大平良平の生涯履歴

 更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3)年.2.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「大平良平考」をしておく。

 2007.12.28日 れんだいこ拝


【大平良平履歴】
 「大平良平」(おおひら りょうへい、大正五年一月/大平隆平に改名)(1886~1916年)。社会思想家・天理教研究家。

 1886(明治19)年4月8日、生まれ。
 明治42年、早稲田大学卒
 大正2年、図書館で偶然出会った天理教の文献が機縁(きえん)となり、天理教研究を開始する。

 天理教教祖中山みきの死後、明治末から大正初年にかけての天理教の文献をみると、時として天啓者が出現するという願望が高まり、さらには、自らが天啓の取り次ぎを継承するものだと主張する天啓者が現れる時期であった。

 大正四年四月から翌年八月、天理教関係の個人月刊誌『新宗教』や研究書を刊行して教団批判を展開した。天理教の周辺から天理教の改革を叫んだ大平良平は、「生命をかけて批判に生きた、天理教最大の価値ある異端」とも評された人物であった。

 大平は、「中山みきと本席亡き後、天理教組織は変質した。神はそれを是正させるべく井出クニを出現させた」、「中山みきが予言した救済プログラムを完成させるために出現した啓示者、それがクニであった」とし、クニを天理教という宗教の枠を超えた救世主と位置付けて喧伝(けんでん)した。クニがみきの後身(こうしん)として現れることは、ほかならぬみきが在世時に予言していたことであるとも強く主張していた。

 ちなみに天理教三十年祭では、みきの予言の影響か、クニとは別に何人かがみきの後継者として名乗りをあげている。仏教には釈迦(しゃか)が未来の世界の人々を救うために再臨(さいりん)するという弥勒信仰(みろくしんこう)がある。『弥勒下生経』によれば、釈迦の入滅(にゅうめつ)後、五十六億年七千万年後に弥勒が出現するとされているが、井出クニは巳こそ弥勒であるという自覚もあったといわれている。

 天理教本部は『新宗教』の影響を恐れて、大平を徹底的に批判する一方、同書を買い占めるなどの対抗措置をとった。

 その直後、30歳の若さで他界。大平の急死により、クニについてはもとより、初期の天理教の貴重な情報を記した『新宗教』は研究者でも目にすることができない幻の雑誌となった。

【平良平考】
 2022.9.17日教会と信仰 中山みきの話」その他参照
 今の教会のできることも前々からお話しがあった。世界の人間が今に講をこしらへ講元というものをこしらへて、子でありながら兄弟を支配する様になる。けれどもお前らは決してそうするのやないで。掛け流しの云い流しにして通れよ。今に教会ができる。教会は何に使はうぞ。神が出でて働く場合にはどうする。誠の塊ばかりできたら教会はできん。この大きな普請は質倉にしようか、酒倉にしようか、醤油倉にしようか。けれどもしよるぞ、普請をしよるぞ。皆な悪いことをして普請をする。けれどもその間誠を貫く人がない。けれどもこの教理を聞いてヂッと通る者が百人に一人といいたいけれども千人に一人あらうかな。この道はチョトつけかけたら木の葉の散る如く横目振る間もない。そうなったら七分の人間は直きにつく。二分はしぶとい。後の一分のどうでも仕様のないも者が蹴落される。それだけ神は慈悲を加へたのだ。けれどもいうても/\聞かぬものは勘当する。神様の駄賃は人間の駄賃より少と高いわよ。今はそれだけの身分でないもの迄梅鉢の故に羽織袴を着せて先きの駄賃にしてやっている。それやから後で蹴落されたからとて決して怨むのやないぜ。

 今に本部は草繁って道見へぬ。枝先きの澄んだ所は雌松雄松はいわん。心の澄み切った所に神が入り込む。そうなれば何んぼ技先にいても元へ帰って来るぜ。けれども誠心で来たものも谷底から急に上がったものは人に嫉まれる。その為に二つの綱紀を出す。これは平生から神様のことをしたけれども蹴落される者もある。又た谷底から上がった人にはあんな低い所からこんな高い所へどうして上がったのだろうと不審をうつものの、ある時前生の因縁を知っているかといって聞かせる。良い手本と悪い手本と二派に出さんことには世界承知せん。それを筆に書いて出したらバット煙硝に火をつけた様にひろがる。その時迄金箔の魂はグット田園の底に埋でいる。

