| 続編1 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.30日
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| 【続金色夜叉】 |
| 与紅葉山人書 学海居士 |
| 紅葉山人足下。僕幼嗜読稗史小説。当時行於世者。京伝三馬一九。及曲亭柳亭春水数輩。雖有文辞之巧麗。搆思之妙絶。多是舐古人之糟粕。拾兎園之残簡。聊以加己意焉耳。独曲亭柳亭二子較之余子。学問該博。熟慣典故。所謂換骨奪胎。頗有可観者。如八犬弓張侠客伝。及田舎源氏諸国物語類是也。然在当時。読此等書者。不過閭巷少年。畧識文字。間有渉猟史伝者。識見浅薄。不足以判其巧拙良否焉。而文学之士斥為鄙猥。為害風紊俗。禁子弟不得縦読。其風習可以見矣。」年二十一二。稍読水滸西遊金瓶三国紅楼諸書。兼及我源語竹取宇津保俊蔭等書。乃知稗史小説。亦文学之一途。不必止游戯也。而所最喜。在水滸金瓶紅楼。及源語。能尽人情之隠微。世態之曲折。用筆周到。渾思巧緻。而源氏之能描性情。文雅而思深。金瓶之能写人品。筆密而心細。蓋千古無比也。近時小説大行。少好文辞者。莫不争先攘臂其間。然率不過陋巷之談。鄙夫之事。至大手筆如金瓶源氏等者。寥乎無聞何也。僕及読足下所著諸書。所謂細心邃思者。知不使古人専美於上矣。多情多恨金色夜叉類。殆与金瓶源語相似。僕反覆熟読不能置也。惜範囲狭。而事跡微。地位卑而思想偏。未足以展布足下之大才矣。盍借一大幻境。以運思馳筆。必有大可観者。僕老矣。若得足下之一大著述。快読之。是一生之願也。足下以何如。 |
| 【続金色夜叉/第一章】 |
時を銭なりとしてこれを換算せば、一秒を一毛に見積りて、壱人前の睡量凡そ八時間を除きたる一日の正味十六時間は、実に金五円七拾六銭に相当す。これを三百六十五日の一年に合計すれば、金弐千壱百〇弐円四拾銭の巨額に上るにあらずや。さればここに二十七日と推薄りたる歳末の市中は物情恟々として、世界絶滅の期の終に宣告せられたらんもかくやとばかりに、坐りし人は出でて歩み、歩みし人は走りて過ぎ、走りし人は足も空に、合ふさ離るさの気立く、肩相摩しては傷き、轂相撃ちては砕けぬべきをも覚えざるは、心々に今を限と慌て騒ぐ事ありて、不狂人も狂せるなり。彼らは皆な過去の十一箇月を虚に送りて、一秒の塵の積める弐千余円の大金を何処にか振落し、後悔の尾に立ちて今更に血眼を き、草を分け、瓦を揆しても、その行方を尋ねんと為るにあらざるなし。かかる間にも常は止一毛に値する一秒の壱銭乃至拾銭にも暴騰せる貴々重々の時は、速射砲を連発にするが如く飛過るにぞ、彼等の恐慌は更に意言も及ばざるなる。その平生に怠無かりし天は、又今日に何の変易もあらず、悠々として蒼く、昭々として闊く、浩々として静に、しかも確然としてその覆ふべきを覆ひ、終日北の風を下し、夕付く日の影を耀して、師走の塵の表に高く澄めり。見遍せば両行の門飾は一様に枝葉の末広く寿山の翠を交し、十町の軒端に続く注連繩は、福海の霞揺曳して、繁華を添ふる春待つ景色は、転た旧り行く歳の魂を驚かす。 かの人々の弐千余円を失ひて馳違ふ中を、梅提げて通るは誰が子、猟銃担げ行くは誰が子、妓と車を同うするは誰が子、啣楊枝して好き衣着たるは誰が子、或は二頭立の馬車を駆る者、結納の品々担する者、雑誌など読みもて行く者、五人の子を数珠繋にして勧工場に入る者、彼らは各若干の得たるところありて、かくの如く自ら足れりと為るにかあらん。これらの少く失へる者は喜び、彼らの多く失へる輩は憂ひ、又稀には全く失はざりし人の楽めるも、皆な内には齷齪として、盈てるは虧けじ、虧けるは盈たんと、孰かその求むるところに急ならざるはあらず。 人の世は三の朝より花の昼、月の夕にもその思の外はあらざれど、勇怯は死地に入りて始て明なる年の関を、物の数とも為ざらんほどを目にも見よとや、空臑の酔を踏み、鉄鞭を曳き、一巻のブックを懐にして、嘉平治平の袴の焼海苔を綴れる如きを穿ち、フラネルの浴衣の洗ひ して垢染にしたるに、文目も分かぬ木綿縞の布子を襲ねて、ジォンソン帽の瓦色に化けたるを頂き、焦茶地の縞羅紗の二重外套は何の冬誰が不用をや譲られけん、尋常よりは寸の薄りたるを、身材の人より豊なるに絡ひたれば、例の袴は風にや吹断れんと危くも閃きつつ、その人は齢三十六七と見えて、形 せたりとにはあらねど、寒樹の夕空に倚りて孤なる風情、独り負ふ気無く麗くも富める髭髯は、下には乳の辺まで 々と垂れて、左右に拈りたるは八字の蔓を巻きて耳の根にも びぬ。