某氏の「立教」再考その2、中野市兵衛論

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年10.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「某氏の「立教」再考その2、中野市兵衛論」を確認しておく。れんだいこの「天理教研究」とどうハ-モニ-し、あるいは齟齬しているのかを確認する。れんだいこの「総合的中山みき論」は「別章【中山みき論」に記す。

 2025(栄和7)年10.25日 れんだいこ拝


 「「まんが おやさま」を読み直す 12/48 「立教」その1 中山秀司のこと 中野市兵衛のこと」。
 今回のエピソードの中でもう一人、取りあげておかねばならないと思うのは、「火のついた蝋燭を顔面に固着させる修行」の絵面が幼稚園児だった私に強烈なインパクトを刻み込んだ、山伏の中野市兵衛という人物である。この人はれっきとした実在の人物で、阿闍梨(あじゃり)権大僧都(ごんだいそうず)理性院聖誉明賢(りせいいんしょうよめいけん)といういかめしい法名を持った、真言宗の僧侶だった。天理教本部からほど近いところにある石上神宮(いそのかみじんぐう)の南側に、かつてはその神宮寺として内山永久寺という巨大な寺院が存在していたのだが、明賢こと市兵衛氏はこの寺で、大峯山の十二先達の一人に数えられる名僧として知られていたということが伝えられている。

 内山永久寺という寺は、中山みきという人が「生き神様」として近在に名前を知られつつあった正にその時期に、廃仏毀釈運動によって完全に破壊され、今では跡形も残っていない。「幻の大寺」と呼ばれるこの寺が、時代の激動の中でどのように消滅させられていったかをめぐる顛末は、彼女と同時代に近在で起こった大事件のひとつとして、いずれ詳しく触れないわけには行かないだろうと思っている。


 庄屋敷村から東に二里、今でも国道から大きく外れ、ケータイの電波も入らないようなところをずいぶん走らないとたどり着けない山奥に長滝村はあるのだが、市兵衛氏はこの村の庄屋をつとめていた人で、自宅の一角に道場をつくり、自分を訪ねてくる心ある求道者の人々に、仏法を教えていたのだという。中山みきという人もこの市兵衛氏のもとに49日間にわたって参籠していたという伝承が、天理教本部の記録に残されており、私はこの人こそが彼女の「師匠」にあたる人物だったのではないかと考えている。

 中山みきという人が若い時分に「五重相伝」まで受けてその奥義を知ろうとつとめていた浄土宗の教えは、救いのないこの世を「穢土」であると「あきらめた」ことの上で、阿弥陀如来による「来世での救済」に希望を託すことをその内容としていた。これに対して、空海が始めた密教=真言宗の教えは、生身の人間が現世において悟りを開き仏になることも充分可能なことであると説く「即身成仏」の教義をその核心としている。後年の彼女が、奈良盆地全域で圧倒的な教勢を誇っている浄土系の教えに対抗するかのように「ここはこの世の極楽や」と唱え、歌の文句にまでして人々に広めていた思想は、明らかに真言宗の影響をより強く受けた内容のものだったと見ることができるように思う。

 密教の教えに登場する「転輪王」(てんりんおう)という伝説的なインドの聖王の名前に彼女が初めて出会ったのは、あるいは人生のもっと早い段階のことであったかもしれない。彼女の生家にほど近いところにある長岳寺という寺も真言宗の寺院で、彼女の母親の家系が代々巫女をつとめていたという大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺にあたっていたことから、幼い頃から行き来はあったのではないかと想像される。けれどもその「転輪王」がどのような思想にもとづいて「世直し」を実現した人物だったか、仏典にもとづいて詳しく教えられる機会があったとすれば、それは市兵衛のもとでのことでしかありえなかったのではないかと思う。そして彼女は市兵衛から、当時内山永久寺に秘蔵されていたという「転輪王曼荼羅」、別名「一字金輪曼荼羅」を、実際に見せてもらったことがあったのではないかと想像される。

 下の写真は天理から車で1時間ぐらいのところにある壺阪寺で保存されてきた「一字金輪曼荼羅」なのだが、そこには中山みきという人が後年人々に教えた「かんろだいを囲んでのかぐらづとめ」と寸分たがわぬイメージが具象化されていることが、天理教のことを知っている人には一目瞭然なのではないかと思う。そんな風に、彼女が説いた教えの「教理」と呼ぶべきものは、「立教」以前の段階から既に彼女の内側では相当な部分まで完成していた、というのが私の見方である。だが、今の段階でその内容の詳細にまで踏み込んで考察することは、とてもできないように思う。まずは話の筋を追いかけることを優先させたい。というわけで次回に続きます。


 「「まんが おやさま」を読み直す 12/48 「立教」その1 中山秀司のこと 中野市兵衛のこと」。
中山みきという人の伝記を書くにあたって最も謎に包まれた部分である「立教」と呼ばれる出来事が「何」であったのかを考察●●する作業に、今回からは入って行くことになる。本当ならば「検証」と書きたいところなのだが、「検証」をやれるほどの材料、すなわち何が史実であったかを客観的に証明できるような資料が余りにも不足しているため、今の私にやれることは「考察」がせいぜいであることを、あらかじめお断りしておきたい。もっと正直なところを書かせてもらうなら、私自身はこの問題について、いまだ「自分の答え」を持っていない。しかし何らかの「答え」を出すことを抜きにして、彼女の伝記を書くことなど永遠に不可能であることは言を俟たない。なのでとりあえず「書くことを通じて答えを出す」以外にないのだろうなと、今は思っているのだけれど、それがどう転ぶことになるのかは、私自身にも分かっていない。

天理教の歴史においては、この「立教」、すなわち中山みきという人に「神憑かみがかり」が起こったとされている一連の出来事こそが「すべての始まり」をなしているわけであり、「稿本教祖伝」の冒頭部分に描き出されたその一部始終とされる事実関係は、「まんが おやさま」においても「教祖絵伝」においても、それぞれ4回分を使って緻密に「再現」されている。初めて読む人は、「天理教という宗教はこんな風にして始まったのか」と、恐らくは新鮮な驚きを感じるのではないかと思う。

