資料4、社青同解放派の対応、論文


更新日/2024(平成31.5.1栄和改元、栄和6)年7.28日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「資料4、社青同解放派の対応、論文」をものしておく。

 2003.7.16日再編集 れんだいこ拝


【宗派革マルによる川口君虐殺糾弾!】
 宗派革マルによる川口君虐殺糾弾!」。
 プロレタリア革命に恐怖し、敵対する体制内小ブル集団革マル派を粉砕せよ!
 革マルを利用した当局の学生管理、支配粉砕!
 70年代中期階級闘争の命運をはらむ早大解放闘争に勝利せよ!
 帝国主義ブルジョア政府打倒
 宗派の根底的解体止揚への闘争をさらに強力に推進せよ! 
(一) 
 72年11月8日、革共同革マル派は早大において早大生川口大三郎君を虐殺した。死にもいろいろある。死のそれぞれのありかたを安易に虐殺だの何だのといって政治的に利用することは許されぬが、革マル派による川口君の殺害は文字通りの虐殺であった。これをめぐって偉大なる第三次早大闘争が爆発していった。早大学生は、テロ・リンチによる宗派革マルの数年にわたる支配に対して決起していった。この闘いはたんに革マル派に対する闘いのみならず、革マルの宗派支配を学生の管理、支配に利用していった大学当局に対する闘いとしても爆発していった。
第三次早大闘争は、おいつめられた革マル派の兇暴なテロ・リンチを完全に粉砕し重大な前進をとげる段階へきている。 

  一切の願望と政治技術が破産した後、革マル派にのこっている手段は彼らの本質であるテロ・リンチによる活動家つぶしである。4月にはいって革マル派はこの全面化にのり出した。だが、彼らはその最後の手段も、恐れをしらぬ早大学生とこれと共に闘う反帝学評により粉砕されつつある。革マル派による川口君の虐殺は、革マル派にとってのたんなる「部分的失敗」ではなかった。誰でも誤りはありうる。しかし、革マル派の川口君虐殺はたんなる誤りではない。むしろ革マル派の路線からすれば当然帰結される学生の虐殺であった。

 それはこの小論の中で明確にされるように、帝国主義への闘争をまさに「適当にやり」つつ、自らの権力への恐怖と権力闘争からの逃亡を都合よく理由づけ、しかも闘う人民、政治潮流への破壊活動を革命運動だとする疎外されきった反プロレタリア的な路線である「のりこえの論理」の結果であった。 

 革マル派の運動と組織は、プロレタリア人民の生き生きとした闘いの抑圧、階級闘争からの小ブル的な逃亡路線の上にのみ成立する。したがって、これをこえて突出する部分には、テロ・リンチをもって保守的な組織保持をはかるのである。こうして革マル派によって公然、隠然の死においやられた学生は川口君だけではない。だが、川口君の虐殺はあまりにも許しがたいものであった。しかもその路線は革マル派の居直りによってさらに強化されんとした。早大学生を中心としたプロレタリア人民はこれを許しはしなかった。 
(二) 
 革マル派は川口君の虐殺に対してはじめは次のように居直った。革マル派の路線は川口君の虐殺とは無縁である。しかし、外部の悪しき路線に汚染された革マル派の下部活動家が誤りをおかしたことを自己批判すると―。一体誰がこんな「自己批判」をうけいれると思うのか。革マル派の歴史を知っているものは、川口君虐殺のテロ・リンチが革マル派のいるところ全日本どこでも日常のこととなっていることを知っている。(。・ω・)ノ゙

 われわれは暴力一般を否定するものではない。むしろプロレタリア革命運動にとって革命的暴力は本質的なものである。しかし、革マル派のテロ・リンチは革マル派の小ブル的、体制内的運動をこえて前進する部分に対してのみ与えられる。まさに階級闘争を背後から破壊するものである。だから、革マル派のあのような自己批判をうけいれることは革マル派の路線をむしろうけいれることとなってしまうことを全早大の学生はハッキリと知っていた。だから早大学生は決起していった。 


