資料6、代島治彦監督の事件考

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元、栄和6)年3.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「資料6、代島治彦監督の事件考」をものしておく。

 2024年.3.9日 れんだいこ拝


【資料6、代島治彦監督の事件考】
 2024年5.25日、代島治彦監督の最新作『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』が渋谷ユーロスペース始め全国公開された。公式ホームページは下記。
 http://gewalt-no-mori.com/
 代島治彦監督の最新作『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』は、とても重たい映画だ。テーマが新左翼諸党派の内ゲバという重たいものというだけでなく、映画の冒頭に早稲田大学で実際に起きたリンチ殺人事件を再現したドラマが描かれ、観ているだけで重たい気分になる。ただ映画の後半は、前作の『きみが死んだあとで』で代島監督が行ったような当事者への徹底取材の映像が映される。冒頭に描いたドラマは、革マル派による暴力だが、その後は中核派によって革マル派メンバーが殺害された事件など、内ゲバをめぐる凄惨な状況が描かれていく。

 代島監督は以前の『三里塚のイカロス』などでも、革命をめざしていた党派が暴力の連鎖に陥っていくのはなぜなのかという問題を提起していた。1970年代、連合赤軍事件や内ゲバの頻発で新左翼運動は行き詰まっていく。
 「野次馬雑記」の2024年02月23日、No631代島治彦監督が新作映画『ゲバルトの杜-彼は早稲田で死んだ』を語る」を転載しておく。
 2月3日に開催した明大土曜会で、代島治彦監督より新作映画『ゲバルトの杜-彼は早稲田で死んだ』の制作にあたっての経緯などお話いただいた。今回のブログは、そのお話と質疑の内容を掲載する。
 代島監督
 映画の事を喋らせてもらいます。ドキュメンタリー映画監督の代島治彦と申します。2014年に作った『三里塚に生きる』の時もたぶん話をさせてもらって、次に『三里塚のイカロス』の時も話をさせてもらって、『きみが死んだあとで』という山﨑博昭さんの死を扱った映画の時も話をさせてもらいました。今回4本目になります。やはり時代は60年代から70年代の政治闘争の季節と言いますか、叛乱の時代をテーマにしていますが、一番最後と言いますか、1970年代に入って『きみが死んだあとで』という映画の後半ですね、内ゲバの事を語る人が出てきますが、1967年の10・8で山﨑博昭さんが亡くなって、それが機動隊に立ち向かっていく学生たちの心に火を付けたというか、そこから翌年に日大闘争、東大闘争があって、1969年の70年安保粉砕の闘争があったわけですけれども、その後、70年代に入ると赤軍派が出てきて、最近話題になっている東アジア反日武装戦線が出てきて、そういう闘争の形態になっていくわけです。

 その中で、一つは72年の連合赤軍のリンチ殺人事件があって、やはり決定的に大衆、市民と離反した闘争形態になっていく中で、内ゲバが激化していく、エスカレートしていくという見取り図があると思うんですけれども、ただ個別のそれぞれの当事者の体験というのはそれぞれで、時代の記憶も違っていると思うんです。それを歴史的に定義するとか、検証しようとか、そういう映画ではなくて、一人ひとりの記憶の中に眠っている当時のことを、もう一度掘り起こして次の時代に一つの映像記録として、あるいは映画として残したいという気持ちで今まで作ってきました。
 今回の内ゲバのテーマに関しては、僕自身は当時の皆さんが描いていた理想、あるいは社会運動、抵抗運動、革命運動のようなものがポジティブに展開していった時代と、それがネガティブに変転していく時代みたいなことを描いたんですけれども。内ゲバに関しては完全にネガティブな無意味な部分というのがあって、死んだ人たち亡くなった人たちがありまして、もう一つは内ゲバと言っても党派間の、ブントの中でもいろいろあったと思いますけれども、殺し合いになっていった後の内ゲバですね。加害の側も被害の側もなかなか事実を明らかにしないし語らない、伏せられている、警察の方もうまく泳がしてあまり事実を明らかにしてこなかったということがあって、語り継がれたり伝えられたり、あるいはそれを検証されたりした歴史がなかった。

 ですから、やっぱり僕が一番最初に参照したのは、立花隆さんが1975年までのことをまとめた『中核vs革マル』ですが、あれが一番学生運動の新左翼党派の始まりから内ゲバに至るまで、それから75年に中核派の本多書記長が殺されるまでの歴史を克明に描いているので参考にしていたんですけれども、それ以外はなかなか僕自身も事実を知らなかったんですね。それで内ゲバということを題材にして、それをある程度間違いのない事実として伝えられる映画は作れないだろうと思っていたんですね。それは当事者が語らないからです。
 そんな中で、一昨年『彼は早稲田で死んだ』という本が出ました。それは中核派と間違って殺された川口大三郎という当時早稲田の第一文学部の2年生のリンチ殺人事件と、その後の殺した側の革マル派に対して憤った一般学生が、早稲田の自由、自治権、民主的な自治というものを獲得するために起ちあがった闘争のことを、当事者の樋田毅さんという、当時革マルを追放するために作った第一文学部臨時自治会の委員長が書き下したノンフィクションが『彼は早稲田で死んだ』なんです。それを読みまして、僕自身も早稲田出身なので、川口君の事件から5年後に大学に入っているんですけれども、僕自身事件の経緯をよく知らなかったんですね。知らないままずっと過ごしてきて、樋田さんの本を読んだ時に「こんなことがあったのか」と思って。それから樋田さん自身が革マルに襲われて重傷を負うんですけれども。そういう風に暴力的排除、暴力的行為で革マル派は、川口君をリンチ殺人した後も早稲田のキャンパス、自治会を牛耳っていくわけです。

