| 続々編2 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.30日
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| 【続々編第四章】 |
両箇はやや熱かりしその日も垂籠めて夕に抵りぬ。むづかしげに暮山を繞りし雲は、果して雨と成りて、冷々と密下るほどに、宵の燈火も影更けて、壁に映ふ物の形皆な寂しく、憖ひに起きてあるべき夜頃ならず。さては貫一も枕に就きたり。ラムプを細めたる彼らの座敷も甚だ静に、宿の者さへ寐急ぎて後十一時は鳴りぬ。凄き谷川の響に紛れつつ、小歇もせざる雨の音の中に、かの病憊れたるやうの柱時計は、息も絶気に半夜を告げわたる時、両箇が閨の燈は乍ち明かに耀けるなり。彼らは倶に起出でて火鉢の前にあり。「膳を持つて来ないか」。「ええ」。女は幺微なる声して答へけれど、打萎れて、なかなか立ちも遣らず。「狭山さん、私は何だか貴方に言残した事がだあるやうな心持がして……」。「吁、もうかう成つちやお互に何も言はないがい。言へばやつぱり未練が出る」。彼は熟と し了りてもなほ離れかねつつ、物は得言はでゐたり。颯と鳴りて雨は一時繁く灑ぎ来れり。「ああ、大相降つて来た」。「貴方は不断から雨が所好だつたから、きつとそれで……暇……乞に降つて来たんですよ」。「好い折だ。あの雨を肴に……お静、もう覚悟を為ろよ!」。「あ……あい。狭山さん、それぢや私も……覚……悟したわ」。「酒を持つて来な」。「あい」。お静も今は心を励して、宵の程誂へ置きし酒肴の床間に上げたるを持来て、両箇が中に膳を据れば、男は手早く燗して、その間に各服を更むる忙しさは、忽ち衣の擦り、帯の鳴る音高く ※[#「糸+察」、436-13]と乱れ合ひて、転た雨濃なる深夜を驚かせり。「ええ、もう好かない!」。帯緊めながら女はその端を振りて身悶せるなり。「どうしたのだ」。「なあにね、帯がこんなに結ばつて了つて」。「帯が結ばつた?」。「ああ! あなた釈いて下さい、よう」。「何か吉い事があるのだ」。「私はもしも遣損つて、耻でも曝すやうな事があつちやと、それが苦労に成つて耐らなかつたんだから、これでもう可いわ」。「それは大丈夫だから安心するが可い。けれど、もしもだ、お静、そんな事はないとは念ふけれど、運悪く遅れたら、俺はきつと後から往くから――どんなにしても往くから、恨まずに待つてゐてくれ。よ、可……可いか」。つと俯したるお静は、男の膝を咬みて泣きぬ。「その代り、偶としてお前が後になるやうだつたら、俺は死んでも……魂はおまへの陰身を離れないから、必ず心変を……す、するなよ、お静」。「そんな事を言はないで、一処に……連れて……往つて……下さいよ」。「一処に往くとも!」。「一処に! 一処に往きますよ!」。「さあ、それぢやこ、この世の……別れに一盃飲むのだ。もう泣くな、お静」。「泣、泣かない」。「さあ、那裏へ行つて飲まう」。 |
| 男は先づ起ちて、女の手を把れば、女はその手に縋りつつ、泣く泣く火鉢の傍に座を移しても、なほ離難なに寄添ひゐたり。「猪口でなしに、その湯呑に為やう」。「さう。ぢや半分づつ」。熱燗の酒は烈々と薫じて、お静が顫ふ手元より狭山が顫ふ湯呑に注がれぬ。女の最も悲かりしは、げにこの刹那の思なり。彼は人の為に酒を佐るに嫻ひし手も、などや今宵の恋の命も、儚き夢か、うたかたの水盃のみづからに、酌取らんとは想の外の外なりしを、唄にも似たる身の上哉と、漫に逼る胸の内、何に譬へん方もあらず。