打見れば面目爽に、稍傲れる色あれど峻くはあらず、しかも今陶々然として酒興を発し、春の日長の野辺を辿るらんやうに、西筋の横町をこの大路に出で来らんとす。「瓢空く夜は静にして高楼に上り、酒を買ひ、簾を巻き、月を邀へて酔ひ、酔中剣を払へば光月を射る」。彼は節をかしく微吟を放ちて、行く行くかつ楽しむに似たり。打晴れたる空は瑠璃色に夕栄えて、俄に冴え勝る の目口に沁みて磨錻を打つらんやうなるに、烈火の如き酔顔を差付けては太息嘘いて、右に一歩左に一歩と きつつ、「往々悲歌して独り流涕す、君山を 却して湘水平に桂樹を 却して月更に明ならんを、丈夫志有りて……」と唱ひ出づる時、一隊の近衛騎兵は南頭に馬を疾めて、真一文字に行手を横断するに会ひければ、彼は鉄鞭を植てて、舞立つ砂煙の中に魁の花を装へる健児の参差として推行く後影をば、壮なる哉と謂まほしげに看送りて、「我四方に遊びて意を得ず、陽狂して薬を施す成都の市」と漫にその詩の首をば小声朗に吟じゐたり。さては往来の遑き目も皆な牽れて、この節季の修羅場を独天下に吃ひ酔へるは、何者の暢気か、自棄か、豪傑か、悟か、酔生児か、と異き姿を見て過るあれば、面を識らんと窺ふあり、又はその身の上など思ひつつ行くもあり。彼は太く酔へれば総て知らず、町の殷賑を眺め遣りて、何方を指して行かんとも心定らず姑く立てるなりけり。 さばかり人に怪まるれど、彼は今日のみこの町に姿を顕したるにあらず、折々散歩すらんやうに出来ることあれど、箇様の酔態を認むるは、兼て注目せる派出所の巡査も希しと思へるなり。やがて彼は鉄鞭を曳鳴して大路を右に出でしが、二町ばかりも行きて、乾の方より狭き坂道の開きたる角に来にける途端に、風を帯びて馳下りたる俥は、生憎其方に ける酔客の の辺を一衝撞てたりければ、彼は郤含を打つて二間も彼方へ撥飛さるると斉く、大地に横面擦つて僵れたり。不思議にも無難に踏留りし車夫は、この麁忽に気を奪れて立ちたりしが、面倒なる相手と見たりけん、そのまま轅を回して逃れんとするを、俥の上なる黒綾の吾妻コオト着て、素鼠縮緬の頭巾被れる婦人は樺色無地の絹臘虎の膝掛を推除けて、駐めよ、返せと悶ゆるを、猶聴かで曳々と挽き行く後より、「待て、こら!」と喝する声に、行く人の始めて事ありと覚れるも多く、はや車夫の不情を尤むる語も聞ゆるに、耐りかねたる夫人は強て其処に下車して返り来りぬ。例の物見高き町中なりければ、この忙き際をも忘れて、寄来る人数は蟻の甘きを探りたるやうに、一面には遭難者の土に踞へる周辺を擁し、一面には婦人の左右に傍ひて、目に物見んと揉立てたり。婦人は途を来つつ被物を取りぬ。紋羽二重の小豆鹿子の手絡したる円髷に、鼈甲脚の金七宝の玉の後簪を斜に、高蒔絵の政子櫛を翳して、粧は実に塵をも怯れぬべき人の謂ひ知らず思惑へるを、可痛しの嵐に堪へぬ花の顔や、と群集は自ら声を歛めて肝に徹ふるなりき。 いと更に面の裹まほしきこの場を、頭巾脱ぎたる彼の可羞しさと切なさとは幾許なりけん、打赧めたる顔は措き所あらぬやうに、人堵の内を急足に辿りたり。帽子も鉄鞭も、懐にせしブックも、薩摩下駄の隻も投散されたる中に、酔客は半ば身を擡げて血を流せる右の高頬を平手に掩ひつつ寄来る婦人を打見遣りつ。彼はその前に先づ懦れず会釈して、「どうも取んだ麁相を致しまして、何とも相済みませんでございます。おや、お顔を! お目を打ちましたか、まあどうも……」。「いや太した事はないのです」。「さやうでございますか。ぞお痛め遊ばしましたでございませう」。腰を得立てずゐるを、婦人はなほ気遣へるなり。 車夫は数次腰を屈めて主人の後方より進出でけるが、「どうも、旦那、誠に申訳もございません、どうか、まあ平に御勘弁を願ひます」。眼を其方に転じたる酔客は恚れるとしもなけれど声粛に、「貴様は善くないぞ。麁相を為たと思うたら何為車を駐めん。逃げやうとするから呼止めたんじや。貴様の不心得から主人にも恥を掻する」。「へい恐れ入りました」。「どうぞ御勘弁あそばしまして」。俥の主の身を下して辞を添ふれば、彼も打頷きて、「以来気を着けい、よ」。「へい……へい」。「早う行け、行け」。やをら彼は起たんとすなり。さては望外なる主従の喜に引易へて、見物の飽気無さは更に望外なりき。彼らは幕の開かぬ芝居に会へる想して、余に落着の蛇尾振はざるを悔みて、はや忙々き踵を回すも多かりけれど、又見栄あるこの場の模様に名残を惜みつつ去り敢へぬもありけり。 車夫は起ち悩める酔客を扶けて、履物を拾ひ、鞭を拾ひて宛行へば、主人は帽を清め、ブックを取上げて彼に返し、頭巾を車夫に与へて、懇に外套、袴の泥を払はしめぬ。