 立花隆の本を読んだ時に僕も気になっていたんですけれども、立花さんは、「それまでに内ゲバの血みどろの闘争になっていく下地は出来ていたけれども、直接的に100人を超える死者を出す抗争の引き金を引いたのは川口君事件だった」というように分析していたんですね。それは何でそうなのかということは僕もよく分からなかったんですけれども、樋田さんの本を読んだら、やっぱり早稲田の中で、今日の資料の表紙の写真は勝山泰佑さんという早稲田出身の写真家が撮った写真で、1969年の9月3日、当時早稲田の全共闘と革マル派が大学の支配権、自治権を巡って激闘していたんですね。その激闘を排除するために大学が機動隊を導入して学生を排除している。ここに写っている学生はいろいろな文字や色のヘルメットを被っていますが、これは全共闘側です。革マルは大隈講堂の中に立て籠もったんです。
 この日に第二次早稲田闘争と言われる闘争が終わって、次第に革マルが早稲田の法学部以外の自治会を握っていくんですね。そういう構造が樋田さんの本を読んで分かってきて、なおかつ川口君のリンチ殺人事件が起きた後、革マル派を追放していく、早稲田の解放と言っていましたけれども、自由で民主的なキャンパスを自分たちで作っていくんだという運動が起きて、一時は一般学生が何千人という単位で非暴力で革マルを追い出そうとしていく。そういう中で、69年の闘争の生き残りの人たちと、もうちょっと若手の人たちが「早稲田行動委員会」というのを作るんです。通称「WAC」早稲田アクション・コミッティという、その行動委員会は黒ヘルを被って防衛のためだけど武装しようと。『彼は早稲田で死んだ』の著者の樋田さんたちは、あくまでも非暴力で闘おうと。暴力でリンチされて殺された人間に対して、それはおかしいと、暴力反対ということで革マルを追放しよういう闘争なんだから、たとえ抵抗であっても暴力を使ってやったら結局党派闘争と同じことになる。だからあくまで自分たちは非暴力で闘うんだ、というのが『彼は早稲田で死んだ』の著者の樋田さんの立場だったんですね。

 それで革マルに対抗する2つの勢力が出来て、黒ヘルを被って防衛的な武装をしようと、それから樋田さんたちの非暴力で闘おうという両方が出来てきて、方針が違う中で闘争が展開されて行くんですが、結局最終的には革マル派の暴力によって両方潰されて、1年後には彼らは大学のキャンパスに入れないという状態になって、早稲田の中での闘争が終わっていくんですね。
 その時に黒ヘルの部隊「早稲田行動委員会」を応援する形で、法政大学の中核派、それから神奈川大学を中心とした社青同解放派が支援に乗り込んでくるんですね。その中で、今度は革マルと中核派と社青同解放派の三つ巴の内ゲバになっていくんです。1973年の9月15日に、神奈川大学で革マル派が社青同解放派を襲うんですね。それのレポをやっていた革マル派の2人の学生が、逆に殺されるんですね。そこでまた殺し合いがエスカレートしていって74年になっていく。映画の中では川口君がリンチ殺人で殺された。その後早稲田の中で非暴力派と武闘派と2つの勢力が革マル追放運動をやる。でもやっぱり革マルに潰された。

 それで結局、社青同解放派と中核派と三つ巴の内ゲバが始まり、1974年1月24日に世田谷区で、革マル派とみられる2人の東大生が引っ越しの最中に殺されるんですね。映画にも出てくれた石田英敬さんという東京大学の政治学の教授で、もう退官されましたが、彼が初めてその時の状況を語ってくれたんですね。実は石田さんの引越しを手伝いに来た四宮さんと富山さんという学生が殺されたんです。石田さんは逃げられたんです。自分は生き残ってしまったということも含めて、なぜ内ゲバになっていったのか、そういうことになってしまったのか。自分たちは駒場寮の革マルの隣の部屋で革マルと親しくはしていたけれども、革マルではなかったけれど、だんだんそう見られていったということとか、当時、一度転がり始めた敵対し殺し合う関係というのが止められない、転がっていく、転がり始めたということを石田さんは語ってくれました。なおかつ、その前の神奈川大学での殺された革マルの2名の学生のうちの金築さんという人は東大の学生だったんですね。この人は革マル派でした。金築さんの親友だった内田樹さんもこの映画に出ていただいているんですけれども、内田樹さんも金築さんが殺された時のショックと、なぜそういう風になっていったのかということを映画の中で語ってくれています。

 そんなことで、その後どんどんエスカレートされていく内ゲバの大きな疑問に対して映画が答えているかどうか分からないんですけれども、とりあえず1970年の8月に起きた党派対党派の抗争の中の死である「海老原君事件」というのがありますけれども、70年の8月に法政大学のキャンパス内で教育大生の海老原君が中核派に殺されるわけですが、その海老原君の事件を始まりにして、川口君の事件、それからその後74年までを映画の中では当事者の証言を交えて描いています。
 ここにいらっしゃる明治大学の土曜会のYさんは1966年大学入学とおっしゃいましたけれども、やはり60年代の闘争と70年代、特に71年以降の闘いというのはすごく変わっていくんですね。その変わって行った一つの形態が内ゲバになっていった。『三里塚のイカロス』の時に、中核派の三里塚の現闘のリーダーを30年やっていた岸宏一さんという方に出てもらったんです。岸宏一さんはもうお亡くなりになりましたが、その時に映画の中には入れませんでしたけれども、中核派のやった闘争の中で3つ大きな意義のある闘争があったと。「一つは67年の10・8から始まる対権力の闘争、それから革マルとの闘争、もう一つは三里塚での闘争。この3つが中核派がやった3大闘争だと思う」と彼は言っていたんですね。

 「じゃあ革マルとの闘争の意義は何だったんですか?」と聞いたら、やっぱり反革命集団と言いますけれども、「反革命の革マルという組織を生き残らせる、あるいは革マルに中核派がやられてしまって、革命集団のヘゲモニーを革マルに握られてしまう、そうしたら本当にひどい政治集団が生き残ってしまう。革マルは生き残らせてはいけないんだ」と。中核派は対権力に向かって闘っていた。ところが革マルの方が先に中核派を襲うようになってきた。特に『きみが死んだあとで』でも描いたんですが、『きみが死んだあとで』では赤松英一という山﨑博昭の先輩が語っていますが、関西大学で71年12月4日、革マルが中核を襲って、京都大学の辻敏明と同志社大の正田三郎、この2人を殺すんですね。ここから中核は、革マルの「革」という字をカタカナにして、革命の「革」なんか使わない、カタカナで「カクマル」と書いて反革命集団規定をするんですね。


