愚民党さんのれんだいこ好評価考

 更新日/2024(平成31→5.1栄和改元、栄和6)年11.22日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「愚民党さんのれんだいこ好評価考」をものしておく。

 2009.10.21日 れんだいこ拝


【愚民党さんのれんだいこ好評価考】
 愚民党氏が、「 阿修羅Ψ空耳の丘Ψ38 」の2005 年2.18日付け投稿「歴史再検証論(主義)考 れんだいこ」で、れんだいこ文を好評価している。バルセロナより愛を込めて氏が、同日「貴重サイトご紹介、感謝。ある意味で、ショックを受けております。」で次のように返信している。
 貴重サイトご紹介、感謝。ある意味で、ショックを受けております。
愚民党さん、非常に興味深い貴重なサイトをご紹介いただき、ありがとうございます。ホロコースト問題について様々な角度からの見解を比較検討でき、発展途上の身である私などにとりましては実にありがたいサイトです。また、主催者のれんだいこ氏の幅広い視野と深い造詣、一つの物事を決していい加減に捉えない誠実な論旨の進め方には、敬服いたしております。

 氏のいくつかの考証の中で、私が今まで阿修羅に投稿いたしました拙い文章を転載していただいており、赤面の至りです。もちろん私は専門の研究者でもなく、ガス室論考については、それこそ他人の文章の引き写し以外にはできない立場の人間です。このことは「あった」「無かった」を叫ぶ大多数の人間の立場でもあるでしょう。

 しかし、私には「誰の言うことの方が信用できないのか」を判断する権利がある、そしてそれを公言する限りは「専門家で無い私がなぜそのように判断するのか」の理由をできる限り解りやすく説明する義務がある、と考えています。
 これが先日の私の2つの投稿

http://www.asyura2.com/0502/war66/msg/1169.html
投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 2 月 07 日 07:01:40:

 外野さんへ、そして「肯定論支持者」の皆様へ。史上最大の集団洗脳『ホロコースト』について。
http://www.asyura2.com/0502/war66/msg/1254.html
投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 2 月 09 日 00:28:31:
 外野さんへご返答、『ホロコースト』と現代世界について思うこと:あわれな方だでした。これには読み返してみて自分でも恥ずかしいくらいに様々な未熟で粗雑な表現や思考が各所に表れているのですが、しかし私の基本的な立場や考え方は表現できている、と思います。れんだいこ氏にその点をご評価いただいたことは感謝いたします。

 これに対して、「あった」支持派の方からは、何一つ誠実な「自分はなぜ肯定論を信用し否定論を信用しないのか」の筋道の一貫した説明がなされておらず、揚げ足取りや部分的なケチ付け、レッテル貼り、挙句の果てに、他人の筋を通した論考をまともに読みもせずに、「論証せよ」としか言えないわけですね。そして一部の人は、相変わらず他人の文章の引き写ししかしない状態です。これでは、妨害専門に動員された某組織の手先、と考える以外に無いわけです。

 もし日本の様々な言論の場で「自分はなぜ肯定論を信用し否定論を信用しないのか」の誠実な考察を誰かが行っているのなら、れんだいこ氏は必ずそれこそ「対抗論争」として取り上げておられるはずでしょう。ということは、この程度の非専門家同士による多くの角度からの論考すらいまだに行われていない、ということになります。これはある意味で私にとってはショックです。日本はこんな情け無い状態なのか、と。

 まあこれでも、インターネットですら話題にすることすらタブー、場合によっては犯罪とされる欧州に比べればマシですが、まだこれがネットでは本格的なパージの対象とされていない(出版ではとうにパージの対象となっておりネットでも今後の保証は無いが)日本でこそ、本当に真剣にこのような現代史のタブーをえぐっていく必要がある、と考えます。(3・11事件について私が一連の報告を送り続けているのも、その一環です。)

