某氏の「立教」再考その4、 「神憑り」考

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年10.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、ネット検索で出会った「某氏の「立教」再考その4、 「神憑り」考」と対話しておく。どなたの執筆かはっきりさせておらず、ネット検索上でれんだいこ著と間違われる恐れがあるので、これを論評してをく。

 2025.10.21日 れんだいこ拝


 「「まんが おやさま」を読み直す 14/48 「立教」その3 神の歴史と人間の歴史」。
 「われは元の神 実の神である」と、「顔のなくなったみきさん」が「神の言葉」を語り始めるシーン、子どもの頃に読んだ時は、とにかくひたすら怖かった。人間に「神」が入り込むと顔がなくなる、という絵画表現の手法は、誰が考えたのか知らないけれど、異様な説得力があると今でも感じる。1970年代から現在に至るまでずっと続いている「ガラスの仮面」という演劇マンガがあって、私はこれが大好きなのだけど、このマンガでは登場人物の演技やそれに向けた努力が神がかってくると「白目」になるという演出が繰り返し使われており、子どもの頃から私はそれに出くわすたびに、あ、また「おやさま化」してはる!と、一人で盛り上がったりしていたものだったのだが、そんなことはまあ、余談である。

 あるいはそういった表現技法の歴史は、旧約聖書の時代にモーゼの前に姿をあらわしたという「神」が、「十戒」のひとつとして「偶像を作ってはならない」ということを人間に命じた、とされているようなところにまで、遡りうることなのかもしれない。キリスト教やイスラム教といった一神教の宗教が、それぞれ「偶像崇拝を禁止する」という教えを打ち出してきたことは、「生きた人間を崇拝の対象とすることを禁じた」という点において、人類史上、積極的な意味を持つことだったと私は思っている。この教えがあったからこそ、それが守られてきた地域においては、自らを「神」であると称する絶対権力者が民衆の生殺与奪をほしいままにするといったような事態は基本的に起こって来なかったのだし、また「すべての人間は神の前に平等である」という、差別を否定する思想の萌芽もそこから育まれてきたわけなのである。

 一方で、この「偶像崇拝の禁止」という教えは、そうした宗教において「神」が持たされてきた神秘的権威というものを、絶対的に高める方向に作用してきたとも言いうると思う。人間という存在が自分を「人間」であると意識しはじめた原初の時代、「人間」という概念と「神」という概念との間にそれほどハッキリした区別はつけられていなかったはずだろうと私は思っているのだけれど、「偶像崇拝の禁止」をひとつの結節点として、「人間」と「神」との間には明確な「線」が引かれることになった。それまで人々にとって「身近なもの」として感じられてきたであろう「神」は、「わからないもの」「わかろうとすること自体が罪に値するぐらいにオソれ多いもの」であるとして、決定的な「畏怖」の対象となると同時に永続的な「恐怖」の対象とも、なることになったわけである。

 「よく見届けよ!神殺しがいかなるものか!」という台詞が、宮崎駿監督の「もののけ姫」という映画が公開された際、テレビのCMでしきりと流れていたのを私はよく覚えているのだけれど、この映画に限らず、「神殺し」というキーワードをひとつの重要なテーマとしている神話や伝説は、世界中の様々な民族のあいだで普遍的にと言ってもいいくらい、広範に存在してきた。このことは、古代の人々にとっても「神」というものはやはり「おそるべき存在」ではあったのだろうが、同時にそれは「倒す」ことも可能な存在であり、そしてそれを「倒す」ことに成功した人間には「神」と同格の「力」が宿ることになる、という「信仰」と言うか「発想」が、存在していたということを示しているように思われる。そこに表現されているのは、人間という存在が「自然」という「他者」とどのように向き合ってきたかをめぐる歴史、あるいは、人間という存在が「母なる自然」からどのように「自立」を果たそうとしてきたかをめぐる歴史の物語であると、言って間違いにはならないだろうと思う。

 人間が自分自身に対して関係するその関係の結び方は、人間が他者に対して関係するその関係の結び方と、相互規定的な関係にある。 「人間と人間」がどのように社会的な関係を結び合うかは、「人間と自然」がどのような関係を取り結ぶかに規定されて決まってくることなのであり、その逆も然りである。「人間と神との関係」に象徴されているイメージは、つまるところ「人間と自然との関係」のあり方に他ならない。そしてそこに示されているのは結局のところ、「人間と人間との関係」と同義のことでもあるのである。

 人間と自然との関係が「倒し倒される戦いの関係」でしかありえなかった時代、人間と人間との関係もまた「倒し倒される戦いの関係」以外のものでは、ありえなかった。「自然の脅威」も「自然の恵み」も、太古にあっては人間にとって、もっと生々しく直接的な形で身の回りに存在していたものだったろうと思う。物陰から突然襲いかかってくる猛獣の姿も、迷い込んだ森の中に突然現れる果実をみのらせた樹木の姿も、太古の人々にとってはひとつひとつが「運命」であり「奇跡」であり、「神の顕現」と同じくらいの重さと深みをたたえた「事件」であったことだろう。けれどもそれにいちいち「感動」していられるような余裕もまた、太古の人々には存在していなかったはずである。猛獣は撃退できなければ自分が死ぬことになるのだし、果実はその場で収穫しなければ他の人間や動物に奪われるか、さもなくば腐ってしまう。「戦って、奪って、自分のものにする」という一連の過程が「生きる」ということの大部分を占めていた時代が、人間の歴史においては気が遠くなるほど長い期間にわたって存在していたのだということを、我々は自分たち自身がそれを繰り返すことをしないためにも、銘記しておかねばならないと思う。

 人間が「自然の脅威」に立ち向かうには、「力を合わせる」こと、言い換えるなら「たすけあう」以外にないのだということを、当時から人々は、経験的には「知って」いたことだろうと思われる。けれどもその「力を合わせる」という行為は、これもまた人間の歴史の非常に長い期間にわたって、「最も強い力を持った人間の意思に従う」という形をとってしか、実現されてこなかった。人間が子どもをつくって自分たち自身を再生産するという営み自体、「男」と「女」が「たすけあう」ことからしか決して始まりはしないのだということは、中山みきという人の思想の原点に位置する重要な「発見」だったと私は思っているのだが、「同じ人間」であるはずの「女性」の存在それ自体が、「男性」にとっては「戦って、奪って、自分のものにする」対象に他ならなかった時代が余りに長く続いたため、その「あたりまえの事実」は彼女の時代に至るまで、「自覚」されることも「発見」されることもなく、「埋蔵」され続けている他になかったのだと言わねばならないだろう。

 このように、「最も強い力を持った人間」が「神」と同格の存在として人々の上に君臨する一時期を人類史は経験してきたわけだが、人間というのはそもそも年をとるものであり、衰えて弱って死んで行くことを運命づけられている存在である。だから、と言っていいことなのだろうか、「神殺し」の神話や伝説と同じ発想にもとづいて、「王位」の交替は「王殺し」によってのみなされるという慣習が、大昔には相当広範に存在していたらしく、民俗学という学問の創始者と見なされることの多いイギリスのフレイザーという学者は、「金枝篇」という全13巻のその主著のほとんど全てを、「殺される王」という神話的モチーフはどこからどのようにして生まれてきたものなのかという問題の考察に充てているほどである。

