| 元革労協活動家 高原駿/氏の遺書 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年5.10日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| 本サイトで「元革労協活動家 高原駿/氏の遺書」を確認しておく。 2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.1.28日 れんだいこ拝 |
| 【高原駿/氏の履歴】 |
| 「元革労協活動家・高原駿さんに興味をもったきっかけ」。 |
| 長崎浩『叛乱を解放する』(月曜社、2021年)という本が、なぜか、東京都立図書館の開架図書の中にあって、手に取った。「叛乱を解放する ー 体験と普遍史」(2025年08月11日
15:05時点 詳しくはこちら)。その中で、特に印象に残ったのが、社会主義青年同盟解放派(青解派)の元活動家の高原駿という人が書いた『沈黙と軌跡』という電子書籍の書評だった。 長崎浩によると、この高原駿は、早稲田大学で、青解派の活動家になり、その後も、1980年代初頭まで革命的労働者協会(革労協)の活動家になるものの途中で離脱し、フィリピンのドゥマゲッティに移住してサーフィンを楽しむ生活を送るようになった。しかし、フィリピンで再婚した女性に騙されるような形になり、財産をその女性の親族に奪われる・・という悲しい末路をたどる。そして、高原駿は、そのような転落の人生の軌跡を振り返り、『沈黙と軌跡』という本にまとめた・・ということらしい。そこで、いわゆる共産趣味者の私としては、この革労協から離脱して、転落の人生を送った高原駿という人ってどういう人なんだ?『沈黙と軌跡』はどんな内容なんだ?とがぜん興味がわいて、いろいろ調べてみた。それで、調べた結論をいうと、まず、『沈黙と軌跡』は、現在、入手できない状態になっている。 高原駿さんが実名で書いた遺書を見つける 下記リンク先に『沈黙と軌跡』の販売サイトがある。しかし、いろいろ試みても結局購入はできなかった。https://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8944 しかし、いろいろ検索をすると、高原駿が、実名の黒澤正彦という名前でフェイスブックに、2021年1月1日付で遺書ともいえる文章を投稿しているのを見つけた。 晩年の高原駿さんの写真(Facebookから転載) どうやら、この文章を投稿した日、すなわち、2021年1月1日に、高原駿は、焼身自殺をしたらしい。しかし、この遺書ともいえる文章が、本当に長い!長すぎて、読んでいられず、データをPDFファイルにして、音声読み上げ機能をつかって読み上げてもらったら、内容としては、少し冗長な面もあるものの、興味深い側面もあるものだった。 特に、私のような、実際の学生運動を経験していない、就職氷河期世代の人たちからすると、たとえ共産趣味者であったとしても、せいぜい共産党、中核派、革マル派あたりまでしかよくわからない(特に中核派、革マル派については、ジャーナリストの立花隆さんが『中核vs革マル』という本を出してくれているので、比較的容易に背景事情、歴史がわかる)。そして、革労協、その前身である青解派あたりにあってくると、東大全共闘の安田講堂占拠時の写真にでかでかと「青解派」という旗?垂れ幕?みたいなものが写っていたり、1990年代に革労協内部で凄惨な内ゲバを行っていたことが報道されていたり、といった断片的な情報しかわからない。そのため、革労協・青解派については、どうしても情報不足に陥っていたのだけど、この遺言を読むと、社会主義青年同盟解放派が実際には、リベラル系あるいはアナーキスト系の人々をも含んだ、雑多、あるいは、多様性のある集団だったことが伝わってきて、だいぶ私の好奇心を満たすことができた。 また、学生運動が、一部の人々に対して、人生をまさに狂わせてしまうような、魔力とでもいうべき、すざまじい精神的な影響を与えたことに、改めて気づかされた。高原駿さんも、学生運動をやっていなければ、いまも普通の年金生活者として、そこそこ幸せな生活を送っていたんじゃないかなあ・・と思うと、やるせない気持ちになった。それとともに、この文章を読むと、高原駿さん(黒澤正彦さん)は、きっと、この遺書を、本当は、たくさんの人に読んでほしいと思っていたんだろうな・・という気持ちも伝わってきた。そこで、以下、高原駿さんの遺書を、読みやすくするために、見出しをつけ、適宜改行や読点などを加えて、ここに再掲してみることにした。たぶん、高原駿さんの合理的意思(遺志)としては、この文章の無断転載を、むしろ歓迎していると考えたためである。以下、高原駿さんを追悼する思いのもと、高原駿さんの遺書の全文をご紹介する。 |
| 高原駿さんの遺書 |
| 私の人生の信念は革命的英雄主義である |
| 56年前の1964年、昔の東京オリンピックがあった。1947年10月生まれの私は、当時17歳になったばかり。まだオリンピックが始まる以前、改築前の我が家でのことだと思う。週末の土曜日には、夜遅い時間でも家族とともにテレビを見ることが許されていた。おそらくは、NHKの番組だったと思うが、外国のテレビ映画かドラマが放映されていた。もう詳細な記憶はない。ただ、どこか東欧のナチス占領下の国、おそらくはポーランドが舞台だったように思う。とある宿屋に、ナチス親衛隊の将校が、兵士を連れて踏み込んでくる。投宿者を集めて、親衛隊将校が何者かのテロによって殺された、この中に犯人がいるとは思わないが、見せしめのために一人連行して銃殺にすると宣言する。そして、一人の若者を連れて行こうとする。そこに、年老いた旅人が声を上げる。そんな若造を殺しても、見せしめの効果はあるまい。私は、シェークスピア劇の役者だ、私を銃殺にしたほうが、見せしめの効果があるのではないかね、と。親衛隊将校は、お前がそんな高名なシェークスピア劇役者には見えん。そうだと言うならば、何かシェークスピア劇の一場面でも演じて見せろ、そうすれば、望みどおりにお前を銃殺にしてやると言う。そこで、旅の老いた役者は、『マクベス』の一場面を独演して見せる。王ダンカンを殺す前に、マクベスは、中空に浮かぶ血塗られた短剣の幻影を見る。それを手に取ろうとして取れず、これは幻影なのか、と独白する場面だ。たしか、その時に流れていた音楽がバッハ作、トッカータとフーガニ短調だったと思う。私は、とくにクラッシック音楽に造詣が深いわけでもなく、普段から耳にするわけでもないが、なぜかこのパイプオルガンの曲を好んで聴くことがあった。その理由が長らく自分でもわからなかったが、つい最近になって、16歳のときに見たこのテレビドラマが一因なのであろうかと得心がいったというわけだ。そのときに、何かの精神の種のようなものが降りてきて宿り、その後の私の生き方を方向づけたとさえ思えるのだ。もっとも、そのような生き方をしてきたのは私が36歳の時までである。その時以降の別な36年間は、まあ一言でいえば、べんべんと生きながらえてきたにすぎぬ。何かの精神の種?あまり使いたくはない言葉だが、いわば革命的英雄主義と自己犠牲の精神といったところだろうか。 |
| 浪人生時代に、共産党の宮本顕治の文章に感銘を受ける |
