| 続編3 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.30日
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| ここで、「」を確認する。 2005.3.22日、2006.7.10日再編集 れんだいこ拝 |
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| 【続編3第七章】 |
家の内を隈く尋ぬれどもあらず、さては今にも何処よりか帰来んと待てど暮せど、姿を晦せし貫一は、我家ながらも身を容るる所なき苦紛れに、裏庭の木戸より傘も さで忍び出でけるなり。されど唯一目散に脱れんとのみにて、卒に志す方もあらぬに、生憎降頻る雨をば、辛くも人の軒などに凌ぎつつ、足に任せて行くほどに、近頃思立ちて折節通へる碁会所の前に出でければ、ともかくも成らんとて、に躍入りけり。客は三組ばかり、各静に窓前の竹の清韻を聴きて相対せる座敷の一間奥に、主は乾魚の如き親仁の黄なる髯を長く生したるが、兀然として独り盤を磨きゐる傍に通りて、彼は先づ濡れたる衣を炙らんと火鉢に寄りたり。異み問はるるには能くも答へずして、貫一は余りに不思議なる今日の始末を、その余波は今も轟く胸の内に痛か思回して、又空く神は傷み、魂は驚くといへども、我や怒るべき、事や哀むべき、或は悲むべきか、恨むべきか、抑も喜ぶべきか、慰むべきか、彼は全く自ら弁ぜず。五内渾て燃え、四肢直に氷らんと覚えて、名状すべからざる感情と煩悶とは新に来りて彼を襲へるなり。 主は貫一が全濡の姿よりも、更に可訝きその気色に目留めて、問はでも椿事のありしを疑はざりき。ここまで身は遁れ来にけれど、なかなか心安からで、両人を置去にし跡は如何、又我が為んやうは如何など、彼は打惑へり。沸くが如きその心の騒しさには似で、小暗き空に満てる雨声を破りて、三面の盤の鳴る石は断続して甚だ幽なり。主はこの時窓際の手合観に呼れたれば、貫一は独り残りて、未だ乾ぬ袂を翳しつつ、愈よ限りなく惑ひゐたり。遽に人の騒立つるに愕きて顔を挙れば、座中尽く頸を延べて己が方を眺め、声々に臭しと喚はるに、見れば、吾が羽織の端は火中に落ちて黒煙を起つるなり。直に揉消せば人は静るとともに、彼もまた前の如し。 |
| 少頃りて、門に入来し女の訪ふ声して、「宅の旦那様はもしや這裡へいらつしやりは致しませんでたらうか」。主は忽ち髯の頤を回して、「ああ、奥にお在で御座いますよ」。豊かと差覗きたる貫一は、「おお、傘を持つて来たのか」。「はい。にお在なので御座いましたか、もう方々お捜し申しました」。「さうか。客は帰つたか」。「はい、疾にお帰になりまして御座います」。「四谷のも帰つたか」。「いいえ、是非お目に掛りたいと有仰いまして」。「居る?」。「はい」。「それぢや見付からんと言つて措け」。「ではお帰りに成りませんので?」。「も少し経つたら帰る」。「直にもうお中食で御座いますが」。「いから早く行けよ」。「だ旦那様は朝御飯も」。「よいと言ふに!」。老婢は傘と足駄とを置きて悄々還りぬ。程なく貫一も焦げたる袂を垂れて出行けり。 彼はこの情緒の劇く紛乱せるに際して、可煩き満枝に らるる苦悩に堪へざるを思へば、その帰去らん後までは決して還らじと心を定めて、既に所在を知られたる碁会所を立出でしが、いよいよ指して行くべき方はあらず。はや正午と云ふに未だ朝の物さへ口に入れず、又半銭をも帯びずして、如何にんとするにかあらん、猶降りに降る雨の中を茫々然として徨へり。初夏の日は長かりけれど、纔に幾局の勝負を決せし盤の上には、殆ど惜き夢の間に昏れて、折から雨も霽れたれば、好者どもも終に碁子を歛めて、惣立に帰るをあたかも送らんとする主の忙々く燈ともす比なり、貫一の姿は始めて我家の門に顕れぬ。彼は内に入るより、「飯を、飯を!」と婢を叱して、颯と奥の間の紙門を排けば、何ぞ図らん燈火の前に人の影あり。彼は立てるままに目を りつ。されど、その影は後向に居て動かんとも為ず。満枝は未だ往かざるか、と貫一は覚えず高く舌打したり。女は尚も殊更に見向かぬを、此方もわざと言を掛けずして子亭に入り、豊を呼びて衣を更へ、膳をもに取寄せしが、何とか為けん、必ず入来べき満枝の食事を了るまでも来ざるなりき。却りて仕合好しと、貫一は打労れたる身を暢かに、障子の月影に肱枕して、姑く喫烟に耽りたり。敢て恋しとにはあらねど、苦しげに羸れたる宮が面影の幻は、頭を回れる一蚊の声の去らざらんやうに襲ひ来て、彼が切なる哀訴も従ひて憶出でらるれば、なほ往きかねて那辺に忍ばずやと、風の音にも幾度か頭を挙げし貫一は、婆娑として障子に揺るる竹の影を疑へり。宮は何時までここにあらん、我は例の孤なり。思ふに、彼の悔いたるとは誠ならん、我の死を以て容さざるも誠なり。彼は悔いたり、我より容さば容さるべきを、さは容さずして堅く隔つる思も、又怪きまでに貫一は佗くて、その釈き難き怨に加ふるに、或る種の哀に似たる者あるを感ずるなりき。いと淡き今宵の月の色こそ、その哀にも似たるやうに打眺めて、他の憎しとよりは転た自を悲しと思続けぬ。彼は竟に堪へかねたる気色にて障子を推啓れば、涼き空に懸れる片割月は真向に彼の面に照りて、彼の愁ふる眼は又痛かにその光を望めり。 |
