| 「明治17年の暮近き或る日(推定旧暦11月上旬、新暦12月中旬頃)であった。くに女は便所へ行って帰りに、吸い込みの処(即ち入口のこと)で倒れて、俄に足がたたんようになり、手も足もぐにゃ/\、からだ一体に痺れてしまった。しかし口だけは物言えたが、即ち脳溢血してしまったのである。俄に医者よ薬よと騒いで見たが、溢血してしまった後は、容易に如何とも仕様がなかった。やがてくに女の急を聞いた講社の先輩達も亦、兵庫からも神戸からも訪ねて来られて、色々と御話もし、御願いもして下さったが、これ又少しも御利益が見えないのであった。そこで講元端田久吉氏は色々心配して下されて、重なる周旋方とも談合の上、御地場へ帰って神様のおさしづを伺って下さることとなり、兵庫の中村勝治郎氏が、代表で御願いに行って下さることとなった。然るに神様御出ましになっての御指図に、『さあさぁ前々生、この世、三代の恩が重なったところ一時にあらわれた。もう本人はない(亡)のやで。なれども』。それは前々生よりこの世にかけて、三代恩が重なって、それが一時にあらわれ、もう本人くに女の命はないのやでと、仰せ下さる絶望の御言葉であった。さりながらそこに『なれども』と仰せ下さる御言葉に、一縷の望みが嘱されたので、伺いの桝井伊三郎先生より、なれどもと仰せ下さる処は、どういう処でありますか、と押して御伺い下された。すると、『この願い、御かぐら及びてをどり立ち願い、夜昼六座、三日三夜の願いしてやってくれ。それで利益がなかったら、あしきはらの願い、日に三度づゝ三日、三日三夜の願いしてやってくれ。それで利益がなかったら、本人の真実次第や』、と仰せ下さるのであった。御かぐら及び手踊り立ち願い、夜昼六座三日三夜の願いとは、本教最重の御願い勤めで、即ち『あしきはらい』の御勤めより、『よろづよ』、『十二下り』の御勤めの終りまで、多数人数を揃えて、立って御勤めをして御願いするのである。しかもそれが昼三座、夜三座、夜昼六座の立勤めを、三日三夜つとめるのであるから、殆んど之をつとめる講員は不眠不休であらねばならぬ。次に『あしきはらい』の願いにしても、日に三度宛三日すれば、これ亦殆んど之れに掛り切らねばならぬのであった。然して尚これにても利益なき時は、『本人の真実次第や』と、その最悪の場合をも御指示下されているのであった。 |
| 大きな鯉の夢 |
| 講社代表中村勝治郎氏は、御地場から帰って来るなり、早速松田宅を訪れて、病めるくに女に、直かにこの神様の御話をしてしまった。そこへ端田久吉講元や、神戸方周旋の筆頭清水与之助氏等も来られて、そんな話を病人に直かに話してしまうものがあるか。病人が勢を落としてしまうやないか、と中村氏に詰(なじ)られた。すると、中村氏は、丁度神様の御指図を頂いた晩、豆腐屋で寝て居たら夢に大きな河があった。その河に大きな岩が突き出て居た。その下は深い/\淵となっていて、そこへ大きな鯉が入って来た。中村氏は、魚串でその鯉めがけて突き刺したら、見事に鯉の横腹へグサッと刺せたと思ったら、眼が覚めた、という夢物語りをしながら、氏は更に語を次いで、御指図を頂いた翌朝、御地場の某先生に、先生昨夜(よんべ)豪(えら)い夢を見ました、と以上の夢の話をした。するとその先生は、それは早う帰(い)んで、この度の神様の御指図を本人に直かに聞かすが良い。きっと病人に、鯉の横腹に差し込むように、こたえるから、と御聞かせ下された。こういう事情から、かく御指図の旨を、病めるくに女に直かに話をしてしまった理由(わけ)を物語られたのであった。 |
