1874年 明治7年 77才 神楽面のお出まし、大和神社での神祇問答
の節

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

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の節」を確認しておく。


 2007.11.30日 れんだいこ拝


【神楽面のお出まし】
 教祖は、神楽面が揃うことをお待ちくだされた。神楽面とは、親神のご守護の理をそれぞれの働きに相応しく人格化させた面のことを云う。「神楽づとめ」の際に十人の「つとめ人衆」にこの面を被らせ、親神のご守護の働きを表現させる。実際には、つとめ人衆は甘露台を取り囲んで、お歌鳴物の調子に従い、親神の人間創造の働きをそのままに、その理を手振りに現わして勤めることになる。その効能は、「つとめ人衆」が「元の理」一つに溶け込んで、「一手一つ」に勤める時、親神の自由自在の守護があざやかに現われ、如何なる身上の悩みも事情の苦しみも取り除かれ、道人を勇ませ、「お道」の前途が開かれ、「世直し、世界の立て替え」を通じて陽気暮らしの世界を現出させる、というところにある。

 この経過を見ておこうと思う。稿本天理教教祖伝は次のように記している。
 「教祖は、かねて、かぐら面の製作を里方の兄前川杏助に依頼して居られた。杏助は生付き器用な人であったので、先ず粘土で型を作り、和紙を何枚も張り重ね、出来上りを待って粘土を取り出し、それを京都の塗師へ持って行って、漆をかけさせて完成した。月日の理を現わすものは、見事な一閑張の獅子面であった。こうして、お面が出来上って前川家に保管されて居た」。
 杏助がいつ頃製作を依頼されたのかは定かではないが、明治5年9月に80才で出直しているので、少なくともそれ以前には神楽面が出来上がっていたことになる。こうして時旬の到来を待って前川家に保管されていた。

 1874(明治7)年、6.18日(陰暦5.5日)、親神の思召しの日となり時旬立て合い、教祖は主だった信徒(秀司、飯降、仲田、辻等)を連れ立ち、依頼していた教祖の実家先である前川家へ神楽面をお受け取りに行かれた。教祖は、できあがった神楽面を見て、「見事にできました。これで陽気におつとめができます」と大層ご満足をなさると共に、前川家の庭先で初めて一同にお面を付けてお手振りを試みられた。教祖は、この時、「いろいろお手数を掛けましたが、お礼の印しに」と仰せられて、自ら書き写されたお筆先2冊に虫札10枚を差し出されている。

 この2冊はお筆先三号と四号であった。その表紙には共に、「明治7紀元より2534年戌6月18夜にくだされ候」とあり、更に三号には、「くにとこたちのお神楽、前川家に長々お預かり有り、その神楽むかひにみる候節に、直筆二冊持って外に虫札10枚と持参候て、庄屋敷中山より神様之人数御出くだされる。明治7年6月18日夜神楽本勤め」と記し、四号には「外冊、神様直筆、77才書」と記されている。

 なお、「明治7年6月18日夜神楽本勤め」とあることを踏まえれば、この時前川家の庭先で神楽つどめの最初となる本づとめが行われたと云うことになる。付言すれば、この「おぢば」を離れた所での「本づとめ」を教義的に認めるのが八島教理であり、本部教理はこれを認めず「ぢば一つの理」として対立していると云う現状がある。

 神楽面が揃ったということは、おつとめの体裁まで整備されたということを意味する。後は、甘露台の完成を待つばかりとなった。こうして、お屋敷では、毎月26日には、お面を付けて神楽、次に手踊りと、賑やかに本づとめを行い、毎日毎夜つとめの後で、お手振りの稽古が行なわれることとなった。