免されし罪は消えぬべきも、歴々と挫傷のその面に残れるを見れば、疚きに堪へぬ心は、なほ為すべき事あるを吝みて私せるにあらずやと省られて、彼はさすがに見捨てかねたる人の顔を始は可傷しと眺めたりしに、その眼色は漸く鋭く、かつは疑ひかつは怪むらんやうに、忍びては矚りつつ便無げに佇みけるに、いでや長居は無益とばかり、彼は蹌踉と踏出せり。 婦人はとにもかくにも遣過せしが、又何とか思直しけん、遽に追行きて呼止めたり。頭を捻向けたる酔客は れる眼を屹と見据ゑて、自か他かと訝しさに言も出さず。「もしお人違でございましたら御免あそばしまして。貴方は、あの、もしや荒尾さんではゐらつしやいませんですか」。「は?」。彼は覚えず身を回して、丁と立てたる鉄鞭に仗り、こは是白日の夢か、空華の形か、正体見んと為れど、酔眼の空く張るのみにて、益す霽れざるは疑なり。「荒尾さんでゐらつしやいましたか!」。「はあ? 荒尾です、私荒尾です」。「あの間貫一を御承知の?」。「おお、間貫一、旧友でした」。「私は鴫沢の宮でございます」。「何、鴫沢……鴫沢の……宮と有仰る……?」。「はい、間の居りました宅の鴫沢」。「おお、宮さん!」。奇遇に驚かされたる彼の酔は頓に半は消えて、せめて昔の俤を認むるや、とその人を打眺むるより外はあらず。「お久しぶりで御座いました」。宮は懽び勇みて犇と寄りぬ。今は美き俥の主ならず、路傍の酔客ならず名宣合へるかれとこれとの思は如何。間貫一が鴫沢の家にありし日は、彼の兄の如く友として善かりし人、彼の身の如く契りて怜かりし人にあらずや。その日の彼らは又同胞にも得べからざる親を以て、膝をも交へ心をも語りしにあらずや。その日の彼らは多少の転変を覚悟せし一生の中に、今日の奇遇を算へざりしなり。よしさりとも、一たび同胞と睦合へりし身の、弊衣を飄して道に酔ひ、流車を駆りて富に驕れる高下の差別の自ら種ありて作せるに似たる如此きを、彼らは更に更に夢ざりしなり。その算へざりし奇遇と夢ざりし差別とは、咄々、相携へて二人の身上に逼れるなり。女気の脆き涙ははや宮の目に湿ひぬ。「まあ大相お変り遊ばしたこと!」。「も変りましたな!」。さしも見えざりし面の傷の可恐きまでに益す血を出すに、宮は持たりしハンカチイフを与へて拭はしめつつ、心も心ならず様子を窺ひて、「お痛みあそばすでせう。少しお待ちあそばしまし」。彼は何やらん吩咐けて車夫を遣りぬ。「直この近くに懇意の医者が居りますから、までいらしつて下さいまし。唯今俥を申附けました」。「何の、そんなに騒ぐほどの事は無いです」。「あれ、お殆うございますよ。さうして大相召上つてゐらつしやるやうですから、ともかくもお俥でお出あそばしまし」。「いんや、宜い、大丈夫。時に間はその後どうしましたか」。宮は胸先を刃の透るやうに覚ゆるなりき。「その事に就きまして色々お話も致したいので御座います」。「しかし、どうしてゐますか、無事ですか」。「はい……」。「決して、無事ぢやない筈です」。 生きたる心地もせずして宮の慙ぢ慄ける傍に、車夫は見苦からぬ一台の辻車を伴ひ来れり。漸く面を挙れば、いつ又寄りしとも知らぬ人立を、可忌くも巡査の怪みて近くなり。 |
| 【続金色夜叉/第二章】 |
鬚深き横面に貼薬したる荒尾譲介は既に蒼く酔醒めて、煌々たる空気ラムプの前に襞 もあらぬ袴の膝を丈六に組みて、接待莨の葉巻を燻しつつ意気粛に、打萎れたる宮と熊の敷皮を斜に差向ひたり。こはこれ、彼の識れると謂ひし医師の奥二階にて、畳敷にしたる西洋造の十畳間なり。物語ははや緒を解きしなるべし。「間が影を隠す時、僕に遺した手紙がある、それで悉い様子を知つてをるです。その手紙を見た時には、僕も顫へて腹が立つた。直に貴方に会うて、是非これは思い返すやうに飽くまで忠告して、それで聴かずば、もう人間の取扱は為ちやをられん、腹の癒ゆるほど打 して、一生結婚の成らんやう立派な不具にしてくれやう、と既にその時は立上つたですよ。しかし、間が言を尽しても貴方が聴かんと云ふ、僕の言を容れやう道理がない。又間を嫌うた以上は、貴方は富山への売物じや。他の売物に疵を附けちや済まん、とさう思うて、そりや実に矢も楯も耐らん胸を つて了うたんです」。宮が顔を推当てたる片袖の端より、連に眉の顰むが見えぬ。「宮さん、僕は貴方はさう云ふ人ではないと思うた。あれ程互に愛してをつた間さへが欺かれたんぢやから、僕の欺れたのは無理もないぢやらう。僕は僕として貴方を怨むばかりでは慊らん、間に代つて貴方を怨むですよ、いんや、怨む、七生まで怨む、きつと怨む!」。終に宮が得堪へぬ泣音は洩れぬ。「間の一身を誤つたのは貴方が誤つたのぢや。それは又間にしても、高が一婦女子に棄てられたが為に志を挫いて、命を抛つたも同然の堕落に果てる彼の不心得は、別に間として大いに責めんけりやならん。