| 黒住教開教史 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.9.26日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「黒住教開教史」を確認しておく。 2006.11.18日再編集 れんだいこ拝 |
| 【「黒住教」】 |
| きのの如来教に四半世紀遅れて生まれたのが黒住教である。その概要は次の通りである。 創始者黒住宗忠(1780~1850)は、1780(安永9)年、11.26日、備前国御野郡上中野村(現、岡山市上中野)に黒住宗繁の三男として生まれた。父母とも温厚な人柄であったと伝えられている。 |
| 生家は神職で、代々隣村の今村にある今村宮の禰宜を勤め徒士格であった。 |
| 【「黒住教」】 | ||||||||||||||||||||||||||||
| 宗忠は、幼少より孝心が厚く、青年期を迎えて一層深まり、ただ親のいいつけに従うことのみにとどまらず、天下に名を揚げて人から仰がれるような人間になることがより大きな孝行である、と思うようになった。この頃までの宗忠は「中野の孝子」として数々のエピソードが伝えられている。 1803(亨和3)年、最初の伊勢参宮を行つている。この後も1824(文政7)年、1831(天保2年)、1833(天保4)年、1835(天保6)年、1845年(弘化2)年と、生涯で6回の伊勢参宮をしている。 1804(文化元)年、25才の時、黒住家の跡継ぎとなる。1812(文化9)年、この地方で流行した痢疾で相次いで両親を亡くし、その衝撃から自らも労咳にかかり、1814(文化11)年正月、危篤状態に陥った。同月19日、今生の別れに日拝を行い、その際真の孝行は自分自身を苦しめることである筈はなく、陽気になる為に心を養うことこそ孝行の真の道であると翻然と悟り、これを境に病状は快方に向かい、3.19日、宗忠は入浴して二度目の日拝をすると、さしもの大病も一時に全快したと云う。 1814(文化11).11.11日の冬至の日の出に、宗忠は一陽来復の太陽を三度拝したところ、自己の全生命と太陽(天照大神)とが合一するという神秘体験を得て、神人不二の妙理を悟ったという。この時のことは、日の光が宗忠に迫り来て、照り付け全身に染み渡った。遂に彼の身体に飛び込み、日の玉は暖かい陽気をもって丸ごと治まった。その瞬間、宗忠の全感覚は得もいえぬ快感に襲われ、「何という歓喜、何という喜び!笛を吹き糸をしらべ金をたたき鼓を鳴らして歌い舞うとも及びがたい」(宗忠大明神御伝記)と記されている。黒住教では、生き神としての自己の使命を自覚したこの体験を「天命直授」と呼び、同日をもって立教の日としている。宗忠は、「天てらす神の御心人心 一つになれば生き通しなり」(歌集4)と歌っている。御神詠に「天照らす神の御徳は天つちに みちてかけなき恵みなるかな」とある。 こうして大患を克服し、「天命直授」した宗忠は、その日を境に不思議な霊力が備わっていることに気がついていく。「天照らす神の御徳を世の人に 残らず早く知らせ度タキもの」(歌集9)、「天地の中に照り行く御宝を今ぞ取得し心楽しき」(歌集13) との使命感と歓びに燃え、「月は入日の今いつる曙に 我こそ道の始め成けれ」(歌集134) という大きな自負をもって教えを説き始める身となった。こうして布教活動が展開された。腹痛で苦しむ同家の婢ミキに陽気を吹きかけてその病気を治す等自らの霊力に自信を深めて、周囲の家族、知人等に天照大神の道を説き、祈念禁厭でひろく教えを伝えていくこととなった。信者の自宅を使用して「会日」と呼ばれる集いを開き、説教と神霊治療を施していった。その治療は手を通じてのものであったが、時には息を吹きかけ、さらには遠隔治療さえ試みている。 この頃の宗忠の歌には次のようなものがある。
1824(文政7)年、45才の時、今村宮の禰宜職となった。二度目の伊勢参宮を行つている。1824(文政7)年の参宮は「文政のおかげまいり」の前後の時期に当たっており、民衆の信仰の爆発的な高揚を実見して、強い感銘を受けたものと思われる。
宗忠の教えの教線は、近隣の地主層から岡山藩士の間へと伸びていった。布教の発展と共に、岡山藩を始め、既成の宗教勢力からの圧迫も次第に強まった。宗忠は、周囲の圧迫妨害が激化したのを機に、従来の修業の在り方を反省し、1825(文政8)年から千日参籠、五社参り等の激しい修業を重ねた。宗忠の晩年、弘化.嘉永年間(1844~54)には門人も急増し、その教線は備前から備中、美作に及び、信者はめざましく増加して、武士層から地主、自作農、商工民へと拡大した。1841(天保12)年、宗忠は隠居し、跡目を宗信に譲った。この頃から岡山藩士、地主、自作農民、有力商工民へと教線の広がりをみることとなった。 |
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| 黒住教の教義は、記紀神話によって皇室の護り神とされていた天照大神を、本来の日本神道の最高神としての天照大神信仰へと解き放ったところに意義が認められるのではなかろうか。れんだいこ史観「原日本新日本論」を援用すれば、天照大神は原日本の最高神である。大和王朝以来、天照大神は大和王朝を権威づける為に利用されてきた。これに対し、大和王朝以前からの日本神道の最高神としての本来の位置に於いて捉え、その霊能を引き出そうとしたところに史的意味があるように思われる。 2014.1.17日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)