けれども、先回りして書いておくならば、私はこれから始まるマンガのような形で伝えられてきた「立教」にまつわる伝承というものは、「作り込まれたフィクション」にすぎないと考えている。そしてこのとき実際に彼女の身に起こったことが「どんなこと」であったとしても、それを「神憑り」という言葉で表現することは彼女の人格を否定する行為であり、引いては私やあなたや彼女をも引っくるめた人間という存在が人間として生まれ人間として生きていこうとしていることそれ自体を冒涜する行為に他ならないという「意見」を持っている。天理教という宗教が教えるところによるならば、彼女はこの「立教」と呼ばれる出来事以降、「神」という「他者」によって自分の人格を支配され、以降は自分の意思というものを持たない「スピーカー」のような存在としてその生涯を終えたという話にしかなりようがないわけなのだが、私は中山みきという人が自らを「神」であると宣言しつつ初めて本当に「自分の意思」で生きることを開始した結節点こそが、「立教」の日とされる天保9年の旧暦10月26日だったと理解している。以下になされる考察はそうした視点から展開されるものであることをまず明らかにさせてもらった上で、「まんが おやさま」を読み直す回では「立教」をめぐる「史実」とされている出来事の事実関係を4回にわたって詳しく捉え返し、それから「教祖絵伝」で同じ物語をもう一度たどり直しつつ、私自身の見解を同じく4回にわたって述べさせてもらうという叙述の形式をとってゆくことにしたい。果たして広げた風呂敷を畳み切れるものなのかどうか、私自身にも非常に心もとないところではあるのだけれど。

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さて今回の「まんが おやさま」では、中山みきという人の長男にあたる秀司という人物が、初めて具体的な個性を備えた存在として登場してくる。彼女の伝記を書くにあたっては「準主人公」として、あるいは「もうひとりの主人公」としての役割を引き受けてもらわざるを得ないぐらいに、重要な人物である。天理教の歴史の中では実に様々な人々がこの人を「いい人」として描き出そうと努力してきたし、このマンガにおいてもその努力は踏襲されているのだが、その人たちの熱い信仰心をもってしても隠しようがないぐらいに、この人は客観的に見て、親の意見、すなわち中山みきという人の気持ちに、逆らうことばかり繰り返して一生を送った人だった。そのことは基本的に「天理教の立場」に立って描かれているこのマンガを読み進めて行くだけでも、多くの皆さんに実感されるところであろうと思う。それにも関わらず天理教の人たちが、この秀司という人を「いい人だった」と「評価」し続けざるを得ないのは、中山みきという人の思いに逆らってこの秀司という人が「教会組織」を作ろうという構想を持つことがなかったならば、今の天理教という巨大組織の存在は初めからありえなかった、という自らのアイデンティティに関わる問題が存在しているからなのだろう。天理教という宗教は、そんな風に自らの歴史の始まりの時点から、大きな矛盾を抱えた人間集団としてあり続けている。もっともそのことはあらゆる人間の集団に普遍的に見られるところの特徴であって、天理教だけが特別視されねばならない理由はないかもしれないのだけれど。

私自身は秀司という人が「いい人」だったとは全然思っていないのだが、だからと言って「悪い人」だったとも思っていない。そもそも人間のやることというのは「いいこと」であれ「悪いこと」であれ全部「自分に返ってくること」なのであって、「裁かれるような悪」や「罰に値するような罪」は人間には存在しない、というのが中山みきという人の思想だったと私は理解している。彼氏が彼女の思いに反する行動ばかりとっていたからといって、中山秀司という人を「断罪」するようなことを書いたとしても、それはそれで中山みきという人が教えた生き方とは、かけ離れた行動になってしまうように思われる。だから私は、少なくともこのnoteでそういうことはしないつもりでいる。

しかしながら秀司という人は、「陽気ぐらし」というものがどういうものであるかということを、恐らく一生知ることなく終わった人であると思う。同時に自分自身が「この世に生まれてきてよかった」という気持ちや、そこからしか生まれてこない「産んでくれた親への感謝」といった気持ちも、一生知ることなく終わった人だったのではないかと私は思っている。それは中山秀司という人にとっての「悲劇」であった一方で、中山みきという人にとっても間違いなく「悲劇」に他ならなかったはずなのである。このことが、と言うよりこの関係が、中山みきという人の一生を、引いては中山秀司という人の一生を、こんな言い方しか浮かばないのも何なのだけど、文学的なものにしていると私は感じる。

人間は誰でも、自分がこの世に生まれてきたことを「よかった」と心から思っていいように「つくられている」存在なのだ、という「確信」が、中山みきという人の思想的出発点をなしていたと私は思っている。「思えるようになりたい」でもなく「思えるようにしてあげたい」でもなく、思えるように「できている」というのが、彼女がその半生をかけて掴みとった「真理」の核心だったに違いない、というのが私の理解である。彼女はこの確信の根拠を、繰り返し「人間の親が子どもを思う気持ち」に求めている。「我思う故に我あり」という言葉を残したデカルトが疑おうとして疑いきれなかったのは「疑っている自分の存在」に他ならなかったわけだが、それと同様にともすれば「何も信じることができない」ように思われるこの世界にあって、中山みきという人が「疑いえないもの」として最後にたどり着いた「この世界を肯定できる根拠」こそが、「自分の中の親心」だったのではないかと思う。その「自らの親心」を出発点に、「この世をつくった神というものがあるならば、その思いは人間の親が子どもに対して抱くのと同じ、たすけたい一条の親心であるに違いない」という「確信」が導き出され、そこから彼女は自らの思想体系のすべてを築きあげていった、と見ることができる。後年の彼女が「神性」としか呼びようのないものを実際に身にまとうに至ったのは、決して「立教」と呼ばれる「不条理な出来事」によってある日突然そうなったということではなく、彼女自身が幼い時から41歳という年齢に至るまで心の内側で営々と積み重ねてきた、そうした思想的格闘の「精華」であったのだと私は思いたい。だから彼女の通った人生の「ひながた」は、決して「神に選ばれた特別な人間」にしか通ることが許されていないようなものではなく、誰もが学び誰もが通ることが可能な道として、万人の前に開かれ続けているのである。そして彼女の示した「親心」は、その在世時から現在に至るまで数え切れない人々を心の悩みの淵から救いあげ、今もなお多くの人々にとって、自分(たち)の生き方を支える心の拠り所としてあり続けている。

