劇画/教祖(おやさま)物語考

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.8日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「劇画/教祖(おやさま)物語考」をものしておく。

 2024年1.8日 れんだいこ拝


【劇画/教祖(おやさま)物語考】
 「消されていく天理教の昭和史 -『教祖(おやさま)物語』第5巻から考える- 進められた「復元」と『おふでさき』公刊の意義」。
 『劇画教祖物語』 原作 服部武四郎 作画 中城健雄 発行 天理教道友社
 全5巻本として約30年前に発行され、1991年に愛蔵版として 一冊にまとめられた『劇画教祖(おやさま)物語』は、現在は 第1巻から第3巻までが一冊にまとめられ、第4巻のみ単独で 販売され、第5巻は販売が中止されて道友社売店の書棚から 消えた。 この本は1から3巻までが教祖伝で、第4巻が教祖が身を隠 されてから大正末年までが描かれている。 第5巻はほぼ63年間の昭和の時代を社会の動きと関連させ て天理教の歴史を描いたもので、ほぼ忠実に史実を追い、漫 画とはいえ手軽に読める天理教史になっていた。 この分野の本は、教祖が身を隠されてから昭和21年までの 歴史を記した『潮の如く-天理教教会略史』(全3巻.上村福太 郎.1959)と青年会の動きに限定される『天理教青年会史』(全 5巻.1970~2007.天理教青年会本部)、『天理教史参考年表 改訂6版』(高野友治編.養徳社.1998)ぐらいしか見当たらない ことを思うと大変残念なことである。 そこで今回はこの本の絵から天理教の昭和史をふり返って みよう。

 第 5巻の冒頭は立教150年祭の年の子供おぢば帰りで、黒門と神殿の間の神 苑に集まった子供たちの鼓笛演奏の場面である。この巻で目立つのはこのよう な教祖年祭などの行事で多くの人々が神殿に集まっている様子である。 中でも印象に残るのは、70年祭の時に大阪の近鉄上本町駅に出来た本部黒 門のレプリカの絵である。まだ鉄道輸送が主だった時代にいかに多くの人々が 近鉄電車を利用したかを彷彿とさせる。

 80年祭では、人々の移動手段が電車からバスなどに変わって いったことが描かれ、90年祭では、『稿本教祖伝逸話編』の刊行 や「ひもろぎ」などの廃止が記されている。また、百年祭では「しめ 縄」「玉串」が廃止された。 「玉串」などの廃止は、天理教の教えを教祖の教えに戻していく という「復元」の動きの中で、教祖の教えは本来神道ではないとの 考えから昭和45(1970)年4月30日に教派神道連合会を退会し、さ らに具体的な形として神道の名残を無くしていくものである。

 天理教の中に神道の祭式が持ち込まれたのは、慶応3年のことである。

 文久年間(1861~64)頃から教祖のもとに寄ってくる人々が増えてくると、金銭なども集まるようになるとともに、客を取られ る形になる修験者や祈禱師からの嫌がらせも増えた。そのため、教祖の息子であった秀司は吉田神祇管領の大和国総取 締役であった守屋筑前の協力を得て、その認可を得た。その時の古市代官所へ提出した添書願の書類が残っている。そこ に記載された12柱の神名が天理教の中に最初に入ってきた神道の神名であった。また、吉田神祇管領の祭式がこの時に 入ってきた。『稿本教祖伝』にある(註一)(P100)が古市代官所への願い文書であるが、「神名」の部分は-中略-としてある ので、ここには略されていないものを提示しておきます。