 阿修羅と共に、このれんだいこサイトの活躍を祈っております。
 愚民党氏が、 2005/2/19日付け投稿「在野精神 」で次のように返信している。
 バルセロナより愛を込めてさん。ありがとうございました。戦争版
ではいつも読ませていただき、感謝をしております。れんだいこさん
が主宰をしております人生学院にはじめてアクセスしたのは2003年でした。豊饒な論文集におどろきました。ねばり強い思索の方であると感じ入りました。自分はれんだいこさんに批評精神のダイナミックな現在進行形を感じております。在野思想史家です。


 敗戦後の日本におきましては、「日米安保体制と平和憲法」の絶
対論理矛盾下において庶民の自我は制御コントロールされてきたと思っております。「日本では思考ができない、思考することが苦しくなる」とはフランス演劇を媒介に、演劇批評の仕事をしてきた佐伯隆行さんが80年後半に出版しました「最終演劇の誘惑」で書いておりました。たしか1987年頃、自分は読んだのでありますが、その頃の自分は敗北主義ではないのか、などと思ってきました。


 しかし90年代から現在までを生きてきまして、「日本の批評装置は弱体化している」と思いこみが激しくなってきました。絶対論理矛盾体制こそが現代日本の空気でありまして、その空気に抗して独自的な思考を建設していく作業は困難であると感じております。論理はつねに、絶対矛盾の現実の空域に中毒を起こして、占領軍基地をみたくないといいますか・・・占領軍基地前の道路を歩きたくないといいますか・・・

 自分は昨年、横浜深谷米軍通信基地そばの工場で働いたのでありますがバスで基地前の道路を通るたび、空域には独自な緊張感がありました。通信基地でありますか、異常なアンテナがいくつも建っております。電磁波のせいか、精神的身体的にも、自分には異常空間でありました。日本で独自的な思考ができないのは、占領軍と下請け自衛隊が日本列島に電磁波のバリヤーでドームを生成しているのかもしないない・・・などと疑っております。

 日本ドーム、それが敗戦後の大経済主義唯一価値観でありまして、「別に現実の米日安保ガイドラインと日本国憲法が絶対矛盾で体内中毒を起こしていても、よかんべ、おら、知ったことじゃねえよ」と近代法国家の憲法である国是を日々、自己否定している営為こそ現代日本でありますから近代論理といいますか法論理が破産しているわけであります。

 またまた自分の思いこみなのですが日本で論理が建設できるのは、市場経済生活のみではないかと思ってしまいます。論理が徹底して貫徹された日本ドームの市場経済生活は競争が過激で過酷であると思っております。ゆえに日本の現実は市場経済生活において過酷です。敗戦後の国民的価値観が大経済主義唯一であったからです。

 市場経済生活の外に出ますと、一服できるのでありますが今度はマスメディア様がつくってくれます日本ドームとなります。ここは論理を中毒させますトレンド疾走地帯であります。全体主義スピードです。独自な思考を論理で建設していく人には苦しくなります。それゆえに自分は京都に遷都しなければ、日本は閉塞してしまうと思っております。日本におけます論理リアリティを日々剥奪します自我制御装置につきましては、今年の自分のテーマです。


 90年代は演劇批評も面白くなくなり、柄谷行人などに発見を感じてきたのですが今では読んでおりません。日本語での批評精神の健在を感じるのは、現在の自分にとってインターネットのモニターでの読書です。
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 「近代」を世界中みんなで問い直すという価値観論争が求められます。これは、近代国家(=先進国)国民の歴史的使命です。それができなければ、イスラム世界にとてつもない大災厄を振りまき、信仰篤きムスリムたちの命がけの戦いを通じて「近代」を問い直すというとんでもない歴史過程を招来することになります。

