石上(いそのかみ)神宮

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年7.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「石上(いそのかみ)神宮」を確認しておく。

 2006.12.3日 れんだいこ拝


【石上神社(いそのかみじんじゃ)】
 天理市瀧本町483。布留川上流の清流沿いに鎮座。祭神/ 石上大神。摂社/天照大神、春日大神、住吉大神、 天水分神、八幡大神。

  巷では石上神宮の元社といわれるが真偽は不明。神奈備山・布留山を挟んで石上神宮と反対側にあるが、宮は、すぐ北側の桃尾の滝、あるいはその奥の大国見山を拝する向きにある。

【桃尾の滝(ももおのたき)】

 天理市滝本。 桃尾の滝は、大昔には石上神社の信仰地だったのだが、その後、和銅三年創建の龍福寺の境内地だったとのことで、一帯は磨崖仏を含む多くの仏像がある。ここから、大国見山に登ると、山頂付近には磐座と思しき巨石群と「御嶽大神」の祠がある。おそらく、石上神社と関連した磐座なのだろう。神社ー滝ー巨石のセットは、出雲や今治の多岐神社に似た感じ。

 石上神社〜桃尾の滝(白龍大神)〜龍福寺跡
 奈良県天理市。脇には梵字が彫られた石柱や磨崖仏、仏様の石像があちこちにあり皆、苔むしている。途中に石積みの暗渠があり、昔の人の技術に感動させられる。


【石上神宮(いそのかみじんぐう)】
 奈良県天理市布留町384。式内社(名神大社)。 古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。旧社格は官幣大社(現在は神社本庁の別表神社)で中世には二十二社の中七社のひとつとされた。

 紀元前91(崇神天皇7)年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、石上大神として祀ったのが創建である。別名、石上振神宮、石上坐布都御魂神社、石上布都御魂神社、石上布都大神社、石上神社、石上社、布留社、岩上大明神、布留大明神等。尚、日本書紀に記された神宮は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となる。飛鳥時代の豪族・物部氏の総氏神とされ、古くから健康長寿や除災招福、百事成就の守護神として信仰されている。

 主祭神として布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)叉は布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、布都斯御魂大神(ふつしみたまのおおかみ)。配祀として五十瓊敷命(いにしきのみこと)、布留の長男の宇摩志麻治命(うましめじめみこと)、白川天皇、木事命(コゴトノミコト)、市川臣命(いちかわのおみのみこと)と八神おられ、この八神を鎮魂する為に、1081年に、白川天皇がじきじき参拝し始められた。鎮魂するということは祟りを恐れているから鎮魂する訳であるが、何故にこの八神の祟りを恐れたのかはっきりしない。

 布都御魂大神の御神体として神武天皇の国土平定に偉功をたてた神剣「布都御魂剣」(ふつのみたまのつるぎ、韴霊)、鎮魂にかかわる神宝「天璽十種瑞宝」(あまつしるしとくさのみづのたから)、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した神剣「天十握剣」(あめのとつかのつるぎ)が祀られている。
 
 奈良時代の末期に編纂された4500首にのぼる万葉集の歌の中で、「袖ふる山」として歌われている。聖徳太子と蘇我馬子によって滅ぼされた物部氏の本拠地であったと伝えられている。鳥居の前、向かって左に柿本人麻呂の歌碑がある。
「未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者」
(おとめらが そでふるやまの みずがきの ひさしきときゆ おもいきわれは)

 古事記、日本書紀に、石上神宮、石上振神宮との記述がある。神武天皇が大和朝廷を開く前にこの地を治めていた大王であったニギハヤヒ-ナガスネヒコ王朝の古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。

 古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。 また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮」(いそのみや)と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのか興味深い。

 武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣とされている布都御魂剣が奉納されている。この剣は、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、天津神から高倉下の手を通して天皇の元に渡った。その後、物部氏によって宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀った。