けれども、冷厳な史実として、中山みきという人がそんな風に自分の人生の全てを注ぎ込んで育み続けていたはずの彼女自身の「親心」は、自分が最初に育てた子どもである秀司という人物の心には、最後まで届くことがなかったわけなのである。このことは彼女にとって「思想的敗北」に等しいことだったと思うし、客観的に突き放したことを言うなら、彼女の人生はその時点で「失敗」だったと言われても、反発することのできない帰結であったことだろう。それにも関わらず、彼女は最後の瞬間まで、自分が正しいと信じる「親心」の限りを尽くして、秀司という人物と向き合い続けた。私はこのことを、偉大なことだったと思っている。「おかきさげ」の言葉を借りるなら、

互い扶け合いというは、これは諭す理
人を救ける心は真の誠一つの理

なのであって、人をたすけようと思う人間は、相手が「たすけあおうとしない」からといってこれを責めるような気持ちを持ってはいけない、と言うか「持たない」はずなのだ、というのが中山みきという人の掲げた「信念」だった。相手に「たすけあうことがよろこびである」ということを「わかってもらいたい」と思うなら、自分自身がひたすら「この人にたすかってほしい」という気持ち「だけ」を持って相手と向き合い続けるしかない、というのが彼女が生涯にわたって実践した生き方であり、そのことによって「たすかった」人々は事実無数に存在したわけだが、彼女がその生涯で一番長い時間をかけて向き合った秀司という自分の息子の心は、最後まで「たすかる」ことがなかったわけなのだ。

なさけないとのよにしやんしたとても
人をたすける心ないので

情けない どのように思案したとても
人をたすける心ないので

「おふでさき」12-90

にち/\に神のむねにハたん/\と
ほこりいゝばいつもりあれども

日々に神の胸には段々と
埃いっぱい積もりあれども

「おふでさき」13-21

中山みきという人はその後半生において、どう見てもその「信念」に反していると思われる上記のような「弱音」を、「おふでさき」の中に吐露している。そして人々に対し、「心のほこりを払って、澄み切った心で人だすけに生きろ」と教えている「神」であるところの自分自身の胸にも、「ほこり」はたまるものなのだ、という事実を率直に認めている。この「自己批判する神」という概念は、神の完全さを讃えることを自らのアイデンティティとしている他のどのような宗教にも見出すことのできないものであり、中山みきという人の思想を特徴づける最大のキーワードのひとつであると私は考えているのだが、そのことについて詳述することは別の機会に回そう。重要なのは、中山みきという人に秀司という人の心を「たすける」ことができなかったことは、そんな風に彼女自身にも「挫折」として意識されていたことだったという事実であり、この「失敗」は彼女の生き方を「ひながた」として生きようとしている「ようぼく」の一人一人にとっても、「自分の失敗」として引き受けられねばならない問題であり続けている、ということだと思う。彼女の思想と生き方を引き継ごうとする人々には、彼女がその生涯をかけても「答え」を出すことができなかった問題に自分たち自身の手で「答え」を出すことが、「宿題」として課せられているわけである。私はそのことに「答え」を出したいと思っているし、そのためには中山みきという人の「本当の伝記」を完成させることがどうしても欠かせないという気持ちからこのnoteを書き始めたのだということを、読者の皆さんには改めて明らかにしておきたい。

一方で、秀司という人のみきという人に対する感情には、ほとんど憎しみに近いものがあったのではないかと私は思っているのだが、この人の中にも「親を思う気持ち」はこの人なりの形で存在していたに違いないということまで、否定しようとは思わない。人生のそれぞれの局面において、秀司という人には秀司という人なりの立場や言い分というものが、間違いなく存在したのだろうと思う。場合によっては秀司の主張の方が正しくて、みきの主張の方が間違っていたようなケースも、あっておかしくなかったはずだろう。「同じ人間」のやることだ、と私は思っている。けれども「どっちの気持ちもわかる」みたいな無責任なことを言いたがる人間が、実際に「両方の味方」であり続けることができたためしなど、世の中にはないのである。中山みきという人が終生「自分の意思」で通り続けたのは「最も険しく困難な道」に他ならなかったわけだが、秀司という人が何度も訪れた自分の人生の岐路においてそのつど選択してきたのは、最後まで「自分にとって一番ラクそうな道」でしかなかった。史実を客観的に見て、私はそう判断している。その「両方の気持ち」がわかると主張していい権利を持った人は、自分自身もまた「最も険しく困難な道」を選択した人に限られていると言わねばならないだろう。ラクそうな道しか選ばなかった人間が「しんどい道を選んだ人の気持ちも分かる」と言ってみせたところで、そんなのは「ウソ」でしかありえないのである。中山みきという人の生き方を「ひながた」にすると心に決めた人は、秀司という人と向き合うにあたっても飽くまで「中山みきという人の立場から」向き合うのでなければならないというのが、最低の「原則」であると思う。「秀司の気持ちの方がよくわかる」とか、「秀司はみきの被害者だ」とか言いたがる人々が、とかく天理教という宗教の中には多いのだが、あえてクールな言葉を使うなら、そういう人たちは秀司の信者になればいいのだと私は思っている。そして、結果としては悲劇的としか言いようのない生涯を送った秀司という人の人生が、どこでどうすれば「救われて」いたのだろうかということを本気で考えたことのないような人は、恐らく口で言うほど秀司という人のことを真面目に考えてなど、いないのだろうと思っている。

ちなみに、「まんが おやさま」のこの回では、中山みきという人に「神憑り」が起こる直接のきっかけとなった出来事として伝えられている「秀司の足痛」のエピソードが描かれているわけだが、「神様が足の痛みをたすけてくれた」ということが現在でも漠然と語られ続けているものの、この人の足の病気は、史実としては死ぬまで直らなかった。「膝に額がつきそうになる」ぐらい重い「障害」が終生残っていたということが、伝えられている。