 お前達金が良いか銀が良いか。どれが良い?金ばくの魂はどんなに濁っていてもーつ撫でたら元の通り奇麗になる。そういう者には角目/\の話しをすれば直ぐに悟ってくれる。それが十社十柱の魂だ。人間にも早生と中手と晩生と三段ある。今良い花を見るのはわせ。晩生というのは一番最後に神が表に表はれて働く時働く者が晩生である。それ迄余り長いのでヂットこぼれん様に持っているものがない。それ迄にこぼれる者は可哀相だな。けれども親の積んだお徳は滅多に他には行かせんで。子に生えなければ孫に生える。マアそれなと楽しんで居てくれなければどうもならんじゃないか。マア身上きりかえて行っても先きになって一つ鍋を喰うこともあるわよ。けれども後になると誠の者がどんな枝先から出て来るかわからん。その時は神と神との知恵比べをせんならん。そやけれども知恵比べをするものがあるだろう?それはチト難しいわよ。マアそれ迄何時という年限切れんけれども神の云う通りにしてくれたら私のニ十五才で世間明るい道にする。これを守らん為に年限がのびる。年限は何時ということはいわんけれども、何時の何時迄も放って置かれん。その時は偉い神が出て来て本部に入り込む。何しても入り込む。その時、本当のお授けを貰うのやで。それ迄お授けを貰うのやないで。

 神殿の普請を教祖の仰せになったのは「甘露台を北に八間離れて神様を祭り、南に八間離れて勤め場所を建てるのだ」ということを仰せになりました。そうすると神様は南向きになるはずですが今のは北向きになって居ります。これについて教祖存命中から「今に見ていなさい。本部では北向きの大きな普請をするから」といわれておりました。今に道が大きくなると上八十畳下八十畳の立派な家ができる。そこは十柱の神の休息所である。その中八十畳は十柱の神の休息所で下八十畳は食堂である。そのほか、まだ詰所というものができる。役宅というものができる。その人達は三寸の差渡しで裏は赤、表は黒の十二菊の紋一である。それを背中の真中につける。そのほかに未だ三十六人の勤めの人衆がある。それが世界の助けの人衆だ。その人達がお地場を出る時一人が二千枚の紙札をもって出る。その二千枚の札は一遍に重ねて上から判を押すと一枚は黒く一枚は白く写る。それがホンの拝みつけのお札だ。それを御膳を貰った所に泊めて貰った所に一枚ずづ置いて行きなくなったら帰って来る。その人達の出る時に小遣いといって一文もやらない。その代わりに一里には一里の小遣い、二里には二里の小遣いをつけてやる。又内に居れば内にいるだけのものを与へてやるというのである。

 そうなると誠の足らぬ人間は本部の地内に勤めることできん、たとえ下駄を揃えるにも便所の掃除をする役でも余程心の磨けた者でなければ入れん。そういう人達が本部へ来てどうか何なりとさせて戴きたいとの誠の心で願って来るのを断ったら、その者は木の葉の散るが如く散る。

 しかして二度と頼んで来てもそんなムサイ者は入れん。それ迄今の本部にいる者は充分の暮しをさしてある。けども悪い事をして金を溜めたものには皆なそれ/\因縁果す道が設けてあるで。わしが生きて居れば教えはくるわぬが、わしが死んだら皆が嘘を云うて回る。知者と学者が来て社会に流れてしまう。学者は余計な事を書く、弁者は嘘をいうのが残念やが、天理王命という事だけは嘘をつかぬ。それだけでも世界に神名を流してくれたら結梢や、今度出て来て立て直ほしをすると申して昇天遊ばされた。

