1874年 明治7年 77才 教祖の中南の門屋建築の仰せ

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年9.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「1874年その1、教祖の中南の門屋、建築の仰せ」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【お筆先を三号から六号半ばに亘ってご執筆】
 1874(明治7)年、教祖77才のとき、教祖がお筆先を再開し、三号から六号半ばに亘ってご執筆された。急ぎに急がれる親神の思召しのほどを誌され、重大な時旬の迫って居ることを告げて、道人の心の成人を強く促されている。

【「お節会」始まる】
 教祖の膝下に寄り集い、元旦に供えた鏡餅のお下がりを、一同打ち揃うて賑やかに頂くことは、既に早くから行われていたが、そのお供え餅の量も次第に殖えて、明治7年には、7、8斗にも昇った。この行事は「お節会」(おせちえ)と呼ばれて、後年、次第に盛んになった。

【教祖、引き続き「中南の門」の建築普請を促す】
 「お筆先三号解釈その1(1~4)」参照。

 1874(明治7).1月、教祖は、先ず門とそれに続いた住居と倉の建築を指針せられた。それには屋敷内の地取りをせねばならず、その当時屋敷内には邪魔になる建築があったので、それを取り払うて早く屋敷内の掃除をするようにと急がれた。

 お筆先三号で次のように急かされている。

 このたびハ もんのうちより たちものを
 はやくいそいで とりはらいせよ
三号1
 すきやかに そふぢしたてた 事ならば
 なハむねいそぎ たのみいるそや
三号2
 しんぢつに そふぢをしたる そのゝちハ
 神一ぢよで 心いさむる
三号3

 神意はこうであった。「この度は屋敷内の邪魔になる建物を取り払うて了え。速やかに残る隅なく屋敷の掃除ができたならば、なわむね(縄棟)を急いで張るように」。かく、教祖は、お住いになる建物の建築を急き込まれた。こうして、今やまさに、教祖に対する留置投獄という形を以って「高山布教」が始まろうとしている前夜、後日警察の干渉の原因ともなった、中南の門の建築を仰せ出され、次のように宣べられた。
 「凡そ倉というものは、何処の土地でも皆な窓があるなれど、この倉は窓なしにしておく。この道のつとめの人衆75人できたら、その生姿を入れる蔵を造らねばならぬ。納めるところや」。

 これにより、表門のところに窓なしの倉と教祖の座敷住居が拵えられることになった。引き続き、上段の間と、二階建て一棟の普請が為されている。当時30名ほどが熱心な信者として集っており、銘々より寄付が為され、普請の手間は、伊降とその弟子等の僅かな人数で引き受けることになった。明治7年9.13日から始まって10.26日に棟上げされている。棟上したものの警官の咎めだてにより又も普請がのびのびになったが、この干渉による渋滞を許さず年内に何事もなかったかのように立派に内造りが完成した。
(私論.私見) 「中南の門の建築の仰せ」について
 これを思案するのに、教祖は、明治維新政府の弾圧をものともせず否むしろ敢然と更に意気軒昂に独立独歩「お道」の前進を図ろうとしていたことになる。「闘う教祖」の姿をそこに見ることができよう。

【教祖の中南の門屋、建築の仰せ考】
 教祖の仰せの「邪魔になる建物」とは何か。芹沢茂(著)「おふでさき通訳」(道友社、1981年)は次のように記している。
 「当時のお屋敷においては、不要の建物として、嘉永6年以後どんぞこの時代に住まわれた掘立小屋の程度の建物が『つとめ場所』の東側にあったと伝えられる。ここに明治初年頃、一時、秀司先生の妻子が住んだ。それを取払って新しい建物を建てようとされたのである」。

