鴻田忠三郎先生について

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「鴻田忠三郎」を確認しておく。「天理教各教会の歴史探索(第94回)/新潟大教会」参照。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【鴻田忠三郎(こうだ ちゅうざぶろう)】
 1828(文政11)年2.22日、河内国丹南郡向野村(現・大阪府羽曳野市向野)生まれ。
 1903(明治36)年7.29日、出直し(享年76歳)。

 1828(文政11)年2.22日、河内国丹南郡向野村(大阪府 南河内郡 埴生村字向野、現・大阪府羽曳野市向野)に、高谷利衛門の四男として生まれる。幼名を 利吉といった。
 天保3年、5歳の時、生家高谷家より鴻田家(大和国式下郡北檜垣村、現・奈良県天理市檜垣町。奈良県磯城郡川東村 大字檜垣)鴻田長七の養嗣子となる。
 鴻田忠三郎は、村の村年寄や庄屋などをつとめた後、 奈良県農事通信係を命じられた。そして 明治14年頃には「大日本農会」の種芸科農業委員担当を勤めていた。
 32歳の時、神官・守屋筑前の姪・八重子と結婚した。
 3男誕生の折、(妻) 八重子の死去に遭った。
 その後、杉田甚三郎の娘・さき子を後妻に迎え、さき子との間に6人の子供をもうけた。
 鴻田忠三郎は 若くして農事に励み、かたわら 村年寄・庄屋などもつとめた。特に農事に秀でており、農作物の種子を全国から集めて試作し、それを 村人に分けるという程であった。生国・河内から麦種を持ち寄り、改良を重ねて出来上がった麦種は、格別の収穫が多かった。このため、その麦の名は「河内麦」別名「忠三郎麦」と称せられた。そうした実績は 多くの人々から高く評価されており、鴻田忠三郎は県下有数の篤農家と目されていた。
 明治に入ってからは、村総代や (奈良県磯城郡) 川東村小学校 学務委員を勤め、私財を投じてまで人々のために尽した。 
 1881(明治14)年、次女・りきの目の患いから初参拝。
 1881(明治14)年4月、大日本農会の種芸科農業委員として大阪府より新潟県勧農場の耕作係教師として勤務。のちに新潟大教会誕生。
 明治14年末、鴻田忠三郎は 新潟勘農場より年末休暇をもらって、奈良県磯城郡川東村の実家へ 帰和したところ、2〜3年来 眼病に悩んでいた 2女・りきの眼が、いよいよ悪くなっていた。りきの眼は医薬の力を以ってしては 失明が時間の問題というまでに進行してしまっていた。
 1882(明治15)年、鴻田忠三郎は同村(川東村)・岡田与之助 (後の宮森与三郎) から不思議な 神様の話を聞いた。鴻田忠三郎は、藁にもすがる思いで早速、岡田与之助に お願いをして貰った。そうしたところ、翌朝、(なんと) 娘 (りき) は、手の指や傍らにある品物がうっすら見える様になるというご守護を戴いた。御守護給わり入信。
 1882(明治15)年3.5日、奇蹟的なご守護に感激した鴻田忠三郎夫は、娘・りきを連れ、お礼参りのため初めておぢばに帰り7日間滞在した。おぢば滞在3日目、妻・さき子は、子供可愛い上から「私の片眼差し上げますから、どうぞ片眼なりとも娘の眼を治して下さい」と親神に願ったところ、不思議にもその晩よりさき子は片眼が失明し、娘・りきの片眼が快癒した。この不思議なたすけに (鴻田)忠三郎の信仰は深まり、助け一条の道を歩む覚悟が定まった。
 鴻田忠三郎は 教祖のもとで働きたいと思い、新潟勧農場に辞職を申し出た。しかし、新潟勧農場から辞職の許可は出ず、逆に「早々 帰任せよ」と催促される有様であった。身動き取れぬ事態となり弱ってしまった鴻田忠三郎は、今後の身の振り方を教祖に伺った。すると教祖は、「いても治る。いぬでも治る。汝渡らねば この橋無駄になる。道の200里も橋かけてある。その方一人より 渡る者なし」と仰せられた。すなわち、病人のことなど心配しないで、ちばより200里の北国新潟の地に神名を流すようにとのお言葉であった。心の定まった (鴻田)忠三郎に、教祖は、みずから はったい粉・お札などを箱に入れ背中にかつがせた。かくて、明治15年3.17日、新潟の地に「親神天理王命」の神名が流される日を迎える事となった。
 新潟へ帰ってからの (鴻田)忠三郎は、耕作地に虫がつくとお供えした御神水をまき鮮やかに御守護頂く姿を見、以後、赴任地の新潟で布教に励む。
 当時 流行したコレラが「勧農場」生徒120名の中にも伝染した。その際、鴻田忠三郎は 休暇届が出ると、その者に神水を授けおつとめをした。すると不思議にもたすかるので鴻田忠三郎は「勧農場の生神様」と呼ばれ、勧農関係者を中心に加速度的に 人々が集まるようになった。後日、鴻田忠三郎を自宅に迎えた斎悟清蔵は、当初、鴻田忠三郎のことを池上先生(生神先生) という姓名だと思っていた、というエピソードも伝わっている。また近郊農家より徳利・竹筒などを持ってお願いに来る人々は連日 40〜50名を越えたという。
 明治15年8月初旬、白山浦に住む石油採掘業者・斎悟清蔵は、重い疝気症で苦しんでいたが、治療の効果もあがらず悩んでいた。斎悟清蔵は近所の風呂屋の娘・せきより、勧農場に 祈禱して頂くと不思議な御利益を下さる神様(が現れたらしい、との話を聞いた。そこで、何とか 自分の疝気症をたすけてほしい、とお願いしたところ、早速、鴻田忠三郎が駆けつけた。鴻田は「天理王命」と記された紙を額の裏に貼付け、それに向かっておつとめをした。すると 翌朝、不思議にも、さしもの痛みが薄らぎ、頭が持ち上がるようになっていた。そして3日目に鴻田が斎悟家に来てみると、病人は家人の止めるのも聞かずに石油採取に出掛ける程元気になっていた。その、あまりにも顕著な御守護には、お助けに出向いた鴻田自身ですらも 深く感動した様子であった。
 明治15年9月、天野村・大谷家の依頼でおたすけに出た鴻田は、留守の間に空巣に入られ(てしまった。それで、鴻田は神様と共に「斎悟家」に移り下宿することになった。それ以来、信濃川対岸の人々が、「橋銭往復2銭あればどんな難病も救けてもらえる神様が現われた」と噂するようになり、遠く新潟県三条・長岡の人々まで斎悟家に祀られた神様を 訪れるようになった。記録では、3日間に500人の参拝者があったという。
 その頃、朝市場の商人達の間に、新道に 近頃 化物が出る等と大評判になったが、それは 鴻田が信濃川に飛び込んで 連日水垢離したことによるものであった。斎悟清蔵や塩谷政吉・斎川甚太郎 (いずれも 初期信徒総代) などもそれに倣ったという。
 明治15年11月10日、鴻田は「勧農場」を辞職し、布教専念を決意した。 それから幾日も経たないうちに大和より「至急帰和せよ」との手紙を受けた。
 明治16年、鴻田忠三郎、おぢばからの要請を受けた。当時、おちばでは山沢良治郎が病床にあった。社会的人材の必要性から鴻田に帰和することを求めた。
 明治16年1月13日、鴻田は、おぢばからの帰還要請を受けて東京経由で帰和した。
 鴻田が新潟からおぢばへ戻った時、教祖は「北の国1本の柱、北半国は1本の柱にまかせる」と仰せになった。
 新潟布教の先駆者である鴻田忠三郎は新潟を離れたが、鴻田が去った後も斎悟家に祀られた神様への 参拝人は絶えることがなかった。これ以後、斎悟清蔵とその養女・ハナを中心として、新潟の伝道線は伸展する。その中でも特に全盲をたすけられたハナは連日おたすけに奔走。数多くの御守護を頂き、それは 更なる参拝人の増加という現象に繋がった。参拝人の急激な増加は社会現象となり、ついに新潟新聞に「流行神の金儲け」などと報道されるまでの状況に至った。事態を重く見た斎悟ハナは、これ)以後、斎悟清蔵共、参拝者を拒絶している。ちなみにこの当時たすけられた信者は、碇田房吉・かと・白井こと・吉沢美重・星井こと (… 教会設置の基礎を築いた)以上のような人たちであった。
 1883(明治16)年、山澤良治郎出直し後、中山眞之亮の後見役となる。
 1884(明治17)年、教祖は、3.24日から4.5日まで奈良監獄署へ御苦労下された。鴻田忠三郎も10日間入牢拘禁された。
 1887(明治20)年、教祖崩御のおつとめで、かぐらをつとめる。
 1903(明治36)年7.29日、出直し(享年76歳)。