【神楽面考】
 「神楽面について」。(※昭和十一年六月号みちのとも「第四回教義及史料集成部座談会ーたんのう」より)
高井猶吉  書いたもん何んぼあってもあかん。今、書いたもの何もあらへんもの、覚えてる丈や。その代りゆっくり話したら何んぼでも話する。一晩も二晩も寝んと話した事なんぼでもある。
桝井孝四郎  これから、先生お話なさる事仕事にして下さい。
高井猶吉  そら、ぼつ/\やったら何んぼでも話する。神楽の胴でも寸法聞きに来るけど、この寸法どういう理かと誰もききに来ぬ。寸法だけ尋んねに来るから寸法だけ言うたる。御神楽の獅子でも、教祖さんに持って行って恐い顔しとるの男やと思て言うと『いゝや違う』、優しいの女かと言うと『違う、のんびりした優しい顔が男や。ヤーッと怒ったんが女や』と仰せられた。あゝ俺の思てるのとあっちこっちや。それからよう問うと、恐い顔してるの”おもたりのみこと”で剣がある。邪険と言う。男の方は剣がない、円い玉がある。
中台赤太郎  それで今のお面でもそうですね。
高井猶吉  人間の道具の理は、教祖六十歳に成るのを待ち兼ねて仰った。若い間に仰しゃると、何言うやらと言う。それで教祖でも六十歳に成る迄、そんな事仰らなんだ。若うて言うと人が妙に思う。そこで年寄るのを待ち兼ねる。それで年寄ってから詳しい仰った。
中台赤太郎  神様は用意周到ですね。昔は最初から泥海古記で仕込み上げて来たから信仰は堅かったんですね。
上田民蔵  元がわからんといかん。
高井猶吉  甘露台は、ほん真ん中をしるしてはるのや。人間の身体で言うとヘソや。三年三月止まった所は、その北の方で石の延べたてたるが、行く/\はどない成るのか、未だ本普請に成ったらへんよってな。甘露台は、どしん(ド芯?)や。人間で言うたらヘソや。ほん真ん中や。(後略)

【教祖、迫害を予見す】
 1874(明治7)年頃、教祖は、「近代神道的国民教化の教説」を押しつけようとし始めた「高山の説教」に対抗する「高山布教」の旬に至ったことを道人にお示しされるようになり、お筆先五号において次のような予言を為された。
 今日の日は 何が見へるや ないけれど
 八月を見よ 皆な見へるでな
五号56
 見へるのも 何の事やら 知れまいな
 高い山から 往還の道
五号57
 この道を つけよふとてに しこしらへ
 そばなるものは 何も知らずに
五号58
 このとこへ 呼びにくるのも 出て来るも
 神の思惑 あるからの事
五号59

 その神意はこうであった。
 「今日の日は何も見えないけれど、今後は『お道』に対する官憲側からの干渉が本格化し、呼出しや、止めだてが為されることになる。しかしながら怖がることはない。実はそれも親神の思惑あってのことであり、これにより『高山からの往還の道』がつく。ひたすら『お道』の前進へ向かって邁進するがよい」。

 教祖が、国家権力の側からする弾圧を、むしろ「高山たすけの高山布教」の好機としてお受けとめされていることが分かる。この教祖の予言が来るべき事態に備えた優れた指針となった。事実、この予言通りに警察の干渉が強まり、教祖は、爾後満12年間に亘り約18回に及ぶ「ご苦労」をすることになった。

 本部教理は次のように述べている。
 「今日の日は何も見えないけれど、やがて変わったことが見えてくる。それは何かと言えば、高山から『住還の道』がつき始めるということである。実は、その道をつけようとて、親神の方では、いろいろと手立てをしているのだ。やがてこのところへ呼出しに来たり、止めだてに来たりすることがあるが、決して驚くには当たらない。皆な親神の思惑があってのことである」。

【古代史上の神話と大和神社の関係について】
 大和神社は、記紀に登場する倭大国魂大神(やまとのおおくにのみたまのおおかみ)などの神々を祭神としており、日本最古の神社であるとも云われている。「延喜式神名帳」にも大和国山辺郡13座の初めに「大和坐大国魂神社(おおやまとにますくにたま)とある。もともと「大倭」と記されていたが、後に「大和」と書いて「おおやまと」と呼ばれるようになった。この説明ではまだ足りない。次に述べる「大和神社問答事件」との絡みで、ここで「古代史上の神話」について考察しておくこととする。