 当時庄屋敷村は、藤堂藩に属し、大和国にある同藩 の所領を管轄する役所は、古市代官所と言って奈良 の南郊にあった。この古市代官所では、小泉不動院 の訴えもあり、守屋筑前守の紹介もあり、その後も 庄屋敷村の生神様の風評は次第に喧しくなって来る ので、慶応二年の頃、呼び出して事情を聴いた。 お屋敷からの一行は、宿にあてられた会所に二、 三日宿泊された。代官所では段々と実情を聴取した が、不都合の廉は少しもない。たゞ公許を受けて居 ない点だけが、問題として残った。そこで、話合いの 上、吉田神祇官領へ願い出る事となった。先ず、慶 応三年六月、添書の願を古市代官所へ提出し、領 主の添書を得て、秀司は、山沢良治郎を共に、守屋 筑前守も同道して京都へ上り、吉田神祇官領に出願 し、七日間かゝって、慶応三年七月二十三日付けで、 その認可を得た。(註一) (『稿本教祖伝』P96)
 昭和20(1945)年頃の天理には、二つの航空隊があった。一つは三重海 軍航空隊奈良分遣隊で、予科練(飛行予科練習生)の教育が目的で信者 詰所を兵舎とし、多い時は1万人以上の生徒がいたという。 当時の軍は大きな宿泊施設のある所(高野山の宿坊なども)はどこも接 収して兵舎としたので天理教が特に軍に協力したとかという話ではない。 もう一つは大和海軍航空隊で昭和20年2月に飛行場をもつ部隊として出 来た。敗戦時にはゼロ戦など100機を超える飛行機が残存していた。絵に ある防空壕はこの隊が通信所として使っていたものらしい。 天理の飛行場については、『幻の天理「御座所」と柳本飛行場-朝鮮強 制連行・強制労働ガイドブック』(高野眞幸編.2003.解放出版社)にくわし い。 同書の最初にある「太平洋戦争下の天理」の部分(P9)を引用しておき ます。

 【陸軍、そして三重海軍航空隊奈良分遣隊】
 太平洋戦争下の天理には、まず、1941年12月から43年10月ごろまで、天理教名東詰所に本部を置き奈良中部第67部隊(陸軍) に駐留する部隊500~600人くらいが3つの詰所に分宿する。これが日本軍の天理教関係施設を利用する最初である。 1943年12月1日には、“三重海軍航空隊奈良分遣隊”が、同じく天理教名東詰所に本部を置き、現在の天理市の中心市街地であ る丹波市町・三島町の天理教関係施設を利用して開隊。予科練(海軍飛行予科練習生の略称で、いわゆる海軍少年飛行兵)の教 育を担当し、1945年3月1日には、三重海軍航空隊から独立しで奈良海軍航空隊”となる。開隊時に入隊した予科練は“甲種予科 練”の13期(甲13期生)の1万1601名で、天理教の信者詰所を利用し、25の兵舎に分かれて62分隊に編成された。もちろん当初は 飛行機一機なく、航空隊らしい施設もほとんどどない航空隊で、兵舎も畳敷きであった。

 【大和海軍航空隊】
  三重海軍航空隊奈良分遣隊とは別に、1945年2月11日には天理市街地の南の田園に柳本飛行場をもつ“大和海軍 航空隊”(大和空)が開隊する。鳥取県の第2美保航空隊が解隊となり練習飛行隊が柳本飛行場に移転したのである。 柳本飛行場の滑走路に飛行機が初めて着陸したのは1945年2月1日である。それも竹で菱形に編んだ“すのこ”を敷い て整備した滑走路であった。同年2月11日までに“赤とんぼ”(九三式中間練習機・複葉機)の6個中隊54機と予備機が第 2美保航空隊から飛来したのである。

 【基地増備と海軍設営隊・308飛行隊】
 柳本飛行場の増備年月は、1945年6月であるが、それとほぼ一致する5月15日に第581海軍設営隊、6月15日に第588 海軍設営隊が大和海軍航空隊に入る。 7月半ばには、茨城県の百里原基地から戦闘308飛行隊と千葉県の木更津から第752海軍航空隊の偵察飛行が入る。 戦力は着々と増強され、敗戦時には兵員1700名、ゼロ戦49機、練習機71機、爆弾大小合わせて約1500発、等が大和 海軍航空隊に配置されていたと防衛庁図書館資料の(GHQへの)「引渡目録」に記録されている。また、航空隊の周辺の 山にはトンネルが数多く掘られている。そのトンネルを「御座所」や大本営にしようとしていたのである。