 この石上神宮で、毎年11月22日に鎮魂祭が催される。この鎮魂祭の神事は、「一二三四五六七八九十」(ひふみよ いむなや こと)、「ふるへ ふるへ ゆらゆらとふるへ」と、現在の日本語の数の読み方である、「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、と」の語源になっている呪文を唱えつつ、「布留部 布留部 由良由良都布留部」と石上神宮の保存している国宝の「十種の神宝」を持って、呪文を唱え、生命の長寿を祈る。(「第二十九章 石上神宮の不思議な呪文」参照)


【七支刀(しちしとう、ななつさやのたち)考】
 石上神社は大和朝廷の武器庫として知られ、物部氏(もののべうじ)ゆかりの日本最古の神社である。神庫に御神宝の国宝・七支刀(しちしとう、ななつさやのたち)が保管されている。AD4世紀頃、「七支刀」という剣が日本に渡来しており、百済の七支刀と云われる。

 七支刀に刻まれた銘文は我が国と4世紀の大陸や半島との外交を考えるうえで逸することのできない重要な史料である。銘文の中に369年に当たると推定される「泰和四年」の年紀が刻まれ、刀はその頃に百済で製作されたと考えられている。七支刀は、大王家に仕えた古代の豪族物部氏の武器庫であったとされる奈良県天理市の石上神宮に六叉の鉾(ろくさのほこ)として伝えられてきた鉄剣である。


 全長74.8cm、刀身65cm。両刃の鉄剣で、刀身の両側から枝が3本ずつ互い違いに出ている。特異な形から七支刀の名があり、実用的な武器としてではなく祭祀的な象徴として用いられたと考えられる。日本書紀には七枝刀との記述があり、4世紀に百済から倭へと贈られたものとされ、関連を指摘されている。百済が倭と同盟して新羅を攻め、加耶諸国を守ったのを記念して、七支刀一振と七子鏡一面を倭王に献上したものという説がある。

 宋書では、421年、宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。425年、讃、使者・司馬曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる、とある。従来の解釈では、421年に宋に朝献したのは倭王・讃だと考えられているが、実は倭王・旨であった可能性がある。七支刀を贈ったのは世子19久尓辛王(420-427)ではなく、18腆支王(405-420)であったとすれば、受け取った倭王は「旨」王であった可能性が極めて高い。即ち、369年説、419年説のいずれを採ったとしても、倭の五王の前に倭の「旨」王が実在していたと言える。その人物は、七子鏡が発見された大仙陵古墳(五世紀 初頭~1/4世紀)の被葬者である。七子鏡が大仙陵古墳で発掘されたことを併せて考慮せねばなるまい。

 この刀の製造年を巡って、268年説、369年説、468年説がある。同時に献上された七子鏡が大仙陵古墳(発掘された須恵器の様式から、5世紀初め築造と推定できる)で発掘されている。従来は369年説が定説と考えられる。近年になって桜田和之氏が419年説を発表した。
 明治時代初期、当時の石上神宮大宮司菅政友が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見し、以来その銘文の解釈・判読を巡って論争が続いている。その裏表にあわせて61文字からなる銘文が金象嵌でほどこされている。鉄剣であるために錆による腐食がひどく、読み取れない字もある。
[銘文]
泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作
先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造■■■世
 略史は次の通り(出典参照は、大野七三著「古事記、日本書紀に消された皇祖神ニギ速日大神の復権」)。
 概要/石上神社は日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放っている。主祭神は布都御魂大神であり、ご神体は神代の昔、武甕雷(たけみかづち)の神が帯びておられた神剣『ふつの霊(みたま)』で『平国之剣』(くにむけのつるぎ)である、と云う。

 記紀によれば、神武天皇御東遷の折に天降られ、邪神を破り国土を平定された御偉功により、天皇御即位の後、勅により物部氏の遠祖に当たる宇摩志麻治の命が宮中に奉祀された。この時、宇摩志麻治の命が御父のニギ速日の尊から継承された天璽(あまのしるし)十種瑞宝(とぐさのたから)も一緒に奉祀されたと云う。

 その後、崇神天皇7年に至り、勅命によって物部氏の祖の伊香色雄の命が、ふつの霊(みたま)と十種瑞宝を石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)にお遷(うつ)しして奉祀したのが石上神社の創祀で、以後物部氏が代々神宮の祭祀を預かることになった。