 「神」が人間をつくったのは「人間同士がたすけあって陽気に暮らすのを見て神も楽しみたいと思ったから」だと中山みきは説いたわけだが、それが本当ならどうして「神」は、こんなにも残酷な時代をこんなにも長きにわたって人間に味合わせるようなことを、したのだろう。このことは、誰の心にも浮かぶ疑問であると思う。そもそも、動物であれ植物であれ、生き物が命をつなぐためには他の生き物の命を奪うしかないようにつくられているその「仕組み」自体、どうなのだろう。もっと他の「つくり方」とかは、なかったものなのだろうか。

 けれども、中山みきに言わせるならば、「神」だってその気が遠くなるほどの長いあいだ、ただ人間が殺し合うのを手をこまねいて眺めていたわけではなく、何とかその人間たちを「たすけあわせる」ために「努力」し続けていたのだ、ということになるのだろう。「ない人間」「ない世界」を泥海の中から「はじめかけた」その時から、「世界いちれつたすけたい」という「神」の思いは、変わらないのだという。しかしながら「神」が思った通りになかなか世界が運ばないのは、中山みきという人の教えの中に言葉として明記されているわけではないけれど、「神」が人間を「自由な存在」として形づくったからなのである。そしてその「自由な存在」である人間たちが、他から強制されるのでなく「自由な意思にもとづいて」たすけあう姿が生まれなければ、「神」だって「楽しめない」わけなのである。そのことに人間たちが「自分の力で」気づくことができるようにするために、「神」は何度となく失敗と挫折を繰り返し、そのたびに涙を流しながら、「努力」を重ねてきた。中山みきという人が説いた「神」とは、そんな風に「失敗」を「失敗」と認めて「自己批判」できる回路を持ち合わせている「神」なのであり、かつその「神」の「願い」は、「人間の協力」なしには決して実現できないものとして把握されているわけなのである。

そしてこの考え方には、確かに「救い」があると思う。「宗教」であれ「科学」であれ、弱肉強食の競争原理に「合理的な説明」を与えてみせるような立場からは、それに乗っかって他者の命を奪うことを正当化するような言説しか、決して生まれてこない。けれどもそれは「拒否していいこと」なのだということを、中山みきという人は「神」の名のもとに、宣言している。それが本当に「神の意思」なのか、そもそも「神」というのは本当に「ある」ものなのか、たぶん私に「わかる」ことは死ぬまでないかもしれない。けれどもそこには間違いなく「希望」があるし、そこにしか「希望」はないように、私には思われる。

ヨーロッパ世界における「信仰」のあり方は、多神教から一神教へという形で「発展」を遂げてきた。このことを「進化の法則」みたいな形で捉えることは間違いだと思うし、同じような「発展」のありようを世界の他の場所にまで当てはめたり押しつけたりすることが、正しいことだとは全く思わない。けれどもこうした「変化」が、「万人の万人に対する闘争」の時代から「群雄割拠」の時代を経て、一人の権力者の意思に全体が服従することを強いられる時代へと「発展」を遂げてきた人間社会のありように対応して起こった「変化」であるということは、見ておかねばならないことだと言えるだろう。人間が神に成り代わろうとすることが「畏れ多いこと」だと見なされるようになったのは、人間が人間社会の中に自ら作りあげた権力者の意思に逆らうことが「畏れ多いこと」だと見なされるようになったことの結果に他ならないわけであり、少なくともその逆ではありえないように思う。

一方で、「多神教から一神教へ」というこの信仰形態の変化に反映されているのは、人間の「共同体」から「個人」が産出され、その概念が成長を遂げてきた歴史の歩みであるとも言いうるかもしれない。「神」というものが人間にとって「鏡」のような存在であり続けている以上、その人間が自らのことを「集団あっての存在」であると感じている限りにおいては、「神」というものもまた「集団」的な存在として想定されることになることだろうが、ひとりひとりの人間が自らのことを「唯一のかけがえのない存在」であると感じ始めたなら、「神」というものも必然的に「唯一のかけがえのない存在」として意識されるようになる。そして「自分のかけがえのなさ」を「わかる」ことができなければ、「他人のかけがえのなさ」というものも、「わかる」ことのできる回路は永遠に開けてこないはずなのである。

天理教という宗教は一神教なのか多神教なのかという「古くて新しい議論」が存在しており、このことについてはいずれ改めて詳しく触れたいと思っているのだが、それを検証する一番「正確」な方法は、ひとりひとりの信仰者の方々が「自分の胸に聞いてみる」ということに尽きているのではないだろうか。真面目な信仰者の方なら、自分や他人の悩みについて「神」はどう考えているのか、ということに思いを巡らさない日はないことだろうと思われるのだけど、その場合に心の中に描かれている「神さん」のイメージは、自分という存在がそうであるように、あるいは中山みきという人がそうであったように、「ひとりの人格」のイメージを必ずまとっているはずなのであり、「をもたりのみこと」はああ言うだろうけど「たいしょくてんのみこと」はこう言うかもしれない、みたいなことは普通考えないと言うか、考えようとしても無理な相談であると思う。だとしたらそれはやはり一神教「的」な信仰のあり方なのであり、少なくとも多神教のそれではない。

同様に中山みきという人自身、「神さん」の教えを人々に取りつぐにあたっては、「をふとのべさんはこう言うてはるけど、かしこねさんはああ言うてはるで」みたいな玉虫色の説き方など間違ってもしていなかったはずだし、そもそもそうした「神名」は本当に彼女が教えたものだったのかということ自体、極めて疑わしい話だと私は思っている。けれども彼女は「そういうことも言っていた」という伝承も、一方ではまことしやかに語られ続けており、それが話をややこしくしているわけなのだが、このことは結局「事実としてはどうだったのか」ということをひとつひとつ正確に検証してゆくことを通してしか、「答え」の出しようがない問題であるのだと思う。それについては回を改めて詳しくやって行くつもりでいるので、今の段階ではまあ余談である。

余談ついでに、「仏教」という宗教は「多神教」で「偶像崇拝」の宗教なのだろうかという問題にも触れておきたいのだが、仏教というのはそういう「定義」が当てはまる宗教ではないと私は思っている。確かに仏教では「仏像を拝む」わけだし、その仏像の種類からして、如来、菩薩、明王、天部等々、無数に存在している。しかしながら仏教という宗教は、「仏像に服従すること」を人々に強制するようなことは、決してしていない。仏教において仏像というものが「必要」になるのは、自らも仏のような存在たらんとしている修行者がその「仏のイメージ」を具体的に心に描くための材料としてなのであって、その意味では仏像というものは「道具」であるにすぎない。それに、怒った顔から優しい顔まで、多種多様な名前と形を持っている仏像の姿というものは、真言宗の教義を踏まえるならば、大日如来という擬人化された存在に象徴されている「ひとつの真理」が様々な姿をとって表現されたものに他ならないという説明が、あらかじめ与えられている。仏教においては、「対象に服従すること」ではなく、「対象と同格の存在になろうとすること」が「信仰」なのである。

この点、天理教、と言うより中山みきという人の説いた教えは、他のどんな宗教よりも仏教によく似た教えであるという印象を私は持っている。同時にそうした「信仰のありよう」を、人々に「神への服従」を強制することしかしてこなかった西洋の一神教や日本の国家神道と同じ「宗教」という言葉で一緒くたにしてしまって本当にいいものなのだろうかという疑問を、ずっと昔から感じている。