「間さん」。居たるを忘れし人の可疎き声に見返れば、はや背後に坐れる満枝の、常は人を見るに必ず笑を帯びざるなき目の秋波も乾き、顔色などは殊に槁れて、などかくは浅ましきと、心陰に怪む貫一。「ああ、まだ御在でしたか」。「はい、居りました。お午前から私お待ち申してをりました」。「ああ、さうでしたか、それは大きに失礼しました。さうして何ぞ急な用でも」。「急な用がなければ、お待ち申してをつては悪いので御座いますか」。語気の卒に きを駭ける貫一は、空く女の顔を見遣るのみ。「お悪いで御座いませう。お悪いのは私能く存じてをります。第一お待ち申してをりましたのよりは、今朝ほど私の参りましたのが、一層お悪いので御座いませう。飛だ御娯のお邪魔を致しまして、間さん、誠に私相済みませんで御座いました」。その眼色は怨の鋩を露して、男の面上を貫かんとやうに緊く見据ゑたり。貫一は苦笑して、「貴方は何を な事を言つてゐるのですか」。「今更お しなさるには及びませんさ。若い男と女が一間に入つて、取付き引付きして泣いたり笑つたりしてをれば、訳は大概知れてをるぢや御座いませんか。私あれに控へてをりまして、様子は大方存じてをります。七歳や八歳の子供ぢや御座いません、それ位の事は誰にだつて直に解りませうでは御座いませんか。爾後貴方がお出掛になりますと私直にここのお座敷へ推掛けて参つて、あの御婦人にお目に掛りましたので御座います」。絮しと聞流せし貫一も、ここに到りて耳を欹てぬ。「さうして色々お話を伺ひまして、お二人の中も私能く承知致しました。あの方も又有仰らなくてもよささうな事までお話を作いますので、それは随分聞難い事まで私伺ひました」。為失したりと貫一は密に術無き拳を握れり。満枝は猶も言足らで、「しかし、間さん、遉に貴方で御座いますのね、私敬服して、了ひました。失礼ながら貴方のお腕前に驚きましたので御座います。ああ云つた美婦人を御娯にお持ち遊ばしてゐながら、世間へは偏人だ事の、一国者だ事のと、その方へ掛けては実に奇麗なお顔を遊ばして、今日の今朝まで何年が間と云ふもの秘隠に隠し通してゐらしつたお手際には私実に驚入つて一言も御座いません。能く凄いとか何とか申しますが、貴方のやうなお方の事をさう申すので御座いませう」。「もうつまらん事を……、貴方何ですか」。「お口ぢやさう有仰つても、実はお嬉いので御座いませう。あれ、ああしちや考へてゐらつしやる! そんなにも恋くてゐらつしやるのですかね」。されば我が出行きし迹をこそ案ぜしに、果してかかる は出で来にけり。由無き者の目には触れけるよ、と貫一はいと苦く心跼りつつ、物言ふも憂き唇を閉ぢて、唯月に打向へるを、女は此方より熟々と見透して目も放たず。「間さん、貴方さう黙つてゐらつしやらんでも宜いでは御座いませんか。ああ云ふお美いのを御覧に成つた後では、私如き者には口をお利きに成るのもお可厭なのでゐらつしやいませう。私お察し申してをります。ですから私決して絮い事は申上げません。少し聞いて戴きたい事が御座いますのですから、庶かそれだけ言して下さいまし」。貫一は冷に目を転して、「何なりと有仰い」。「私もう貴方を殺して了ひたい!」。「何です 」。「貴方を殺して、あれも殺して、さうして自分も死んで了ひたく思ふのです」。「それもよいでせう。よいけれど何で私が貴方に殺されるのですか」。「間さん、貴方はその訳を御存無いと有仰るのですか、どの口で有仰るのですか」。「これは怪からん! 何ですと」。「怪からんとは、貴方も余りな事を有仰るでは御座いませんか」。既に恨み、既に瞋りし満枝の眼は、ここに到りて始て泣きぬ。いとあるまじく思掛けざりし貫一はろ可恐しと念へり。「貴方はそんなにも私が憎くてゐらつしやるのですか。何で又さうお憎みなさるのですか。その訳をお聞せ下さいまし。私それが伺ひたい、是非伺はなければ措きません」。「貴方を何日私が憎みました。そんな事はありません」。「では、何で怪からんなどと有仰います」。「怪からんぢやありませんか、貴方に殺される訳があるとは。私は決して貴方に殺される覚はない」。満枝は口惜しげに頭を掉りて、「あります! 立派にあると私信じてをります」。「貴方が独で信じても……」。「いいえ、独りであらうが何であらうが、自分の心に信じた以上は、私それを貫きます」。「私を殺すと云ふのですか」。「随分殺しかねませんから、覚悟をなすつてゐらつしやいまし」。「はあ、承知しました」。 |
| いよいよ昇れる月に木草の影もをかしく、庭の風情は添りけれど、軒端なる芭蕉葉の露夥く夜気の侵すに堪へで、やをら内に入りたる貫一は、障子を閉てて燈を明うし、故に床の間の置時計を見遣りて、「貴方、もうお帰りに成つたがよいでせう、余り晩くなるですから。ええ?」。「憚り様で御座います」。「いや、御注意を申すのです」。「その御注意が憚り様で御座いますと申上げるので」。「ああ、さうですか」。「今朝のあの方なら、そんな御注意なんぞは遊ばさんで御座いませう。如何ですか」。憎さげに言い放ちて、彼は吾矢の立つを看んとやうに、姑く男の顔色を候ひしが、「一体あれは何者なので御座います!」。犬にも非ず、猫にも非ず、汝に似たる者よと思ひけれど、言争はんは愚なりと勘弁して、彼は才に不快の色を作せしのみ。満枝は益す独り憤れて、「旧いお馴染ださうで御座いますが、あの恰好は、商売人ではなし、万更の素人でもないやうな、貴方も余程不思議な物をお好み遊ばすでは御座いませんか。しかし、間さん、あれは主有る花で御座いませう」。妄に言へるならんと念へど、如何にせん貫一が胸は陰に轟けるを。「どうですか、なあ」。「さう云ふ者を対手に遊ばすと、別してお楽が深いとか申しますが、その代に罪も深いので御座いますよ。貴方が今日まで巧に隠し抜いてゐらしつた訳も、それで私能く解りました。こればかりは余り公に御自慢はできん事で御座いますもの、秘密に遊ばしますのは実に御尤で御座います。その大事の秘密を、人もあらうに、貴方の嫌ひの嫌ひの大御嫌ひの私に知られたのは、どんなにかお心苦くゐらつしやいませう。私十分お察し申してをります。しかし私に取りましては、これ程幸な事はないので御座います。貴方が余り片意地に他を苦めてばかりゐらしつたから、今度は私から思ふ様これで苦めて上げるのです。さう思召してゐらつしやい!」。 