全共闘運動の思想及び文化考」

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年4.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)


【全共闘運動及び思想考】
 そもそも、全共闘とはセクトとノンセクト、学生と研究者、全学組織と 縦断組織、個人加盟組織と全員加盟組織が全く何の序列もつけられずに集まったもので、既存の組織の枠組みにとらわれずに運動に参加することができる個々人主体の自由奔放な「組織」だった。言い換えれば、全共闘とは、直接民主主義にもとづく組織の運営を原則とし、指導部をもたず参加者個々人が自らの決意と責任と主体性を保持しつつ、共に闘うために結集せしめた大衆的戦闘組織であった。学生運動研究家の蔵田計成によれば「いわば、大衆性を基底にしている点でソヴェトの原型ともいえる」ものであった。全共闘運動は文字通り学生運動であり、当初は革命運動ではなく思想運動であり思想闘争でもあった。
 全共闘議長/山本は、当時、次のように運動を位置付けている。
 全共闘運動はまた一方で、すぐれて思想的な闘いであった。大学闘争が帝大解体―大学解体の位相を獲得したとき、闘う主体たる学生は自らの依って立つ基盤、階級性の問題に直面せざるを得なかった。そこから〈身分〉としての「学生であること」を否定する内なる思想的闘いが問われた。いわゆる「自己否定」論である。「ぼくたちは王子や三里塚の闘争に参加した。しかしデモから帰ると平和な研究室があり、研究できるというのはたまらない欺瞞である。研究室と街頭の亀裂は両者を往復しても埋められない。では研究をやめるべきか。それは矛盾の止揚ではなく矛盾からの逃亡ではないか。徹底した批判的原理に基づいて自己の日常的存在を検証し、 普遍的な認識に立ちかえる努力をすること。そうして得られた認識に従って、社会に寄生し、労働者階級に敵対している自己を否定し、そこから社会的変革を実践する。抽象的にしか語れないが結論らしいものはこうでしかない」。
 このことは、東大全共闘と並んで当時を代表した日大全共闘(秋田明大議長)も同様であった。当時、日大全共闘の一員だった三橋俊明は、後年次のように語っている。
 「日大全共闘が、ノンセクトであることを誇りとし、誰にも代表されず誰の代表でもない個人が自己組織化していった運動体だったという経験を、私はしっかり伝えながら全共闘として生きていきたいと思っています。日大闘争として闘われた全共闘運動は、一人一人が主人公であり、自らを規律とし、自分の手で築いたバリケードを自らが治める「自主・自律・自治」の運動でした。バリケードに囲まれたイデオロギーや政治とは直接無関係な場が、全共闘の直接自治によって築かれた統治されざる場だったことを、楽しかった想い出とともにもっと語り続けていきたいと思っていま す。

全国全共闘連合  とはいえ、こうした矛盾を抱えつつも運動は全国全共闘連合の結成へと 向かった(1969年9月5日結成)。大会では、新左翼各派8つが結集して「八 派共闘」が形成された。この間の経緯を、当時第二次共産主義者同盟(以 下、第二次共産同、第二次ブント、あるいはブントとも表記)に属し、そ の後同組織の「戦旗派」の指導者となった荒岱介(2011年没)は、21世紀になってから以下のように説明している。 「全国全共闘の結成そのものは、全共闘運動の後退のなかで各大学の全 。なお、 丸山は周知のように東大闘争を契機に57歳で東京大学法学部教授の地位を辞して早期退職 した(1971年3月)。
 しかし、こうした自由で創造的な個人による「ノンセクト・ラジカル」の思想運動は、「組織なき運動」であったがために、一面で脆弱な 点を持ち合わせていた。当時、一連の東大紛争の責任を取って辞任した大河内一男東京大学総長に代わって総長代行の任に就いた加藤一郎(法学部教授)(2008年没)は、1994年の段階で「全共闘の意味」について次 のように述べている。
 全共闘の魅力は誰でも自由に議論がで きる『組織なき運動』だったところにあるものの、しかし、この組織のないことが同時に欠陥となった。誰でも自由に入って議論すれば、自由な議論はできるが無責任な議論になるおそれがある。そこでは妥協は排撃され、元気のよい強硬な意見が支配されがちになる。
 全共闘学生運動と新左翼革命運動の関連について、小滝透/氏が次のように説明している。
 断っておくが、当時の全共闘の主力部隊はノンセクト・ラジカルであり、 そこに所属した学生は、この間の大学側の対応に怒りと失望を感じていた。なるほど、彼らの唱える主張には「産学協同路線の粉砕」や「大学の帝国 主義的再編阻止」などというマルクス概念が散りばめてあったが、あれはかりそめの擬制である。自らの力で新たな理論を構築できる力がないため仕方なく借りてきた付け焼き刃の神学なのだ。したがって、当初から社会主義理論に染まっていたわけでも何でもない。(中略)「自己否定」という 言葉を嫌というほど吐きながら、自らの依って立つ基盤(マルクス主義的世界観)にはいささかも手を付けなかった。手を付けた場合でも、マルクス体系の一部修正、ないしは基本概念の借用でしかなかった。(中略)しかもその自己否定たるや、過度の観念操作を必須とし、かつ自虐的な様相を呈したため、単なる上昇志向を否定する個人的選択の問題にしかならなかった。あえて言えば、多くの者が大学を去り、それなりの道を進むことになっただけの話である。その事に全く気付かず、新たな社会理論も創ろうとせず、かといって旧来のマルキシズムにも依拠できず、ただただ自己否定を如意棒のごとく振り回し、社会運動化しようとしたところに全共闘 の悲劇があった。
 「統一戦線と共同戦線の識別」に至れば、次に日本左派運動史の中で最も成功裡にこれを成し遂げたと思われる「全共闘運動及びその思想」に思いを馳せねばならない。実は、全共闘運動は、日本左派運動が始めて組み立てた党派間連衡の共同戦線運動ではなかったか。れんだいこは、その功績を断然評価されねばならないと考える。もっとも実際は、各党派はその重みに耐えかねてか、それを更に発展させるよりは自主的解体の方を選んでしまった。しかし、一時的にせよそれを獲得したという史実が尊いように思われる。