| 私の幼少期は、泣き虫で有名だった。感受性が強いともいうが、坂本竜馬がやはり泣き虫だったということでのちに救われた思いもすることがあった。近年、テレビのバラエティ番組である心理学者がある俳優の性格診断なることをしていて、記憶力が良いのは臆病な性格ともいえるが、いわば頑張り屋さんで臆病な性格とか言っていた。私も、記憶力の良さでは幼少から一頭地を抜いていて、団塊の世代で受験競争が激しかったが学校の成績はよかった。俗物的な母親から、良い学校を出て良い会社に入りなさいとか言われても、本当にそんなことが生きる目的なのだろうか?と中学生のころから疑問を抱きながらも、高校は、当時では全国有数の受験校、都立戸山高校に合格した。しかし、ちょうどオリンピックのころの高校2年生のころには、そういう疑問は膨らみ続け、人は何のために生きるのだろうか?という想いにとりつかれ、授業中にもニーチェやドストエフスキー、カミユやサルトルといった本を読みふけるようになった。そのせいもあり、1966年には東大一校しか受験せず1年間浪人生活を送ることになった。予備校には行かずに高校の授業が終わった時間に開かれる卒業生講座というものだけに参加した。その講座の国語の授業では、日本共産党系列の教師が、宮本顕治の『敗北の文学』をコピーして読ませた。それは、宮本顕治が東大の学生のころに戦前の『改造』という雑誌の評論の懸賞論文に応募して一席になった評論である。ちなみに、次席は小林秀雄の『様々なる意匠』であった。 『敗北の文学』は、自殺したばかりの芥川龍之介を、台頭する労働者階級の前に動揺する小ブルジョアジーの文学にすぎない、と断罪するものであった。一人己が生にいかなる意味があるのかと思い悩んでいた私にとって、芥川龍之介の『漠然たる不安』に親和性を感じていた私に、ある意味で衝撃的に、社会、階級といったものに目を開かせてくれるものではあった。 |
| 共産党、革マル派とは異なる学生運動に参加する |
| 燃えさかる学生運動の渦中へ。そして、1967年、早稲田大学第一文学部に入学。1965年に日韓闘争、66年の第一次早大闘争を経ていわゆる三派全学連が結成され、また、世界的なベトナム反戦闘争が盛り上がるなかで、キャンパスは学生運動一色だった。私は、自治会クラス委員に立候補し、自治会常任委員になり、10・8羽田闘争を皮切りに、燃え盛る学生運動の渦中に飛び込んでいった。しかし、それは、日常諸要求を通じて組織化し、議会での共産党の議席を増やすことを自己目的化した、日本共産党とは区別されたものであった。また、10・8羽田闘争から翌1968年4・28沖縄闘争にかけて、自身のクラスからも、最大7名の参加者を組織化することに成功しつつも、当時の早稲田文学部は、革マル派の拠点であり、自治会権力は、マル学同革マル派委員長でもあった高島忠正率いる革マル派によって牛耳られ、私の書いた闘争参加を呼び掛けるビラの原稿にまでチェックが入る状態だったので、一線を画すことにしたのだった。 社会主義青年同盟解放派は、レーニンの前衛主義に対して批判的だった 1968年は、東大や日大で全学共闘会議が結成され、ベトナム反戦闘争とともに学生の存在とは何かを問う、学園闘争が盛り上がっていく時期でもあった。私は、いわゆる、解放派系の社会問題を研究する社会思想研究会というサークルに参加し、おもに経済学を研究しはじめた。一方で、マルクス主義思想関係の本も多く読んだ。とはいえ、それは、いわゆる主流派的な思想ではなかった。 解放派という党派は、翌年の1969年に革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)という組織として公然化するが、創始者は滝口弘人といい、1960年安保闘争では、全学連主流派を率いたいわゆる安保ブンド=共産主義者同盟と共に闘ったが、労働者階級本体、日本においては当時の社会党ー総評ブロックの革命化を目指すとして、公然たる社民内分派闘争と、階級闘争の現場からの行動委員会運動を通じて、労働者階級の総体としての革命化を目指す、としていた。そして、1960年代の学生運動の拠点であった東大、早稲田などに反帝国主義学生評議会、労働運動においては反戦青年委員会を組織していった。それは、レーニン的な前衛党、職業革命家の組織による労働運動などの指導による政治権力奪取ではなく、マルクスが「プロレタリアート独裁とは何かと問うならば、パリコミューンを見よ」といった点に着目し、党独裁ではなく、階級独裁としてのコミューン、ロシア革命におけるソビエト=評議会、ドイツ革命におけるレーテ=評議会権力に重きを置こうとする思想だった。 滝口弘人の起草した、「解放派綱領的三論文」といわれるものには、ローザルクセンブルグの『ロシア革命論』におけるレーニン批判が引用されていた。ローザもまた、階級独裁としてのソビエト独裁を評価しつつも、ロシア10月革命後の憲法制定会議を廃止することによって、階級独裁から党独裁になり個人独裁にまでも行きつくだろうと、後のスターリン独裁をも予言するようなボルシェビキ批判を、1918年にすでに展開していた。一方で、レーニンひきいる、ボルシェビキ主導のロシア革命は、1917年10月ロシア革命で「全ての権力をソビエトに」、「土地とパンと平和」をスローガンに、ソビエト権力を樹立する。しかし、ローザの予言をなぞるように、憲法制定会議の廃止、ソビエト内反主流派左翼SR(ロシア社会革命党)の離反とそれへの弾圧、クロンシュタット叛乱鎮圧、企業長単独責任制などをとおして、政治的にも、階級独裁から党=ボルシェビキ独裁、党政治局独裁、スターリン個人独裁へと進んでいく。社会的にも、ネップ(新経済政策)などにより、国家独占資本主義へと変質していく。 他方、国際的には、共産主義インターナショナル、コミンテルンを組織化しつつも、それらは、一国革命としてのロシア革命の防衛のための機関と化すような変質をもとげていった。各国における共産党は、コミンテルンの一支部という位置づけで出発しつつも、第二次世界大戦終了前のコミンテルン解散もあり、民族解放、民主主義革命という路線をとる各国共産党も多く、日本共産党もそのひとつであった。 |
| 革マル派は宗派主義だ |
| 日本における階級闘争の特殊な阻害物。他方、日本におけるある種の新左翼の源流の一つとも言える人物に革マル派の創始者にして長年にわたる頭目として存在していた黒田寛一という人物がいる。1956年のハンガリー動乱を批判し、反スターリン主義を定式化した人物でもある。しかし、黒田は、階級的な大衆的な闘いの中から生み出されたというよりは、雑多な哲学書を読み漁り、日本の階級闘争の周縁にいて、反スタという概念に行きついたにすぎない、とも言える。したがって、マルクスやローザルクセンブルグやレーニンといった、大衆的階級闘争の最中に身を置いていた革命家像とは、区別されねばならない特色を備えていた。一言でいえば、宗派主義、あるいはセクト主義、今日的にわかりやすくいえば、カルトということになるだろうか? 1950年代に、スターリン批判が巻き起こる中で、日本共産党が指導していた全学連の中に、民族民主主義革命ー労働者革命という二段階革命戦略に疑問をもつ、全学連主流派が形成され、共産主義者同盟が結成されていくと、革命的共産主義者同盟を形成していた黒田は、主流派全学連の一角をにないつつ六十年安保闘争を闘っていく。