その病気が「どんな病気」であったのかということについて、天理教関係の書店に行くと一番目立つところにその著作が並んでいるような高名な研究者の方が、オフレコで語っておられた話の記録を某所で見せてもらったことがあるのだけれど、当時において「横根よこね」と呼ばれた、鼠径部のリンパ節が腫れあがる症状だったのではないかと推測されているらしい。どういう病気にかかるとそうした症状が出るのか、という問いに対し、その研究者の方は「淋病か梅毒。昔の人は遊んだから」と、こともなげに答えておられた。秀司という人は若い頃には周囲から「ヨバイボシ」と呼ばれていたのだそうで、「ヨバイボシ」という言葉それ自体は昔の大和の方言では「流星」を指す言葉であり、その限りにおいては「男前なニックネーム」だという感じもしないでもないのだが、このアダ名の意味するところは、やはり文字通りに解釈するしかないことだろう。つまりは、秀司という人が17歳という年齢の時点から「そういう行為」を重ねたり「そういう場所」に出入りしたりといったことを繰り返した挙句、性病をもらって帰ってきたという、どう頑張っても美化して描き出すことのできないような「事件」が、天理教という宗教の出発点には存在していた、ということである。

私は何も、秀司という人をおとしめる目的を持って、こういうことを書いているわけではない。性病にかかった人間に「幸せになっていけない理由」があっていいはずなどないのだし、性病にかかったことが「生き方を改めるきっかけ」となって、それからの人生を立派に過ごした人だって、世の中にはいくらでもいるに違いない。今と違って「夜這い」など昔は「当たり前のこと」で、村祭りの後などには父親不明の子どもがあちこちにできるのだけど、とりあえずはみんな「ムラの子ども」だからということで全体で面倒を見ていた、というぐらいに当時は「おおらかな時代」だったのだということも、伝え聞いている。他人の性をカネでもって「買う」ということは、今であろうと昔であろうと差別であり、相手の心身に一生消えない傷を与える行為として普遍的に批判されねばならないことだと思っているけれど、それだって「反省」して自分の行ないを改めることさえできれば、それ以上のことは必要ないはずなのである。前回のnoteでも書かせてもらったように、人間には「間違いを犯す権利」だって存在しているということを、私は「大切なこと」だと思っている。いずれにしても、史実がそうだったということであるならば、全ての話はそこからしか始まらない。そのことの上で、秀司という人が人生のこんなに早い段階から「そういうこと」を繰り返して「遊んで」いた少年であったとするならば、みきや夫の善兵衛にとって相当「手のかかる子ども」だったのではないかということが想像されるのも、致し方のないところであるだろう。

しかしながら、マンガの中では「医者を志す真面目な少年」として清々しく読者の前に登場してきた秀司という人の生き方に、今の段階で先回りしてあれこれケチをつけるようなことをするのは、あんまりフェアなことではないように感じられる。伝承の中で語られている秀司という人の事蹟と、史料から浮かび上がってくるこの人の実際の姿とがどんな風に食い違っているかに関する検証は、これからの物語の進展に合わせてそのつど行なってゆく形をとりたいと思う。

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今回のエピソードの中でもう一人、取りあげておかねばならないと思うのは、「火のついた蝋燭を顔面に固着させる修行」の絵面が幼稚園児だった私に強烈なインパクトを刻み込んだ、山伏の中野市兵衛という人物である。この人はれっきとした実在の人物で、阿闍梨あじゃり権大僧都ごんだいそうず理性院聖誉明賢りせいいんしょうよみょうけんといういかめしい法名を持った、真言宗の僧侶だった。天理教本部からほど近いところにある石上神宮いそのかみじんぐうの南側に、かつてはその神宮寺として内山永久寺という巨大な寺院が存在していたのだが、明賢こと市兵衛氏はこの寺で、大峯山の十二先達の一人に数えられる名僧として知られていたということが伝えられている。内山永久寺という寺は、中山みきという人が「生き神様」として近在に名前を知られつつあった正にその時期に、廃仏毀釈運動によって完全に破壊され、今では跡形も残っていない。「幻の大寺」と呼ばれるこの寺が、時代の激動の中でどのように消滅させられていったかをめぐる顛末は、彼女と同時代に近在で起こった大事件のひとつとして、いずれ詳しく触れないわけには行かないだろうと思っている。

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庄屋敷村から東に二里、今でも国道から大きく外れ、ケータイの電波も入らないようなところをずいぶん走らないとたどり着けない山奥に長滝村はあるのだが、市兵衛氏はこの村の庄屋をつとめていた人で、自宅の一角に道場をつくり、自分を訪ねてくる心ある求道者の人々に、仏法を教えていたのだという。中山みきという人もこの市兵衛氏のもとに49日間にわたって参籠していたという伝承が、天理教本部の記録に残されており、私はこの人こそが彼女の「師匠」にあたる人物だったのではないかと考えている。

中山みきという人が若い時分に「五重相伝」まで受けてその奥義を知ろうとつとめていた浄土宗の教えは、救いのないこの世を「穢土」であると「あきらめた」ことの上で、阿弥陀如来による「来世での救済」に希望を託すことをその内容としていた。これに対して、空海が始めた密教=真言宗の教えは、生身の人間が現世において悟りを開き仏になることも充分可能なことであると説く「即身成仏」の教義をその核心としている。後年の彼女が、奈良盆地全域で圧倒的な教勢を誇っている浄土系の教えに対抗するかのように「ここはこの世の極楽や」と唱え、歌の文句にまでして人々に広めていた思想は、明らかに真言宗の影響をより強く受けた内容のものだったと見ることができるように思う。