「宗教」、「信仰」、「崇拝」、そして「多神教」に「一神教」、どれもこれも「明治」期のインテリが外国の思想を翻訳して日本に移入するために発明した「新しい日本語」であるにすぎず、中山みきという人が自らの思想を築きあげた頃には、そういった言葉はまだひとつも存在していなかったのだということを、我々は覚えておかねばならないと思う。こうした言葉が「独り歩き」を始めて久しくなった現代においては、上に見たような「全く異なった人間の心のありよう」が、「宗教」や「信仰」といった「同じ言葉」で「説明」されてしまいがちであることを、おかしいと感じることのできる回路自体が封鎖されてしまっているように感じることもしばしばだ。「神」という言葉にしてからが、「明治」以降の日本においては天皇制軍国主義の独占物となり、それにキリスト教や他の諸宗教が掲げる互いに全く無関係な「神」のイメージが入り混じって、この言葉に「ひとつの定義」を与えようとしたら「終わらない戦争」が始まってしまう以外にないような状況が、長きにわたって続いている。

中山みきという人自身は、こうした時代の動きに対応して「誤解」を避けるための配慮だったと思うのだが、「明治」の8年以降は「おふでさき」の中で明らかに意識して「神」という言葉を使うことをやめており、「月日」や「をや」といった言葉を、それに代わる表現として採用している。「神」という言葉に対するこの「執着のなさ」は、学ぶべきものであると思う。「神は神」「宗教は宗教」といったような言い方は、何かを説明しているようでいて実のところ何も説明していないにも関わらず、それで何かが「わかった」ような気持ちになっている人々というのは、結局のところこうした言葉が持っている「呪術的性格」に深々と支配されているにすぎない、ということが言えるのではないだろうか。その点、彼女という人は、そうした「呪縛」から全く「自由」になった立ち位置から、自分が「神」と呼んだその対象と向き合い続けていたのだということを、見ておかなければならないだろうと思う。

ここまで思いつくままにとりとめなく話してきたことを、現実世界での実際の歴史の歩みに合わせて、改めて整理することにしてみよう。

人間は太古の時代から長きにわたって、「倒すか倒されるかの戦いの世界」に生きることを余儀なくされてきた。「自由」は「最も強い力を持った存在」にだけ与えられた「特権」としてあり続け、人々が元初から持っていたであろう「たすけあって生きたい」という「欲求」は、「最も強い力を持った人間の意思に服従する」という形を通してしか、基本的には「実現」されることがなかった。人間と人間との間に形成された「支配と服従の関係」が変化するに従って、観念の世界における「人間と神との関係」もまた、様々な形で変化を繰り返してきた。

「偶像崇拝の禁止」に象徴される「神と人間の分離」という出来事を通して、「最も強い力を持った存在」は人間社会から「疎外」され、感性でとらえることのできる具体的な姿かたちを備えた対象であることをやめて、理性でしかとらえることのできない抽象的な対象へと変化した。このことは一面においては、「倒しあいをやめて万人がたすけあいのために生きること」の可能性を人間社会に切り開いたとも言いうるが、そのことは人間が「自由」を放棄すること、人々が自らを「服従主体」として形成してゆくことを、条件としていた。個々の人間が現実社会において「最も強い力を持った存在」と取り結んできた関係は、各人の心の中における「神という絶対者」との「一対一の直接的な関係」へと転化された。このことは人間社会における「個人」の覚醒と成長を促したと言いうるが、本質においてそれは「抽象的な恐怖への服従」以外のものではなく、そうした「服従精神」は諸個人の心の中に、深々と内面化されることになっていった。

地上の権力者は「神の代理人」を名乗るようになり、人々はその意思や掟にもとづいて「たすけあう」ことを求められるようになったわけだが、「強要されるたすけあい」などというものは、どこまで行っても「疎外されたたすけあい」でしかありえない。この「疎外」は究極的には、「神の敵」との「殺し合い」を意味する「戦争」において、最も高度なレベルの「たすけあい」が人々に要求されるという点にあらわれてくる。人間というものが「倒しあう」ためにしか「たすけあう」ことのできない生き物であるのだとしたら、こんなに絶望的な話はないと思うが、おそらくそんなはずは、絶対にないのである。なぜならそうした戦争や殺し合いは、往々にして「誰ひとり望んでいないにも関わらず」発生するものであるからだ。

こうした「不条理」が起こってしまうのは、「人間と人間との関係」のあり方を根本において規定している「人間と自然との関係」のあり方が、いまだ「倒し倒される戦いの関係」でしかありえておらず、「たすけあう関係」になりえていないことに由来しているのだと思われる。「神」という抽象的権威のもとに「力を合わせる」ことを覚えた人間は、それから猛烈な勢いで「生産力」を発達させてきたわけだが、その活動の内容というものは、こと「自然との関係」において見る限り、一方的な「征服」事業以外の何ものでもありえなかった。中山みきという人が「傍楽」という字を当ててその意味を人々に説明した「働く」という活動の内実は、この「戦争」的な関係に規定されて、「人間と人間との関係」の内側においても、「競争」による「疎外」をこうむることになっていった、ということを見ておく必要があるだろう。この「競争」は、「自然に対する征服事業」がエスカレートするに従い、ますます耐えがたいものとして個々の人間の上にのしかかるようになって、現在ではほとんど全ての人間がそれを望まないと感じるまでに至っている。それにも関わらず、「競争」は「人間の外部」から押しつけられる「強制的な力」として、人々の生き方を深々と「支配」し続けており、人間は「人間として」生きたいと願うならば、そこから抜けることも降りることもできないような状況に陥っている。中山みきという人が生きた時代は、まさにそうした人類史の一時期の「入口」にあたる時代であり、そして我々が生きる現代は、そうした状況が決定的に煮詰まって、もはやどこにも「出口」が見いだせないところにまで立ち入ってしまった時代なのだということを、確認しておく必要があるだろう。

「人々の絶対的服従」を条件に「三百年にわたる平和」を可能にしてきた徳川幕府という体制が、中山みきという人の時代に至って「倒される」日を迎えたのは、人々が「万世一系の天皇」という「新しい服従の対象」を求めたからでは決してなく、人々が「自由」を求めたからに他ならないのである。中山みきという人はそうした「時代のエネルギー」を最も鋭敏に感じ取っていた人だと私は思っているし、また本人も…東アジアの片隅の「ほん何でもない百姓家の女」としての立場から…切実に「自由」を希求していた人だと思っている。人々を直接に抑圧していた徳川幕府というものをたとえ「力」によって倒しても、それによって人間の生き方に「自由じゅうよう」がもたらされることにはならないことを、彼女はおそらく当時を生きた他の誰よりも、深いレベルにおいて「わかって」いた。だから当時において大和一円をも席巻していた尊皇攘夷運動というものに、彼女は一貫して距離を置く姿勢をつらぬいていたのだと思う。人間を「倒しあい」へと駆り立てる「見えない力」の正体が、彼女には確実に「わかって」いたし、その「力」は「倒しあい」に勝利した人間たちにさえ決して「自由」をもたらさないということを、彼女は間違いなく「わかって」いたのである。

人間にとっての「自由」とは、「その人が望んだ通りに生きること」でなくて、何だろう。その「望み」の形は、人によって様々であるに違いない。けれどもあらゆる人々の「望み」の根底には、「たすけあって生きたい」という「欲求」が必ず横たわっているはずだという確信が、中山みきという人には、あったのである。ともすれば「永遠に続く倒しあいの歴史」だったとしか思えないような人間の営みの底流に、一貫して存在し続けていた「たすけあって生きたい」という人々の渇望が、彼女の心の眼には確実に映っていた。それは彼女という人自身が誰よりも「たすけあって生きること」を渇望していた人だったからこそ、「見えた真実」だったのだろうと私は思っている。