 ところが中核の方は権力との闘争で東大闘争以降、渋谷暴動などで1,000人単位で警察に捕まっているんですね。非常に中核派は体力が弱っていた。それで権力と革マルの両方に対峙しなくてはならない体制が73年まで続くんですけれども、それを中核派は「二重対峙」と言っていましたけれど、「二重対峙」の状況は我慢して、刑務所から出てくる集団を待って、それから73年後半から攻勢をかけてくるんですけれども、そういう形で本当に川口君事件の後、彼の事件が引き金を引くように内ゲバがエスカレートしていった。やっぱり当事者に僕は話を聴きたかったです、今回も。

 でも中核の方も革マルの方もなかなか話をしてくれません。特に川口君事件は革マル派のリンチ殺人事件でしたので、実際に内ゲバに関わった、あるいは川口君事件に関わった革マルの人に話を聴きたくて、いろいろアプローチはしました。でもどうしても語ってくれないんですね。樋田さんの本では、革マルの当事者で唯一で出てくるのは辻信一さんという明治学院大学の教授がいるんですけれども、彼が早稲田の樋田さんたちと同世代の革マル派の委員長代理だったのかな、それで彼と話をして、唯一当事者の革マルと話をしているということが本の中に出てくるんですけれども、僕自身は川口君のリンチ殺人に関わっていたメンバーを一生懸命アプローチしたんですけれども、やっぱり彼らは今は一般市民として暮らしていますし、語ってくれない。それから当時革マルに居た人で、生きているんだけれども遺書を書いたので、その遺書はお見せすることは出来ると言って、すごい長い遺書を参考のために僕に送ってくれた人がいました。その中で彼自身も74年には革マルを抜けようとして日本全国を放浪して逃げ回るんですけれども、そういう組織の縛りみたいなきつさ、それから川口君事件の時は鉄パイプを持って(川口君)事件の後に樋田さんたちのグループを襲ったり、「早稲田行動委員会」の人間を鉄パイプで襲ったりしたと証言しているんですね。でもこれは自分が死んでから発表したいということで、その辺はなかなか表に出ないですね。
 でも今回東アジア反日武装戦線の桐島聡さんと名乗る人が、ほぼ桐島さんだと思いますけれども出てきて、50年前の出来事にもう一度光が当たるというか何と言うか、マスコミの光の当て方も興味本位なんですけれども、当たってくる中で、思うところがみんなあるんじゃないかなと思うんですね。

 人生というのは、こう送ろうと思って送れるのもじゃないところが絶対あると思うんですね。「プラハの春」という1968年でしたか、チェコスロバキアで旧ソ連からの自由解放の闘争が生まれて旧ソ連に弾圧されますけれども、その後にミラン・クンデラという作家が「人間というのは死ぬまで未熟者だ」というような話を『存在の耐えられない軽さ』の中で書いているんですけれども、結局生まれてから死ぬまで、今まで経験したことに出会いながら、青春時代は初めて青春を迎えてどう生きようかと悩んだ、結婚も初めてして離婚も初めてして子供を育てて、僕は今66歳になりますけれども、そんな歳になっても自分がどう死ぬかというのは一度きりの体験ですから全然分からない。年老いてどうなっていくかも分からない。だから一生未熟者なんだ。そういう中で、桐島聡さんは一人で逃げ回って、そういうことを抱えながら生きてきたというか、彼のいろんなことを思うと、何か胸が詰まるようなところがニュースを見る度にあります。

 東アジア反日武装戦線に関しては、『狼をさがして』という映画が2年前に韓国のキム・ミレという監督の作品として日本で公開されて、浴田由紀子さんとか出てきて話していましたけれども、やっぱり東アジア反日武装戦線が出て来た大元には、例えば桐島聡さんとか宇賀神寿一さんとか明治学院大学の仲間がやっていた寄せ場ですね、山谷とか釜ヶ崎とかの底辺労働者を救済していく運動、寄せ場の中から「底辺委員会」というのを黒川芳正、宇賀神寿一、桐島聡たちが作っていくんですね。それが「さそり」になるんですけれども、そういう具体的なテーマを持った、今にも通じるような運動をやっていた人たちなんですね。浴田由紀子さんや、青酸カリを飲んで死んだ斎藤和さんとかが「大地の牙」になっていって、彼らも一つのテーマを持って、特に東アジアに対する日本帝国民が持っている原罪みたいなもの、要するに彼らに血の決済をしていかなければいけない、だから武装闘争を行わなければいけないとか、それぞれテーマを持ってやっていったわけですよね。
 「直接行動の想像力」というのを松井隆志さんがまとめていて、「直接行動は必要だけれども、暴力闘争に何故当時走っていったのか」ということを書いているんですけれども、何故彼らが爆弾闘争に走っていったのかということは、71年くらいからすでに爆弾が作られて、土田邸爆弾事件とかいろいろあるんですね。死者を出さないで闘争をやろうとするのは、後からいろんな人が言っていましたけれど、三菱重工爆破事件で8人の死者を出してしまうんですけれども、ちょっとずつズレてきているというか、桐島さんは爆発物取締法違反の罪くらいしかないわけですよね。ところがダッカとクアランプールの事件で大道寺あや子さんとか佐々木規夫さんとかが国外に行くわけですよね。それで控訴時効が成立しなくなって一人で逃げ回る訳ですよね。桐島さんは時効がいつになるのかということも考えていたんじゃないかなと思ったりもするし、それから宇賀神寿一さんは87年に逮捕されるんですけれども、桐島さんと同じ明治学院大学の2年生で、逮捕されて16年の刑を終えて出てきて、今は救援連絡センターとかいろんなところで活動なさっています。その宇賀神さんにも桐島さんは連絡しなかったわけですよね。本当に警戒しながらも一人で、大体生活は予想出来る部分はありますけれども、一人でそれをやって、最後に名乗り出るということを、ある新聞記者は勘違いかもしれませんけれども、「彼の人生は『パーフェクト・ディズ』だったね」と。

