| 大西愛次郎履歴 |

更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年8.17日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「大西愛治郎履歴」を確認する。れんだいこは学生時代に村上重良氏の「ほんみち不敬事件」を読み、天理教を祖として開教された「ほんみち」(以下、「ほんみち」の前にひらがなが表記される箇所につき「*ほんみち」と記して識別することにする)に関して漠然たる憧憬を覚えた経緯がある。そういう意味で、ほんみちが天理教研究の入り口になったことになる。それはそれで済んでいたのだが、その数年後、天理教本部と機縁があり、訳の分からないままその聖地おぢばに誘われ、修養科生として過ごす身になった。れんだいこ27歳の秋頃のことである。結局、修養科生としての3ヶ月を二度重ねて都合6ヶ月過ごした。不思議なことに、お道教理とよほど相性が良く次から次へストンストンと治まった。あいた時間を見つけては教本を読み耽った。おぢばを離れるに当たって、私なりの天理教教祖伝を書き上げることを心定めした。とはいえ世事忙しく、自堕落のままに過ごした時期もありで、その間はむしろ「お道」から遠ざかり、なかなか書き上げられなかった。筆を折り折り休み休みしながら丁度50歳頃までに一応の教祖伝を綴ることができた。こたび書き直しながら、そもそもの機縁となった*ほんみちについても確認しておこうと思った。そういう訳で、本サイトで、れんだいこの*ほんみち論を確立しておこうと思う。「カリスマの継承からみた天理教系教団の分派形成 一場所の宗教と天啓者の宗教 松井圭介 J] 」その他参照 2007.12.7日 れんだいこ拝 |
| 【家柄】 |
| 1881 (明治14) 年8月26日(旧閏7月3日)、奈良県宇陀郡宇太村(現・宇陀市)の農家で、岸岡吉次郎とキサの間に三男(末子)として生まれる。岸岡家は愛治郎の祖父の代の頃までは名字帯万を許された旧家で祖父の栄次良は村で庄屋を勤めており、父親の吉次郎も今の村長にあたる戸長を勤めていたが、愛治郎が生まれた頃には家産も傾いていた。
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| 【幼少時代】 |
| 愛治郎が小学校卒業の頃、次兄の米吉が憂鬱症(ノイローゼ)。17歳の時、長兄の千太郎が眼病で失明。 1898 (1 明治31)年、愛治郎は長兄の病がもとで天理教に入信している。愛治郊の実家のあった奈良県宇陀郡は天理教の本部のある丹波市 (現天理市)とは20キロ程しか離れておらず、明治初期にはみきの教えはこの地に伝わっていたと考えられる。 |
| 19歳(1899年頃)の頃、母キサが子宮内ヨウを患う重病と相次ぐ家族の不幸に見舞われていた。 同年4月、母親の希望で奈良師範学校に入学する。その頃に、千太郎が天理教へ入信し天理教の話を度々聞いていた。岸岡家にあって五体満足に育ったのは愛治郎だけであり、愛治郎は悪因縁の家に生まれたとの自覚を持ちながら少年時代を過ごすことになった。 |
| 【神秘体験】 |
| 1899 (明治32)年、母の病気が悪化した際に神秘体験を得た。入学した年の夏に長期休暇で帰省した際、キサの容態が悪化し本家で看病をしていたが、キサの気分を変えたいとの希望により分家(次兄の米吉宅)へと移動。その日の夜、愛治郎一人で看病をしていた時にキサの容態が悪化する。その様子を見て、愛治郎は戸外へと走り川で手を清め神(ほんみち概観では「月日様」、天理教では「親神天理王命」)に祈る。その際、祈った直後はキサの容態が良くなり、また、しばらくすると悪化するということを繰り返し、段々とその間隔が短くなることをみて、祈った直後の様子は「神による治癒ではなく周期的なものではないか」との思いからしばらくキサを静観するが、キサは苦しみ続け、「神に祈ってほしい」という希望より、神を疑うことなく祈ることにした。するとキサの苦痛が止み、神の存在や天理教の教えである「借り物の理」などを理解した。愛治郎はこの神秘体験により天理教の神の実在を体験し、信仰者として一生を送ることを決意した理由となった。 |