そこで端田講元は、熱心な講社周旋の方々を誘い合わせて、再び松田家に集り、神様の御指図通り、先ず『御かぐら立ち勤めの願』を、夜昼六座、三日三夜の御願が為されたのであるが、少しも御利益が見えなかった。それで引続いて『あしきはらいの座り勤めの願』が、日に三度宛、三日三夜にわたりて為されたが、それでも御利益は少しも見えなかった。そこで端田講元は、御願に参加した講員を代表して、臥ている病人くに女に向って、『この通り神様の御指図通り願わしてもろても、御利益が見えへんのやから、あとはもう本人の真実次第やと仰しゃる。よってこれからは、あんたの真実で御利益もろて下され。講社は何もほっとくのやない。さあという時には、何時でも来るけれども、今は指図通り、一まず引かして貰いますから、どうぞあんたの真実で、助かって下され』と言い置いて、講員一同を連れて帰って行こうとせられた。くに女は一時に一人荒野に残される様な悲しい思いがした。時にその場に兵庫の先輩、周旋方の麻川与市氏も居られたが、氏も亦先年、同様の命ないという大患(中風で手足ぐにゃぐにゃであったと)の際、神様に御伺いしたところ、『前々生この世三代の因縁である』、という御諭しを頂いて、その中から助かった人であるので、『今は本人の真実次第や』、と言われて居るくに女は、その麻川氏に、どういう精神を定めたら助けて頂けますか、とその体験を尋ねて見たが、明確なる解答を与えられなかったという。因(ちなみ)に、その麻川氏は、それから数年後病再発してか、明治21年11.1日(旧暦9.28日)享年38歳で早折せられた。
やがて講元以下、帰ってしまわれた。かくて全身の自由を奪われ、只臥て居るより外に仕様のないくに女は、どう自ら真実の心を定めてよいのか、正に途方に暮れたのであった。それを見兼ねた夫常蔵氏は、それでは今一度、私が大和の御地場へ負うて参って、願うてやる、とさすが夫なればこそ、交通不便の当時、常蔵氏は身体の自由を全く失ったくに女を背負うて二十幾里、大阪までは汽車があったが、それから先は、二人乗の俥で、御地場へと連れて参られたのであった。やがて豆腐屋へ着き、それから直ぐに御屋敷へ参らせて貰った。門長屋を入ると、小さい厨(くりや。台所のこと)があり、次にかんろうだいがあった。そのかんろうだいを伏し拝んでから、御教祖の御座(いま)す御座敷(明治16年11.25日、旧暦10.26日夜に移られた御休息所)へと、常蔵氏は、くに女を背負うて行った。そこには狭い椽(タルキ)があった。そこでくに女は、夫の背から降して貰っていると、早くも見られた御教祖は、『おうおぅよう御帰りなさいましたなあ。あんた身の不自由があんなはりゃこそ、御帰りなさったんやろ』、さようで御座ります、『よう御帰りなさいましたなあ。ここは、あんたの親里だっせ。神様は、身に障りをつけて、引き寄せると仰しゃる。よう御帰りました』、といつくしみ深く仰せ下さって、くに女の身体を抱えるようにして、畳の上へ御降ろし下さった。そうして懇ろに御いたわり下されたのであった。やがてくに女夫婦が退(まか)り出てから、その晩に、御教祖は、御側の方に、『私の入りました風呂の湯を、豆腐屋へ持って行って、あの病人に入れてやっておくれ』、と仰せ下され、尚も後程、御教祖のお食べになった御夕飯の御残りを、『これも豆腐屋の病人に食べさしておくれ』、と仰せ下されて、御側のその婦人から、神様の御下げやさかいに頂きなはれよ、と云うて持って御よこし下された。それはおじやと云って、御米の固い中へおかずの入ったようなもので、一名雑炊(ぞうすい)というものであった。その外に尚団子と、以上二品持って来て下された。くに女は、それを有難く頂戴したのであった。次いで教祖様の御召しになった風呂の湯を、豆腐屋の若主人村田長平氏が掻(か)え出して、同家へ持ち帰り、くに女はその有難い御湯にも入れて頂いたのであった。(つづく) |