その「真実」を、おそらく中山みきという人は、「神」と呼んだのである。そしてその「真実」の立場に立ちきるという「決意」を込めて、一切の「人間心」を捨てさり、「神」そのものとして人々の前に立つことを、おそらくは天保9年旧暦10月23日の日が暮れたその後に、決断したのである。

人々を「倒しあい」に駆り立てる「見えない力」の正体は何なのか。それは人々の心をその内側から蝕んでいる「服従精神」に他ならない。他人を支配したいと思う「欲」や「高慢」は、「服従を強いられて生きること」の辛さや苦しさを人間なら誰でもわかっているからこそ、そこから逃れたいという「あがき」として、生まれてくるものだ。けれどもよしんば「倒しあい」に勝ちぬいて人間の最高位にまで登りつめた人間であっても、その恐怖から逃れることはできない。そこまでは人間は、「自力で」気づくことができた。だから「目に見えない神」というものをつくりあげ、それに服従を誓うことと引き換えに、「自分だけはたすかりたい」と願いをかけるタイプの「信仰」が生まれることになった。しかしながら、「それでは誰もたすからない」のである。「目に見えない力」に対する「恐怖」から人々を解き放つには、「神がおもてにあらわれる」以外にない時が来た。というのが中山みきの下した結論だったのだと思われる。それが「人として」の考えだったのか、「神として」の考えだったのかは、私にはわからない。けれども最終的には「どちらであっても同じこと」と言っていい問題なのだと思う。その人の出した答えが「真実」であるならば、そこには必ず「神が働く」はずだからである。

天保9年(1838年)10月に「神がおもてにあらわれた」ことの趣旨は、それから32年後の明治2年(1869年)に初めて書かれた「おふでさき」の冒頭の八首の歌の中に、あますところなく言い尽くされている。のちに歌の文句を五七五七五に調整して、催馬楽さいばらの節回しで「よろづよ八首」として「おつとめ」の冒頭に歌われるようになった歌…という説明が天理教本部からはなされているわけだが、本当のところは「声に出して歌われる歌」の方が先にできていて、「おふでさき」の冒頭八首の方は後になってからそれを整理したものではなかったのか、という印象を私は感じている。けれどもそれについての検証は別の回に回そう。まずは、その全文を紹介したい。

よろつよのせかい一れつみはらせど
むねのハかりたものハないから

万代の世界一列見晴らせど
胸の分かりた者はないから

1-1

そのはづやといてきかした事ハない
なにもしらんがむりでないそや

そのはずや 説いて聞かした事はない
何も知らんが無理でないぞや

1-2

このたびハ神がをもていあらハれて
なにかいさいをといてきかする

この度は神が表へあらわれて
何か委細を説いて聞かする

1-3

このところやまとのしバのかみがたと
ゆうていれども元ハしろまい

このところ大和の地場の神方と
言うていれども元は知ろうまい

1-4

このもとをくハしくきいた事ならバ
いかなものでもみなこいしなる

この元を詳しく聞いた事ならば
いかな者でも皆恋しなる

1-5

きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
よろづいさいのもとのいんねん

聞きたくば尋ね来るなら言うて聞かそ
万委細の元の因縁

1-6

かみがでてなにかいさいをとくならバ
せかい一れつ心いさむる

神が出て何か委細を説くならば
世界一列 心勇むる

1-7

いちれつにはやくたすけをいそぐから
せかいの心いさめかゝりて

一列に早く助けを急ぐから
世界の心 勇めかかりて

1-8

…なんという、自信に満ちた宣言なのだろうと思う。一言一句に注釈や感想を付け加えたい誘惑にかられてしまうのだが、それもまた別の機会に回そう。中山みきという人が説いた「神」は、人々に対して「服従」を求めるのではなく、「心を勇ませて助けを急ぐ」ことを求めている。「世界の真実」は、それを知ろうとしたらバチが当たったり目が潰れたりするようなものではなく、それを知っただけですべての存在が愛おしく思えてくるようなものなのだということを、教えている。彼女の説いた「神」のイメージは、それまでにあった「神」のイメージからの「断絶」の上に形成されており、そのことは

いまゝでにない事ばかりゆいかけて
よろづたすけのつとめをしへる

今までにない事ばかり言いかけて
万助けの勤め教える

「おふでさき」6-29

という歌の中にもハッキリと示されている。「言わん言えんの理」というものがあるから、「他者を否定する言葉」を基本的に彼女は使わないのだけど、事実上、今までに説かれてきた「神」というものは全部まやかしだ、と言いきっているに等しい姿勢である。逆らう者を皆殺しにする記紀神話のような「神」としてではなく、「死後の救済」しか約束してくれない抽象的な存在としての「神(-仏)」としてでもなく、「ここ」を「この世の極楽」にするために、現実の歴史の流れを踏まえるならば「再び」具体的な姿かたちを備えた感性の対象として、すなわち「生きた人間」の姿をとって、「神はおもてにあらわれた」のだと言うことができるだろう。

ちなみに、中山みきという人が説いた「たすけあい」とは、「人間と人間との関係」の内側にとどまるものではなく、「人間と自然との関係」にまで踏み込んだものとしてある「たすけあい」であり、後に彼女が説いた「貸し物·借り物の理」には、そのことが示されていると私は思っている。だから彼女の説いた思想は、人々を「倒しあい」へと駆り立てるこの世界の矛盾の根本=「よろづ委細の元の因縁」を対象化し、それを「止揚」する道筋を示したものとなり得ているというのが私の理解である。しかしながら「人間と人間との関係」の内側においてさえ「たすけあい」が実現できていない状態において、「人間と自然との関係」に「たすけあい」を求めるのは、順序を無視した暴論と言うべきだろう。だから彼女はとりあえず、人間と人間とがたすけあって生きること「だけ」を人々に教えたのだろうと私は受け止めている。そこから先のことは「言わん言えんの理」の領域の世界なのだろうと拝察させて頂く次第である。

ここまで延々1万2千字以上を連ねて私が今回結局何を言いたかったのかというと、中山みきという人には間違いなく「顔があった」、ということなのだ。こんな「当たり前」のことを言うのに、どうしてこれほど長大な文章を書かねばならなかったのだろうと自分でも思う。けれども何しろ中山みきという人は、「誰よりも人間らしい人間の顔」をして「神の言葉」を語っていたに違いないわけで、だからこそ彼女の時代に彼女の周りにいた人たちには、「神がわかった」わけなのである。それなのにどうして彼女の教えを人に取りつぐ立場にある人たち、すなわち天理教の先生方は、せっかく「おもてにあらわれた神」の姿を再び「隠して」しまうようなことを、続けているのだろうか。

彼女の死後に形成された天理教団は、それからほどなく起こった日清戦争を皮切りに、太平洋戦争における日本帝国主義の敗戦に至るまで、「倒しあい」のための「たすけあい」に人々を動員することを通して教勢の拡大を図るという、中山みきの教えからは最もかけ離れた行為に手を染めてきた。そのためには教祖の本当の教えを「隠す」必要があったわけだし、教祖の姿を「いかなものでも恋しなる」気持ちの対象から「服従精神」の対象へと、「再構築」する必要があった。このために、言うなれば「神と人間との分離」の時代に「逆戻り」するような形で、いったんは写真にまでおさめられた彼女の「顔」は、「隠される」ことになったわけなのである。