六十年安保闘争の敗北とともに、一度は瓦解したブント=共産主義者同盟の一部を吸収した革命的共産主義者同盟は、全学連反主流派=日共が多数派となっていく中で、安保全学連を引き継ぐような形で全学連を名乗っていった。また、1963年の革共同第三次分裂で、本多や旧ブント系が離脱していく中で、革マル派を名乗る全学連はごく少数派へと転落していく。 そして、1960年代半ばに革マル派とたもとを分かった中核派や、再建されたブント、社青同解放派で三派全学連が結成され、大衆的な運動展開が開始されるや、統一行動を追求すると称して、集会場に押しかけて暴力的な衝突を引き起すなど、のちの七十年代の内ゲバを想起させる行動をしかけていった。革マル派が、この60年代に「暴力をもってする他党派解体」を路線化していたことは証拠もあるし、実際の行動からも間違いはない。それは、70年代以降も貫かれていた。それは、まさしく、1990年代にオウム真理教の麻原彰晃が自らへの批判者を「ポア」と称して肉体的に抹殺していったことを彷彿とさせ、まさしくカルト的であり、それを60年代、70年代に革マル派との党派闘争として戦った解放派は、宗派主義と規定していた。他方、内ゲバの一方の主役である中核派は、単に革マル=反革命というレッテル貼りに終始していたが、それは黒田=革マルと同様な観念と観念の戦いに終始するということでもあった。 |
| 社会主義青年同盟解放派の分裂の歴史 |
| 解放派とはなんだったのか。1960年代、解放派は、その党派的出発の立脚点からして、「行動委員会を通じての労働者党建設」を置き、レーニン的な前衛党建設とは区別された地平から、階級闘争総体の革命化を目指しつつ、反革命的宗派としての革マルとの闘争のなかから、自らの胎内に宗派主義を生んでしまうことによって、大きな敗北を喫したといえる。それは、1980年の解放派の分裂となって現れた。 一方は、九大出身の狭間嘉明を頭目として、革マル=反革命規定を前面に出し、軍事戦一本鎗で進もうとする宗派主義部分と、階級闘争の現場にあくまでも足を置きつつ、反革命的宗派=革マルの解体戦を組織戦・思想戦・軍事戦の三位一体で貫こうとする、当時は労対派と呼ばれる部分とに分裂した。しかし、労対派と呼ばれる部分にも、観念的な前衛主義者が内在し、なおかつ、そうした部分が、陰謀的に組織運営を図ろうとしていることが明らかになる中で、私は、1984年には一切の活動を休止することを宣言して、ほぼ15年にわたる闘いを終わらせてしまったのだった。 この戦いの個人史的なことも多くを語ってみたくもあるが、ここでそう長々と語るわけにもいかない。10数年も昔に、高原駿『沈黙と軌跡』という題名で、でじたる書房というところから電子出版をしたことがある。いま、その電子本が購入できるかどうかすら、海外にいたのではわからないのだが、興味のある方は探して読んでいただければ幸いである。 |
| 大学入学までの思想の変遷 |
| 私は、前半生をいかに生き、戦おうとしてきたか。概略的に、私がものごころつきだして以来の日本の政治状況の一端を見てきたが、その中で、私自身はいかにかかわろうとしてきたのか、もう少しみてみたい。 そもそも、人はなんのために生きているのか?という思いにとりつかれる前後から、家のなかで、父親を筆頭に、たとえば、新年に神棚の前で家族そろって頭を下げる、といったような儀式には、反発を感じてはいた。そもそも、明治期に始められた国家神道なるものは、先祖崇拝の風習を国家レベルまで拡大し、教義などもなく、ただ天皇=現人神として崇拝させる、その意味ではカルトにほかならない。そうしたものに疑問を感じつつ、現に生きている社会は資本家階級による労働者階級の搾取と抑圧に覆われており、労働者階級の闘いが勃興しつつあるという、日本共産党=宮本顕治の提起に衝撃的に目を開かされはしたが、そこから一気に日本共産党=民青の組織や運動に飛び込んでいくという風にはならなかった。むしろ、それまで読み、親しんだニーチェやサルトルなどの既存の価値体系の真偽を疑い、自らの主体を現実の中に貫くべきという風に感じていたと思う。 |
| 早稲田大学自治会常任委員としての活動と革マル派への疑問 |
| 1967年早稲田第一文学部に入学して、おりからのベトナム反戦闘争の渦中で、自治会を掌握していた革マル派からはしつようにオルグされクラス委員になり、自治会常任委員会の一員になるように説得されていた。のちに、革マル派の内部抗争?でホテルの一室から飛び降り自殺する、当時の自治会委員長でもありマル学同革マル派委員長でもあった高島忠正からは、ひととおり、お決まりのオルグの文句を聞かされたあとに、「あとは君の主体性の問題だから」という一言に何かを感じ、自治会常任委員として活動していくことになった。 そして、のちに、全国に学生運動、反戦闘争の火を燎原の火のごとく燃え上がらせていくきっかけとなる10・8羽田闘争をはじめとして、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、王子米軍野戦病院反対闘争などをへて、1968年4月28日沖縄闘争では、嘉手納基地から米軍B52爆撃機がベトナムへ向けて飛び立っていくという状況の中で、闘争の組織者として、参加をクラスメンバーに呼び掛けていく文章を作成した。そして、わずか50名にみたないクラスの中から、4・28闘争には6名の参加者を獲得することができたが、その渦中に、はなはだ疑問を感じざるをえないようなことが起きた。一年生の自治会常任委員には、革マル派のオルグ担当者が張り付いていたのだが、呼びかけビラを作成していく過程で私が作成した文章に、「ベトナム人民への血の抑圧」という表現があり、それが、社青同解放派の「ベトナム人民抑圧戦争反対」というスローガンを想起させるものだから削除しろ、と指示してきた。大学生になって1年未満、自治会活動にかかわり始めてから半年ちょっとという中で、いったんは受け入れたものの、これは、自らの主体性を貫く活動たりえないと判断し、その後の自治会常任委員としての活動はいっさい、中断することにした。 |
| 社会主義青年同盟解放派系のサークルに参加する |
| そして、当時、早稲田では政経学部自治会と文化団体連合会、早稲田祭実行委員会の執行部権力を保持し、1966年早稲田学費値上げ反対闘争を闘った全学共闘会議を主導的にけん引してきた社青同解放派にシンパシーを感ずる学生が集まっていた社会思想研究会に参加し、経済学コースに所属し、当時は日本のマルクス主義経済学では主流派であった東大の宇野弘蔵や鈴木鴻一郎などの経済学原論などの研究を始めた。 ひとつには、ベトナム戦争の性格をきちんと理解しなければならないと感じたからだった。そもそも革マルは社青同解放派の、より正しくは反帝学生評議会という大衆的運動体が掲げていた「ベトナム人民抑圧戦争反対」というスローガンは、そもそも戦争は人民を抑圧するものだから意味がないとかの批判をしていた。ようするにいちゃもんにすぎないのだ。そうであるとするならば、私がビラに書いた「ベトナム人民への血の抑圧」とは戦争に反対するということを表現したにすぎず、解放派=反帝学生評議会のスローガンを表現したとは言えないはずなのだ。しかし、革マルはイデオロギー闘争ということを掲げて、他の党派の運動にいちゃもんをつけ、解体し自らに吸収したいという路線を突っ走っていたのだ。中世宗教論争、神学論争であり文字通りの宗派=セクトであり、今で言えばオウム真理教のようなカルト集団であった。そしてイデオロギー闘争の果てはイデオロギーの担い手である実体=活動家を打倒する、暴力をもって他党派を解体するということを路線化していた。そのことは、この1960年代後半の早稲田キャンパスにおいて革マル派の暴力的他党派解体路線を明示した内部文書を落として解放派に拾われるという事実からして証拠のあることだった。 こうして、他党派との共闘=三派全学連と革マル全学連の共闘=イデオロギー闘争(暴力的他党派解体路線)というカルト的な革マルの活動に一時期は自治会活動を通じて引き込まれそうになりながらも、自らの主体的な活動を堅持したいという方向に目覚めることによって、1968年はサークルの学習会活動を主にしていわば牧歌的ともいえる学生生活を送っていた。もっとも、反帝学生評議会にシンパシーをいだく多くの学生たちとともにサークル活動をしていたわけだから、70年安保闘争を目前に控えた6月反安保闘争とか10・21国際反戦デーの闘争とかにはデモ隊の一員として参加はしていたが。 |