男は燗の過ぎたるに口を着けかねて、少時手にせるままに眺めゐれば、よし今は憂くも苦くも、久く住慣れしこの世を去りて、永く返らざらんとする身には、僅に一盃の酒に対するも、又哀別離苦の感なき能はざるなり。念へ、彼らの逢初めし夕、互に意りて銜みしもこの酒ならずや。更に両個の影に伴ひて、人の情の必ず濃なれば、必ず芳かりしもこの酒ならずや。その恋中の楽を添へて、三歳の憂を霽せしもこの酒ならずや。彼はその酒を取りて、吉き事積りし後の凶の凶なる今夜の末期に酬ゆるの、可哀に余り、可悲きに過るを観じては、口にこそ言はざりけれど、玉成す涙は点々と散りて零れぬ。「おまへの酌で飲むのも……今夜きりだ」。「狭山さん、私はこんなに苦労を為て置きながら、到頭一日でも……貴方と一処に成れずに、芸者風情で死んで了ふのが……悔い、私は!」。聞くも苦しと、男は一息に湯呑の半を呷りて、「さあ、お静」。女は何気なく受けながら、思へば、別の盃かと、手に取るからに胸潰れて、「狭山さん、私は今更お礼を言ふと云ふのも、異な者だけれど、貴方は長い月日の間、私のやうなこんな不束者の我儘者を、能くも愛相を尽かさずに、深切に、世話をして下すつた。私は今まで口には出さなかつたけれど、心の内ぢや、狭山さん、嬉いなんぞと謂ふのは通り越して、実に難有いと思つてゐました。その御礼をしたいにも、知つてゐる通りの阿母さんがあるばかりに唯さう思ふばかりで、どうと云ふ事もできず、本当に可恥いほど行届かないだらけで、これぢや余り済まないから、一日も早く所帯でも持つやうに成つて、さうしたら一度にこの恩返しをしませうと、私は、そればかりを楽に、できない辛抱も為てゐたんだけれど、もう、今と成つちや何もかも水……水……水の……泡。つい心易立から、浸々お礼も言はずにゐたけれど、狭山さん、私の心は、さうだつたの。もうこれぎりで、貴方も……私も……土に成つて了へば、又とお目には掛れ、ないんだから、せめては、今改めて、狭山さん、私はお礼を申します」。 男は身をも搾らるるばかりに怺へかねたる涙を出せり。「もうそ、そ、そんな事……言つて……くれるな! 冥路の障だ。両箇が一処に死なれりや、それで不足はないとして、外の事なんぞは念はずに、お静、お互に喜んで死なうよ」。「私は喜んでゐますとも、嬉いんですとも。嬉くなくてどうしませう。このお酒も、祝つて私は飲みます」。涙諸共飲み干して、「あなた、一つお酌して下さいな」。注げば又呷りて、その余せるを男に差せば、受けて納めて、手を把りて、顔見合せて、抱緊めて、惜めばいよいよ尽せぬ名残を、いかにせばやと思惑へる互の心は、唯それなりに息も絶えよと祈る可かめり。男は抱ける女の耳のあたかも唇に触るる時、現ともなく声誘はれて、「お静、覚悟は可いか」。「可いわ、狭山さん」。「可けりや……」。「不如もう早く」。狭山は直に枕の下なる袱紗包の紙入を取上げて、内より出せる一包の粉剤こそ、正に両個が絶命の刃に易ふる者なりけれ。女は二つの茶碗を置き並ぶれば、玉の如き真白の粉末は封を披きて、男の手よりその内に頒たれぬ。「さあ、その酒を取つてくれ。お前のには俺が酌をするから、俺のにはお前が」。「ああ可うござんす」。 |
| 雨はこの時漸く霽れて、軒の玉水絶々に、怪禽鳴過る者両三声にして、跡松風の音颯々たり。狭山はやがて銚子を取りて、一箇の茶碗に酒を澆げば、お静は目を閉ぢ、合掌して、聞えぬほどの忍音に、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」。