 ちなみに、これに参画した党派とこれに敵対した党派を掲げ、違いを愚考してみることにする。70年安保闘争過程の1969.9.5日、日比谷野音で「全国全共闘会議」が結成された。どのセクトとも特別の関係を持たなかった東大全共闘の山本義隆(逮捕執行猶予中)が議長に、日大全共闘の秋田明大を副議長に選出し、ノンセクト・ラディカルのイニシアチブの下に新左翼8派を組み入れ、全国178大学の全共闘組織が生まれ、全国の学生約3万4000名が結集した。

 8派セクトは次の通りである。1.中核派(上部団体−革共同全国委)、2.社学同(々共産主義者同盟)、3.学生解放戦線(々日本ML主義者同盟)、4.学生インター(々第四インター日本支部)、5.プロ学同(々共産主義労働者党)、6.共学同(々社会主義労働者同盟)、7.反帝学評(々社青同解放派・革労協)、8.フロント(々統一社会主義同盟)。

 これを出自から見ると、革共同系、ブント系、元社会党急進主義系、元日共構造改革派系から構成されていることになる。これを逆から云えば、これら党派は共同戦線運動に馴染める運動論組織論を構築していることになる。これに加わらなかった革マル派、日共系民青同、その他赤軍派、**、**、**等々は、共同戦線運動に馴染めない運動論組織論を構築しているのではないかということになる。

 れんだいこは、「統一戦線と共同戦線の識別考」で記したように共同戦線運動を推奨する。それは戦略戦術問題というより、もっと深いところでの人間種族の群れ方として根本的に認め合わなければならない原理だと心得るからである。ここを立脚点としつつ丁々発止の駆け引きで共闘していく知恵こそ大人のそれであり、これが出来ぬのは子供段階の運動でしかない。れんだいこはそう思う。

 逆から云えば、統一運動論に権力発想的臭いを嗅ぎ取り、それは往々にして良からぬ結果しかもたらさないと心得るからである。それは容易に得手勝手な真理に繋がり、権力如意棒となって異端ないしは少数意見の排撃に向う。事実、右からであれ左からであれ、統一呼号論者の運動にはろくなのがありはせぬではないか。

 この観点はあるいはマルクス主義のそれではないのかも知れない。アナーキズムのそれであるのかも知れない。ならば、れんだいこは、アナーキストであっても良い。なぜなら、組織論、運動論に於いてこの作風こそが踏まえられる原点となるべきだと思うから。もし、マルクス主義がこれに立脚していないのなら、それは明らかに間違っている。その負のツケが自己撞着して今日の貧困にまで至っている気がしてならない。

 れんだいこが信奉するのは、「自由、自主、自律」的な運動である。れんだいこは、仮にこれをルネサンス気風と表現している。我々が擁護すべきはこのルネサンス運動であり、そのレベルが高いものであるなら、このレベルに合わせられる人士をより多く輩出するよう日頃から理論親日実践運動に有機的に取り組めばよいのではないのか。左派運動がそれなりの格を持つものになるのは致し方ない。考えて見れば、政治運動そのものが、恐らく人間諸力の実践形態としてはかなり能力を要する分野のものであり、尚且つ高尚なものではあるまいか。そういう気がする。

 ところで、「共同戦線論」が良いとしても、問題は、言葉に酔うことにあるのではない。毛沢東の「中国社会各階級の分析」の次の一節の知恵を踏まえねばならない。
 「誰が我々の敵か、誰が我々の友か、この問題は、革命の一番重要な問題であるが、中国のこれまでの革命闘争は全ての成果が非常に少なかったが、その根本原因は、真の友と団結して真の敵を攻撃することができなかったことにある」。

 これによれば、れんだいこ式解釈に従えば、赤い心同士であればアバウトで良い、共闘を優先させるべし。白い心と対する時は、妥協してはならない。相互にこれを実践して関わっていくのが正しい運動形態である、ということになる。ここのところが曖昧なままの日本左派運動は、「これまでの革命闘争は全ての成果が非常に少なかった」という結論に導かれるのも致しかたなかろう。

 補足すれば、毛沢東指導は、この頃までの観点は非常に素晴らしかった。戦後、建国革命に成功し、権力掌握後の毛沢東は次第に統一理論に傾斜していくことになる。それと共に抗日運動期にあった瑞々しさを失っていくことになる。その背景事情にはそれなりのものがあったと思われるので別途分析をせねばならぬが、原理的な逸脱は見逃せない点ではなかろうか。

 とりあえずは以上の指摘にとどめておくことにする。
005.3.15日 れんだいこ拝





(私論.私見)