 『パーフェクト・ディズ』というのは、役所広司主演で今公開されているんですけれども、トイレの清掃員をやりながら汚いアパートに住んで、毎日同じリズムで生きている、それをヴィム・ヴェンダース監督が描いた映画なんですけれども、そんなことを言う人もいました。ただ本当はどうだったのかなとか、やっぱり苦しかったのかなとか、親族から断ち切られましたからね。何か僕の映画作りって、そういうところを想像するところから、イメージするところから始まっている部分があるので、桐島さんのことに刺激、ショックを受けています。
 内ゲバのことに話を戻すと、僕自身は川口君が二十歳で殺されて、その友達たちが革マル追放に起ち上ったんだけれども、革マルにボコボコにやられてさぞ悔しかった。その悔しい思いをぶつけた本が出来た。初めて川口君事件の真相と川口君がどういう人間だったのかということと、川口君が殺される時にどんなに悔しかっただろうなと、そういうことを思ったので映画に出来たのかなと思っています。

 もう一つだけ、『きみが死んだあとで』でまでは証言だけで映画を作ってきたんですね。ところが今回は鴻上尚史さんという劇作家にお願いして、川口大三郎さんがリンチで殺される1日を描いた短編劇を映画の中に16分入れています。これはどうしてかと言うと、いくらリンチ殺人と言っても、イメージはそれぞれありますけれども、特に若い人たちが本当のこととして受け止めることがなかなか出来ないだろうと思って、逮捕された犯人の調書、それから樋田さんが取材した中に、実際にどういう武器を持ってどういう風に殺されていったかということが、結構克明に記録されている。それを僕と鴻上さんが読んで、これを作ってみようと。完璧にその通りだとはならないけれども、こうなんじゃないか。主犯格の人間はバットで攻撃していて、そのバットの攻撃が致命傷になったんじゃないかとか、いろいろ出てくるわけですね。そのドラマを入れたことによって、どういう評価になるか分からないんですけれども、今回は短編劇を作っていく過程のメイキングのドキュメンタリーと、証言のドキュメンタリーと、3つをミックスした構造になっています。134分の作品で、5月25日に初日が決まりました。5月25日から渋谷のユーロスペースで公開して、その後、全国で公開されていく予定です。

 あと、早稲田の文学部の教授に頼んで早稲田大学の中でシンポジウムと上映会をやりたいと仕掛けていたんです。かなりいいところまで行ったんですが、大学の上層部がプレッシャーを掛けてきて、その時にかかげたテーマが「早稲田大学の負の遺産を未来に語り継ぐ」みたいな前向きのテーマだったんですが、やっぱり怖気づいたんだと思います。そういう意味では、今でも大学当局の管理体制がますます厳しくなって、何も出来ない状態になっていますから、そのシステムをどうやって破るかみたいなことも、この映画を上映しながら考えていければと思っています。

 ありがとうございました。

 それで、この映画を作るのに、普通のドキュメンタリーだと劇がないものですから、予算がある程度見えるんですけれども、お金がなかったのもですから、沢辺均さんにプロヂューサーをお願いしました。沢辺さんは「ポット出版」という出版社をやりながら、出版界の革命児みたいな方なんですけれども、『きみが死んだあとで』を観て下さっていて、僕を合評会をやりたいということで呼んでくれて、初めて『きみが死んだあとで』を作った後にお会いしたんですね。合評会でいろんなことをやって、そこがすごく面白い集まりだったものですから、次の映画を作ろうとなった時に、真っ先に沢辺さんに相談して、「お金がないんだけれども何とかしてくれませんか」と相談したんです。沢辺さん自身は和光高校で和光大学の学生と一緒に運動をしたり映画を作っていました。沢辺さんは大学に進学せずに労働組合運動に入って、そこで活動を始めました。「大学なんかに行っている場合じゃない、現場に入ろう」と、そういう信頼できる方です。

 沢辺均さん

 今ご紹介いただきましたが、皆さんとは世代が違うんですよね。それで川口君事件を担った人たちもどうもちょっと世代的に違う。僕は1956年生まれで1971年の高校に入って、その時の4・28や6・15がデビュー戦だったんですけれども、75年から渋谷区役所に就職して自治労で10年くらい活動していました。その後、区役所を辞めて「ポット出版」という会社をやっています。

 今回関わったのは、確かに60年代から70年にかけて、皆さんそのど真ん中にいらしたと思うんですけれども、それは若い世代にも影響が出て来たし、代島さんや鴻上さんが典型的だと思うんですよね。78年に早稲田に入学して、その時は何もない世代なんだけれども、代島さんが『三里塚に生きる』から、この手の新左翼物に手を染めて4つの映画を作ってしまう。鴻上さんも、70年前後の闘争が彼にとっても賛同するというより否定的なんだけれども、その否定の仕方の中にも自分の興味があるようなことがあるので、今回ミックスをやってくれたと思うんです。本当に鴻上さんは熱心にやってくれたと思います。この映画が意味があるとしたら、ちょっと皆さんとはズレた世代で、よく内ゲバと連赤がその後の新左翼運動をダメにしたという言い方がされると思うんですけれども、その一つの大きなテーマの内ゲバの、とは言え川口君事件はその中の一つにエピソードになってしまうと思うんですけれども、それに同じ早稲田ということもあって、代島さんや鴻上さんがこのことをちゃんと記録しておかなければいけないという気持ちになられたわけです。そういう意味でこの映画は、これまでの代島さんの3本の映画もそうですけれども、きちっとした記録として成り立っていると思うし、あの時代の空気を共有されていない、ちょっとズレたところから、70年前後の運動あるいはその事象がどう見えるのかというのを観る、とてもいい映画に仕上がっていると思うので、是非観に来ていただきたいし、観客動員へのご協力もお願いしたいと思います。