 教祖は亡くなる三年前に仰った。私が生きて居ればこの道は煙草一服する問にズン/\弘まって行く。けれども今の所は何といっても己のいうことを聞く者がない。それで百十五才の定命を二十五年縮めて身を隠す。その後は暫時人間のする通りに任して置く。今に見ていなさい。神殿の普請をするから。けれどもその普請はア一結構やなというて出す人もあれば、あの人からこう言われたから仕方がないから出さうといってシプシプ出す者もある。何んぼ立派なものを立てゝも神は惜しみのかゝった御殿には住むことはできん。今度本普請をする様になったらたとえ一厘銭でも喜んで上げたもので建てたら惜しみがかゝらぬ。そうやから私の普請をするなら世界一般成り立ってからしてくれ。それから中介では尽くせ運べと去って下から銭や品物を巻き上げる。そ為に私は彼らからいわれるから義理にも出さなければならないとシプシプ出したものは神の受取がない。百姓なら三反なり五反なりの祖先伝来の田地があり商人なら分相応の資本をもっていたらそれで一度もなくしてくれてはならん。どうか神に上げるなら惜しみのかゝらぬものにしてくれ。


新宗教社発刊の辞
 2022.9.17日、「新宗教社発刊の辞」。
 十八世紀より十九世紀にかけて全世界が旧信仰の大破産に遭遇するや、古き宗教の権威は全く地に落ちて、しかも新しき宗教は未だ生れず生れても成人せず、為めにその信徒を挙げて一時科学宗唯物宗の為めに奪はるゝに至つた。けれども世人は長年の間の経験によって科学も亦何ら人生の帰趣を解決するの能力なきを看破するや次第に新宗教渇望の声が高まつて来た。現在は即ちその信仰の復活期である。この世界の気運を受けて生れたのが雑誌新宗教である。

 本誌は主観的に天理教主義を奉じて人心を改造し、社会を改造して健全なる黄金世界をこの現実の世界に実現することに努力すると共に客観的に洽く新宗教現代人の信仰を研究して時代の要求の那辺にあるかを探知し、もつて人生の帰趣を誤らざらしめんとするにある。

 本誌が天理教主義を奉じて人心の改造、社会の改造を行はんとする所以はそれが神の最近の人生観終局の理想を表象して居る為めばかりではない。実に人類が過去に於て歩み、現在に於て歩み、又た将来に於て歩まざるべからざる生の本道であるからである。(元より近代に於て勃興した新宗教は天理教のみではない。英のブースの救世軍の如き、米のエツデイーのクリスチアン、サインスの如き、露のプラパツキーのセオソフイの如き、又た我が国の黒住教、金光教の如き新興宗教はあるがそれは神の所謂細道である、)これ本誌のよって金剛不壊の信仰である。

 けれども今日の社会は未だ天理教の真価を認識しない。従つて天理教が独新宗教の名を独占するの不遜を鳴らすものがあるかも知らない。それは敢て本誌の意に介するところではない。何故なれば本誌の目的は神一條人間一條世界一條の真理、天理人道、そのものを伝へるにあってその名ではないからである。けれども世人の疑惑と誤解とを解かんが為めに神が天理教祖を通じて語つた次の言葉を紹介して置かなければならぬ。曰く「今迄も何の様な教へもあるけれども皆な神が子供の成人に従つて教へて来たものである。今度の教は教へ始めの教へ終ひ、これ一つ充分に仕込んだなら後に何も教へることはないぞよ」と又曰く「世界中蚊の鳴く様な時もある。真暗闇になる時もある……世界中皆な一つの光を親ふて尋ねて来る」と又曰く「世界中の智者学者が思案に余つて今に天理教の誠を聞きに来る時がある」。世界は一大革新の時期に到達した。世人は活目して天理教の発展を見なければならぬ。

 最後に一言明言して置かねばならぬことは天理教は教祖一代の宗教でもなければ信徒一団の宗教でもない、人類永遠の宗教であると云ふことである。即ち神は教祖の昇天後その高弟飯降伊蔵を起して更らに二十年の天啓を継続した。尚ほ将来必要に応じて神は何時にても予言者を起して人類に対する天啓の声を継続するであらう。神の言葉の中には『道の発達は世界の発達』と云ふ言葉さへある。これ本誌が天理教をもつて新宗教の中心生命とせる所以である。

 大正四年三月十一日

 
 2022.9.17日、「大平良平発刊 個人雑誌新宗教とは」。
 雑誌新宗教は戦前最大の新宗教となった天理教の周辺にあって、天理教改革を叫んだ孤高の知識人・大平良平が大正四年四月から大正五年八月まで発行していた個人雑誌である。