 【朝鮮人労働者】
 これらの日本軍施設を建設したのは日本人だけではない。柳本飛行場には朝鮮人が労働者として3000人入ってきたと いわれている。強制連行され就労した人、日本各地で生活していて集められた人とその家族などである。そして特筆す べきは、強制連行された朝鮮人男性のための朝鮮人慰安婦が存在したことである。 ではなぜ、敗戦直前の天理がこのような状況になったのか。本土決戦時に陸軍航空総軍戦闘指揮所を予定していたど んづる峯地下壕とともに、海軍(軍令部)は柳本飛行場とその周辺を本土決戦時の重要な拠点とする計画を立て、実行し ていたのである。

 特攻隊のパイロットは、不時着した時、胸ポケットにあった 「教典」がそのショックを和らげ一命を取り留めた。

 ここに出てくる「小西先生」とは、東日本にある某大教会の5代会長小西吉 彦氏のことである。この劇画では沖縄本島に近づいたとき敵に発見され攻撃 を受け島に不時着し、その際、操縦桿が胸に刺さるのを「教典」が防いでくれ たことになっている。小西氏が特攻隊で出撃し、島に不時着して助かったとい う話は私も聞いたことがある。ただ、違うのは、不時着したのはエンジンの不 調か何かで、胸に入っていたのは、『おふでさき』だったという点である。 この劇画にも書かれているが、『おふでさき』は昭和3年に初めて教会本部 から公刊された。しかし、昭和13年から始まった「革新」の嵐の中で、翌14年 に全教会の『おふでさき』は回収されていた。だから、昭和20年に『おふでさ き』を胸に入れていたというのは辻褄が合わない話なのである。それゆえ、こ の劇画の原作者は「教典」に替えたのだろうか。
 明治16年以降焼いて無いことになっていた「おふでさき」が昭和3年に公刊された

 説明するまでもない事であるが、 『おふでさき』は天理教祖中山み きが明治2年から15年までの間に 書き残した1711首のお歌のことで ある。これは絵にもあるように明 治16年にその存在を警察から咎 められたため、焼いて無くなった ことになっていた。それが、昭和3 年に天理教教会本部から公刊さ れたのである。確かに画期的なこ とである。 しかしその後、「革新」によって 『おふでさき』は回収された。

 〈革新の嵐〉の中で『おふでさき』は回収され処分された

 【革新】 昭和11年(1936)に、教祖(おやさま)50年祭が盛大に執行された。 引き続き明けて昭和12年10月に予定されていた立教百年祭の執 行を目指して、全教が勇み立つ中、文部省は国家非常時体制の強 化を期して、全宗教団体に対し、全面協力を要請してきた。各宗教 団体かその対応の道を歩む中、昭和13年11月4日、文部省より中 山正善2代真柱に招請があった。そのときに求められたのは、現下 の諸情勢に即応できるような革新的な体制を整備し実行する、とい うことであった。天理教は特に問題視されており、監視が一層厳しく なっているから、猶予はできないとの指示であった。不本意ながら、 当局の意を踏まえて協議した結果、次のような重要事項の改変を 決断した。すなわち、教義儀式およびその他の行事は、すべて教典 に依拠して行うこと。また、泥海古記、元初まりの話に関連する教 理は、今後一切説かないことなどである。信仰的生命の浮沈に関 わる事柄であったから、言語に絶した苦しい決断であった。(『天理 教事典第3版』P206)

