足達照之丞の逸話考

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年2.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「足達照之丞の逸話考」をものしておく。

 2019(平成31→5.1栄和改元)年.9.26日 れんだいこ拝


 「「まんが おやさま」を読み直す 10/48 足達照之丞の話 前編」。
 「まんが おやさま」の10回目。当時5歳だった私に精神的外傷とも言うべき巨大なショックを植えつけた「足達照之丞」のエピソードの前編に当たっているのだが、本当に怖かったのはこの次の号に掲載された話を読んだ時のことだったので、その恐怖の内容については今回はまだ触れないことにしておく。しかしながら今になって読み返してみて、当時の私は決定的なことがまだ何も起こっていないこの号の時点においても、充分な恐怖を味あわされていたという記憶がまざまざと蘇ってくるのを感じた。

 何しろ、当時5歳だった人間にとって、「子どもが死ぬかもしれなくなる話」というのはあまりに受け止めきれない内容だったのだ。普通、子ども向けの読み物にはそんな恐ろしい話は出てこないのだし、こういう描写に出会ったのは恐らく生まれて初めてのことだったと思う。それで「死」とは何なのか、「死ぬ」とはどういうことなのかということを強烈に意識させられ、しかしそんなことは考えたってわかるはずがないので、とにかくひたすら怖かったことを覚えている。泣きはしなかったと思うのだけど。
 さらに、どんどんいろいろ思い出してきたのだが、幼稚園に通っていた当時、私の組ではいつも誰かが「水ぼうそう」にかかって、1週間とか10日とかいった単位で長いこと休みをとって、みんなの前に顔を出さなくなっていたのである。あの年頃の1週間とか10日というのは、ものすごく長かった。とても心配だったことを覚えている。それでもって、私自身が水ぼうそうを発症したのも、確かその頃だったのである。そこへ持ってきて「ほうそう」が「黒疱瘡」になると「たすからない」という情報が、このマンガを通じて入ってきたものだから、私はパニックになった。水ぼうそうが黒疱瘡になったら、死ぬのん?と、必死で母親に訊ねていた記憶がある。母親は困ったような微笑を浮かべながら、江戸時代の疱瘡と水ぼうそうとは違うから、水ぼうそうでは黒疱瘡にならない、と説明してくれていたように覚えている。

 それで「水ぼうそう」というのは「ウソの疱瘡」のことなのだな、という理解が私の中に生まれ、その時以来「水ようかん」とか「水風船」というのは「ウソのようかん」や「ウソの風船」なのだろうという感覚が生じ、その感覚はオトナになった今でも何となく私の中に残っているのである。子どもの頃に植え付けられた情報はいかに深々とその後の人生を支配してゆくものであるかということに、改めてビックリさせられている。

 「黒疱瘡」というのがどういう症状の病気だったのかということについては、実は正確には分かっていないらしい。漠然と「天然痘」のことだったのではないかということが語られており、上のマンガの欄外注にもそのように書かれているわけだが、天然痘だったとしたら乳飲み子には感染しないはずだという指摘もある。あるいは、照之丞少年がもう少し大きくなってからのエピソードだったのかもしれないが、それだと「もらい乳のために中山家に預けられていた」という伝承とは整合性がとれなくなる。

 とはいえ、単に「疱瘡」と言った場合、それが天然痘を指す言葉だったことは、歴史的に明らかである。そして天理教の世界には「をびやほふそはよろづ道あけ」という言葉が残っているように、中山みきという人が「神の教え」を説き始めて最初に取り組んだことは、「をびや」=お産にまつわる迷信、「ほふそ」=天然痘にまつわる迷信から人々を解放することだったということが、伝えられている。

 それを考えてみると、次号以降に描かれているところの、預かり子が疱瘡にかかった時に彼女がとったとされている行動というものは、どう見ても後に彼女が説いた教えとは正反対のものであったように思えてならないのだが、とりあえずそのことについて詳述することは、次回以降の課題ということにしておきたい。
 ところで、今回の「天理少年」を読み返してみてホホウと思ったのは、「卑しい乞食」という言葉、また「身分の違い」という言葉についての欄外注の内容が、前回より幾分「まともなもの」になっていることである。この前の号に「乞食のおばさん」が出てきた時の欄外注の内容が、見るにたえないほど差別的なものであったことについては、二回前の記事で触れたところなのだが、天理教少年会の間でも「さすがにあれはおかしい」ということが、何らかの形で議論されて、その結果が反映されているのだろうと思われる。しかしながら「人間はみな平等である」ということが、「人間はみな親神さまの可愛い子どもだから」ということを根拠にしてしか説明されていないことについては、それでいいのだろうかと私なんかはやっぱり思ってしまう。よしんばそれが中山みきという人が実際に説いた教えであったとしても、やっぱり思い続けてしまうだろうと思う。「人間はみな平等である」ということを「説明」するのに、「人間よりエラい存在」の「権威」を持ち出さねばならない必要がどこにあるのだろうと思うのである。このことについては、考え続けて行きたいと思っている。
 あと、懐かしいと思ったのは、同じく欄外に記載されている「文通相手募集のコーナー」である。私が子どもの頃には、どんな雑誌の上でもこうした形で読者が無防備に自分の個人情報をさらし合い、交流を求めていたりしていたものだったのだが、ああいう文化って今では、どういうことになっているのだろうか。それでもって当時は当時で、いろんな問題が起こったりしなかったものだったのだろうか。そういえばこのエピソードを読んだ数年後、同じ「天理少年」で文通相手を募集していた東北地方の釣り好きの男の子に手紙を出してみたいと母親に言ってみて、「そんなんやめとき」と言われてあきらめたことがあったのを、数十年ぶりに思い出した。何でそのとき母親が「やめとき」と言ったのか、私は知らない。あるいは少女時代に「文通」でイヤな思いをした経験とかが、あったのかもしれない。というわけで次回に続きます。

 「「まんが おやさま」を読み直す 11/48 足達照之丞の話 後編」。
 この話を5歳の時に読んでしまった当時の私の気持ちというものを、想像してみてほしい。中山みきという人は、何とひどい人なのだろうと思った。こわい人なのだろうと思った。今までずっと、中山みきという人はやさしい人だ、何でも許してくれる人だというイメージを植えつけられてきたわけだけど、その「正体」はこんな人だったのかと、連載一年目にしていきなり手のひらを返されたような気がした。