 本誌は天理教教会本部からすると異端的文書とされるらしい。本部機関誌には「昨年来大平良平なる者、猥りに本教に関する書籍を発行し、独断なる言説をなしつゝあるが、右は本部に於て認めざるは無論、一般教会に於ても、斯かる言論に惑溺し、深大なる教祖立教の神意を没却し、信念の動揺、信仰の蹉跌なき様、堅く戒慎せられん事を警告す」などの声明がたびたび出された。
しかも大平が分派的潮流に荷担し、またその後すぐ三十歳の若さで死去したこともあって、彼の名も本誌の存在も時とともに忘却の彼方に追いやられていった。雑誌は散逸し、天理図書館でさえ本誌を閲覧することが不可能となっている。本ブログは大平良平発刊 新宗教より現代社会生活や宗教生活に必要と思われる記事をランダムに記載していく。

 2022.7.18日、「箸休め2 廣池千九郎博士と諸岡長蔵氏」。
 記事を投稿した後も未練がましく資料を漁ることは多いのですが、そこで意外な発見があったりするんですよ。

 高野友治先生
 今回も高野友治先生の10年祭を機に、ご子息の高野眞幸さんが先生の遺された書き物をまとめた『教祖余話(非売品)』をめくっていて新しい発見がありました。そこに収録された『創象』28号から要約して書きます。
 諸岡長蔵翁

 廣池千九郎博士の研究を長期にわたって経済的に支えた諸岡長蔵氏(千葉県成田市の羊羹屋「米屋」の主人。明治27年頃の入信。甲賀→近愛の信者)。諸岡翁は博士が研究所を作る際には5万円(当時は千円で東京の山手に2階建ての家が建った)を提供しています。日常生活での援助を続けた上での話しですよ。

 廣池千九郎博士

 そしてかなり驚いたのが、大正5年頃『新宗教』を出した大平良平氏を援助をしていることです。大平氏は新潟県魚沼あたりの出身で早稲田大学哲学科を出た後、おぢばの詰所に住み天理教を批判する記事を書いていた方です。(山名の信者という記述が『広池千九郎日記』にあります)個人的に『新宗教』は資料的価値は充分にあると思っています。『新宗教』を1回だすと現在のお金に換算して30万円ほどかかったと思われるのですが、その費用も諸岡長蔵氏が出しているのです。大平氏は後に播州の井出くにさんの元に行きましたが、病を得て天理に帰り詰所(山名詰所と思われる)で出直します。天理市教祖豊田町の玉英寺に葬られています。ちなみに大平氏は亡くなる前に、諸岡氏から援助されたお金を全て返済しています。大平氏もまた良心の人だったのでしょう。大平良平氏の『新宗教』については『弓山達也仮想研究所』さんが詳しいですね。

 諸岡長蔵氏。なんとも不思議な方です。篤志家というのでしょうか。いっそ諸岡さんのことを調べて記事にした方が面白そうなのですが、とっくに山本素石さんが『己に薄く、他に厚く』という本を出しておられました。ちょっと調べただけで、とんでもなく偉大な方だったということが分かります。ところで天理教にいた頃の廣池博士、高野先生の記述によると「実は若い人から人気が無かった」そうなんです。当時は博士号を持つ人は今以上にとても尊敬されていたのですが、講演で司会が「法学博士廣池博士先生を紹介いたします」と言うと、登壇した廣池博士は「ただいま紹介された法学博士廣池千九郎は、私である!」という調子で、思いっきり見下す感じだったらしいのです。常は自信満々で鼻持ちならない人だったのかも知れません。

 それでも立木教夫さんの小論文には、広池博士が逝去する前年の昭和十二年一月六日の『広池千九郎日記』(第六冊目)には、「さて子は一昨年専攻塾、昨年谷川開設のため心身ともに疲れ、ほとんど回復の見込みも立たぬほど弱れり。然るに本年、予の九星は旭日昇天の年とあり。右に付き、二日、左の決心を神明に誓う」として、その誓いの第三番目に、「子の今日あるは、一つは勢山故会長矢納幸吉翁のおかげなり。よって今回参拝して故会長の霊を拝し、御神饌一千円を献じ、教会役員一同に挨拶すること」と記されている。この報恩は、矢納会長が逝去してから二十三年後におこなわれたものである。この間も、広池博士は継続的に報恩をおこなってきたが、ここでは一千円という大金を献じたのである。一千円というお金は、その当時、東京の山の手に土地付きの二階建ての家を購入できるほどの価値を有していたという。五日後の一月十一日には、「朝、勢山へ参拝し御神饌を献ず。一同大いに喜ばる。予も心身ともに助かる心地す」とあり、六日の誓いが実行されたことがわかる。