| 1968年の早稲田大学における革マル派の全学制覇 |
| この1968年は東大や日大で全共闘運動が戦われ始めたし、前年の1967年10・8羽田闘争以来の街頭反戦闘争は激しいものとなっていた。とりわけ、米軍ジェット燃料が横浜鶴見のプラントから国鉄の貨物路線を通過して横田の米空軍基地に運ばれていることが暴露され、通過点の新宿駅では激しい阻止闘争が戦われた。駅ホームを占拠し、線路の敷石を武器に投石やこん棒をもっての武装した警察機動隊とデモ隊との激しい衝突が現出した。10・21国際反戦デーには、当時の社会党・総評は明治公園で集会をもって国会のそばを通り日比谷で解散するデモコースを申請しており、解放派は社民内分派闘争をつうじての労働者階級本隊の革命化を掲げていたから、この集会・デモに参加し、途中から国会をめざし、国会構内全人民政治集会を呼び掛けて、労働者・学生の青ヘル3千の部隊は途中からデモコースをそれて国会構内に向かい、機動隊と衝突しつつも一部は国会構内になだれ込んだ。 一方、街頭闘争の先鋭化をもっぱらとする中核派は、新宿暴動をよびかけ、米軍ジェット燃料輸送阻止闘争の記憶も新しい新宿騒乱を引き起こした。また、ブントは、防衛庁突入を掲げて丸太で防衛庁正門を突き破らんとした。革マルは、どこにもいかずに四谷駅近辺を無届デモでお茶を濁していたが、主に三派が分かれて行動することにより警察機動隊の警備は分散、混乱し、新宿では市民も巻き込んでの暴動で騒乱罪を適用せざるをえないまでに追い込まれた。 こうして、早稲田キャンパス内では革マル系と解放派系の共闘集会などはまがりなりに維持されつつも、秋の反戦闘争が一段落するなかで解放派系の学内集会への動員数は一時的に落ちた。それを好機とみたのか、革マルは、11月になると党派折衝を名目に早大解放派の主だったメンバーを呼び出して一気にテロで打倒し、解体して早稲田キャンパスの全学制覇を目指した。しかし、党派折衝の場に現れたのは、解放派全学のキャップである政経学部の浜口竜太が一人で、結局、浜口一人が大けがを負った。この情報が伝わると、事実上、解放派系の学生活動家はキャンパスに立ち入ることができなくなった。革マルの武装戒厳令による全学制覇である。 |
| 東大駒場キャンパスでの解放派リーダー・滝口弘人の演説 |
| 私は、解放派系学生運動にシンパを抱く、一サークル活動家にすぎなかったが、解放派が、全国動員で東大駒場キャンパスに結集し、教職員会館を拠点に、革マルとの武装した対峙関係に入ると、それに参加した。早稲田の解放派系活動家は、あらかた脱落状態だったのだが。1968年末は、東大全共闘運動が煮詰まり、全学バリケード封鎖を目指す東大全共闘に対し、日本共産党=民青系は全学封鎖反対を掲げて、とりわけ図書館封鎖をめぐっては激しく武装敵対に出てきた。そんな中、全都の反帝学生評議会は、東大構内で決起集会をもち、滝口弘人が講演を行った。 それはスペイン人民戦線の戦いにおける敗北とは何だったのかという点に集中していた。スペインにおいて人民戦線政府が樹立されると、ファシストイタリア、ヒトラードイツに支援されたフランコ将軍がクーデターを起こし、反乱軍を率いて首都マドリードに迫るようになる。人民戦線政府を支えていたのは、議会制民主主義的なブルジョアジーやコミンテルン系共産主義者やヨーロッパの社会民主主義者もさることながら、労働者運動に根を張っていたアナーキスト(とは言ってもいわゆるアナーキズム、無政府主義というよりも前衛党の指導の下の労働組合ではなく自立的な労働組合運動という趣の)CNT全国労働連合、さらにはトロッキー派に近いバルセロナを中心としたマルクス主義統一労働者党、POUMなどである。 前者のグループが、議会制民主主義の枠内での政権維持に主眼を置くのに対し、後者は、人民戦線政府権力下での社会革命の推進を通じて政府権力の革命化をすすめ、もってファシスト勢力を一掃せんとしていた。そして、スターリンが独裁的に権力を掌握したソ連の影響下にあるコミンテルン(共産主義インターナショナル)は、スペインに国際旅団という義勇軍を送り、武器弾薬の補給路を独占し、むしろ人民戦線内部の革命派、CNTやPOUMを弾圧した。バルセロナにおいては、POUMやCNTの民兵に対して公然と襲い掛かり武装解除し、主だったメンバーを私設監獄に投獄さえした。またPOUMの首領、アンドレアス・ニンは暗殺されバラバラ死体で街頭に放置された。 滝口は、こうしたことを踏まえ、現下に全国に拡大しつつある全共闘の戦いに武装して敵対する日本共産党・民青=スターリニスト、さらには反スタを掲げてはいるがスターリニスト=反革命的宗派そのものである革マル派の武装敵対を、断固として実力で突破していかねばならないとした。この滝口講演は、すでにローザルクセンブルグの『ロシア革命論』やジョージオーウェルの『カタロニア賛歌』を読んでいた私にはすとんと胸に落ちる内容だった。 |
| 1969年の早稲田大学復帰、逮捕、投獄 |
| かくして、1969年、1月東大解放講堂(安田講堂)死守戦後、全国に拡大する全共闘運動の中で4月、革マルの武装戒厳令を打ち破り早稲田キャンパスに復帰し、第二次早大闘争=早大全共闘の戦いをけん引し全学封鎖を闘い、9月全国全共闘結成を目前に控えて9.3日早稲田第二学生会館バリケード死守戦で逮捕、投獄された。 |
| 1970年の結婚と就職 |
| 70年3月、半年におよぶ未決拘留から保釈で復帰した私は、67年入学以来、文学部ドイツ語語学クラスで同級生だった早大文学部一の美女(どちらかといえば美少女)小笠原葉子さんに一目ぼれ状態だったが、実は彼女もまた私に思いを寄せていたことが判明し、結婚することにして学生戦線からは離れることにし、急遽行われた東京都職員追加採用試験に応募、合格して70年7月から世田谷区役所に勤務するようになった。世田谷区役所公害対策課に勤務し、結婚生活を続けながらも、70年代の入管闘争や沖縄闘争、三里塚闘争、狭山差別裁判糾弾闘争などの諸課題をめぐる闘争にも参加していった。 1969年1・18-19の東大解放講堂死守戦から前夜になって逃走し、組織温存した革マルは、これらの諸闘争に暴力的に介入し、衝突を引き起こす。70年代前半は、「内ゲバの時代」ともいわれたが、革マルこそ、暴力をもってする、他党派の解体を全面化させた、諸悪の根源であったのだ。そして、闘争現場に暴力的敵対的に介入するのみならず、対立党派の活動家に対する夜襲=下宿テロにまで乗り出し、報復は報復を呼んでいった。 |