 子どもの頃の一年間というのは、長かったのである。この連載が始まった当初の「天理少年」編集部と、作画者のとみ新蔵さんとの間には、中山みきという人が自分を「神」であると宣言する以前の「人間だった時代」のエピソードを、12ヶ月かけてじっくり描き出したいという遠大な構想があったのかもしれないが、それだけの時間を一緒に過ごしてきた幼い読者の私にとって、中山みきという人は既に極めて「身近な存在」に感じられていた。そんな風に「知り合いのやさしいおばさん」と同然の存在になっていた彼女が、実は「いざとなったら自分の子どもを殺す人」だったのだということを突きつけられて、5歳だった私はそれをどう受け止めれば良かったというのだろう。少なくとも私自身はこの時以来、中山みきという人とそれまで通りの感覚で向き合うことはできなくなってしまったし、その状態はオトナになって以降もかなりの長きにわたって続いた。天理教の家に育った人で、この逸話に触れて私と同じようなショックを味あわされた経験を持つ人というのは、決して少なくないはずだと思っている。

 「我が身捨てても!と祈るおやさま。そう、この心が大切なんだね」、などと言われてみてもですよ。「我が身」の前に自分の子どもを二人も犠牲に差し出しておいて、それからようやく「我が身」を捨てるというのでは、その意味合いも全然変わってきてしまうのではないだろうか。しかもこの逸話においては、彼女の「我が身捨てても」というのは「口ばっかり」なのである。彼女本人は死にもしなければ、病気にかかることもない。そのことの上で彼女の子どもたちだけは、彼女が「願った」その通りに、情け容赦なく命を奪われてしまっているわけなのだ。いくら5歳の私でも、「おかしい」と思わずにいられなかった。

 そしてさらに、当時の私はそこからいっそう恐ろしい可能性に気づかされてしまったのだが、私の母親やそれにつながる一族の人々というのは、こんなムゴいことをする中山みきという人を「おやさま」と呼んで信仰の対象としている、「天理教の人たち」なのである。ということは私の母親も、こんな風に他所の家の子どものために自分の子どもの命、すなわち私の命を、平気で犠牲にすることを、場合によっては、するのではないだろうか。このことに思い当たってしまった時には、本当に生きた心地もしなかった。

 このマンガの「原作」にあたる「稿本教祖伝」では、この話の内容は一段とひどいことになっているのである。

 31歳の頃、近所の家で、子供を5人も亡くした上、6人目の男の児も、乳不足で育てかねて居るのを見るに忍びず、親切にも引き取って世話して居られた処、計らずもこの預り子が疱瘡に罹り、一心こめての看病にも拘らず、11日目には黒疱瘡となった。医者は、とても救からん。と、匙を投げたが、教祖は、「我が世話中に死なせては、折角お世話した甲斐がない。」と、思われ、氏神に百日の跣足詣りをし、天に向って、八百万の神々に、「無理な願では御座いますが、預り子の疱瘡難かしい処、お救け下さいませ。その代りに、男子一人を残し、娘二人の命を身代りにさし出し申します。それでも不足で御座いますれば、願満ちたその上は私の命をも差上げ申します。」と、一心こめて祈願された。預り子は日一日と快方に向い、やがて全快した。その後天保元年、次女おやすは4歳で迎取りとなり、翌2年9月21日夜、三女おはる、同4年11月7日、四女おつねと相次いで生れたが、同6年おつねは3歳で迎取りとなった。同8年1837年12月15日には、五女こかんが生れた。

 後日のお話によると、願通り二人の生命を同時に受け取っては気の毒ゆえ、一人迎い取って、更にその魂を生れ出させ、又迎い取って二人分に受け取った、との事であった。「稿本天理教教祖伝」

 「男子一人を残し、娘二人の命を身代わりにさし出します」とは、一体どういう料簡なのだろう。自分の子どもをこんな風に差別する親なんて、いるものなのだろうか。いたとしたらいたとしたで、子どもにとってこんなに恐ろしい話はないと思う。私はちなみに、長男として生まれているのだけど、これを読んで「ラッキー自分は助かる♡」などと思ったのかと問われたら、そこまで腐った根性はさすがに持ち合わせていなかったと答えたい。もしも「自分のために」、弟だとか他の誰かだとかが無理やりその命を犠牲にさせられるようなことがあったとして、どうしてそれを「よろこぶ」ことなど、できるだろう。中山みきという人はそんなことも分からなくなってしまうぐらいに、自分がトツいだ先の家の体面のことしか考えられなくなっていた、エゴの塊のような人にすぎなかったということなのだろうか。

 そもそも、そういう彼女の「無理な願い」を聞き届けてしまう「親神というやつ」の根性が、気に食わないとも思った。一人の子どもの命をたすけるために別の二人の子どもの命を要求してくるなんて、それって一体どういう「料金体系」になっているのだろう。いやまあこの場合、「親神」の方からは何も要求しておらず、中山みきという人が「勝手に」条件を持ち出したという形になってはいるわけなのだけど、「神」というものが「ない人間、ない世界」をゼロから創造できるくらいに全能な存在であるならば、ケチくさいことは言わずにみんなのことを平等にたすけてくれたらいいではないかと、5歳だった私は本気で憤ってしまった。そしてそんな「神さん」のことを有難がって信仰している母親や親戚の人たちの気持ちというものが、本当に分からなくなってしまったことを覚えている。

 しかしながら、そこで話が終わってしまうなら、私はこんなnoteを書いたりしていないのである。「神」として生きることを宣言する以前にも以降にも、中山みきという人は絶対にそのようなことを願ったり実行したりするような人ではなかったはずだと、確信持って言える根拠が今の私には存在している。

 この話は、明らかに「作り話」なのだ。
 「おやしき変遷図」(1951年刊)より

 もとより、このエピソードに取りあげられているいくつかの出来事は、事実として起こったことでは、あったのだろう。

 ① 中山家の二軒西隣に居宅を構えていた足達家の息子、照之丞が、幼い時、もらい乳をするために、中山家に預けられていたこと

② 照之丞が中山家に預けられていた時期を前後して(1828年?)重い病気にかかったが、幸いにも命をとりとめたこと

③ その数年後の1830年に、中山みきの次女にあたるおやすが4歳で亡くなったこと

④ その5年後の1835年に、中山みきの四女にあたるおつねが3歳で亡くなったこと

 これらの一つ一つが事実だったということを、疑う理由は別にない。けれども普通に考えて、①〜④の間に因果関係や必然性のつながりと呼べるような事情は、何も存在していないのである。足かけ7年という長い時間の中で、足達家と中山家の子どもたちがそれぞれ病気にかかり、ある子どもは助かって、ある子どもは助からなかった。それだけの話なのであって、ある子どもが助かった「から」他の子どもは助からなかったのだなどと、考えねばならないような理由はどこにもないはずなのだ。

