| 1874年 | 明治7年 | 77才 | 神楽面のお出まし、大和神社での神祇問答 の節 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「神楽面のお出まし、大和神社での神祇問答 の節」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
| 【神楽面のお出まし】 | |
| 教祖は、神楽面が揃うことをお待ちくだされた。神楽面とは、親神のご守護の理をそれぞれの働きに相応しく人格化させた面のことを云う。「神楽づとめ」の際に十人の「つとめ人衆」にこの面を被らせ、親神のご守護の働きを表現させる。実際には、つとめ人衆は甘露台を取り囲んで、お歌鳴物の調子に従い、親神の人間創造の働きをそのままに、その理を手振りに現わして勤めることになる。その効能は、「つとめ人衆」が「元の理」一つに溶け込んで、「一手一つ」に勤める時、親神の自由自在の守護があざやかに現われ、如何なる身上の悩みも事情の苦しみも取り除かれ、道人を勇ませ、「お道」の前途が開かれ、「世直し、世界の立て替え」を通じて陽気暮らしの世界を現出させる、というところにある。 この経過を見ておこうと思う。稿本天理教教祖伝は次のように記している。
1874(明治7)年、6.18日(陰暦5.5日)、親神の思召しの日となり時旬立て合い、教祖は主だった信徒(秀司、飯降、仲田、辻等)を連れ立ち、依頼していた教祖の実家先である前川家へ神楽面をお受け取りに行かれた。教祖は、できあがった神楽面を見て、「見事にできました。これで陽気におつとめができます」と大層ご満足をなさると共に、前川家の庭先で初めて一同にお面を付けてお手振りを試みられた。教祖は、この時、「いろいろお手数を掛けましたが、お礼の印しに」と仰せられて、自ら書き写されたお筆先2冊に虫札10枚を差し出されている。 この2冊はお筆先三号と四号であった。その表紙には共に、「明治7紀元より2534年戌6月18夜にくだされ候」とあり、更に三号には、「くにとこたちのお神楽、前川家に長々お預かり有り、その神楽むかひにみる候節に、直筆二冊持って外に虫札10枚と持参候て、庄屋敷中山より神様之人数御出くだされる。明治7年6月18日夜神楽本勤め」と記し、四号には「外冊、神様直筆、77才書」と記されている。 なお、「明治7年6月18日夜神楽本勤め」とあることを踏まえれば、この時前川家の庭先で神楽つどめの最初となる本づとめが行われたと云うことになる。付言すれば、この「おぢば」を離れた所での「本づとめ」を教義的に認めるのが八島教理であり、本部教理はこれを認めず「ぢば一つの理」として対立していると云う現状がある。 神楽面が揃ったということは、おつとめの体裁まで整備されたということを意味する。後は、甘露台の完成を待つばかりとなった。こうして、お屋敷では、毎月26日には、お面を付けて神楽、次に手踊りと、賑やかに本づとめを行い、毎日毎夜つとめの後で、お手振りの稽古が行なわれることとなった。 |
| 【神楽面考】 | ||||||||||||||||
| 「神楽面について」。(※昭和十一年六月号みちのとも「第四回教義及史料集成部座談会ーたんのう」より) | ||||||||||||||||
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| 【教祖、迫害を予見す】 | ||||||||||
1874(明治7)年頃、教祖は、「近代神道的国民教化の教説」を押しつけようとし始めた「高山の説教」に対抗する「高山布教」の旬に至ったことを道人にお示しされるようになり、お筆先五号において次のような予言を為された。
その神意はこうであった。
教祖が、国家権力の側からする弾圧を、むしろ「高山たすけの高山布教」の好機としてお受けとめされていることが分かる。この教祖の予言が来るべき事態に備えた優れた指針となった。事実、この予言通りに警察の干渉が強まり、教祖は、爾後満12年間に亘り約18回に及ぶ「ご苦労」をすることになった。 本部教理は次のように述べている。
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| 【古代史上の神話と大和神社の関係について】 |