扉開いてろっくの地にしてくれ、
と言うたやないか。

という「教祖臨終のおさしづ」の言葉が、それを思うと実に悲痛なものとして響いてくるのを感じるが、それについて詳述できるのは当分先のことになると思う。「当時はそれで仕方なかった」とか、「そうしなければ生き残れなかった」とか、いつまでも服従精神を丸出しにして人のせいにすることを続けていたいというのであれば、それもそれでいいだろう。中山みきという人の教えた「神さん」は、そういう人々にも「不自由はさせたくない」という気持ちで向き合ってくれるはずだし、そういう人々もそういう部分だけは「信じて」いるはずだからである。けれどもそれなら、「高山の支配」に「恐怖」する必要がなくなった戦後になってからなされた「復元」と呼ばれる事業は、いったい何だったのだろうか。そして弾圧の中にあっても中山みきという人の教えを曲げることなく説き続けようとしたために、他ならぬ天理教本部の手によって「抹殺」されていった先駆者の人たちの名誉は、いつになったら回復されることになるのだろうか。「応法の理」が説かれていた時代を「間違い」だったと認めるのであれば、それに対する真摯な反省と自己批判が表明されることのない限り、天理教という宗教の手はいつまでも血に染まり続けていると言わねばならないと私は思っている。

「顔のなくなったみきさん」の顔を見て反射的に「恐怖」を感じてしまった子どもの頃の私を、そんなわけで今の私は、恥じている。「何やこれは」と思わねばならなかったはずなのである。思うことだってできたはずなのである。そのためには、子どもの頃に見たあの絵に感じた「異様な説得力」は一体どこから生まれてきたものだったのだろうということを自分自身で解明し、その「恐怖」と改めて向き合い直す必要があった。それで今回の記事は、こんなにも抽象的な内容になってしまった次第なのだが、皆さんにもしんどい思いをしてつきあってもらったおかげで、「顔のないみきさん」は「本当のみきさん」ではなかったのだという「当たり前の事実」に、今では自分自身でもようやく「納得」がついたような気がしている。そして、他の誰かが勝手につくりあげた「顔のないみきさん」のイメージに幻惑されて、「本当のみきさん」の姿は今まで自分自身にも「見えない」ままになっていたのだということに、気付かされつつある。「わかりきったこと」でもそれを敢えて「言葉にする」ことには、やはりそれなりの意味があるものだと思う。もっともそういう体験は、人生で一回あればそれで充分だとも思うのだけど。

今回あらためて整理してみた「中山みきという人のイメージ」に照らしてみるならば、「立教」に際して彼女が発したとされている「神の言葉」の数々はあまりに「高圧的な印象」を人に与えるものであり、本当に彼女はこんな言葉を口にしたのだろうかという疑問が湧いてくる。「寄加持」という「場の設定」自体がフィクションにしか思えないということは前回つぶさに検証したのだし、本当はどういう人々の前でどういう形でどういう言葉を口にする形で「それ」は為されたのだろうかということが、やはり気になってくる。本当ならば今回の記事ではそのことを具体的に考察するつもりでいたのだったが、それをこの文章の続きでやれる余力は、当然ながら私にはない。

…とうとう1万4千字を越えてしまった。というわけで次回に続きます。


某氏の「立教」再考その4、 「神憑り」考
 「「教祖絵伝」を読み直す 8/25 「立教」再考その4 「神憑りになった」のか「神になった」のか」。
 「立教」とは何だったのかをめぐる考察も、今回でようやく最終回である。中山みきという人が、長男の秀司の足痛を治すために行なわれた「寄加持」の場で「神憑り」になったことから、天理教の歴史が始まった、という教団が伝える伝承は、そのほぼ全体が中山秀司という人本人による「作り話」に他ならなかったということを、前回までの記事ではつぶさに検証してきた。しかしながら、「それなら中山みきという人には実際には何が起こったのか」という肝心なことについては、いまだほとんど考察が進んでいない。今回はそのことについて、集中的に考えてみたい。

 中山みきという人は「立教」の前と後では、どう「変わった」のだろうか。そしてその日を境に彼女が説き始めた「神の教え/自分の教え」とは、どういう内容のものだったのだろうか。それを彼女は、誰に対してどのような形で教えたのだろうか。一番大切なのは、それを解明することであると思う。
 「立教」についての考察を開始するにあたり、天保9年10月に実際に中山みきという人の身に起こったことが「どんなこと」であったとしても、それを「神憑り」という言葉で表現することは彼女の人格を否定する行為であり、自分はその立場をとらない、ということを私は最初に書いた。しかしながら、天理教の世界では、中山みきという人は人々に「天啓」を取り次ぐ人だったということが昔から言われており、その「天啓」に実際に接してきた信者さんたちの証言も、数多く残っている。

 「天啓を取り次ぐ」とは、天理教的には「人々に神の言葉を伝える」ということを意味する言葉であるのだけれど、当時を知る信者さんたちによれば、中山みきという人は本当にしょっちゅう「神さんの言葉」を口にしていたのだという。そして「みきさんが喋っている時」と「神さんが喋っている時」では明らかに「人格が入れ替わっている」ということが、誰にでもハッキリと感じとれたのだという。みきさんが「神の言葉を語り始める現象」は、誰がいつからそう呼び始めたのかは定かでないが、「刻限」(こくげん)と呼ばれていた。

 「刻限」はしばしば、何の前触れもなく開始され、その内容はともすれば「支離滅裂」なようにも聞こえるのだが、何かものすごく「大切でありがたいこと」が話されているということは雰囲気でありありと分かるので、当時の信者さんたちはみんな必死でそれを聞き取ろうとしていたのだという。みきさんの晩年には、この「刻限」が大体真夜中の決まった時間に始まるようになっていたため、その時間が近づくと「そろそろ刻限があるぞ」ということで、大勢の信者さんがみきさんの寝所の周りに詰めかけていたということも伝わっている。けれどもその「刻限話」の内容を正確に記憶していることのできた信者さんはほとんどいなかったと伝えられているし、またその内容を文字にして記録した資料なども、ほとんど残されていない。それは「自分の見た夢」の内容を正確に記憶していることが大部分の人にとって困難なことであることと、同じ理由によっているのだろうな、と何となく私は思っている。
 「天啓とは何だったのか」ということを解明することは、そうした理由から今では極めて難しいことになっているのだが、「天啓」というもの自体は間違いなく存在していたということを疑うことができないように思われるのは、天理教とその周辺の歴史にはみきさんの他にも何人もの「天啓者」が存在したということが、事実として伝わっているからである。とりわけ、みきさんの死後に「本席」として信者さんたちを指導する役割を担った飯降伊蔵という人は、まさにこの「天啓を取り次ぐ能力」をみきさんから「引き継いだ」人であるということを誰もが認識していたからこそ、「右」から「左」まで全ての信者さんたちから、彼女の「後継者」として認められていたのだということが言いうる。