 古代史に興味のある者には自明であるが、かって日本という国の支配を廻って「国譲り」が行われ、政権の交代が為されたという神話が伝えられている。この政変に応じて、神社は、天津神系譜と国津神系譜の二通りの格式に分かれている。天津神とは、国譲りにより政権を受けた側であり、大和朝廷を創出し、記紀神話を作り出し、神道的には今日の伊勢神宮内宮系に列がる。国津神とは、国譲りにより政権を手放した側であり、出雲王朝-ニギハヤヒ王朝-邪馬台国が相当し、神道的には今日の出雲大社、大神神社系に列がる。この系譜に従えば、大和神社は、大神神社と共に国津神系譜に位置し、その元締めの地位にあった。大和神社は、その創始については詳らかではないが、この神社で毎年4月1日に催される「ちゃんちゃん祭」が、例年大和で行われる祭りの先駆けを為すものであることからも判るように、地域一帯に影響力をもつ由緒深い余程高い式を持つ神社であった。この大和神社は悠久の歴史の中を国津神系神社として生き延びてきていた。この事情は三輪山の大神神社も然りであった。既述したところであるが、教祖の生家前川家のすぐ近くにあったことから見ても、教祖には幼少の頃よりなじみの深い神社でもあった。こうして、大和神社は格式を誇っていたが、明治の新時代を迎え、「国家神道」政策による神道国教化の趨勢の中でこの頃、政府の統制に迎合して御神体替えを為そうとする動きにあった。既に多くの神社が、新政府の国家神道政策により、国津神系から天津神系に御神体替えをしたり、仏教寺院へと衣替えしたり取りつぶされていた。大和神社もこの風潮に合わせて時局迎合しようとしていたことになる。

