倫非道の行為をなし て恥じざる人間である。  世間の無政府主義者は云ふ。 「法律と政府とは吾人の自由を束縛する有害無用の妨害物のみ」 と。けれどもこれは一を知つて二を知らざる空想のみ。今日の社会にもし法律を廃し政治 を排したならば吾人は一日と雖も安全の生活を営むことは出来ない。けれども吾人は同時 に又た彼の法律万能論者の云ふが如く法律さえ完備すれば良い、制度さえ完全すれば此の 世界は理想の世界となると云ふ議論に組することは出来ない。何故なれば法律が如何に完 備し、行政が如何に発達してももし人間にして罪悪を犯さんとする意志を有したならば其 の者は必らず法律の眼を隠れて罪悪を行ふ余裕を発見するであらうからである。  其の証拠は監獄の罪人である。彼等は監獄にある間は手足を拘禁せられつゝあるが故に 悪事をなすの力なしと雖も一旦監獄を解放せらるゝや彼は再び以前に増したる犯罪を行ふ ものが少くないのに見て明かである。  之れを同じく社会の制裁を恐れて表面善人を粧ふ偽悪者もしくば悪人を粧ふ偽悪者も亦 社会の眼の届かぬ範囲内には自由に自己の本性を顕わして跋扈するのである。世の所謂交 際家なるものは殆んど此の偽善偽悪の大なるものである。  凡て此等の人間は利己心、打算心には人一倍敏なれども利害を超越して常に真実自然を 愛すると云ふ真実性に欠けている。従つて其の行為は朝三暮四にて一定の真実なるものが ないのである。  けれどもかくの如き人間の跋扈する其の家、其の村、其の郡、其の県、其の国、其の社 会の暗黒なるは彼の利己主義者の集合体なる支那に徴して明かである。其処には論理はあ つても真理はなく、利害はあつても真実はない。其の結果其の家、其の村、其の郡、其の 県、其の国、其の社会は乱れて遂に滅亡の悲惨に陥るのである。此の信仰なき国家の憐れ むべき末路については経世家の等しく注目しなければならぬ点である。  今日の施政者の方針を静観するに法律の完備行政の発達以外に国家統治の最上策はない かの如く考えている様である。往々学校に修身科を置き国民道徳の函養を標榜すれども其 はただ小中学の児童を欺く方便にして国家当局者より平然其れを破壊して顧みないのであ る。かくの如くにして国民道徳の発達の如き如何にして望むべきか? 吾人は寒心を禁ず ることが出来ないのである。  且つ修身(もしくば道徳)なるものは法律よりは一歩精神的のふかさを有すれども其の 目的が元来行為にあるが故に単に其れをもつて複雑なる人心統一することは望むべからざ ることである。  此等の点を見ても今日の国家当局者が治世の上に抱ける意見が如何に浅薄なるものであ るかを想像するに難くはない。けれどもこれは一人国家当局者の罪ではない。国民殊に宗 教家、道徳家、哲学家、芸術家、教育家の罪である。何故なれば彼等にもつと深い人間性 の自覚があつたならば彼の子供の様な幼稚な当局者に人類の大事を一任して平気で居る筈 はないからである。此の点に於て我が上代の政治家は今日の政治家よりもより大なる見識 と理想とをもつていた。  彼等は理論的に自覚していたか居ないか知らないが兎に角此の世界は神の意志によつて 統治せらるべきものであることを知つていた。又た此の世界を治めるには神を祭る即ち神 の意志を実現するにあることを知つていた。政治を祭事と云ふのは其の時より起つて来 た。当時にあつては即ち神を祭ることが同時に国を治めることであつち。祭政一致の理想 は上代に於て其の侭に実現せられつゝあつたのである。此の慣習は余程長く続いて来た。 然るに近世武家の跋扈するに至つて政治は全く堕落して祭事即ち宗教と全く手を断つに至 つたのである。これが国民堕落の第一歩である。  けれども国民は今日の法律の力のみをもつては到底此の国家此の社会を根本的に統治す ることの出来ないことを自覚しなければならぬ時が来た。又た国民は今日の所謂道徳をも つて到底真に幸福なる生活を楽しむことが出来ないことを自覚しなければならぬ時が来 た。云い換えれば宗教即ち信仰の力を借りなければ何うしても人間を精神の奥底より根本 敵に改造し統御することができないことを自覚しなければならぬ時が来た。  けれども今日迄の経験に徴するに仏教も基督教も儒教ももはや此の上の新しき統治力の ないことを証明した。此の間に於て最も多大の未来をもつて生れたのが天理教である。  凡て宗教の強味は情実因襲の如き一切の外的条件を脱して心中より真実生活、自然生活 を建設しつゝ行く点にある。かくの如き人のかくの如き生活には他人の干渉は無用であ る。彼は自分自身のことは自分自身で処理して郁子とを知つている。従つて法律の如きは かくの如き人に向つて全く贄物である。何故なれば彼は法律以上の広い高い深い世界を自 分自身の中にもつているからである。  天理教祖臨終の間際に高弟飯降伊蔵を通じて下つた天啓に 「サア/\月日(神)あつて此の世界(地球)、世界あつてそれ/\(万物)あり、それ /\あつて身の内(人間)あり、身の内あつて律(法律)がある、律があつても心の定め (信仰)これが第一」 と云ふ言葉があるが畢竟法律(人為律)は時と処と人とに依つて変更せらるべきものであ るが自然律即ち神の意志は永久に変更すべからざるものである。且つ法律の力は僅かに外 界に表われたる形式を支配するに止まれども自然律は内界即ち人間の精神並に肉体を支配 する魔力を有す。従つて法律は時と所に依つて犯すことが出来ても自然律は犯すことが出 来ない。強いてこれを犯せばただ死あるのみである。  明治廿四年二月七日夜二時即ち日本に始めて国会の召集せられた翌年の天啓に 「さあ思案してくれ。これから先は神一条の道国会では治まらん。神一条の道で治める」 と云ふ天啓がある。これは法律の力をもつてしては此の世界を到底真に統治することは出 来ない。何うしても神の道即ち宗教の力によらざれば新の根本的統治の出来ないことを預 言せられたのである。  越えて明治廿五年五月十六日午前九時の天啓に 「今の道は二つある。一つは道の表の道。一つの道は心の道や。表の道一寸も道や。心の 道は違はして何んならん。訳らんから皆見免してある事を何んな事であつたやらなあ見免 してあるから遅れて何んとならん。胸の道あればこそ是迄通つて来た。これをよふ聞いて 置かねばならん。世界道と云ふものはとんと頼りにならん。確つかりした様でフワ/\し てある。世界の道に力を入れると胸の道は薄くなる」 とあるが此の世界の終局は必らず政教一致の時代が来る。即ち政治とは宗教の別名なる時 が来る。其の時が来なければ詐である。  今日の如く国家当局者が人為的の法律をもつて此の世界を統治せんとし宗教家又た彼等 の忌諱に触れざらんことをのみ恐れている時代では新の治世は期して望むことが出来な い。宗教家自ら政治家の上に立つて天上の権威を振ふ時が来なければ駄目である。  そもそも将来の宗教家の自覚しなければならぬ点は政治家は一国一代を治むる権威を賦 与せられたるのみなるに反し宗教家は万代万国を統治すべき大なる権威を賦与せられたる ものなることを自覚するにある。然るに今日の宗教家は自己の偉大なる天賦を忘れて其の 従僕なる政治家の前に平身低頭して其の忌諱に触れざらんことをのみ恐れている。仏教家 然り、基督教家然り、神道家然り、かくの如くにして宗教家の権威何処にあるや。実に神 の権威、天上の権威、宗教の権威は此等堕落せる無定見の宗教家のために地下に堕落した のである。  