 昭和12年、盧溝橋事件を発端として日中戦争がはじまると、国の宗教団体 に対する監視が厳しくなった。天理教に対しても 「革新的な体制を整備し実 行する」ことが求められ、「教義儀式およびその他の行事は、すべて教典に 依拠して行うこと」などが決められた。この「教典」が小西氏が胸に入れてい たとされるものである。ではこの「教典」とはどのようなものであったのか。

 明治教典は、いわば独立請願書に添附する書類として編纂されたもの

 第一 敬 神 章 天地の悠久にして万物の生成化育息まざる所以のものは神明調摂の天理に依る宇宙の森羅万象皆其の 霊徳の妙用に基かずと云ふことなし而して主宰の神あり分掌の神あり各々其の霊徳の妙用によって神名を 表彰す概して是を天神地祇八百万神と云ふ蓋し造化の大原にして万有の根本なり誰か尊仰敬事せざらむや 然れども八百万神悉く其の名を称へて崇拝せむことは人の能くせざる所なり故に霊徳の最も顕著なる十柱の 神を挙げて奉祀す即ち 国 常 立 尊/ 国 狭 槌 尊/ 豊 斟 淳 尊/ 大 苫 辺 尊/ 面 足 尊/ 惶 根 尊/ 伊 弉 諾 尊/ 伊 弉 冊 尊/ 大 日 霊 尊/ 月 夜 見 尊 是なり之を総称して天理大神と云う (『潮の如く』上P68)

 明治教典は、いわば独立請願書に添附する書類として編纂されたものであったが、当局は、 只これを書類として留めることを許さなかった。茲に於て、愈々同教典を実行することとなり、 本部に於ては、早速此の教典を教会及び信徒に頒布すると共に、神道天理教会教師講習 会規程を制定、同三十六年八月十八日より九月五日迄、十九日間の長きに亙って、先ず 第一回教師講習会を開催、以て教典の普及に専心することとはなった。 -中略- 先の本部に於ける第一回教典講習に引き続き、高安分教会におっては、既に同明治三十 六年九月十四日より同二十七日に亙り、部内教師を高安に招集、率先第一回講習会を開 催、教典の普及に努力して居るのである。(『潮の如く-天理教教会略史』上.P67)

 このとき、受講者の一人であった東本初代会長中川よしは、東本へ帰ると、「教理の勉 強はするな。おたすけは教祖のお話でやれ」と宣言して終生変わらなかったのです。 教祖の教えた真の教理を理解し、身につけて、たとえ本部が説いても、似而非教理 に振り回されるなという厳しい仕込みでありました。(『ほんあづま』№176.P26.八島英雄)

 「教典」とは通称「明治教典」 といわれるもので、教祖を慕っ て入信した信仰者にとっては 学ぶべき教えなどではなかっ た。 また、70頁ほどの冊子で操 縦桿が胸に刺さるのを防げる ようなものでもなかった。
 「おふでさき」は信仰者の間で書き写されていった

 (初代)真柱様が亡くなられたときに初めて教会の門をくぐりまして、すぐ年が明けて大正四年、 教会に行ったときに初めてそこでおふでさきを読まされたという入信なのです。 いろいろな出来事について、当時の一信仰者の歩みとして八島松四郎(『ほんあづま』誌の 著者八島英雄氏の父)氏の状況をお伝えしたほうがわかりやすいのじゃないかと思う上から 申し上げるのですが、そのときのものは、皆書き写したおふでさきですから、松四郎氏の第一 印象というのが「何だ、このきたない字で、仮名ばっかりで書いてあって、文法も間違いだらけ の字を、さもありがたそうに見せる、教会の先生で、自分の姉が世話になっているというから、 さぞ偉い先生なんだろうと思っていたら、学問のない人というのは恐ろしいものだ」ということ だったというのです。 それでも、あんた見込みがあるからこれを読めと言って初日から皆と別のところで外には知 れないように一人だけにおふでさきを読ませてくれたという形だったのです。 -中略- 松四郎氏は、お話を聞きに行くというよりも、おふでさきをそのまま読み、次の日はまたその 次を読み、そして書き写すという状況で、入信の初めからそれをやったのですが、当時のもの を書き写すのですから、誤りの字もある。そうすると、まぎらわしいのはカッコして二つ書いて あるのです。 そういうおふでさきを書き写して勉強いたしました頃の大正五年という時期に、あるところで おふでさきが出版されたのです。 これは本部ではございません。東大教会系の人たちが出版したものであろうというふうに鑑 定されているのですが、これは実は私のところのお年寄りの役員さんが下谷に住んでいる頃、 そちらから手に入れたものをずっと長く持っていたという、天理教宝典編纂会という実に見事 なもので、これが大正五年五月一日印刷ということになっております。 (『ほんあづま』№119P3.1979)