 「寄生性」&「知的謀略」が国際金融家や国際商人の“危険因子” 
-トヨタなど日本の国際商人(輸出優良企業)も“危険因子”を持ちつつある -

http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/737.html
投稿者 あっしら 日時 2003 年 3 月 06 日
 あっしらさんが提示されましたように近代の問い直しは必要であり、問い直せるか、それともできないのか、の岐路地点が今であると思っております。れんだいこさんは近代史・現代史総体を問い直して行こうとしております。れんだいこさんのタブーに挑戦していく、あり方には、ダイナミズムを感じております。それはやはり68年~72年という怒涛の時期を身体の経験によって思考してきたからであると思います。覚悟が腹にあり柔らかい思索フットワークがダイナミズムをつくりだしているのではそう思っております。豊饒な問題意識をもっている方であると思っております。

 バルセロナより愛を込めてさんに読んでいただいたことが、れんだいこさんとの言説流通の回路を開いていく契機になりますれば、素晴らしいと思っております。自分といたしまして、今後もれんだいこさんの論文集をそのつど転載投稿していきたいと願っております。近代史・現代史総体を問い直している在野思想史家の存在を求めて、ネットで発見して行こうと思っております。

 自分が強制収容所をめぐる論議にはなかなか参加できず申し訳ないと思っております。ユダヤ人600万犠牲者説は、これまでの阿修羅の投稿言説において、嘘であることが、証明されたと思っております。

 ジオン兵士さんの投稿に確実性を感じました。
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 ゴルバチョフが公表したアウシュヴィッツの「死亡リスト」──実際には7万4千人。うちユダヤ人は3万人。
http://www.asyura2.com/0502/war67/msg/408.html
投稿者 ジオン兵士 日時 2005 年 2 月 17 日
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 バルセロナより愛を込めてさんの欧州報告を読みながら、欧州におけるシオニストによる言論封殺とその空気に危機感をいつも覚えております。

 バルセロナより愛を込めてさんの欧州報告は、日本において貴重です。そこに批評精神の健在と批評装置の軌跡を感受している在野の人々は、日本に確実におります。読者はバルセロナより愛を込めてさんの読み手であり、その欧州報告は読み手に欧州の今から日本の今を見つめさせてくれます。読む行為とは発見であり、わが面を洗い、また精神の細胞は産まれていきます。

 言説には必ず流通性と応答性があります。それを実証したのが、れんだいこさんであると思います。

 自分は新聞もとっておりません。また最近は本もあまり読んでおりません。ほとんどインターネットで、モニターで文章を読んでおります。モニターは活字体で表示されます。71年の春に自分は印刷工になったのでありますが、それはガリ版のミニコミとか1冊しかない同人マンガ誌を、マンガ研究会の仲間とつくっていた自分にとって、印刷会社はあこがれでした。軽印刷所でしたので、活字は清打ちといいまして、直接タイプ原紙にタイピストの女性労働者が打っておりました。それが自分の所に版として回ってきまして、印刷機にかけ、印刷しておりました。仕事をしながら活字へのうらやましさが情念としてわいたものです。

 日本のインターネット文化には、60年代後半から70年代のミニコミ運動の精神がダイナミックに流れております。高校とか大学そして、全国を横断する文学研究会やマンガ研究会の、そしてさまざまな住民運動とかのミニコミ発行の思いと記憶が大河として流れております。80年代から90年代はマンガ同人誌がミニコミ文化を形成していったのであると思います。マスコミ・マスメディアに対抗する庶民のツールであるミニコミとは60年代からの伝統があったわけです。否、それは謄写版印刷が活躍した戦前からであるかもしれません。敗戦後におきます「つづりかた運動」は謄写版印刷が活躍いたしました。吉本隆明も批評を書きガリ版でロウ原紙を鉄筆で切り、謄写版で印刷し、ひとりで発行していた「孤立を求めて連帯を恐れず」の執念の時期たる「試行」があったそうであります。70年代後半とか80年代は神田のミニコミを置いてある書店とか新宿の模索舎に行くのが楽しみでした。

 一太郎を産み出したジャストシステムは謄写版印刷、そのガリ版形態から研究をしていったそうであります。電子において活字を生成させていく情念です。活版印刷はやはり文字が美しかったです。おそらく欧州と米国はタイプ文化史からインターネットに流れていったのであると思います。日本の場合はガリ版からインターネットへの流れであると思います。