代りて酌する彼の想は、吾手男の胸元に刺違ふる鋩を押当つるにも似たる苦しさに、自から洩出づる声も打震ひて、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無……阿弥陀……南無阿弥……陀……仏、南無……」と両個は心も消入らんとする時、俄に屋鳴震動して、百雷一処に堕ちたる響に、男は顛れ、女は叫びて、前後不覚の夢か現の人影は、乍ち顕れて燈火の前にあり。 「貴方方は、怪からん事を! いけませんぞ」。男は漸く我に復りて、惧ぢ愕ける目を き、「ああ! 貴方は」。「お見覚ありませう、あれに居る泊客です。無断にお座敷へ入つて参りまして、甚だ失礼ぢや御座いますけれど、実に危い所! 貴下方はどうなすつたのですか」。悄然として面を挙げざる男、その陰に半ば身を潜めたる女、貫一は両個の姿を しつつ、彼の答を待てり。「勿論これには深い事情がお有んなさるのでせう。ですから込入つたお話は承はらんでも宜い、但何故に貴下方は活きてをられんですか、それだけお聞せ下さい」。「…………」。「お二人が添ふに添れん、と云ふやうな事なのですか」。男は甚だ微に頷きつ。「さやうですか。さうしてその添れんと云ふのは、何故に添われんのです」。彼は又黙せり。「その次第を伺つて、私の力で及ぶ事でありましたら、随分御相談合手にも成らうかと、実は考へるので。しかし、お話の上で到底私如きの力には及ばず、成る程活きてをられんのは御尤だ、他人の私でさへ外に道はない、と考へられるやうなそれが事情でありましたら、私は決してお止め申さん。ここに居て、立派に死なれるのを拝見もすれば、介錯もして上げます。私もこの間に入つた以上は、空く手を退く訳には行かんのです。貴下方を拯ふ事ができるか、できんか、那一箇です。幸に拯ふ事ができたら、私は命の親。又できなかつたら、貴下方はこの世に亡い人。この世に亡い人なら、如何なる秘密をここで打明けたところが、一向差支無からうと私は思ふ。し命の親とすればです、猶更その者に裹み隠す事はないぢやありませんか。私は何も洒落に貴下方のお話を聴かうと云ふのぢやありません、可うございますか、顕然と聴くだけの覚悟を持つて聴くのです。さあ、お話し下さい!」。 |
| 【続々編第五章】 |
| 貫一は気を厳粛にして逼れるなり。さては男も是非なげに声出すべき力もあらぬ口を開きて、「はい御深切に……難有う存じます……」。「さあ、お話し下さい」。「はい」。「今更お裹みなさる必要はなからう、と私は思ふ。いや、つい私は申上げんでをつたが、東京の麹町の者で、間貫一と申して、弁護士です。かう云ふ場合にお目に掛るのは、好々これは深い御縁なのであらうと考へるのですから、決して貴下方の不為に成るやうには取計ひません。私もできる事なら、人間両個の命を拯ふのですから、どうにでもお助け申して、一生の手柄にしてみたい。私はこれ程までに申すのです」。「はい、段々御深切に、難有う存じます」。「それぢや、お話し下さるか」。「はい、お聴に入れますで御座います」。「それは忝ない」。彼は始めて心安う座を取れば、恐る惶る狭山は先づその姿を偸見て、「何からお話し申して宜いやら……」。「いや、その、何ですな、貴下方は添ふに添れんから死ぬと有仰る――! 何為添れんのですか」。「はい、実は私は、恥を申しませんければ解りませんが、主人の金を大分遣ひ込みましたので御座います」。「はあ、御主人持ですか」。「さやうで御座います。私は南伝馬町の幸菱と申します紙問屋の支配人を致してをりまして、狭山元輔と申しまする。又これは新橋に勤を致してをります者で、柏屋の愛子と申しまする」。名宣られし女は、消えも遣らでゐたりし人陰の闇きより僅に躙り出でて、面伏にも貫一が前に会釈しつ。「はあ、成る程」。「然るところ、昨今これに身請の客が附きまして」。「ああ、身請の? 成る程」。「否でもその方へ参らんければ成りませんやうな次第。又私はその引負の為に、主人から告訴致されまして、活きてをりますれば、その筋の手に掛りますので、如何にとも致し方が御座いませんゆゑ、無分別とは知りつつも、つい突迫めまして、面目次第も御座いません」。 |