| 【天理教入信】 |
| 1899 (明治32) 年、奈良師範在学中、休みを終えて奈良師範学校へ戻った際に、奈良教会(天理教奈良大教会)の信徒となり天理教入信した。母の死で奈良師範学校を中退。 1900 (明治33) 年、 20才の時、本席から「さづけ」を受けた愛治郎は、教祖みきを範とする信仰生活に入った。かくて、大西の青年時代は、天理教徒として徹底的に生きぬくことになった。 |
| 愛治郎の青年時代に培われた関心は、生涯を通じて彼の信仰を支えていたが、当時の彼の宗教生活は次の5点にまとめることができる。 1) 単独布教の実践。2) 病者弱者をコアとする民衆救済。3 )夫婦揃つての信仰実践。4) 教祖を範型とする「貧への落ち切り。5 )みきの思想の研究。大西が徹底的に教祖みきの生き方を範型として生きぬこうとする決意、その通りの生き方が看取される。教祖みきの生き方の全体を至高のパラダイムとして、大西は生きていた。 |
| 【単独布教】 |
| 東京で単独布教をしたいと考え、東大教会の上原会長へ相談したところ、「東京での布教には相当の金を用意して、仮令に借家にしても、教会を或る程度飾り立てないと人が信用しない」とのことであった。そこで第二志望として考えていた群馬県碓氷郡安中町で単独布教をすることとなった。 33年、上京。群馬では奈良教会に所属していた先輩の日野督太郎を頼り二か月間程世話となる。 |
| 19001(明治34) 年、 その後、当時教会が設立されていなかった群馬県安中町を拠点に布教をはじめる。 |
| 【結婚】 |
| 36年、奈良支教会所に帰る。 |
| 上級奈良教会の春野会長より、教会の信者の大西家へ婿養子に行ってはどうかと勧められ、父親と相談の上、了承。 37年、大西トラと結婚、大西家を継ぎ大西姓を名乗ることとなる。同年山口県に出向。 結婚後、山口県の萩、山口、福賀にある三カ所の無担任の教会を整理してほしいことを、春野会長より話を受け分教会を再興させる事に専念する。 |
| 【全財産献納】 |
| 1906(明治39)年、天理教の教理「貧に落ちきれ」の下、全財産を天理教本部に献納した。 |
| 【山口宣教所所長時代】 |
| 芽叔父40年、山口宣教所所長。1908 (明治 41)年、 26歳で天理教の山口宣教所の所長となり、翌年秋には県教会組合の常任議員に選出されますます繁忙の度合いを強めた。 43年、岡山教務支庁主事。 |
| 【御踏み定めと呼ばれる神秘体験】 | |||
| 天理教山口宣教所の所長であった大西愛治郎は、山口県内の教会の整理・再興の任にあたったが思うように布教や救済が進まず、焦りの中「胸調べ」と称する瞑想を行った。 1913(大正2)年7.15日、愛治郎は全裸となり、家族の衣服も剥ぎ取って、部屋の中を徘徊し始め静思黙想の結果、自らを中山みきの後継者であり、御自ら甘露台であるという啓示を受ける。これは「甘露台人の理」と呼ばれる。当初は甘露台が人間、ましてや自分自身とは認められない愛治郎であったが、否定すると胸が苦しくなり、居てもたってもいられなくなることから自らを甘露台であると悟るに至る。この年は天理教教祖・中山みきの115歳の定命が尽きたとされる1912年の翌年にあたる。 |
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| 1913 (大正2)年、宣教所の一室に籠居中、ほんみち開教の契機となる主宣言台人の理の御踏み定めと呼ばれる神秘体験をする。この宗教体験により、自己が生き神甘露台であり、教祖中山みきに続く天啓者であるという自覚を得る。大西が新しい天啓者であると主張することは取りも産さず天理教の持つ宗教的インテグリティーへの挑戦を意味した。 この神秘体験については次のように語られている(梅原, 1986, p.p.90-92)。