 ここで、「邪魔になる建物」として「掘立小屋の程度の建物」が特定されている。この「掘立小屋の程度の建物」について、松谷武一(著)「先人の面影」32-35頁(天理教青年会本部、1981年)がさらにくわしく史実の検討を行って「掘立小屋取払いは、秀司先生と内縁関係にあった婦人の住居のため」として次のように述べている。
 「第一号に続いて、第二号にも『屋敷の掃除』は出ていたが(二・18)、第三号に入ると、最初から『早く急いで』と仰せられて、親神さまは非常なおせきこみである。そこで、第一号のときの『掃除』の対象は川原城のおちゑさんであったが、第三号では、具体的に、親神さまは何を『掃除』させようと望まれているのであろうか。まず『註釈』を読んでみよう。 『おふでさき註釈』30頁(は次のように記している)。 ― この時の思召で新しく建てられたのが中南の門屋であったが、そのふしんの前にとりはらわれた『邪魔になる建物』とはいったいどの建物を指すのだろうと、私は疑問を抱いた。1853(嘉永6)年、中山家の母屋がとりこぼたれたあとは、前からあった隠居一棟がのこり、元治元年(1864年)に建てられたつとめ場所がふえて、お屋敷内の主な建物は二棟となっていた。『おやしき変遷史図』をみると、それ以外に掘立柱六帖一棟と表門一棟、蔵・物置一棟などがある(図A)。それとは別に復元第11号にも変遷図がのっている(図B)。この図Aと図Bとをならべて比較してみると、表門の形状が異なっているし、図Bの方には井戸の記載がないなど若干の相違がみられるが、おそらく両説が併存するのであろう。いずれにせよ、おふでさき第三号1のお歌の『たちもの』には掘立柱六帖一棟があてはまるようである。

 では、なぜこれが『そふぢ』の対象となったのか、私の詮索心はますますかきたてられた。調べてみると『教租伝史実校訂本下一』に次の記述があった。『當時中山家の屋敷内には秀司先生と内縁関係の婦人の住居がありましたので、実際から云ふて地取りするにはそれが邪魔になりましたから、それを取り除いて了はうとせられたので御座ゐますが、今一つにはさう云ふ汚れた関係をすっきり絶つて屋敷の掃除をすると同時に、内々の心を掃除する事を御急き込みになつたので御座ゐます』(復元第37号、91頁)。 私は、この引用文のなかの『内縁関係の婦人』というのは明治7年から5年も前に実家へ送りかえされてしまったおちゑさんのことだと考えた途端に納得ができた。私は、明治6年に中山秀司氏が庄屋敷村の戸長になったことを、地域社会への中山家の輝やかしい復活のように受取ったのだが、きっと親神さまは、われわれ人間の常識の考えとは全くちがった目で秀司夫妻の心を見透されていたのであろうと思いはじめた」。

 ここに出てくる「おちゑ」は、お筆先1号39で、「一寸はなし 正月三十日と ひをきりて をくるも神の 心からとて」と書かれている方である。秀司は、教祖の思召しに添って、おちゑを子供の音次郎(数え年9歳)と一緒に実家に帰している。そのおちゑは幾日も経たぬうちに病死したと伝えられている。「正月三十日」とは、明治2年のことで、3号が書かれる5年前のことである。
 【「註釈」異説としての「かんろだい」場所の整地説/「ほんあづま」120号】

 「註釈」とは違うお筆先のお歌の流れを重視した解釈を試みた例もある。八島英雄(著)「ほんあづま120号」112頁(1979年)では、「かんろだい」の場所の整地という考えが示されている。
 「この『早く急いで取り払いせよ』という言葉について、明治8年の門屋の普請について早く敷地を整地しろとおっしゃられているのだというように今まで多くの方に語られてきましたが、実はそのあとに、『しんぢつに 神の心のせきこみわ しんのはしらを はやくいれたい』(三号8)ということで『かんろだい』を据える心の準備、場所の準備を早くしろと言われておりますので、これはやはり門屋というより『かんろだい』の場所の整備のことであったと思うのです。 実際にこの『かんろだい』の場所は、もと中山家の母屋があったところで、取りこわしたあとも、あまり整地がよくなかったのです。つとめ場所をつくるときでも、綿倉と米倉のあとを整地してつくれというお指図があったくらいで、ごたごたしていたわけで、後につとめ場所に蒸し風呂などがつくられ『かんろだい』のぢば定めが済んだあとでも、その蒸し風呂の落とし水などが『かんろだい』の場所のところに流れて汚れているのを教祖はお叱りになっているというようなことも語り伝えられておりますので、『かんろだい』をやるについて、そこをしっかり整地しろというお言葉であったわけです」。