| 彼らはその無分別を慙ぢたりとよりは、この死失ひし見苦しさを、天にも地にも曝しかねて、俯しも仰ぎも得ざる項を竦め、尚も為ん方なさの目を閉ぢたり。「ははあ。さうするとここに金さへあれば、どうにか成るのでせう! 貴方の費消だつて、その金額を弁償して、宜く御主人に詑びたら、無論内済に成る事です。婦人の方は、先方で請出すと云ふのなら、でも請出すまでの事。さうして、貴方の引負は若干ばかりの額に成るのですか」。「三千円ほど」。「三千円。それから身請の金は?」。狭山は女を顧みて、二言三言小声に語合ひたりしが、「何やかやで八百円ぐらゐは要りますので」。「三千八百円、それだけあつたら、貴下方は死なずに済むのですな」。打算し来れば、真に彼らの命こそ、一人前一千九百円に過ぎざるなれ。「それぢや死ぬのはつまらんですよ! 三千や四千の金なら、随分そこらに滾つてゐやうと私は思ふ。ついては何とか御心配して上げたいと考へるのですが、先づとにかく貴下方の身の上を一番悉くお話し下さらんか」。 かかる際には如何ばかり嬉き人の言ならんよ。彼はその偽と真とを思ふに遑あらずして、遣る方もなき憂身の憂きを、冀くば跡も留めず語りて竭さんと、弱りし心は雨の柳の、漸く風に揺れたる勇を作して、「はい、ついに一面識も御座いません私共、殊に痴情の果に箇様な不始末を為出しました、何ともはや申しやうもない爛死蛇に、段々と御深切のお心遣、却つて恥入りまして、実に面目次第も御座いません。折角の御言で御座いますから、思召に甘えまして、一通りお話致しますで御座いますが、何から何まで皆な恥で、人様の前ではほとほと申上げ兼ねますので御座います。実は、只今申上げました三千円の費消と申しますのは、究竟遊蕩を致しました為に、店の金に手を着けましたところ、始めの内はどうなり融通も利きましたので、それが病付に成つて、段々と無理を致しまして、長い間に 々穴を開けましたのが、積り積つて大分に成りましたので御座います。るところ、もう八方塞つて遣繰は付きませず、いよいよ主人には知れますので、苦し紛れに相場に手を出したのが怪我の元で、ちよろりと取られますと、さあそれだけ穴が大きく成りましたものですから、愈よ為方御座いません、今度はどうか、今度はどうかで、もうさう成つては私も死物狂で、無理の中から無理を致して、続くだけ遣りましたところが、到頭逐倒されて了ひまして、三千円と申上げました費消も、半分以上はそれに注込みましたので御座います。しかし、これだけの事で御座いますれば、主人も従来の勤労に免じて、又どうにも勘弁は致してくれましたので御座います。現にこの一条が発覚致しまして、主人の前に呼付けられました節も、この度の事は格別を以つて赦し難いところも赦して遣ると、箇様に申してはくれましたので」。「成る程 」。「と申すのには、少し又仔細が御座いますので。それは、主人の家内の姪に当ります者が、内に引取つて御座いまして、これを私に妻せやうと云ふ意衷で、前々からその話はありましたので御座いますが、どうも私は気が向きませんもので、何と就かずに段々言延して御座いましたのを、決然どうかと云ふ手詰の談に相成りましたので。究竟、費消は赦して遣るから、その者を家内に持て、と箇様に主人は申すので御座います」。「大きに」。