密教の教えに登場する転輪王てんりんおうという伝説的なインドの聖王の名前に彼女が初めて出会ったのは、あるいは人生のもっと早い段階のことであったかもしれない。彼女の生家にほど近いところにある長岳寺という寺も真言宗の寺院で、彼女の母親の家系が代々巫女をつとめていたという大和神社おおやまとじんじゃの神宮寺にあたっていたことから、幼い頃から行き来はあったのではないかと想像される。けれどもその「転輪王」がどのような思想にもとづいて「世直し」を実現した人物だったか、仏典にもとづいて詳しく教えられる機会があったとすれば、それは市兵衛のもとでのことでしかありえなかったのではないかと思う。そして彼女は市兵衛から、当時内山永久寺に秘蔵されていたという「転輪王曼荼羅」、別名「一字金輪曼荼羅」を、実際に見せてもらったことがあったのではないかと想像される。下の写真は天理から車で1時間ぐらいのところにある壺阪寺で保存されてきた「一字金輪曼荼羅」なのだが、そこには中山みきという人が後年人々に教えた「かんろだいを囲んでのかぐらづとめ」と寸分たがわぬイメージが具象化されていることが、天理教のことを知っている人には一目瞭然なのではないかと思う。そんな風に、彼女が説いた教えの「教理」と呼ぶべきものは、「立教」以前の段階から既に彼女の内側では相当な部分まで完成していた、というのが私の見方である。

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だが、今の段階でその内容の詳細にまで踏み込んで考察することは、とてもできないように思う。まずは話の筋を追いかけることを優先させたい。というわけで次回に続きます。


 「「まんが おやさま」を読み直す 13/48 「立教」その2 「寄加持」は本当にあったのか」。
 「このあと、いったい何が起こるのか!?」という欄外のアオリの文字に、読んだ当時幼稚園児だった私がどれだけ心臓をドキドキさせたかは遠い記憶の彼方の出来事なのだが、オトナになった今の私は、そもそもこの「寄加持」というのは「本当にあったこと」なのだろうかということから、検証し直してみなければならない必要を感じている。

それというのも、前回「石上明神の洗い場の石を踏んだタタリ」云々というセリフが出てきた時点で言及しておくべき話だったのだが、実際に長滝村で聞き取り調査を行なったところ、中野市兵衛という人は「神降ろし」のような「いかがわしい祈祷」は行なっていなかったという証言が、関係者の方からは寄せられているらしいのである。

ただ、「いかがわしい祈祷」というのが関係者の方の直接の表現なのか、調査をした人の「翻訳」の入った表現なのかは分からないのだけれど、ちょっと見過ごせない言い方だな、と引っかかる感じが私はする。この表現には、「神降ろし」のようなことを実際に職業にしている人々に対する、発話者の差別意識が見て取れるからである。それをそのまま引用することは、「差別を流布する行為」に加担することにしかならない。だから私としては本題に入る前に、「いかがわしい」という言い方はいかがなものなのか、ということについて、「あらゆる差別を許さない」という立場から、自分の見解を述べておく必要があるように思う。

「神降ろし」や「口寄せ」といった伝統的民間呪術を職業としている人々、またその家、その村を、結婚差別や就職差別の対象とする「慣習」が、実際に奈良県にはあったし、全国各地にも様々な形で存在してきた。天理大学教授の池田士郎氏が2007年に発刊された「中山みきの足跡と群像」という本には、みきが中山家に嫁入りする前年の1809年(文化2年)に近隣地域で起こった「「梓巫女并陰陽方尋一件」あずさみこならびにおんみょうがたたずねいっけん」と呼ばれる村方騒動の事例が紹介されている。庄屋敷村のほど近くには、死者や神々の「口寄せ」を稼業としている「巫女村」が昔からあったのだとのことで、周辺の村からは「筋目違い」として様々な差別を受けていたのだという。幕末に至り、この差別を苦痛と感じてきた村の人々の中からは、徐々に「巫女業」を廃業する動きも出てきたのだが、一方では先祖伝来のその仕事を誇りを持って継続しようとする家も存在した。「そんなことを続けていたらいつまでも差別される」と主張する人々と、「先祖への不孝はできないし、仕事を変えたとしても村への差別は簡単になくなるものではない」と主張する人々とが対立し、ついには「廃業派」がその「強制執行」を求めて領主の役所に訴えるという「騒動」にまで、事態は発展したのだという。

あらゆる差別は、差別する側の人間たちの心のありように問題があることなのであって、差別される側の人々同士がこのような形で互いに争わさせられなければならなかったということは、全く不当なことだったと私は思う。そのことの上で、周辺の村の人間たちはそうした「神降ろし」や「口寄せ」を稼業とする人々の存在を、一方では差別の対象としながら一方では「必要」とし続けてきたからこそ、「巫女村」というものは「あった」のだということを、見ておかなければならないと思う。その人たちの取り次ぐ「神」の言葉や「死者」の言葉によって、実際に病気の不安をやわらげてもらったり、身内を突然うしなった心の苦しみから救われたりといった経験をしてきた人が無数に存在してきたからこそ、「巫女村」は「巫女村」としてあり続けてきたのであって、そのこと自体は笑っていいことでも否定されていいことでも決してないと、私は思っている。

たすけでもをかみきとふでいくてなし
うかがいたてゝいくでなけれど

助けでも拝み祈祷で行くでなし
伺い立てて行くでなけれど

おふでさき 3-45

このよふにかまいつきものばけものも
かならすあるとさらにをもふな

この世ぉに 構い 憑き物 化け物も
必ずあると さらに思うな

おふでさき14-16

中山みきという人はこのような形で、それまでの社会に偏在していた「迷信」一般をハッキリと否定し、極めて合理主義的な教えを説いていた人ではあるのだが、いわゆる「迷信」を「排撃」するようなことは、私の知る限り、一度もやっていない。信仰者の数や、信仰している人々の社会的階層の共通性から、時々天理教の「ライバル」的な存在と見なされることのある日蓮宗系の宗教団体などは、他の宗派や宗教に対する「折伏しゃくぶく」と呼ばれる排撃行為を通して教勢を拡大してきた歴史を有しているわけだが、中山みきという人はそういうことを一切やっていないし、その姿勢は現在の天理教団にもある程度は継承されていると思う。例えば教団が自前の政治組織を立ち上げて、違う思想を持った人々と選挙で争う、みたいな発想を全く持っていないところにも、その特徴が表れていると言えるだろう。中山みきという人は、自分と意見の違う者の存在を、「力」によってはもとより、「言葉」によっても決して、「否定」することをしなかった。このことは、彼女の思想に学ぼうとする人間が踏まえておくべき重要な「ひながた」であると私は思っている。