 伊蔵さんの取り次いでいた「神の言葉」は、教団組織から「おさしづ」と呼ばれ、みきさんの場合と違って、「明治」の20年以降は原則的にそのすべてが文字で書きとられる形で記録に残されている。(みきさんの「おさしづ」として公式に記録に残されているのは、「教祖御臨終のおさしづ」として知られる、その死の直前の時期の言葉だけである)。その分量は何千ページ分にも及んでおり、またそれぞれの「おさしづ」が発せられた前後関係がほとんど記録されていないこともあって、総体としては「支離滅裂なうわごと」や「決まりきった定型文の繰り返し」にしか思えない箇所があまりにも多く、これを通読するのは容易なことではない。しかしながら、当時の事情を踏まえて読むなら、実に多くのことを我々に教えてくれる「言葉の宝庫」になっているのが、この「おさしづ」という「本」である。
 1999年に豊嶋泰國という人が出版した、「天理の霊能者-中山みきと神人群像-」という、あまり真面目なタイトルには思えないけれど内容的にはかなり綿密な取材を重ねて書きあげられたことが伺える本には、伊蔵さんが「天啓」を人々に伝えていた時の様子が、さまざまな証言を踏まえて以下のように具体的に描き出されている。

 飯降伊蔵は、「刻限」と呼ばれる天啓を告げる前触れとして必ず「ウー」という長い声を発し続けた。「ウー」が始まると、ただちに天理教の全本部員が招集されたが、「刻限」は深夜に起こる場合があり、本部員が飯降伊蔵のところに揃うまで時間がかかったりもする。したがって本部員全員が集まってくるまで「ウー」という発声を時には一時間も続けることがあったといわれる。全員が集まると、次に「さあさあ…」という言葉を発して天啓を伝え始めた。その後、普通の状態に戻った伊蔵に係の者が天啓を清書したものを読みあげると、伊蔵は「そうであったか」「はあ、えらいことやな」などと述べることもあった。前掲書 83ページ

 …実に「ふしぎなこと」が初期の天理教の世界では繰り広げられていたものだということの他に、どんな感想も述べようがないような話であるわけだが、当時の信者さんたちは、そうやって「おさしづ」を発する伊蔵さんの姿に間違いなく「みきさんと同じもの」を感じとり、みきさんの口を借りて語っていた「神さん」と伊蔵さんの口を借りて語っている「神さん」は明らかに「同じ神さん」であるということを、ハッキリと「理解」していたわけである。その事実は、「そのまま受けとめる」以外にないことであるように私は思う。
 天理教の中からは、とりわけ「明治」から「大正」の時代にかけて、伊蔵さんの他にも何人もの「天啓者」が生み出されている。ただし、そういう「決まり」を作ることは「神」の他に誰にもできないことであるはずなのだが、「天啓者が二人も三人もいては困る」という天理教団の側の明らかに「勝手な事情」にもとづいて、それらの人々はいずれも「異端」の烙印を押され、天理教から追われている。みきさんから6歳の時に病気を治してもらい、以降は長きにわたって彼女のそばで我が子同様に育てられ、天理教を追われてからは「大道教」という新興宗教をおこした安堵村の飯田岩次郎、初期の天理教において最大規模の教会だった大阪の北大教会の、初代会長をつとめていた茨木基敬(いばらぎもとよし)、みきさんの死後に入信し、現在では天理教から分派した最大の宗教組織として知られている「ほんみち」の創始者となった、宇陀郡出身の大西愛治郎、そして「大正」年間に「みきさんの生まれ変わり」であると名乗って登場した、兵庫県三木市の井出クニといった人たちである。その他にも、天理教を信仰することを通して「天啓」が聞こえる(?)ようになった人々は、たくさんいたはずだったろうと私は思っている。

 そうした人々のうち、幼い頃に母親に連れられて天理教の教会に参拝したことがあったということの他にはほとんど「お道」との接点がなかったように思われる井出クニという人のことだけは、私にも正直言って、よく分からない。けれどもそれ以外の人々について書かれた記録や資料を読み込んでみてつくづく実感されるのは、そのいずれもが本当に「真面目な天理教の信仰者」の方々だったのだな、ということである。家も財産も全てを捧げて「お道」のために尽くし、寝ても覚めても「神さん」のことと「おやさま」のことだけを考え続けているような真面目な人の心にこそ、「神さん」の声というものは聞こえてくるものなのだろうなということが、その「真面目な信仰心」というものをほとんど持っていない私のような人間にも、ありありと伝わってくるような印象を受ける。

 けれどもそうした人たちの口を通じて語っていた「神さん」は、中山みきという人の口を通じて語っていたのと「同じ神さん」ではやはりなかったのだろうな、と私が感じるのは、飯田さんや大西さんの口を通じて語っていた「神さん」は、私の検証にもとづくなら「秀司のつくった教義」であってみきさん自身はそんなことは決して自分から語っていなかったはずの「八つのほこり」や「十柱の神名」といった天理教の教える概念を、そのまま「神の教え」として人々に取り次いでいるからである。そのてん伊蔵さんという人はやっぱりえらいもので、あの膨大な「おさしづ」を全文検索してみても、そういった「秀司のにおいのする言葉」はほとんどこれを語っていないのだ。(「八つのほこり」という用語に関しては数回使用例があるのだが、いずれもそれを「教理」として伊蔵さん自身の言葉で詳しく説明しているような「おさしづ」ではなく、記録者の「手癖」や「勝手な意訳」にもとづいて紛れ込んだ表現にすぎないのではないかという印象を私は受ける。

 文字になっている「おさしづ」は必ずしも伊蔵さんの言葉を正確に伝えているものではなく、書き落としや明らかな改竄の痕跡が随所に見受けられるのだが、そのことについては別に詳しく検証する機会を設けたいと思っている。そのことの上で「くにとこたち」や「をもたり」といった天皇制との関連を印象づける「神名」については、本当にひとつも使用例が存在していない)。
 こうした事実は、極めて興味深いことを示唆していると私は思う。中山みきという人に最も近いところで師事し、彼女の教えと「秀司が教会で説いていた教え」とは全くの別物であるということを直接知ることのできた立場にあった伊蔵さんは、「おさしづ」の中においても実に注意深く、「みきさんが説いた教え」にだけもとづいて信者さんたちを指導しようとする姿勢を持っていたことが窺えるのである。これに対し、入信した順番としては伊蔵さんより早かったものの、当初は子どもで中山家における「大人の事情」など知るよしもなかった飯田さんの場合は、「みきさんの思いを無視して秀司が勝手に教えていた内容」をも「天理教の教え」として「素直に」受け入れ、それをそのまま信者さんたちに伝えようとしていた姿勢を見せている。

