略伝その2


 更新日/2020(平成31→5.1改元/栄和2)年3.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「御水屋敷並びに人足社略伝その2」を確認することにする。「飯田善六、安堵事件、人足杜」その他参照

 2007.12.5日 れんだいこ拝


【飯田岩次郎略伝その2】
 (いいだいわじろう)(1858~1907年)
 1894(明治27)年11月、飯田岩治郎が激しい腹痛に襲われ、初めて神がかりを経験する。
 1896(明治29)年新暦3.9日、飯田岩治郎は、教祖の十年祭より以来、御本部へ参る毎に何となく心楽しからずして曇れる思いし始める。
 4月、手狭となった教会建物を新築し、初代真柱臨席のもと開廷式を執行する。
 旧暦4.25日、「この人を二十一年以前にて神の社に貰い受けたで」、「筆々、筆取れ筆々」との神の声あり、これより段々と神様の御差図がありようになる。
 5月頃より御本部へ参ることを嫌い、代理のみ遣いする。
 この頃、上田善兵衛(麹町支教会兼北分教会理事長)、春木幾造(平安支教会理事長)に招かれ、別屋敷にてこれまでにありし次第を一々詳しく話たところ同盟なる。「然れども、御本部へ対し容易ならざることなれば、秘して時を待たれたり」。以降、本部からの使者に対し押し問答となる。平安の信徒だけでなく麹町の信徒たちが飯田の教えに付き従う。飯田の側近たちが、本席に、その理の正しさを求めてお伺いも立てに来る。
 夏頃、この問題が本部の大きな事情となり、本部が何度も人を派遣して翻意を促したが聞き入れず、本部改革を求めるのみであった(さ30・6・3,7・3,7・14,8・2参照)。岩治郎につき従う者は、平安部内の外にも出てきた。 
 10.28日(9月頃?)、亡き中山みきの霊が枕元に現れ、教祖様の声を聞き始める(さ29・12・7参照)。神からの「お指図」を授かる経験をする。この頃から、お指図、お筆先と称するものを出すようになった。さらに天啓現象がおこり独自な教説を唱えるようになる。「水のさづけ」に使うお水も親神・教祖に供えずに渡すようになり、おぢば帰りもあまりしなくなった。やがて、水のさづけは、人に授けられたものでなく、屋敷に授けられたものであると言い始め、役員らに「水と火とを打ち分けると仰せある。本部は火の元庄屋敷で、この屋敷は水の屋敷。水は元の親、それに続いて火となる」といった話をした。
 これより教会改革の天啓をとりつぐようになり、天理教教会本部と対立する。飯田はお屋敷に来なくなり、水の授けの理は人ではなく、安堵村の自らの屋敷にその理があると解釈して、水屋敷こそが本元である、彼の神の言葉は月読命(つきよみのみこと)から下されているという教説を生み出してゆく。
 1897(明治30)年9.22日夜半零時、強い啓示を授かり大道教を開教する。
 11.13日、「おさしづ」を伺うと、
 二所も三所もできるものなら、元のやしきは要らんもの。……今日の目は一寸片付けて、すっきりして了うがよいでへ。
 (さ30・11・13)
 11.17日(12月?)、本席の飯降伊蔵お指図により岩治郎とお水屋敷を破門にする。本部は、岩治郎外2名の教導職免職、翌18日、岩治郎の本部準役員と平安支教会長の懲戒免職を決めた。本席より取り払えとの言質を受け、飯田の教導職剥奪、平安支教会の移転が実施される。
 12.1日、平安支教会を龍田に移転した。本部からは松村吉太郎が東京の神道本局と交渉のため上京した。
 飯田岩治郎、春木、上田等も教導職等の件で上京して、別な神道の教派として独立する。平安の信者は、ほとんどが岩治郎のもとに走った。
 1899(明治32)年、岩治郎は大成敦の教師となった。

【大道教(だいどうきょう)】
 1900(明治33)年3月、大成政所属の大道教会(現、大道教、昭和21年)を設立、大道教を起こす。平安支教会の教師・信者の大半は岩治郎のもとに残留し、岩治郎は教派神道の神道大成教の教師となった。岩治郎の信者組織は神道大成教に属する「大道教会」として独立した。天理教の本部準役員であった飯田岩治郎の流れを汲む新宗教として一派独立した。麹町分教会の幹部であり茨木基敬の部下であった上田善兵衞が飯田の側近となった。

 1907(明治40)年、岩治郎は厳安明弥道広命との神名を受けて、信仰対象として岩治郎の木造を作らせた。晩年、教祖に無い命をたすけられ、50歳まで生きさせて頂くことができた、と語っていたという。

 5.16日、50歳で死去(享年50歳)。事前に自分の木像を遣らせ、静かにそのときを待っていたという。

 飯田岩治郎が、みき亡き後、本席に挑むように天啓の取り次ぎ始めた。天理教を破門され、大道教を旗揚げして神の啓示を広める。「百年経ったら、私の真実が明らかになる」、そんな謎めいた予言を遺している。
 飯田岩治郎につき次のように評されている。
 飯田岩治郎さんは生駒郡安堵村の出身で、教祖より「水のさづけ」を頂かれた人である。「安堵村の教会は水屋敷で、三島の教会は火屋敷。火がなんぼ盛んでも、水を掛けたらシュウと消える」などと言い始めて、いわゆる「水屋敷事件(安堵事件)」を起こした人である。明治三十年十一月十八日付けで平安支教会長の職を懲戒免職され、本教との関係を絶ち、明治三十二年大成教直轄大道教を創設。明治四十年五月に出直し。教団自体は、終戦後、現在の「大道教」に至る。飯田さんは、後年九州に居住されていたようで、このお指図は、恐らく大道教創設後の何らかの事情で、桝井さんを派出するに付き伺われたものと予測されます。詳しい事情は不明。

【神道大成教その後】
 岩治郎亡き後は、長男の飯田忠雄が教団を継いだ。岩治郎の死後十年毎に行われる教祖年祭にあわせて教団施設は拡充され、教祖殿、神殿、真柱殿などが建てられた。終戦後は神道大成教から独立し、大道教となる。

 1926年、教祖墓地と信者墓地が斑鳩町に作られ、幼稚園の運営も行なっている。
 〒639-1061 奈良県生駒郡安堵町東安堵。
 電話 0743-57-2006




(私論.私見)