然るに、それほどまでに手厚い運びをして頂いたのにも拘らず、くに女の身上は些かの御利益も見えないのであった。のみならず、その夜巡査が臨検に来て、この病人は、何しに連れて来たのだと詰った。たっしゃな者なら大和めぐりに来ているのだと言訳も立つが、身動きも出来ぬ重病人、その言訳も出来ず、すると、巡査は、おみき婆さんにだまされて来たんやろ。今から出て帰(い)ね、と厳しく叱った。然し日は既に暮れて、四辺(あたり)は真っ暗になって居た。それで夫常蔵氏は、このとおりの重病人、どうぞ今夜だけは御免(おゆる)し下されと、ようやく頼んで、その夜だけは泊めて貰うことになったが、明日は早う帰ね、との厳命を残して巡査は帰って行った。その後へ、仲田左衛門先生が来られた。そうして扇の伺いをして下されて、申されるには、神様の御召しになった御湯を頂いて、入れて貰ったら、大概足が立ちよったのに、あんたにその御利益がないというのは、あんた家を出しなに、なんど心得違いがおますやろが、と御諭し下さった。そこで思案さして貰ったのに、私はこれだけ悪うて動けんのに、なんぼ御地場へ連れて帰って貰うても、所詮助かる事はむつかしかろう。そんなに助かるか、どうか、わからん者を、この動けんのに、連れて行って貰うてもなあと、出しなに思うた。それが心得違いであったかと、くに女は深くさんげした。然し身上は遂に何らの御蔭をも見る事ができなかった。そこで、せめてもう一日御地場に置いて頂いたらと、切に名残が惜しまれたが、先刻あゝまで厳しく言うて帰った巡査の事を思えば、それもならず。どこまで我身は不幸せな者かと悲嘆に暮れつつ、翌朝まだ白みかけもせぬ午前3時頃の夜の内から、豆腐屋の主人に俥に乗せて貰って、御地場を後にして帰って行ったのであった。丁度龍田まで来たら、漸く東の空が白み初めて来た。それは寒前(旧暦11.20日が寒の入り、新暦では明治18年1月5日である。よって寒前とは、その数日前の旧暦11.17日、新暦では明治18年の1.2日頃と推定される)であったので、大和の冬の夜の大気は、殊の外冷たかった。そこで俥を乗り換えて、逃ぐるが様に大阪を経て、神戸の自宅へと帰って来たのであった。
さてこうして帰って来てからは、くに女は、これではとても助からん。医者で助からず。信心でも、どんなにして頼み縋(すが)っても、自らの真実の心定めならぬ他力では、どうしても助けて頂く事ができない。『この上は、本人の真実次第や』との神様の御言葉のみが、ひとり救いの鍵を持つ事を知った。然らば、どういう真実の心の価を持って行ったら、助けて下さるのであろうか。常々聞かして頂いて居るのに、『病の元は心から。その心は八つの埃からである』と、それでは、その埃の心を一つでも取って、これから生涯そういう埃の心づかいはしまへんという心の価を以て、神様に御願いしようと思案した。ではその八つの埃の心のうち、どれを止めようかと考えてみた処、はらだち一つを止めようとしても、腹の立つのも、憎いや怨みからでもあり、我身や我子可愛いからでもあり、又欲しい、惜しいからでもあり、欲と高慢からでもあった。その一つを取ろうとすれば、その総べてを取らねばならなかった。それは到底くに女にはできそうではなかった。こう考えてくると、くに女は自らその真実を定めようとして、遂に定めるよすがもなかった。所詮私は助けて頂く事ができないのか。三代恩が重なって、こうして病気で果てたなら、来世は牛馬の道に落ちると聞かして頂いたが、さても残念至極よと、くに女は我家の神棚の方を向いて、『神様、私はとても人間界は通れんと思います。この度このまま迎え取られたら、さきは牛馬へ行こうより外は御座いましょうまいがな。それではあんまり酷(むご)う御座います。どないぞ助けて頂きとう御座います』。手を合わして拝む自由さえ奪われた身には、只恨み辛みの言葉を並べながらも、尚救いを神に願うて居た。他力でも成らず、自力も亦能(あた)わず。かくして空しく畜生道に只転落して行かむとする、それは余りにも弱き人の叫びであった。(つづく) |