 創祀以降、スサノウの尊がヤマタノオロチを退治するのに用いられた天十握剣(あまのとつかのつるぎ)も祀られて、我が国古代の霊剣は全て石上神社に祀られることとなった云々。
 物部氏(もののべうじ)は河内国の哮峰(現・大阪府交野市?)にニニギノミコトよりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコトを祖先と伝えられる氏族。元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏とならぶ有力軍事氏族へと成長していった。五世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。
 2025年5.20日、「国宝「七支刀」内部はほとんど腐食せず “状態よく奇跡的”」。

 古墳時代に朝鮮半島から伝わったとされる国宝「七支刀」(しちしとう)を奈良国立博物館が最新の分析装置で調べた結果、内部はほとんど腐食しておらず、極めて良好な状態が保たれていることがわかった。博物館は「1600年前の剣としては状態が非常によく、奇跡的だ」としている。国宝「七支刀」は左右に3本ずつ枝分かれした刃が突き出す独特の形をした鉄の剣で、1600年ほど前の古墳時代に朝鮮半島から当時の日本に伝わったとされている。奈良県天理市の石上神宮が所蔵しているが、七支刀などを展示する展覧会が開かれるのに合わせて保存状態などを確認しようと、奈良国立博物館がX線を使った最新の分析装置で調査した。

 その結果、内部の腐食はほとんど進んでおらず、古代の鉄製品としては極めて良好な状態が保たれていることが明らかになった。
剣には文字が刻まれているが、これまでさびで見えなかった部分が鮮明になったことで、博物館では今後、関係機関と相談したうえで、専門家による委員会を立ち上げ、文字の詳しい分析なども進めたいとしている。

 奈良国立博物館の井上洋一 館長は「本当に1600年前の剣なのかと思うほど、状態が非常によく、奇跡的だ。七支刀の実態に迫る研究につながることを期待している」と話している。七支刀は6月15日まで奈良国立博物館で開かれている展覧会で公開されている。
 七支刀は布都御魂と同じく祭祀用の剣だったと考えられる。刃先が七つに枝分かれしており、この七つの枝は北斗七星を表し、占星術に関係している。古代の人々は夜空を観察して、星の配置や運行を調べた。そして、あまたの星の中でも北極星だけはじっと動かず、北の端に鎮座したままであることに気づいた。その北極星の周囲を北斗七星の七つの星が回る。それは指揮者のタクトのように動き、他のすべての星はオーケストラのように、その動きに合わせて北極星の周りを回っているように見えた。このことから人々は、北極星を天空の諸星を統治する王と認識し、北斗七星はその王と、王の命令を各地に伝える将軍のような存在だと考えた。この七支刀を手にした者は北極星の力を持ち、天空の星すべてに号令をかけることができる。これを霊力の強いものが使えば、国を災害から守り、他国との戦争に勝利し、国を繁栄に導くことも可能であると考えられていた。そのため、この七支刀を使うことができるのはその国の祭司長に限られていた。この時代、祭司長は同時に国の最高権力者だったので、祭祀長イコール国王でもあった。七支刀は国の祭祀長以外の者が使うことは許されなかった。

 その七支刀が百済からヤマト王権に贈られたという事実は、百済が日本に対して国の統治権を譲渡したということを意味しており、また、日本がこれを受け取ったということは、日本がこの申し出に応じ、百済国を日本の版図に組み入れたという意味がある。実際にこの一件以降、日本という国はその歴史において、高句麗や新羅と戦ったことは何度もあるが、百済と戦うことは一度もなくなっている。百済という国は当時、高句麗、新羅、中国(隋や唐)という強国に囲まれた状況にあり、七支刀が贈られた頃は周辺のほとんどの国と戦争を繰り返している状況にあった。そして、負ければいつ滅んでもおかしくない、という状況にずっと置かれていた百済が頼れる国は、日本以外になかった。その意味では、この宝剣を日本に贈るという行為には、国の最高の神宝を手放してまでも、日本との同盟を成立させようとした百済の必死さがうかがわれる。七支刀は百済という国の命運を託された剣だったのである。