 『広池千九郎博士と矢納幸吉会長』 ー出会いの前後の事蹟とその意義について―との記述がありますので、天理教に入る契機となった勢山支教会の矢納会長への恩を忘れていなかったことが分かります。なんだか嬉しい気持ちになりました。教理解釈も独善的に過ぎる廣池博士ですが、間違いなく一時期の教団にはなくてはならなかった人です。またしっかりした信仰も持っていらしたと私は思っています。決して忘恩の徒ではありません。

 話しは突如変わります。「詰所」についての面白い記述がありましたので要約して紹介します。高野先生が『創象』16号に書かれたものです。まだ本部に詰所が無かった明治10年代は、本部の前にあった豆腐屋と中山重吉さんの宿屋が、遠方から来た信者さんたちの宿泊所(有料)になっていました。その宿で、明治10年代は大阪の真明組あたりが「いい顔」、つまり上客でしたが、明治25年頃になると東京から来る信者さんたちが一番の上客に代わったそうです。それは東京の信者さんが出す祝儀(チップ)の額が飛び抜けて高額だったからです。当然のように宿の女中たちが他の客を放っておいてでも東京のお客さんの世話にかかり切りになったため、古参客は「ちっ。おもんないなあ」となりました。そして「いっそ自分たちで泊まる詰所を作ろうぜ」という話しになり、明治28年にできたのが兵神の詰所なのです。『創象』16号昭和58年3月3日発行

 「へぇー」ですよね。こんな感じで小さな発見があるから勉強は止められないんですよね。今回も最後までお読みいただき本当にありがとうございました。ではまたいずれ。

 大平良平 (著)「天理教々理より観たる人生の意義及び価値」(日本神道出版会 (編集)、大正四年)
 大平良平 (著)「ホーキンミラーの思ひ出」全203P(大正2年発行)

 「消されていく天理教の昭和史」の「昭和3年公刊本発刊以前に印刷された『おふでさき』」。
 大正5年に出たという天理教宝典編纂会のもの以外に何冊かの『おふでさき』が出版されている。その中に大正5年一月発行の『評註御筆先』がある。 これは大正4年4月から5年8月まで天理教祖の教えをテーマにした雑誌『新 宗教』を発行した大平良平(隆平)氏の手になるものであった。『新宗教』は「教祖の伝記逸話を蒐集しなければ悔を千載の後に残す」、またこの事業は天理教徒一団のものではなく「実に全人類の事業」であると宣言して創められたもので、自立採算が取れるほどの部数が出た(『己れに薄く、他に厚く』P265山本素石.1993.立風書房)という。 同じ大平氏による『評註御筆先』も3月には再版されており、かなりの部数が出たと思われる。小西氏の話に戻せば、「教典」が胸に入っていた可能性は「信仰」の問題から考えてもほとんどありえず、『おふでさき』とすれば、胸に入る程度の大きさの本は回収の対象にならず存在していたということは言えるだろう。

 書評とりプ ライ 弓山達也著「天啓 の ゆ くえ 一 宗教が 分派 す る と き一 」(日本地域社 会研究所 、 2005 年 3 月刊 )。
 本書は、著者が近代以降の日本の新宗教のなかでも天理教から分派した教団もしくは天理教から影響を受けて設立された教団と規定する「天理教系教団」についての著者自身の硬究を著した書物である。天理教系教団が研究対象であること は序章で明示されるが、書名には表示されていない。著者としては、天理教系教団の 「分派分立の特徴と背景」を「救済論の変遷」との関連で明らかにしつつ、「新宗教の分派分立の諸要因を考察する」というより一般的な研究目的を書名に表されたかったのではないか。しかし特に天理教の教会の成立についての研究を進めている評者としては、副題を「天理教が分派するとき」としていただきたかった。新宗教の分派分立の諸要因を考察しようとする著者の学術的な立場は、「宗教史研究と宗教学の双方にまたがるもの」であり、「分派分立の研究」を新宗教の「発生論的研究」の文脈に位置づけるところにある。この立場から「これまでの研究」が 、「宗教史的な研究成果」、天理教の「教学に関わる研究」、「分派分立の実証的研究」に分類されている。特に分派分立の実証的研究のなかでも、「継承性の問題」や「教義や活動に内在する緊張」など宗教社会学の観点から日本の他の新宗教の分派分立に関する論文や著書が参考にされている。著者が天理教系教団を見る視点は、天理教の「組織の凝集性」に対する 「当事者の個的な体験」、天理教の教祖以来の「伝統の継承と断絶」、「救済の力の顕現と抑制」といった分派分立で問題となる争点に置かれている。これらの視点は 「天理教系教団の分派分立が教義や儀礼に基づく救済の追求の過程で引き起こされる傾向にある」(p .15)ことにあらかじめ留意して設定されたものという。そしてこの留意は 、著者が天理教系教団に対する調査を実施したから可能であったと考えられる。主要な天理教系教団の刊行物の収集と分析はもとより、教団関係者への面接聞取りや教団の儀礼や信者研修への参与観察までおこなわれている 。