 明治16年に鴻田忠三郎が 『おふでさき』を書き写してい たときに、警察に咎められた とあった。とすれば、他の信 仰者にもその存在は知られ ていただろう。あるいは、すで に書き写されたものがあった かもしれない。 大正4年に入信した人がま ず『おふでさき』を読まされて、 その後それを自分で書き写し たという話が残っている。さら にそこには大正5年(教祖30 年祭)には、天理教宝典編纂 会というところから『おふでさ き』が印刷されたとある。 当時の信仰者は『おふでさ き』を書き写し、また、新しい 人にそれを書き写させていた のだ。
 昭和3年公刊本発刊以前に印刷された『おふでさき』
 大正5年にポケット版の『おふでさき』が出版されていた

 大正5年に出たという天理教宝典編纂会のもの以外に何冊かの『おふでさき』が出版されている。
その中に大正5年一月発行の『評註御 筆先』がある。 これは大正4年4月から5年8月まで天 理教祖の教えをテーマにした雑誌『新 宗教』を発行した大平良平(隆平)氏の 手になるものであった。『新宗教』は「教 祖の伝記逸話を蒐集しなければ悔を千 載の後に残す」、またこの事業は天理 教徒一団のものではなく「実に全人類 の事業」であると宣言して創められたも ので、自立採算が取れるほどの部数が 出た(『己れに薄く、他に厚く』P265山本素石.1993.立風書房) という。 同じ大平氏による『評註御筆先』も3月 には再版されており、かなりの部数が 出たと思われる。 小西氏の話に戻せば、「教典」が胸に 入っていた可能性は「信仰」の問題から 考えてもほとんどありえず、『おふでさ き』とすれば、胸に入る程度の大きさの 本は回収の対象にならず存在していた ということは言えるだろう。

 公刊本が昭和3年に出版される以前 にすでに『おふでさき』は教会本部以外 から出版されていたのだから、公刊本 の出版意義は何だったのだろうか。 左に第3号131と132のお歌をそれぞれ 並べてある。公刊本は「ていり」であり、 『評註・・』は「ていれ」である。公刊本は 教祖直筆本の写真版をベースにしてい るのに対して『評註・・』は何度も書き写 されたものをベースにしているからどち らが教祖のものかは疑う余地がない。 ところが、現在も3号131等の「ていり」 の解釈は「ていり=手入れ」なのである。

 『おさしづ索引』(天理教教義及び史料集成部.1985) 「手入れ」は「おさしづ」に用例があるが、その全体の 量から考えるとごく少ない。

 「お手入れ」という言葉は教内ではよく使わ れてきた用語である。病気や事情などで困れ ば、「神のお手入れだ」というようなかたちで 困っている者を責めて、上位者の思いに従わ せようとする暗黙の意思を感じる。 『おふでさき』には「入り込む」という用例が ある。入れば当然出る時が来るわけで、それ が「出入り」という表現になったのではないか と私は考える。 従来の教説に従うのではなく、『おふでさ き』の一字一句から教祖の教えに迫ることこ そが公刊本発刊の意義であろう。