しかし、間が如何に不心得であらうと、貴方の罪は依然として貴方の罪ぢや、のみならず、貴方が間を棄てた故に、彼が今日の有様に堕落したのであつて見れば、貴方は女の操を破つたのみでない。併せて夫を刺殺したも……」。 宮は慄然として振仰ぎしが、荒尾の鋭き眥は貫一が怨も憑りたりやと、その見る前に身の措所無く打竦みたり。「同じですよ。さうは思ひませんか。で、貴方の悔悟されたのは善い、これは人として悔悟せんけりやならん事。けれども残念ながら今日に及んでの悔悟は業に晩い。間の堕落は間その人の死んだも同然、貴方は夫を持つて六年、なあ、水は覆つた。盆は破れて了うたんじや。かう成つた上は最早神の力も逮ぶことではない。お気の毒じやと言ひたいが、やはり貴方が自ら作せる罪の報で、固よりかくあるべき事ぢやらうと思ふ」。 宮は俯きてよよと泣くのみ。吁、吾が罪! さりとも知らで犯せし一旦の吾が罪! その吾が罪の深さは、あの人ならぬ人さへかくまで憎み、かくまで怨むか。さもあらば、必ず思い知る時あらんと言ひしその人の、争で争で吾が罪を容すべき。吁、吾が罪は終に容されず、吾が恋人は終に再び見る能はざるか。宮は胸潰れて、涙の中に人心地をも失はんとすなり。おのれ、利を見て愛なかりし匹婦、憎しとも憎しと思はざるにあらぬ荒尾も、当面に彼の悔悟の切なるを見ては、さすがに情は動くなりき。宮は際無く顔を得挙げずゐたり。「しかし、好う悔悟を作つた。間が容さんでも、又僕が容さんでも、貴方はその悔悟に因つて自ら容されたんじや」。由無き慰藉は聞かじとやうに宮は俯しながら頭を掉りて更に泣入りぬ。「自にても容されたのは、誰にも容されんのには勝つてをる。又自ら容さるるのは、終には人に容さるるそれが始ぢやらうと謂ふもの。僕はだまだ容し難く貴方を怨む、怨みはするけれど、今日の貴方の胸中は十分察するのです。貴方のも察するからには、他の者の間の胸中もまた察せにやならん、可いですか。さうして孰が多く憐むべきであるかと謂へば、間の無念は抑どんなぢやらうか、なあ、僕はそれを思ふんです。それを思うて見ると、貴方の苦痛を傍観するより外はない。 かうして今日図らずお目に掛つた。僕は婦人として生涯の友にせうと思うた人は、後にも先にも貴方ばかりじや。いや、それは段々お世話にもなつた、忝いと思うた事も幾度か知れん、その媛友に何年ぶりかで逢うたのぢやから、僕も実に可懐う思ひました」。宮は泣音の迸らんとするを咬緊めて、濡浸れる袖に犇々と面を擦付けたり。「けれど又、円髷に結うて、立派にしてゐらるるのを見りや、決して可愛うはなかつた。幸ひ貴方が話したい事があると言るる、善し、あの様に間を詐つた貴方じや、又僕を幾何ほど詐ることぢやらう、それを聞いた上で、今日こそは打 してくれやうと待つてをつた。しかるに、貴方の悔悟、僕は陰に喜んで聴いたのです。今日の貴方はやはり僕の友の宮さんぢやつた。好う貴方悔悟なすつた! さもなかつたら、貴方の顔にこの十倍の疵を附けにや還さんぢやつたのです。なあ、自ら容されたのは人に赦さるる始――解りましたか。で、間に取成してくれい、詑を言うてくれい、とのお嘱ぢやけれど、それは僕は為ん。為んのは、間に対してどうもできんのぢやから。又貴方に罪ありと知つてをりながらその人から頼まるる僕でない。又僕が間であつたらば、断じて貴方の罪は容さんのぢやから。かうして親友の敵に逢うてからに、指も差さずに別るる、これが荒尾の貴方に対する寸志と思うて下さい。いや、久しぶりで折角お目に掛りながら、可厭な言ばかり聞せました。それぢや、まあ、御機嫌好う、これでお暇します」。会釈して荒尾の身を起さんとする時、「暫く、どうぞ」宮は取乱したる泣顔を振挙げて、重き瞼の露を払へり。「それではこの上どんなにお願ひ申しましても、貴方はお詑を為つては下さらないので御座いますか。さうして貴方もやはり私を容さんと有仰るので御座いますか」。「さうです」。忙しげに荒尾は片膝立ててゐたり。「どうぞもう暫くゐらしつて下さいまし、唯今直に御飯が参りますですから」。「や、飯なら欲うありませんよ」。「私はまだ申し上げたい事があるのでございますから、荒尾さんどうかお坐り下さいまし」。「いくら貴方が言うたつて、返らん事ぢやありませんか」。「そんなにまで有仰らなくても、……少しは、もう堪忍なすつて下さいまし」。 火鉢の縁に片手を翳して、何をか打案ずる様なる目を しつつ荒尾は答へず。「荒尾さん、それでは、とてもお聴入はあるまいと私は諦めましたから、貫一さんへお詑の事はもう申しますまい、又貴方に容して戴く事も願ひますまい」。