 絶対論理矛盾体制の空気で、独自的な思考による論理建設は、日本で困難なのですがガリ版ミニコミの蓄積が、おのれの手と指に記憶装置感覚として、いまだあるのかどうかが日本におけます庶民インターネットの今後を決すると判断しております。ドームのなかでいつのまにか刷りこまれた物語を落として行く行為こそ、からだの自然であり近代史から現代史の問い直しから、新たな細胞が産まれる、これもからだの自然です。風呂に入るとからだがリラックスします。からだが疲れから再生するかのようです。

 バルセロナより愛を込めてさんの欧州報告を読むと、自分はなにかを発見したという読書の達成感があります、そしてからだに新たな細胞が誕生しております。阿修羅の読者のひとりであるおらにとって、精神活動における風呂でもあると思っております。自分は転載投稿ばかりで申し訳ないのですが、ひとり鉄筆で鉄版の上のろう原紙をその桝目に文字をあるいは絵を書いていた行為こそおのれの原点であると思っております。同時代精神は継承されております。そしてバルセロナより愛を込めてさんの言葉の作業は、日本において同時代として流通していくのです。これが現在進行形としてある批評の営為であり健在であると思います。

 世界権力はおのれが批評されることを恐れております。彼らの偉大なる詐欺が、「大王様は詐欺師でまるはだか」と言われましては、祭典が崩壊してしまいます。

 亡くなった自分の親父は百姓の農家に生まれ、百姓で育ちましたので、おらも百姓の遺伝子があります。阿修羅への投稿は大地におのれが立つ原態かもしれません。実存による根源への旅、その身体と精神活動は世界権力といえども、封じこめることは不可能であると思います。

 大王様の詐欺はいつかはばれるのです。少年が一言「大王様はまるはだか」と発すれば、暗転になり、観客の見る世界舞台は更新され、次なる世界が出現しております。それが人間の精神活動ではないでしょうか。細胞は死滅し、しかし同時に新たな細胞は誕生しております。人間の細胞は兆単位であり、兆単位の身体活動であります。言葉の流通がここにあります。言説はまた身体活動でもあると思います。

 ガリ版からインターネットへ、インターネットはたしかにUSアメリカの国防省が発明し、マイクロソフトが1995年から世界中に普及させました。しかし、日本のパソコンまでの流れは、西欧のようにタイプ機器からでなく、ガリ版の音をひきずっております。思考と論理そして記述において身体で<書く>、そこから言葉を選択し文章の<節>を、かたまりとして構築していく、思考と身体のダイレクトな双方向性、思考と身体の同時一体性として展開していくと思います。日本語<節>生成には身体性があると思っております。

 バルセロナより愛を込めてさんの作業は、れんだいこさんをはじめ、日本の在野思想史家の身体に届いており、各個人による探求と応答していることは間違いありません。自己言及してしまい、すいませんでした。バルセロナより愛を込めてさん。ありがとうございました。自分はこれからもひとりの読者として読ませていただきます。お体をご自愛されますことを願っております。今後もご指摘ご批判よろしくお願いします。
 バルセロナより愛を込めて氏が、 同日付け投稿「Re: 「捨てた」ものと「得た」もの 」で次のように返信している。
 「捨てた」ものと「得た」もの

 心のこもったレス、ありがとうございます。
 私こそ愚民党さんの書かれた文章を読ませていただいて、その度に、心が洗われ落ち着き、自分の至らなさを気付かされると同時に、自分の中に何かの新たな情念の胎動の予感が芽生えるような、そんな新鮮さを感じ、救われた気持ちにさせられます。時としては、私が幼いころに歩き遊び小さな祠に手を併せた山の中で全身で感じていた、日本列島の大地に潜む精霊からの声を聞く、このような感覚すら受けさせていただくこともあります。