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さりながら、こうした絶望の境地にありて、尚神様に縋り得るのは幸である。なぜならば、その願の一すじ心なる限り、必ず聞かれるべきであるからである。即ち此時ふと、くに女は次の事を想起した。『三代の因縁、よう此処まで踏ん張って下された。もう子供も膝の上の子はなし』と、時に彼女の長男源蔵は十六歳、次男の清蔵は八歳。然してこの感謝の心こそ、まず救われゆく心そのものではなかろうか。やがて喜びの心には、喜びの理がまわる。くに女は更にその晩、又ひょっと、毎日門へ来る沢山の乞食の姿(その頃は、日本の社会に乞食が沢山居たものである)を思い浮かべた。そうして思うには、『私はこない手足が叶わん様になって、臥て居って、三度の御飯だけは、たっしゃな時と同じように三膳食べるは過ぎる。二膳宛にして、一膳は門へ来る乞食に食べて貰おう。それでこれから三度三度私の食べる御飯の御初穂を、一膳除けて置いて、それを門へ来る乞食に食べて貰おう』と、そこで長男源蔵を呼んで、この話をした。すると、『お母さん、それは生涯定まりますか』。『私は生涯はよう定めんが、臥とる間だけは、二膳で結講や。どうぞ明日からそうして乞食に食べて貰うておくれ』。その定める処は、甚だ卑近であった。然しそれは身に直接した点に於て、正直と切実さがあった。やがてその翌朝から、その心定めは実行された。
それから三日目である。くに女は何気なく御腹へすっと動いて行った我が右手に驚いた。あっこれは不思議やと思って、その手で御腹を摩(さす)ってみた。するとその腹の痺れもすっきりと助けて頂いていた。『まあ一ぺん来ておくれ』。くに女は喜びの声を挙げた。飛んで来た息源蔵に、『私の御腹を見たら、これっきり痺れが、御蔭もろとる』。『まあ感心だすなあ。然しお母さん、あんた乞食へやったから、助かったと思うていては、違いまっせ。食べて貰うて結講やというて、二膳でたんのうして、人の腹を助かって貰うたから、あんたの腹が助かったのだすで』。源蔵は年に似気(にげ)ない聡明な子であった。低い優しいたんのうと、人を助ける心の実が、やがて我身を助けるに至る本教教理の核心を、短言以てよく指摘して諭したのであった。くに女は、理の鮮やかなる現われの一端を初めて体験して、なるほど、これは恩が重なって居るのやと、深く我身の重積した悪因縁の理に想到した。そこでより以上の助けを願うには、より以上の恩報じをさせて頂かねばならぬと気づいた。それは丁度寒に入る前(旧暦十一月十九日新暦では明治十八年一月四日である)であったが、『この寒の内三十日(旧暦では明治十七年十一月二十日新暦では明治十八年一月五日、小寒即ち寒の入りから旧暦十二月十九日新暦二月三日節分までのこと)の間、毎日米二升宛、おカユにたいて、門へ来る乞食さんに食べて貰うておくれ』。くに女が第二の心定めは、これであった。家人もよく此のくに女の願いを聞き容れて、その通り実行した。然るに、此度は何等の御利益も見えなかった。然し、くに女は決して失望せなかった。彼女は更により以上の出来るだけの恩報じを考えた。それは、『引き続いて三拾日の間、米屋から毎日米斗宛取りよせて、それを店の上り口に置いて、門へ来る乞食達に、米のまま貰うてもらい、仕舞いにならにゃ、其の日/\の店をしまわんようにと、これが一ヶ条。次には、くに女の物としてある着物や布とんに至るまで、悉く難儀な人に着て貰うておくれと、これが一ヶ条』。やがて又三十日、日毎の施与は怠りなく為され、初願以来六十日、くに女のタンスは、遂に空になってしまった。(つづく)