 この剣が日本に贈られた時期は、神功皇后が三韓征伐を行ったとされる頃で、新羅王室の血を引く神功皇后との対立を避ける上でも破格の贈答品だったという側面もある。日本と新羅が連合して百済に攻め入ってくれば、百済に勝ち目はなかった。その後、百済は国力が徐々に弱まり、滅亡の危機に瀕したため、日本に対してさらなる貢物をしたり、人質を差し出したり、仏像や経典を贈ったりして、なりふり構わず日本を懐柔にかかった。同時期には新羅もまた日本を懐柔すべく、朝貢したり同盟を誘ったりとさかんに接近してきていたので、百済としては新羅をはるかに上回るような調略品が必要だったのである。

 百済の日本懐柔作戦はすさまじいものだった。たとえば、聖徳太子の時代に百済から日本に贈られた宝物だけでも、法隆寺の広大な伽藍群の中にさえ収まりきらないほどの量があった。これらの献上品は、現代でも上野の国立博物館の敷地内に「法隆寺宝物館」として、この博物館のすべての展示スペースをいっぱいにして展示されている。

 このようにして百済は日本との関係を緊密にして行ったのだが、そう考えると、日本が白村江の戦いという無謀な戦争に突き進んで行かなければならなかった理由も理解できる。当時すでに日本の一部のような状態だった百済が攻められたのであるから、日本が百済を救済に行くのは当然のことだったのだ。しかも、このときの日本の王権の中枢には、扶余豊璋のような身分の高い百済系の渡来人たちがいた。豊璋は百済の皇太子で、次期国王の身分を約束された人物だった。彼らは人質として、あるいは人質同然の状態で渡来してきたが、ヤマト王権では彼らを王族として礼遇した。そして、結果的に豊璋らはヤマト王権の中枢にいた人物と親密な関係を築き、彼ら百済人が日本の政局を動かすことに成功する。王族でもあり、高い教養も備えていた百済人からは学ぶことも多く、政治的にも利用できる、とヤマト王権の人々は判断していた。

 当時は百済と日本の高官同士の縁組も盛んに行われており、そうした百済人は日本でも確固たる地位を与えられていたケースも多く、彼らの発言力も大きかったのである。このような百済厚遇政策の結果、白村江の戦いの前にはすでに数千人もの百済からの渡来者が日本に来て居住しており、ヤマト王権内に大きな影響力を及ぼしていた。そうしたこともあって、日本軍は白村江に向かった。と言うより、向かわざるを得なかったのである。上記は拙著「古代の渡来人。他民族国家日本誕生P145~P148より。
 (株)クラブハウス刊。税別1800円。お求めは下記サイト、全国のリアル書店などで。
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 宇佐津彦清智/七支刀はどこから石上神宮へ来たのか

 ――七子鏡の消失と筑後・磯上物部神の影

 七支刀は、現在、奈良県天理市の石上神宮に伝わる国宝である。左右に三本ずつ枝刃を出す異形の鉄剣であり、刀身には金象嵌銘文が刻まれている。一般には、日本書紀神功皇后紀に見える、百済から倭へ献上された「七枝刀」に比定されている。しかし、ここで注意すべきことがある。七支刀が現在、石上神宮に伝わることと、百済から渡来した当初から石上にあったこととは、同じ問題ではない。銘文が示すのは、百済王と倭王との関係であって、倭王の所在地ではない。そこに「大和」、「石上」、「物部」と書かれているわけではない。日本書紀神功皇后摂政五十二年条には、百済の使者が「七枝刀一口、七子鏡一面、種々重宝」を献じたと記されている。つまり文献上、七枝刀は単独の宝物ではなかった。七子鏡と一組の外交的重宝として、倭王に献じられたのである。ところが、現在確認されるのは石上神宮伝来の七支刀であり、七子鏡の現物は確認されていない。ここに不自然な空白がある。本来、七枝刀と七子鏡が一組の奉献品であったなら、なぜ刀だけが石上に残り、鏡は失われたのか。単なる散逸とも考えられるが、別の可能性として、百済から倭王へ渡った重宝が、後世に移動・分散・再配置されたとも考えられる。