けれども昔は其うではなかつた。釈迦は全天竺の王となるよりも霊界の王者たるをもつ て無上の光栄として金銀宝石をもつて飾れる王衣王冠を捨てゝ乞食僧の姿を選んだ。基督 又た悪魔の甘言を拒絶して精神的ユダヤ国の王たることをもつて自ら任じた。彼等の弟子 も亦世俗的栄華を超越して政治家の上に立つて自己の天分と天職とを発揮した。今日の宗 教の権威の失墜と共に宗教家の権威も亦失墜したとは云えなおローマ法王なるものありて 各国の元首の上に立てるは有名無実とは云えなお宗教のために多少の気焔を吐ける点に於 ていささか快心の微笑を禁ずることが出来ない。  然るに翻つて我が国の宗教家の現状は如何? 仏教家も基督教家も神道家も政治家の前 に立つ時は全く其の奴隷たるの観がある。かくの如くにして何時の世にか宗教の権威の発 揮せらるべき時かある。  凡そ一国の文明の真相を知り其の国の治乱興亡の程度を知るには其の国民が如何に大な る信仰を有するや否やに依つて定まるのである。云い換えれば其の国民が如何に宗教心に 富めるか否かに依つて定まるのである。もし其の国民にして真に大なる宗教心を有せざる 国民であつたならばたとい一時物質的乃至武力的文明をもつて世界に覇を称することがあ つても必らずや憐れむべき悲惨の最後を演出しなければならない。  今日の日本も此の点即ち宗教をもつて国家統治の根本義となさない内は決して真に国家 万代の策を得たるものではない。何故なれば法律の力は真に一時的であり表面的にして真 の国家の統治は国民道徳の発達と宗教心の発揮とに待たなければならぬからである。  然るに今日の政治家、今日の教育家、今日の宗教家を見るに殆んど此の点に於て真の自 覚を有するものがない。わけて未来の世界教世界最後の宗教たる天理教当局者にしていさ さかもこれに対する自覚の見えざるは私の最も悲しみつゝある所のものである。  けれども近き将来に於て世の経世家が等しく法律や哲学や倫理や道徳のみをもつて此の 世界を統治することの出来ないことを自覚する時が来る。其の時第一に叩き起されるもの は今日の天理教徒である。其れ迄は彼等自身の力をもつては到底醒むることはないであら う。  従つて私は彼等暗愚なる天理教徒の自覚を殊更に望まない。先ず世界有識家が一日も早 く宗教の力に非らざれば到底此の世界を根本的に統治することの出来ないことを自覚せら れんことを望む。其の時こそ此の世界が真の文明に入る第一歩である。敢て世の経世家の 反省と自覚とを望む。  病を恐るゝ勿れ                        大平 隆平  天理教信者の多くが随分不条理なる教会の制度及び儀式を忍んで教会通いを続けている のは信心を止めれば又元の身上(疾病)なり事情(不幸)なりが復活するを恐れる臆病心 からである。  彼等は金を出すことは厭だ。けれども金を出さなければ病気になるを恐れるのである。 彼等は教会のために働くことは好まぬ。けれども種々の不幸が彼等の身を襲わんことを恐 れるからである。勿論中には此う云ふ怯懦の信心より超越して真に真理を愛し真生活を愛 するものもないではないが其れ等の人々は余程信仰の進んだ人である。大部分の人は以上 述べたる疾病不幸の再来を恐れる恐怖心より心ならずも緩慢な信仰を続けているのであ る。  けれども此の世界に於て吾人の恐るべきものは肉体の病ではない。心の病心の癖であ る。云い換えれば性癖性情である。此の性癖此の性情あるがために人は受くべき自然の幸 福より離れて小さな世界に呻吟しなければならないのである。  けれども性癖と云つても一概に悪い性癖計りではない。中には随分美しい性癖もしくば 性情はある。けれども吾人が実際生活上の不幸を醸すのは其う云ふ良い性癖性情のためで はなくて多く片寄つた不具の性情のためである。随つて吾人にとつて最も焦眉の信仰問題 は先ず自己の悪癖を打破することである。肉体の疾病は此の精神病の全治に伴つて全治す るのである。  けれども此処に一つの問題は以上の性癖即ち精神病を全治することが信仰の奥義ではな いと云ふことである。云い換えればほしい、をしい、かわゆい、にくい、うらみ、はらだ ち、ゆく、こうまんの性癖を打破するだけにて信仰の要義は尽きていないのである。真の 信仰の奥義は真我の実現即ち朝起き、正直、働き其の者となることである。  然るに多くの天理教徒の信仰の標準は未だ此処迄達していない。彼等はただ肉体の病を 助けられたるが故に信心せぬと云ふが如きものではない。病は助からうが助かるまいが不 幸は除去せられやうが除去せられまいが真理なるが故に信ずるでなければ本当の信神とは 云えない。本当の信神とは病が助かつても助からぬでも真理なるが故に信じて正しき生活 を継続して行くことにある。  蓋し因縁と云ふものは今生積んだ因縁もあれば前生積んだ因縁もある。小さな因縁もあ れば大きな因縁もある。軽症もあれば重症もある。大難もあれば小難もある。小さな因縁 なれば一時の心機転換に依つて直ちに精神的健康状態に復帰することが出来るけれども大 なる因縁になれば長い間の習慣性のために一時の復活が出来ない場合出来ない人間があ る。従つて自己の因縁の大小自己の信仰の大小を計らずしてただ助かる助からぬと云ふ眼 前の利益を標準として信仰しもしくば信仰せざるは未だこれ真の信仰心を有せるものと云 ふことは出来ない。たとい現在に於て助かつても助からいでも自己の欠点、悪癖、悪習慣 を自覚して正しき性情の発展に向つて努力するこそ真の信仰を求むる意識ある人とこそ云 ふべけれ。もし其の長い努力の期間に於て自己の悪癖が真に矯正せられたる時あらば其の 時こそ真に吾人は健全なる精神をもつて健全なる幸福を享楽する資格ある人となるのであ る。  畢竟神の立腹即ち身上事情を恐れて自己の所信を断行し得ざるの徒はただこれ臆病者の み。もし自己の正しと信ずることを断行して神の御異見を戴いたならば戴いた時こそお詫 をすれば良いのである。何んぞ始めより地頭の一喝を恐れて自己の正義を断行し得ざる如 き臆病に堕する必要あらんや。従つて私は云ふ。  病を恐るゝなかれ と。吾人の恐るべきは理である。理に反せる自己の非行である。誤つた精神である。苟も 自己の精神に於て何等疚しき点を有せざれば神を憚る必要はない。況んや人をや。私の希 望するは実に此の種の人である。徒らに神戸人との顔色を読むことに巧みにして自己の所 信を披瀝し得ず断行し得ざる烏合の信徒にあらざるなり。従つて私は云ふ。  病を恐るゝ勿れ と。真の信仰者の信条はただ理(神)を愛するの一事にある。其れに依つて生ずる結果の 善悪は私の問ふ所でない。これ我が信条である。         (紀元九億十万七十 七年二月十一日)