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六十日目(旧暦明治十八年正月十九日新暦参月五日のこと)の朝であった。くに女は、腕や腰や頸に、なんとのう力付いた様に思われるので、立って見ようと思った。それで先ずタンスのある所まで這い出して見たが、這えた。次に震える手で、タンスの環を握って、震える足腰を踏ん張って、立ってみたら立てた。次に歩いて見ようと思って、それから中戸を伝うて雨椽に出て、そこの障子八枚伝うて、店の間へ出る事が出来た。その店の間の奥に、三畳の居間があった。丁度朝なので、家族の人達は、今其処で朝御飯を食べて居た。くに女は、更にその三畳の間へも伝うて行って、障子を開けるなり、バアと言うも涙に曇った。みんなは、振り向いて、アッ、足が立ったんかいなあと、驚喜して、その有難い神様の御蔭に感激したのであった。然しまだ手は震い、足はよろつき、物を持たねば、立ち上がる事も、歩く事もできなかった。そこで、くに女は、更に次の心定めを重ねた。「表へ出させて貰いましたら、冬は綿入れ一枚、春は御み袷(あわせ)一枚、夏は御単衣一枚で、日々先生方の御供して、御助けに出さして頂きます。そうしてこの花隈町は、一軒残らず匂い掛けさして貰います。又二十里離れた兄姉弟妹(播州網干町の兄姉弟妹の事)にも、必ずにをい掛けさして貰います」。それは相変わらず切実な心定めであった。それからは、「明日は庭へ出よう」と思えば、出られるようになり、「明くる日は前栽へ出たい」と思えば、出られる様になり、その次の日は、「門へ出たい」と思えば、出られる様になり、日一日と御利益を受けて行った。
そこで愈々表へ出られる様になってからは、くに女は、端田講元や其の他の先輩達に、御助けの途上、松田家へ立寄って貰い、初めは足に草履を括りつけ、手に両杖ついてまで、御伴して附いて行った。一度行けば、片方の杖が取れる。二度行けば、杖要らん様になる。三度目には、草履を足に括りつけずとも、行ける様になる。その又翌くる日行けば、下駄ばきで行ける様になる。その又翌くる日行けば、傘さして行ける様になる。こうして奇跡は、日毎に続けられて行った。かく御蔭を頂くにつけ、くに女の感激も亦日毎に深くなって行った。かくて更に次の心定めを重ねた。「暑い寒いは厭いません。人が六時に起きるならば、私は四時に起きさして頂きます。人が十時に寝るならば、私は十二時に寝さして頂きます。そうして仕事を仕越して置いて、毎日御助けに出さして貰います」。何等の卑近にして切実なる心定めぞ。正に本教が真俗不二の真実道を、最も至順(※1)に実践的に極めて行くものではなかろうか。それからは、毎日此方から、兵庫能福寺前の端田講元宅へと出掛けて行って、「講元はん、御助けおまへんか。御伴さして頂きます」と、何と朗らかな心境ぞ。かくして御助けに御伴してでるのが、甦生(そせい※2)のくに女が唯一の楽しみとなったのであった。その後も、不思議な事には、くに女が二三日も家に居ろうものなら、足の裏が痒(かゆ)くなってくる。痒いと思うてかくと、足の裏に白まめが出来て、歩けん様になる。さんげして、御助けに出さして貰うと、すぐよくなった。もしも御助けに十日も行かぬものなら、自分がわるいか、子供がわるいか。反って講元さんの処へ、御助けを頼みに行かねばならぬ様になった。そこでくに女は、深く自己三代の悪因縁を自覚して、殊にその病状からして、腹立てんようにし、どんな中もたんのうして、爾後遍へに神一条に縋(すが)って、定めた心に狂いなく、助け一条にと努めて行った。