 この解釈でも、「かんろだい」を立てる場所という具体的な場所のイメージから自由になれていない。
 【「もんのうちのたてもの」とは、「つとめ場所」―「原典成立とその時代」】

 このような流れの中で、天理図書館収蔵史料「明治七年七月/巡回説教聴衆扣/石上神社」の検討から、「教祖とその時代」の「Ⅴ原典成立とその時代(池田士郎著、石崎正雄編.1991.道友社.188頁)が、「もんのうちのたてもの」とは「つとめ場所」であるという説が出てきた。池田氏の記述を引用する。(編集替え文責/れんだいこ)
 「 明治六年ごろの『おやしき』は、元治元年(1864)の『つとめ場所』の普請完成当時とさほど変わらないとするならば、150名もの人員を収容できる唯一の建物は『つとめ場所』以外にはありえない。仮に、屋外であれば、表門と『つとめ場所』との間の庭に筵を敷いた可能性が高いが、この庭こそは後に『かんろだいのぢば定め』の行われた庭にほかならない(図版Ⅳ)。だからこそ、明治7年1月、お筆先第三号が執筆されるや、
 このたびハ もんのうちより たちものを
 はやくいそいで とりはらいせよ
三号1
 すきやかに そふぢしたてた 事ならば
  なハむねいそぎ たのみいるそや
三号2
 しんぢつに そふぢをしたる そのゝちハ
 神一ぢよで 心いさむる
三号3

 という「やしきの掃除」をせきこまれ、続いて
 しんぢつに 神の心の せきこみわ
 しんのはしらを はやくいれたい
三号8
 このはしら はやくいれよと をもへども
 にごりの水で ところわからん
三号9
 この水を はやくすまする もよふだて
 すいのとすなに かけてすませよ
三号10
 このすいの どこにあるやと をもうなよ
 むねとくちとが すなとすいのや
三号11

 とある如く甘露台を据えることに話題が移っていくが、お屋敷で神道的国民教化の教説が話されている情景を重ね合わせる時、教祖の口をついて出る親神の急き込みの厳しさに襟を正さずにはおれない。それは、次の お歌に窺うことができる。
 にちにちに 神のはなしが やまやまと 
 つかゑてあれど とくにとかれん
三号19
 なにゝても とかれん事ハ ないけれど 
 心すまして きくものハない
三号20
」(P188)。

【教祖の辻忠作への「かきもち」諭し】
 「みちのだい第33号「教祖特集号」28-29p」の辻芳子 (本部婦人) 「かたいかきもち」が遺されている。これを確認しておく。
 「『これを見て思案しなされ。そして、これを食べてみなされ』 と仰せられて、教祖は祖父忠作にお歌(おふでさき三首)に添えて『かきもち』を下さいました。 それは明治7年2.22日の夜、祖父が歯の痛みに耐えかねて、お願いに上がった時のことでした。
 二二の 二の五つに 話しかけ
 よろつ因縁 みな説き聞かす
三号147
 高山の 説教聞いて 真実の
  神の話を 聞いて思案せ
三号148
 日々に 神の話を 段々と                      
 聞いて楽しめ こうきなるぞや
三号149
   このお歌と『かきもち』をいただいたものの、祖父にしてみれば、歯の痛いところに、かたいかきもちを下さるのは、どういうわけであろう。食べられるはずがないのに……と一瞬、とまどいました。その頃の祖父忠作は、昼は多くお助けに廻り、または家業の畑仕事に精を出し、夜になるとお屋敷に伺い、教祖から数々のお話を聞かせて頂くのが慣わし(ならわし)でありました。教えを聞いて十年、その頃の祖父には、やはり様々の世情の話に心とらわれる事もあったのでしょう。心迷うこともあったことでしょう。

   教祖には、これらのお歌を通して、『神道(しんとう)や仏教の話に耳傾けることなく、親神様の仰せ下さる真実の教えに一条(ひとすじ)に進むように』と、祖父の信仰を促されたのでした。 『迷いを取れよ』との思召であったのでした。お言葉を静かに味わいつつ、いただいた『かきもち』を口にした時、不思議にも歯の痛みはすっきり去っていた、と言います。