 一見すると一神教に押しつぶされているかのように思えるスペイン社会ですが、しかしその下にやはり大地はちゃんと生きています。先日友人の田舎の別荘に招かれました。別荘といってもそんなに贅沢なものではなく、バルセロナの平均クラスの収入の人でも田舎に家を持っている人は大勢います。

 ユーロ経済になって以来、地価が猛烈に値上がりして今では難しいのですが、以前は日本円で150万円も出せば田舎にある廃屋を買うことができました。バルセロナにはカタルーニャの田舎から出てきた人が多いため、少し収入に余裕が出てくると出身の村にある廃屋を安い値段で買って、週末になると出かけて行っては壊れた箇所の修理、壁の漆喰塗り、タイルの張替え、家具の積み込みなどを数年かけて行います。

 家具といっても高級住宅街の道路に捨ててある大型ゴミを拾ってくるわけで、お金を使わずに、自分の家を自分の手で作っていくことを楽しみにして、週末や連休の時を過ごすわけです。

 その友人が持つアーモンド畑で、何十年ぶりかで鍬を握って土を耕し、手鍬で雑草を取る作業を手伝いました。土の匂いは日本のものと少し異なりましたが、その匂いの奥底にある深い香りは同じでした。ホッとしました。どのような宗教でも思想でも、大地を否定することはできません。

 スペイン人だけではなく、多くの国の人間たちの心のはるか奥底には「大地の精霊」としか名付けようの無いものが横たわっているのではないのか、と思うことがあります。以前に私は阿修羅にこのような投稿をいたしました。ご覧になったかもしれませんが。
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http://www.asyura2.com/0311/war44/msg/440.html
日時 2003 年 12 月 10 日 09:16:16
Re:カタルーニャ名物、ウンコタレ人形
 もうじきクリスマスで、バルセロナのカテドラル(カトリック大聖堂)付近ではさまざまな出店でにぎわっています。そこで売っているものの中にちょっと面白いものがあります。陶器製の、伝統的には農夫のなりをした男がズボンをめくってしゃがみこんでいて、そのむきだしの尻の下には、金茶色に光る巨大なウンコがとぐろを巻いているのです。この人形をカタルーニャ語で「カガネー」つまりウンコタレ人形といいます。中には女性の姿も各界の有名人を模したものもあり、大きく開けた目を空中に向けて必死に腹の中にたまったものを出し尽くそうとしている表情で、思わず吹き出してしまいます。

 クリスマスの時期に神聖なるカテドラルの前で何たる下品な!、と思って地元の人に聞くと、「これこそ、大地の恵みと来年の豊作を保証してくれるカタルーニャの『聖なるウンコ』である」と神妙な顔で教えてくれました。

 つまりこういうことです。化学肥料の無かった昔は、洋の東西を問わず、人間の排泄物は土壌の栄養分の供給源として使用されていました。そもそもクリスマスの起源は、ヨーロッパ各地にあった冬至のお祭りで、最も乏しくなった太陽の光が再び成長を開始する時期を祝ったのですが、これがやがてキリストの誕生祝いに変わったわけです。その時期に、太陽の光だけでなく大地の豊かさも増すように願うことは、実に自然なことでしょう。

 人間が土から取れたものを消化してまた土に返す、これは自然界の物質循環の中ではごく当たり前のことでしょう。自分の出したものを水に流してそれがどこに行くのかすら意識に上らない現代の生活の中で、土から生まれたものは土に返す、こんな世界中の人間が太古から持っていた感性を、カタルーニャ人たちは実におおらかに、そして実に下品に「カガネー」にたくして表現しています。

 私も、子供のころ、便所の下の甕からウンチやオシッコを、今は亡きオヤジが大きなひしゃくでドボドボと肥え桶(私の地方ではコエタゴと呼びます)に入れて、竿の両側にかけて畑まで運んでまいていたのを思い出します。もちろんあたり一面すばらしい臭いが立ち込めるのですが、しばらくすると鼻も慣れてきて、別に飯を食うのに困ることはありませんでした。その畑から採れた豆やキュウリやキャベツを食って育ってきたわけで、カタルーニャ人が「聖なるウンコ」をたたえる気持ちは非常によく分かります。

