| (道人の教勢、動勢) |
| 「1874(明治7)年の信者たち」は次の通りである。この頃より、教祖の噂が大和を越えて、河内や大阪にまで広がっていくこととなった。 |
| 西浦弥平(31歳) |
1874(明治7)年、大和国山辺郡園原村(現・奈良県天理市園原町)の農業/西浦弥平(31歳)が長男・樽蔵のジフテリアが手引きでご守護頂き入信。上田嘉治郎(嘉助)、ナライト等を導く。本席より甘露台の授けを戴く。
稿本天理教教祖伝逸話篇「39、もっと結構」は次の通り。
「明治7年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(当時2才)が、ジフテリアにかかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の村田幸四郎の母こよから匂いがかかった。お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎がお助けに来てくれ、不思議な助けを頂いた。弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし、その後、熱心に信心をつづけていた。
ある日のこと、お屋敷からもどって夜遅く就寝したところ、夜中に床下でコトコトと音がする。これは怪しいと思って、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が、アッと言って闇の中へ逃げてしまった。後には大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、お蔭で、結講でございましたと教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、『ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか』と仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という」。 |
1899(明治32)年6.14日、出直し(享年56歳)。 |
| 泉田籐吉() |
| 同年、大阪の泉田籐吉が入信。 |
| 宮森与三郎(18歳) |
同年、宮森与三郎(18歳)が本人の左腕痛が手引きで入信。
稿本天理教教祖伝逸話篇「40、ここに居いや」は次の通り。
| 明治7年、岡田与之助(註、後の宮森与三郎)18才の時、腕の疼きが激しく、あちこちと医者を替えたが、一向に快方へ向かわず、昼も夜も夜具にもたれて苦しんでいた。それを見て、三輪へ嫁いでいた姉のワサが、一遍、庄屋敷へやらしてもろうたら、どうやと、匂いをかけてくれた。当人も、かねてから庄屋敷の生神様のことは聞いていたが、この時初めてお屋敷へ帰らせて頂いた。そして教祖にお目通りすると、『与之助さん、よう帰って来たなあ』と、お言葉を下された。そのお言葉を頂くと共に腕の疼きはピタッと治まった。その日一日はお屋敷で過ごし夜になって桧垣村へもどった。ところが、家へもどると又腕が疼き出したので、夜の明けるのを待ちかねてお屋敷へ帰らせて頂いた。すると不思議にも腕の疼きは治まった。こんな事が繰り返されて、三年間というものは、ほとんど毎日のようにお屋敷へ通った。そのうち、教祖が、『与之助さん、ここに居いや』と仰せ下されたので、仰せ通りお屋敷に寝泊まりさせて頂いて用事を手伝わせてもらった。そうしないと、腕の疼きが止まらなかったからである。こうして、与之助は、お屋敷の御用を勤めさせて頂くようになった。 |
|
| 増井りん(32歳) |
12.4日(陰暦10月26日)、河内国大県郡大県村(現・大阪府柏原市大県)の増井りん(32歳)が眼病の手引きで初参拝、入信。明治7年、教祖より「針の芯」のお許し・赤衣を頂く。教祖・本席のお守り役、別席取次人、息のさづけ。明治10年、長女とみゑ(1867年-1908年)が最初に三曲を教えられている。(稿本天理教教祖伝逸話篇36「定めた心」、44「雪の日」)
1939(昭和14).12.17日、出直し(享年97歳)。長男・幾太郎(1863年-1926年)は大縣支教会(現大教会)初代会長。 |
稿本天理教教祖伝逸話篇「36、増井りん/定めた心」が、増井りん入信時の様子を次のように語っている。