  独立信仰の宣言                          大平 隆平  天理教の教師信徒諸君!  余は今回天理教信者五百万の前に立つて余の信仰の変化について一言の説明を許されん ことを乞う。  余が此の道の信仰に入つたそもそもの動機は身上事情のためではない。又た人に匂い掛 けせられたためでもない。最初より全く他人の教導を待たない独立独歩の自由研究の結果 此の道の信仰に入れることは余がかつて余の入信の動機に就いて告白した通りである。け れども余は神魂を祭る必要上一昨年の七月山名部下の一信徒として教会の制度、儀式、習 慣に親しむに従い今日の天理教は余がかつて考えていた教祖の道とは甚だ異る多くの点を 発見したのである。而して其の一部分は昨年の六月以後の新宗教誌上に於て天理教界革命 の声として公表した点に於て余の立脚点は多少理解せられた筈である。けれども教祖の天 理教と今日の天理教との距離は彼れにて尽きているのではない。余は更らに多くの矛盾撞 着を此の二者の間に発見するのである。  一例を挙げて云えば今日教界を風靡しつゝある専制的封建的傾向である。これは天理教 本来の理想なる自治的、立憲的思想と全く容れない所の傾向と云わなければならない。  然らば何が故に自治独立を標榜せる天理教の如き立憲的新宗教、文明的新宗教にかくの 如き弊風が生じたか? 其の主なる原因は順序の理を余りに狭く曲解したがためである。 云い換えれば中山家と信徒及び先輩と後輩との間に余りに大なる階段をつけたがためであ る。其の結果は絶対服従主義と云ふが如き非天理教的教理を生み人権を全く没却するに至 つたのである。  蓋し今日の天理教にあつては中山家はあたかも昔の将軍家である。大小の教会はこれ昔 の譜代外様の大小名である。彼等が本部に登参するのはあたかも諸大名が江戸城に参勤交 代すると同一である。将軍家たる中山家は天理教界の至上権を握り其の云ふ所一つとして 行われざるはなく往々之れに反くものあれば其の教会は直ちに滅亡せざるを得ないのであ る。此う云ふ専制的弊風はひとり中山家と各教会との関係計りでなく各教会と其の部下教 会との関係に於ても同一である。  更らに会長と信徒との間は如何と云えば元来兄弟姉妹の道でありながら宛然これ主従の 関係である。これを天理教々理より云えば一列は皆な兄弟である。道順序の上より云つて 兄弟姉妹はあつても主従はない筈である。従つて兄は弟を立て弟は兄を立て姉は妹を助け 妹は姉を助けてもこれに命令する権利はないのである。これが教祖の説いた互い立て合い 助け合いの理である。  然るに今日の教会の会長対信徒の関係は如何? 宛然一主人が雇人に対する態度であ る。下は上を立つても上は下を立つる精神がない。ただ奴隷の如く下婢の如く駆使すれば 足るのである。これは或る一部の教会に限られているかも知らないが上級教会と部下教 会、会長と信徒との階級が余りに甚しく其間に於て真の親みのないことは天理教界全体に わたれる争ふべからざる事実である。  以上述べたる先輩もしくば上級者の専制横暴と極端なる階級制度とは道の精神に相反し ている計りでなく最も時勢後れの陋習と云わなければならない。  事実政治界に於ても思想界に於ても封建制度、専制制度、階級制度は五十年乃至百年以 前の過去の夢と化しているではないか! しかも封建制度の打破、専制制度の打破、階級 制度の打破、自由の讃美者、平民主義の宣伝者たる天理教其れ自身が未だ此の古き昔の夢 を繰り返しつゝあるとは余りに大なる矛盾ではないか? しかも天理教界全体の人が此の 点に思い及ばず、及んでも此の弊風を打破し得ざると云ふのは余りに自己の宗教の価値及 び使命と時勢の進歩とを知らざるものと云わなければならない。  以上は天理教界に於て直ちに打破せざるべからざる弊風の一つであるが更らに天理教界 の一つの弊風は各教会が各々党派を立てゝ一人でも多くの信徒をつくりもつて自己の教会 を盛大ならしめんとして信徒の掠奪を公然行いつゝある有様は宛然戦国時代の諸英雄の勢 力争いといささかも異らない。其の間には道の発展と云ふが如き全体的観念はない。ただ 自己の教会を盛大ならしめんとする一心あるのみ。  此等は道の精神より云つて最も悲しむべき弊風の一つである。  余が今回教会を去る主なる理由は天理教界全体がかくの如き専制的利己的階級的傾向を 追ふ限りは到底自由と独立と平民的特色とを愛する余が天理教信仰の最初の動機と一致す べからざることを悟つたからである。  次に余が教会を去る第二の理由は今日の如く各教会が教理を度外視し教祖の道を度外視 してただ自己の勢力範囲の拡張にのみ熱中し道のためも世界のためも思わない状態にあつ ては私の真正の活動の範囲は自ら局限せられて根本的よりも寧ろ枝葉的一般的よりも部分 的になる恐れがあるからである。  事実余が山名の一信徒である限りは余の活動の範囲は全然山名の一部分に限らるゝこと はないにしても其れがために道全体のための働きを局限せられることは争ふべからざる事 実である。これは道全体のため世界全体のために善良にして公平なる生活をなすことをも つて理想とせる余にとつては到底耐ゆべからざる苦痛である。  凡て九尺二間の道場にて五間十間の大身の槍は使えぬと同じく小さな仕事場で大きな仕 事は出来ないのは何より明かな事実である。五万十万の信徒をもつて唯一の宗教とし三百 五百の教会をもつて唯一の自分の家となすことは私の理想ではない。自分の家族は人類で ある。自分の家は全世界である。自分の仕事は人類的事業である。かくの如き信念と理想 を賦与せられた私には特殊の世界に於て枝葉の仕事をなすことは牢獄に入れられたると同 様の苦痛である。これ本部を始め何れの教会にも属せず神直属の信徒に帰つて自由の信仰 生活を営まんとする所以である。  かく云わば世の大部分の天理教信者諸君は余をもつて異端なり外道なり半狂的高慢者な りと云ふかも知れない。けれども余は元来或る一部の所謂謙遜なる人々の如く私は詰らな いもので御座います。私は何も出来ないもので御座いますと云つて引つ込んでいるのを美 徳だとは信じない一人である。出来ても出来なくても無限大の理想をもつて其れに向つて 全力を傾倒しなければ満足の出来ない人間であると同時に自分の感じたことを感じたが侭 に発表することなしに満足することの出来ない人間である。  私は聞く教祖が大豆越の山中忠七氏に向つて有てるものゝ凡てを売つて神に捧げよ。然 らば神は一粒万倍として返すであらうと勧めた時忠七氏は財を惜んでこれを拒んだ。其時 教祖は忠七氏に向つて  五反や十反の田地を弄つている様では駄目だ と云つて其の志の小なることを笑われたそうであるが余は始めより向上の志を絶つて凡夫 凡婦の生活に甘んずるよりも寧ろ己が力量を知らざる誇大妄想狂たらんことを欲するので ある。もし願ふべくは宇宙を呑むの大度と塵埃を余さぬ細心とを欲するものである。  実に余は何よりも大なる田地を要する。何よりも大なる庭園を要する。何よりも大なる 屋敷を要する。何よりも大なる家屋を要する。何よりも大なる仕事場を要する。何故なれ ば小さな田地、小さな庭園、小さな屋敷、小さな家屋、小さな仕事場では大きな活動は出 来ないからである。  更らに余は自由を愛す。余は平等を愛す。余は正義を愛す。余は公平を愛す。けれども 今日の天理教界には自由平等を与えず、正義公平を許さない。宛然これ三百年以前の封建 政治である。其処には人権の擁護なく自由意志の尊重がない。かくの如くにして今日の天 理教界には貸物借物の理に説かれてある自由意志の尊重は蔭だも認めることが出来なくな つてしまつた。  余は痛切に感ずる。自分一身のためよりも寧ろ全天理教徒のために此の専制政治の牢獄 より一日も早く彼等を救い出さなければならぬことを。  余は先ず今日末派の信徒より天理教界の法王たる中山家に架けられたる踏み越え難き梯 子を破壊せん。而して未来の人類のために平坦なる道を開かん。  誠にこれ世界一列は神の愛児である。其の間に兄弟姉妹の順序はあつても兄は主たれ弟 は僕たれ、姉は婦たれ妹は婢たれとの制度は定めなかつた。