【重大な時旬、真柱の擁立】
 この時期、教祖は、道人を束ねる核として、真柱を中心に据えようとの動きを為された。真柱について、お筆先3号に集中して誌されている。
 このたびハ 門の内より たちものを
 早く急いで 取り払いせよ
三号1
 すきやかに そふぢしたてた 事ならば
 なハむねいそぎ 頼みいるそや
三号2
  真実に そふぢをしたる そのゝちハ
 神一条(ぢよ)で 心勇むる
三号3
 段々と 世界の心 勇むなら
 これが日本の 治(おさ)まりとなる
三号4
 今ゝでハ なによの事も ハかりない
 これからみゑる 不思議合図が
三号5
 こんものに むりに来いとハ ゆうでなし
 つきくるならば いつまでもよし
三号6
三号7
 真実に 神の心の せきこみは
 真の柱を 早く入れたい
三号8
 この柱 早く入れよと 思えども
 濁りの水で ところわからん
三号9
 この話し 速やか悟り ついたなら
 そのまま入れる 真の柱を
三号10
 このはなし さとりばかりで あるほどに
 これさとりたら しよこだめしや
三号14
 このたびハ たすけ一ぢよ をしえるも 
 これもない事 はしめかけるで
三号17
 いままでに ない事はじめ かけるのわ
 もとこしらえた 神であるから 
三号18
 にちにちに 神のはなしが やまやまに
 つかえてあれど とくにとかれん
三号19
 何ににても 説かれん事は ないけれど
 心すまして きくものハない
三号20
 すみやかに 心すまして きくならば
 よろづのはなし みなとききかす
三号21
 この世うの 確か験(ため)しが かけてある 
 これに間違い ないと思えよ
三号22
 このためしす みやかみえた 事ならば
 いかなはなしも みなまことやで
三号23
  なにもかも いかなはなしも とくほどに
 なにをゆうても うそとをもうな
三号24
 めへにめん 神のゆう事 なす事わ
 なにをするとも 一寸にしれまい
三号25
 はやはやと みへるはなしで あるほどに
 これがたしかな しょこなるぞや
三号26
 これをみて なにをきいても たのしめよ
 いかなはなしも みなこのどふり
三号27
 人のもの 借りたるならば りがいるで
 はやくへんさい れいをいうなり
三号28
 今の事 何も云うでは ないほどに
 先の往還 道が見えるで
三号36
 今の道 いかな道でも 嘆くなよ
 先の本道 楽しんでいよ
三号37
 今年には 珍し事を はじめかけ 
 今まで知らぬ 事をするぞや
三号42
 今までは 何よのことも 世界並み
 これから分かる 胸の内より
三号43
 このたびは 助け一条に かかるのも
 我が身の験し 掛かりたるうえ
三号44
 助けでも 拝み祈祷で いくでなし
 伺い立てて いくでなけれど 
三号45
 このところ よろずの事を 説き明かす
 神一条で 胸のうちより  
三号46
 分かるよう 胸のうちより 思案せよ
 人助けたら わが身助かる
三号47
 高山は 世界いちれつ をもうよう
 ままにすれども さきはみえんで
三号48
 段々と をふくよせたる この立ち木
 よふほくになる ものハないぞや
三号49
 いかな木も をふくよせてハ あるけれど
 いがみかゞみハ これわかなハん
三号50
 世界中 胸のうちより 真柱
 神のせき込み 早く見せたい
三号51
 世界ぢう 胸の内より このそふぢ
 神がほふけや しかとみでいよ
三号52
  これからハ 神がをもてい あらわれて
 山いかゝりて そふちするぞや
三号53
 一列に 神が掃除を するならば
 心勇んで 陽気つくめや
三号54
 なにもかも 神がひきうけ するからハ
 どんな事でも 自由自在(ぢうよぢさ)を
三号55
 このたびは 内を治める 真柱
 早く入れたい 水を澄まして
三号56
 これまでハ いかな話しを 説いたとて
 日がきたらんで 見みへてないぞや
三号62
 これからわ もふせへつうが 来たるから
 ゆへばそのまゝ 見へてくるぞや
三号63
 しかと聞け 三六二五の くれやいに
 胸のそふぢを 神がするぞや
三号64
 思案せよ なんぼすんだる 水やとて
 泥をいれたら 濁る事なり
三号65
 濁り水 早く澄まさん 事にてわ
 真の柱の 入れよふがない
三号66
 はしらさい はやくいれたる 事ならば
 まつたいしかと をさまりがつく
三号67
 このよふを はじめた神の しんぢつを
 といてきかする うそとをもうな
三号68
 今ゝでも しんがくこふき あるけれど
 元を知りたる ものハないぞや
三号69
 そのはづや どろうみなかの みちすがら
 しりたるものハ ないはづの事
三号70
 これまでハ このよはじめて ない事を
 たん/\といて きかす事なり
三号71
 なにもかも ない事はかり とくけれど 
 これにまちごた 事ハないぞや
三号72
  十一に 九がなくなりて しんわすれ
 正月廿六日をまつ
三号73
 このあいだ しんもつきくる よくハすれ
 にんぢうそろふて つとめこしらゑ
三号74
 にち/\に 神の心のせきこみハ
 ぢうよじざいを はやくみせたい
三号75

 教理では、これを次のように説く。当時真之亮は9才で、いつもいちの本村からお屋敷へ通うていたが、教祖は家族同様に扱うて可愛がられた。まだ幼年でもあり、親神の思召しが皆の人々に徹底していたわけでもなく、嗣子として入籍したわけでもない。そこで、一日も早く中山家へ呼び、名実ともに道のうちを治める中心と定めるよう急き込まれた云々。