教祖一途の信仰を宗教的実践してきた大西は、教祖の死後、危機的状況に陥りつつあった天理教にあって、自らの神秘体験を期に新しい天啓者としての自覚が生じて来ることになった。大西はこの神秘体験により新しい人間として生まれ変わった。大西は自己の使命を自覚し、新しい世界の創造に向かうこととなった。ここに一天理教徒としての大西愛治郎が終り、新たに天啓者としての神意を伝え、万人の救済を希求する生神として生まれ変わった。 |
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| 【「ほんみち」を開教】 |
| 1914(大正3)年夏、山口県で天理教の布教にあたっていた大西愛治郎は、丹波市の本部に対する「反逆」のために布教師の資格を取り消された。大西と妻と老母は三人の子を背負って、故郷の奈良県へ向かった。一家は炊事道具まで売りつくし、汽車賃もなく、徒歩で炎天下の山陽筋を歩きつづけた。老母が樹の根につまずいて倒れても、子どもを背負っている夫婦は助けることもできなかった。雨宿りをさせてくれる家もなく、終夜、雨の中をさまよったこともあった。困窮は帰郷してからもつづいた。 |
| 1913(大正2)年、天理教教師を剥奪され奈良県に帰った大西は、神掛かりをして我は生き神「甘露台」であり、教祖中山みきに続く天啓者となった(「甘露台人の理」を保有した)ことを悟ったと主張し、「ほんみち」を開教した。 ほんみちは、天理教が国家林道体制に組み込まれる際に廃棄した泥海古記を教典とした。天理教では甘露台は天理市の教団中心部にあるとしているが、大西は天理市にあるのは土地の甘露台であり、大西自身が「人の甘露台」であると主張した。 |
| 【逆においがけ通信発送】 |
| 大西は教歌「甘露台古記」を示して、これを天理教本部で訴え、計66回に渡って教会本部や主要教会に郵送したが天理教内では受け入れられず、所属していた奈良教会は山口宣教所長の辞職勧告をする。 |
| みきの死後間もなく飯田岩治郎による水屋敷事件)、茨木基敬による茨木事件)など異端が相次いだが、これらの異端活動の中で最大の影響を与えたのが大西によるほんみちの開教だった。天理教の布教師であった大西愛治郎は、当時の天理教の状況に疑問を抱き、天理教の教義を新たに解釈し直すことによって、天啓者としての人の甘露台の出現を主張し、自らがその天啓者であるとした。台であり、大西自身が「人の甘露台」であると主張した。 |
| 【天啓者打ち出し】 |
| 1914(大正3)年、奈良県で天理研究会を設立。大西が神秘体験 によって天啓者としての新たな生を確立した。大西の主張が教白内に広く向調者を得、やがて独自の教団として独立していく。その背景に、教祖の死後に生起してきた天理教内部の矛盾的・危機的状況があった。教祖の死後、天理教は国家神道体制に組み込まれていく過程において、開教期に持っていた国家宗教(エリートの宗教)や文明に対ーする鋭い批判といった、天理教が本来持っていた民衆宗教としての宗教的パワーを喪失しつつあった。みき教理の世直しパワーを失いつつあった。大西による天理教を教組在世時に戻そうという宗教的志向性は、天理教が本来持っていた開教時の民衆宗教的パワーを取り戻さんとするものであった。天理教を始発期の姿に回帰させることによって天理教における失われたコスモスを再型化する試みといえよう。 |
| 1917年(大正6年)、宇太村役場職員、1919年(大正8年)奈良県の税務署員、1920年(大正9年)旧制小学校教諭をして生計を立てつつ、その後も吉田神道と関わりを持ち続ける天理教を批判。天理教が本来あるべき原点回帰を訴えた。 |
| 【「天理研究会」を発足】 |
| 1920(大正9)年、大西の考え方に共感を持つ天理教信者が相次ぐ。 |
| 1922(大正11)年、天理教本部へ交渉団を派遣するに至る。 |
| 1923(大正12)年、教師資格を剥奪し追放される。 |
| 1924(大正13)年、天理教の在り方を批判して同教から追放された。 |