| 大和神社は、記紀に登場する倭大国魂大神(やまとのおおくにのみたまのおおかみ)などの神々を祭神としており、日本最古の神社であるとも云われている。「延喜式神名帳」にも大和国山辺郡13座の初めに「大和坐大国魂神社(おおやまとにますくにたま)とある。もともと「大倭」と記されていたが、後に「大和」と書いて「おおやまと」と呼ばれるようになった。この説明ではまだ足りない。次に述べる「大和神社問答事件」との絡みで、ここで「古代史上の神話」について考察しておくこととする。 古代史に興味のある者には自明であるが、かって日本という国の支配を廻って「国譲り」が行われ、政権の交代が為されたという神話が伝えられている。この政変に応じて、神社は、天津神系譜と国津神系譜の二通りの格式に分かれている。天津神とは、国譲りにより政権を受けた側であり、大和朝廷を創出し、記紀神話を作り出し、神道的には今日の伊勢神宮内宮系に列がる。国津神とは、国譲りにより政権を手放した側であり、出雲王朝-ニギハヤヒ王朝-邪馬台国が相当し、神道的には今日の出雲大社、大神神社系に列がる。この系譜に従えば、大和神社は、大神神社と共に国津神系譜に位置し、その元締めの地位にあった。大和神社は、その創始については詳らかではないが、この神社で毎年4月1日に催される「ちゃんちゃん祭」が、例年大和で行われる祭りの先駆けを為すものであることからも判るように、地域一帯に影響力をもつ由緒深い余程高い式を持つ神社であった。この大和神社は悠久の歴史の中を国津神系神社として生き延びてきていた。この事情は三輪山の大神神社も然りであった。既述したところであるが、教祖の生家前川家のすぐ近くにあったことから見ても、教祖には幼少の頃よりなじみの深い神社でもあった。こうして、大和神社は格式を誇っていたが、明治の新時代を迎え、「国家神道」政策による神道国教化の趨勢の中でこの頃、政府の統制に迎合して御神体替えを為そうとする動きにあった。既に多くの神社が、新政府の国家神道政策により、国津神系から天津神系に御神体替えをしたり、仏教寺院へと衣替えしたり取りつぶされていた。大和神社もこの風潮に合わせて時局迎合しようとしていたことになる。 |
| 【重大な時旬、真柱の擁立】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この時期、教祖は、道人を束ねる核として、真柱を中心に据えようとの動きを為された。真柱について、お筆先3号に集中して誌されている。
教理では、これを次のように説く。当時真之亮は9才で、いつもいちの本村からお屋敷へ通うていたが、教祖は家族同様に扱うて可愛がられた。まだ幼年でもあり、親神の思召しが皆の人々に徹底していたわけでもなく、嗣子として入籍したわけでもない。そこで、一日も早く中山家へ呼び、名実ともに道のうちを治める中心と定めるよう急き込まれた云々。 |
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| しかし、八島秀雄氏は異説を説いている。後に真柱になる真之亮はこの時満7歳であることを思えば、真之亮の成長を待つというのには無理がある。これはこかんを呼び寄せようとの教祖の思いではなかったかと。当時こかんは、おはる亡き後の梶本家の後妻として迎えられていた。こかんが35才になって一人身であったことと、梶本家に残された子供の不憫さが立てあった結果、こかんが出向くこととなった。これには秀司夫婦の強い意向が働いていたとも考察されている。秀司夫妻との折り合いが悪く締め出されるようにお屋敷を後にしたとも云われている。 教祖がこれに強く反対していた。こかんは「お道」取次人第一人者であり、飯降伊蔵と並ぶ最も忠実な教祖派の道人であった。こかんなき後のお屋敷内は、応法派が「政府の指導する神ながらの道」に準じた「お道」へと急速に変質を遂げつつあった。こういう背景から、教祖が、こかんを真柱として「お道」の束ね人になるようにと「早く帰っておいで」のせき込みなされたものと説いている。 |
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| 私は、八島説を踏襲しつつも、この時期教祖は、もっと一般的に「お道」の確たる引継ぎ人としての真柱の確立と道人の結束を促そうとしていたものと拝察させて頂く。それは、お道の発展とそれに伴う弾圧の予感とに対する教祖の断乎とした決意であり、緊急の指示であった、そういうものと拝察させていただく。 |