咄嗟に荒尾の視線は転じて、猶語続る宮が面を掠め去りぬ。「唯一目私は貫一さんに逢ひまして、その前でもつて、私の如何にも悪かつた事を思ふ存分謝りたいので御座います。唯あの人の目の前で謝りさへ為たら、それで私は本望なのでございます。素より容してもらはうとは思ひません。貫一さんが又容してくれやうとも、ええ、どうせ私は思ひは致しません。容されなくても私はかまひません。私はもう覚悟を致し……」。宮は苦しげに涙を呑みて、「ですから、どうぞ御一所にお伴れなすつて下さいまし。貴方がお伴れなすつて下されば、貫一さんはきつと逢つてくれます。逢つてさへくれましたら、私は殺されましても可いので御座います。貴方と二人で私を責めて責めて責め抜いた上で、貫一さんに殺さして下さいまし。私は貫一さんに殺してもらひたいので御座います」。感に打れて霜置く松の如く動かざりし荒尾は、忽ちその長き髯を振りて頷けり。「うむ、面白い! 逢うて間に殺されたいとは、宮さん好う言れた。さうなけりやならんじや。しかし、なあ、しかしじや、貴方は今は富山の奥さん、唯継と云ふ夫のある身じや、滅多な事はできんですよ」。「私はかまひません!」。「いかん、そりやいかん。間に殺されても辞せんと云ふその悔悟はよいが、それぢや貴方は間あるを知つて夫あるのを知らんのじや。夫はどうなさるなあ、夫に道が立たん事になりはせまいか、そこも考へて貰はにやならん。して見りや、始めには富山が為に間を欺き、今又間の為に貴方は富山を欺くんじや。一人ならず二人欺くんじや! 一方には悔悟して、それが為に又一方に罪を犯したら、折角の悔悟の効は没つて了ふ」。「そんな事はかまひません!」。無慙に唇を咬みて、宮は抑へ難くも激せるなり。「かまはんぢやいかん」。「いいえ、かまひません!」。「そりやいかん!」。「私はもうそんな事はかまひませんのです。私の体はどんなになりませうとも、疾から棄ててをるので御座いますから、唯もう一度貫一さんにお目に掛つて、この気の済むほど謝りさへ致したら、その場でもつて私は死にましても本望なのですから、富山の事などは……不如さうして死んで了ひたいので御座います」。「それそれさう云ふ無考な、訳の解らん人に僕は与することはできんと謂ふんじや。一体さうした貴方は了簡ぢやからして、始に間をも棄てたんじや。不埓です! 人の妻たる身で夫を欺いて、それでかまはんとは何事ですか。そんな貴方が了簡であつて見りや、僕はろ富山を不憫に思ふです、貴方のやうな不貞不義の妻を有つた富山その人の不幸を愍まんけりやならん、いや、愍む、貴方よりは富山に僕は同情を表する、愈よ憎むべきは貴方じや」。 四途乱に湿へる宮の目は焚ゆらんやうに耀けり。「さう有仰つたら、私はどうして悔悟したら宜いので御座いませう。荒尾さん、どうぞ助けると思召してお誨へなすつて下さいまし」。「僕には誨へられんで、貴方がまあ能う考へて御覧なさい」。「三年も四年も前から一日でもその事を考へません日と云つたらないのでございます。それが為に始終悒々と全で疾つてをるやうな気分で、噫もうこんななら、いつそ死んで了はう、と熟くさうは思ひながら、唯もう一目、一目でようございますから貫一さんに逢ひませんでは、どうも死ぬにも死なれないので御座います」。「まあ能う考へて御覧なさい」。「荒尾さん、貴方それでは余りでございますわ」。 独に余る心細さに、宮は男の袂を執りて泣きぬ。理切めて荒尾もその手を払ひかねつつ、吾ならぬ愁に胸塞れて、実にもと覚ゆる宮が衰容に眼を凝しゐたり。「荒尾さん、こんなに思つて私は悔悟してをるのぢやございませんか、昔の宮だと思召して頼に成つて下さいまし。どうぞ、荒尾さん、どうぞ、さあ、お誨へなすつて下さいまし」。涙に昏れてその語は能くも聞えず、階子下の物音は膳運び出づるなるべし。 果して人の入来て、夕餉の設すとて少時紛されし後、二人は謂ふべからざる佗き無言の中に相対するのみなりしを、荒尾は始て高く咳きつ。「貴方の言るる事は能う解つてをる、決して無理とは思はんです。如何にも貴方に誨へて上げたい、誨へて貴方の身の立つやうな処置であるなら、誨へて上げんぢやないです。けれどもじや、それが誨へて上げられんのは、僕が貴方であつたらかう為ると云ふ考量に止るので……いや、いや、そりや言れん。言うて善い事なら言ひます、人に対して言ふべき事でない、况や誨ふべき事ではない、止だ僕一箇の了簡として肚の中に思うたまでの事、究竟荒尾的空想に過ぎんのぢやから、空想を誨へて人を誤つてはどうもならんから、僕は何も言はんので、言はんぢやない、実際言得んのじや、しかし猶能う考へて見て、貴方に誨へらるる方法を見出したら、更にお目に掛つて申上げやう。