| 1925(大正14)年、終に天理教を追放された。大西も旧制小学校教諭を辞職し、大西の考え方に同調した天理教信者と共に「おさしづ」を研究する「天理研究会」(奈良県)を発足させた。 大西からみれば、自分たちの教えこそ正統だった。大西の教義はやがて多くの信者を獲得し、「天理研究会」(のちに「天理本道」さらに「ほんみち」と改称)として独立した。大西は天理教の正統を意味する「甘露台様」を称し、「天理研究会」は隆盛をむかえる。 |
| 【昭和3年の打ち出し】 |
| 1926(大正15)年、病気がちな長男の体調がすぐれず、これを神の警告とした大西は、三重県に隠棲。ここで『岩戸古記』を執筆し天理研究会に送り、信者の育成に励んだ。 |
| 【第1次ほんみち不敬事件】 | ||
| 1928(昭和3)年、大西がまとめさせた世界大戦と国家滅亡の危機を予言警告、天皇の神格否定、天皇の日本統治能力否定、大西甘露台の神政実現等々を主張する『研究資料』を各界の要人に配布するよう信者に命じた。天理教が関教期に持っていた反権力性といった民衆宗教性を展開したものであった。
4月、警察は大西の教義が不敬罪にあたるとして一斉に「天理研究会」を捜索、信者385名を検挙、うち190名を起訴した。 |
| 【裁判、判決】 |
| これにより、ほんみちは治安維持法違反で厳しい弾圧を受けた。大西を筆頭に500人が不敬罪で検挙され、起訴された。大西は、下級審では懲役刑を言い渡された。 1930(昭和5)年、大審院が、大西愛治郎を精神鑑定の結果、宗教的誇大妄想・宗教的憑依妄想の精神病者の心身喪失中の行為であるとして無罪判決を言い渡した。 不敬罪容疑で公判に付された大西ほか29名は、一、二審は有罪、大審院では無罪の判決が下った。 |
| 【本部を大阪に移す】 |
| 1931(昭和6)年、本部を大阪に移す。 |
| 【天理本道に改名】 |
| 1936(昭和11)年、第1次ほんみち不敬事件後、布教活動展開すべく「天理本道」と教団名を改めた。これより布教が本格化し、大西愛治郎の嘗て居た天理教にも布教に向かった。 |
| 【第2次ほんみち不敬事件】 | ||
| 1938(昭和13)年、妻の病気に対し神の意思を感じ取った大西は、再び大戦と国家滅亡の危機を予言警告し天皇の神格を否定する小冊子『書信』全7信を九百万部刷り、全国信徒を動員して警察、憲兵隊から検事局まで配布した。 治安維持法違反及び不敬罪違反で大西を筆頭に380名が検挙され、237人が不敬罪などで起訴され、無期懲役の判決を受け、大西ら4名は昭和20年まで獄につながれた。 教団の結社禁止命令も下され布教活動を禁じられた。教団は全財産の3分の1を国防献金の名で没収され、大西は非転向で法廷闘争を続けた。 |
| 【裁判、判決】 |
| 大西愛治郎に対しては無期懲役が言い渡された。 |
| 【敗戦後の釈放、免訴】 | ||
| 1945(昭和20)年10.9日、敗戦直後、ほんみち派の大西愛治郎、その他側近幹部が大阪拘置所より釈放された。占領軍命令で政治犯として全員免訴となった。 |
| 【教団を再建】 |
| 1946(昭和21)年、教団を再建、本部を大阪府高石市羽衣に置いた。天理教と異なるところは、天理教は甘露台をお地場(本殿中央)にするが、ここでは大西を甘露台とし、教会制度を否定して無教会主義をとる。 1950(昭和25)年、教団名を「ほんみち」と改め、残りの人生すべてをほんみち振興と布教活動に奉げた。 同年、病に倒れた。 同年11.8日、ほんみち本部は脱税容疑で家宅捜索を受けたが、出てきたのは管主の身につけていた金のフレームの眼鏡だけだった。 |
| 【逝去】 | ||
| 1958(昭和33)年11.29日、逝去(享年77歳) |
| 【幾多の人甘露台出現】 |
| 大西による新たな宗教運動に呼応する形で、幾多の人甘露台が現われた。その草分けとなる教団の一つに天理神之口開場所がある。創始者である山田梅次郎は
1根株 (梅の木)甘2215? 」であると称し,中山善兵衛の生まれ変わりであるとして自らこそ天啓者であると確信することにより開教する。梅次郎は終末論的な世直しを襟傍し,国家と対的二する姿勢をみせていたが、1928