質疑
質問者A  樋田さんの本を読んで、反革マルで「早稲田行動委員会」を作った。自衛的武装と、あくまで非武装だという話があって、俺だったらどっちに行くんだろうと思った。今考えれば非武装の方なんだけれども、当時の空気は武装なんだよ。どっちに行っても「Z」の強さは強大だったから、他に手がなかったのかという辺りを、今度の映画でどういう風に表現されているのかというのは、すごく興味がある。
代島監督  やっぱり証言はその人の中の事実ですけれども、「Z」の力は強大で、なおかつ大学当局が、あるいは文学部の教授会そのものが動かなかった。あそこで早めにリコールを認め、新自治会を認めてくれていれば、多少動きは、流れは変わったんじゃないか。
沢辺均さん  代島さんがいろいろ当時の革マルに対する解放運動を担った人たちへの幅広いインタビューがあるんです。これは本当に立場が一人ずつ違うんですよね。その辺が見どころじゃないかと思います。樋田さんのような非暴力は非暴力で未だに変わらない人もいれば、WACに行ったけれど暴力を肯定的な人から、それに対する反省も含めた人から、いろいろ(映画に)出てくるのが、それが一番おもしろいと思います。
代島監督  最初は樋田さんと一緒に非暴力で新自治会を作っていったんだけれども、樋田さんが鉄パイプでやられた後、武装論が台頭するんですね。それでゲリラ戦といって、鉄パイプを持って逆に革マルをゲリラで襲いに行くという部隊を作った人もいるし、いろいろですね。ただ、神奈川大学で革マルが2人殺された、党派同士の抗争になっていった。こうなったら俺たちも殺し合いに巻き込まれるから止めようと、秋には全部が手を引いてしまった。
質問者A  それで外人部隊で法政と神奈川大が入ってきて、本格的な内ゲバになっていくわけですよね。今から言ってもしょうがないけれど、どうしたらよかったんだろう。というのが、僕が樋田さんの本を読んで、彼は客観的なんだけれど主観的になったり、出たり引っ込んだり・・・。
代島監督  たぶんその答えは、映画を観て、あるいは本を読んで、今例えば
そういう事態、あるいは具体的な暴力ではないけれども、暴力的な対決が起きた時に、自分はどういう風にそれに対して反応するかということは、映画を観て考えていただきたいと思います。
質問者B  私は同じ世代の1970年入学で、川口君虐殺があったのが72年ですけれども、当時一緒に新しい学生運動を作ろうとやっていて、早稲田とか法政とか一橋とか、いろんな大学と共同行動を組んでいた仲間が早稲田で、川口君虐殺の時に糾弾闘争をやったグループの一つなんです。一人はMという政経学部の委員長をやっていた男です。文学部で活動していた者も何人か知っています。ただ、一人はあの後胃がんで亡くなって、一人は自殺して亡くなりました。そしてMは行方不明。一人だけ連絡を取れる人はいます。私もそういう経験はあります。ただ、あの時は僕らも明治でやっていたんだけれども、それは大変なことだというので、応援に行っていたんですね。ただ、私自身は11・19の学費闘争で中野で逮捕されてしまったので全然支援に行けなかったんだけれども、その後支援が出来なかったという悔やみがあるのと、もう一つは僕は当時はノンセクトだったんですけれども、党派がどんどん介入していくわけですよね。それがかなりグチャグチャになってしまった一つの要因じゃないかとは思っています。やっぱり「おかしい」と思っていろいろな大学の心ある連中が応援したという「うねり」があったことはあったんです。それが潰されて行く過程も残念だという思いを持って(映画を)応援させてもらいました。
代島監督  Mさんは取材したいと思っていましたが、もう亡くなったんじゃないかということです。今回は、田原総一朗さんが東京12チャンネルで作っていたドキュメントの番組があるんですね。そこでこの早稲田の闘争を30分番組で記録しているんです。「ナウ早稲田」という番組ですが、その映像を使わせてもらっています。だから当時の学生の映像も、音声付きでかなり出てきます。
質問者C  樋田さんの本は読みましたが、一番最後の部分で「2001年の文学部革マル排除は全早稲田生の勝利だ」と書いていて、もちろんその世代の方からするとそういう面はあるんでしょうけれども、今の学生からすると、2001年以降、革マルですらビラ撒きしたら文学部キャンパス内で逮捕される、そういう事態になってしまったということですよね。当然、サークル棟も排除という話を聞いたことがありますが、そういう中で、革マル排除を理由にして一般学生はビラ撒きすらできない、立看すら掲げられない、こういう状況については樋田さんを含めて、どういう風に振り返っていらっしゃるのか、私としてはすごく気になります。監督としてはどのようにお考えなのか。
代島監督  僕が大学に入った時も、早稲田祭を含めて全部革マルが牛耳っていたわけです。僕は反革マルの大学祭をやったことがあるんです。革マルに睨まれたこともあるんです。やっぱり革マル支配を何とか、というのはありました。ただ、それが大学の力でやるというのではなくて、排除していくような構造が作れなかったのかなというのはありますね。大学当局がそういう排除していく構造は、早稲田が2001年にやった時もそうですし、東大なんかもそうなんですね。それを主導した人間が、まさにこの運動をやった世代なんです。今までの悪い部分を排除して体勢を立て直すんですけれども、大学当局に対して暴力がいけないとか正当な理由を与えて、立て看とかビラ撒きとかいろんなことができなくなった。それに対してもう一度声を上げて対応しようとする時、今は党派の力がどれだけあるか分からないけれども、(早稲田で)僕らの上映会をやってはいけないというのも、サークル棟の中に革マルのサークルが入っているからだと思うんですけれども、そういう意味では今の学生の力で変えていくしかなんじゃないかと思うし、変えていって欲しいと思う。東大も駒場寮が解体されたけれど、駒場寮を解体した一番の責任者が、この映画に出てくる石田英敬さんという人です。そういう当時の運動をやったり、いろいろやった人が、役回りとしてそういう役割になってくるという変な時代の変遷というのはあるね。
沢辺均さん  一つだけ、新自治会は当時は認められなかった。それは僕は勝手な想像だけれども、(大学当局が)革マルとつるんでいた。革マルを大学は2001年の時に、用が無いから追い出したと思うけれど、川口君の事件の時には、大学と革マルは結びついていた。
質問者C  それは分かるんです。それは分かるんですが樋田さんが2001年を「全早稲田生にとって勝利だ」と。2001年を革マルを含めて学生運動を全部排除することを「早稲田の勝利」と書いたことについて、私は愕然としたという思いがありました。おっしゃることはよく分かります。
沢辺均さん  それは映画を作った側としてはよく知らないとしか言いようがないですね。
代島監督  樋田さんは、革マル追放というのが最も目標だったので、それが
ついに成し遂げられたという意味で、樋田さんの言葉では「Victory(勝利)」になったのだと思います。