【鴻田忠三郎逸話】
 教祖伝逸話篇62「これより東」、95「道の二百里も」、144「結構の理」。
 教祖伝逸話篇62「これより東」。
 明治11年12月、大和国笠村の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から「庄屋敷には、病たすけの神様がござる。」 と聞き、どうでも父の病を救けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ、眼病で足許の定まらぬ父を背負い、3里の山坂を歩いて、初めておぢばへ帰って来た。教祖にお目にかかったところ、「よう帰って来たなあ。直ぐに救けて下さるで。あんたのなあ、親孝行に免じて救けて下さるで」と、お言葉を頂き、庄屋敷村の稲田という家に宿泊して、一カ月余滞在して日夜参拝し、取次からお仕込み頂くうちに、さしもの重症も、日に日に薄紙をはぐ如く御守護を頂き、遂に全快した。明治13年夏には、妻しゆの腹痛を、その後、次男耕三郎の痙攣をお救け頂いて、一層熱心に信心をつづけた。又、ある年の秋、にをいのかかった病人のおたすけを願うて参拝したところ、「笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、案じることは要らんで」と、教祖のお言葉を頂き、かえってみると、病人は、もうお救け頂いていた、ということもあった。こうして信心するうち、鴻田忠三郎と親しくなった。山本の信心堅固なのに感銘した鴻田が、そのことを教祖に申し上げると、教祖からお言葉があった。「これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ運べ」と。そこで、鴻田は、辻忠作と同道して笠村に到り、このお言葉を山本に伝えた。かくて、山本は、一層熱心ににをいがけ・おたすけに奔走させて頂くようになった。
 教祖伝逸話篇95「道の二百里も」。
 明治14年の暮、当時、新潟県の農事試験場に勤めていた大和国川東村の鴻田忠三郎が、休暇をもらって帰国してみると、2、3年前から眼病を患っていた二女のりきが、いよいよ悪くなり、医薬の力を尽したが、失明は時間の問題であるという程になっていた。家族一同心配しているうちに、年が明けて明治15年となった。年の初めから、この上は、世に名高い大和国音羽山観世音に願をかけようと、相談していると、その話を聞いた同村の宮森与三郎が、訪ねて来てくれた。宮森は、既に数年前から入信していたのである。早速お願いしてもらったところ、翌朝は、手の指や菓子がウッスラと見えるようになった。そこで、音羽山詣りはやめにして、3月5日に、夫婦とりきの3人連れでおぢばへ帰らせて頂き、7日間滞在させて頂いた。その3日目に、妻のさきは、「私の片目を差し上げますから、どうか娘の儀も、片方だけなりとお救け下され。」と、願をかけたところ、その晩から、さきの片目は次第に見えなくなり、その代わりに、娘のりきの片目は、次第によくなって、すっきりお救け頂いた。この不思議なたすけに感泣した忠三郎は、ここに初めて、信心の決心を堅めた。そして、お屋敷で勤めさせて頂きたいとの思いと、新潟は当時歩いて16日かかった上から、県へ辞職願を出したところ、許可はなく、「どうしても帰任せよ」との厳命である。困り果てた忠三郎が、「如何いたしましょうか」と、教祖に伺うと、「道の二百里も橋かけてある。その方一人より渡る者なし」との仰せであった。このお言葉に感激した鴻田は、心の底深くにをいがけ・おたすけを決意して、3月17日新潟に向かって勇んで出発した。こうして、新潟布教の第一歩は踏み出されたのである。
 教祖伝逸話編144「天に届く理、結構の理」
 教祖は、1884年3月24日から4月5日まで奈良監獄署へ御苦労下された。鴻田忠三郎も10日間入牢拘禁された。その間、忠三郎は、獄吏から便所掃除を命ぜられた。忠三郎が掃除を終えて、教祖の御前にもどると、教祖は、「鴻田はん、こんな所へ連れて来て、便所のようなむさい所の掃除をさされて、あんたは、どう思うたかえ」と、お尋ね下されたので、「何をさせて頂いても、神様の御用向きを勤めさせて頂くと思えば、実に結構でございます」と申し上げると、教祖の仰せ下さるには、「そうそう、どんな辛い事や嫌な事でも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで」と、お諭し下された。