| 父親の人生の回想 |
| あらためて、革命的英雄主義と自己犠牲の精神とは何なのか。私の父親、柴田彦八(私の旧姓は柴田である。1980年組織分裂のころに諸般の事情、判断から姓を変更した。)は福島県磐城郡の農家の八番目の子として1914年に生まれる。国士館中学を卒業後、国士館が植民地化した満州の人材養成のために創設した満州国鏡泊学園という専門学校に入学した。しかし、場所が白頭山の中国側、当時、金日成(伝説のゲリラ指導者)が率いた抗日ゲリラ(当時は匪賊と呼んでいた)が活躍していた場所でもあり、何か月も匪賊に包囲されたり校長が殺されたりし、2年ともたずに解散した。その後、陸軍が三井、三菱、大倉財閥などにも出資させて作った、昭和通商という軍需物資調達や秘密工作資金の捻出のために作った商社に勤務する。そこで出会ったのが大岸頼光という青年将校運動の精神的指導者ともいわれていた人だった。大岸は、2・26事件の時には和歌山の連隊に大尉として勤務しており、事件そのものは、在京部隊のみで決起したために連絡はなく、いったんは事件関係者として逮捕投獄されるも、直接的な関係を立証できずに釈放され、軍籍からの追放という処分になった。しかし、その人材を惜しむ、岩畔という軍務課長に口説かれ、陸軍昭和通商満州新京支店の支店長として勤務するようになる。その時の支店長秘書兼特信班長となるのが、私の父だった。以降、日本軍の戦線拡大に伴って、勤務地は上海、広東、香港と変遷していくが、支店長と秘書という関係は続いていく。 山本常雄という人の書いた『阿片と大砲 陸軍昭和通商の七年』という本によれば、大岸頼光は、昭和20年春には、満州交易という、別な会社の重役になっていたが、昭和通商の社員なども交えた酒席で、「五族協和などというスローガンで日本人は何をやってきたか?台湾人や朝鮮人、満州人をひどい目にあわせ日本人ばかりが良い思いをしてきたではないか?もうこの戦争は先が見えた、自分一人が止まって八つ裂きにされるから日本人は皆な内地に帰れ」と言って皆を驚かせ、「大岸さんは右翼なのだろうか。左翼なのだろうか」とか言われたことがあったそうだ。 私の父親にいわせると、大岸は、陸軍士官学校出身だが、士官学校時代はマルクスを読みふけり、しかし、その後、自分はマルクスから本居宣長になったよというようになったそうだが、強烈な天皇主義者ではあったようだが、やはり強烈に一君万民、つまり一君のもとでの平等主義者だったようだ。北一輝が、玉=天皇をいだいての権力掌握=国家改造を主張したのに対し、大岸は、より隊付き将校に近い、「現実に苦しんでいる農民を救済せねばならない」という立場だったのだろう。 「『皇政維新大綱』という文書を書いたのは大岸だ」と言われている。私の父は、まあ普通の右翼という感じはあったが、たとえば、私が、10・8羽田闘争で負傷して帰ってきたりすると、「学生運動などを始めても、マルクスなど読んだこともないだろう?」とかいう。ちょうど、岩波書店から、向坂逸郎編・マルクス『資本論』全三巻が刊行されたばかりのころでもあり、「買って読むから」と言って、三千円ほどをせしめた記憶がある。もっとも、忙しさにかまけて、1976年から8年にかけての長期拘留のときにはじめて読んだのだが。私が中学生のころ、父は、全日本教育父母会議とかいう怪しげな右翼大衆運動の専従かなにかをしていて、そのころに、ジョージオーウェルの『動物農場』という本を読まされたことがあると記憶している。当時のソ連、スターリン支配の実態を寓話として揶揄したような物語として、反共産主義を教え込もうとしたのかもしれない。しかし、漠然とではあるが、私は、裏切られた革命は正されなければなければならないと感じたように思う。また、スタハノフ運動を象徴するような、働きぬいて倒れていく馬には気高さを感じていたように思う。かくして、「我が身を挺して苦難に立ち向かっていかん」とする精神は、あたかも生まれついてのもののようにわがものであったと言えるかもしれない。 |
| 英雄主義と欺瞞的態度 |
| 10・8羽田闘争で60年安保闘争での樺美智子さん以来の死者となった山崎博昭君は、京都から東京に向かう夜行列車の中では、キルケゴールの『死に至る病』を読みふけっているような青年だったという。また、同年代の活動家だった人間について、作家、北方謙三が中央大学のブント時代の思い出を語っていたことが印象にある。当時のブントは分裂を繰り返し、敵対する党派に自己批判を求められたら、いくらでも自己批判書に署名しても構わないという方針だったらしい。しかし、一緒に酒場で飲んでいるときに、やくざ者のようなのにからまれると膝がしらが震えだしてしまうような、一見やわに見えるのが、いざ敵対党派につかまると、絶対に自己批判しないで、ぼこぼこにされる、というようなこともあったらしい。しかし、こうした「革命的英雄主義と自己犠牲の精神」=身を挺して目標に向かって突き進むということには、ある種の危うさというものがつきまとう。 階級社会では精神労働と肉体労働の分離がつきものである。別段、精神労働が高級で、肉体労働が低級などということはない。人間労働は、自らの肉体にそなわる五感を動員して自然的対象に働きかけ、使用価値を生み出していく。しかし、人間共同体が複雑化し、階級分化が進んでいけば、精神労働と肉体労働は分離し、前者による後者の支配が深化していく。階級社会を止揚せんとする理論と現実においても、そうした矛盾が現れてしまうことがある。1960年代の学生運動などにおいても、ましてや、レーニン的前衛党を批判的にとらえ生きた階級闘争のただなかからの革命的労働者党建設を目指すとした解放派という運動の中にも、官僚風を吹かせ、「俺はあいつを鉄砲玉として突っ込ませてやった」などと、自慢気に吹聴する愚劣極まりない人物像もあったのである。 |
| 1969年末の革命的労働者協会の結成 |
| 組織と運動のなかで。60年代末、この身を挺して進むべき道を掴んだ思いの私は、途中、恋愛とそこから共に生きていくには職に就かねばならず、就職と結婚を機に学生戦線からは離れて労働戦線に移行した。69年9月以降、半年間は当時、巣鴨にあったかっては巣鴨プリズンとして知られた東京拘置所で未決囚だった。そのためか、1969年末に結成された革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)、それは党の萌芽としての公然たる分派組織として位置づけられた、の結成には参加しなかった。学生運動における行動委員会運動としての反帝学生評議会のメンバーではあったが、政治組織としての社民からの分裂組織としての社青同に加入したのは、労働戦線移行後の70年だった。 この69年末の革命的労働者協会の結成には、多くの問題が含まれていたようだ。1970年の安保闘争を控えて急いだという面もあったし、とりわけ学生戦線には、普遍を託す前衛党を志向する傾向があった。それは、結成当初の革労協学生委員会議長狭間嘉明を頭目とする、学生戦線指導部のレーニン主義的前衛党への回帰という傾向だった。そして、学生戦線には、70年安保闘争の敗北後に大量に労働戦線へと移行していった活動家に対して、「学生戦線からの逃亡者」というような規定をし、ときには、労働戦線の活動家を非合法活動にひきずりだし、国家権力に逮捕さえさせて、前衛党的活動家に焼き直させていこうとするような志向までも生み出していった。そうした中で、私は、労働戦線の中で公然活動としての労働組合運動にもかかわり、都職労中央委員の位置をも獲得する一方で、非公然ー非合法の軍事面にもかかわっていた。 |