 よしんば中山みきという人自身が、「私が氏神に無理な願いをかけたせいで、こんなことになったのです」ということを7〜8年も経ってから「告白」することがあったにしても、その言葉を額面通りに受け取る必要など、ないのである。それぞれの子どもたちをたすけたいと必死で看病したからこそ、そういう「要らない責任感」まで背負い込んで苦しんでしまうようなことは、真面目な人なら、よくあることだ。こうした場合、夫の善兵衛さんは「考えすぎやぜ」と労りの言葉をかけてあげればそれでいいのであって、このマンガに描かれているように血相を変えて怒鳴りつけるというようなことには、普通ならないと思う。まして「立教」以前のこの時期、「親神」という特別な「神」の存在など、善兵衛もみき本人も「知らなかった」はずなのだ。それでこんな「大騒ぎ」になるというのは、「地元の氏神」に対する信仰の仕方としては、あまりに常軌を逸した話だと思わざるを得ない。

 そもそも「祈り」というのは「内面的な行為」なのだから、重体の照之丞を前にしてみきが心の中でどんなことを「祈った」かということは、みき自身の口から語られることがない限り、誰にもわかるはずがないのである。しかして、みき自身が文字にして残した言葉の中では、そんなことは一言も語られていない。それならばみきから直接そういう話を聞かされた人がどこかにいたのかといえば、それが誰だったのかといったような話も全く伝わっていない。そうであるにも関わらず、「これについて後年親神は仰せられている」という出処不明の「話」だけが、まことしやかに流布されている。いつ、どこで、誰に対してどのような形で「親神」はそれを伝えたのか、知っている人はいるのだろうか。いたのだろうか。

 たすけでもをかみきとふでいくてなし
 うかがいたてゝいくでなけれど
 助けでも拝み祈祷で行くでなし
 伺い立てて行くでなけれど
 おふでさき 3-45

 むりなねがひはしてくれな
 ひとすぢごゝろになりてこい
 無理な願いはしてくれな
 一筋心になりて来い
 みかぐらうた 三下り目

 後年、人から「神」と呼ばれるようになって以降の中山みきという人は、自分を慕って寄り来る人々に向かって、このように教えていたのである。普通、宗教というものは、「どんな無理な願いでも叶えてあげよう」という看板を掲げて人を集めようとするものだと思うが、彼女は最初の時点で「無理な願いはしてくれな」とそれを否定し、各人に対して「自分の心づかいを改めること」を求めている。そして「宗教」に付き物の「拝み」や「祈祷」といったようなことを自分はやらないと宣言し、迷信には頼らない姿勢をハッキリと打ち出している。中山みきという人の「思想」を何よりも特徴づけているのはこの点であると、私は受け止めている。

 中山みきの「ひながた」に学び、自らも「神の用木」たらんと志す人たち、平たく言うなら天理教に入信しようとしている人たちは、奈良の天理教本部に9回通って、「別席」と呼ばれる特別な場所で9回にわたって同じ話を聞かせてもらわなければならないという決まりに、今でもなっている。古い信者の人に聞いたところによると、昔はこの「別席」を受けるにあたって「試験」があったらしく、「無理な願いとは」という問いに対し、「あたいを出さずに欲しいと思い、たすけ心を持たずに仲良く陽気に暮らしたいと思う心を、無理な願いと申します」という答えがスラスラ出てくるようにならなければ、別席は受けさせてもらえなかったのだという。「病気を直してほしい」「陽気ぐらしをさせてほしい」ということを「神」に「願って」いるようでは、「拝み祈祷」と変わらない。まずは人間である自分たち自身が「人をたすける心」を持て、というのが中山みきという人の残した教えの核心であるわけで、「無理な願いはしてくれな」という戒めは、多くの天理教の先人たちにとって、そのような形で信仰の生命線とも言うべき指針となり続けていたはずなのである。

 それにも関わらず、当の中山みき本人が、「無理な願い」を「叶えてもらった」という自分の過去を、信者の人に対して「自慢」していたなどということが、あっていいものなのだろうか。私は、絶対になかったはずだと思う。言ったとしたら、という仮定の話をする必要すら別にないと思うのだけど、それは「無理な願いを通そうとしても人間は幸せになれない」という反省と自戒を込めた言葉として、語っていたのではなかっただろうか。そう考えなければ、彼女が後年人々に語っていた教えというのは全部「心にもないウソ」だったという結論にしか、なりようがないわけなのである。

 中山みき本人を除くなら、彼女の死後に「本席」としてその後継者の役割を果たした飯降伊蔵という人が、天理教の歴史の中では「親神」の言葉を人々に伝えることのできる唯一の存在として、認められてきた。そしてこの「本席」さんは、中山みきが亡くなってから10年ほど後、別席の場でこの足達照之丞の話をしたがる講師が後を絶たないことを深く憂い、「たすけぞこないのような話だから、話してはいけない」という趣旨の「おさしづ」を発している。(1899年2月2日その他)。そして別席でこの話を聞かされた信者志願の人に対しては、「おさづけ」を渡さないという非常措置までとっていたと聞いている。(天理教をよく知らない方に対しては、とっつきにくい話で申し訳ないが、要は「信者になることを認めない」ということである)。飯降伊蔵という人は、このことを「親神の言葉」として人々に伝えているわけだ。「親神」ほんにんが「自分の思いとかけ離れた話だから、やめてくれ」と訴えているにも関わらず、世間受けがいいからということでそれを無視してまでこの話をしたがる「天理教の講師」が実在したということは、この足達照之丞のエピソードが100%人間の手によって「人間心」で作り上げられた物語にすぎないということの何よりの証左であるという話に、天理教的に言っても、なるのではないだろうか。