 2024年5.18日、篠田博之5月25日公開!『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』はとても重たい映画だ」を転載しておく。
 代島治彦監督の最新作『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』は、とても重たい映画だ。テーマが新左翼諸党派の内ゲバという重たいものというだけでなく、映画の冒頭に早稲田大学で実際に起きたリンチ殺人事件を再現したドラマが描かれ、観ているだけで重たい気分になる。ただ映画の後半は、前作の『きみが死んだあとで』で代島監督が行ったような当事者への徹底取材の映像が映される。冒頭に描いたドラマは、革マル派による暴力だが、その後は中核派によって革マル派メンバーが殺害された事件など、内ゲバをめぐる凄惨な状況が描かれていく。

 代島監督は以前の『三里塚のイカロス』などでも、革命をめざしていた党派が暴力の連鎖に陥っていくのはなぜなのかという問題を提起していた。1970年代、連合赤軍事件や内ゲバの頻発で新左翼運動は行き詰まっていく。映画は5月25日より渋谷ユーロスペース始め全国公開される。公式ホームページは下記だ。

 http://gewalt-no-mori.com/


 月刊『創』(つくる)の連載で元日本赤軍の重信房子さんは、この映画についてのこういう感想を書いている。なかなか良いコメントだ。

 《3月中旬に代島治彦監督に招かれて『ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~』の試写会に行きました。大変衝撃的な事件が今では老齢となった当事者の証言を中心に、丁寧に事実を検証して描かれていました。抽象的な党派批判、内ゲバ批判ではなく、血の通った当時の人間たちのやむにやまれぬ様々な理由の闘いの切迫感を浮かび上がらせていてとても心に響きました。最後の方で当時革マル派として川口君を死なせた学生の一人、佐竹さんという人の「転向謝罪文」が掲載されていてその中で「いのちの尊厳無しに人間を解放することは出来ない」と痛苦の反省の言葉が記されていて胸を衝かれました。これは「転向」ではなく「良心の告白」です。「べき論」に拘泥し、こうしたまともな神経をのびのびと育て得なかったところに私たちの時代の闘い方の欠陥がありました。

 全く違う状況下ですけれど、「革命家である前にヒューマニストであること」と肝に銘じていたパレスチナの戦士たちと共に闘っていた時代と重なりました。米欧、シオニスト、イスラエルの巨大な敵に物理的にはちいさなゲリラ勢力が勝つためには政治的対峙を創り出す必要がありました。戦士がヒューマニストであるということは軍事暴力の限界や否定面を知り、それでも武器を取らざるを得ない現実を引き受けることでもありました。解放と革命は差別抑圧の苦しみと怒りの中から人としての尊厳を求めて闘っており、希望を開くものでなければ勝利し得ないと、パレスチナで戦いつつ学んだことを想いつつ映画を観ていました。「どんなことがあっても生きろ!」というパレスチナの声と同じように、この映画の中にも監督はその思いを込めているように思います。》

 以下、代島監督へのインタビューを掲載しよう。
 三里塚闘争を追った映画で感じた疑問
 代島
 これまで新左翼の内ゲバについてジャーナリストの立場からきちんと書かれているのは、立花隆の『中核VS革マル』だけですよね。この本は1975年までで終わっているわけですが、その後も凄惨な内ゲバが続いて、多くの死者が出るわけです。しかも当事者たちはそれぞれの機関紙で相手に反革命のレッテルを貼って攻撃しあうだけでした。1972年に起きた連合赤軍事件についてはこれまでいろいろな考察がそれなりになされているけれど、内ゲバについてはそれがほとんどなされていない。この映画を作ろうと思ったきっかけは、樋田毅さんの著書『彼は早稲田で死んだ』を読んだことですが、正義を背負った暴力の連鎖をなぜ断ち切れなかったのか。それはきちんと解明されなければいけないと思っています。

 僕はこれまで『三里塚に生きる』『三里塚のイカロス』『きみが死んだあとで』と、その時代の当事者の証言を紡いで映画にしてきました。最初の『三里塚に生きる』は、大津幸四郎さんと共同で監督した作品でしたが、成田空港建設反対運動を取材して撮影したあの映画のなかで一番深く分け入っていったのが、1971年の第二次強制代執行の中で起きた東峰十字路で3人の機動隊員が農民と学生のゲリラ部隊に殺され、その責任を取るように青年行動隊員の1人の三ノ宮文男が自殺したという事件でした。その三ノ宮文男という死者のことを青年行動隊員の仲間は全員が今でも自分の中に抱えて、三ノ宮に謝りながら生きていた。

 もちろん農民が空港建設阻止をめざして闘う正当性、権力の横暴に対して闘う姿には正しい部分があるんですよ。でも、暴力が、敵対関係の中である一線を越えていく。人間がやっちゃいけないことをやってしまった時に、闘い自体の合目的性が崩れていく。それを僕たちは『三里塚に生きる』で描いたんですね。

 『三里塚のイカロス』の場合は、三里塚に支援に入った学生たちが、農民を助けよう、権力の横暴を許さないという、正義を背負って闘い始めたわけですけども、それが管制塔占拠事件、成田空港部分開港のあたりから変わっていくんですよ。逆に支援党派が農民を縛って闘争をやり続けさせるわけです。そのうちに中核派が、もう一方の勢力になった第四インターにゲバルトをかけて、死者こそ出なかったんですけど、車椅子生活になったりするような重傷者を出すわけです。また、農民が国と和解する交渉を始めるという時になると、その和解交渉を担う収用委員会の会長だった弁護士を襲って、鉄パイプでメッタ打ちにして半身不随にするんですよ。その弁護士が15年後に入水自殺するんですけど。要するに、最初は希望に向かって運動が始まるんですけど、どっかで腐ってくるんですよ。それは何なのだろう、とずっと考えながらあの映画を作ってたんですね。
 運動がなぜ暴力の連鎖に陥っていくのか
 代島

 『きみが死んだあとで』は、山﨑博昭という、京大1年生の若者が中核派にオルグされて入党して、初めて行った羽田弁天橋での第一次羽田闘争ですね、67年10月8日で、死んじゃうわけですよ。具体的には国家権力によって殺された山﨑博昭の死が当時のノンポリも含めた若者の闘争心に火をつけて学生運動が盛り上がっていくんですね。ところが、70年代に入って、運動が行き詰まり、国家権力に反抗できなくなった時に、本格的な内ゲバが始まる。武器を持って権力に対して立ち上がろうとしたはずなのに、どうして連合赤軍事件のような同志へのリンチ殺人や内ゲバ殺人が起こるのか。青空に向かって伸びていこうとした運動に暗雲が垂れこめ、時代の空気まで鉛色に染まっていくという、それがどうしてなんだろうという疑問ですね。一番考えなきゃいけないのは、なんで途中から腐っちゃったり鉛色になっちゃったりするのかということなんです。