 革マル派の第一回目の自己批判の構造はたんに闘うプロレタリア人民の怒りをかっただけではなかった。革マル派内部に深刻な動揺を生み出していった。まさに革マル派の路線に「忠実に」川口君を虐殺した下部活動家に対して一切の責任を彼らにきせ、自らは全く無関係と「白い手」をぬぐった官僚どもに対して、下部からの不満が噴出した。こうして、今度は官僚どもはその不満をおさえるべく必死で弁解し、「他面、指導部の未熟性」「組織的責任」を強調した。

 だが、それだけでは事態がおさまるはずもなかった。早大生を中心とするプロレタリア人民の怒りは革マル派に集中し、しかも内部も徐々にではあるが根底的動揺が拡大した。本質的には革マル派と同じ宗派中核が、宗派戦争において、革マル派の活動家を殺した時でさえ、「良心的」革マルは「革マルは中核を批判できない。われわれも同じことをやっている」と革マル中央に叛乱し、革マル中央はこれをつぶすことをもってその拡大をおさえた。東京の一拠点Ⅰ大学の革マルはこれでつぶれた。

 しかし今回は弁解の余地のない革マル派の路線の帰結であったのであり、革マル中央への恐怖からなかなか公然たる叛乱がおこせない革マル派活動家の中に、むしろ逆に深刻な形で問題が沈んでいった。それが革マル派の全国最大の拠点早大一文においておきたことにおいて事態は致命的であった。早大革マルは再三の危機を指導部のパージをもってのりきり、それによっていきついたはてが川口君の虐殺だったのだ。 
(三)
 この小論でみるように革マル派の歴史の中で現時点は一つの「曲り角」に立っていた。それは、革マル派の一面である「小ブル主体性論」に対して、革マル派の他面である階級性なき「組織主義」が勝利し主体性派は力を失っていく。こうして体制内的他党派解体策動が展開される。この中でおきたことは今みてきたことと重なって革マル派内部の動揺を拡大した。革マル官僚は全力で自己弁護にのり出し、教祖黒田と共に<中味のない反プロレタリア的陰謀技術―組織戦術>の賛美によってこの動揺をのりきらんとしている。そして一方では目を外に向けるために社共と同質の小選挙区制闘争―田中内閣打倒闘争をやり、また責任を早大の活動家や他党派に転嫁し、さらに宗派戦争に熱中するという有様である。 
(四)
 早大革マルの破産は、たんに学生運動にとどまらなかった。革マル型労働運動も深刻な動揺の過程にはいる。外観上はむしろ当面の闘争に「今まで以上に」かかわることにより川口君問題を忘れようとしたが、所詮それは無理なことであった。なぜならば自分が日々やっていることと同じだからである。これは破産した学生運動が、学生独自の闘いを通して労働運動と連帯するのではなく、むしろそれを削りおとしてブラさがっていた結果によっても増幅された。早大ヘビラマキに動員された革マル系の労働者は、早大生に事実をつきつけられて一言も答えられず消耗して逃げかえるという有様だった。革マル派が早大でやったことは労働運動で革マルがやっていることのいきつく先であることが誰の日にもハッキリしていき、革マル派全体に深刻な動揺が拡大している。そしてむしろそうであるがゆえに逆にその路線を強化することによってのりきろうとしている。 
(五)
 革マルの労動運動路線は民同型の「悪しき産別主義―本工主義」である。それは、実は本工の闘争自体が不充分なものでしかないことを示している。だが、この問題はこれにとどまるものではない。革マル派の運動がまさに階級社会の差別構造を固定化し、肯定するものでしかないことを示している。彼らは現実の一つひとつの矛盾を闘いぬくことを通して階級的、革命的団結が生まれていくということを否定し、現実の闘争、団結の否定の上にイデオロギー(小ブルの)的結びつきをたてる。部落解放闘争における先進的糾弾闘争をはじめとして、女性解放闘争、民族差別への闘争、「障害者」解放闘争として闘われているものを革マルは平然と放棄し、階級社会における差別を固定化、拡大している。これは革マルの「労働運動」「学生運動」が、決して人間解放の力をもった階級的革命的プロレタリア運動(ソヴィエト運動)たりえないことを明白に示すものである。川口君の虐殺もこうした闘いへ決起せんとした者への革マル的圧殺として存在したのだ。
(六)
 国際階級闘争の歴史の中で60年代―70年代は後世に決定的な階級闘争の「幕あけ」としてしるされるであろう。なぜならば、第一次大戦、第二次大戦を通して破産した社会民主主義とスターリニズムの本質が公然かつ大衆的に暴露され、スターリニストや社民自体が深刻な分裂にはいっており、その底からプロレタリアの階級的独立の闘いが徐々にではあるが確実に前進している時代だからである。この時代の中で、スターリニストを批判した小ブル急進派の初期の見せかけの戦闘性が破産するという事態が進行した。国際的にもそうであったが、日本においては連合赤軍の破産―壊滅、ML派の破産―壊滅、中核派の破産という形で進行した。体制内的な自己保身術によってのみ生きのびていた革マル派も激化する階級闘争の中でかくしようもない形でその本質を暴露していった。社民、スターリニストの破産をのりこえて台頭しつつあるプロレタリア階級が、「社民、スターリニストを批判する」と称してプロレタリア人民を体制内的自己保身の物理力にせんとするトロツキズム諸潮流を粉砕して前進することは、70年代の階級闘争の質を決する問題である。
(七)
 早大革マルはたんに学生運動の拠点たるにとどまらなかった。革マルイデオロギーを「体現」した官僚を労働戦線をはじめとする各戦線へ送り出し宗派支配を貫徹するための拠点でもあった。それはまた「のりこえの立場」を貫徹するために不可欠なものである―他党派解体のために不可欠のものである―テロ部隊の出撃拠点でもあった。早大解放闘争は直接に革マルの早大学生支配への闘いであると共に、早大革マルがしめている位置からいってこうした革マル派組織の全国的拡大の拠点を粉砕するという中味をもっていた。だからこそ革マル派はテロ・リンチをもって闘う早大生をおそったのである。