 ちなみにこのnoteの冒頭で、「天理教という宗教を私は信じない」という自分の立場をまず明らかにさせてもらった私であるわけなのだが、中山みきという人の「ひながた」に学びたいという決意においては人後に落ちないつもりなので、過去にはちゃんと別席に足を運んでいるし、「おさづけ」の理も受け取っている。そしてその際、別席の場においては「いまだに」この足達照之丞の話が語られ続けていることを、自分の耳で確認している。個人名を出さないなど、1899年の「おさしづ」に「配慮」していることが窺える箇所が台本の所々にちりばめられているようではあったが、話の骨子は変わらない。中山みきという人が祈れば「無理な願い」も「通った」のだという、何の「ひながた」にもならない話が、勿体ぶって語られていただけだった。だから私は「天理教という宗教など、信じたい気持ちは起こらない」と言い続ける他にないわけなのだ。人間が人間心で作りあげた、中山みきの名を借りつつも中山みきとは無関係な教理しか、そこでは語られていないように思えてならないからである。

 足達照之丞のエピソードをめぐって「後年親神は仰せられている」云々と伝えられている話が、中山みきの口から出たものでなく、飯降伊蔵の口から出たものでもなかったとすれば、それは別の人間によって「捏造」された話だったと考える以外にない。誰がそんな話を、デッチあげたのだろうか。そういうウソを流布することに「利害」を持っていたのは誰だったかということを考えたなら、大方の想像はつくように思っているのだが、今はまだ私の想像の内容にまでは、踏み込まないことにしておく。

 最後に、この回をめぐってはもうひとつ触れておきたいことがあるのだが、87ページの欄外注に、天理教では人が死ぬことを「出直し」と表現しているということの説明が掲載されている。5歳だった私はこの文章を読んで、初めてそのことを知ったのである。そして家族や親戚が月次祭のたびに腕をチャカチャカさせて歌っていた

 やっぱりしん/ ゙\せにやならん
 こころえちがひはでなほしや
 やっぱり信心せにゃならん
 心得違いは出直しや
 みかぐらうた 六下り目

 という歌の文句の意味するところに初めて思い当たり、「信心しーひんかったら、死ぬんや!」と脅迫されたような気持ちになったことを、これまた鮮明に記憶している。

 しかしながら今の私は、「死ぬ」ということを「出直す」と言うようになったのは本当に中山みきという人が教えたことだったのだろうかということについて、疑問を感じつつある。「人間の魂は永遠に滅びるものではなく、常に新しい体を親神さまから借りては、この世に生まれ直している」というのが天理教少年会による欄外注の内容であるわけだが、中山みきという人はむしろ親から子へ、この世に生命が誕生した瞬間から延々と受け継がれてきた「体=生命」の連続性の方に、「永遠に滅びることがないもの」の存在を認識していたように感じるのだ。天理教の中でしょっちゅう使われる「魂」という言葉は、少なくとも文字の上で見る限り、彼女自身はたった1回しか使っていない。

 高山にくらしているも
 たにそこにくらしているも
 をなしたまひい
 高山に暮らしているも
 谷底に暮らしているも同じ魂
 おふでさき 13-45

 これがその唯一の用例である。そしてこの歌それ自体の中には、天理教の中で様々な形で語られている「生まれ変わりの教理」につながるような内容は、何一つ見出せないように感じる。歴史的にさまざまな差別の存在を「合理化」するために使われてきた、仏教における「輪廻転生」と何ら変わらないような教理を、中山みきという人は本当に説いていたのだろうか。この疑問についても私は、彼女の伝記を書きあげるこれからの作業を通じて、何らかの形で答えを出してゆきたいと考えている。

 ちなみに「みかぐらうた」における「心得違いは出直しや」という歌詞については、振り付けに示されている通り、「自分の間違いに気づいたら、勇んでやり直そう」という以上の意味は含まれていないというのが今の私の理解である。仲田儀三郎という人もそう説明していたと伝え聞いている。だが、こういったひとつひとつの教えの解釈は、別に機会を改めて詳しく試みることにしたいと思う。今はまず中山みきという人が実際にたどった人生の歩みを、大急ぎで追いかけ直す作業に集中しなければならない。そんなわけで次回に続きます。

 「「教祖絵伝」を読み直す 4/25 足達照之丞の話 再考」。
 前回では、中山みきという人にまつわる伝承の中で最も理不尽だと私が感じてきた「足達照之丞」のエピソードについて、幼い頃から溜め込んできた疑念を全部吐き出させてもらったわけなのだが、いまだに釈然としないのは、どうしてこのような「誰も幸せにしない作り話」が、天理教の信者さんたちには長年にわたって大切にされ続けてきたのか、もっと言うなら、愛され続けてきたのか、ということである。この逸話は平田弘史さんの「教祖絵伝」においても、一回分を丸々使って取りあげられているわけだが、この回に向けて平田さんが描き下ろされた絵は、ハッキリ言って今までに見てきた絵とは気合いの入り方が全然違っているように思う。とりわけ最後のコマの、死んだ我が子をみきさんが抱きしめている絵などは、一幅の宗教画そのものであり、外国の高名な美術館に飾られている聖母マリアを描いた西洋絵画などと比べても、全く引けを取らない迫力を感じる。まさしく平田さんはこの絵に自分の「信者魂」のありったけを注ぎ込まれたのだろうと拝察させて頂くわけなのだが、ここを「大事な場面」だと思うその「信者魂」というのはどのようにして形成されたどのような内容のものであるのかということが、昔から「信者」の人たちに囲まれて成長しつつも自分自身が「信者」になることはついになかった私のような人間には、やはり分からないものとしてあり続けているのだ。

 外国の例は知らないし、知っている方がおられたら教えて頂きたいとも思っているのだが、日本にはそもそも昔からこの手の話が多かった、ということがまず言えるのかもしれない。たとえば私の育った奈良県には、中将姫の説話というものがある。奈良の都の藤原南家に生まれた美しく信心深い中将姫は、照夜てるよの前という継母から疎まれて、命を狙われることになる。だが、姫を宇陀の山奥に連れ出して斬ってしまうように命令さ
れた松井嘉藤太まついのかとうたという江戸時代的な名前の家臣は…このあたり、やは
り後世の作り話であるように思えてならないのだが…健気に覚悟を決めて念仏を唱える
姫の姿を前にして、どうしても刃を振りおろすことができず、思い余って「家老」の…まただ
国岡将監くにおかしょうげんに相談したところ、将監は自分の娘の瀬雲せぐもを中将
姫の身代わりにし、その首を届けて照夜の前を欺くことで、姫の命を守り通した。といった
ような物語である。その宇陀の山奥で育った私の同級生は、中将姫の隠れ家だったとい
う尼寺に遠足に行ってこの話を聞かされ、「そんな話があるものか」とショックを受けたと
言っていた。その反応は、自分が足達照之丞のエピソードに触れた時のそれと全く同じ
ものだったので、私はホッとしたものだ。20世紀後半以降に生まれた人間なら、やはりそ
う感じるのが「普通」だと思う。