折があつたら又お目に掛ります。は、僕の居住? 居住は、まあ言はん方がよい、蜑が子なれば宿も定めずじや。言うても差支はないけれど、貴方に押掛けらるると困るから、まあ言はん。は、如何にも、こんな態をしてをるので、貴方は吃驚なすつたか、さうでせう。自分にも驚いてをるのぢやけれどどうも為方がない。僕の身の上に就ては段々子細があるですとも、それもお話したいけれど、又この次に。 酒は余り飲むな? はあ、今日のやうに酔うた事は希です。忝い、折角の御忠告ぢやから今後は宜い、気を着くるです。力に成つてくれと言うたとて、義として僕は貴方の力には成れんぢやないですか。貴方の胸中も聴いた事ぢやから、敵にはなるまい、けれど力には成られんですよ。間にもその後逢はんのですとも。一遍逢うて聞きたい事も言ひたい事も頗るあるのぢやけれども。訪ねもせんので。それにや一向意味はないですとも。はあ、一遍訪ねませう。明日訪ねてくれい? さうはかん、僕もこれでなかなか用があるのぢやから。ああ、貴方も浮世が可厭か、僕も御同様じや。世の中と云ふものは、一つ間違ふと誠に面倒なもので、僕なども今日の有様では生効のない方じやけれど、このままで空く死ぬるも残念でな、さう思うて生きてはをるけれど、苦しみつつ生きてをるなら、死んだ方が無論勝ですさ。何故命が惜しいのか、考へて見ると頗る解なくなる」。語りつつ彼は食を了りぬ。「嗚呼、貴方に給仕して貰ふのは何年ぶりと謂ふのかしらん。間も善う食うた」。宮は差含む涙を啜れり。尽きせぬ悲を何時までか見んとやうに荒尾は俄に身支度して、「こりやしかし却つてお世話になりました。それぢや宮さん、お暇」。「あれ、荒尾さん、まあ、貴方……」。はや彼は起てるなり。宮はその前に塞りて立ちながら泣きぬ。「私はどうしたらよいのでせう」。「覚悟一つです」。始めて誨ふるが如く言い放ちて荒尾の排け行かんとするを、彼は猶も縋りて、「覚悟とは?」。「読んで字の如し」。驚破、彼の座敷を出づるを、送りも行かず、坐りも遣らぬ宮が姿は、寂くも壁に向ひて動かざりけり。 |
| 【続金色夜叉/第三章】 |
門々の松は除かれて七八日も過ぎぬれど、なほ正月機嫌の失せぬ富山唯継は、今日も明日もと行処を求めては、夜を に継ぎて打廻るなりけり。宮は毫かもこれも咎めず、出づるも入るも唯彼の為すに任せて、あだかも旅館の主の為らんやうに、形ばかりの送迎を怠らざると謂ふのみ。この夫に対する仕向は両三年来の平生を貫きて、彼の性質とも病身の故とも許さるるまでに目慣されて又彼方よりも咎められざるなり。それと共に唯継の行も曩日とは漸く変りて、出遊に耽らんとする傾も出で来しを、浅瀬の浪と見し間もなく近き頃より俄に深陥して浮るると知れたるを、宮は猶しも措きて咎めず。他は如何にとも為よ、吾身は如何にとも成らば成れと互に咎めざる心易さを偸みて、異き女夫の契を繋ぐにぞありける。 かかれども唯継はなほその妻を忘れんとはせず。始終の憂に瘁れたる宮は決して美き色を減ぜざりしよ。彼がその美しさを変へざる限は夫の愛は虧くべきにあらざりき。抑もここに嫁ぎしより一点の愛だになかりし宮の、今に到りては啻に愛なきに止らずして、陰に厭ひ憎めるにあらずや。その故に彼は漸く家庭の楽しからざるをも感ずるにあらずや。その故に彼は外に出でて憂を霽すに忙きにあらずや。されども彼の忘れず塒に帰り来るは、又この妻の美くしき顔を見んが為のみ。既にその顔を見了れば、何ばかりの楽のあらぬ家庭は、彼をして火なき煖炉の傍に処しむるなり。彼の凍えて出でざることなし。出づれば幸ひにその金力に頼りて勢を得、媚を買ひて、一時の慾を肆まにし、には楽むとも知らず楽み、苦むとも知らず苦みつつ宮が空き色香に溺れて、内にはかかる美きものを手活の花と眺め、外には到るところに当世の を鳴して推廻すが、此上無う紳士の願足れりと心得たるなり。いで、その妻は見るも厭き夫の傍に在る苦を片時も軽くせんとて、彼の繁き外出を見赦して、十度に一度も色を作さざるを風引かぬやうに召しませ猪牙とやらの難有き賢女の志とも戴き喜びて、いと堅き家の守とかつは等閑ならず念ひにけり。さるは独り夫のみならず、本家の両親を始親属知辺に至るまで一般に彼の病身を憫みて、おとなしき嫁よと賞め揚さぬはあらず。実に彼は某の妻のやうに出行かず、くれがしの夫人のやうに気儘ならず、又は誰々の如く華美を好まず、強請事せず、しかもそれ等の人々より才も容も立勝りて在りながら、常に内に居て夫に事ふるより外を為ざるが、最怜しと見ゆるなるべし。