その甲斐あって花隈町六十軒、遂に残らずにをいを掛け、その大半を講社にする事が出来た。然も其の中には有為なる人材すくなからず、後、兵庫真明講乃至(ないし)兵神分教会の中心勢力となったのであった。又くに女の出生地、播州網干町の、くに女の兄姉弟妹達も、程なく本教に導き入れたが、それが又はしなくも紺谷久平氏を講元とする飾磨講社を、兵神に帰属せしむる一つの機縁となったのであるが、それ等の評細は後述に譲り、更に身自らも、其の後の兵神の道の婦人界の重鎮として、永年尽す所尠(すく)なくはなかったのである。くに女、それは誠に中村勝治郎の夢に現れた大きな鯉そのものであった。(後略) (昭和四十三年八月発行「史料掛報」第135号「おぢば参謁記(十四)」白藤義治郎より) |
※昭和十一年一月の教祖五十年祭の前後、当時の天理時報において「五十年回顧」という特集が組まれていて、その中で松田くにさんご本人が、教祖に御助け頂いた時のお話を語っておられます。少し内容が異なっている処がありますので、参考までに掲載させて頂きます。
入信は私が三十五、六歳のころでした。入信して半年してから因縁が出まして、中風になりました。重態だったので講の方が代表して「おさしづ」を仰いで下されました。その時神様の仰せには、『前生と前々生と今生と三代の因縁が現われた。本人はもうない命やで。なれども‥』という意味のお言葉だったそうです。それで押してお願いし、「なれど、どうしたらよろしいでございましょうか」とお尋ねすると、『お願いしてやってくれ。かぐら昼三座、夜三座、六座の勤め。それで利益なかったら十二下り勤め昼三座、夜三座、六座の勤めをやってくれ。それまで願って利益なかったら、後は本人の心定め一つや』とのことであったそうです。かぐら勤めしても、十二下り勤めしても、利益はありませんでした。後は私の心定め一つで生きるか死ぬかとなったのです。私は神様に心定めを致しました。「夏ならば単衣一枚、冬ならば綿入れ一枚、あと何一つ望みません。悩む者、苦しむ者のお助けに、残る生涯を使わしてもらいます」。この心定めをさしてもらって、身体の悩みは止まりましたが、足が立ちません。それからは貧しい者には持ち物は何でも与え、毎日二升のお粥を作って乞食に施し、一ヶ月ほど経ってから、ようやく足が立てるようになりました。それで、背負うてもらって、教祖様の許へお詣り致しました。教祖様は、『よう帰って来た/\/\』とお喜び下され、お側へ寄せて下され、『ここは貴方の生れ故郷ですよ』と仰せられました。その日は豆腐屋へ泊まったのですが、教祖様には、御箸をつけられたおぢやを、『豆腐屋にいる病人に食わしてやって下さい』といわれ、また、風呂へお入りになってからは、お側の人に、『この水をそのまま豆腐屋の風呂に移して、病人を入れてやって下さい』と有難いお恵みを頂戴いたしました。こうしてお助け頂いた身体です。それがどうです。今年は九十歳ですよ。昨年来気分が悪くて、お医者さん二人から診てもらいました。お医者さんは、「身体どこ一つ悪いところはない。一寸風邪を引いただけです」とのことです。なお私の脈を診て、「どうです、この脈は。九十歳の老人の脈とはうけとれん。六十歳の人の脈です」。そんなに達者にさしてもらっています。ずうっとお助けをさしてもらっている間には、色々の道がありました。昨年末は驚いたでしょう※。なあに節ですよ。こうした節があったり、本席様に大きな身上があったりする度に、お道は大きくなって来たのです。見ていなさい。お道は大きくなりますよ。私ももっと長生きして、その盛大さを見せて頂きたいと思っています」。(昭和11年1.24日号「天理時報」の「五十年回顧」より) |