 この問題を考えるうえで注目されるのが、筑後国山門郡太神、現在の福岡県みやま市瀬高町太神に伝わる、こうやの宮である。こうやの宮は、磯上物部神社に比定される小祠であり、そこには七支刀を持つ男神像と、鏡を持つ神像が伝わるとされる。もちろん、この神像の持つ鏡が日本書紀の七子鏡であると断定することはできない。また、神像そのものの制作年代についても、慎重な検討が必要である。しかし、七支刀を持つ神像と鏡を持つ神像が同じ祭祀空間に伝わるという構図は、偶然として片づけるにはあまりに気になる。しかも、こうやの宮は単に七支刀を持つ神像を伝えるだけではない。その地名構成そのものが、畿内の祭祀地名と深く響き合っている。筑後国山門郡の「山門」は「やまと」と読まれ、太神は「おほみわ」と読まれる。さらに同地には、磯上物部神の伝承がある。大和・大神・石上・物部という、畿内古代王権を構成する語群が、筑後の一地域に凝縮しているのである。

 この事実は、七支刀伝承を石上神宮単独の問題として扱うことを難しくする。石上神宮に七支刀が現存することは確かである。しかし、筑後山門の太神に、磯上物部神、七支刀を持つ神像、鏡を持つ神像、そして「やまと」「おほみわ」という地名が重なるなら、そこには古代の祭祀・氏族・王権名称が移動した痕跡を見るべきではないか。従来の古代史では、大和に成立した王権が、地方へ氏族・神名・祭祀を広げたと説明されることが多い。石上神宮もまた、大和の物部氏の神庫として理解され、その神宝である七支刀も、大和王権の外交的記念物として扱われてきた。しかし、筑後山門のこうやの宮を視野に入れると、その構図は単純ではなくなる。山門には「やまと」があり、太神には「おほみわ」があり、そこに磯上物部神があり、七支刀と鏡を想起させる神像伝承がある。これは、畿内から一方的に伝播した地名・祭祀の残影なのか。それとも、北部九州側に存在した古い祭祀・氏族ネットワークが、後に畿内で再編された痕跡なのか。少なくとも、後者の可能性を排除することはできない。
 七支刀の問題で重要なのは、刀そのものだけではない。むしろ、消えた七子鏡こそが重要である。日本書紀では、七枝刀と七子鏡は一組であった。にもかかわらず、現存するのは七支刀のみである。一方、筑後のこうやの宮には、七支刀を持つ神像と鏡を持つ神像が伝わる。この対応は、七枝刀・七子鏡の記憶が、石上神宮とは別の場所にも残されていた可能性を示している。もちろん、これは直接証明された事実ではない。こうやの宮の神像を、ただちに日本書紀の七枝刀・七子鏡に結びつけることはできない。しかし、七支刀の銘文が倭王の所在地を語らず、七子鏡が現存せず、筑後山門に磯上物部神と七支刀・鏡の神像伝承があり、さらに「やまと」「おほみわ」という地名が重なる以上、七支刀を「最初から大和石上に属した宝物」と見るだけでは足りない。むしろ七支刀は、百済・倭王・物部・石上・磯上・筑後をつなぐ、移動した王権祭器として見るべきではないか。そこには、後世の大和中心史観によって覆われた、北部九州側の外交と祭祀の記憶が残されている可能性がある。

 七支刀は、石上神宮に残ったことで大和の宝物となった。しかし、七子鏡の消失と筑後・磯上物部神の伝承は、この刀がたどった道が一筋ではなかったことを示している。七支刀は、石上に「在る」刀であっても、最初から石上に「属した」刀であったとは限らないのである。本稿で触れた点は断片に過ぎない。全体像として捉えたとき、別の輪郭が現れる。その整理は、宇佐津彦清智著『菟狭津彦が見た倭国の歴史』にまとめている。