 祖父は、お歌の理を噛みしめるとともに、『かきもち』のうまさを心から味わったことでした(でしょう)。そこには言い知れぬ、温かい親心がにじみ通っていたことでしょう。喜びにあふれる祖父の姿が眼に見えるようです。また祖父忠作は、こだわりのない、正直な、さっぱりした気性(きしょう)の人 でありましたが、反面、 頑固(がんこ)で、一途(いちず)なところがあったようです。 これは美点でもあるし、同時に欠点とも言えるでしょう。 『お前の心は、このかきもちのようにかたいよ』 。教祖は、そう仰せられているのではないでしょうか。 『頑固さを取り去って、神の言葉を噛みしめて素直に通れよ』 と仰せられているのでありましょう。 一途な気性であったからこそ、あの初期の、苦難の道をも通り切ることができたと言えますが、また反面、頑固ゆえに周囲の人々に多くの苦痛を与えていたこともあったかも知れません。『かきもち』に思いを託して、祖父の気性を戒(いまし)められた、教祖の親心を思うとき、謙虚になれ、謙虚になれと、私は自分に言い聞かせます」。
 諸井政一「正文遺韻」249頁。
 「これは、明治7年2月22日の夜の五つ時のお筆なり。 辻先生はいつも、多くは昼は家業をして、夜分に参拝せられることなるが、この夜、お宅にありて歯が痛み耐えられぬにつき、さっそく神様へお参りせんと、痛むを堪(こら)えて歩み来られしに、三島の村地へかかるとパッと痛みが治まりしゆえ、不思議にも、かつ有り難く思い、神様へお参りして、御教祖様(おやさま)にこの事を申し上げたるところ、 『今、これを書きました。これを見て思案しなされ。そして‘’かきもち‘’があるが、食べてみなされ』 と仰って、この御筆先(おふでさき)」と‘’かきもち‘’とを下されしと。実に不思議のことなり。

 辻様は、御筆先をとくと眺めて、やがて‘’かきもち‘’も食べ試(こころ)みしに、少しも歯に障ることなく、そのまま歯は痛まざりしという。思うに、このお筆をお付けあそばされたるより、辻様にも、身上よりお知らせ下されて、お引き寄せ下されたるなるか。『高山の説教聞いて』云々(うんぬん)というは、ご維新(明治維新)後、大いに神道を知らしむる御上(おかみ)の目的より、教導職という者を命じて、神道の説教や、演説を各所にてやるようになって、この頃が一番盛んの頃でありしゆえ、この事を仰せらるるならん。 そこで、 『神様のお話と、ひき比べて思案して、神様の真実なる話の理を悟って、楽しむよう』との事なりかし」。

 (道人の教勢、動勢)
 「1874(明治7)年の信者たち」は次の通りである。この頃より、教祖の噂が大和を越えて、河内や大阪にまで広がっていくこととなった。
 西浦弥平(31歳)
 1874(明治7)年、大和国山辺郡園原村(現・奈良県天理市園原町)の農業/西浦弥平(31歳)が長男・樽蔵のジフテリアが手引きでご守護頂き入信。上田嘉治郎(嘉助)、ナライト等を導く。本席より甘露台の授けを戴く。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「39、もっと結構」は次の通り。
 「明治7年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(当時2才)が、ジフテリアにかかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の村田幸四郎の母こよから匂いがかかった。お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎がお助けに来てくれ、不思議な助けを頂いた。弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし、その後、熱心に信心をつづけていた。

 ある日のこと、お屋敷からもどって夜遅く就寝したところ、夜中に床下でコトコトと音がする。これは怪しいと思って、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が、アッと言って闇の中へ逃げてしまった。後には大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、お蔭で、結講でございましたと教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、『ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか』と仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という」。