聞訖りたる貫一は吃々として窃笑せり。「貴方は気でも違ひはんですか」。「少しは違つてもをりませう。誰がこんな気違には作すつたのです。私気が違つてゐるなら、今朝から変に成つたので御座いますよ。お宅に詣つて気が違つたのですから、元の正気に復してお還し下さいまし」。彼は擦寄り、擦寄りて貫一の身近に逼れり。浅ましく心苦かりけれど迯ぐべくもあらねば、臭き物に鼻を掩へる心地しつつ、貫一は身を側め側め居たり。満枝は猶も寄添はまほしき風情にて、「就きましては、私一言貴方に伺ひたい事があるので御座いますが、これはどうぞ御遠慮なく貴方の思召す通りを丁と有仰つてお聞せ下さいまし、宜う御座いますか」。「何ですか」。「なんですかでは可厭です、宜いと截然有仰つて下さい。さあ、さあ、貴方」。「けれども……」。「けれどもぢや御座いません。私の申す事だと、貴方は毎も気のない返事ばかり遊ばすのですけれど、何も御迷惑に成る事では御座いませんのです、私の申す事に就て貴方が思召す通を答へて下されば、それで宜いのですから」。「勿論答へます。それは当然の事ぢやないですか」。「それが当然でなく、極打明けて少しも裹まずに言つて戴きたいのですから」。 善と貫一は頷きつ。「では、きつと有仰つて下さいまし。間さん、貴方は私を い奴だと思召してゐらつしやるで御座いませう。私始終さう思ひながら、貴方の御迷惑もかまはずにやつぱりかうして附纏つてゐるのは、自分の口から箇様な事を申すのも、甚だ可笑いので御座いますけれど、私、実に貴方の事は片時でも忘れは致しませんのです。それは如何に思つてをりましたところが、元来私と云ふ者を嫌ひ抜いて御在なのですから、あの歌が御座いますね、行く水に数画くよりも儚きは、思はぬ人を思ふなりけりとか申す、実にその通り、行く水に数を画くやうな者で、私の願の ふ事は到底ないので御座いませう。もうさうと知りながら、それでも、間さん、私こればかりは諦められんので御座います。こんな者に見込れて、さぞ御迷惑ではゐらつしやいませうけれども私がこれ程までに思つてゐると云ふ事は、貴方も御存でゐらつしやいませう。私が熱心に貴方の事を思つてゐると云ふ事で御座います、それはお了解に成つてゐるで御座いませう」。「さうですな……そりや或はさうかも知れませんけれど……」。「何を言つてゐらつしやるのですね、貴方は、或はもさうかもないでは御座いませんか! さもなければ、私何も貴方に がられる訳は御座いませんさ、貴方も私を いと思召すのが、現に何よりの証拠で。漆膠くて困ると御迷惑してゐらつしやるほど、承知を遊ばしてお在のでは御座いませんか」。「それはさう謂へばそんなものです」。「貴方から嫌はれ抜いてゐるにも関らず、こんなに私が思つてゐると云ふ事は、十分御承知なので御座いませう」。「さう」。「で、私従来に色々申上げた事が御座いましたけれど、些とでもお聴き遊ばしては下さいませんでした。それは表面の理窟から申せば、無理なお願いかも知れませんけれど、私は又私で別に考へるところがあつて、決して貴方の有仰るやうな道に外れた事とは思ひませんのです。よしんばさうでありましても、こればかりは外の事とは別で、お互にかうと思つた日には、に理窟も何もあるのでは御座いません。究竟貴方がそれを口実にして遁げてゐらつしやるのは、始から解り切つてゐるので。しかし、貴方も人から偏屈だとか、一国だとか謂れてゐらつしやるのですから、成る程儀剛な片意地なところもお有なすつて、色恋の事なんぞには貪着を遊ばさん方で、それで私の心も汲分けては下さらんのかと、さうも又思つたり致して、実は貴方の頑固なのを私歯痒いやうに存じてをつたので御座います……ところが!」。 |
| と言ひも敢へず煙管を取りて、彼は貫一の横膝をば或る念力強く痛か推したり。「何を作るのです!」。払へば取直すその煙管にて、手とも云はず、膝とも云はず、当るを幸に満枝は又打ち被る。こは何事と駭ける貫一は、身を避る暇もあらず三つ四つ撃れしが、遂に取つて抑へて両手を働かせじと為れば、内俯に引据ゑられたる満枝は、物をも言はで彼の股の辺に咬付いたり。怪からぬ女哉、と怒の余に手暴く捩放せば、なほ辛くも縋れるままに面を擦付けて咽泣に泣くなりき。 貫一は唯不思議の為体に呆れ惑ひて言も出でず、漸く泣ゐる彼を推斥けんとしたれど、膠の附きたるやうに取縋りつつ、益す泣いて泣いて止まず。涙の湿は単衣を透して、この難面き人の膚に沁みぬ。捨て置かば如何に募らんも知らずと、貫一は用捨なく※放[#「(夕+匕)/手」、376-12]して、起たんと為るを、彼は虚さず りて、又泣顔を擦付れば、怺へかねたる声を励す貫一、「貴方は何を為るのですか! 好い加減になさい」。「…………」。「さうして早くお帰りなさい」。「帰りません!」。「帰らん? 帰らんけりや宜い。もう明日からは貴方のここへ足蹈のできんやうにして了ふから、さうお思ひなさい」。「私死んでも参ります!」。「今まで我慢をしてゐたですけれど、もう抛つて置かれんから、私は赤樫さんに会つて、貴方の事をすつかり話して了ひます」。満枝は始めて涙に沾へる目を挙げたり。「はあ、お話し下さい」。「…………」。「赤樫に聞えましたら、どう致すので御座います」。貫一は歯を鳴して急上げたり。「貴方は……実に……驚入つた根性ですな! 赤樫は貴方の何ですか」。「間さん、貴方は又赤樫を私の何だと思召してゐらつしやるのですか」。「怪からん!」。彼は憎き女の頬桁をば撃つて撃つて打割る能はざるを憾と為なるべし。「定てあれは私の夫だと思召すので御座いませうが、決してさやうでは御座いませんです」。「そんなら何ですか」。「往日もお話致しましたが、金力で無理に私を奪つて、遂にこんな体にして了つた、謂はば私の讐も同然なので。成る程人は夫婦とも申しませうが私の気では何とも思つてをりは致しません。さうですから、自分の好いた方に惚れて騒ぐ分は、一向差支のない独身も同じので御座います。間さん、どうぞ赤樫にお会ひ遊ばしたら、満枝の奴が惚れてゐて為方がないから、内の御膳炊に貰つて遣るから、さう思へと、貴方が有仰つて下さいまし。私豊の手伝いでも致して、に一生奉公を致します。貴方は大方赤樫に言ふと有仰つたら、震へ上つて私が怖がりでも為ると思召すのでせうが、私驚きも恐れも致しません、ろ勝手なのですけれど、赤樫がそれは途方に昧れるで御座いませう」。 |