 しかし、八島秀雄氏は異説を説いている。後に真柱になる真之亮はこの時満7歳であることを思えば、真之亮の成長を待つというのには無理がある。これはこかんを呼び寄せようとの教祖の思いではなかったかと。当時こかんは、おはる亡き後の梶本家の後妻として迎えられていた。こかんが35才になって一人身であったことと、梶本家に残された子供の不憫さが立てあった結果、こかんが出向くこととなった。これには秀司夫婦の強い意向が働いていたとも考察されている。秀司夫妻との折り合いが悪く締め出されるようにお屋敷を後にしたとも云われている。

 教祖がこれに強く反対していた。こかんは「お道」取次人第一人者であり、飯降伊蔵と並ぶ最も忠実な教祖派の道人であった。こかんなき後のお屋敷内は、応法派が「政府の指導する神ながらの道」に準じた「お道」へと急速に変質を遂げつつあった。こういう背景から、教祖が、こかんを真柱として「お道」の束ね人になるようにと「早く帰っておいで」のせき込みなされたものと説いている。
(私論.私見)
 私は、八島説を踏襲しつつも、この時期教祖は、もっと一般的に「お道」の確たる引継ぎ人としての真柱の確立と道人の結束を促そうとしていたものと拝察させて頂く。それは、お道の発展とそれに伴う弾圧の予感とに対する教祖の断乎とした決意であり、緊急の指示であった、そういうものと拝察させていただく。

【教祖の「神の国日本」諭し】
 この頃、教祖は、唐人が干渉し、唐人が支配しようとしている「日本」に抗して、せかいろくぢに向けての元の理を教え、つとめの理の完成を、身をもってお説きになられていた。
 にほんみよ ちいさいよふに をもたれど
 ねがあらハれば をそれいるぞや
三号90
 いまゝでの 事ハなんにも ゆてくれな
 廿六日に はじめかけるで
三号113
 いまのみち 上のまゝやと をもている
 心ちがうで 神のまゝなり
三号120
 上たるハ せかいぢううを まゝにする
 神のざんねん これをしらんか
三号121
 これまでハ よろづせかいハ 上のまゝ
 もふこれからハ もんくかハるぞ
三号122
 今の道 埃だらけで あるからに
 ほふけを持ちて 掃除ふしたて
三号145
 後なるハ 道ハ広くで ごもくなし
 幾たりなどと 連れて通れよ
三号146
 二二の 二の五つに 話しかけ
 万づ因縁 皆な説き聞かす
三号147
 高山の 説教聞いて 真実の 
 神の話を 聞いて思案せ
三号148

【「証拠守り」が渡され始める】
 この頃、親里へ帰った証拠として「証拠守り」が渡されるようになった。

【「ムホンスッキリの勤始」】
 「むほんすっきりのつとめ始め」。(諸井政一著「改訂正文遺韻」112pより)
 明治七年八月、山中彦七様、目の悩みにつき、御助けを願う為、一日より七日の間、重立ちたる人々熱心の人達よって、立勤めを遊ばされたり。五日の日に、市枝の伊三郎様、この勤めに行き、序に御地場へ参詣せしに、教祖様、仰せらるゝには、山中さんの所へ行かば、今日からは、こう云うて勤めをする様に、みなへ伝えよとて、『あしきはらひ、むほんすっきり、はやくをさめ、たすけたまへ、いちれつすますかんろふだい』とおしえ下され、その手の振り方も教えられて、それより山中様の所へゆき、皆に此事を話せしに、一同「ふしぎなことやなあ」と云うて、その通りおつとめせしことありしと。これ甘露台つとめ始めなりかし。

【教祖の予言】
 4月、教祖は、お屋敷内がお手振りと節つけで賑わう中、お筆先四号で次のように予言している。
  この日柄(ひがら) いつの事やと をもている
 五月五日に 確か出てくる
四号3
 それよりも をかけはぢまる これを見よ
 よるひるしれん よふになるぞや
四号4