「には又千百事情が御座いまして、私の身に致しますと、その縁談は実に辞るにも辞りかねる義理に成つてをりますので、それを不承知だなどと吾儘を申しては、なかなか済む訳の者ではないので御座います」。「ああ、さうなのですか」。「そこへ持つて参つて、の不都合で御座います、それさへ大目に見てくれやうと云ふので御座いますから、全仇をば恩で返してくれますやうな、申し分のない主人の所計。それを乖きましては、私は罰が中りますので御座います。さうとは存じながら、やつぱり私の手前勝手で、如何にともその気に成れませんので、已むを得ず縁談の事は拒絶を申しましたので御座います」。「うむ、成る程」。「それが為に主人は非常な立腹で、さう吾儘を言ふのなら、費消を償へ、それができずば告訴する。さうしては貴様の体に一生の疵が附く事だから、思反して主人の指図に従へと、中に人まで入れて、だまだ申してくれましたのを、までも私は剛情を張り通して了つたので御座います」。 「吁! それは貴方が悪いな」。「はい、もう私の善いところは一つでもあるのぢや御座いません。その事に就きまして、主人に書置も致しましたやうな次第で、既に覚悟を極めました際まで、心懸と申すのは、唯そればかりなので御座いました。で又その最中にこれの方の身請騒が起りましたので」。「成る程!」。「これの母親と申すのは養母で御座いまして、私も毎々話を聞いてをりますが、随分それは非道な強慾な者で御座います。まあ悉く申上げれば、長いお話も御座いますが、これも娘と申すのは名のみで、年季で置いた抱も同様の取扱を致して、為て遣る事は為ないのが徳、稼げるだけ稼がせないのは損だと云つたやうな了簡で、長い間無理な勤を為せまして、散々に搾り取つたので御座います。で、私のある事も知つてはをりましたが、近頃私が追々廻らなく成つて参つたところから、さあ聒く言出しまして、毎日のやうに切れろ切れろで責め抜いてをります際に、今の身請の客が附いたので御座います。丁度去年の正月頃から来出した客で、下谷に富山銀行といふのが御座います、あれの取締役で」。 |
「え 何……何……何ですか!」。「御承知で御座いますか、あの富山唯継と云ふ……」。「富山? 唯継!」。その面色、その声音! 彼は言下に皷怒して、その名に躍り被らんとする勢を示せば、愛子は駭き、狭山は懼れて、何事とも知らず狼狽へたり。貫一は轟く胸を推鎮めても、なほ眼色の燃ゆるが如きを、両個が顔に忙く注ぎて、「その富山唯継が身請の客ですか」。「はい、さやうで御座いますが、貴方は御存じでゐらつしやいますので?」。「知つてゐます! 好く……知つてゐます!」。狭山の打惑ふ傍に、女は密に驚く声を放てり。「那奴が身請の?」。問はるる愛子は、会釈して、「はい、さやうなんで御座います」。「で、貴方は彼に退かされるのを嫌つたのですな」。「はい」。「さうすると、去年の始めから貴方はあれの世話に成つてをつたのですか」。「私はあんな人の世話なんぞには成りは致しません!」。「はあ? さうですか。世話に成つてゐたのぢやないのですか」。「いいえ、貴方。唯お座敷で始終呼れますばかりで」。「ああ、さうですか! それぢや旦那に取つてをつたと云ふ訳ぢやないのですか」。女は聞くも穢しと、さすが謂ふには謂れぬ尻目遣して、「私には、さう云ふ事ができませんので、今までついにお客なんぞを取つた事は、全然いんで御座います」。「ああ、さうですか! うむ、成る程……成る程な……解りました、好く解りました」。狭山は俯きゐたり。「それではかう云ふのですな、貴方は勤を為てをつても、外の客には出ずに、この人一個を守つて――さうですね」。「さやうです」。「さうして、余所の身請を辞つて――富山唯継を振つたのだ! さうですな」。「はい」。 |