| 暴力(ゲバルト)と道義的力(マハト)の違い |
| 暴力ということについて言えば、今日でもゲバルトというドイツ語はもはや日本語化したと言ってもいいほど人口に膾炙している。他方、解放派の創設者・滝口弘人は、ゲバルトとは区別された、「道義的力としてのマハト」ということを提起したことがある。しかし、そのマハトは、解放派という組織の中ですら広く意識されたことはないのかもしれない。しかし、私自身は、そうしたゲバルト=暴力とは区別された、道義的な力を心の片隅では意識してきたと思う。しかし、それは現実の局面では顕現されることもなかったのかもしれない。暴力の最たるものは戦争であろう。二十世紀は戦争と革命の世紀だったとも言われる。暴力は、階級支配の道具として被抑圧階級に重くのしかかる。そして、国民国家という擬制のもとで、軍は、そして戦争という暴力は、極限的に肥大化し核兵器すら出現した。 他方、被支配階級の支配と抑圧を打ち破る闘いは、必然的にそうした暴力装置=軍隊、警察、官僚機構を解体する道義的力を含んだ暴力的対抗をもってなされるしかない。レーニンは、迫りくる帝国主義戦争に対し、帝国主義戦争を内乱に転化せよというテーゼを明らかにし、実際に「兵士は軍服を着た農民である、兵士をソビエトの側に獲得せよ」と明らかにして「土地とパンと平和」、「すべての権力をソビエトに」をスローガンに、1917年10月ロシア革命を成功に導いた。 マルクスも、かかわった国際労働者協会はパリコミューンの敗北後、姿を消したが、ドイツ社会民主党を核とした第二インターナショナルは第一次世界大戦=帝国主義戦争の勃発を目前にこぞって議会における戦争予算に賛成票を投ずるようなていたらくだったが、ドイツ社会民主党左派に位置していたローザルクセンブルグやカール・リープクネヒトなどとともに、レーニンは、後の第三インターナショナル=コミュニストインターナショナル、コミンテルンにつながる国際的な連帯した組織の萌芽を準備した。 レーニンは、1917年10月ロシア革命を目前に控えた時期に、7月街頭蜂起に敗北する中で、一時的に身を隠し、『国家と革命』を著した。それは、階級支配の道具としての官僚的、軍事的統治機構である国家は、プロレタリア独裁のもとで抑圧されるべき旧支配階級のブルジョアジーの階級としての消滅とともに、国家そのものも死滅していくと、資本主義から共産主義社会への過渡期における国家の実体を喝破したものともいえる。この国家権力の暴力装置を被抑圧階級の団結した力によって解体していく力こそが、「道義的力」ともいうべきものであろう。それは、現実の生きた階級的団結に支えられてこそ暴力的形態をとりつつ最終的には国家の死滅にいたるような内実を伴いうる。 しかしながら、1970年代の反革命的宗派=革マルとの闘争は、解放派(革労協、社青同、行動委員会)の中で、革労協学生委員会主導のもとに軍事戦一本鎗的偏向に引き寄せられていく傾向を強めていった。 |
| 1976年6月からの長期勾留 |
| 私自身、労働組合運動のなかに地歩を占めながらも、非合法、非公然活動にかかわり、1976年革マルとの軍事戦闘に参加し、結果として、逮捕拘留はその年の6月から2年4カ月に及び、小菅東京拘置所で長期の未決拘留のもとに置かれるはめとなった。そうした中で、解放派系活動家が多数未決拘留に置かれる中で、獄中者通信として、書簡集が定期的に編集され、差し入れられるようになった。しかし、その中で驚くべき主張が展開されるようになったのだ。学生戦線では、行動委員会たる反帝学評の「共産主義者への立場の転換」なる主張がされ、革マル=反革命規定がなされ、宗派主義批判は否定され、あまつさえ、滝口弘人綱領的三論文は日和見主義として否定され、レーニンですら驚愕するような前衛党唯一論が展開されるようになっていた。 1977年2月11日、解放派の滝口弘人につぐ理論的思想的組織的指導者中原一が、革マルの暗殺部隊に殺されるという事件が発生した。その後、すぐに中原一著作集全三巻が刊行され、獄中にも差し入れがなされた。その中に、私は重大な欠陥を発見した。中原同志自身は、党派闘争についても軍事戦・組織戦・思想戦の三位一体を堅持し、反革命規定には一貫して反対であり、宗派主義批判を堅持していたのだが、組織内文書として書かれた論文の中に、前衛組織と党組織、大衆運動の関係について、空間的並列的に措定してしまうように受け取られる主張があった。私は、長期にわたる未決拘留の中で、マルクス・エンゲルス・レーニンの著作も渉猟し、過渡期社会について、ひとつのアイデアを、素朴ながらも獲得していた。その内容については、もう少し後に明らかにしようと思うが、いわば、組織論的には、固定的・並列的に、前衛と党と大衆を置くべきではなく、普遍性と具体性と個別性の関係を不断に止揚する、運動的・時間的・関係性としてつかむべきではないか、というものであった。「前衛性と大衆性の不断の止揚の過程としての党建設」という表現を、私は、獄中書簡の中では使っていた。獄中書簡としては、一部の学生の傾向を、似非レーニン主義として批判し、滝口綱領三論文を基本的には擁護したものであったが、前衛ー党ー大衆論の批判的止揚も射程にいれたものだった。 |
| 1978年秋に出獄し、革労協に参加 |
| 1978年初秋、2年4カ月にわたる未決拘留から保釈出獄したあと、葉子さんからは離婚され、住む場所もなかった私は、当時、杉並区下高井戸にあった、解放派諸組織の本社ビルの本社防衛隊長として住み込むことになった。そして、ある同志の勧めもあり、『獄中書簡集』を「高原駿」名義で発刊し、わずか300部であったが、組織内に頒布した。また、前衛ー党ー大衆論を批判的に止揚すべく、未加入であった革労協への加入を申請し、また、理論戦線の中心であった、革労協機関紙『解放』編集部入りを要望していた。 |
| 革労協内部に独自グループを作った狭間嘉明に呼び出される |
| そんな中、1979年に入ると、狭間嘉明を頭目とする、革労協学生委員会を中心とする宗派主義的グループは、自ら自己形成を進め、組織内差別事件を奇貨として、組織内の制圧に乗り出そうとしていた。狭間は、私の経歴から、軍事戦一本鎗の人間と勘違いしたのか、個別に呼び出し、一晩語り合ったことがある。狭間は、私の組織内の位置について、「非合法軍事組織のしかるべき地位を用意していたのに、公然部門の本社の地位についてしまうとは」と、苦情めいたことを言っていたが、私は、自らの獄中書簡集を手渡しし、「自らの関心は理論戦線で、現在の学生戦線における誤った偏向を正すためにも、前衛ー党ー大衆論の不断の止揚の過程として掴むことを明確にすることだ」と表明して、ものわかれに終わった。 その際、狭間は、「東京南部地区における差別事件は、経済主義日和見主義が引き起こした」という趣旨のことを言明した。そのときは、私は、その差別事件そのものを知らず、ただ聞き置くにとどめた。しかし、その後事態の推移が明らかになっていった。狭間一派は、「組織内差別糾弾闘争本部」なるものをでっちあげ、「経済主義日和見主義批判」とかという、路線問題は関係なしに、差別問題を純粋に取り上げるとしつつ、実際には、狭間一派が「経済主義日和見主義」と規定する組織メンバーを、「組織内差別事件の組織的責任を問う」という形で、次々と密室での査問に個別に呼び出し、精神的に屈服させるという、事実上の組織的粛清を路線化して行った。 |