 一方、生まれた時代が遅く、みきさんから直接教えを聞かせてもらえる機会を持つことのできなかった大西さんが取り次いだ「天啓」は、みきさんの死後になってから「みきさんの本当の教えが書かれた秘伝の書」といったような形で天理教内で流布されていた「泥海古記」という文書の内容に、全面的に依拠したものとなっているのだが、飯田さんの取り次いでいた「天啓」には、「泥海古記」とつながってくるような内容はほとんど含まれていない。いずれこのことについても詳しく触れる必要があると思っているのだけれど、「泥海古記」という文書は確かにみきさんの教えた「元始まりの話」を下敷きにして書かれているものであるらしいということは言えるにせよ、その内容はみきさんや秀司をはじめとした中山家とその周辺の人々が「天皇家の祖先神の生まれ変わり」であると教え、「これ疑えばご利益うすし」と説いている差別的な文書であり、私はハッキリとこれを「偽書」であると考えている。みきさんのことを知らなかった大西さんは、知らなかったからこそ「泥海古記」を彼女の本当の教えだと「信じる」ことができていたのだと思われるが、飯田さんの場合は「おやさまがそんなことを言うわけがないし、秀司さんさえそんなことは言っていなかった」ということを「わかって」いたから、「泥海古記」をまともに相手にしていなかった様子が窺えるのである。
 こうした人たちの心に、ある日突然「神さんの声」が聞こえてきたという出来事は、間違いなく「本当にあったこと」だったのだと私は思っている。そして「天啓」というものは、人間にとって恋愛や子どもの誕生や自分の死というものが例外なくそうであるのと同じように、「歴史の流れと垂直に訪れる出来事」に他ならない。それにも関わらず、現実の世界において諸個人の上に訪れる「天啓」は、諸個人の歴史を踏まえた上でしか決して「降りて」こないものなのである。「神とは何か」「神は存在するのか」という自分の中の問いに対して、私自身は今のところやはり「わからない」という答えしか持っていない。けれども諸個人の存在を通して「神」というものが「あらわれる」時のその「あらわれ方」は、正にカントが指摘したように、その人自身の「認識能力」、あるいは言い換えるなら「悟りの深さ」を超越するものにはなりえないものなのだということを、我々は事実として確認しておく必要があるように思う。その意味で「天啓」と呼ばれる出来事は、いかに外見的にはその人が「神」という「他者」からその人格を乗っ取られているような状態に見えようとも、やはり本質的には「その人がその人であるということの表現」として受けとめるべき事象なのだと私は考えている。

 「天啓」という言葉を広くとるなら、何かについて必死で探求している研究者が、ある日突然ふとしたきっかけから全く新しい「ひらめき」を得るといったような出来事も、世の中では「天啓」と呼ばれている。ニュートンがリンゴの実が落ちるのを見て万有引力の法則を発見したといったようなエピソードも、あれはあれで「作り話」の可能性が高い逸話であるらしいのだが、立派な「天啓」の一例である。こうした「ひらめき」は、「眠っている時に見る夢」によってもたらされるケースも少なくない。中山みきという人が78歳だった年にスイスで生まれたユングという心理学者は、みきさんだったら「神が教えた」と教えるところであろうこうした「啓示」というものは、人間の「外部」からもたらされるものではなく、人間の「内部」の奥深く、「無意識」の領域からもたらされるものであるということを指摘している。ユングの説によるならば、人間という存在は「意識された自分」である「自我」の領域においては「個別の存在」として「成立」しているが、「無意識の領域」においては「自他の区別」というものがそもそも成立しておらず、別々の肉体を持った諸個人もその「無意識の領域」においては「つながって」いるものなのだという。言い換えるなら個々の人間は「民族全体」、「人類全体」というレベルでその「無意識の領域」を「共有」しているということが言いうるわけで、この広大な「無意識の大海」をユングは「集合無意識」と名付けている。
 I am he as you are he as you are me and we are all together.
 きみがぼくであるように、きみはあいつでぼくもあいつなんだからぼくらはみんな一緒なんだ
 The Beatles "I am the Walrus" …というジョン·レノンの歌の一節が何となく思い出されてきてしまったりするのだが、そんな風に個別的な存在として生きている我々人間の一人一人が無意識の領域においては「つながって」いるものなのだという発想は、人間には「ひとつの共通の本質」が存在しているという我々の直感に説明を与えるものであり、かつ「神」という観念がどこから生まれてくるものなのかという問題にも、一定の説明を提示するものとなりえているように思う。この立場に立つならば、みきさんや伊蔵さんの心に直接語りかけていたという「神さんの声」というものは、「集合無意識からのメッセージ」に他ならなかったのだという風に、解釈し直すことも可能だろう。

 しかしながらそうした「説明」が、果たして「科学的」なものになりえているのかということになると、私にもあまり自信がない。「神」という検証不能なものが「集合無意識」という同じように検証不能なものに「置き換わった」だけの話であるならば、ある宗教の内容を別の宗教の教義にもとづいて「解説」しようとするような試みと、大して変わらないのではないか、といったような気もしてきてしまう。なので今の段階ではこの方面の話は余談にとどめておくつもりでいるのだが、こうしたユングの心理学を日本に初めて紹介した人物が、天理大学の講師からそのキャリアをスタートさせ、二代真柱の援助によってスイスに留学して帰ってきた河合隼雄という人だったという事実には、やはり「いんねん」と言うか、ユングの言うところの「シンクロニシティ」を感じずにいられない気が私はする。いずれ機会があれば、この話は改めて掘り下げて考えてみたいと思っている次第である。
 いずれにしても、「天啓」というものは決して「特別な人間」にだけ「降りてくる」ものではなく、基本的には人間であれば誰でも経験しうることなのだということ、そしてそれは人間の「外部」からやって来るものではなく、むしろ人間の「内部」から、その人の個体史を踏まえた形でしか「湧きあがって」こないものなのだということ、この二点に関しては、我々が事実として確認できることだと言っていいように思う。

 中山みきという人の中には、「みきさんとしての人格」と「神さんとしての人格」が「同居」していたように人々の目には映っていた、ということに関しても、それが「科学的に説明できること」であるかどうかは私には何とも言えないことであるにせよ、そうした事例は世の中を見渡せば「いくらでもあること」だということは、見ておかなければならないことだと言えるだろう。たとえば5〜6歳あるいは10歳くらいの子どもが、「イマジナリーフレンド」と呼ばれる「実際には存在しないが実在感を持ってその子と一緒に遊んでくれる仲間」の存在を自分の中に(外に?)感じている事例は広く知られているところであり、それは「子どもの発達過程における正常な現象」であると言われている。多くの子どもはその「イマジナリーフレンド」の存在を人に打ち明けることをせず、そして成長と共にその「イマジナリーフレンド」の存在を自らも「忘れて」しまうことを通して、一般的には「イマジナリーフレンド」は「消失」してしまうものなのだという。けれどもオトナになってからもその「イマジナリーフレンド」を持ち続けている人、あるいは新たに持つようになる人も少数ながら存在していて、かつてはそうした人たちは「多重人格」と呼ばれ、差別的な視線にさらされることが「普通」に行なわれていたわけだが、現在ではその多くの事例は「解離性同一性障害」と呼ばれており、「誰にでも起こりうること」であることが知られている。そしてその「治療」にあたっては…「治療」が必要になるのはその人自身にとってその状態が「苦痛」である場合が多いためだが、その「苦痛」の大部分は「病」からではなく社会からの「差別」によってもたらされるものであるということを見ておかなければならない…、その人の中に存在する複数の人格のうちのどれかを「本当のその人」と決めつけたりするのではなく、そのどの人格もかけがえのない「その人自身」のあらわれとして尊重する態度が、その人と共に生きようとする家族や友人には求められている。

 そういったことが「なぜ」起こるのかということを「解明」することは、本質的には「人間はなぜ生きているのか」という問題に「答え」を出すのと同じぐらいに、難しいことなのだと言わねばならないだろう。けれども世の中にはそういうことも「ある」ということ自体は、ずっと昔から知られていたことだったわけである。しかしながらその当事者となった人たち以外には、それがどういう状態なのかということが「わからない」から、その人たちに「神憑り」、「狐憑き」、あるいは「多重人格」という「名前」をつけて、差別的に「処理」してしまう態度をとってきたのが、今までの人間社会のありように他ならなかったのだと言えるだろう。「狐憑き」呼ばわりして迫害の対象にするにせよ、「神憑り」呼ばわりして「崇拝」の対象とするにせよ、その人の人格というものを勝手に「ないもの」として扱ってかかっている点において、同じくらいに「ひどいこと」であると私は思う。