忽に瞳を凝せる貫一は、愛子の面を熟視して止まざりしが、やがてその眼の中に浮びて、輝くと見れば霑ひて出づるものあり。「嗚呼……感心しました! 実に立派な者です! 貴方は命を捨てても……この人と……添ひたいのですか!」。何の故とも分かず彼の男泣に泣くを見て、両個は空く呆るるのみ。貫一が涙なるか。彼はこの色を売るの一匹婦も、知らず誰か爾に教へて、死に抵るまで尚この頼り難き義に頼り、守り難き節を守りて、終に奪はれざる者あるに泣けるなり。その泣く所以なるか。彼はこの人の世に、さばかり清く新くも、崇く優くも、高く麗くも、又は、完くも大いなる者在るを信ぜざらんと為るばかりに、一度は目前睹るを得て、その倒懸の苦を寛うせん、と心 くが如く望みたりしを、今却りて浮萍の底に沈める泥中の光に値へる卒爾の歓極まれればなり。「勿論さうなけりや成らん事! それが女の道と謂ふもので、さうあるべきです、さうあるべき事です。今日のこの軽薄極つた世の中に、とてもそんな心掛のある人間は、私は決してあるものではないと念つてをつた。で、もしあつたらば、どのくらゐ嬉からうと、さう念つてをつたのです。私は実に嬉い! 今夜のやうに感じた事はありません。私はこの通り泣いてゐる――涙が出るほど嬉いのです。私は人事とは思はん、人事とは思はん訳があるので、別して深く感じたのです」。 |
かく言ひて、貫一は忙々く鼻洟打 みつ。「ふむ、それで富山はどうしました」。「来る度に何のかのと申しますのを、体好く辞るんで御座いますけれど、もう く来ちや、一頻なんぞは毎日揚詰に為れるんで、私はふつふつ不好なんで御座います。それに、あの人があれで大の男自慢で、さうして独で利巧ぶつて、可恐い意気がりで、二言目には金々と、金の事さへ言へば人は難有がるものかと思つて、俺がかうと思や千円出すとか、ここへ一万円積んだらどうするとか、始終そんなあり余るやうな事ばかり言ふのが癖だもんですから、衆が『御威光』と云ふ仇名を附けて了つて、何処へ行つたつて気障がられてゐる事は、そりや太甚いんで御座います」。「ああ、さうですか」。「そんな風なんですから、体好く辞つたくらゐぢや、なかなか感じは為ませんので、可けもしない事を不相変執煩く、何だかだ言つてをりましたけれど、這箇も剛情で思ふやうに行かないもんですから、了局には手を易へて、内のお袋へ親談をして、内々話はできたんで御座んせう。どうもそんなやうな様子で、お袋は全(まる)で気違いのやうに成つて、さあ、私を責めて責めて、もう箸の上下には言れますし、狭山と切れろ切れろの聒く成りましたのも、それからなので、私は辛さは辛し、熟くこんな家業は為る者ぢやないと、何も解らずに面白可笑く暮してゐた夢も全く覚めて、考へれば考へるほど、自分の身が余りつまらなくて、もうどうしたら可いんだらう、と鬱ぎ切つてゐる矢先へ、今度は身請と来たんで御座います」。「うむ、身請――けれども、貴方を別にどう為たと云ふ事もなくて、直に身請と云ふのですか」。「さうなので」。「変な奴な! さう云ふ身請の為方が、しかし、ありますか」。「まあ御座いませんです」。「さうでせう。それで、身請をして他へ囲つて置かうとでも云ふのですか」。「はい、これまで色々な事を申しても、私が聴きませんもんで、末始終気楽に暮せるやうにして遣つたら、言分はなからうと云つたやうな訳で、まあ身請と出て来たんで。何ですか、今の妻君は、あれはどうだから、かう為るとか、ああ為るとか、好いやうな嬉がらせを言つちやをりましたけれど」。 |
