| 秀司論 |
更新日/2022(平成31.5.1改元/栄和4)年9.11日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「秀司論」をものしておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
| 【秀司の出直し】 |
| 内蔵を建てることになり無事に棟上は済んだが、内作りのできないうちの前年の暮れ辺りから秀司の身上が勝れなくなり、この年4.8日(陰暦3.10日)、「転輪王講社」開設から半年余を経た頃、出直した(享年61歳)。この時、まつえは中山家に嫁いで来て13年、数え年31歳、一人娘のたまえは数え年5歳だった。 |
| 【秀司の出直し考】 | ||||||
| 思えば、この間秀司は「応法派」の頭目とでも呼べる存在であり、教祖の厳しい叱責を受けながらも、布教の公認を目指して奔走し続ける日々であった。秀司は、「お道」人と云うよりも、常に中山家の立場から物事を見、教祖を母として見、一貫して中山家の戸主としての立場から「お道」と関わり続けて来ていた風があった。
これに対し、教祖の心には、我が家もなければ、我が子もなく、否我が身さえもなく、あるのはただ、世界一列の子供を助けたい一条の親心、月日の心であって、自己の心や中山家という立場からは完全に離れきっておられた。これが、「お道」そのものにますます昇華する教祖と秀司の対立要因であったと拝察される。
このお歌に、おつとめを進めようとする教祖と、おつとめをさせまいとする秀司との対立が窺える。教祖には、秀司が「お道」の妨害者の如く映じていた形跡が認められる。 |
| 【お筆先の秀司言及考】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
教祖は、秀司を念頭において、次のように優しく諭し、且つ時に次のように厳しく叱責している。これを確認しておく。
大意。秀司の足痛は病ではなく神の立腹である。この立腹は悪事が除かないためである。 悪事さえすっきり解決したら足もすっきりとなる。秀司はこのことを分かろうとしない。「あくじ」というのは、秀司の信仰の営利化の動きを指すと思われる。 |
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みきは明治十三年に日を仕切った。その頃、乙木村の山本吉次郎から、金剛山地福寺へ願い出ては、との話があった。これに対して、教祖は、「そんな事すれば、親神は退く」と、話をした。秀司は、わしは行くとて出掛けた。同年九月二十二日、転輪王講社の開筵式を行い、門前で護摩を焚き、僧侶を呼んで来て説法させた。その後、秀司は身上すぐれずとなり、翌十四年四月八日、六十一歳で死亡した。 |
| 【秀司の出直し考】 |
| お歌に、おつとめを進めようとする教祖と、おつとめをさせまいとする秀司との対立が窺える。教祖には、秀司が「お道」の妨害者の如く映じていた形跡が認められる。 思えば、この間秀司は「応法派」の頭目とでも呼べる存在であり、教祖の厳しい叱責を受けながらも、布教の公認を目指して奔走し続ける日々であった。秀司は、「お道」人と云うよりも、常に中山家の立場から物事を見、教祖を母として見、一貫して中山家の戸主としての立場から「お道」と関わり続けて来ていた風があった。 これに対し、教祖の心には、我が家もなければ、我が子もなく、否我が身さえもなく、あるのはただ、世界一列の子供を助けたい一条の親心、月日の心であって、自己の心や中山家という立場からは完全に離れきっておられた。これが、「お道」そのものにますます昇華する教祖と秀司の対立要因であったと拝察される。 |
| 秀司の一生を確認しておく。秀司は、在村の有力農民の家柄であった中山家の跡取りとしてこの世にうまれた。してみれば何不自由なく過ごし得る将来が約束されていたことになる。ところが、天保8年に秀司の足痛が始まり、それが前兆とも媒介ともなって教祖が「月日の社」とおなり下されて以来、秀司は、父善兵衛の存命中は父の苦衷を横目に見ながら、善兵衛亡き後は戸主として中山家を切り盛りする立場となった。この時、教祖はひたすらに神一条による「貧のどん底」へ向かっており、その行程を共にすることを余儀なくされていた。この間、一家の生計を扶け、妹達を労りながら苦労を共々にして来た。その秀司は、「お道の道明け」時代に入るや、教祖の言に従うよりも「お道」の経営に勤しみ始めた。慶応の頃になるや、お屋敷に祈祷所を作り、ご利益営業を始めた。教祖は、「お道」という信仰の上から秀司に厳しい叱責を与えたが、秀司は自分の信仰の型を崩さなかった。 ご利益営業は世上のどこでもやっていることであり、世上常識ではむしろ当たり前のことで、秀司が特段に悪いことをしたというものでもない。だが、そうした世上と教祖の思し召す世界とには大きな落差があった。この落差に対し、教祖と秀司には埋め難い溝があった。そういう意味での教祖らしさ、秀司らしさが終生続くことになった。秀司は、世の常識の眼からみれば、決して悪いという人間ではなかった。むしろ人にも好かれ人望もあった。問題は、教祖の説く「お道」が、助け一条の世界、陽気づくめの世界という、史上に例を見ない根底的な世直し、世の立替えを教理としていたことにあった。秀司は最後まで理解が及ばず、時には戸主として時には世情の論理で教祖の前に立ち塞がった。教祖は教祖で、お道の理は決して歪めず、この理を崩さなかった。教祖と秀司の確執がここにあった。この線を見ないと当時の「お道」の歩みが理解できない。 |
| 【秀司出直し譚】 | ||||||||||||||||
| 山澤為造が、秀司出直しの様子を次のように記している。「秀司先生の出直について(その一)」 (昭和8年12.5日号みちのとも27-28P、山澤為造「教長様御出直前後の模様」(道友社刊)より)。
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| これを、「山澤為造の秀司出直しの様子譚」とする。 | ||||||||||||||||
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| 【秀司の遺骸に接しての御言葉」についての教祖の御言葉異聞】 | ||||||
稿本天理教教祖伝は、こかんの出直しとの時と同様に「可愛いそうに、早く帰っておいで」と長年の労苦をねぎらわれ、秀司に代って「私は何処へも行きません。魂は親に抱かれて居るで。古着を脱ぎ捨てたまでやで」と仰せられた、と記している。これは、山澤摂行職証言「教祖は、秀司の枕元に立って、その額を三度撫でて、『早う帰って来るだで』と云って涙をぽろりと雫(しずく)して元の所へ帰られた」を基にしている。ところが、飯降伊蔵の息子の政甚が次のように異聞を証言している。(飯降政甚「新宗教」大正5年1月号における談話)
以下、「天理の霊能者」の61Pを参照する。この「政甚異聞証言」が教内で大問題となり、激しく批判された。これに対して、政甚は次のように述べている。
これに対して、山澤摂行職が次のように批判している。
これに対して、政甚が次のように反駁している。
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(私論.私見)