【「布留遺跡」】
 「3. 物部氏の本拠 天理市布留遺跡 再訪 再訪Walk」参照。
 初期ヤマト王権を支えた物部氏の本拠地「布留遺跡」再訪Walk 

 南側の巻向、三輪山を経て飛鳥へ。古代東西の重要路の山之辺の道が続いている。大和の交通の要衝であった。初期大和王権の北の守りの位置が「布留」であり、ここに大和王権の軍事を担った物部氏が本拠地を築いた。

 近鉄奈良西大寺乗換えで天理駅。ここはJR桜井線と近鉄天理線の併設駅である。ここから東側の山裾までつづくなだらかな傾斜地に天理教関連の建物が立ち並ぶ。こには「おやさとやかた」と「詰所」がある。「屋敷の中は、八町四方となるのやで」との教祖のお言葉に基づいて、神殿・ぢばを囲む八町(約900m)四方の線上に計画的に建設されている。完成した棟には天理大学、天理参考館、よろづ相談所いこいの家(病院)、別席場、高知詰所、敷島詰所などがある。

 天理教本部の諸建物の建設、整備に伴う発掘調査で、布留遺跡がベールを脱いだ。天理駅の東側の布留川がその中央を流れ下る傾斜地に山際までひろがる布留の街がある。ここには初期ヤマト王権を支えた物部氏の大集落があった。天理教本部の主要諸施設の地下に重なる布留遺跡。扇状地の中心部で布留川本流が流れ下る浅い谷筋両岸が布留町。その北側の丘の上が三島町。川の南側が杣之内町。

【石上神宮と鶏】
 「石上神宮」(いそのかみじんぐう)の境内に入ると鶏がいる。鶏は古事記、日本書紀にも登場しており、暁に時を告げる鳥として神聖視され、神様のお使いともされている。鶏たちは夕方暗くなる前に低い木々から順々に高い枝に飛び上がり、そこで一夜を過ごしている。烏骨鶏やレグホンは高く飛び上がることが出来ないため、専用の鶏舎にて夜を過ごす。

 石上神宮は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られた日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されている。平安時代後期、白河天皇が当神宮を殊に崇敬され、国宝に指定されている拝殿は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えられており、建立年代は鎌倉時代初期とみられている。ここも大神神社と同様に拝殿のみで本殿はなかったが、大正2年に本殿が造営されたという。

【石上神宮と山の辺の道】
 四季折々の花が美しい長岳寺や内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)跡を過ぎると、石上神宮に出る。古代の軍事氏族・物部(もののべ)氏の氏神を祀る古社で、朝廷の武器庫としての役割も果たしていた。「山の辺の道」はこのあたりまでであるが、日本書紀には「石(いそ)の上(かみ) 布留(ふる)を過ぎて 薦枕高橋(こもまくらたかはし)過ぎ 物多(ものさは)に 大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ)春日(かすが)を過ぎ 妻隠(つまごも)る 小佐保(をさほ)を過ぎ…」という歌が残っている。恋人を殺された物部氏の娘・影姫(かげひめ)が悲しみを詠んだとされる歌で、姫は布留の地で知らせを受け、山の辺の道を駆けたものと思われる。古代の地名を並べたこの歌が、古道はさらに北へと延びていたことを示している。

【石上神宮の行事】
  石上神宮 最大の祭典「ふるまつり」~
 奈良県天理市布留町にある日本最古の神社「石上神宮」(いそのかみじんぐう)は式内社(名神大社)二十二社(中七社)、旧社格は官幣大社で飛鳥時代の豪族・物部氏の総氏神、健康長寿や除災招福、百事成就の守護神として信仰されている。主祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、御神体として神武天皇の国土平定に偉功をたてられた神剣「韴霊(ふつのみたま)」、鎮魂にかかわる神宝「天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)」 、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した神剣「天十握剣(あめのとつかのつるぎ)」が祀られている。

 10.15日、神宮最大の祭典、村渡(たむらわたり)とも呼ばれる「ふるまつり」が挙行される。午前の例祭は、荷前(のさき・新穀の穂のついたままの稲株)が奉られ奉幣(ほうべい)の儀、午後に渡御行列が出発し田町の御旅所(おたびしょ)まで片道4Kを往還する。戻った神宮で還御祭(かんぎょさい)が行われる。




(私論.私見)