 著者は 「約40教団を確認した」 (p .43)という天理教系教団を、特に多くの分派 分立教団を生み出した 「母教団」に注目して、さらに三つの教団群に分類している 。すなわち天 理 教から直接分派分立した「天理教直系教団群」、天理教直系教 団群にも含まれる「ほんみち」もしくは「ほんみち」から分派分立した「天理三輪講」 を経て分派分立した「ほんみち一天理三輪講系教団群」、ほんみち一天理三輪講系教団群にも含まれる 「天理神之口明場所」を経て分派分立した「天理神之口明場所系教団群」である。この分類も著者が天理教系教団を調査したから可能になったと考えられ、著者が作成した各教団群の系図が掲載されている(順にp.35 ,39 ,41)。これらの三つの教団群に分類される教団がどのような救済を追求したのか、さらにはそれぞれの母教団からどのように分派分立したかが以下の各論で明らかにされる 。

 天理教直系教団群がどのような救済を追求し、天理教からどのように分派分立したかは、第一部「天啓の終焉と天啓者待望の昂まり」で明らかにされる。天理教の教祖・中山みきの在世中から大正初年度までにおこった分派活動は、第1章「教祖の後継者と分派の論理」で考察される。結局、天理教の分派活動は、教祖・中山みきや教祖の後継者である本席・飯降伊蔵から許された「授け」という「救済の業」による救済としての病気治しや「伺い」による「神意感得」としての天啓といった「創始者の個的な体験」から始まるという結論である。しかしこの結論は天理教直系教団群がなぜ分派分立するかを天理教の救済論から説明したにとどまり、どのように分派分立するかを説明していない。特に教祖在世中には、京都の「明誠社」など「組織、制度上の問題」から分派分立する教団さえあった。まだ天理教として公認されていない状況で、明誠社が神習教の傘下に入ったように、公認のために他宗派に所属する場合などである。たしかにそのような分派分立は、教祖の死後天理教が公認されると、ほとんど見られなくなることから、著者のように例外とみなすことができる。しかし水屋敷事件の後、飯田岩治郎が大成教の教師となったように、創始者の天啓や病気治しの体験から分派分立した教団も、後から公認を求める側面があるといえる。「組織、制度上の問題」は天理教直系教団の分派分立の原因とまではいえないものの、分派分立の方向を左右する重要な要因とみることはできないだろうか。

 教祖に代わって天啓を伝えるようになった本席の死後、「天啓者」出現への期待が高まり、本格的な分派分立を誘発した天理教内の状況が、第2章「大正期における天啓者待望」で明らかにされる。後の教団拡大に貢献する教会本部員・増野鼓雪でさえ、天理教内向けの雑誌「道乃友」において、大正初頭には「天啓の再来」を期 待していた。ところが「教団の周辺から」、一般向けの雑誌「新宗教」の創刊者大平良平が天啓者への期待を論じたり、「ほんみち」の創始者・大西愛治郎や兵庫県の信者井出クニらが自らの天啓を主張し始めると、教会本部員たちは神の視点からの人間の精神的成熟と捉えられる「成人」を教義的根拠に天啓不要を説くことになった。つまり天啓者待望の「教内での終熄と教外への分派といった二つの分極化した方向」(p .116)が明らかになっている。天理教の教会本部が天啓者待望を否定したから分派分立が起こったのではなく、分派分立が起こったから否定せざるをえなくなった事実の提示は極めて重要である 。