 僕はその後の世代ですが、渦中にいたら僕も飛び込んでいたかもしれない。『きみが死んだあとで』の中でも告白していますけど、渦中にいたら僕も青空に向かって走り出してたんだろうなって思うんです。でも、鉛色の腐った状態まで見届けちゃうと、青空へ向かっていた部分だけ語り継いで後半部分を封印しちゃうというのは、歴史を隠蔽することじゃないか。もしかしたら歴史を書き換えてしまうことかもしれない。そう思ったんです。

 連合赤軍のリンチ殺人と浅間山荘銃撃戦に関しては、その後当事者が本を書いたり、いろいろな事実が明らかになって、ある意味、その全体像が歴史化されてますよね。日本の60年代から70年代にかけての【集団的記憶】の中にちゃんと連合赤軍事件の記憶は入ってるんです。ところが内ゲバは入ってないんですよ。内ゲバだけは、当事者もそうだし、同世代の人たちも語り継いでいない。だから【集団的記憶】にもなっていない。でも100人以上の内ゲバで死んだ若い人たちは何のために死んだの? 記憶にも残されないその死者たちはあまりにもかわいそうじゃないのかということですね。

 今回、川口大三郎の死はその代表みたいなことで描きましたけど、石田英敬さんの親友だった四宮俊治とか、内田樹さんの同級生だった金築寛とか革マル派側とされる死者もしつこく描いたのは、彼らは何で死んだの?という疑問からです。川口大三郎君事件のことも、僕は樋田さんの本を読むまでは、詳しくは知らなかった。樋田さんたちの早稲田解放闘争、革マルを追い出して学内を民主化しようという運動の中身はほとんど知らなかったのですね。樋田さんたちは、内ゲバとか暴力的なことはもう終わらせようとしたわけですが、樋田さんたちのグループ自体が襲撃されて、暴力に敗れていく。樋田さんは本の中でそういうこともちゃんと書いているし、50年後に本にまとめたというのは、それだけの時間が必要だったということですよね。

 この映画に出てくれた他の証言者も50年経って、初めて喋ってくれたんですね。東大生の引越しの最中に中核派に襲われて友達2人を目の前で殺された石田英敬さんは本当によく出演してくれたと思います。僕が石田さんのことを知ったのは、四方田犬彦さんの『歳月の鉛』という本に石田さんの事件のことが書いてあるんですよ。四方田さんは石田さんに、本に書いていいかと会いに行き、喋ってもらったことを書いてるんですけど、僕もそれで知ったんです。

 もしかしたら石田さんはもう東京大学の教授も退官されたし喋ってくれるかもしれないと思って、こういう映画を作るんだけどということで、東大のキャンパスでお会いしてカメラなしで3時間以上喋りました。その後撮影を承諾していただき、4時間くらいお話を収録。映画ではその20分の1ぐらいしか使ってないんですけど、その後の人生も含めて、やはり長い物語がありました。

 「僕の大学時代は暗黒だった」という言い方を四方田さんも石田さんもしますけど、その真っ暗闇の中にも一筋の光がある。人間はすごく愚かだけれども、捨てたもんじゃないところもあるんだよというところを僕は描きたかったんです。内ゲバの映画だと暗黒だけの映画じゃないかと思われるかもしれないけれど、それだけの映画にはしたくないと思いました。
 最初に短編劇を観せてそれを解体していく
 ――今回の映画は、基本はドキュメンタリーですが、冒頭でリンチ殺人の現場を再現ドラマのように描き、鴻上尚史さんがそれをどう演出したかというメイキングも映画の一部にしているわけですよね。

 代島
 僕も鴻上さんも、実際に暴力を振るったことはないしリンチをしたこともない。だから川口君がリンチで殺されたといってもリアルにわからないんですよ。なおかつあの密室の中にいた人で証言してくれる人はひとりもいなかったんです。だから当時の資料をもとに、どんなことだったのかを想像力をたくましくして描いていく。最初に短編劇をバーンと観せたあとに、それを解体していくことで、内ゲバとは何かというテーマを考えていく。そういうドキュメンタリーの構造を考えたんですね。

 映画の中で使っていますが、一般学生が立ち上がった様子を8ミリフィルムで記録した映像が残ってたんですね。これはテレビ映画芸術研究会という文学部のサークルの人が撮った映像で、プライベートでは見せることはあったみたいですけど、これまで公になることはなかったんですね。映画の中に自治会室に何度も川口くんの救出に行く学生が出てくる。映画の中で証言してる二葉幸三さんという人です。実は、彼がテレビ映画芸術研究会のサークル員なんですよ。川口くんが拉致される場面を見てるから助けに行くんですが、それがサークルの部室の目の前の階段なんですよ。助けに行って追い返されて戻ってきてまた行って戻ってきたら、革マル派の活動家がダーッと追いかけてきて二葉さんを殴ろうとしたそうです。それを部室の中にいて見ていた亀田博さんという人が止めようとして、間に入るんですよ。で、殴られたのは亀田さん。その亀田さんと仲間が撮った8ミリフィルムなんです。

 そのフィルムには、特に11月13日の本部キャンパスで行われた3000人以上の一般学生が集まって革マル派の幹部を糾弾するというシーンがあります。演台の上に田中敏夫という当時の文学部の自治会委員長が出てきて、一般学生に糾弾されている。映像は音が入ってないのですが、そのシーンだけじっと見てると、田中敏夫って人もなんだか無残だなと思えてきました。小突かれて、そこにひざまずかされて。そういう意味では、まだ言葉の暴力だし、彼を糾弾するのは当然なんだけれど、そこで正義を背負った暴力の反復がすでに始まってる感じにも見えるわけです。