これは  谷底をせり上げ、高山を見下ろし世界を直路に踏み平らす と云ふ神の理想に徴して明かである。これ近代的宗教家の始祖たる親鸞と共に余には弟子 なしただ同行者あるのみと呼ばしむる所以である。  かく云えばとて余は天然自然の順序の道を破壊せよと云ふのではない。ただ今日の制度 の下に順序の道を極端に追求する時は種々の恐るべき弊害の生ずることを云つたのであ る。  一例を挙げて云えば授訓者である。もし授訓者の親教会がロンドンにあり、其の又た親 教会がニューヨークにあり、其の又た親教会がパリにあり、其の又た親教会がロシアにあ り、其の又た親教会がインドにあり、其の又た親教会が支那にあり、其の又た親教会が東 京にありと仮定せんか。これを今日の制度より云えば授訓者は授訓を授く前に各親教会の 捺印を求むるたろに世界を一周し、更らに授訓の御礼としてもう一度世界を一周しなけれ ばならない。其の本部以下各教会への御礼の包金さえ容易ならざるに其れに世界を一周す る往復の旅費を加えたならば余程大なる財産家でも其の家族全体の御授訓を戴く迄には財 産は蕩尽せざるを得ないのである。  けれどもこれは未だ親教会の少ない方である。もし将来道の発展の結果親教会を百も二 百も有するものは御授訓を運ぶに半年以上の時日と何千の金を費さなければならない。尤 も学者金持ち後回しと云ふ天啓に依り後より道につくものは多く富豪なるが故に構わない と云ふかも知らない。けれども不便は一人信徒のみではない。部下教会に於ても全く同様 である。  例えば此処に二百の親教会を有する宣教所が移転届を申請するとせよ。其の教会は二百 の親教会の捺印を得て漸く本部に来り官庁式の繁雑なる手続を経た後本部より許可さるゝ や授訓者の二倍の礼を各教会になさゞるべからずと云ふ。  更らに余の解し難き不合理の一つは教会を新に新築し新設した場合には新設許可の御礼 並に新築許可の御礼として各教会に御礼をなしたる上更らに百円新築費として本部へ納め ると云ふことである。此等は本部より新築費として下付すべきに却つて新築した教会より 徴収すると云ふが如き無謀は天理教ならで聞かざる所のものである。  けれども教会の負担は其れのみにて尽きない。教会新設許可の前には親教会より視察に 来、其の又た親教会が視察に来、其の又た親教会が視察に来る。其の来るや必らず部下教 会長が案内として来るのである。かくの如くにして百も二百も親教会を有するものは建築 のために多大の費用を費した計りでなく彼等教会長の接待旅費等に多大の入費を消耗しな ければならない。其の上授訓者の数倍の御礼と百円の新築費を本部に寄付しなければなら ぬとは末派の教会の到底耐ゆべからざることである。しかも今日の教会制度を其の侭徹底 して行けば当然此う云ふ結果に到達しなければならないのである。  この救済方法に就いて余はただ二つの方法を知つている。其の一つは自己の直属教会よ り直ちに本部に来て御授訓なり事情願なり戴くのである。(其のための出張所があるでは ないか。)他の一つは部下の教会が独立の力を備ふるに至らば同格教会として独立せしめ かくて支庁の直属に委することである。此う云ふ方法をとれば今日の如き極端なる封建的 弊風を一掃する計りでなく末派の教会信徒を救ふことができる。けれども之れに対しては 多くの反対者がある。其の反対者の多く大教会分教会支教会の如き多くの部下教会を有す る既設教会である。何故なれば此の方法に依れば現在の大教会分教会支教会は在来の資格 を失ふ計りでなく其の維持に困難を生ずるからである。其の時彼等の口実として利用せら れるのは順序の理である。  順序の理より云えば教務支庁直属論は勿論余の山名大教会脱会の行為が現に順序を無視 せるものと云ふかも知らない。けれども封建政治が廃れて郡県政治が布かれた否な布かれ なければならなかつた世界の大勢から云つても斯道発展の必然の結果より云つても勢い到 達しなければならぬ結論を云つた侭である。後者に関しては余は答えて何等順序の理を狂 することはない。却つてこれを徹底せるのみと云わん。何故なれば余は山名よりお助けを して貰つたのでもなければ又た山名より匂い掛けせられたのでもない。全く神自身の直接 の匂い掛けに依つて此の道に入つたものであるからである。更らに余が天理教信仰の道程 にて就て詳しく云えば余が始めて天理教の天啓に接したのは東京の麹町大橋図書館に於て ゞある。余は読書の欝を晴らすために廊下に出た時不図私の眼に止まつたのは道の友であ る。余は一語又た一語遂に全誌にわたつて天啓の声を拾い集めて読んだが其の中より余は これぞ我が研究すべき大道であるとの霊覚を与えられた。依つて閲覧室に帰つて研究のた めに借り出した一切の書籍を返し館内にある天理教に関する一切の書籍を片つ端より読破 した。而して館外に出た時は余は天理教に関する一角の識者であつた。私は其の足で直ち に神田錦町の日本橋大教会に往き庭掃きをせる青年より一冊の御神楽歌を求め帰つて之れ を通読し、かくも簡単なる言葉の中にかくも偉大なる真理を含有せるを驚嘆した。爾来一 年有二ヶ月独力天理教の研究に耽り(其の間一度も教会へ行つたことなく一人も教師に逢 つたことはない)これぞ吾が永年求めていた宗教であるとの確信を抱き忘れもせぬ大正三 年の七月二十六日に東京教務支庁を訪れた。余の考では本部直属の信徒として信仰するに あつたけれども本部に早速登参せられぬ事情がありさては教務支庁を訪れたのであつた。 其の日は青年会の当日で事務所には山名大教会東都支教会の鈴木五郎氏がいられた。余は 氏を事務員と思い神を祭ることゝ信徒加入の手続を尋ねた。其の時氏の云ふには  貴方はこれ迄何処の教会にも入つたことがありませんか?  ありません。  其んなら教務支庁は信徒を扱いませんから私が祀らして戴きましょう  余は教務支庁で信徒を扱わぬと聞いて失望しつゝも神様さえ祀れば良いと思つて氏に依 頼した。氏は翌日約束の如く余を訪問し祭祀の日を定めて帰つた。而して中二日を置いて 七月三十日に神を祀り山名大教会東都支教会の信徒となつたのである。  爾来余は東都支教会に於ても山名大教会に於ても破格の優遇を受けて今日に至つたので あるが天理教教理並に教会制度研究の結果余は教祖の天理教と今日の天理教との間に益々 大なる距離を感じ遂に此の大恩ある養いの親、育ての親を捨てゝ生みの親、手引の親神の 許に帰らなければならない様になつた。  之れを教理の上より云えば生みの親と育ての親とある場合には育ての親につくのが自然 の道である。けれども余が天理教信仰の動機は全く神自身の教導に依るをもつて余は当然 神直属の信徒たるべきものである。従つて余は今回山名大教会を退会するのは順序の理を 無視するにあらずして却つてこれを徹底するのである。  けれども余は一般天理教徒に向つては余の今回の行動をもつて諸君の範となさゞらんこ とを告げるのである。何故なれば余の山名大教会を退会して神の直属の信徒に帰つたのは 順序の道を踏んだものであつて諸君が自分の教会を退会するのは或は順序の道を破壊する 恐れがあるからである。  余が特にこれを諸君のために断るのは余は神の律法を破壊するために来らず却つてこれ を完成するために来たからである。  けれども余は諸君のために注意するのである。誤れる教師の言葉と虚偽なる儀式と虚偽 の制度に従う勿れと。これに従ふものは神と教祖の敵である。  