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北小路敏同志が逝去 偉大な革命家の業績しのび お別れ会など1千人が送る
革命的共産主義者同盟副議長で、一貫して先頭で革共同を指導してきた北小路敏同志が、敗血症で11月13日、逝去した。74歳だった。16日に通夜、17日に告別式がそれぞれ都内で催され、28日にはお別れの会が東京・杉並の西荻勤労福祉会館で行われた。延べ千人を超える同志、友人、知人が弔問に訪れ、偉大な革命家の業績をしのんだ。(2面に革共同の追悼文とお別れ会の報道、3面に北小路同志の略歴など)
北小路同志は、高校生時代に共産主義運動に目覚めて以来、生涯を通じてプロレタリア革命の勝利のために闘い続けた。60年安保闘争の頂点をなした6・15国会突入闘争を全学連委員長代行として最先頭で指揮し、さらに70年安保・沖縄決戦の突破口を開いた67年10.8羽田闘争の先頭に立った(両闘争で逮捕・起訴)。
戦後階級闘争史を画する二つの大闘争の先頭に立ったことに示されるとおり、北小路同志は誰よりも激しく帝国主義権力とその暴圧を憎み、労働者階級の怒りを体現してまっすぐに闘い抜いた。それだけではない。70年安保・沖縄闘争に対して革命の危機を感じた日帝権力が破壊活動防止法を発動し、本多延嘉書記長、藤原慶久東京地区反戦青年委員会世話人らを逮捕する攻撃に打って出てきた時、党の非合法・非公然体制をつくる先頭に立ち、自らは公然面で全重圧を引き受けて闘った。さらに、権力の手先となったファシスト・カクマルが71年12.4反革命をもって革共同壊滅の武装襲撃に出てきたのに対し、身を挺(てい)して闘い抜いた。カクマルはとりわけ北小路同志を憎み、彼に対する白色テロ襲撃を繰り返した。74年2月には重傷を負わされた。だが、北小路同志は不死鳥のごとく立ち上がり、同年8月の革共同政治集会では、火を吐くような勢いで二重対峙・対カクマル戦の総反攻突入を宣言した。
75年3・14本多書記長暗殺の大反革命に対し、敢然と立って、70年代、80年代の闘いを勝利に導いた。三里塚闘争、動労千葉を先頭とする国鉄闘争の先頭に立った。東京、大阪などで開かれた革共同政治集会では、少なくとも70年代に30回、80年代に20回の基調報告を行っている。最も厳しい闘いの時期に文字どおり仁王立ちして、全党員、支持者、全労働者階級に向かって勝利の大道を示し、獅子吼(ししく)してやまなかった。この時期の革共同を政治的人格的に代表する存在だった。北小路同志の粉骨砕身の闘いなしに今日の革共同はなかった。
その燃える情熱、裂帛(れっぱく)の気迫、しかも味方勢力に対する深い愛情にあふれた演説は聴衆の心をわしづかみにした。どんなに激しい闘争方針も、大衆的説得力を持って打ち出された。北小路同志は、91年5月テーゼ、06年「党の革命」から今日に至る闘いを断固支持し、病を抱えながら全力で応えきろうとたゆまぬ努力を重ねた。最期まで闘いの現場に戻ることを願い、その革命家としての人生を全うした。 北小路同志の闘魂、革命精神は、今、マルクス主義青年労働者同盟の青年労働者や全学連の学生にも連綿と受け継がれ、大恐慌を革命に転化する闘いの中に生き続けている。北小路同志を指導者に持ったことは、われわれ全員の誇りである。その革命への確信を自らのものとして一層打ち固め、反帝・反スターリン主義プロレタリア世界革命の勝利まで闘い抜くことを誓う。
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