宮が裹める秘密は知る者もあらず、躬も絶えて異まるべき穂を露さざりければ、その夫に事へて捗々しからぬ偽も偽とは為られず、却りて人に憫まるるなんど、その身には量無き幸を享くる心の内に、独り遣方無く苦める不幸は又量なしと為ざらんや。 十九にして恋人を棄てにし宮は、昨日を夢み、今日を嘆ちつつ、過せば過さるる月日を累ねて、ここに二十あまり五の春を迎へぬ。この春の齎せしものは痛悔と失望と憂悶と、別に空くその身を老しむる齢なるのみ。彼は釈れざる囚にも同かる思を悩みて、元日の明るよりいとど懊悩の遣る方なかりけるも、年の始めといふに臥すべき病ならねば、起きゐるままに本意ならぬ粧も、色を好める夫に勧められて、例の美しと見らるる浅ましさより、猶甚き浅ましさをその人の陰に陽に恨み悲むめり。 宮は今外出せんとする夫の寒凌ぎに葡萄酒飲む間を暫く長火鉢の前に冊くなり。木振賤からぬ二鉢の梅の影を帯びて南縁の障子に上り尽せる日脚は、袋棚に据ゑたる福寿草の五六輪咲揃へる葩に輝きつつ、更に唯継の身よりは光も出づらんやうに、彼は昼眩き新調の三枚襲を着飾りてその最も珍とする里昂製の白の透織の絹領巻を右手に引 ひ、左に宮の酌を受けながら、「あ、拙い手付……ああ零れる、零れる! これは恐れ入つた。これだからつい余所で飲む気にもなりますと謂つていい位のものだ」。「ですから多度上つていらつしやいまし」。「宜いかい。宜いね。宜い。今夜は遅いよ」。「何時頃お帰来になります」。「遅いよ」。「でも大約時間を極めて置いて下さいませんと、お待ち申してをる者は困ります」。「遅いよ」。「それぢや十時には皆寝みますから」。「遅いよ」。 又言ふも煩くて宮は口を閉ぢぬ。「遅いよ」。「…………」。「驚くほど遅いよ」。「…………」。「おい、些と」。「…………」。「おや。お前慍つたのか」。「…………」。「慍らんでもいいぢやないか、おい」。彼は続け様に宮の袖を曳けば、「何を作るのよ」。「返事を為んからさ」。「お遅いのは解りましたよ」。「遅くはないよ、実は。だからして、まあ機嫌を直すべし」。「お遅いなら、お遅いで宜うございますから……」。「遅くはないと言ふに、お前は近来直に慍るよ、どう云ふのかね」。「一つは病気の所為かも知れませんけれど」。「一つは俺の浮気の所為かい。恐れ入つたね」。「…………」。「お前一つ飲まんかい」。「私沢山」。「ぢや俺が半分助けて遣るから」。「いいえ、沢山なのですから」。「まあさう言はんで、少し、注ぐ真似」。「欲くもないものを、貴方は」。「まあいいさ。お酌は、それかう云ふ塩梅に、愛子流かね」。妓の名を聞ける宮の如何に言ふらん、と唯継は陰に楽しみ待つなる流眄を彼の面に送れるなり。宮は知らず貌に一口の酒を喞みて、眉を顰めたるのみ。「もう飲めんのか。ぢや此方にお寄来し」。「失礼ですけれど」。「この上へもう一盃注いで貰はう」。「貴方、十時過ぎましたよ、早くいらつしやいませんか」。「いいよ、この二三日は別に俺の為る用はないのだから。それで実はね今日は少し遅くなるのだ」。「さうでございますか」。「遅いと云つたつて怪いのぢやない。この二十八日に伝々会の大温習があるといふ訳だらう、そこで今日五時から糸川の処へ集つて下温習を為るのさ。俺は、それお特得の、「親々に誘はれ、難波の浦を船出して、身を尽したる、憂きおもひ、泣いてチチチチあかしのチントン風待にテチンチンツン……」。厭しげに宮の余所見せるに、乗地の唯継は愈よ声を作りて、「たまたま逢ひはア――ア逢ひイ――ながらチツンチツンチツンつれなき嵐に吹分けられエエエエエエエエ、ツンツンツンテツテツトン、テツトン国へ帰ればアアアアア父イイイイ母のチチチチンチンチンチンチンチイン〔思ひも寄らぬ夫定……」。「貴方もう好加減になさいましよ」。「もう少し聴いてくれ、〔立つる操を破ら……」。「又寛り伺ひますから、早くいらつしやいまし」。「しかし、巧くなつたらう、ねえ、些と聞けるだらう」。「私には解りませんです」。「これは恐れ入つた、解らないのは情ないね。少し解るやうに成つて貰はうか」。「解らなくても宜うございます」。「何、宜いものか、浄瑠璃の解らんやうな頭脳ぢや為方がない。お前は一体冷淡な頭脳を有つてゐるから、それで浄瑠璃などを好まんのに違いない。どうもさうだ」。「そんな事はございません」。「何、さうだ。お前は一体冷淡さ」。「愛子はどうでございます」。「愛子か、あれはあれで冷淡でないさ」。「それで能く解りました」。「何が解つたのか」。「解りました」。「些も解らんよ」。「まあうございますから、早くいらつしやいまし、さうして早くお帰りなさいまし」。「うう、これは恐れ入つた、冷淡でない。ぢや早く帰る、お前待つてゐるか」。「私は何時でも待つてをりますぢや御座いませんか」。「これは冷淡でない!」。漸く唯継の立起れば、宮は外套を着せ掛けて、不取敢彼に握手を求めぬ。こは決して宮の冷淡ならざるを証するに足らざるなり、故は、この女夫の出入に握手するは、夫の始より命じて習せし躾なるをや」。 |