 しかしながら同様の話は他にもある。「菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかが」という歌舞伎の演目では、時の左大臣藤原時平ふじわらのしへいに命を狙われる菅丞相かんしょうじょう(菅原道真)の息子、菅秀才かんしゅうさいが、丞相の弟子が経営する寺子屋…また江戸時代だ…にかくまわれているのだが、それが時平の知るところとなり、武装したその家臣たちが寺子屋に押しかけて、菅秀才の首を要求してくる。追い詰められた丞相の弟子は、寺子屋に通っている別の子どもの首を身代わりに差し出して菅秀才を救おうという、とんでもないことを思いつき、それを実行するのだが、そこへ身代わりにされた子どもの母親がやって来る。この母親も殺すしかないのか、と丞相の弟子が刃を握りしめたところ、彼女から出てきたのは「息子は立派に身代わりを果たしましたか」という、思いもかけない言葉だった。実は彼女は菅秀才の命を奪いに来た藤原時平の家臣の妻だったのだが、この夫婦はかつて菅丞相から深い恩を受けており、主君の命を欺いて菅秀才を救うには自分の子どもを身代わりに立てるしかないと考えて、あらかじめ寺子屋に入れておいたのだという。立派に忠義と孝行を尽くした子どもの死にざまに、登場人物一同は改めて涙に暮れて、幕となる。というのが大方の筋書きで、何をどうしたらこんなにえげつないストーリーを思いつくことができるのだろうと思わずにいられないような物語なのだが、人形浄瑠璃や歌舞伎の世界では、いまだにこの話が大勢の観客を集めることのできる、人気の演目であり続けている。それ以外にも「罪のない子どもが犠牲になる」場面が見せ場となっている歌舞伎の演目は、「伽羅仙台萩めいぼくせんだいはぎ」の政岡まさおかの段や、「仮名手本忠臣蔵」の天河屋儀兵衛あまかわやぎへえの段など、枚挙にいとまがない。

 こうした話の多くが成立したのは、支配階級の手によって、日本の歴史の中でそれまでかつてなかったほどに「忠義と孝行」という儒教道徳が強調されていた、江戸時代のことだった。ということが、ひとつの手がかりにはなると思う。この時代に形成された価値観は、「明治」になっても変わることなく、むしろ「忠義」を尽くすべき対象が「各自の主君」から「一人の天皇」へと「純化」を遂げたことから飛躍的に強化され、さらにそれが義務教育を通じて全「国民」の上に押しつけられる経過をたどったことから、より多くの人々の心の領域に「内面化」されて行ったと見ることができる。だから昔の人々は、このように理不尽に子どもの命が奪われるような物語に対しても、それが「忠義と孝行」のためだったということになれば、それに「心から感動すること」が「できて」いたわけなのである。そして中山みきという人の死後、天理教という宗教が「宗教」として自らを確立して行く過程は、正にそのような形で国家による道徳教育…皮肉にもそれは「天理人道教育」と呼ばれた…が「完成」させられてゆく過程と軌を一にしていたということを、見ておかねばならないだろう。

 とはいえ、民衆に対して支配者たちが自分たちに都合のいい価値観を押しつけるため
に上記のような物語群が量産された、というだけのことであったなら、話は非常に分かり
やすくて良いのだが、例えば江戸時代において歌舞伎や人形浄瑠璃の台本を書いてい
た人たちというのは、支配階級であるどころか、むしろその支配階級から最もひどい差別
を受けていた階層の人々だったわけである。階級支配と身分差別の「犠牲者」であった
はずの民衆自身が、その階級支配と身分差別を補完するような物語を「求め」続けてき
たという側面が、歴史には常に存在してきた。このことが、問題をややこしくしている。「
ややこしい」というのはまず、その理由が見えてこないということ、そしてその「明らかに間
違った価値観」を民衆自身が「克服」してゆくための道筋が見えてこないということの、両
方の意味においてである。

 思うに、自然科学も社会科学も未発達で、人間の人間に対する支配や差別の形態も
今より遥かに暴力的だった時代、「生きる」ということは多くの人々にとって、そもそも「理
不尽」なことだった、ということがまずあるのだと思う。もとより21世紀の現在に至っても、
自然科学や社会科学は「完成」されているわけでは全くないし、人間が人間を支配する
ことも差別することも、なくなっているわけでは決してない。だから「生きること」が「理不尽
なこと」であるという現実は、我々の時代にあっても本質的には何ら変わっていないわけ
なのだが、その理不尽の度合いが、19世紀以前の世界にあっては今とは比べ物になら
ないぐらい、露骨でむきだしのものだった、ということである。そしてその時代に生きた人
々はそれをどんなに理不尽だと感じても、その理不尽を「受け入れる」ことを通してしか、
生きてゆくことができなかったわけだ。その「理不尽を受け入れるための装置」として、上
に見てきたような「残酷であればあるほど美しいとされる物語群」は、理不尽の中で生き
ることを余儀なくされている民衆自身の要請にもとづき、再生産され続けてきたのだろう
と考えることができるように思う。

 この意味において、マルクスという人が中山みきという人と同時代に「宗教は民衆のア
ヘンである」と喝破したことは、今でもその正しさを失っていないと私は思っている。2024
年6月現在放送中であるNHKの朝の連続テレビ小説「虎に翼」においては、徴兵された父
親の死亡通知に触れたその子どもたちの第一声が「お父さんはお国のために戦ったん
だよね?」だったという、無数に存在した「史実」ではあるのだろうけれど今に生きる人間
から見ればこの上なく不条理にしか思えない情景が、極めてリアルに再現されていた。
付け加えて言うなら同じドラマでは、戦前の日本で女性として初めて弁護士資格を取得したような極めて先進的な思想の持ち主であっても、自分の夫やまた男性の友人に召集令状が届いた際には、「おめでとうございます」と口に出して言わざるを得なかったのだという「史実」もまた、冷たいほどの時代考証の上に、再現されていた。今の時代の人間が今の時代の感性に引き寄せて、こうした時代のこうした人たちは「心にもないこと」を言わされていたのだ、と決めつけることは、簡単なのである。けれども私はこうした時代の人々がどれほど真剣に「心からそう思い込もうとしていた」かという事実とこそ、向き合わなければならないはずだと思っている。その時代の人々が、そう信じなければ生きて行けないと思わされていた現実と同じ切実さの中に身を置いて、それでもやはり「そんな一握りの支配者の利害のためにデッチあげられた物語に命を捧げることには、何の意味もない」と相手の目を見て言い切ることのできる人にしか、本当の意味で「時代を変える」ということは、できないものであると思う。そして私の知っている中山みきという人は、まさしくそうした時代において堂々とそうした生き方を貫くことのできた、数少ない人々の中の一人だったのである。