 ほんみち一天理三輪講系教団群がどのような救済を追求し、どのように分派分立したかは第二部「終末預言の運動へ」で明らかにされる。「ほんみち」の創始者・大西愛治郎が、天理にとどまらず日本の危機と自身の天啓を通しての救済を預言するようになり、天皇に対する「不敬罪」で起訴されるに至った経緯が第3章「ほんみちの出現と社会状況」で描かれる。この章でも創始者個人の神意感得の体験にもとつく天理教の救済論の展開が重視される。すなわち教会本部に救済の源泉の標識として設置される予定の石製の「かんろうだい」が人であり、自身であるとする 「かんろうだい人の理」という愛治郎の教義解釈が彼の天啓によって可能になったことが示される 。

 しかし特に第1章に比べると、天理教内外の社会的な状況が重視される。愛治郎の教義解釈が教会本部に否定され、彼自身も教師資格をはく奪され追放された事実が示されている。やがて愛治郎が天皇を「天徳なき唐人」と批判する日本 の状況として、大正末から昭和初めにかけて天皇への崇敬が強く求められたことに対して、感情的な反抗や社会主義の思想にもとついた批判がおこなわれていた事実が指摘されている 。

 続いて、ほんみち一天理三輪講教団群の「終末論的宗教運動の挫折と変容」(第4章)も社会的な状況に即して考察される。ほんみち以外の教団は、当初はほんみちと同様、終末論的な救済を主張したものの、不敬罪もしくは治安維持法で拘束された創始者が死去すると、創始者による天理教原典の解釈や天啓に依拠した個人救済を追求するようになった。これに比べてほんみちは、創始者の愛治郎が受刑後復帰したこともあり、教義の教授法を組織的に充実させ、終末論的な救済観を保持した。しかしほんみちも、敗戦後天皇の宗教的権威による統治の理念が後退していくと、終末における天啓者による世界統治を強調することはなくなった。結局ほんみち一天理三輪講系教団群は「修養道徳」、「聖地建設」、「神秘呪術」のいずれかによる救済を追求するようになったとされる。


 著者はこれらの三つの救済の要素のいずれもが 「中山みきによって示された天理教の伝統の中に認められる」(p .221)ことを重視しているが、評者は天理教内外の社会状況の変化に応じて変化したことを重視したい。天理神之口明場所系教団群の分派分立については、「秘儀と霊能の拡がり」(第三部)という観点から明らかにされている。すなわちこの教団群における「霊能の継承と分派分立」(第5章 )は、天理神之口明場所教団の創始者・山田梅次郎が始めた「甘露水授け」をはじめとする「授け」の儀式の実施をめぐって、繰り返されるようになった経緯が述べられている。治安維持法違反による検挙の際に教団資料が没収されていることもあり、この章では教団内外の社会的な状況よりも、天理教の救済論の展開が考察の中心となっている。ならば天理教においても初期には病気治しの救済だけでなく天啓による神意感得の手段でもあった「授け」が「神成人」といういわば神性獲得の手段とも捉えられたことが、「秘儀」とみなされるようになる上でどのような意味をもったかも分かればと思う。

 第6章 「芹沢光治良の晩年と天理教」では、作家として自身の天理教との関わりを小説に著すようになった光治良の神秘体験の推移とその背景が描かれている。しかしこの章では、彼が協力した伊藤青年という 「霊能者的人物」の活動の天理神之口明場所系教団群における位置が問題となる。天理教教会本部から懲戒・除籍処分を受けている伊藤青年が各参拝者に天理教の教祖や神の言葉を取り次いだり、「甘露水授け」をはじめとする各種「授け」を実施する活動は、神秘呪術の実践による個人の救済を重視する天理神之口明場所系教団群の活動といえる。しかし光治良の小説というマスメディアを通しての布教やニューエイジの思想の影響を受けた伊藤自身のコンサートや個展などの活動は「ゆるやかな共同性」しか必要とせず、天理教自体の影響から脱却しつつあると捉えられる。神秘呪術による救済を迫求する信者の動向が教団という枠にとらわれずに捉えられ、著者の素直な関心にもとついて書き上げられた章と思われる。ただ しこの一例だけでは一般的な傾向とはいえないので、同様の特徴をもつ、より新しい事例が見つかればと思う。