| 眉を昂げたる貫一、なぞ彼の心の裏に震ふものあらざらんや。「妻君に就いてどう云ふ話があるのですか」。「何んですか知りませんが、あの人の言ふんでは、その妻君は、始終寐てゐるも同様の病人で、小供はなし、用には立たず、あつてもないも同然だから、その内に隠居でもさせて、私を内へ入れてやるからと、まあさう云つたやうな口気なんで御座います」。「さうして、それは事実なのですか、妻君を隠居させるなどと云ふのは」。「随分ちやらつぽこを言ふ人なんですから、なかなか信にはなりは致しませんが、妻君の病身の事や、そんなこんなで余り内の面白くないのは、どうも全くさうらしいんで御座んす」。「ははあ」。彼は遽に何をや打案ずらん、夢むる如き目を放ちて、「折合が悪いですか!……病身ですか!……隠居をさせるのですか!……ああ……さうですか!」。宮の悔、宮の恨、宮の歎、宮の悲、宮の苦、宮愁、宮が心の疾、宮が身の不幸、噫、竟にこれ宮が一生の惨禍! 彼の思は今将たこの憐むに堪へたる宮が薄命の影を追ひて移るなりき。貫一はかの生ける宮よりも、この死なんと為る女の幾許幸にかつ愚ならざるかを思ひて、又躬の、先には己の愛する者を拯ふ能はずして、今却りて得知らぬ他人に恵みて余りある身の、幾許幸くも又愚なるかを思ひて、謂ふばかりなく悲めるなり。 |
| 時に愛子は話を継ぎぬ。貫一は再び耳を傾けつ。「そんな捫懌最中に、狭山さんの方が騒擾に成りましたんで、私の事はまあどうでも、ここに三千円と云ふお金がない日には、訴へられて懲役に遣られると云ふんですから、私は吃驚して了つて、唯もう途方に昧れて、これは一処に死ぬより外はないと、その時直にさう念つたんで御座います。けれども、又考へて、背に腹は替へられないから、これは不如富山に訳を話して、それだけのお金をどうにでも借りるやうにしやうかとも思つて見まして、狭山さんに話しましたところ、俺の身はどうでも、お前の了簡ぢや、富山の処へ行くのがよいか、死ぬのがよいか、とかう申すので御座いませう」。「うむ、大きに」。「私はあんな奴に自由に為れるのはさて置いて、これまでの縁を切るくらゐなら死んだ方が愈だと、初中終言つてをりますんですから、あんな奴に身を委せるの、不好は知れてゐます」。「うむ、さうとも」。「さうなんですけれど金ゆゑで両個が今死ぬのも余り悔いから、三千円きつと出すか、出さないか、それは分りませんけれど、もし出したらば出さして、なあに私は那裏へ行つたつて、直に迯げて来さへすりや、切れると云ふんぢやなし、少の間不好な夢を見たと思へば、それでも死ぬよりは愈だらう、と私はさう申しますと、狭山さんは、それは詐取だ……」。「それは詐取だ! さうとも」。 |
| あだかも我名の出でしままに、男はこれより替りて陳べぬ。「詐取で御座いますとも! 情婦を種に詐取を致すよりは、費消の方が罪は夐に軽う御座います。そんな悪事を働いてまでも活きてゐやうとは、私は決して思ひは致しません。又これに致しましても、あれまで振り通した客に、今と成つて金ゆゑ体を委せるとは、如何なる事にも、余り意気地がなさ過ぎて、それぢや人間の皮を被つてゐる効が御座りませんです。私は金に窮つて心中なんぞを為た、と人に嗤れましても、情婦の体を売つたお陰で、やうやう那奴等は助つてゐるのだ、と一生涯言れますのは不好で御座います。そんな了簡が出ます程なら、両個の命ぐらゐ助ける方は外に幾多も御座いますので。ここに活きてゐやうと云ふには、どうでもこの上の悪事を為んければ成りませんので、とても死ぬより外はない! 私は死ぬと覚悟を為たが、お前の了簡はどうか、と実は私が申しましたので」。「成る程。そこで貴方が?」。「私は今更富山なんぞにどうしやうと申したのも、究竟私ゆゑにそんな訳に成つた狭山さんが、どうにでも助けたいばかりなんで御座いますから、その人が死ぬと言ふのに、私一箇残つてゐたつて、為様が有りは致しません。貴方が死ぬなら、私も死ぬ――それぢや一処にと約束を致して、ここへ参つたんで御座います」。「いや、善く解りました!」。