 さてそれでは中山みきという人は、同時代に彼女の周りにいた人々を「古い時代の価値観の上に築かれた残酷な物語」の呪縛から解き放ったその上で、どうしたのだろうか。「それに代わる新しい物語」を、言い換えるなら「もっとよく効く別のアヘン」を人々に提供したというだけのことに、彼女が生涯をかけてなしえたことは、すぎなかったのだろうか。この点に関して、いまだ私は答えを持っていない。彼女が説いた教えを「アヘン」に変えてしまったのは、彼女の死後に「天理教という宗教」を作った人間たちが勝手にやったことであって、彼女に責任はない、ということを一方では論証してゆくつもりでいるのだけれど、正直に言うなら「アヘンで何が悪いのだ」という気持ちも、私の中にはないではなかったりする。「それに代わる何か大切なもの」を自分の力で見つけ出すことができるまでは、「アヘン」に頼って痛みを忘れることが「必要」な時期も、人間の人生にはあって当然だろうと思う。人間には「間違いをおかす権利」だって、存在しているのである。

 マルクスが「宗教」を「アヘン」であると断じたのは、それを対象化するにあたって彼氏が自分を据えつけた「科学的立場」を、言い換えるなら「共産主義」という思想を深く「信じる」立場からのことだったわけだが、それなら結局マルクスという人にとっては「共産主義」という物語が「宗教」であり、「アヘン」であったというだけの話ではないか、みたいなことを言って、歴史における彼氏の存在を「処理」できたような気持ちになっている人々が、世の中には数多い。けれどもそういう人々は「何も信じなくても生きて行ける人々」なのかといえば、そんなはずは絶対になくて、大方はその人自身がどっぷり浸かって暮らしている「自分にとって都合のいい物語」を「奪われたくない」という「利害」から、物を言っているにすぎなかったりするわけである。「物語の呪縛」から「自由」になったところで生きることのできた人間など、いたのだろうか。何らかの「物語」にしがみつくことを抜きにして、人間は果たして人間として生きて行くことが可能なものなのだろうか。私はいまだそれを知らない。中山みきという人はあるいはそれを「知って」いたのかもしれないが、いかんせんそれを「わかる」ことは、今の私にはできない。けれども人間という生き物が、結局何らかの物語を「信じる」ことに「賭けて」しか生きて行くことができないようにつくられているものであるならば、せめて自分が心から信じるに値すると思えるような物語を「自分の意思で」私は選択したい。それが中山みきという人と向き合い直すにあたっての私自身の立場であることは、この一連のnoteの「序論」において、最初に明らかにさせてもらったところ
である。

 このよふハりいでせめたるせかいなり
なにかよろづを歌のりでせめ
 この世ぉは理ぃで攻めたる世界なり
 何か万を歌の理で攻め
 「おふでさき」1-21

 「理不尽な物語」に支配された世の中のありようを、このような形で捉え返し、まさに「理を尽くす」ことを通して人々が「理不尽」を克服したその上に、「よなほり(世直り)」は訪れるのだ、という思想を説いたのが、中山みきという人だった。アヘンをアヘンであると知りつつそれに「酔う」ことを求めるような人では、少なくともなかったはずだと私は信じている。自分の子どもの死を「天然自然の理」として受け入れることならありえたように思うが、それを「神との取引が成立した証」として受けとめていたといったような逸話は、やはりあまりに彼女に似つかわしくないように感じる。

 どこからどう見ても理不尽にしか思えない「足達照之丞の逸話」であるわけだが、この物語において彼女は、主君に対する「忠義」のためでも家父長に対する「孝行」のためでもなく、全くの赤の他人である「隣人」をたすけるために、自分にとって最も大切なものを迷うことなく投げ出した、とされている。この点に関してのみは、中山みきという人が実際に説いた教えが反映されている物語であると、思える節がないでもない。同じ「子どもが犠牲になる話」であっても、当時の人々にとっては相当に「新しい」タイプの物語として、新鮮な感動をもって受け入れられていた面があったのではないかと思う。「忠義」や「孝行」のために庶民が自己犠牲を強いられるのは、差別や暴力に屈服させられたその結果のことであり、かれらが「物語のアヘン」から醒めた目で自分たちの姿を直視したなら、そこには惨めさしか残らない。けれども「隣人」のために自分を犠牲にするということは、「自由な精神」を持った人間にしかやれないことであり、その人が自分の意思以外の何からも支配されていない存在であることを証明する行為でもある。この「自由な精神」からなされる「人だすけ」の気高さ、美しさというものが、封建制度の支配から「解放」された直後の時代の人々の心をとらえ、「明治」の終わりから「大正」にかけて、天理教という宗教が爆発的にその信者を増やしてゆくことに大きく寄与していた側面は、確かにあったのだろうと思う。

 自由じゅうようという理は何処どこにあるとは思うなよ。
 ただめんめん精神一つの理にある。
 「おかきさげ」
 それ世界成程なるほどという、成程の者成程の人というは、常にまこと一つの理で自由じゅうようという。よく聞き取れ。
 同上
 人をたすけるということは、誰に強制されるのでもなく、その人自身の「自由な意思」にもとづいてなされる時に、初めて「美しい行為」となるのであり、また周囲にとってもその人自身にとっても、「なるほど」と「納得」の行く行為となる。「信仰」を通じてそのことを知った当時の信者の人々は、間違いなく「自分自身が解放されたよろこび」の感覚を味わっていたはずだと私は思っている。この時代、天理教という宗教との出会いを通じて初めて「自由」の何たるかを知った人々は、福沢諭吉が西洋から翻訳して輸入した概念としての「自由」を文字を通して受け取った人々の数よりも、場合によっては相当多かったのではないだろうか。何しろ中山みきという人が死んでから5年後の明治25年の時点で、日本全国に存在した大学生の数は僅かに1308人、旧制高校に通っていた学生の数まで入れてもそれプラス4443人だったのに対し、天理教の信者数は、当時の教団が発表した数字であることは割り引いて考えねばならないだろうが、すでに100万人を越えていたのである。しかも福沢諭吉が西洋から借用してきた「自由」という概念は、現代に至るまで「利己的に振る舞う権利」であることを越えるものではなかったと私は思っているのだけれど、中山みきが説いたところの「自由《じゅうよう》」は、言うなれば「利他的に振る舞う権利」のことを指す言葉なのであって、内容的には数段上を行っているように感じられる。それを思うと、中山みきという人の「利他の精神」が最も端的に示された逸話であるところの「足達照之丞の逸話」を描き出すのに、平田弘史さんがひときわ気合いを入れておられたのも、あながち理由のないことではなかったのかもしれない。