 1899(明治32)年6.14日、出直し(享年56歳)。
 泉田籐吉()
 同年、大阪の泉田籐吉が入信。
 宮森与三郎(18歳)
 同年、宮森与三郎(18歳)が本人の左腕痛が手引きで入信。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「40、ここに居いや」は次の通り。
 明治7年、岡田与之助(註、後の宮森与三郎)18才の時、腕の疼きが激しく、あちこちと医者を替えたが、一向に快方へ向かわず、昼も夜も夜具にもたれて苦しんでいた。それを見て、三輪へ嫁いでいた姉のワサが、一遍、庄屋敷へやらしてもろうたら、どうやと、匂いをかけてくれた。当人も、かねてから庄屋敷の生神様のことは聞いていたが、この時初めてお屋敷へ帰らせて頂いた。そして教祖にお目通りすると、『与之助さん、よう帰って来たなあ』と、お言葉を下された。そのお言葉を頂くと共に腕の疼きはピタッと治まった。その日一日はお屋敷で過ごし夜になって桧垣村へもどった。ところが、家へもどると又腕が疼き出したので、夜の明けるのを待ちかねてお屋敷へ帰らせて頂いた。すると不思議にも腕の疼きは治まった。こんな事が繰り返されて、三年間というものは、ほとんど毎日のようにお屋敷へ通った。そのうち、教祖が、『与之助さん、ここに居いや』と仰せ下されたので、仰せ通りお屋敷に寝泊まりさせて頂いて用事を手伝わせてもらった。そうしないと、腕の疼きが止まらなかったからである。こうして、与之助は、お屋敷の御用を勤めさせて頂くようになった。
 増井りん(32歳)
 12.4日(陰暦10月26日)、河内国大県郡大県村(現・大阪府柏原市大県)の増井りん(32歳)が眼病の手引きで初参拝、入信。明治7年、教祖より「針の芯」のお許し・赤衣を頂く。教祖・本席のお守り役、別席取次人、息のさづけ。明治10年、長女とみゑ(1867年-1908年)が最初に三曲を教えられている。(稿本天理教教祖伝逸話篇36「定めた心」、44「雪の日」) 

 1939(昭和14).12.17日、出直し(享年97歳)。長男・幾太郎(1863年-1926年)は大縣支教会(現大教会)初代会長。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「36、増井りん/定めた心」が、増井りん入信時の様子を次のように語っている。
 「明治7年12月4日(陰暦10月26日)朝、増井りんは、起き上がろうとすると、不思議や両眼が腫れ上がって、非常な痛みを感じた。日に日に悪化し、医者に診てもらうとソコヒとのことである。そこで驚いて医薬の手を尽したが、とうとう失明してしまった。夫になくなられてから2年後のことである。こうして、一家の者が非歎の涙にくれている時、年末年始の頃(陰暦11月下旬)、当時12才の長男幾太郎が、竜田へ行って、道連れになった人から、『大和庄屋敷の天竜さんは何んでもよく救けて下さる。三日三夜の祈祷で救かる』という話を聞いて戻った。それで早速、親子が大和の方を向いて三日三夜お願いしたが、一向に効能はあらわれない。そこで、男衆の為八を庄屋敷へ代参させることになった。朝暗いうちに大県を出発して、昼前にお屋敷へ着いた為八は、赤衣を召された教祖(おやさま)を拝み、取次の方々から教の理を承わり、その上、角目角目を書いてもらって戻って来た。これを幾太郎が読み、りんが聞き、『こうして、教の理を聞かせて頂いた上からは、自分の身上はどうなっても結構でございます。我が家の因縁果たしのためには、暑さ寒さをいとわず、二本の杖にすがってでも助け一条のため通らせて頂きます。今後、親子三人は、たとい火の中水の中でも、道ならば喜んで通らせて頂きます』と、家族一同、堅い心定めをした。りんは言うに及ばず、幾太郎と8才のとみえも水行して、一家揃うて三日三夜のお願いに取りかかった。おぢばの方を向いて、なむてんりわうのみことと、繰り返し繰り返してお願いしたのである。