 中山みきという人は、「おふでさき」の中において「天降り」という言葉は使っているものの、「神憑り」という言葉は一度も使っていなかった。そういった「言葉の選び方」を通して、「自分の言動には自分自身が責任を持つ」という姿勢を、彼女は一貫して明らかにしていたわけである。そのみきさんに対して一方的に「神憑り」というレッテルを貼りつけたのは、秀司という人を初めとした「周りの人間たち」のやったことなのであって、それは決して「みきさんのために」そうしていたわけではなく、「そうした方が自分たちにとって都合がよかったから」そうしていたにすぎなかったのだということを、我々は見ておかなければならないと思う。
1. 心神喪失者の行為は、罰しない。
2. 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
 という刑法39条の条文は、1970年代以降の「障害者」解放運動のたかまりの中で、当事者の人々からハッキリと「差別である」という糾弾を受けてきており、その撤廃を求めて闘っている人士が、今でも数多く存在している。その人たちは、「犯罪」を犯した「障害者」はどんどん処罰の対象にしろ、といったようなことを訴えているわけではもちろんない。「障害者」は「自分の行動に対し責任をとることができない存在である」という「決めつけ」が差別であり、それが許せないということを訴えているわけである。この「決めつけ」は、「障害者」の言うことなどまともに聞く必要はない、という「決めつけ」と表裏一体のものであり、こうした差別によって実際に生命をも奪われてきた「障害者」の人たちが、とりわけ戦争とファシズムの時代においては、無数に存在してきた。その歴史を二度と繰り返させないために声を挙げ続けている当事者の人々の姿に触れるにつけ、私は自分自身が中山みきという人のことを長きにわたって「神憑り」になった人であるという目で見ていたその視線自体が、極めて差別的なものだったのではないかということに気付かされてきた経緯を持っている。彼女のことを「神憑り」という名前で呼ぶことは、彼女を刑法39条の対象とみなす行為と実質的に変わらないわけであり、そういうことは「彼女の言葉をまともに聞く気を持っていない人間」にしかやれない所業であると思う。そして実際かつての私は、それぐらい彼女の言葉を「まともに聞こうとしていなかった」わけである。そのことへの反省を込めて、中山みきという人を「神になった人」と呼ぶことはできても、「神憑りになった人」とは絶対に呼びたくないし呼ばせたくないと、今の私は思っている。
 私が中山みきという人を尊敬しているのは、彼女が「天啓者」だったからでも「神の代理人」だったからでもない。彼女の言葉と行ないが、立派だったからである。彼女がもし「神そのもの」だったとしても、差別や戦争を肯定するような教えを説いていたとしたなら、私は「バチが当たって死ぬ」ことになろうとどうなろうと、自分の存在を賭けてそれに逆らい続ける以外にない。けれども彼女は「人間がたすけあって生きること」を教え、自らその通りに生きた人だったのだ。「正しい人間の生き方」というものはそこにしか存在しないと思うから、私はそれを大切にしたいと思っているのである。

 同様に、私が今ある天理教という宗教のありようを「間違っている」と感じるのは、一部の人が主張しているような「天啓者が正しく継承されていないから」といった類の理由からではない。正しいことというのは誰が言っても正しいことなのであって、「誰それの言ったことだから」それを正しいと認めろと人に迫ったりするようなことは、人に差別を教えること以外の何ものでもないと私は思う。中山みきという人は、すべての人間は「神の子ども」であると教えた上で、「親である神」はすべての子どもの「心の成人」を待ちかねている、と説いたのだ。それにも関わらずいつまで経っても自分たちのことを教え導いてくれる「新たな天啓者」の登場を待ち続けている人たちというのは、「成人する気」がまるでないことを居直っているのでなくて、何だろう。そうした意味において今ある天理教という宗教は、中山みきという人の思いや生きざまを全然「大切にしている」ように思えないから、わたしはこれを認める気持ちになれない。それだけのことなのである。

 飯降伊蔵という人は、そのてん、「お道」の歴史の中で中山みきという人の思いを他の誰よりも大切にし続けていた人だったと私は思っているし、その言葉からは引き続き多くのことを学ばせてもらいたいと思っている。しかしながら伊蔵さんに「天啓」が「聞こえる」ようになったのは、飽くまで伊蔵さんが中山みきという人の教えに触れ、その教えについて起きている時も寝ている時もひたすら思案し続けたその結果に他ならないのであって、みきさんのように「紋形(もんかた)ないところから」神の教えというものを人に説くようになった人では、伊蔵さんはない。その事情は飯田さんの場合でも大西さんの場合でも同じだったはずなのであって、言うなればこうした人たちは「みきさんのこと」をひたすら考え続けていたことの結果、みきさん本人が自分のそばにいなくても「みきさんの声」が聞こえてくるぐらいに「精進した」人たちだったのだろうな、と私は思っている。

 それはそれで疑いなく「立派なこと」だと思うし、またそうしたことは程度の差こそあれ、誰もが自分の人生の中で多かれ少なかれ経験してきていることだと思う。私自身、今ではもう死んでしまった自分にとって大切な人が、今でも自分のそばにいて何かあるごとに大切なことを語りかけてくれているような気持ちになることは、日常的にある。けれども中山みきという人自身が「ひたすら考え続けていたこと」は、「自分のこと」ではなく「自分の課題」についてだったわけであり、その耳(心?)に聞こえていた「声」も、当然「自分の声」ではなく「それとは別の声」だったはずだと思う。彼女のことを本当に知りたいと思うなら、そこについて考えることが必要になってくるのではないだろうか。


 中山みきという人がその後半生において、「神性」としか呼びようのないものを実際に身にまとうに至ったのは、決して「立教」と呼ばれる「不条理な出来事」によってある日突然そうなったということではなく、彼女自身が幼い時から41歳という年齢に至るまで心の内側で営々と積み重ねてきた思想的格闘の「精華」であったのだと思っているということを、私は以前に書いた。それでは何をめぐって彼女は「格闘」していたのだろうかということを考えたなら、それは「人間はどうしてたすけあって生きることができないのか」というその一点に尽きていたのではないかと思う。このことは後年の彼女の言葉と行ないのすべてから、そのように判断しうることだと思っている。

 そしてその問題意識の上に立って、最初は浄土宗の教えに学び、後には真言宗の教えに学び、彼女が最後にたどりついたのが、神や仏による「救済」を待ち望むのではなく、人間が人間の身のままで最も多くの人々を救済した存在として仏教説話の中で語り伝えられている「転輪聖王」のような存在に「自分がなる」という、「南無転輪王」(なむてんりんおう)の思想だったのではないかと私は考えている。

 本当ならば今回の記事ではそのことについて集中的に論述させてもらいたいと考えていたのだったが、「天啓とは何だったのか」という問題について今の段階で考える機会を作っておく方が順番としては先だろうと思ったもので、今回はそれを優先させてもらった。いずれにしても、「立教」とは何だったのかをめぐる考察は今回でようやく一段落である。次回以降は、「神としての新たな人生」を開始した中山みきという人が、その「南無転輪王」の思想をどのように自分の生き方に組み込んでいったのかということを、改めて史実に即した形で、検証してゆくことにしてみたい。というわけでこのnoteはまだまだ続きます。




(私論.私見)