 けれども、この逸話において確かに中山みきという人は「自分にとって最も大切なもの」を投げ出してはいるのだろうが、「子ども」は「もの」ではないのである。それを「おかしい」と口に出して言えない点において、多くの天理教の信者さんたちの感覚は、いまだに封建制度に支配されていると言わざるを得ないと私は思う。もとよりそれは「言わせないようにしている側」が間違っているのであって、ただすならまずそこをたださなければならない。しかしながら、それに黙って従うことを「美徳」であると考えているような人は、本当ならば中山みきという人の思想から一番遠いところにいるはずの人だと、言わねばならないのではないだろうか。「自由な精神」にもとづかないところで人に強いたり強いられたりする「人だすけ」などというものは、本質において「奴隷労働」と変わるところがないと私は感じてしまう。

 彼女の時代にはそれが「当たり前」のことだったのだから、中山みき自身も自分の子どものことを「自分の所有物」だと考えていたとしても、不思議ではない、みたいなことを、その感覚を自分自身は「知って」いるわけでも何でもないにも関わらず、どこかで聞きかじってきた「知識」だけを元にして、さかしら顔に言い立てる人々というのが世の中には少なくない。確かに、自分の娘を売り飛ばすような親が大勢存在した時代である。親が子どもをどう扱おうと、それが社会的に非難される理由となることは、今と比べて遥かに少なかった。ということは言えるのだろうと思う。けれどもその中にあって、中山みきという人は

 をやこでもふう/\のなかもきよたいも
 みなめへ/\に心ちがうで
 親子でも夫婦の中もきょうだいも
 みな銘々に心違うで
 「おふでさき」5-8
 という言葉を残している。この歌それ自体は、「みんな違って、みんないい」的なことを歌っているわけでは別になく、むしろ共同生活を送っている他人同士が心を合わせて生きて行くことの困難さを歌っていると解釈すべき文脈の中で書かれているのだが、ここにおいて彼女は、「親子」であっても「子ども」は「親」とは「別の人格」として、言い換えるなら「個人」として尊重されねばならないということを、明言しているわけである。もとより「されねばならない」ということが言葉として書かれているわけではない。言葉づかいそのものが「相手の人格を尊重した書き方」になっているから、そう判断しうるということだ。そういう人が、いくら「自分の子どもの命」であるからといって、それを勝手に「神に捧げる」ようなことをしていたはずがないのである。ゆえに私は、「我が子を犠牲に捧げた」という部分をめぐる彼女の逸話は、「中将姫の伝説」や「菅原伝授手習鑑」のような物語が当時においてはいまだに大衆にウケるということを知っていた、およそ「真面目な信仰心」とは無縁の誰かの手によってデッチあげられた虚構にすぎないと判断している。どだい、真面目な考察に値するエピソードではないというのが私の立場である。

 そのことの上で我々は、改めて「史実はどうだったのか」ということを、厳密に検証しておかねばならない。私は上段において、足達照之丞の逸話が「対等な隣人をたすけたエピソード」として描かれている点は評価できると書いたわけだけど、現実はもう少し入り組んでいたと言うか、ねじくれてており、足達家と中山家との隣人関係は決して「対等」と呼べるようなものでは、なかったはずなのである。

 それと言うのも、一件の家を挟んで隣り合っていた足達家と中山家とは、共に「庄屋の家柄」であったには違いないのだが、足達家の方は平安時代から記録に地名が残っている三島村の庄屋であったのに対し、中山家の方は三島村の「枝村」として江戸時代になってから成立した、庄屋敷村の庄屋だった。この「本村」と「枝村」の関係というのは、いわゆる「一般部落」と「被差別部落」の関係とは決してイコールでないことを踏まえておかねばならないが…このことを強調しておく必要があると思うのは、こうした一知半解にもとづいて「どこそこの地域は被差別部落だ」と決めつけるような新たな形態の差別事件が、とりわけネットの時代になって以降、奈良県でも他の地域でも、急増しているからである。郷土史を研究していると、現存している家と家との関係にまで踏み込んだ、極めてデリケートな領域の問題に行き当たってしまう場面が往々にして訪れるが、こうした問題と向き合うにあたっては、歴史の舞台となっている場所では今でもその上に人間の生活が営まれているのだということ、そしてそれを調べるにあたり、研究者はあらゆる差別を許さない立場に立つことを、踏まえておくことが大切だと私は思っている。我々が歴史を研究するのは、人間が過去に犯してきたあやまちに学び、それを繰り返すことなくよりよい未来を建設してゆくためでなければならないと、信じているからである。…古村における「本家」と「分家」の関係が一般的にそうであるのと同様に、「枝村」が「本村」に対して従属的な関係をとっているケースがほとんどだったと言いうる。記録の上でも、足達家は藤堂藩の無足人の家柄で苗字帯刀を許されていたのに対し、中山家は許されていなかった。身分の違いとまでは言えないにしても、中山家が足達家に対して日ごろ何かと「気を使わねばならない」関係にあったことは、間違いなかったはずだと思う。

 そうした関係の中にあって、足達家が中山家に自分の子どもを預けていたということは、足達家の人々が「家格の違い」を気にすることなく「対等」に中山家と付き合っていた姿勢を示すエピソードとして、周囲から見れば「美談」に映っていたかもしれないが、中山家にしてみれば別段うれしくなかったと思うし、むしろいっそう気を使わなければならないことになって、大変だったのではないかと思う。ましてその子が病気にかかったとなれば、気を使うどころの話ではない。それこそ、「自分の子どもは死なせても、預かった子は死なせない」という覚悟で看病している姿を対外的に示し続けなければ、世間から何を言われるか分からないという緊張感があったのではなかっただろうか。それは非常に「真面目な取り組み」ではあっただろうが、「自由な精神」からなされた「人だすけ」と呼べるようなものでは、およそなかったのではないかと思う。