 僕はその田中さんが糾弾されてひざまずいてうつむくポーズを取るシーンを前半と後半で2回使っています。同じシーンが1回目と2回目に出てきた時に、見る人の中でどう見方が変わっていくか、ということも、映画の構成の中で重要なことのひとつなんです。そういう意味で反復の映画なんですけど、反復された時に、最初に観た、目も背けたくなるような暴力の短編劇と、最後に2回目に出てくる同じ短編劇のシーンが、観ている人にどう見えてくるか。その心の動きみたいなもの、心を揺さぶられるというか、観た人が自分で考え、自分で何かを想像したくなる映画にしたいな、と思ったんです。

 ドキュメンタリー、記録映画っていろいろありますけど、現在進行形でものすごいことが起こった時、悲しいことがあったり笑えることがあったりすると、感情を揺さぶられながら観ていける。過去の出来事だけれど、それでもやっぱり心が動くような、何かを想像したくなるようなドキュメンタリーにしたいと思うんです。単なる記録を並べただけでは駄目だなというのは、これまで作ってきていつも思うんですね。
 短編劇は鴻上尚史さんがシナリオを書いた
 ――短編劇の部分は鴻上さんに任せた感じなんですか。

 代島
 そうですね。もともと樋田さんの本を読めと言ってくれたのは鴻上さんなんです。『きみが死んだあとで』の上映後のトークショーで鴻上さんと喋ってる時に鴻上さんが「すっげえ早稲田の面白い本があってこの本を題材にしたら代島さん、内ゲバが撮れるから次は内ゲバの映画を作ってください」と言われたんです。僕は、内ゲバについては当事者は誰も証言しないから作るのは無理ですってその時答えたんですけど、そのトークショーの会場にたまたま樋田さんがいたんです。トークショーが終わった後に客席から本を持ってきて、「代島さん読んでください」って渡された。それを読み終わって、まず樋田さんのところに「この本をベースにした映画を作っていいですか」と大阪まで頼みに行ったんですよ。その1週間後ぐらいに鴻上さんの事務所に行って「短編劇を作りましょう。今度の映画はドラマがないと成り立たないと思う。ドラマを最初にバンと観せてその後ドキュメンタリーで解体していくっていう映画を作りたいんだ」と。その時にそういう構想がもう僕の中で固まってたんですね。


 ただ、短編劇に関しては、鴻上さんは演劇の人ですから、最初の打ち合わせでは映画の中で演劇を作るというイメージを持っていました。でも、短編劇を平たく舞台で撮っても多分迫力ないだろうからと、最終的に鴻上さんがシナリオを書いて劇映画のスタッフを配置して撮るということになったんですね。短編ドラマでなく、抽象的に舞台でやった場合は、もうちょっとショックが少ないゆるい感じになったと思います。芝居を撮るわけですから。ただ芝居を撮るというイメージで考えてたのは、鴻上さんが稽古でどうやって演出していくかという過程が一番大事だと思ってたんです。

 僕たちはやっぱりその時代とかその世代に影響を受けて育ってるから、鴻上さんが作る芝居、僕が作る映画はやっぱりその時代のもの、鴻上さんのは全部じゃないですけど、僕の場合はずっとその時代のものを作ってきた。あの時代は何だったのか、特に連赤や内ゲバがなぜ起きてしまったのか、みたいなことですね。鴻上さんが肯定的にあの時代を描いてるのは『僕たちの好きだった革命』という、中村雅俊が主演で、当時の高校生が今の高校にタイムスリップしちゃうみたいな話ですけど、これは肯定的ですね。『不適切にもほどがある!』みたいなドラマが今ありますけど、昭和の高校生が、それと同じように今の高校にタイムスリップして高校改革を始める。

 最近『アカシアの雨が降る時』っていう芝居を鴻上さんが書いてますけど、これは72年ぐらいの相模原戦車輸送阻止闘争を背景にしています。かつて学生運動をしていた女性が倒れて、息子が病院に駆けつけると、母の精神は20歳の女子大生に戻っていた。現在から過去に、1972年にタイムスリップする物語です。そういう意味で言うと、この映画も現在から過去へ、1972年へタイムスリップするドキュメンタリーみたいな感じの演出はしているんです。『創』でも特集したと思いますけど、『福田村事件』は100年前のことだから劇映画でしかできないと森達也さんが劇映画にしましたけど、僕はやっぱりドキュメンタリーが好きなので、例えば関東大震災の朝鮮人虐殺の問題もドキュメンタリーで描けるんじゃないかという気持ちは今でも持ってます。ただ『福田村事件』でやった森さんの手法は、面白かったと思います。僕の今度の映画は、ドラマとドキュメンタリーを混ぜた、その作り方がどう受け止められるでしょうか。
 篠田博之

 月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

【元日本赤軍・重信房子さんのコメント】
 《3月中旬に代島治彦監督に招かれて『ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~』の試写会に行きました。大変衝撃的な事件が今では老齢となった当事者の証言を中心に、丁寧に事実を検証して描かれていました。抽象的な党派批判、内ゲバ批判ではなく、血の通った当時の人間たちのやむにやまれぬ様々な理由の闘いの切迫感を浮かび上がらせていてとても心に響きました。最後の方で当時革マル派として川口君を死なせた学生の一人、佐竹さんという人の「転向謝罪文」が掲載されていてその中で「いのちの尊厳無しに人間を解放することは出来ない」と痛苦の反省の言葉が記されていて胸を衝かれました。これは「転向」ではなく「良心の告白」です。「べき論」に拘泥し、こうしたまともな神経をのびのびと育て得なかったところに私たちの時代の闘い方の欠陥がありました。

 全く違う状況下ですけれど、「革命家である前にヒューマニストであること」と肝に銘じていたパレスチナの戦士たちと共に闘っていた時代と重なりました。米欧、シオニスト、イスラエルの巨大な敵に物理的にはちいさなゲリラ勢力が勝つためには政治的対峙を創り出す必要がありました。戦士がヒューマニストであるということは軍事暴力の限界や否定面を知り、それでも武器を取らざるを得ない現実を引き受けることでもありました。

 解放と革命は差別抑圧の苦しみと怒りの中から人としての尊厳を求めて闘っており、希望を開くものでなければ勝利し得ないと、パレスチナで戦いつつ学んだことを想いつつ映画を観ていました。「どんなことがあっても生きろ!」というパレスチナの声と同じように、この映画の中にも監督はその思いを込めているように思います》




(私論.私見)