| 【教祖の「神の国日本」諭し】 | ||||||||||||||||||
この頃、教祖は、唐人が干渉し、唐人が支配しようとしている「日本」に抗して、せかいろくぢに向けての元の理を教え、つとめの理の完成を、身をもってお説きになられていた。
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| 【「証拠守り」が渡され始める】 |
| この頃、親里へ帰った証拠として「証拠守り」が渡されるようになった。 |
| 【「ムホンスッキリの勤始」】 | |
「むほんすっきりのつとめ始め」。(諸井政一著「改訂正文遺韻」112pより)
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| 【教祖の予言】 | ||||
4月、教祖は、お屋敷内がお手振りと節つけで賑わう中、お筆先四号で次のように予言している。
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| 【教祖のコレラ教理】 | ||
明治7年、教祖は、「うしのさきみち」牛疫をコレラの前触れとしてお筆先で次のように予告している。
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| 【教祖の病まず死なず弱らず教理】 | ||||
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| 【高山布教その1、大和神社での神祇問答の節】 |
| この年陰暦10月のある日、「大和神社問答事件」が起こった。「お道」は、結果的にこの事件を契機に国家権力の弾圧水路を開くこととなった。この問答を通して判明することは、教祖が余程詳しく大和神社の縁起についてご承知されている節があることである。この種の観点よりの考究は全く為されていないが重要なことであるように思われる。取り敢えずこの事件の顛末を見ておこうと思う。実際の問答は別物であったと思われるが、他に資料もないので天理教本部の稿本教祖伝によらざるを得ない。 この日、教祖は、「お道」の高弟の仲田儀三郎、松尾市兵衛の両人に、「大和神社へ行き、どういう神で御座ると尋ねておいで」と仰せられた。二人は早速、大和神社へ行き、境内にある小教院にお筆先を差し出し、言いつかった通り「大和神社の祭神はどの様な神様で御座りますか」と問うた。その意味は、「御神体替えされようとしているようですが、新しい祭神はどの様な神様で御座りますか」と問うたものと思われる。これに対し、神職は、痛いところを突かれて返答に窮したのではなかろうか。これが、「大和神社での神祇問答」のキモであると思われる。よって、この後の話しは余興であるが見ておく。 神職は、「当社は由緒ある大社である。祭神は記紀に記された通りである」と、記紀二典から得た知識を元にとうとうと神社の祭神、その縁起をまくし立てた。その話しを聞きおわった両名は、「その神様たちはどんな御守護をくださる神様でございますか」と問うた。実際には、「新しい祭神はどのようなお働きを持つ神様なのでせうか」と問うたのではなかろうか。神職は一言も答えることはできなかった。その腹いせに、「ならばお前たちはどのような神様を拝しているのか」と聞き返した。そこで二人は、持参したお筆先三号と四号を出して、「我々の神様は、これこれの御守護をくださる元の神、実の神であります」と、日頃お教え頂いている十柱の神名に配しての御守護を諄々と話した。「当方の神様は、ありがたいご守護を下さる元の神、実の神であらせられる。このたび初めて表に現われ、世界一列を救う為、教祖を神の社として天下られることになられたのであります」云々。 神職たちに天理教教理的な「元の神、実の神」が分かる訳もなく、原某と云う神職が、「そんな愚説を吐くのは庄屋敷の婆さんであろう」と、居丈高になって二人をどなり散らした。のみならず、お筆先を一寸貸せと取上げ、「記紀に記されていない神名を唱えるなど不届き千万。