【教祖のコレラ教理】  
 明治7年、教祖は、「うしのさきみち」牛疫をコレラの前触れとしてお筆先で次のように予告している。
 今迄の 牛のさきみち をもてみよ
 上たるところ 皆な気をつけよ
四号18

【教祖の病まず死なず弱らず教理】  
 そのゝちハ やまずしなすに よハらすに
 心したいに いつまでもいよ
四号37
 また先ハ ねんけんたちた 事ならば
 としをよるめハ さらにないぞや
四号38

【高山布教その1、大和神社での神祇問答の節】
 この年陰暦10月のある日、「大和神社問答事件」が起こった。「お道」は、結果的にこの事件を契機に国家権力の弾圧水路を開くこととなった。この問答を通して判明することは、教祖が余程詳しく大和神社の縁起についてご承知されている節があることである。この種の観点よりの考究は全く為されていないが重要なことであるように思われる。取り敢えずこの事件の顛末を見ておこうと思う。実際の問答は別物であったと思われるが、他に資料もないので天理教本部の稿本教祖伝によらざるを得ない。

 この日、教祖は、「お道」の高弟の仲田儀三郎、松尾市兵衛の両人に、「大和神社へ行き、どういう神で御座ると尋ねておいで」と仰せられた。二人は早速、大和神社へ行き、境内にある小教院にお筆先を差し出し、言いつかった通り「大和神社の祭神はどの様な神様で御座りますか」と問うた。その意味は、「御神体替えされようとしているようですが、新しい祭神はどの様な神様で御座りますか」と問うたものと思われる。これに対し、神職は、痛いところを突かれて返答に窮したのではなかろうか。これが、「大和神社での神祇問答」のキモであると思われる。よって、この後の話しは余興であるが見ておく。

 神職は、「当社は由緒ある大社である。祭神は記紀に記された通りである」と、記紀二典から得た知識を元にとうとうと神社の祭神、その縁起をまくし立てた。その話しを聞きおわった両名は、「その神様たちはどんな御守護をくださる神様でございますか」と問うた。実際には、「新しい祭神はどのようなお働きを持つ神様なのでせうか」と問うたのではなかろうか。神職は一言も答えることはできなかった。その腹いせに、「ならばお前たちはどのような神様を拝しているのか」と聞き返した。そこで二人は、持参したお筆先三号と四号を出して、「我々の神様は、これこれの御守護をくださる元の神、実の神であります」と、日頃お教え頂いている十柱の神名に配しての御守護を諄々と話した。「当方の神様は、ありがたいご守護を下さる元の神、実の神であらせられる。このたび初めて表に現われ、世界一列を救う為、教祖を神の社として天下られることになられたのであります」云々。

 神職たちに天理教教理的な「元の神、実の神」が分かる訳もなく、原某と云う神職が、「そんな愚説を吐くのは庄屋敷の婆さんであろう」と、居丈高になって二人をどなり散らした。のみならず、お筆先を一寸貸せと取上げ、「記紀に記されていない神名を唱えるなど不届き千万。所轄は石上神宮であろうが、氏子にこのような異説を言わせておくのは取り締まり不十分である。よって改めて調べに行くから承知していよ」、「お前達は百姓のように見えるが、帰ったら老婆に指を煮え湯に入れさせよ。それができれば、こちらから東京へ願うて結構なお宮を建てて渡す。できねば元の百姓に精を出せ」と言い、追い払った。二人が帰ってくると、その後を追うように大和神社の神職二名が人力車に乗って、参拝者を装うてやって来た。偽って 「佐保之庄村の新立ての者やが、急病ですから伺うてくだされ」と言上したが、「伺うことはできません。勝手に拝んでお帰り」と答えると、なすところなく帰ったと伝えられている。