【鴻田忠三郎評伝】
 「鴻田忠三郎先生について」(「清水由松傳稿本」120~121ページより)。
 大和磯城郡桧垣村の人、永原の中村直藏(二宮尊徳翁の弟子、贈從五位通称善五郎)という農業の先生について修業、明治十七八年所謂「坊主こぼち」の流行した頃、珍しい南瓜や綿の種などをもって全国に勤農講演行脚をされた。生れは河内で鴻田家へ養子に来た人である。百姓によく丹精し、桧垣の鴻田と言えば、地方の有志や警察上中流の人達で知らぬ者のない人望があった。明治十五年五十五才の時次女りきの眼病より入信し、山沢良次郎さんが明治十六年出直したあとおやしきへ引寄せられた。その頃読み書きの出来る人が尠(すくなか)ったので、それ迠に村役もし世界でも顔が利いた人で読み書き講演も出来るので重宝がられ、明治廿一年教会本部が出来てからは祝詞書きと説教とがその受持のように成っていた。その時分説教日が月に二三回あって、説教の際には狩衣をつけ冠をかむり笏板もってやったものである。美鬚をはやした格服のよい茨木基敬さんと二人が交替でつとめられた。息子の利吉さんの話に「親父が目をふさいで熱心に説教をしていたが、ふと目を開けると聴手が一人も居なかったことがあった」とある。勤農の旅先新潟で道の種をおろしたのが今新潟大教会となっている。品行方正、先生方の中では一番の早起で、御神饌が先生の受持のようになっていた。老年になって耳が遠くなり、初試験を辻忠作先生と二人でやっておられた。明治三十六年七月廿九日七十六才で出直しされた。




(私論.私見)