「明治7年12月4日(陰暦10月26日)朝、増井りんは、起き上がろうとすると、不思議や両眼が腫れ上がって、非常な痛みを感じた。日に日に悪化し、医者に診てもらうとソコヒとのことである。そこで驚いて医薬の手を尽したが、とうとう失明してしまった。夫になくなられてから2年後のことである。こうして、一家の者が非歎の涙にくれている時、年末年始の頃(陰暦11月下旬)、当時12才の長男幾太郎が、竜田へ行って、道連れになった人から、『大和庄屋敷の天竜さんは何んでもよく救けて下さる。三日三夜の祈祷で救かる』という話を聞いて戻った。それで早速、親子が大和の方を向いて三日三夜お願いしたが、一向に効能はあらわれない。そこで、男衆の為八を庄屋敷へ代参させることになった。朝暗いうちに大県を出発して、昼前にお屋敷へ着いた為八は、赤衣を召された教祖(おやさま)を拝み、取次の方々から教の理を承わり、その上、角目角目を書いてもらって戻って来た。これを幾太郎が読み、りんが聞き、『こうして、教の理を聞かせて頂いた上からは、自分の身上はどうなっても結構でございます。我が家の因縁果たしのためには、暑さ寒さをいとわず、二本の杖にすがってでも助け一条のため通らせて頂きます。今後、親子三人は、たとい火の中水の中でも、道ならば喜んで通らせて頂きます』と、家族一同、堅い心定めをした。りんは言うに及ばず、幾太郎と8才のとみえも水行して、一家揃うて三日三夜のお願いに取りかかった。おぢばの方を向いて、なむてんりわうのみことと、繰り返し繰り返してお願いしたのである。
やがて、まる三日目の夜明けが来た。火鉢の前でお願い中、端座し続けていたりんの横にいたとみえが、戸の隙間から差して来る光を見て、思わず、『あ、お母さん、夜が明けました』と言った。その声に、りんが、表玄関の方を見ると、戸の隙間から一条の光がもれている。夢かと思いながら、つと立って玄関まで走り、雨戸をくると、外は昔と変わらぬ朝の光を受けて輝いていた。不思議な全快の御守護を頂いたのである。りんは、早速、おぢばへお礼詣りをした。取次の仲田儀三郎を通してお礼を申し上げると、お言葉があった。『さあさぁ一夜の間に目が潰れたのやな。さあさぁ因縁、因縁。神が引き寄せたのやで。よう来た、よう来た。佐右衞門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう、聞かしてやってくれまするよう』と仰せ下された。その晩は泊めて頂いて、翌日は、仲田から教の理を聞かせてもらい、朝夕のお勤めの手振りを習いなどしていると、又、教祖(おやさま)からお言葉があった。『さあさぁ因縁の魂、神が用に使おうと思召す者は、どうしてなりと引き寄せるから、結構と思うて、これからどんな道もあるから、楽しんで通るよう。用に使わねばならんという道具は、痛めてでも引き寄せる。悩めてでも引き寄せねばならんのであるから、する事なす事違う。違うはずや。あったから、どうしてもようならん。ようならんはずや。違う事しているもの。ようならなかったなあ。さあさぁ因縁、因縁。佐右衞門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう。目の見えんのは、神様が目の向こうへ手を出してござるようなものにて、さあ、向こうは見えんと言うている。さあ、手をのけたら直ぐ見える。見えるであろう。さあさぁ勇め、勇め。難儀しようと言うても、難儀するのやない程に。めんめんの心次第やで』と仰せ下された。その日もまた泊めて頂き、その翌朝、河内へ戻らせて頂こうと、仲田を通して申し上げてもらうと、教祖は、『遠い所から、ほのか理を聞いて、山坂越えて谷越えて来たのやなあ。さあさぁその定めた心を受け取るで。楽しめ、楽しめ。さあさぁ着物、食い物、小遣い与えてやるのやで。長あいこと勤めるのやで。さあさぁ楽しめ、楽しめ、楽しめ』とお言葉を下された。りんはものも言えず、ただ感激の涙にくれた。時に、増井りん32歳であった」。註/仲田儀三郎、前名は佐右衞門。明治六年頃、亮・助・衞門廃止の時に、儀三郎と改名した。 |
|
稿本天理教教祖伝逸話篇「45、増井りん/心の皺を」の逸話は次の通り。
「教祖は、一枚の紙も、反故やからとて粗末になさらず、おひねりの紙なども丁寧に皺を伸ばして、座布団の下に敷いて御用にお使いなされた。お話に、『皺だらけになった紙をそのまま置けば、落とし紙か鼻紙にするより仕様ないで。これを丁寧に皺を伸ばして置いたなら、何なりとも使われる。落とし紙や鼻紙になったら、もう一度引き上げることは出来ぬやろ。人のたすけもこの理やで。心の皺を、話の理で伸ばしてやるのやで。心も皺だらけになったら、落とし紙のようなものやろ。そこを落とさずに救けるのが、この道の理やで』と、お聞かせ下された。
ある時、増井りんが、お側に来て、『お手許のお筆先を写さして頂きたい』とお願いすると、『紙があるかえ』と、お尋ね下されたので、丹波市へ行って買うて参りますと申し上げたところ、『そんな事していては遅うなるから、わしが括ってあげよう』と仰せられ、座布団の下から紙を出し、大きい小さいを構わず、墨のつかぬ紙をよりぬき、御自身でお綴じ下されて、『さあ、わしが読んでやるから、これへお書きよ』とて、お読み下された。りんは、筆を執って書かせて頂いたが、これはお筆先第五号で、今も大小不揃いの紙でお綴じ下されたまま保存させて頂いている、という」。
|
|
| 高井猶吉(なおきち、13歳) |
河内国志紀郡南老原村(現・大阪府八尾市老原)の高井猶吉(なおきち、13歳)が姉なをの産後の患いから、その婿養子と初参拝、入信。明治17年、教祖より息のさづけ、赤衣のお下げ。明治20年のおつとめで、神楽手踊りをつとめる。
1941(昭和16).11.21日、出直し(享年81歳)。泉支教会(現大教会)3代会長。 |