| 1979年春、狭間派からの査問に呼び出されたことをきっかけに地下に潜行する |
| 端緒となった差別事件にとどまらず、次々と差別事件なるものがでっちあげられ、組織内粛清が拡大していくさまに、私は、愕然となった。そして、私自身の直接的に所属していた地区での差別事件がでっちあげられ、他の同志が査問されていくなかで、私自身も、「それは差別ではない」と表明したことによって、密室での査問に呼び出される事態となった。相手が明白に組織的な粛清に着手していることが明白になる中で、個別に対応していては屈服させられることは明らかだった。私は、一時的に、組織を離脱して、地下に潜行する道を選んだ。そして、「組織の現状は間違いであり、心ある同志は決起せよ」と呼び掛ける文章を作成し、配布する道を選んだ。それが、1979年の春たけなわのころだった。都内にばかり潜伏していれば、発覚するおそれもあり、地方にも移動していった。そのうちに、心ある同志間の連絡もつき始め、1980年には組織分裂にまでいたった。 |
| 革労協内部での労対派の形成と、労対派内部のさらなる路線対立 |
| 分裂した組織は、世上では『労対派』などとも呼ばれたが、革労協は名乗らなかった。1960年代からの解放派の歴史を総体として背負うものとして、「革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会」という長い名称になった。各分野での戦いの中で、それなりの前進を見つつも、1984年の反安保中央闘争をめぐって、組織運動方針を形成していく過程において、この解放派全協内部で、おかしな形の路線対立のようなものがあった。おかしな形というのは、解放派全協とは、ひとつの組織形態ではない。かってあった社青同東京地本などを中心として、各地方の社青同組織の宗派グループを排除した再建や横のつながりを強めつつ、ひとつの組織形態を目指す過程にあったといえる。その中に、組織としての革労協は狭間一派にほぼ制圧されて、残ったのは、東大駒場出身の幹部活動家だった少数のグループが本筋である社青同再建とは区別されて、小さなフラクション、分派会議をもっていた。いわば、革労協残党グループである。私自身も、地下潜行中などはそこに参加したりしていたのだが、社青同東京地本再建連絡会議事務局長に就任したり、解放派全協の事務局をも実質的に担ったりするなかで、参加は取りやめていた。事実、そのフラクの参加者からも、「もうその分派会議は解散して、実際的な社青同などの組織活動に集中すべき」という意見も出てはいたようだ。しかし、それは継続し、いわば組織建設、運動再建の中で陰謀的にかかわるという体質を保持しつづけていた。 |
| 労対派の中の陰謀的なグループとの対立と敗北 |
| かって、私が、前衛ー党ー大衆論の中にみた危うい側面、自称前衛が党を僭称して、たとえば労働組合運動などの大衆運動をひきまわす、いわばスターリン主義的宗派主義的な傾向が、1980年解放派組織の分裂における狭間一派だとすれば、他方、隠然と自称前衛組織を温存しつつ、ステルス的に党的集中を放棄するようにしつつ、大衆運動の中に潜り込み、陰謀的な策動の余地を残すような隠れた前衛主義が存在しうるのだ。 ちょうど、1980年分裂後、三里塚闘争をめぐっても、三里塚芝山連合空港反対同盟も、中核派や狭間一派が支援する北原事務局長派と、それ以外の熱田派に分裂し、支援する新左翼党派も、中核派や狭間一派=革労協グループとそれ以外に分かれた。そして、反核市民運動とも連携する新左翼党派が、熱田派を支援するグループの中に多かったところから、毎年の六月反安保闘争も、共闘の機運が盛り上がる中で、労働組合動員を主とする横須賀原潜寄港阻止現地闘争やその他の市民集会に埋没するのではない反安保政治集会を貫徹すべく、解放派全協や社青同組織を通じて意思決定し、最終的には、解放派全協系大衆運動組織の反安保闘争実行委員会で意思決定すべく組織討議を積み重ねていった。 その過程で、陰謀組織と化した革労協残党グループは、各組織討議の最中には何ひとつ発言することもなく、いわば政治活動歴はそれなりに長いことから個人的なつてや酒飲み仲間の紐帯?でもって口説き落とし中央政治集会反対、市民集会への埋没の方向をリードしていった。私は、彼らの動機も論拠も理解できなかったが、真正面から現下の組織運動にとっての政治闘争への集中の必要性を明らかにして訴えるしかないと感じていた。そして実行委員会の席でかなりに長い提起を行った。それは、革労協残党陰謀グループが、私がもう少し頑張れば方針転換は実現しなかっただろうという程度には影響を与えたが、結果は、市民集会への埋没という方向に決まった。あるいは、彼らの陰謀性をも暴露して追及すれば、方針転換は阻止できたかもしれない。しかし、なんのために狭間一派との格闘を通じてここまでやってきたのかという思いすら通じないのかと感じていた。私は、結語を「このようなやり方で組織活動方針を葬り去るのであれば私は決断するだろう」と結んだ。 狭間一派の粛清から逃れて地下に潜行せざるをえなかった時には、1968年から79年の12年間の激闘はなんだったのか?という思いから自死をも思ったが、それからまた5年の闘いを経てこうした結果を迎えつつあることに、私はただ、もはや終わったなと感じていただけだった。あたかも、かって一世を風靡した漫画『明日のジョー』の最後に矢吹ジョーはリングの隅で真っ白な灰になっていたが、それと同じような静かさを思っていた。解放派の中でもっとも敬愛する同志は、1977年2月に革マルに殺された中原一同志だったが、このとき、私は、中原同志が逝去した時と同じ年齢、三十六歳になっていた。 |
| 第二の人生 |
| 以上が私の第一の人生だとすれば、同じくらいの長さの第二の人生がある。生まれてからものごころつくまでの時間を差し引けば、長すぎたくらいだ。しかしまあ、べんべんと生きながらえてきたに過ぎないのであるから、語るべきことも多くはない。