貫一はほとほと答ふるところを知らず。満枝もこそは呆れつらんと思へば、「それは実際で御座いますの。もし話が一つ間違つて、面倒な事でも生じましたら、私が困りますよりは余程赤樫の方が困るのは知れてゐるのですから、私を遠けやう為に、お話をなさるのなら、徒爾な事で御座います。赤樫は私を恐れてをりませうとも、私些ともあの人を恐れてはをりませんです。けれども、折角さう思召すものなら、物は試で御座いますから、間さん、貴方、赤樫にお話し遊ばして御覧なさいましな。私も貴方の事を吹聴致します。ああ云ふ主る婦人と関係遊ばして、始終人目を忍んで逢引してゐらつしやる事を触散しますから、それで何方が余計迷惑するか、比較事を致しませう。如何で御座います」。「男勝りの機敏な貴方にも似合はん、さすがは女だ」。「何で御座います?」。「お聞きなさい。男と女が話をしてゐれば、それが直ちに逢引ですか。又妙齢の女でさへあれば、必ず主あるに極つてゐるのですか。浅膚な邪推とは言ひながら、人を誣ふるも太甚い! 失敬千万な、気を着けて口をお利きなさい」。「間さん、貴方、些と此方をお向きなさい」。手を取りて引けば、振釈き、「ええ、もう貴方は」。「お いでせう」。「勿論」。「私向後もつと、もつともつと くして上げるのです。さあ、貴方、今何と有仰つたので御座います、浅膚な邪推ですつて? 貴方こそも少し気を着けてお口をお利き遊ばせな、貴方も男子でゐらつしやるなら、何為立派に、その通だ。情婦があるのがどうしたと、かう打付けて有仰らんのです。間さん、私貴方に向つてそんな事をかれこれ申す権利はない女なので御座いますよ。幾多さう云ふ権利を有ちたくても、有つ事ができずにゐるので御座います。それに、何も私の前を憚つて、さう向に成つてお隠し遊ばすには当らんでは御座いませんか。私実を申しませうか、箇様なので御座います。貴方が余所外にまだ何百人愛してゐらつしやる方がありませうとも、それで愛相を尽して、貴方の事を思い切るやうな、私そんな浮気な了簡ではないのです。又貴方の御迷惑に成る秘密を洩しましたところで、 はない願いが ふ訳ではないので御座いませう。どう思召してゐらつしやるか存じませんけれど、私それ程卑怯な女ではない積で御座います。世間へ吹聴して貴方を困らせるなどと申したのは、あれは些のその場の憎まれ口で、私決してそんな心は微塵もないので御座いますから、どうかそのお積で、お心持を悪く遊ばしませんやうに。つい口が過ぎましたのですから、御勘弁遊ばしまして。私この通りお詫を致します」。満枝は惜まず身を下して、彼の前に頭を低ぐる可憐しさよ。貫一は如何にともる能はずして、窃に首を掻いたり。「きましては、私今から改めて折入つた御願があるので御座いますが貴方も従来の貴方ではなしに、十分人情を解してゐらつしやる間さんとして宣告を下して戴きたいので御座います。そのお辞次第で、私もう断然何方に致しても了簡を極めて了ひますですから、間さん、貴方も庶か歯に衣を着せずに、お心にある通りをそのまま有仰つて下さいまし。宜う御座いますか。今更新く申上げませんでも、私の心は奥底まで見通しに貴方は御存でゐらつしやるのです。従来も随分絮く申上げましたけれど、貴方は一図に私をお嫌ひ遊ばして、些でも私の申す事は取上げては下さらんのです――さやうで御座いませう。貴方からそんなに嫌はれてゐるのですから、私もさう何時まで好い耻を掻かずとも、早く立派に断念して了へば宜いのです。私さう申すと何で御座いますけれど、これでも女子にしては極未練のない方で、手短に一か八か決して了ふ側なので御座います。それがこの事ばかりは実に我ながら何為かう意気地がなからうと思ふ程、……これが迷つたと申すので御座いませう。自分では物に迷つた事と云ふはない積の私、それが貴方の事ばかりには全く迷ひました。ですから、唯その胸の中だけを貴方に汲んで戴けば、私それで本望なので御座います。これ程に執心致してをる者を、徹頭徹尾貴方がお嫌ひ遊ばすと云ふのは、能く能くの因果で、究竟貴方と私とは性が合はんので御座いませうから、それはもう致方もありませんが、そんなに為れてまでもやつぱりかうして慕つてゐるとは、如何にも不敏な者だと、設ひその当人はお気に召しませんでも、その心情はお察し遊ばしても宜いでは御座いませんか。決してそれをお察し遊ばす事の出来ない貴方ではないと云ふ事は、私今朝の事実で十分確めてをります。御自分が恋く思召すのも、人が恋いのも、恋いに差はないで御座いませう。して、貴方、片思に思つてゐる者の心の中はどんなに切ないでせうか、間さん、私貴方を殺して了ひたいと申したのは無理で御座いますか。こんな不束な者でも、同じに生れた人間一人が、貴方の為には全で奴隷のやうに成つて、しかも今貴方のお辞を一言聞きさへ致せば、それで死んでも惜くないとまでも思込んでゐるので御座います。をお考へ遊ばしたら、如何に好かん奴であらうとも、雫ぐらゐの情は懸けて遣らう、と御不承ができさうな者では御座いませんか。私もさう御迷惑に成る事は望みませんです、せめて満足致されるほどのお辞を、唯一言で宜いのですから、今までのお馴染効にどうぞ間さん、それだけお聞せ下さいまし」。 |