 やがて、まる三日目の夜明けが来た。火鉢の前でお願い中、端座し続けていたりんの横にいたとみえが、戸の隙間から差して来る光を見て、思わず、『あ、お母さん、夜が明けました』と言った。その声に、りんが、表玄関の方を見ると、戸の隙間から一条の光がもれている。夢かと思いながら、つと立って玄関まで走り、雨戸をくると、外は昔と変わらぬ朝の光を受けて輝いていた。不思議な全快の御守護を頂いたのである。りんは、早速、おぢばへお礼詣りをした。取次の仲田儀三郎を通してお礼を申し上げると、お言葉があった。『さあさぁ一夜の間に目が潰れたのやな。さあさぁ因縁、因縁。神が引き寄せたのやで。よう来た、よう来た。佐右衞門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう、聞かしてやってくれまするよう』と仰せ下された。その晩は泊めて頂いて、翌日は、仲田から教の理を聞かせてもらい、朝夕のお勤めの手振りを習いなどしていると、又、教祖(おやさま)からお言葉があった。『さあさぁ因縁の魂、神が用に使おうと思召す者は、どうしてなりと引き寄せるから、結構と思うて、これからどんな道もあるから、楽しんで通るよう。用に使わねばならんという道具は、痛めてでも引き寄せる。悩めてでも引き寄せねばならんのであるから、する事なす事違う。違うはずや。あったから、どうしてもようならん。ようならんはずや。違う事しているもの。ようならなかったなあ。さあさぁ因縁、因縁。佐右衞門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう。目の見えんのは、神様が目の向こうへ手を出してござるようなものにて、さあ、向こうは見えんと言うている。さあ、手をのけたら直ぐ見える。見えるであろう。さあさぁ勇め、勇め。難儀しようと言うても、難儀するのやない程に。めんめんの心次第やで』と仰せ下された。その日もまた泊めて頂き、その翌朝、河内へ戻らせて頂こうと、仲田を通して申し上げてもらうと、教祖は、『遠い所から、ほのか理を聞いて、山坂越えて谷越えて来たのやなあ。さあさぁその定めた心を受け取るで。楽しめ、楽しめ。さあさぁ着物、食い物、小遣い与えてやるのやで。長あいこと勤めるのやで。さあさぁ楽しめ、楽しめ、楽しめ』とお言葉を下された。りんはものも言えず、ただ感激の涙にくれた。時に、増井りん32歳であった」。註/仲田儀三郎、前名は佐右衞門。明治六年頃、亮・助・衞門廃止の時に、儀三郎と改名した。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「45、増井りん/心の皺を」の逸話は次の通り。
 「教祖は、一枚の紙も、反故やからとて粗末になさらず、おひねりの紙なども丁寧に皺を伸ばして、座布団の下に敷いて御用にお使いなされた。お話に、『皺だらけになった紙をそのまま置けば、落とし紙か鼻紙にするより仕様ないで。これを丁寧に皺を伸ばして置いたなら、何なりとも使われる。落とし紙や鼻紙になったら、もう一度引き上げることは出来ぬやろ。人のたすけもこの理やで。心の皺を、話の理で伸ばしてやるのやで。心も皺だらけになったら、落とし紙のようなものやろ。そこを落とさずに救けるのが、この道の理やで』と、お聞かせ下された。

 ある時、増井りんが、お側に来て、『お手許のお筆先を写さして頂きたい』とお願いすると、『紙があるかえ』と、お尋ね下されたので、丹波市へ行って買うて参りますと申し上げたところ、『そんな事していては遅うなるから、わしが括ってあげよう』と仰せられ、座布団の下から紙を出し、大きい小さいを構わず、墨のつかぬ紙をよりぬき、御自身でお綴じ下されて、『さあ、わしが読んでやるから、これへお書きよ』とて、お読み下された。りんは、筆を執って書かせて頂いたが、これはお筆先第五号で、今も大小不揃いの紙でお綴じ下されたまま保存させて頂いている、という」。
 高井猶吉(なおきち、13歳)
 河内国志紀郡南老原村(現・大阪府八尾市老原)の高井猶吉(なおきち、13歳)が姉なをの産後の患いから、その婿養子と初参拝、入信。明治17年、教祖より息のさづけ、赤衣のお下げ。明治20年のおつとめで、神楽手踊りをつとめる。