ただ  朝起きせよ  正直なれ  働け  これ三つは諸君の必らずや守らざるべからざるものである。もし諸君の中此の三つを守 らざれば諸君が如何に教会の制度儀式に忠実なるとも決して救わることなかるべし。  助け一条の道は草が茂つた。今日の天理教々師の往来している道はただ助かり一条の道 のみ。人泣かせの道のみ。彼等の求むる所は黄金ただ黄金である。けれども天国に於て最 も小さきものは金なることを記憶せよ。虚偽の儀式と虚偽の制度とは諸君を姓名の道より 引き戻す腰縄のみ。  余はこれだけ諸君に語つて我が生れ故郷なる朝起き、正直、働きの世界に帰つて行くの である。而して其処で何者にも束縛せられることなき自由の信仰を楽しむのである。  底には教理はあれども教権はない。本部の誤れる教権は遂に余を縛る力はない。教会の 制度も亦然り。かくて余は一切の教界の虚偽より脱して独立の信仰に入るべきことを宣言 す。  最後に一言余と山名大教会との関係について弁明して置かねばならぬことがある。余が 昨年の六月新宗教第三号に始めて天理教界革命の声を発表するや事情を知らざる天理教界 の人々は或は広池博士の暗中飛躍と云い諸井前会長の使嗾と云つた。けれども当時の余と 博士並に前会長との関係は各々ただ一回の会見を遂げしのみにて元より教界の内情を語つ たことはない。其れも余が本部にあつて毎日諸井氏もしくば広池氏に接しているものなら ば兎に角東西居を異にしてしかも未だ全く理解し合わざる人間が手紙を以つて六七月両号 にわたる彼れだけの内容を書かせられる筈はない。元来余と雖も信仰を生命とせる人間で ある。人の使嗾や指導に依つて論説を発表する様な薄弱な人格は持たない。然るに昨年七 月余が登本以来世人は専ら諸井氏が物質的にも精神的にも余の雑誌と関係あるかの如く信 ずる者が益々多くなつた。けれども前述の如く雑誌を出すについて余は諸井氏より一言の 使嗾を受けたことなく一文の補助を受けたことはない。これは神の明かに知つていること である。然るに今なお本部の中にも余と諸井氏との関係を疑いあたかも一味与党であるか の如く信じているのは余の主義信仰と諸井氏の主義信仰とが或る点に於て一致する点があ つたためだと思われる。けれども主義信仰の一致は必ずしも事業の提携とはならない。現 に余と諸井氏との関係が其うである。従つて余は山名大教会を去るに臨み一言二者の関係 を明かにして余のために累を諸井氏に迄及ぼさゞらんことを望んで置く。   付記 此の宣言書には教会の制度及び儀式と余の信仰との距離について徹底した説明 を欠いている。けれども其の一部分は昨年の新宗教に於て之れを発表したから改めて発表 しない。其の他のことに関しては漸次新宗教誌末に発表する心算であるから此処に省略し た。従つて余はただ独立信仰の結論に就て一言しただけに止めて置く。                               紀元十億十万七十七年 二月十二日

 第二天理教界革命の声(一)  大平 隆平

 第一章 階級制度を打破せよ  高山に育つる木いも谷底に     育つる木いも皆同じこと  余は紀元九億十万七十六年(大正四年)の六月より同年の十一月にわたつて天理教界革 命の声を書いた。其れによつて多少天理教界を覚醒し得たことは読者の声に依つて明かで ある。けれども教界の革命は彼れにて尽きたのではない。更らに  大なる革命を将来に 要するのである。  分けて第一に打破せざるべからざるは階級制度である。これは天理教のみならず仏教に 於ても基督教に於ても等しく主張する所のものである。  けれども余が此処に階級の打破を叫ぶのは人為的階級の打破であつて信仰の強弱知識の 大小に依つて生ずる自然の階級を打破するの謂ではないのである。  一例を挙げて云えば男女の階級である。此の道では雌松雄松の隔なし即ち男女は其生得 の権利に於て同等なりと明示されているにも係らず、やゝもすれば今日迄の世俗の習慣に 従つて女子の存在、女子の権利の男子と同等に認められざるは世界ならば兎に角道の内部 としては最も遺憾のことである。  次に私の最も遺憾に思ふのは本部と部下教会、会長と信徒、先輩と後輩との距離の余り に甚しきことである。ために社会に於ては相当の地位を占めているものも此の道の信徒と しては下女下男同様に取り扱われ殆んど人間としての権利を認められない感がある。  就中地方の淳朴の信徒のが本部へ来て先ず驚くのは其の扱いの余りに粗暴なることであ らうと思われる。これを入信当時に見るに此の道に引き入れる迄は猫撫で声で百方機嫌を とり一旦道に引き入るれば虎の如き権威をもつて望むのである。而して余程特別の引立で もない限りは自己の所属せる大教会乃至分教会の会長にさえ相対して面会することは出来 ないのである。まして本部員もしくば管長をや。これは他宗は知らず温和謙遜慈悲をもつ て何人にも隔てなく接見せられた教祖の開いた道としては余りに権威ー世界の道ーに堕し ているではないか?  余は敢て親教会と子教会、兄徒と弟徒との順序を没却せよとは云わない。けれども其の 間の関係を旧幕時代の主従の如くせよとは尚更云わないのである。  今日やゝ進歩せる家庭ー天理教以外のーに於ては主婦は女中と共に台所に働き其の食事 の如きも家族といささかも異ることなき同一の食事を給しつゝあるのである。然るに元来 は主人も主婦も子供も同時に同じ食卓に座つて一つの物も分け合ふて通るべき此の道に会 長もしくば役員の一家族は別仕立てにして信徒は他人か雇人の如く一家族の仲間に入られ ず別種の待遇を受けねばならぬと云ふことは世界一列一つの家族と説く天理教の先達者と しては余りに言行の矛盾せるにあらざるか?  元よりこれには一部の反対論者がある。会長と役員もしくば信徒は徳が違ふ。核が違え ば其の生活の程度の異るに何等不思議はないではないかと。如何にも世界の理から云えば 其れに違いない。けれども私の云ふのは教祖の所謂同じ一苗一苗代と云ふ世界一家族の理 想から云ふのである。苟も一家族ならば家族らしく一つのものも分け合ふて通るのが真に お道らしくはないかと云ふのである。  現にお道の中には余の言葉通りに実行して居る会長がある。否な余の言葉以上の事を実 行している会長がある。其の人は信徒と同じものを食い、信徒と同じものを着、信徒と同 じ所に寝て満足しつゝある。否な自分は食わぬでも信徒に食わせ、自分は着ぬでも信徒に 着せ、自分は野天に寝ても信徒を内に寝せている人もある。これが真の親心である。而し てかくの如き会長の下に教養されつゝある信徒も亦信徒である。彼等は又た自分は如何な る不自由を忍んでも会長の満足を計らんことをのみ心掛けている。かくの如く互いに喜ん で衷心より立て合い助け合ふのが真の互い立て合い助け対の道である。  然るに今日一般普通の会長もしくば役員は如何? 信徒の食も奪つて食い、信徒の夜具 も奪つて衣、信徒の場所も奪つて寝た。  此の三十年祭には此の二種の会長もしくば役員の雛型を見た。しかも前者は後者の千分 の一である。そもそも此の中に於て何れがより多く道の要領を得た人であるであらうか?  余の考ふる所に依れば其れは云ふ迄もなく前者である。前者こそ真に道の精神を得た会 長並に信徒である。  余は望むのである。天理教全体の人が此の精神をもたれんことを。今日の如く会長は大 名の如く役員は家臣の如く信徒は藩民の如くにては到底真に相互の幸福を感ずることは出 来得ないからである。  