 3号131,132の部分【当資料の13頁に掲出】 同志会版は「手入れ」、安江本は「ていり」
 『おふでさき』3号131,132を除く他の全用例 で囲んだところ以外は、『評註・・』は「ていれ」
 7号17に「でいり」がある。「でいれ」という言 葉はふつう使わないから、ここは〈でいり(出 入り)〉であろう。とすれば、「ていり」も〈出入 り〉の濁点゛が落ちたものと考える事が出来る。
 3号131の解釈例-他書も「ていり=手入れ」という意味で主旨は同じである。

 よふぼくというのは用に使う木でありますから、これは手入れをしなければ 使えない。そのまま放ったらかしでは、使いものにならない。だから、日々 「ていり」手入れをする。枝打ちのためにナタをふるったり、鋸をあてたりす る。これはちょっと痛いということにもなる。そうした場合、どこが悪いのかな などと決して思ってはならない。よふぼくとして使うための「ていり」なのだ。 (『おふでさき通解』P109.上田嘉太郎.2017.道友社)

 【おていれ】 手入れに接頭語「お」がつけ加えられた語。一般には「庭木の 手入れをする」と言うように、物事の状態を良く保つ、あるいはより良いもの にしていこうとする意味に使われる。それに準じて、親神が人間救済の思わ くを実現していく上で、人間に働きかけられ、それによって現れてきた出来 事を人間にとって「おていれ」と言う。特に病気になった場合には、自らの心 得違いに親神から「おていれをいただいた」というように使われる。(『天理 教事典第三版』P132.2018)

 【月日手入れ(神罰ではない)】 月日の理に従って生きる。それに外れて、 人を困らせたり、痛めたりすると、良心が自分を責める。月日の心に外れた 自分を責めるのです。これを「月日手入れ」というのです。/ 自分の良心 が自分の間違った心を責めるのが、お手入れであります。/ 私の外にい る神様が、お前はけしからんぞ、悪い事をしたから悪い病気を与えると裁く のは、今までの拝み祈祷の支配者の神の考えです。/ 教祖の教えは、自 分が真理を悟ったら、自分が真理の社です。自分の良心が自分の間違い を責めるのです。(『ほんあづま』№419.P9.2004)
 昭和9年、神殿の改修により神床にあった社が撤去され、木製13段のかんろだいが設置された

 北礼拝殿の時は、神殿には天皇の先祖の神々の社があり、神殿の床に切り込み の穴が開いておりまして、その下の地面に二段だけのかんろだいがありまして、そ れは拝殿からは見えないのです。信者からは見えない形で据えられていたのです。 そして北礼拝殿の真ん中に廊下がありまして、男子席、女子席を分けていたのです。 その頃、天理中学の生徒であった人の言葉は、非常に劇的なのです。天理中学 の生徒は毎日参拝に行くのですけれども、ある時に、白い幕が正面に張られたとい うのです。 その幕を通して神様に参拝して学校に行っていたのですけれども、その向こうで大 きな普請が行われていたというのです。そしてある時、その幕が取り払われますと、 天皇宗の先祖の神々のお社がなくなっていたというのです。そこに「かんろだいを囲 んだつとめの庭が出現し、そして、その先に南礼拝殿があった」というのです。こうい う非常に劇的な表現で、白い幕を外した時の驚きを伝えているのです。(『ほんあづま』 №482.P3.2009)

 神殿改修により、白い幕で覆われ ていた部分にある日突然「つとめの 庭」が出現した状況を当時の天理中 学生が伝えている。
 教祖が教えられた神の目標(めどう)《かんろだい》と儀式《神楽づとめ》の図

 かぐらづとめの説明は、簡潔で大変分かり やすい。 実際に人間がその役割に入った絵が『劇 画教祖物語』とは別の『劇画中山みき物語』 に出ていたので参考に掲示しておきます。『劇画中山みき物語』とみ新蔵.P274.立風書房.1988







(私論.私見)