終に近く益す顫へる声は、竟に平生の調をさへ失ひて聞えぬ。彼は正くその一言の為には幾千円の公正証書を挙げて反古に為んも、なかなか吝からぬ気色を帯びて逼れり。息は凝り、面は打蒼みて、その袖よりは劒を出さんか、その心よりは笑を出さんか、と胸跳らせて片時も苦く待つなりき。切なりと謂はば実に極めて切なる、可憐しと謂はば又極めて可憐き彼の心の程は、貫一もいと善く知れれど、他の己を愛するの故を以て直ちに蛇蝎に親まんや、と却りてその執念をば難堪く浅ましと思へるなり。されど又情として く言ふを得ざるこの場の仕儀なり。貫一は打悩める眉を強て披かせつつ、「さうして貴方が満足するやうな一言?……どう云ふ事を言つたらよいのですか」。「貴方もまあ何を有仰つてゐらつしやるのでせう。御自分の有仰る事を他にお聞き遊ばしたつて、誰が存じてをりますものですか」。「それはさうですけれど、私にも解らんから」。「解るも解らんもないでは御座いませんか。それが貴方は何か巧い遁口上を有仰らうとなさるから、急に御考もないので、貴方に対する私、その私が満足致すやうな一言と申したら、間さん、外にはありは致しませんわ」。「いや、それなら解つてゐます……」。「解つてゐらつしやるなら些と有仰つて下さいましな」。「それは解つてゐますけれど、貴方の言れるのはかうでせう。段々お話のあつたやうな訳であるから、とにかくその心情は察してもよからう、それを察してゐるのが善く解るやうな挨拶をしてくれと云ふのぢやありませんか。実際それは余程難い、別にどうも外に言ひ様もないですわ」。「まあ何でも宜う御座いますから、私の満足致しますやうな御挨拶をなすつて下さいまし」。「だから、何と言つたら貴方が満足なさるのですか」。「私のこの心を汲んでさへ下されば、それで満足致すので御座います」。「貴方の思召は実に難有いと思つてゐます。私は永く記憶してこれは忘れません」。「間さん、きつとで御座いますか、貴方」。「勿論です」。「きつとで御座いますね」。「相違ありません!」。「きつと?」。「ええ!」。「その証拠をお見せ下さいまし」。「証拠を?」。 「はあ。口頭ばかりでは私可厭で御座います。貴方もあれ程確に有仰つたのですから、万更心にない事をお言ひ遊ばしたのでは御座いますまい。さやうならそれだけの証拠がある訳です。その証拠を見せて下さいますか」。「みせられる者なら見せますけれど」。「見せて下さいますか」。「見せられる者なら。しかし……」。「いいえ、貴方が見せて下さる思召ならば……」。驚破、障子を推開きて、貫一は露けき庭に躍り下りぬ。つとその迹に顕れたる満枝の面は、斜に葉越の月の冷き影を帯びながらなほ火の如く燃えに燃えたり。 |
| 【第八章】 |
| 家の内には己と老婢との外に、今客もあらざるに、女の泣く声、詬る声の聞ゆるは甚だ謂無し、我、或は夢むるにあらずやと疑ひつつ、貫一は枕せる頭を擡げて耳を澄せり。その声は急に噪く、相争ふ気勢さへして、はたはたと紙門を犇かすは、愈よ怪しと夜着排却けて起ち行かんとする時、ばつさり紙門の倒るると斉く、二人の女の姿は貫一が目前に転び出でぬ。苛まれしと見ゆる方の髪は浮藻の如く乱れて、着たるコートは雫するばかり雨に濡れたり。その人は起上り様に男の顔を見て、嬉しや、可懐しやと心も空なる気色。「貫一さん」と匐ひ寄らんとするを、薄色魚子の羽織着て、夜会結に為たる後ろ姿の女は躍り被つて引据れば、「あれ、貫、貫一さん!」。拯を求むるその声に、貫一は身も消入るやうに覚えたり。彼は念頭を去らざりし宮ならずや。七生までその願いは聴かじと郤けたる満枝の、我の辛さを彼に移して、先の程より打ちも詬りもしたりけんを、猶慊らで我が前に責むるかと、貫一は怺へかねて顫ひゐたり。 満枝は縦まに宮を据へて些も動かせず、徐に貫一を見返りて、「間さん、のお大事の恋人と云ふのはこれで御座いませう」。頸髪取つて宮が面を引立てて、「この女で御座いませう」。「貫一さん、私は悔う御座んす。この人は貴方の奥さんですか」。「私奥さんならどうしたのですか」。「貫一さん!」。彼は足擦して叫びぬ。満枝は直ちに推伏せて、「ええ、聒い! 貫一さんはに一人居たら沢山ではありませんか。貴方より私が間さんには言ふ事があるのですから、少し静にして聴いてお在なさい。間さん、私想ふのですね、究竟かう云ふ女が貴方に腐れ付いてゐればこそ、どんなに申しても私の言は取上げては下さらんので御座いませう。貴方はそんなに未練がおあり遊ばしても、元この女は貴方を棄てて、余所へ嫁に入つて了つたやうな、実に畜生にも劣つた薄情者なのでは御座いませんか。――私善く存じてゐますわ。貴方も余り男らしくなくてお在なさる。それは如何にお可愛いのか存じませんけれど、一旦愛相を尽して迯げて行つた女を、いつまでも思込んで遅々してゐらつしやるとは、まあ何たる不見識な事でせう! 貴方はそれでも男子ですか。私ならこんな女は一息に刺殺して了ふのです」。 |
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宮は跂返さんとしが、又抑へられて声も立てず。「間さん、貴方、私の申上げた事をば、やあ道ならぬの、不義のと、実に立派な口上を有仰いましたでは御座いませんか、それ程義のお堅い貴方なら、何為こんな淫乱の人非人を阿容活けてお置き遊ばすのですか。それでは私への口上に対しても、貴方男子の一分が立たんで御座いませう。何為成敗は遊ばしません。さあ、私決してもう二度と貴方には何も申しませんから、貴方もこの女を見事に成敗遊ばしまし。さもなければ、私も立ちませんです。間さん、どう遊ばしたので御座いますね、早く何とか遊ばして、貴方も男子の一分をお立てなさらんければ済まんところでは御座いませんか。私ここで拝見致してをりますから、立派に遣つて御覧あそばせ。卒と云ふ場で貴方の腕が鈍つても、決して為損じのないやうに、私好い刃物をお貸し申しませう。