【高山布教その2、石上神宮神職問答の節】
 「大和神社問答事件」は尾を引くことになった。事件の翌日、石上神宮の神官5名が弁難にやって来た。これは大和神社の神職が、「庄屋敷村は石上神宮の氏子である。自分の氏子の中に、あんな愚説を吐く者がいるのを、そのままにしているということは、石上神宮の取締りが不十分であるからだ」と、その筋から石上神宮神職を責め立てた為であった。石上神宮の神官は、まず秀司に向かって問答を仕掛けた。秀司が「知らぬ」と答えると、「村の役までする者が知らぬ筈があるものか」としつこく迫って来たので、辻忠作が、「昨日、大和神社へ行った者が居りますゆえ、こちらへ来てくだされ」と話しを引き取った。

 この時、教祖は「親しく会う」と仰せられ、衣服を改めた上、直々自らお相手下さった。ここに神職側と教祖の間に宗論が展開されることになった。稿本天理教教祖伝は「教祖は親神の守護について詳しく説き諭された」として次のように記している。
 「これに対し、神職側は、『それが真(まこと)なれば、学問はウソか』(『もし我々が言うのが嘘で、その方の言うことが真なれば、記紀二典に記されている学問は嘘か』)とがなり立てることしかできなかった。教祖は平然として、『学問にない、古い九億九万六千年間のこと世界へ教えたい』と仰せられた」。

 真相は恐らく、上述のやり取りの他に、このたびの祭神替えの不義について「それはならぬ、ならぬこと」と論難したのではなかろうか。教祖は、大和神社、大神神社、石上神宮に伝わる大和王朝以前からの歴史性に言及し、「記紀学問は作り物に過ぎない。大和神社、大神神社、石上神宮に祀られている祭神のお働きは記紀学問のはるか前より伝わる古くよりの真実である」と述べられたのだろうと思われる。教祖の弁論は大和神社神職らの時局迎合性を鋭く突いていた。石上神宮の神官達は反論する気迫もなく唖然として立ち去った、と伝えられている。


(私論.私見) 「石上神宮神職問答の節」考

 こうした経過を見ていると、「この道を つけよふとてに し拵(こしら)へ」と仰せられている通り、「大和神社での神祇問答の節」がその証左であり、迫害の口火に火を点じたのは、むしろ教祖の側にあったことになる。問題は、稿本天理教教組伝式「大和神社問答事件」では真相が分からないことにある。かの問答が、伝えられているような表層的なものであったかどうか疑問としたい。真実は、教祖が、「お道」の高弟を送りこんだその日は、大和神社の御神体替えを信徒総代に説明する日に当っていた。こうした事情を考えると、教祖は、大和神社の御神体替えの事情を察知しており、旧御神体の価値を認め、それを変更させようとしている時の大和神社神職達の時局迎合ぶりを揶揄する意図をもって高弟を送りこんだ節が窺える。こうして意図的にその種の論議を仕掛けさせた。大和神社神職は痛いところを突かれた腹いせに石上神社及び奈良県庁へ訴えでた、と拝察させて頂く。こうした背景を踏まえて「大和神社問答事件」を窺う必要があるように思われる。いずれにしても、こんな経緯から迫害干渉が始まることとなった。それが、やがて教祖はじめ熱心な信仰者逹の拘引、留置、投獄という、何よりも忌まわしい出来事として発展していったのである。


【丹波市分署による手入れ】
 これで彼らの腹の虫が納まったわけではない。石上神宮の神官たちは思うようにならなかった腹いせに、そのまま足を丹波市分署に向けた。「庄屋敷村は、丹波市分署の管轄内である。その管轄内でご政令に背くような妄説を吐かしておいては、貴公らのお役目が立つまい」、こんな意味の言いぐさで、警察分署の人々を煽り立てたことと察する。こうなっては、丹波市分署もじっとしていられなくなり、日ならずして、お屋敷に闖入して、神前の幣帛(へいはく)、鏡、簾、金燈籠などを没収し、これを村役人に預けた。こうして遂に迫害干渉の口火が切られることとなった。




(私論.私見)