其の最も良き実例は世界である。世界は日一日と階級制度を打破しもしくば其の間の距 離を縮めつゝあるに反しひとり天理教のみ旧式の陋風を何時迄も維持しつゝある。これは 天理教本来の理想より云つても道の発達世界の進歩より云つても最も悲しむべき現象であ ると云わねばならない。従つて私は云ふのである。  順序の道は立つべし。然し階級制度は廃すべし。 と。これ世現直路の神の理想より云つて当然達せなければならぬ結論である。  之れは私自身に就て云えば余は昨年の七月より十月迄の四ヶ月間山名に於て事務員と同 一に別膳で賄われた。これが余にとつて何よりの苦痛であつた。余が教会を出でゝ自炊を 始めた一部の理由は教会では甘いものを食べられないためではなく他の日の寄進者や学生 等と異つた特殊な待遇を与えらるゝに耐えないからである。  正直の所余は人並以下に待遇せられることも苦痛なれば人並以上に待遇せられることも 苦痛である。常に人と同等にありたい。これが余の本心の希望である。此の余自身の希望 は人類的の希望であると信ずるのである。由来人間は其の徳によつて上下の区別はあつて も其の生権即ち人間としての権利は同等である。これは法律の認むる所である計りでなく 天理教々理の認むる所のものである。  然るに此の生得の権利を無視して会長は神の如く信徒は獣の如く見ねばならぬと云ふ理 由は何処にかある? かくの如き不条理は教理其の者の罪にあらずして教理の誤解の罪で ある。  道順序の理は決して其う云ふ極端な階級を会長と信徒、先輩と後輩、親教会と子教会の 間につくべきものではない。これ余が人為的階級の打破を絶叫する所以である。  第二章 専制制度を打破せよ  極端なる階級制度に伴ふ大なる弊害は極端なる専制制度である。  此の道は御神楽歌にも明示されてある通り「皆世界が寄り合ふてでけたち来る」道であ つて会長や役員の独断でやり通す道ではない。これは天理教の教理が然かく命ずるのであ る。  然るに今日の教会の事業を見るに会長以下信徒が心を揃えて事をなすと云ふ事は少く多 く会長もしくば役員が独断で極めたことを信徒に強制する傾がある。これは人間の自由意 志を尊重する道としては誠に大なる矛盾と云わなければならない。  けれども天啓の声に  来ぬ者に来いとは云はん。往ぬ者に来いとは云はん と云い御神楽歌には  無理に出やうと云ふでない。心定めのつく迄は とある如く何処迄も人間の自由意志を尊重し其の得心づく納得づくの上協同事をなすのが 自然の人道である。其れを一人もしくば数人の了見で事を決するのは明かに共同生活の意 義を破壊するものである。  かくの如くにして人道の教師等は先ず自分自身より人道を破壊していささかも顧みない のである。  此の原因は主として今日の天理教当局者に天理教の如何なる宗教であり世界の現状は如 何なる状態にあるかを知らざるためである。何故なれば天理教は明かに教訓とか命令とか 専制とか強制とかを脱して個人の自由意志を尊重する立憲的宗教文明的宗教であるからで ある。  然るに此の社会の灯明となるべき天理教より始めて社会が現に捨てたる旧式の遺風を頑 守するといふのは余りに道の発達世界の進歩を知らざるものと云わなければならない。  由来此の世界に於て神ならで一人も人間に向つて命令を発する権利あるものはない。其 の神すらも何うせ此うせの指図はしない。頼む/\と柔しい言葉をもつて人類に接せられ つゝあるにあらずや。其れを何んぞや人間の分際をもつてあたかも同じ同胞を召使の如く 駆使するとは礼を知らざるも亦甚しと云わなければならない。  蓋し此の道に働く人間は上を働き中を働き下を働き又た荒い事をなし、細い事をなし、 中位のことをなすものがあつても等しくこれ道の道具である。お互いに立てつ立てられ つ、助けつ助けられつ、頼みつ頼まれつ、謝しつ謝されつして睦じく共同生活を継続しつ ゝ行くべきものである。  其れを何んぞや。自己の意に従ふものは近づけ逆ふものは遠ざけ甚しきは激怒を発する が如きはそもそも人道と云ふものゝ如何なるものなるかを知らないからである。  蓋し教会は会長一人のために造られず、信徒一人のために造られない。又た此の世界は 帝王一人のために造られず、国民一人のために造られない。全人類のために造られたので ある。此の自覚なくして人道を人に教ゆると云ふが如きはそもそも片腹痛き事である。  専制制度の打破! 此処に於てか決して無用の空論ではないのである。  第三章 封建制度を打破せよ  階級制度並に専制制度に次いで打破せざるべからざるは封建制度である。  つらつら今日の現状を見るに或は郡山と云い、或は兵神と云い、或は山名と云い、或は 河原町と云い各々分立して自己の封土の拡張を争ふ様は宛然これ昔の大小名割拠時代に異 らないのである。  元より其の中には党派心を超越して純粋に世界一列の志を有する者もあるべしと雖も其 の大部分は道全体の発達と云ふよりも自己の教会の発達、道全体の利益と云ふよりも自己 の教会の利益を中心とせざるものはない。  殊に残念に思ふのは世界一列の理想より云えば何れの教会の信徒をも同一視せざるべか らざるに実際は中々其うではない。自己の教会の信徒には便宜を与えても他の教会の信徒 は殆んど異端視するの風がある。  更らに以上の残ねんは道の理想より云えば他の教会を助けても信徒を結成してやるべき に却つて信徒の掠奪を行つていささかも恥じない。此等は道の精神より云つても最も悲し まざるべからざる現象である。  之れを世界の上より云つても封建制度は五十年百年前の昔の夢にして今日は皆郡県制度 によつて昔日の党派心を一掃している。天理教の終局も亦かくの如くならざるべからず。 即ち各教会は其の封土を本部に返上して新に支庁の管轄下にあつて新しき教政を布くべき である。  けれどもこれには多くの反対があるであらう。けれども道全体の発達を計るには其れよ り外に取るべき最良の方法はない。今日の如く各教会が各々党派を立て其の党派心を中心 として布教をなしつゝある中は決して真の天理教の発達は期して見るべからざるものであ る。従つて党派心の打破と云ふことは今日の教会の何れも協力一致してなさゞるべからざ る所のものである。  此の党派心を打破し世界一列の精神に復帰したならば何も支庁の管轄下に移すの必要は ない。けれども其れは今日の如き封建制度の下には到底望むべからざるものである。従つ て道の発達は必らずや新たなる制度を生むであらう。其の時こそ必らずや今日の封建制度 の打破せざるべからざる時であらう。私はこれを賢明なる教界の士君子の問題として提出 して置くのである。  第四章 中央集権を打破せよ  今日の天理教は教祖の精神に相反せる矛盾と欠陥との多くをもつて居るが其の中でも此 の中央集権の如きも矛盾の一つであると思われる。  一例を挙げて云えば財力の吸収である。実際今日の部下教会の状況を見るに其の枯形せ る有様は見るに耐えない。しかも本部はなお教権を利用して部下教会の熱血を絞り其の金 をもつて全く無用の用に浪費しつゝある。これは明かに教祖の意志ではない。教祖の意志 より云えば親は食わないでも衣ないでも住む所がなくても子に甘い物を食わせ美い衣物を 着せ奇麗な所に住ませたいのが教祖の理想であつた。然るに今日の本部のなす所は如何?  部下は痩せてもこけても本部へ金銭を吸収しさいすれば良いのである。しかも其の吸収 したる尊き部下の膏血は何のために費さるゝや? 