(昭和 13) 年の治安維持法違反事科こによる検挙と 1931 (昭和 16) 年の梅次郎の死によって天理神之口開場所は壊滅的な打撃を受けた。 梅次郎 により「甘露水さつけ」を受けていた信者たちは敗戦後にそれぞれが教団を再興し、現在「天理事I1 之 口!?司場所系教包J は十数教団あり、それらの教団の多くは梅次郎を教祖または開祖として位置付け、それぞれ梅次郎による天啓や遺言、遺品などをもとに梅次郎の後継者としている。ところがこれらの諸教団の中で明確に自己が天啓者であることを主張しているのは、おうかんみちの江上寿胤 (ひょうたんの木甘露台)だけである。それどころか甘露台霊理斯道会のように天啓者の存在を明確に否定する教団も誕生している。 |
| 【昭和3年の打ち出し】 |
| 現在ほんみちは本部の外に海外も含めて2支部5出張所を置き(その他巡教会場は多数あり)役員約6千人、信徒約30万人で組織されている。 |
| 【大西玉】 |
| 1962(昭和37)年、大西愛治郎が、天理教教祖みきの『泥海古記』で「ことしから30年たちたならなはたまひめもとのやしきへ」とあることを引合に、中山みきが逝去した年から30年経った1916年に生まれてくる子は、中山みきの魂を受け継ぐ子であると確信し、その名を玉と命名した。中山みきの生まれ変わりとされた大西玉は「玉姫様」と呼ばれ、父と共にほんみち拡充の原動力となった。 1947年、大西玉は、教理解明の為、信者宅に篭り、教理の解明に打ち込む。 1958年、大西玉は、自らが受けた天啓を『天啓御教書』にまとめ、父・大西愛治郎の逝去後、自分が天啓者「みろく」であると自覚を持つ。 1961年、「中山みきの生まれ変わり」として養育した次女・大西玉が、ほんみち内に大西玉の「天理みろく会」を発足させ、大西玉は『宇宙本体論』を発表する。 1962年1月、天理みろく会がほんみちより「ほんぶしん」として分離・独立した。1966年、宗教法人となる。当初は本部を、ほんみちと同じ大阪府高石市に置いていたものの、その後長野県塩尻市に移す。1969年、岡山県岡山市に本部を移す。信者数ははっきりしないが90万人とする資料もあり、単純な信者数ではほんみちを越える教勢を持つ。 1969年9.1日、本部で心筋梗塞により死去した。遺言により武田宗真が後継者となる。ほんぶしんでは中山みき(天理教教祖)の再生だとし「天啓者・みろく」と呼んで信奉している。後継者の武田宗真は「天啓者・甘露台」と呼ばれる。 1978年、本部に近い西片岡に神山を建設し、ここに六角形の石塔である「甘露台」を建立する。 1982年、神山に隣接した墓苑である清浄苑を建設。 1984年、ハワイで信者2000人の集会によって平和のメッセージを発する。 1988年、北京で信者2000人の集会によって平和のメッセージを発する。 1994年、清浄苑中央に石造の巨大な球体を持つ再生殿を建築した。 塩尻市に宗派を限定しないワールド健康センターを設立し、健康食品の販売なども行う。健康法や国際交流・平和活動にも力を入れている。 |
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| 【昭和3年の打ち出し】 |
| 1977年(昭和52年)に大阪府泉南市牧野の礼拝所、泉南神殿を建設。 1979年(昭和54年)に信者ではない者には未公開であった本部を公開し 1980年(昭和55年)から1984年(昭和59年)まで「ほんみち紹介のつどい」。 1987年(昭和62年)には本部に大規模な礼拝所を建設した。 1989年(平成元年)からは信者同伴を条件として一般の参拝を受け入れる「ほんみち泉南神拝殿一般参拝」などが行われている。 |
| 【昭和3年の打ち出し】 |
| 大阪府高石市に本部を置く新宗教。天理教からの分派。信徒数は319,031人。なお、斎藤昭吾が創立した岐阜県のほんみち (岐阜)とは別法人。大阪府泉南市に泉南神殿、施設群がある。 |
(私論.私見)