 1941(昭和16).11.21日、出直し(享年81歳)。泉支教会(現大教会)3代会長。

【この頃の逸話】
 西尾ナラギク
 稿本天理教教祖伝逸話篇「37、神妙に働いて下されますなあ」。
 「明治7年のこと。ある日、西尾ナラギクがお屋敷へ帰って来て、他の人々と一しょに教祖の御前に集まっていたが、やがて、人々が挨拶してかえろうとすると、教祖は、我が子こかんの名を呼んで、『これおまえ、何か用事がないかいな。この衆等はな、皆な用事出して上げたら、かいると言うてない。何か用事あるかえ』と仰っしゃった。すると、こかんは、沢山用事はございますなれど、遠慮して出しませなんだのやと答えた。その時、教祖は、『そんなら、出してお上げ』と仰っしゃったので、こかんは糸紡ぎの用事を出した。人々は、一生懸命紡いで紡錘に巻いていたが、やがてナラギクのところで一つ分出来上がった。すると、教祖がお越しになって、ナラギクの肩をポンとおたたきになり、その出来上がったのを、三度お頂きになり、『ナラギクさん(註、当時18才)、こんな時分には物のほしがる最中であるのに、あんたはまあ、若いのに神妙に働いて下されますなあ。この屋敷は用事さえする心なら、何んぼでも用事がありますで。用事さえしていれば、去のと思ても去なれぬ屋敷。せいだい働いて置きなされや。先になったら、難儀しようと思たとて難儀出来んのやで。今しっかり働いて置きなされや』と仰せになった」。註、西尾ナラギクは、明治9年結婚の時、教祖のお言葉を頂いて、おさめと改名、桝井おさめとなる。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「38、東山から」
 「明治7年頃、教祖は、よく、次のような歌を口ずさんでおられた、という。『東山からお出やる月はさんさ小車おすがよにいよさの水車でドン、ドン、ドン』節は、『高い山から』の節であった」。

 (この頃の国内社会事情)
 1.14日、右大臣・岩倉具視、赤坂で襲撃され負傷。
 1.17日、板垣退助ら、民選議院設立建白書を提出。
 2.1日、西郷の下野に応じて佐賀に帰郷していた江藤新平と島義勇(よしたけ)らが「佐賀の乱」を起した。2.6日、閣議、台湾征討を決議。3.29日、佐賀の乱の首謀者・江藤新平ら捕縛される。4.13日、前参議、司法卿・江藤新平、処刑される。5.22日、台湾出兵。陸軍中将・西郷従道ら、台湾に上陸。6.23日、黒田清隆、北海道開拓使次官に任命される。
 6月、征韓論問題で下野していた西郷が私学校を発足させた。西郷を慕って帰郷した青年たちの指導統御と練成を目的にして藩庁の旧厩跡(うまや)に設立された。学校は、銃隊学校や砲隊学校に分かれ、生徒数はざっと800人。やがて本校だけででは収容できなくなり、鹿児島市内に分校を設け、県内にも及び始めた。西郷人気の凄まじさであった。明治維新のその後に不満を覚える者たちが続々結集していった。7.3日、三宅島噴火。12.3日、西郷従道ら、台湾から撤兵。
 この年、明六雑誌創刊(1874‐1875)。西周、形式論理学に関する解説書『致知啓蒙』出版。カント哲学流行。マルクスを紹介した福田徳三(‐1930)出生。京橋、銀座にガス灯が点火。
 (田中正造履歴)
 1874(明治7)年、34歳の時、疑いがはれ小中村に帰り、商売と勉学に励む。この頃より、自由民権者として歩みだす。

 (宗教界の動き)
 1874(明治7).6.7日、教部省達第22号別紙教部省乙第33号で、「祈祷禁厭をもって医薬を妨げる者を取り締まる」(「禁厭、祈祷等を行ない、医療を妨げ、湯薬を止めることの禁止」)。
 1874(明治7)年、修験道中心寺院の金峯山寺が廃寺に追い込まれた。熊野、羽黒、白山、立山、英彦山などの修験霊山は神社化させられた。修験者や僧侶は強制的に還俗させられ農民や氏神鎮守の神職となった。本山派は天台宗に、当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなった。富士講は扶桑教、実行教に、御岳講は御岳教と云うように教派神道として公認された。(その背景には、国際ユダ邪にとって、修験道が「文明開化」の流れにもっともなじまない抵抗勢力であったことによるものと思われる)
 奈良中教院設置。

 (この頃の対外事情)

 (この頃の海外事情)




(私論.私見)