さあ、間さん、これをお持ち遊ばせ」。彼の懐を出でたるは蝋塗の晃く一口の短刀なり。貫一はその殺気に撲れて一指をも得動かさず、空く眼を輝して満枝の面を睨みたり。 宮ははや気死せるか、推伏せられたるままに声もなし。「さあ、私かうして抑へてをりますから、吭なり胸なり、ぐつと一突に遣つてお了ひ遊ばせ。ええ、もう貴方は何を遅々してゐらつしやるのです。刀の持様さへ御存じないのですか、かうして抜いて!」と片手ながらに一揮揮れば、鞘は発矢と飛散つて、電光袂を廻る白刃の影は、忽ち飜つて貫一が面上三寸の処に落来れり。「これで突けば可いのです」。「…………」。「さては貴方はこんな女にだ未練があつて、息の根を止めるのが惜くてゐらつしやるので御座いますね。殺して了はうと思ひながら、手を下す事ができんのですね。私代つて殺して上げませう。何の雑作もない事。些と御覧あそばせな」。 |
言下に勿焉と消えし刃の光は、早くも宮が乱鬢を掠めて顕れぬ。 呀と貫一の号ぶ時、妙くも彼は跂起きざまに突来る鋩を危く外して、「あれ、貫一さん!」と満枝の手首に縋れるまま、一心不乱の力を極めて捩伏せ捩伏せ、仰様に推重りて仆したり。「貫、貫一さん、早く、早くこの刀を取つて下さい。さうして私を殺して下さい――貴方の手に掛けて殺して下さい。私は貴方の手に掛つて死ぬのは本望です。さあ、早く殺して、私は早く死にたい。貴方の手に掛つて死にたいのですから、後生だから一思に殺して下さい!」。この恐るべき危機に瀕して、貫一は謂知らず自ら異くも、敢て拯の手を藉さんと為るにもあらで、しかも見るには堪へずして、空く悶えに悶えゐたり。必死と争へる両箇が手中の刃は、或は高く、或るいは低く、右に左に閃々として、あたかも一鉤の新月白く風の柳を縫ふに似たり。「貫一さん、貴方は私を見殺になさるのですか。どうでもこの女の手に掛けて殺すのですか! 私は命は惜くはないが、この女に殺されるのは悔い! 悔い 私は悔い 」。彼は乱せる髪を夜叉の如く打振り打振り、五体を揉みて、唇の血を噴きぬ。彼も殺さじ、これも傷けじと、貫一が胸は車輪の廻るが若くなれど、如何にせん、その身は内より不思議の力に緊縛せられたるやうにて、逸れど、躁れど、寸分の微揺を得ず、せめては声を立てんと為れば、吭は又塞りて、銕丸を啣める想。力も今は絶々に、はや危しと宮は血声を揚げて、「貴方が殺して下さらなければ、私は自害して死にますから、貫一さん、この刀を取つて、私の手に持せて下さい。さ、早く、貫一さん、後生です、さ、さ、さあ取つて下さい」。又激しく捩合ふ郤含に、短刀は戞然と落ちて、貫一が前なる畳に突立つたり。宮は虚さず躍り被りて、我物得つと手に為れば、遣らじと満枝の組付くを、推隔つる腋の下より後突に、 も透れと刺したる急所、一声号びて仰反る満枝。鮮血! 兇器! 殺傷! 死体! 乱心! 重罪! 貫一は目も眩れ、心も消ゆるばかりなり。宮は犇と寄添ひて、「もうこの上はどうで私はない命です。お願ですから、貫一さん、貴方の手に掛けて殺して下さい。私はそれで貴方に赦された積で喜んで死にますから。貴方もどうぞそれでもう堪忍して、今までの恨は霽して下さいまし、よう、貫一さん。私がこんなに思つて死んだ後までも、貴方が堪忍して下さらなければ、私は生替死替して七生まで貫一さんを怨みますよ。さあ、それだから私の迷はないやうに、貴方の口からお念仏を唱へて、これで一思ひに、さあ貫一さん、殺して下さい」。朱に染みたる白刃をば貫一が手に持添へつつ、宮はその可懐き拳に頻回頬擦したり。「私はこれで死んで了へば、もう二度とこの世でお目に掛ることはないのですから、せめて一遍の回向をして下さると思つて、今はの際で唯一言赦して遣ると有仰つて下さい。生きてゐる内こそどんなにも憎くお思ひでせうけれど、死んで了へばそれつきり、罪も恨も残らず消えて土に成つて了ふのです。私はかうして前非を後悔して、貴方の前で潔く命を捨てるのも、その御詑が為たいばかりなのですから、貫一さん、既往の事は水に流して、もう好い加減に堪忍して下さいまし。よう、貫一さん、貫一さん! 今思へばあの時の不心得が実に悔くて悔くて、私は何とも謂ひやうがない! 貴方が涙を零して言つて下すつた事も覚えてゐます。後来きつと思中るから、今夜の事を忘れるなとお言ひの声も、今だに耳に付いてゐるわ。私の一図の迷とは謂ひながら何為あの時に些少でも気が着かなかつたか。愚な自分を責めるより外はないけれど、死んでもこんな回復の付かない事を何で私は為ましたらう! 貫一さん、貴方の罰が中つたわ! 私は生きてゐる空がない程、貴方の罰が中つたのだわ! だから、もうこれで堪忍して下さい。よ、貫一さん。さうしてとてもこの罰の中つた躯では、今更どうかうと思つても、願なんぞの ふと云ふのは愚な事、だまだ憂目を見た上に思死に死にでもしなければ、私の業は滅しないのでせうから、この世に未練は沢山あるけれど、私は早く死んで、この苦艱を埋めて了つて、さうして早く元の浄い躯に生れ替つて来たいのです。さうしたら、私は今度の世には、どんな艱難辛苦をしても、きつと貴方に添遂げて、この胸に一杯思つてゐる事もすつかり善く聴いて戴き、又この世で為遺した事もその時は十分為てお目に掛けて、必ず貴方にも悦ばれ、自分も嬉い思をして、この上もない楽い一生を送る気です。今度の世には、貫一さん、私は決してあんな不心得は為ませんから、貴方も私の事を忘れずにゐて下さい。うござんすか! きつと忘れずにゐて下さいよ。人は最期の一念で生を引くと云ふから、私はこの事ばかり思窮めて死にます。貫一さん、この通だから堪忍して!」。 |