| 【続金色夜叉/第三章の二】 |
| 夫を玄関に送り出でし宮は、やがて氷の窖などに入るらん想しつつ、是非なき歩を運びて居間に還りぬ。彼はその夫と偕にあるを謂はんやうなき累と為なれど、又その独を守りてこの家に処るるをも堪へ難く悒きものに思へるなり。必しも力むるとにはあらねど、夫の前には自ら気の張ありて、とにかくにさるべくは振舞へど恣まなる身一箇となれば、遽に慵く打労れて、心は整へん術も知らず紊れに乱るるが常なり。 火鉢に倚りて宮は、我を喪へる体なりしが、如何に思い入り、思い回し思い窮むればとて、解くべきにあらぬ胸の内の、終に明けぬ闇に彷徨へる可悲しさは、あるにもあられず身を起して彼は障子の外なる縁に出でたり。麗く冱えたる空は遠く三四の凧の影を転じて、見遍す庭の名残く冬枯れたれば、浅露なる日の光の眩きのみにて、啼狂ひし梢の鵯の去りし後は、隔てる隣より戞々と羽子突く音して、なかなかここにはその寒さを忍ぶ値あらぬを、彼はされども少時居て、又空を眺め、又冬枯を見遣り、同き日の光を仰ぎ、同き羽子の音を聞きて、抑へんとはしたりけれども抑へ難さの竟に苦く、再び居間に入ると見れば、にも留らで書斎の次なる寝間に入るより、身を抛ちてベットに伏したり。 厚き蓐の積れる雪と真白き上に、乱畳める幾重の衣の彩を争ひつつ、妖なる姿を意も介かず横はれるを、窓の日の帷を透して隠々照したる、実に匂も零るるやうにして彼は浪に漂ひし人の今打揚げられたるも現ならず、ほとほと力竭きて絶入らんとするが如く、止だ手枕に横顔を支へて、力なき眼を れり。竟には溜息 きてその目を閉づれば、片寝に倦める面を内向けて、裾の寒さを佗しげに身動したりしが、猶も底止無き思の淵は彼を沈めて さざるなり。隅棚の枕時計は突と秒刻を忘れぬ。益す静に、益す明かなる閨の内には、空しとも空き時の移るともなく移るのみなりしが、忽ち差入る鳥影の軒端に近く、俯したる宮が肩頭に打連りて飜きつ。ややありて彼は嬾くベットの上に起直りけるが、鬢の縺れし頭を傾けて、帷の隙より僅に眺めらるる庭の面に見るとしもなき目を遣りて、当所無く心の彷徨ふ蹤を追ふなりき。 久からずして彼はここをも出でて又居間に還れば、直に箪笥の中より友禅縮緬の帯揚を取出し、心に籠めたりし一通の文とも見ゆるものを抜きて、こたびは主の書斎に持ち行きて机に向へり。その巻紙は貫一が遺せし筆の跡などにはあらで、いつかは宮の彼に送らんとて、別れし後の思の丈を窃に書聯ねたるものなりかし。 往年宮は田鶴見の邸内に彼を見しより、いとど忍びかねたる胸の内の訴へん方もあらぬ切なさに、唯心寛の仮初に援りける筆ながら、なかなか口には打出し難き事を最好く書きて陳けも為しを、あはれかのひとの許に送りて、思ひ知りたる今の悲しさを告げばやと、一図の意をも定めしが、又案ずれば、その文は果して貫一の手に触れ、目にも入るべきか。よしさればとて、憎み怨める怒の余りに投げ返されて、人目に曝さるる事などあらば、徒に身を滅す疵を求めて終りなんをと、遣れば火に入る虫の危く、捨つるは惜くも、やがて好き首尾のあらんやうに拠無き頼を繋けつつ、彼は懊悩に堪へざる毎に取出でては写し易ふる傍ら、或は書き添へ、或るは改めなどして、この文に向へば自らその人に向ふが如く、その人に向ひてはほとほと言尽して心残のあらざる如く、止これに因りて欲するままの夢をも結ぶに似たる快きを覚ゆるなりき。かくして得送らぬ文は写せしも灰となり、反古となりて、彼の帯揚に籠められては、いつまで草の可哀や用らるる果も知らず、宮が手習は実に久うなりぬ。 些箇に慰められて過せる身の荒尾に邂逅ひし嬉しさは、何に似たりと謂はんも愚にて、この人をこそ仲立ちて、積る思を遂げんと頼みしを、仇の如く与せられざりし悲しさに、さらでも切なき宮が胸は掻乱れて、今は漸く危きを懼れざる覚悟も出で来て、いつまで草のいつまでかくてあらんや、文は送らんと、この日頃思ひ立ちてけり。紙の良きを択び、筆の良きを択び、墨の良きを択び、彼は意してその字の良きを殊に択びて、今日の今ぞ始めて仮初ならず写さんと為なる。打顫ふ手に十行余認めしを、つと裂きて火鉢に差 べければ、焔の急に炎々と騰るを、可踈しと眺めたる折しも、紙門を啓けてその光に惧えし婢は、覚えず主の気色を異みつつ、「あの、御本家の奥様がお出で遊ばしました」。 |
(私論.私見)