曰く軍資金曰く選挙運動曰く建築曰く 何々と其の中の一文として道の発達とか社会の利益とかのために費さるゝことなし。  見よ本部の邸内には大きな犬を飼つて其のために人一人を付き添わせ、加之これに与ふ るに部下の会長もしくば信徒の口にするにとも出来ない上肉を与えている。かくの如くに して部下の膏血を絞つて集めた金は銀行へあずけられて漸次かくの如き無意義の費用に向 つて空費せられつゝあるのである。天理教が社会より毒虫の如く嫌われつゝあるはこの吸 収を知つて発散を知らざるに依るのである。  吾人は必ずしも信徒の膏血を絞る勿れとは云わない。ただ其の金を有益の事業に向つて 費せと云ふのである。彼の救世軍が国家よりも社会よりも尊重せられつゝあるは其の教理 が天理教より優つて居るためではない。其の事業が公利公益に資する所があるためであ る。ただ病助ける計りが助けではない。心直す計りが助けではない。苟も人類を幸福にす るものならば凡てこれ助け一条である。天理教も此の点に向つて金銭を費すならば吾人は いささかも尽せ果せと云ふことについて反対の声を挙げないのである。けれども今日の如 く此の貴重な信徒の膏血を湯水の如く無用の事に向つて浪費するに於ては大なる異議を提 出せざるを得ない。  蓋し家屋や家具や庭園は金さえあれば何時でも出来ることである。けれども道の発展は 容易に出来ない。今日は宏壮なる建物を立てゝ信徒に向つて城壁を築く時ではあるまい。 否な道の発展のために物質も精神も投げ出すべき時である。教祖もし御在世ならば今日の 本部の所業を如何に見給ふべき? 吾人は教祖の精神を思ふ毎に涙滂沱として止めること が出来ない。  けれども今日の本部に向つて何を云つても駄目である。何等の良心はドン底より腐つて しまつた。彼等には公利公益もなければ道に対する永遠の計もない。ただ眼前に宝の山を 築いて其れを眺めていれば良いのである。部下が起きやうが倒れやうが其れはいささかも 彼れ等の問ふ所ではない。道が発達しやうがしまいが其れはいささかも問ふ所ではない。 ただ今日を無事に通れば良いのである。気概もなければ抱負もない。計画もなければ事業 もない。ただ浪費あるのみ。ただ物質と金銭と労力と時間との浪費あるのみ。かくの如く にして教祖の助け一条の精神は全く没却せられおわんぬ。  けれども時代の要求は何時迄も本部に此の惰眠を貪らしめて居ることを許さない。従つ て吾人は先ず此処に重要なる問題を本部に向つて提出するのである。其の問題は本部が今 日の如く無用の金を銀行の金庫に遊ばせて置くならば先ず部下の疲弊を救い引いては公共 事業、慈善事業に教庫を提出すべし。然らざれば部下の熱血を絞ることは断然中止すべし と。これ至当の言である。  見よ部下教会の辛苦艱難を。彼等の中には食ふに食なく、衣るに衣なく、住むに所なき ものが往々ある。いじらしくて見ていられぬ。これをしも彼等の因縁として看過すべき か? 吾人は其の然るべからざるを思ふものである。  凡て一本の樹木にたとえて云つても枝葉が繁茂してこそ根幹も栄えるのである。今日の 如く部下は見る影もなく衰えて殆んど生色なきに至つては本部のみ一人栄えたりとて何の 希望かあるべき? 何の光栄かあるべき?  要するに今日の本部は余りに其の権力を振るい過ぎる。けれども親の権力の余りに大な る家には子は自然に其だることは出来ない。主権者の勢力の余りに大なる国家は国民が育 たない。天理教も亦其うである。今日の如く本部がひたすら中央集権もしくば中央集金に 腐心している間は決して部下教会の発達は期して望まれない。これ瀕々として教会の倒る ゝ所以である。従つて此の政策は道永遠の計より云つて決して策を得たものではない。道 永遠の計より云えばもつと部下に向つて精神上並に物質上の自由を与えねばならない。然 らざれば決して斯道の発達は望むことが出来ない。  つらつら今日の本部の所業を見るに本来は疲弊せる教会は之れを助けても維持発達して 行かなければならぬのに却つて其の根も葉もなき迄血液を絞り上げんとしつゝある。これ が本部か? これが本部の事業か? 凡そ世に最も不幸なる子供は理解と同情となき親を もてる子供である。彼等は生涯親権の暴戻の下に泣かざるべからざる運命を有しているの である。しかも其の横着なる親を制して不幸の子供を救ふのが吾が使命である。  凡て親は如何なる横道もなして可なりと云ふ規則は此の世界には設けられていないので ある。親も子も凡て皆生権に於ては同等である。其れと同様に本部の勢力の余りに大にし て部下の勢力の余りに小なるは神の喜ばざる所である。これを一つの家庭に見よ。親の権 力の余りに大なる家庭には必らず子に不孝の子が多いのである。親と子夫と妻の勢力の均 等せらるゝかもしくば其れに近づくに従つて其の家庭は漸次理想の家庭に近づくのであ る。  私は本部と部下教会、会長と信教との距離を昔の親子主従の如く大ならしむるを好まな い。これ私が極力中央集権を打破せよと絶叫する所以である。  第五章 教理を乱用する勿れ  凡そ何れの宗教に於ても多少教理の乱用せられざる宗教はないが天理教には殊に其の弊 害の甚だしきを思ふ。 「一例を挙げて云えば順序の理である。元来順序の理は教会の系統をのみ指して云つたも のではない。人と人との間、物と物との間、事と事との間に横わる一切の順序を指して云 つたのである。  例えば汽車や電車に乗るにも先着順に切符を買い先着順に乗降すべきが順序である。け れども今日の天理教々師並に信徒を見るに彼等は教会の順序については驚くべき訓練を経 て居るが社会に出でゝ長者を立て、幼者を立て、婦人を立て、老人を立て、先輩者を立 て、先着者を立てると云ふ社交上の順序と云ふものについては少しも訓練せられていな い。これじゃ何のために順序の理を教えているのかわからない。  そもそも順序の理は教会のための順序の理ではない。人間の活動律である。従つて工場 に於て働くにも書斎に於て仕事をするにも台所に於て働くも皆順序を重んずるのが順序の 理である。  然るに今日の天理教々会はこれを教会の順序にのみ利用していささかも人間と人間との 間の礼儀を説かない。これは明かに教会が自営上教理を乱用したものに外ならない。  例えば御授訓の御礼の如き事情願の御礼の如き部下教会の献金の割当の如き徒らに順序 の理を乱用して私腹を肥やす方便に外ならないのである。  けれども教理の乱用はひとり順序の理のみではない。凡ての教理は売品として各地の天 理教会に展覧せられつゝある。本部を始め部下教会は助け一条の精神を忘れてただ営利に 向つて汲々たるのみ。  かくの如くにして此の尊き博愛事業は全く営利的事業と化してしまつた。そもそもこれ に向つて喜ぶべきか悲しむべきか吾人は其の云ふべき言葉を知らないのである。  