声震はせて縋ると見れば、宮は男の膝の上なる鋩目掛けて岸破と伏したり。「や、行つたな!」。貫一が胸は劈けて始めてこの声を出せるなり。「貫一さん!」。無残やな、振仰ぐ宮が喉は血に塗れて、刃の半を貫けるなり。彼はその手を放たで苦き眼を きつつ、男の顔を視んとするを、貫一は気も漫に引抱へて、「これ宮、貴様は、まあこれは何事だ!」。大事の刃を抜取らんとすれど、一念凝りて些も弛めぬ女の力。「これを放せ、よ、これを放さんか。さあ、放せと言ふに、ええ、何為放さんのだ」。「貫、貫一さん」。「おお、何だ」。「私は嬉い。もう……もう思遺す事はない。堪忍して下すつたのですね」。「まあ、この手を放せ」。「放さない! 私はこれで安心して死ぬのです。貫一さん、ああ、もう気が遠く成つて来たから、早く、早く、赦すと言つて聞せて下さい。赦すと、赦すと言つて!」。血は滾々と益す流れて、末期の影は次第に黯く逼れる気色。貫一は見るにも堪へず心乱れて、「これ、宮、確乎しろよ」。「あい」。「赦したぞ! もう赦した、もう堪……堪……堪忍……した!」。「貫一さん!」。「宮!」。「嬉い! 私は嬉い!」。貫一は唯胸も張裂けぬべく覚えて、言は出でず、抱き緊めたる宮が顔をば紛り下つる熱湯の涙に浸して、その冷たき唇を貪り吮ひぬ。宮は男の唾を口移に辛くも喉を潤して、「それなら貫一さん、私は、吁、苦いから、もうこれで一思ひに……」と力を出して刳らんとするを、緊と抑へて貫一は、「待て、待て待て! ともかくもこの手を放せ」。「いいえ、止めずに」。「待てと言ふに」。「早く死にたい!」。漸く刀を 放せば、宮は忽ち身を回して、輾けつ転びつ座敷の外に脱れ出づるを、「宮、へ行く!」。遣らじと伸べし腕は逮ばず、苛つて起ちし貫一は唯一掴と躍り被れば、生憎満枝が死骸に躓き、一間ばかり投げられたる其処の敷居に膝頭を砕けんばかり強く打れて、 りしままに起きも得ず、身を竦めて呻きながらも、「宮、待て! 言ふことがあるから待て! 豊、豊! 豊は居ないか。早く追掛けて宮を留めろ!」。呼べど号べど、宮は返らず、老婢は居らず、貫一は阿修羅の如く憤りて起ちしが、又仆れぬ。仆れしを漸く起回りて、忙々く四下を せど、はや宮の影はあらず。その歩々に委せし血は苧環の糸を曳きたるやうに長く連りて、畳より縁に、縁より庭に、庭より外に何処まで、彼は重傷を負ひて行くならん。 磐石を曳くより苦く貫一は膝の疼痛を怺へ怺へて、とにもかくにも塀外に ひ出づれば、宮はだ遠くも行かず、有明の月冷かに夜は水の若く白みて、ほのぼのと狭霧罩めたる大路の寂として物の影なき辺を、唯独り覚束無げに走れるなり。「宮! 待て!」。呼べば谺は返せども、雲は幽にして彼は応へず。歯咬を作して貫一は後を追ひぬ。固より間は幾許もあらざるに、急所の血を出せる女の足取、引捉ふるに何程の事あらんと、侮りしに相違して、彼は始の如く走るに引易へ、は漸く息疲るるに及べども、距離は竟に依然として近く能はず。こは口惜し、と貫一は満身の力を励し、僵るるならば僵れよと無二無三に走りたり。宮は猶脱るるほどに、帯は忽ち颯と釈けて脚に絡ふを、右に左に 払ひつつ、跌きては進み、行きては踉き、彼もはや力は竭きたりと見えながら、如何にん、に伏して復起きざる時、躬も終に及ばずして此処に絶入せんと思へば、貫一は今に当りて纔に声を揚ぐるの術を余すのみ。「宮!」と奮つて呼びしかど、憫むべし、その声は苦しき喘の如き者なりき。我と吾肉を啖はんと想ふばかりに躁れども、貫一は既に声を立つべき力をさへ失へるなり。さては効無き己に憤を作して、益す休まず狂呼すれば、彼の吭は終に破れて、汨然として一涌の鮮紅を嘔出せり。心みて覚えず倒れんとする耳元に、松風驀然と吹起りて、吾に復れば、眼前の御壕端。只看る、宮は行き行きて生茂る柳の暗きに分入りたる、入水の覚悟に極れりと、貫一は必死の声を搾りて連に呼べば、咳入り咳入り数口の咯血、斑爛として地に委ちたり。何思ひけん、宮は千条の緑の陰より、その色よりは稍白き面を露して、追い来る人を熟と見たりしが、竟に疲れて起きも得ざる貫一の、唯手を抗げて遙に留むるを、免し給へと伏拝みて、つと茂の中に隠れたり。 彼は己の死ぬべきを忘れて又起てり。駈寄る岸の柳を潜りて、水は深きか、宮は何処に、と葎の露に踏滑る身を危くも淵に臨めば、 鞳と瀉ぐ早瀬の水は、駭く浪の体を尽し、乱るる流の文を捲いて、眼下に幾個の怪き大石、かの鰲背を聚めて丘の如く、その勢を拒がんとすれど、触るれば払ひ、当れば飜り、長波の邁くところ滔々として破らざるき奮迅の力は、両岸も為に震ひ、坤軸も為に轟き、蹈居る土も今にや崩れなんと疑ふところ、衣袂の雨濃に灑ぎ、鬢髪の風転た急なり。あな凄じ、と貫一は身毛も弥竪ちて、縋れる枝を放ちかねつつ、看れば、叢の底に秋蛇の行くに似たる径りて、ほとほと逆落に懸崖を下るべし。危き哉と差覗けば、茅葛の頻に動きて、小笹棘に見えつ隠れつ段々と辷り行くは、求むる宮なり。その死を止めんの一念より他あらぬ貫一なれば、かくと見るより心も空に、足は地を踏む遑もあらず、唯遅れじと思ふばかりよ、壑間の嵐の誘ふに委せて、驀直に身を堕せり。或は摧けて死ぬべかりしを、恙無きこそ天の佑と、彼は数歩の内に宮を追ひしが、流に浸れる巌を渉りて、既に渦巻く滝津瀬に生憎! 花は散りかかるを、「宮!」と後に呼ぶ声残りて、前には人の影もあらず。 |