 以上の各論を踏まえ、 天理教系教団全体の「分派分立 のメ カニズム」(終章)が 「分派分立を比較的繰り返しやすい新宗教教団」との関連で明らかにされる。他の新宗教の分派分立との比較は、著者が序章で設定した研究の視点に規定される天理教系教団の分派分立の特徴を確認しているだけのようにもみえる。とくに天理教の組織の凝集性に対する天理教系教団の個的体験を見る視点からは、「本部に対する支部の相対的な独立性の高さ」から「組織的な分派」が起こった霊友会と世界救世教に比べて、天理教においては「教祖との特別なつながり(夢告や遺言や霊告)」の体験から分派が起こったことが確認される 。

 しかし序論で設定された視点だけでは規定できない天理教系教団の特徴も指摘されている。とくに天理教の「救済の力」の顕現と抑制の均衡をみる視点から、「救 済の力を整流する機構」をもつ真如苑と崇教真光に比べて、「ひとり一人が天啓を拝受する 『甘露水授け 』 が制度化」 (p .312)されている天理神之口明場所系教団は 「分派を重ね小グループになっていく」が、ほんみちは「天啓者はその時代に一人とする教義を守り」、創始者の継承問題を解決したことが指摘されている。このように天理教系教団と他の新宗教の分派分立教団の相違点と共通点の双方を明らかにする比較が新宗教一般の分派分立のメカニズムを解明するには有効と思われる 。


 研究成果は、終章末で「総括」されている。何よりも序章で設定された研究目的が達成されたことが確認されている。天理教系教団を三つの教団群に分類することによって、それぞれの分派分立の特徴とその背景、救済の変遷、そして分派分立のメカニズムも明らかになったとされる。しかし分派分立のメカニズムについて、「天理教の分派分立は社会変動と結びついておきていない」(p .314)ことを強調しすぎると、天理教系教団の分派分立を他の新宗教の分派分立に関連づけて一般的に説明することが難しくなるのではないか。研究の意義も、著者が序章で示 した研究の立場から確定される。宗教史研究においては、これまで「明治から昭和前期までの天理教は、国家神道体制化に組み込まれ、権力に妥協していく過程としてしか」言及されなかったが、本書の研究は同時期の天理教の、しかも分派史という 『闇』の部分の解明」をおこなったと主張される。また宗教学においては、新宗教の「発生論的研究」の展開を踏まえ、当事者の経験と信仰の意味を理解する 「内在的理解」の手法で、しかし先行研究のように民俗宗教との連続面だけでなく、分派分立という組織宗教との断続面を論じたと主張される。評者としては、第2部においてほんみち一天理三輪講系教団が天理教内外の社会的な状況に応じて、終末論的救済を前面に押し出すようになり、後退させていったことがいわば外在的に明らかにされている側面も確かな成果として評価したい。最末尾で本書の研究成果を宗教社会学の宗教運動論と教団類型論にどう位置づけるかという 「今後の課題」が提起されている。藤井正雄氏の宗教運動論や森岡清美氏の「教団ライフサイクル論」、トレルチのチャーチーセク ト論、ウィルソンのセク ト類型、森岡氏の「おやこモデル」の天理教の分派分立もしくは教団改革への適用が示唆されている。評者としては、スタークがキリスト教の分派の社会的な要因を考察した論考[Stark 1985]も参考にしていただきたい 。

 基本的には現世を否定するキリスト教と現世を肯定する天理教の救済の性格は対照的なため、教会の世俗化からセクト運動の勃興を説明するのは強引だろう。しかし教団で得られる救済に満足できない人々が分派するのは天理教でも同じだろう。だとすればスタークのように、教団内外においてどのような社会的地位にある階層がどのような救済を求める傾向があるかを把握しておくことも一定の意味があるかもしれない。少なくとも同じ天理教系教団群に含まれる各教団の創始者が教団内外においてどのような社会状況に置かれれば、天理教の救済論をどのように展開させるかがさらに明らかになれば、他の新宗教からの分派分立教団の創始者による救済論の展開との相違点のみならず共通点も論じられるのではないだろうか。(大阪産業大学非常勤講師)




(私論.私見)