 そうした事情の中で、中山みきという人が「自分の子どもを犠牲に捧げても」ということを実際に神に祈ったことがあったのか、私は知らないし、分からない。それは飽くまで彼女の「内面の事情」なのである。けれども中山家の側には「それぐらいのことをやっている」ということを世間にアピールしなければならない理由が明らかに存在したわけだし、また周囲の人々の間でも「中山家はそれぐらいのことをやっている」という共通認識のようなものが成立していたことがうかがえる。そういう「噂話」が飛び交っていたということは、間違いなかったのだろうと思う。

 そしてその「噂話」の内容通りに、預かった子どもはたすかって、実の子ども2人はたすからなかったという「結果」を突きつけられた時、中山みきという人は一体なにを思っただろうか。「これでよかった」とは多分、思わなかったはずだと思う。そして「言葉の力」の恐ろしさというものを、改めて噛みしめさせられたのではなかっただろうか。言葉というものは本心から出た言葉であってもそうでない言葉であっても、あるいは根も葉もないところから出てきた自分の責任でない言葉であっても、同じように現実の諸関係を変えてしまうことのできる「力」を持った「何か」なのである。

 いずれにしても、31歳のこの時点において、「他人のためには我が子の命まで神に捧げるような人」であると人から見られていた・・・・・・・・・とされている中山みきという人は、それから10年後に起こった「立教」と呼ばれる出来事の以降においては、「無理な願いはしてくれな」「拝み祈祷で行くでなし」とハッキリ言葉にして人に教える存在へと、180度の思想的転回を遂げているわけなのだ。この「転換」は、何だったのか。すなわちこの間に中山みきという人の内側では、何が起こったのかということこそが、明らかにされねばならないと思う。このことが、私がこれから書こうとしている彼女の伝記の大きなテーマのひとつとなっていることを、読者の皆さんにはあらかじめ伝えておきたい。

 「明治」以来、さまざまな人によって中山みきという人の伝記は書かれてきたが、その書かれ方は例えば「おかの」のエピソードであるとか、あるいは今回の足達照之丞のエピソードであるとか、彼女が「神」として人に教えを説き始める前、すなわち彼女が「人間」だった時代の話に重点を置いたものとなっているケースが、極めて多い。このことの理由のひとつとして、自らを「神」として宣言して以降の彼女は信者の人々にとっても「理解を越えた存在」であったのに対し、「人間だった時代の彼女」は信者の人々にとっても「自分たちと同格の存在」であり、わかりやすく親しみやすい存在として感じられてきたということが、あったのではないかと思う。「神様」の真似をすることは人間にはおよそ不可能なことかもしれないが、「人間」の真似をすることは相手が「同じ人間」である限り、決して不可能なことではない。だから自分も「おやさま」がそうしてきたように、夫が浮気をしても腹を立てずに夫の立場を立てることに尽くそう、困っている人がいたら自分の子どものことは放ったらかしにしてでも、「人だすけ」のために外に出よう、といったことを悲しいぐらいに真面目に実践してきた信者の人々が、天理教の歴史においては無数に存在してきた。その姿は私のような人間にとってさえ、「感動的」に映ってしまうことが時としてある。スポーツや音楽の世界で、人間の限界を越えた努力の生み出す奇跡が人を感動させるのと同じような内容において、「力づくで人間を感動させてしまう力」と言うべきものが、おそらくどんな宗教にも、あるものなのだと思う。けれどもその人たちがどんなに頑張ったとしても、その方向性が改められない限り、結局は「DV被害を受け続ける女性」や「育児放棄を受け続ける子ども」が際限なく拡大再生産されてゆくことにしかならないのだという現実を、真面目な信者の人たちは今こそ「アヘンから醒めた目」でもって、直視すべき時代を迎えているのではないだろうか。「間違ったひながた」をいくら「手本」にしたところで、結局誰も本当の意味では、「幸せ」になることなどできないはずなのである。

 中山みきという人だって、自分自身で「本当に納得の行く生き方」を手に入れることができるまでには、無数の失敗や挫折や後悔を繰り返していて当然なのだし、またそういう人でなければ、人間として尊敬したいという気持ちは私は起こらない。彼女が「自分の言葉」を自分の責任において人々に語ることができるようになったのは、飽くまで「立教」と呼ばれる出来事以降のことなのであり、それ以前の彼女は、当時を生きたほとんどの女性がそうだったように、「自分の言葉で語ること」もそれに伴う責任も、奪われた境遇の中で暮らしていたのである。まして、これまでのnoteで3ヶ月にわたってつぶさに検証してきた通り、「立教」以前のエピソードとして伝えられている彼女にまつわる伝承は、ほとんど丸ごと「誰かの作り話」に他ならなかったことが、今では明らかとなっている。「立教」以前の彼女の生き方を「ひながた」とすることに、意味はない。「生きる手本」として学ぶにしても、批判的に対象化するにしても、本当に「ひながた」となりうるのは彼女が自らを「神」として宣言して以降に通ったその後半生の部分だけなのだということを、彼女のことを知ろうとする人は、踏まえておかねばならないと思う。

 というわけで次回以降はいよいよ、その結節点として位置づけられている「立教」と呼ばれる出来事が「何」であったのかということを検証し直す作業に入って行くわけなのだが、その前に少しだけ、足達照之丞という人の「その後」について触れておきたい。「明治」になってからは源四郎という名前に改名したこの人は、中山みきという人が生きていた間もその後も、変わることなく中山家の隣人としてあり続けた人である。中山みきという人が90歳で亡くなった時、この人は既に69歳になっていたのだが、その前年、彼女が足達家を訪れた際に、照れて嫌がる源四郎氏を「おんぶして歩いた」という伝承が残っている。恩も知り、恥も知る人で、「隣のおばさん」だったみきさんのことを何くれとなく心配し、近所づきあいを欠かさなかったということが伝わっているが、「神」としての彼女の言動や、後に成立した天理教という宗教に対しては一貫して距離をとっていたということであり、彼女の死後に天理教本部が敷地を拡張しようとした際、最後まで自分の地所を売ろうとしなかったのがこの源四郎氏だったということも、伝わっている。中山みきという人の周辺には、そういう人もいた、ということを記憶にとどめておきたい。それでは次回に続きます。






(私論.私見)