 第六章 此の道は名聞を求むる道ではない  凡そ宗教生活と凡俗生活との相異は一は真実に生き一は名利に生くる点にある。然るに 今日の天理教界を見るに全く凡俗以上である。  彼等天理教々師の中には勿論真の布教者の精神を備えているものもあれども其の大部分 は一人でも多くの信徒をつくりもつて教界に巾を利かせんとする憐れむべき小なる志をも つて布教している者が大部分である。  彼等の唯一の光栄とする所は美衣美食に飽き大なる教会に住んで出入に送り迎えをつけ 上は長者の覚え芽出度く下は信仰の渇仰の厚からんことのみである。従つて往々集談所が 宣教所となり、宣教所が支教会となり、支教会が分教会となり、分教会が教会となり、教 会が大教会となり、権訓導が訓導となり、訓導が権少講義となり、権少講義が少講義にな り、少講義が権中講義となり、権中講義が中講義となり、中講義が権大講義となり権大講 義が大講義となり、大講義が権少教正となり、権少教正が少教正となり、少教正が権中教 正となり、権中教正が中教正となり、中教正が権大教正となり、権大教正が大教正となる ことあらんか。彼等は之れをもつて無上の光栄としている。其の名誉心の強きこと全く俗 人以上である。  殊に婦人になると虚栄心は更らに一掃甚しく祭礼に於ける楽器演奏の順序もしくは婦人 会に於ける講演者の順序等血眼になつてこれを争い、一旦他人に依つて順番を先取せらる ゝや後日の宿怨長く消えないと云ふ有様である。  これも今日の天理教徒の前身が天理も人道も分らない無学文盲の成り上り者の多きがた めであるが苟くも天理人道を人に教ゆる本部員夫妻を始めかくの如き状態にては余りに興 醒めたる有様にて唖然として云ふべき言葉を知らないのである。  しかも彼等は云ふ。本部員は道の功労者である。宜しく彼等をもつて儀表とすべしと。 無知の信徒はただ名を聞いて既に涙をこぼしている。けれども少しく眼の醒めたる人間に は彼等の人格や生活を見て尊敬せんとしても尊敬することが出来ないのである。  そもそも此の道は陰徳をつむとも表面には黙して語らざるをもつて道の精神となす道で ある。然るに今日の本部員を始め部下教会の教師に至る迄一言一行の功名より一円二円の 慈善を迄人に向つて誇示せんとす。吾人は彼等の多くが殆んど何のために此の道を信仰し ているかを知らない。  由来人間と云ふものは此の道を信ずると信ぜざるとを問わず其の功を包んで罪を衆人の 前に懴悔すめ所に其の人格のゆかしみはあるのである。然るに一言の美一行の善迄発表し て却つて裏に一言の醜一行の悪を包まんとするが如きは其の人格に向つて何等敬慕すべき 香味あることなし。しかもかくの如き偽善者が斯教の大部分ならんとは。余は寧ろ自己の 欠点に対する雄弁者にして自己の長所に対する唖者たらんことを欲するのである。これ我 が理想である。  私は天理教々師信徒諸君に告ぐ。此の道は名聞を求むる道ではないと云ふことを。もし 諸君にして名聞を求めんか。宜しく斯教を去つて政治界に下り人位人爵を争ふべきであ る。其の方が一層諸君にとつての捷径である。もし又た斯道を信じて真に人生の意義に徹 底した絶対価値生活を求むるならばただ真実なれ。諸君の選むべき生活は此の二つしかな いのである。敢て天理教信者の選択を促がす。  第七章 此の道は営利を求むる道ではない  凡そ此の世界にありと凡ゆる罪悪は名利の観念より生れないものはない。誠に此の二つ は一切の罪悪の父母である。天理教は此の名利の観念を打破して真実の生活を人に教ゆる 道でありながら今日の天理教にては本部を始め一般教師に至る迄如何にせば金を儲け得べ きかと云ふ様のこと計り考えている。元より中には真に真面目なる教師ありと雖も其は真 に暁天の星のみ。其の大部分は信徒の懐を当てにして布教して居る者が多い。これは道の 順逆を全然顛倒せるものと云わなければならない。  けれどもこれはひとり教師の罪ではない。本部より始めて其の模範を示しているから止 むを得ない。今日の本部の主義を見るに金は出来得る限り部下より絞れ。けれども一文も 有益なことには支出する勿れと云ふ主義を奉じているらしい。  聞く所に依れば今年の教祖三十年祭には六万五千余の金を儲けたといふことである。其 の中支出した金が五千余円とのことなれば純益六万円は本部の金庫に納つた筈である。し かもなお献金の少なかつたことをこぼして来る四月の御本席十年祭にはかなり多数の信徒 を引き寄せて金儲けの準備におさ  怠りないと云ふことである。  私は之れを聞いて悲しんだといふよりも寧ろ呆れたのである。これが道かと。寺の門前 には鬼が住むとは私も聞いていた所であるが今日の天理教は御地場の中に鬼が住んでいる のである。之れに向つて金を投ずるはあたかも施餓鬼を行ふのである。  元よりこれは人間を中心とした観察であつて之れに依つて熱心なる真実の信仰家の寄進 を妨害するものではないが本部がかくの如き精神であり各教会がかくの如き精神である以 上は宝財を投ぜよと云つても皆躊躇するのが自然の人情である。今日一般に信者が控えて いるのは之れがためである。  けれども信者が財布の口を括れば括る程本部や教会は種々なる口実を設けて信徒の財を せびらんとしている。かくの如くにして此の貴き新宗教も全く拝金宗と化してしまつたの である。  聞けば中山家の蓄財は少く見積つて五十万円多くて百万円近くの金を貯蓄しているそう である。しかも一文も公共事業慈善事業に使われたことを聞かない。往々投資すれば軍資 金とか代議士選挙運動費とか云ふ如き反宗教的失費に向つて一万二万の出資を惜しまな い。之れが果して見識ある宗教家のすることであらうか何うであらうか。  苟くも宗教家たるものが赤十字や傷病兵慰問に一万二万の金を投ずるならば結構なれど 其れを軍資金に投じて戦争を資けるとは何う云ふ理由か? 殊に代議士選挙運動に向つて 二万三万の金を惜まず投資するが如きは殆んど何の意味なるか吾人は其の理由を了解する に苦しむのである。  昨年の道の友に故管長の逸話として故管長自身軍夫となつて従軍せんとしたことを甚だ 美しき行いの如く書いていたけれども吾人はいささかもかゝる行いを賞讃しない。苟くも 一派の管長たるものが軍夫を志願して迄戦争を助ける理由が何処にある、仮りにも宗教家 たるものは社会の動乱の外に立つて公平なる処置を取るべきものである。其れを感情に任 せて自ら出征せんとする如きは決して賞讃することが出来ない。もし軍夫を募集して戦争 を助くるならば何故赤十字と同じく傷病兵の看護の如き宗教的行為に向つて努力せざる。 管長始めこう云ふ無自覚な状態にあるが故に其のする事なす事一として見るべき事業はな かつたのである。  かくの如く奸者の甘言に誘われ無意味な所に大金を投じて一時の虚栄心を満足する裏面 に於て何れだけ美しい宗教的事業をなしつゝあるかと云ふに全く零である。内は教会が如 何に危地に陥るもこれを救ふなく外は社会が如何に苦しみつゝあるもこれを助けることは ない。而してもし出資の必要ある場合には教会に献金せしめて決して自腹を切らうとはし ない。これが故管長以来本部の取つて来た出し惜しみ主義である。  謹んで教祖の精神を按ずるにあればあるだけ世界助け万人助けのために投じて一文も余 さゞるが彼女の主義であつた。其れと之れとを比較したら余りに其の精神の距離の偉大な るに驚かざるを得ない。  之れを詳しく云えば教祖の精神は純宗教的精神である。今日の本部の精神は純俗人的根 性である。既に現在の所これだけの距離がある。将来は必らずや益々大なる距離を生じて 行くであらう。其の時こそ天理教は事実に於て滅亡した時である。  凡そ宗教の目的は金儲けにない。又た貯財にない。世界一列の救済にある。人格の修養 と真生活の建設にある。今日の天理教徒は全然これを助かり一条の道とした。云い換えれ ば乞食非人の道とした。これ吾人をしてこれに向つて大なる非義を鳴さゞるを得ざる原因 である。敢て一般天理教徒の覚醒を促がす所以である。






(私論.私見)