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咄嗟の遅を天に叫び、地に号き、流に悶え、巌に狂へる貫一は、血走る眼に水を射て、やと恋き水屑を覓むれば、正く浮木芥の類とも見えざる物の、十間ばかり彼方を揉みに揉んで、波間隠に推流さるるは、人ならず哉、宮なるかと瞳を定むる折しもあれ、水勢に一段急なり、ありける影は弦を放れし箭飛を作して、行方も知らずと胸潰るれば、忽ち遠く浮き出でたり。嬉しやと貫一は、道なき道の木を攀ぢ、崖を伝ひ、或は下りて水を踰え、石を躡み、巌を廻り、心地死ぬべく踉蹌として近き見れば、緑樹蔭愁ひ、潺湲声咽びて、浅瀬に繋れる宮が骸よ! 貫一は唯その上に泣伏したり。吁、宮は生前に於て纔に一刻の前なる生前に於て、この情の熱き一滴を幾許かは忝なみけん。今や千行垂るといへども効無き涙は、徒に無心の死顔に濺ぎて宮の魂は知らざるなり。 貫一の悲は窮りぬ。「宮、貴様は死……死……死んだのか。自殺をするさへ可哀なのに、この浅ましい姿はどうだ。刃に貫き、水に溺れ、貴様はこれで苦くはなかつたか。可愛い奴め、思迫めたなあ! 宮、貴様は自殺を為た上身を投げたのは、一つの死では慊らずに、二つ命を捨てた気か。さう思つて俺は不敏だ! どんな事があらうとも、貴様に対するあの恨は決して忘れんと誓つたのだ。誓つたけれども、この無残な死状を見ては、罪も恨も皆な消えた! 赦したぞ、宮! 俺は心の底から赦したぞ! 今はの際に赦したと、俺が一言云つたらば、あの苦い息の下から嬉いと言つたが、宮、貴様は俺に赦されるのがそんなに嬉いのか。好く後悔した! 立派な悔悟だぞ 余り立派で、貫一は恥入つた! 宮、俺は面目ない! これまでの精神とは知らずに見殺にしたのは残念だつた! 俺が過だ! 宮、赦してくれよ! いか、宮、いいか。 嗚呼死んで了つたのだ! 貫一は彼の死の余りに酷く、余りに潔きを見て、不貞の血は既に尽く沃がれ、旧悪の膚は全く洗れて、残れる者は、悔の為に、誠の為に、己の為に捨てたる亡骸の、実に憐みても憐むべく、悲しみても猶及ばざる思の、今は唯極めて切なるあるのみ。 かの烈々たる怨念の跡なく消ゆるとともに、一旦涸れにし愛慕の情は又泉の涌くらんやうに起りて、その胸に漲りぬ。苦しからず哉、人亡き後の愛慕は、何の思かこれに似る者あらん。彼はなかなか生ける人にこそ如何なる恨をも繋くるの忍び易きを今ぞ知るなる。貫一は腸断ち涙連りて、我を我とも覚ゆる能はず。「宮、貴様に手向けるのは、俺のこの胸の中だ。これで成仏してくれ、よ。この世の事はこれまでだ、その代り今度の世には、貴様の言つた通り、必ず夫婦に成つて、百歳までも添、添、添遂げるぞ! 忘れるな、宮。俺も忘れん! 貴様もきつと覚えてゐろよ!」 |
| 氷の如き宮が手を取り、犇と握りて、永く眠れる面を覗かんとすれば、涙急にして文色も分かず、推重りて、怜しやと身を悶えつつ少時泣いたり。「しかし、宮、貴様は立派な者だ。一び罪を犯しても、かうして悔悟して自殺をしたのは、実に見上げた精神だ。さうなけりや成らん、天晴だぞ。それでこそ始て人間たるの面目が立つのだ。しかるに、この貫一はどうか! 一端男と生れながら、高が一婦の愛を失つたが為に、志を挫いて一生を誤り、餓鬼の如き振舞をして恥とも思はず、非道を働いて暴利を貪るの外は何も知らん。その財は何に成るのか、何の為にそんな事を為るのか。 凡そ人と謂ふ者には、人として必ず尽すべき道がある。己と云ふ者の外に人の道と云ふ者があるのだ。俺はその道を尽してゐるか、尽さうと為てゐるか、思つた女と添ふ事ができん。唯それだけの事に失望して了つて、その失望の為に、苟くも男と生れた一生を抛たうと云ふのだ。人たるの効はにふある、人たる道はどうしたのか。噫、誤つた! 宮、貴様が俺に対して悔悟するならば、俺は人たるの道に対して悔悟しなけりや済まん躯だ。貴様がかうして立派に悔悟したのを見て、俺は実に愧入りもりや、可羨くもある。当初貴様に棄てられた為に、かう云ふ堕落をした貫一ならば、貴様の悔悟と共に俺も速かに心を悛めて、人たるの道に負ふところのこの罪を贖はなけりや成らん訳だ。嗟乎、しかし、何にけても苦い世の中だ! 人間の道は道、義務は義務、楽は又楽しみで、それもなけりや立たん。俺も鴫沢に居て宮を対手に勉強してをつた時分は、この人世と云ふ者は唯面白い夢のやうに考へてゐた。あれが浮世なのか、これが浮世なのか。爾来、今日までの六年間、人らしい思を為た日は唯の一日でもなかつた。それで何が頼で俺は活きてゐたのか。死を決する勇気がないので活きてゐたやうなものだ! 活きてゐたのではない、死損つてゐたのだ 鰐淵は焚死に、宮は自殺した、俺はどうるのか。俺のこの感情の強いのでは、又向来宮のこの死顔が始終目に着いて、一生悲しい思いをしなければ成らんのだらう。して見りや、今までよりは一層苦を受けるのは知れてゐる。その中で俺は活きてゐて何を為るのか。 |
人たるの道を尽す? 人たるの行をする? ああ、 い、 い! 人としてをればこそそんな義務もある、人でなくさへあれば、何も要らんのだ。自殺して命を捨てるのは、一の罪悪だと謂ふ。或は罪悪かも知れん。けれども、茫々然と呼吸してゐるばかりで、世間に対しては何等の益するところもなく、自身に取つてはそれが苦痛であるとしたら、自殺も一種の身始末だ。して、俺が今死ねば、忽ち何十人の人が助り、何百人の人が懽ぶか知れん。俺も一箇の女故に身を誤つたその余が、盗人家業の高利貸とまで堕落してこれでやみやみ死んで了ふのは、余り無念とは思ふけれど、当初に出損つたのが一生の不覚、あれが抑も不運の貫一の躯は、もう一遍鍛直して出て来るより外為方がない。この世の無念はその時霽す!」 さしも遣る方なく悲めりし貫一は、その悲を立ろに抜くべき術を今覚れり。看々涙の頬の乾ける辺に、異く昂れる気りて青く耀きぬ。「宮、待つてゐろ、俺も死ぬぞ! 貴様の死んでくれたのが余り嬉いから、さあ、貫一の命も貴様に遣る! 来世で二人が夫婦に成る、これが結納だと思つて、幾久く受けてくれ。貴様も定めて本望だらう、俺も不足は少しもないぞ」。 さらば往きて汝の陥りし淵に沈まん。沈まば諸共と、彼は宮が屍を引起して背に負へば、その軽きこと一片の紙に等し。怪しと見返れば、更に怪し! 芳芬鼻を撲ちて、一朶の白百合大さ人面の若きが、満開の葩を垂れて肩に懸れり。不思議に愕くと為れば目覚めぬ。覚むれば暁の夢なり。[#改ページ] |
(私論.私見)