庄屋敷村近辺の「巫女村」で「巫女業廃業」の運動を起こした人々が掲げた主張には、自分たちが「狐寄せ」のような「異法」を行なう存在と同一視されてはたまらない、という内容も含まれていたということが、記録には残っているという。「狐憑き」などの「憑き物筋」とされた人々は、周囲から差別を受ける階層の人々の間でも二重·三重の厳しい差別にさらされていたのだという当時の事情が、この史料からは伝わってくる。ところが「普通の農村主婦」として40歳まで暮らしてきた中山みきという人は…「普通」というのもあまり簡単に使いたい言葉ではないのだが…、ある日突然「神」を説き始めたりしたら自分もそれと同じ差別の視線にさらされることになるのだということを、こうした身近な例からも充分に「わかって」いたことの上で、あえてそれを「やった」人なのである。

もちろん彼女の説いた教えは、「神降ろし」とも「口寄せ」とも、違うのだ。彼女の言葉に真面目に耳を傾けさえすれば、そのことは誰にでも理解できるに違いない。けれども真面目に聞く気のない人々にとっては、そんなのはどこまで行っても「似たようなもの」にしか思えないに決まっているのである。生前の彼女は周辺地域の人々から相当に「狐憑き」呼ばわりされたらしいことが伝わっているし、彼女が死んでからもそのことは相当長い間、変わらなかった。明治26年に出版された「弁斥天理教」という天理教に対する攻撃文書には、

明治20年正月25日、大和国の東山中で一匹の老狐が鉄砲で仕留められ、妖婆中山ミキはそれと同時刻に大和郡山で絶命した。教会員たちはその死体を密かに三島村に持ち帰り、病死のていに捏造して葬祭を実施したのだが、この顛末を見るに、ミキは果たして狐狸を使っていたのだろうか、それとも狐狸に使われていたのだろうか。

…といったようなメチャメチャなことが、見てきたような調子で延々と綴られているのだが、こういう話をそのまま信じ込んで天理教を排撃するような人たちが、当時の日本にはまだまだ大勢いたのである。もっともネットのデマに踊らされて簡単に見ず知らずの他人を攻撃する人々が量産されている昨今の現状からかんがみるに、それから150年経っても人間の心のありようというのは丸っきり「進歩」していないように思われて私はならないのだけど、中山みきという人はもとより、彼女にとっては家族に等しい存在だった初期の信者の人々も、当時においてはこうした排撃に日常的にさらされていたのだという事実を、忘れてはならないと思う。「普通」の人ならば、「自分(たち)はそういうのとは違うのだ」とムキになって否定したくなるところだと思うのだが、中山みきという人は決してそういうことをしなかった。人間が人間を差別する時に、必ずその意識の底流に横たわっている「他者を否定することを通して自分が何ものかであることを確認しようとする心理構造」というものを、彼女は全く持ち合わせていなかったか、それとも極めて注意深く意識的にそれを遠ざけようとしていたかの、どちらかでしかありえなかったはずだと私は思う。

明治政府は1873年(明治6年)1月に「梓巫市子あずさみこいちこならびに憑祈祷孤下ケ等ノつきぎとうきつねさげとうの所業禁止ノ件しょぎょうきんしのけん」という「たっし」を教部省から発しており、それと前後して出された奈良県の布達によって、庄屋敷村近辺に存在したという「巫女村」は、公式にはその歴史を絶たれることになった、という内容のことが、前掲書には記載されていた。こうした動きは、近代国家を指向した明治政府が「民衆を迷信から解放しようとした取り組み」として、合理主義的な立場をとる研究者からは、肯定的に評価されているケースも少なくない。けれども、明治政府がそのような形で民間信仰一般の禁圧に乗り出したことの目的がどこにあったのかということを考えたなら、それまでの時代の人々が「心の拠り所」としてきたところの様々な宗教的背景を持った「共同体のあり方」を解体し、諸個人をバラバラな「近代的個人」へと還元した上で、天皇制軍国主義の一神教的秩序のもとに再包摂する、という「戦略」の一環としてこのような諸政策があったのだということは、歴然としているわけである。その結果、「天皇のために死ぬこと」を自らの誇りとし、「そのために人を殺すこと」を自らの使命であると確信する、全く新しいタイプの「国民」が僅か数十年の間に大量に形成されて、そのことを条件に日本という国家は対外的侵略と帝国主義的膨張の道を突き進んでゆくことになるわけなのだが、このことは結局「それまで人々を支配していた迷信」が「より強固な別の迷信」によって置き換えられたというだけの話にすぎなかったのではないかと、私などには思えてならない。それどころか、「生き残って助かりたければ一人でも多くの敵を殺せ」みたいなことを間違っても要求されることがなかった分、「口寄せ」や「神降ろし」に人々が生き方の指針を求めていた時代の方がよっぽど「幸せ」だったのではないかと、思わずにいられなくなってくる。

20世紀の早い段階で社会主義革命を実現した旧ソ連や中国においては、同様な「迷信への排撃」が「科学」の名のもとに推進された一時期が存在したわけだが、そのことが人々を「幸せ」にしたかといえば、やはりしなかったのではないかということが、100年近い時間の経過した現在では、明らかになりつつある。そしてロシアでも中国でも、様々な形で存在してきた民間信仰は「根絶」されたどころか、21世紀に入って以降はいっそう「多様化」しつつあるということを、伝え聞いている。そのことが「いいこと」であるのか「悪いこと」であるのかは、私に決めつけられるようなことではない。ただ、「迷信」というものは文字通り「人の心を迷わせるもの」であるかもしれないが、それを暴力的に否定するような行為は必ず「人の心を傷つける結果」を引き起こすのだということを、そろそろ人間は学習し終えていい時期を迎えているのではないかとは、感じている。そもそも、「迷信」を「迷信」であるとして排撃するようなことは、何か別の観念…それが絶対的なものとして固定化されてしまったら、「天皇制」でも「科学」でも同じことだと思う…をそれ以上に深く「信じる」立場からしか不可能なことであるわけだが、他者の存在を暴力的に否定するような行為に手を染めてしまったら、その自分の拠って立つ観念自体が「迷信」に陥ってしまっていないかどうかを検証できる回路もまた、閉ざされてしまうことになるのである。