 ついでに、ですが、昔はトイレットペーパーなどというものは無く、新聞紙を切ってお尻を拭いていました。ですから畑にまいたウンコにはコゲ茶色に染まった新聞紙の切れっ端が混じっており、それが育ちかけの豆の茎や野菜の葉っぱに絡みついて、そのままになっていました。それが2週間たち3週間たちすると、太陽の光と雨風によって白くさらされてきて、書いてある文字まで良く見えるようになるのです。「お天道様が清めてくれる」とはこのようなことか、と子供心ながら納得したことが思い出されます。

 まことに汚い話で、ご飯を食べている人には申し訳ないことをしました。すいません。
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 このような感覚は、私が日本に様々な利害を捨て人のしがらみを断ち切ってバルセロナに移り住み、ゼロから自分の人生を作り直しつつあったときに、私の心の奥底から再び湧き出し、ある意識の形をとり始めてきたものです。

 米軍か自衛隊の電磁波が日本列島をくるんでいるのかどうか、まではわかりませんが、確かに日本を捨てて何もかも異なる世界に身を置き続けることで、逆に日本を取り戻したような、そんな思いがすることがあります。私の部屋がインターネットに接続したのが一昨年の夏ですので、それまで長期間にわたってほとんど新しい情報を入れませんでした。地元のテレビやたまに買う新聞で、それも半分も理解できない状態で、まして日本についての情報などはほとんどゼロに等しく、インターネットで洪水のような情報に接したときに、もう浦島太郎状態でした。しかしそこで、この捨てて空白になっている期間を過ごす前と過ごした後とで、明らかに物事の受け取り方もイメージの仕方も異なっている自分を発見したわけです。

 それは恐らく、自分の肉体と肉眼の感覚でものを見る、という、はるか以前にはあって以前には忘れていたものでしょう。愚民党さんの『日本の場合はガリ版からインターネットへの流れであると思います。』というご観察には敬服します。ハッとしました。確かにそういわれてみますと、はるか昔、がりがりという音を指の骨に響かせながら原紙を削っていき、修正液が無くなってマッチの燃えカスで蝋のかすかな匂いをかぎながらあわてて修正し、手をヌメヌメの真っ黒けにしながら次第に原紙がくたびれてずれてくるのを直しては謄写版をこすっていた、あのしつこさでキーボードを叩いているのだな、と思い当たるわけです。これは眼からウロコでした。

 眼耳鼻舌身意のうちで意のみが肥大化し、他の五感が偏った方向以外にはほとんど抹消されている現代の社会であることもまた、少なくとも欧米および日本などの世界では共通でしょうが、日本にもどこの国にも、皮膚の感覚、目の感覚、大地を踏む足の裏の感覚を保っている人が大勢いるはずです。これだけが、パンドラの箱の底に残った唯一の希望です。

 私は肉体感覚――大地・自然界と通底する物質としての肉体の感覚――の喪失した論理を信用しません。それは悪魔の論理であり悪魔の言葉です。愚民党さんの書かれた文章には、これは木村愛二さんの文章にも感じることなのですが、この肉体感覚があるのですね。これはもう「なに」という理屈ではなく、私の皮膚が直接感じることです。したがって逆に悪魔の言葉も私の皮膚で直接感じるわけです。日本語であるとスペイン語であると英語であるとを問いません。逆に言えばこのことが、あらゆる言語や習慣を超えて、人間の中には世界を破局から救える何かがあるのではないか、という予感につながってくるわけです。

 『自分は転載記事ばかりで・・・。』いえいえ、私は愚民党さんの直接書かれた文章を知っており、転載記事の奥にある肉体の目をいつも感じています。今後も愚民党さんの文章に接して心を洗わせてください。こちらこそ、ご批判、ご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いします。






(私論.私見)