12年におよぶ日雇い運転手生活で銭を稼ぎ、あいまに半年づつインドや中国を放浪の旅に出、スキューバダイビングと出会ってのめりこみ、金がかかることから銭を稼ぐことにも力を入れながら、1995年にはダイバーの聖地フィリピンはドゥマゲッティに移住した。 最期に言いたいことー「私ははじめと終わりを見た」 それから25年。平知盛は「見るべきほどのものは見た」と言った。西郷隆盛は城山の最後の地で「ここらでもうよか」と言った。 私はなんと言うべきか?「私ははじめと終わりを見た」ということだろうか。高校時代に愛読したウィリアム・フォークナーの作品に、『響きと怒り』や『尼僧への鎮魂歌』がある。 同一人物としては描かれてはいないが、同じように作品世界全体を俯瞰するような立場の黒人女中頭が登場してくる。フォークナーは、彼女らに同じような台詞を言わせている。「おら最初と最後見ただ」。 暗黒の夜空に打ちあがる花火ー重信房子、松本信一 日本の戦後革命期が敗北に終わるなかで、60年反安保闘争や60年代末からの反戦全共闘の闘いがあった。 中原一は、それを戦後第二の革命期と位置づけ、戦う組織と運動を領導した。しかし、反革命的宗派=革マルのカルト集団的な策動や国家権力の弾圧の中で、新左翼運動総体としても、敗北の道をたどった。それは、連合赤軍による、14名の同志へのリンチ殺人事件などという悲劇をも伴った。解放派という、宗派主義とは決別すべきはずの戦う集団にも、宗派的グループが生まれ、それを克服すべく再編された組織と運動の中にも隠然とした宗派的策動が生まれていた。いわば、暗黒の夜空に打ちあがる花火のような輝きもないではなかったが。 たとえば、1979年、私が、潜伏先の北海道から東京に戻ってきたときに、お茶の水のウニタ書房で、日本赤軍の重信房子が執筆した「遠く中東の地から日本の友人の皆さんへ」と題したリーフレットに書かれていたことは「不断に自己批判する党の建設を」というものだった。また、1980年分裂から5年間、もっとも信頼する同志関係にあった松本信一は、2000年代に入ってからになるが、著作『絶対的主体の発見』の中で、「にわかに普遍を信頼することはスターリニズムに通ずる」「高度に発達した共産主義社会の段階においては精神労働と肉体労働の分断は止揚されるが、初期の過渡期社会においてもその萌芽はつかまれていなければならない」などとしている。これらは、私にとっては、解放派の前衛ー党ー大衆論の問題点を指摘してきたことの克服の方向性を同じくするもののように思われた。しかし、それは暗夜に打ちあがる単発の火花のように消え去ってしまった。 日本の人民の闘いのはじめとおわり 1945年の大日本帝国の敗戦による崩壊は、しかし根底的なカルト国家を克服する主体としての労働者階級の革命化をもたらしはしなかったがゆえに敗北し、「国体」の残滓を一掃はしえなかった。 60年安保闘争から69-70の反戦全共闘の闘いは戦後第二の革命期の始まりを告げはしたが、宗派主義の蔓延もあり敗北の道をたどった。そして、150年前の明治維新なるものは、支配階級と被支配階級の相克の中で、ボナパルティズム的に国家神道、天皇絶対制を前面に押し出し、75年に及ぶその歴史は、戦争と反対者への血の抑圧、暴力に彩られ対外侵略の末に敗戦し、崩壊していった。しかし、戦後、一貫して戦前の大日本帝国への回帰を試みる勢力は温存され、朝鮮戦争特需、ベトナム戦争特需などによるまやかしの経済高度成長が終われば、公然と姿を現し、21世紀にいたるや再び長期にわたる自民党一党独裁の中で、日本会議の伸長として、戦前帝国主義への渇望を隠そうともしない。世界的なコロナ禍の中で、日本の惨状は、とりわけ覆い隠し難いものとして表れている。まさに、日本の人民の闘いのはじめとおわりを見る思いだ。 次の世代に託した希望 しかし、私の最後を迎えるにあたって、自らの言葉で希望を語ることはできないが、いつかは次の世代がやがて新たな希望の道を歩みはじめることがあるだろうとだけは言いたい。かって愛読したフォークナーの作品群は、ペシミスティックな色調に彩られている。たとえば、『響きと怒り』はマクベスの中の科白からその題名をとられている。「この世には何の意味も無く、白痴の語る物語と同じでただ響きと怒りに満ちている」。しかし、フォークナーは、ノーベル文学賞の授賞式における講演で人類の未来の希望について語ったといわれている。一発の花火ー焼身自殺の予告 2021年元旦 花火が打ち上がる 2021年元旦 払暁 北緯9度 東経123度 フィリピン群島ネグロス島の南東端にて、一発の花火が打ちあがるだろう。細かいことは省くが、私を騙したフィリピン国軍軍人にけじめをつけさせてから私は逝かねばならないからだ。命までとろうとは思わない。しかし、結果として巻き添えになるものが出てきたとしても仕方がない。なるたけ巻き添えになるものが出ないように、元旦の払暁を選ぶのだ。花火といえば、私にとって鮮烈に記憶に焼き付いている一発の花火がある。それは映画の中の一シーンにしかすぎないが。アンジェイ・ワイダの映画に『灰とダイヤモンド』がある。1979年10月26日、私は地下潜行中だったが裁判の判決が迫る中で東京に戻ってきていた。狭間一派の追及を避けるためもあり、雑踏の中ではサングラスをかけ、アポロキャップを目深にかぶっていた。たまたまその日、新宿コマ劇場脇の映画館でポーランド映画祭があることを知り、以前から見たいと思っていた『灰とダイヤモンド』を見に出かけた。新宿駅を東口に出、歌舞伎町方面に向かうと、階段を出たところで新聞号外を配布していた。この日、韓国大統領朴正煕が暗殺されたのだった。自らの大統領警護室長に射殺されたのだった。 『灰とダイヤモンド』は、1945年5月、ベルリンが陥落し、ナチス第三帝国が崩壊した日の物語である。舞台はポーランドのある都市。ポーランドは、第二次世界大戦の発端となったナチスドイツとソ連による分割支配に置かれた。共産党は、ソ連に逃げて行き、民族派は、ロンドンに亡命政権を作りAK(国内軍)を組織して対ナチ抵抗運動を続けていた。ソ連軍が、ポーランドの首都ワルシャワに迫るなかで、AKは、ワルシャワ蜂起を決行する。ワルシャワを眼前にして、ソ連軍は、ほぼ2カ月近くも停滞し、ワルシャワ蜂起は、壊滅的な敗北を喫した。映画の主人公は、形式的には、ポーランドのある地方都市の共産党委員会書記に就任すべく、赤軍の戦車に乗って帰ってきたシチューカであるが、本当の主人公は、それを暗殺せんとするAKのマチェックである。シチューカの到着の途上で、路上襲撃を試みるが、誤報で違う人物を射殺してしまう。市長主催のドイツ降伏祝賀会が、あるホテルで開催されるが、シチューカも、マチェックも、そのホテルに投宿し暗殺の機会を待つ。マチェックは、ホテルのバーのウェイトレス、クリスティナと恋に落ち、マチェックの部屋で抱きあうが、その時に、クリスティナは「あなたはなぜいつもサングラスをかけているの?」と問う。マチェックは、「祖国を愛し報われることのなかった記念さ」と答える。私は、マチェックとは、私自身に他ならないと感じた。十数年におよぶときに命懸けの戦いを経て同志と信じていたものに裏切られ、私もまた、サングラスで顔を隠して生きて行かねばならないような状況に置かれていたからだ。シチューカは、ソ連亡命中に息子を妹に預けていたが、その息子がAKの一員となって、ポーランド統一労働者党への反逆を試み、逮捕されているらしいという報告を受け、一人で面会に向かおうとする。その機会に、マチェックは、路上で追い抜き振り向いて拳銃を発射する。シチューカは、マチェックに向かって2,3歩歩き抱き合うように崩れ落ちていく。そのときに、花火がうちあがるのだった。 その日が近づくにつれて、由比忠之進のことを思い出す。1967年11月11日、当時の首相佐藤栄作が、ベトナム戦争への加担を約束しに訪米する日の夕刻、首相官邸前にて焼身自殺を遂げた人だ。享年73歳。私の今の年齢と同じだからだろうか。その日、私は10月8日、佐藤訪ベトナム阻止闘争で負傷し、家族に学生運動への参加をとがめられ、11月の羽田阻止闘争には禁足を申し渡されて参加できなかった。夕方7時のNHKニュースで由比忠之進の焼身自殺が報じられたときは衝撃だった。そのとき私は20歳になったばかりだった。 |
(私論.私見)