私が自分の恩師だと思っているある天理教の先生は、「蛍光灯を普及させるのにローソク撲滅運動をやる必要はない」というたとえを、よく使っておられた。教祖おやさまの教えを「なるほど」と納得することさえできれば、人間の心はその時点で丸ごと入れ替わるのだし、「間違った思い込み」はその時点で消えてしまう。1/3+1/3が2/3になるという「理」を理解した人は、その答えが「2/6」になるといったような「思い違い」は二度としなくなることだろう。だから教祖おやさまの教えを普及させるために、他人の「間違った思い込み」をことさらに批判したり攻撃したりすることには、意味がない。「お道に敵はない」のであると。私はこの考え方を、好きである。ちなみにこの先生はそうした信念にもとづき、天皇制軍国主義によって歪められた天理教の教えを中山みきの本来の教えへと復元させるための活動を「決して天理教本部を攻撃することなく」何十年にもわたって継続されていた方だったのだが、志半ばのまま、2014年に逝去された。中山みきという人の掲げた「世界だすけ」を実現することはおろか、天理教という一宗教団体のあり方を「変える」というだけのことさえ、この先生には結局なし得なかったわけではあるのだけれど、本当の意味で中山みきの「ひながた」を通るということはこういう生き方を貫くことなのだということを、私はこの先生の姿から学ばせてもらったように感じている。

席に順序一つの理は、生涯の理を諭す。
生涯の理を諭すには、よく聞き分け。
難しい事は一つも言わん。
どうせこうせこれは言わん、これは言えん。
言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという。

という、「おかきさげ」に示されているところの信条にもとづき、中山みきという人は自分のことを「梓巫女」でもなければ「狐憑き」でもないと、あえて主張するようなことは決してしなかった。そうした態度をとることによって彼女が示したのは、そうした名前で呼ばれている人々への「連帯」だったと私は思っている。同時に彼女は、そうした自らとは明らかに違った価値観のもとで「拝み祈祷」をやっている人たちに対し、「どうせこうせ」と「説教」するようなことも、またやっていない。こうした形で「言わん言えんの理」の原則を守り通すことを通して、他者を尊重しつつ、同時に自分を曲げることもなく、世の中に存在するあらゆる差別や争いの根拠を実践的に解体してしまうような生き方の「ひながた」を、彼女は人々に示し続けていたのである。このことは、人間の幸せは「互いに否定しあうこと」ではなく「互いにたすけあうこと」の中にしか存在しないという強い信念に支えられてこそ、可能となっていたに違いない。そんな風に中山みきという人が本当に大切にしていた生き方や他者との向き合い方は、彼女があえて言葉にしようとしなかった領域の中にこそ示されているものなのだということを、彼女のことを知ろうとしている人は、銘記しておく必要があると思う。

いずれにしても、彼女が生きた時代、「神降ろし」や「口寄せ」をしていた人々をはじめ、中山みきという人の周囲には本当に様々な信仰の形態が渦巻いていたわけであるにも関わらず、そういう信仰を「いかがわしい」という言葉で切って捨てることのできるような態度に出会ってしまうと、そうした人々への差別意識というものがいかに生々しいものとして今もなお残存し続けているものであるかという事実を改めて突きつけられたような気がして、私は背中がザワつくような感じを覚えてしまったわけだったのだが、そのことの上で中野市兵衛という人のやっていた祈祷は「いかがわしくなかった」というのであれば、それは一体「どういう祈祷」だったのだろうか。ここからがようやく今回の記事の本題である。

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写真はやや無関係ながら、奈良吉野山の「蛙飛び行事」。蛙に姿を変えられた男性が、山伏の法力で人間に戻されたという故事の様子が再現されている。山伏の人は術式の最後に、「正心に還れ!」と蛙を諭していた。

真言宗の坊さんというのは、護摩を焚いたり真言を唱えたりして「加持祈祷」ということをやるものだというイメージが、漠然と存在している。けれども改めて調べてみたところ、「加持」と「祈祷」というのは、それぞれ違った別々の概念であるらしい。空海は「即身成仏義」という文章の中で、「加持」という言葉を以下のように定義している。

加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく。

すなわち…みたいな簡単な言葉で要約してしまっていいものかどうか、正直心もとないところではあるのだけれど、「仏の側から人間に働きかける力」が「加」であり、「人間の側から仏を感じとろうとする力」が「持」であり、両者の力が働き合うその相互関係のことを「加持」と呼ぶ、と理解していいように思う。ちなみにここで空海は「仏」の存在を「太陽」にたとえ、それを映し出す「人間の心」の存在を「水」にたとえているわけだが、中山みきもそれと全く同じように「人の心」を「水」にたとえて自分の教えを説いている点は、注目しておくべきポイントだと言えるだろう。

それでは「仏」とは「何」なのかということについて、私はこのnoteを書き始めるまで、釈迦という人物がそう呼ばれているように、「人間が悟りを開くと仏になるのだ」という理解しか持っていなかったのだけれど、空海に言わせるならば釈迦のような存在は「応化身おうげしん」、すなわち「仏」という存在が自らの姿をあらわすために仮に人間の肉体をまとったものとして理解されるべきであるらしく、「仏」に「本体」と呼ぶべきものがあるとしたら、「釈迦の悟りを悟りとして成立させたこの世の真理そのもの」が「仏」なのであり、それ自体には形も色も存在していないのだという。その「仏本来のあり方」は「法身ほっしん」と呼ばれており、普遍的真理であるその「法」を人格化した概念が、真言宗の本尊であるところの「大日如来」であるのだという。

