神として生きた女性 はしがき

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年2.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「神として生きた女性 はしがき」を確認しておく。

 2019(平成31→5.1栄和改元)年.9.26日 れんだいこ拝


 「神として生きた女性 はしがき」。
 中山みきという人の伝記を、私は書こうとしている。「神として生きた女性(ひと)」の伝記である。神の気持ちというものは神にしか分からないものであるだろうし、女性の気持ちというものもまた、女性にしか分からないものであるだろう。私は神でもなければ女性でもない。人間の男として今日まで生きてきたのが私である。人間で、かつ男性。文字にしてみただけで罪深い印象が漂ってくる自己紹介だと思うし、事実いままでの人生において私は何度となく罪深いこと、具体的には人を傷つけるような振る舞いを、繰り返してきた。そんな私に、中山みきという人について何を語れるというのか、また何について語る資格があるというのか。そのあたりのことは自分でも、はなはだ心もとない。

 それでも私が中山みきという人の伝記を書きたいと思うしまた書かねばならないと思うのは、そのことが私にとっては、私という人間が私として生きていることの理由を探ることにつながる作業となると思っているからなのである。なぜそう思っているのかということについては、以前に書いた文章の中でこれまでに何度も触れさせてもらっているところなので、ここでは繰り返さない。ゆくゆくはそれを、19世紀から20世紀にかけての私の故郷、奈良県を舞台とした、一冊の物語としてまとめあげたいと考えている。


 けれどもそのためには、天理教という宗教の教祖として現代に至るまで様々な形で流布されてきた中山みきという人にまつわる資料や伝承を可能な限り再検証し、何が本当で何がそうでなかったのかを明らかにしてゆく膨大な作業が必要となるだろう。「事実」と「真実」とは、「全部」と「全体」とが同じでないのと同じように、もとより同列に語れるものではない。「事実」のカケラをいくらかき集めたとしても、それだけで「真実」にたどり着くことができるとは必ずしも限らない。しかしながら、それまで「事実」だと思い込んでいたことがひとつでも「間違い」だったという話になった場合、「真実」の土台はそれだけで確実に揺らいでしまうのである。だからまずは、「事実」を確認する作業から始めてゆかねばならない。場合によっては私の人生はそれだけで終わってしまうかもしれない気が今からしているが、そうなったらそうなったで仕方ないとも思っている。多くの皆さんの協力を頂ければ幸いです。
神として生きた女性 






(私論.私見)