所轄は石上神宮であろうが、氏子にこのような異説を言わせておくのは取り締まり不十分である。よって改めて調べに行くから承知していよ」、「お前達は百姓のように見えるが、帰ったら老婆に指を煮え湯に入れさせよ。それができれば、こちらから東京へ願うて結構なお宮を建てて渡す。できねば元の百姓に精を出せ」と言い、追い払った。二人が帰ってくると、その後を追うように大和神社の神職二名が人力車に乗って、参拝者を装うてやって来た。偽って 「佐保之庄村の新立ての者やが、急病ですから伺うてくだされ」と言上したが、「伺うことはできません。勝手に拝んでお帰り」と答えると、なすところなく帰ったと伝えられている。 |
| 【高山布教その2、石上神宮神職問答の節】 | |
| 「大和神社問答事件」は尾を引くことになった。事件の翌日、石上神宮の神官5名が弁難にやって来た。これは大和神社の神職が、「庄屋敷村は石上神宮の氏子である。自分の氏子の中に、あんな愚説を吐く者がいるのを、そのままにしているということは、石上神宮の取締りが不十分であるからだ」と、その筋から石上神宮神職を責め立てた為であった。石上神宮の神官は、まず秀司に向かって問答を仕掛けた。秀司が「知らぬ」と答えると、「村の役までする者が知らぬ筈があるものか」としつこく迫って来たので、辻忠作が、「昨日、大和神社へ行った者が居りますゆえ、こちらへ来てくだされ」と話しを引き取った。 この時、教祖は「親しく会う」と仰せられ、衣服を改めた上、直々自らお相手下さった。ここに神職側と教祖の間に宗論が展開されることになった。稿本天理教教祖伝は「教祖は親神の守護について詳しく説き諭された」として次のように記している。
真相は恐らく、上述のやり取りの他に、このたびの祭神替えの不義について「それはならぬ、ならぬこと」と論難したのではなかろうか。教祖は、大和神社、大神神社、石上神宮に伝わる大和王朝以前からの歴史性に言及し、「記紀学問は作り物に過ぎない。大和神社、大神神社、石上神宮に祀られている祭神のお働きは記紀学問のはるか前より伝わる古くよりの真実である」と述べられたのだろうと思われる。教祖の弁論は大和神社神職らの時局迎合性を鋭く突いていた。石上神宮の神官達は反論する気迫もなく唖然として立ち去った、と伝えられている。 |
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こうした経過を見ていると、「この道を つけよふとてに し拵(こしら)へ」と仰せられている通り、「大和神社での神祇問答の節」がその証左であり、迫害の口火に火を点じたのは、むしろ教祖の側にあったことになる。問題は、稿本天理教教組伝式「大和神社問答事件」では真相が分からないことにある。かの問答が、伝えられているような表層的なものであったかどうか疑問としたい。真実は、教祖が、「お道」の高弟を送りこんだその日は、大和神社の御神体替えを信徒総代に説明する日に当っていた。こうした事情を考えると、教祖は、大和神社の御神体替えの事情を察知しており、旧御神体の価値を認め、それを変更させようとしている時の大和神社神職達の時局迎合ぶりを揶揄する意図をもって高弟を送りこんだ節が窺える。こうして意図的にその種の論議を仕掛けさせた。大和神社神職は痛いところを突かれた腹いせに石上神社及び奈良県庁へ訴えでた、と拝察させて頂く。こうした背景を踏まえて「大和神社問答事件」を窺う必要があるように思われる。いずれにしても、こんな経緯から迫害干渉が始まることとなった。それが、やがて教祖はじめ熱心な信仰者逹の拘引、留置、投獄という、何よりも忌まわしい出来事として発展していったのである。 |
| 【丹波市分署による手入れ】 |
| これで彼らの腹の虫が納まったわけではない。石上神宮の神官たちは思うようにならなかった腹いせに、そのまま足を丹波市分署に向けた。「庄屋敷村は、丹波市分署の管轄内である。その管轄内でご政令に背くような妄説を吐かしておいては、貴公らのお役目が立つまい」、こんな意味の言いぐさで、警察分署の人々を煽り立てたことと察する。こうなっては、丹波市分署もじっとしていられなくなり、日ならずして、お屋敷に闖入して、神前の幣帛(へいはく)、鏡、簾、金燈籠などを没収し、これを村役人に預けた。こうして遂に迫害干渉の口火が切られることとなった。 |
(私論.私見)