…非常に難解で、ややもすると衒学的に思えてくるような話なのだが、中山みきという人の思想を本当に知ろうと努めるならば、我々はこうした仏教界における「常識」というものも、最低限は押さえておかねばならないように思う。「神」と「仏」の違いは一体何なのか、「神」とは「何」で「仏」とは「何」なのか、彼女もまた、ある時は大和神社の巫女の家系で育ったという自分の母親の話に学び、またある時は長滝村まで通って中野市兵衛という人の法話に学び、一歩ずつ「自分の考え」というものをまとめて行ったに違いなかったはずだからである。そのことの上で、彼女は「神」という言葉を「選択」しているわけだ。「この世の普遍的な真理」のことをそのまま「仏」と呼ぶのが真言宗の教えであるならば、彼女が選んだのは「仏」という言葉でもよかったように思われるのに、なぜ彼女は「神」という言葉を選んだのだろうか。この問題には、改めて立ち返ってくる必要があると感じている。

いずれにしても、仏の側からの「加」の力と人間の側からの「持」の力が感応しあう時、そこには必然的に「仏と人間とが一体化する境地」が生まれ、人間はその時「仏の力」を「自分の力」として手にすることができるようになるわけなのである。のだという。そんな風に「仏の力」を「自分の力」に変えて、「自分の願いを叶えること」ができるように「祈祷」を行なうことが、「加持祈祷」であるということになる。中山みきという人の生き方を「ひながた」とする立場から見れば、「結局祈祷は祈祷じゃないか」という醒めた感想しか湧いてこない気もするのだが、何しろ「ちゃんとした坊さん」が「ちゃんとしていない凡俗」から自らを区別しようと思ったら、そういう原理原則に「こだわる」以外にないわけなのだ。阿闍梨・権大僧都・理性院聖誉明賢といういかめしい法名を持つ「ちゃんとした坊さん」だった中野市兵衛という人は、「加持祈祷」というものの内容と形式に、徹底的にこだわっていなかったはずがなかったと思う。

それを考えた場合、天理教の「立教」をめぐる伝承の中で、明らかに理屈に合わないように思えてくるのは、「加持台」というものの存在である。「加持祈祷」とは飽くまで「祈祷を行なう者」と「仏」とが「一体化」することからその「効力」が発生するという理屈のもとに行われているものである以上、「加持台」などという「第三者」を介在させることに、意味があるとは思えない。そもそも、「加持祈祷」における「祈祷」のありようというのは、「神意をうかがう」といったような「まだるっこしいもの」とは、違うのである。「加持」を通して「行者」の中には「仏と同じ力」が宿ることになっているわけであり、依頼者の足の痛みを解決することが問題であるなら、「行者」は自らに宿った「仏の力」を通じて「足痛よ去れ」とだけ念ずれば、それで問題は解決してしまうはずなのだ。実際に解決させる力を持った人が「加持」をやっていれば、の話ではあるわけだけど。

こうしてみるに、「神」が乗り移る「依代よりしろ」として「加持台」を必要とする形式の「寄加持」というものは、それが実在するものだったとしても、密教における加持祈祷のやり方を形式的にだけ借用した、神仏習合的な内容をもつ民間呪術の一種でしかありえなかったように思う。当時の中山家の周辺に、そうした「寄加持」を行なう人々は実際いたのかもしれないし、またそれを「やってもらったこと」のある人も、身近なところにはいたのかもしれない。けれども、天保9年10月に中山家で起こった出来事に関わっていたのが中野市兵衛という「実在の真言僧」だったという伝承を信じる限り、そこで行なわれた「祈祷」に「加持台」が必要となる場面があったとは、私には思えない気がする。

「加持台」など、最初から存在していなかったのではないか、という疑念には、以下のような傍証がある。「立教」にまつわる伝承では、10月24日に行なわれた「寄加持」において、その日「加持台」を務めるはずだった「勾田村のソヨ」という人が急用で来られなくなってしまったため、みきさんが代役を務めることになり、その結果、中山みきという人に「神憑り」が起こった、という話になっているわけだが、その勾田村の庄屋を務めていた人が、天理教の施設である「養徳院」に勤務していたことがあったらしいのである。その人が戦前に出回っていた初代真柱による「教祖様御伝」を通じて「勾田村のソヨ」という名前に出会い、うちの村からはこんな人が出ていたのかと思って家にあった名簿を調べてみたところ、「ソヨ」という名前の人は一人も見つからなかったのだという。「教祖様御伝」には「ソヨは九郎兵衛の娘なり」と書かれていたので、九郎兵衛という人ならいたのではないかとさらに調べてみたところ、この名前もまた見つからない。不審に思ったこの人が、その事実を天理教本部に報告したところ、本部の方でも大慌てになり、最終的には勾田村の善福寺の過去帳を全部洗い直しての再確認作業がなされたのだったが、二人の名前は結局見つからなかったのだという。それで結局、この「ソヨ」という人物は架空の存在だったのではないかという「参考意見」が、天理教本部発行の「復元」という雑誌に掲載されることになった。こういった話を「揉み消す」ことをしなかったのは、戦後の天理教における「復元」作業の先頭に立っていた、2代真柱という人の立派なところだったと私は思っている。

つまるところ、天理教の「立教」にまつわる伝承というものは、「事実であったはずのない舞台装置」に「架空の登場人物」まで配置された、「誰かによる完全な作り話」であると判断せざるをえないというのが私の結論である。そして決定的に重要なこととして、この舞台装置に登場する「加持台」という要素が「初めから存在しないフィクション」だったとした場合、中山みきという人に「神憑り」が起こったという伝承の一部始終もまた、「完全にフィクションだった」と結論せざるを得ないことになるわけなのだ。

それでは、天保9年10月23日から26日にかけて庄屋敷村の中山家で起こった出来事とは、いったい「何」だったのか!? という話に当然なることだろう。私ももちろんそれを知りたいと思う。それもできる限り「ちゃんと」知りたいと思う。けれどもまずは、流布されている伝承の中での事実経過を再確認した上で、ひとつひとつを再検証してゆく手順を踏まねばならない。というわけで次回に続きます。





(私論.私見)