貫一は宛然我が宮の情急に、誠壮に、凛たるその一念の言を、かの当時に聴くらん想して、独り自ら胸中の躍々として痛快に堪へざる者あるなり。正にこれ、垠も知らぬ失恋の沙漠は、濛々たる眼前に、麗き一望のミレエジは清絶の光を放ちて、甚だ饒に、甚だ明かに浮びたりと謂はざらん哉。彼は幾どこの女の宮ならざるをも忘れて、その七年の憂憤を、今夜の今にして始て少頃も破除するの間を得つ。信に得難かりしこの間こそ、彼が宮を失ひし以来、唯これに易へて望みに望みたりし者ならずと為んや。嗚呼麗きミレエジ! 貫一が久渇の心は激く動されぬ。彼は声さへやや震ひて、「さう申しては失礼か知らんが、貴方の商売柄で、一箇の男を熟と守つて、さうしてその人の落目に成つたのも見棄てず、一方には、身請の客を振つてからに、後来花の咲かうといふ体を、男の為には少しも惜まずに死なうとは、実に天晴なもの! 余り見事な貴方のその心掛に感じ入つて、私は……涙が……出ました。貴方は、どうか生涯その心掛を忘れずにゐて下さい! その心掛は、貴方の宝ですよ。又狭山さんの宝、則ち貴下方夫婦の宝なのです! 今後とも、貴方は狭山さんの為には何日でも死んで下さい。何日でも死ぬと云ふ覚悟は、始終きつと持つてゐて下さい。よう御座いますか。千万人の中から唯一人見立てて、この人はと念つた以上は、勿論その人の為には命を捨てるくらゐの了簡がなけりや成らんのです。その覚悟がないくらゐなら、始めから念はん方がよいので、一旦念つたら骨が舎利に成らうとも、決して志を変へんと云ふのでなければ、色でも、恋でも、何でもないです! で、し好いた、惚れたと云ふのは上辺ばかりで、その実は移気な、水臭い者とも知らず、這箇は一心に成つて思窮めてゐる者を、いつか寝返を打れて、突放されるやうな目に遭つたと為たら、その棄てられた者の心の中は、どんなだと思ひますか」。彼の声音は益す震へり。「さう云ふのがあります! |
| 私は世間にはさう云ふのの方が多いと考へる。そんな徒爾な色恋は、為た者の不仕合、棄てた者も、棄てられた者も、互に好い事はないのです。私は現にさう云ふのを睹てゐる! 睹てゐるから今貴下方がかうして一処に死ぬまでも離れまいと云ふまでに思合つた、その満足はどれ程で、又そのお互の仕合は、実に謂ふに謂はれん程の者であらう、と私は思ふ。それに就けても、貴方のその美い心掛、立派な心掛、どうかその宝は一生肌身に附けて、どんな事があらうとも、決して失はんやうに為て下さい!――よう御座いますか。さうして、貴下方はお二人とも末長く、です、毎も今夜のやうなこの心を持つて、睦く暮して下さい、私はそれが見たいのです!今は死ぬところでない、死ぬには及びません、三千円や四千円の事なら、私がどうでもして上げます」。聞訖りし両個が胸の中は、諸共に潮の如きものに襲はれぬ。 だ服さざりし毒の俄に変じて、この薬と成れる不思議は、喜ぶとよりは愕かれ、愕くとよりは打惑はれ、惑ふとよりは怪まれて、鬼か、神か、人ならば、如何なる人かと、彼らは覚えず貫一の面を見据ゑて、更にその目を窃に合せつ。四辺も震ふばかりに八声の鶏は高く唱へり。夜すがら両個の運星蔽ひし常闇の雲も晴れんとすらん、隠約と隙洩る曙の影は、玉の緒長く座に入りて、光薄るる燈火の下に並べるままの茶碗の一箇に、小き蛾りて、落ちて浮べり。[#改ページ] |
(私論.私見)