 こうして早大解放闘争が現下の教育の帝国主義的改編への闘争と結合して発展するということは、労働運動と学生運動の関連をふくんだ学生運動の最大の攻防戦としての意味をもっている。つまり革マルの学生運動は、現下の教育をめぐる学生の闘いを一切放棄し、民同的労働運動にブラ下がり、学生運動を階級的革命的に闘わないがゆえに生まれる「革マルイデオロギーを体現した活動家」を、日本軍命運動の阻害物として生み出すプールとなっていた。

 学生運動とプロレタリア運動の革命的連帯は学生運動自体が教育闘争、反戦闘争等を闘いぬきつつその団結をもって労働者運動と結合することによってのみ生まれる。こうした連帯のみがプロレタリア革命運動の推進力たりうるのだ。つまり学生が自らの矛盾を階級的革命的に闘いぬくことを通しつつ、プロレタリア運動と階級的要求をかかげながら結合することにより学生の小ブル性を根源的に突破・止揚できるし、また同時にプロレタリア運動がソヴィエト運動として発展することを促進しうるのだ。革マル派の「学生運動」は学生達動を小ブル的なものに固定化して、イデオロギー的にのみ革命化、階級化をはからんとする。それは実は小ブルイデオロギーを保守的に固定化し、それによって反スタースターリニストを生み出す運動となる。早大における革マルの闘う学生への抑圧は本質的にはこういうものとして存在した。 


 これに対して早大生は決起し、同時に日本学生運動の革命的階級的推進力たる反帝学評は、公然とこれを連帯支援した。まさに反帝学評運動は学生の矛盾を運動として闘いつつ、その根源的突破のためにプロレタリア階級闘争との階級的革命的連帯を目的意識的に実現しつつある唯一の潮流だったからである。こうして早大解放闘争は宗派革マルの早大生への支配を粉砕する闘いであると共に、その闘いがそのまま、プロレタリア人民を権力への闘争からひきはなしまたは決起した部分を粉砕し自らの小ブル的な利害の物理力にせんとする反スタ・スターリニスト革マルの策動を根底から粉砕する闘いでもある。 

 階級闘争の困難局面では、まさにその困難さを体制内的に、うしろ向きに「総括」し、小ブル的に固定化する部分がくりかえし生まれる。反スタ・スターリニスト革マルはその一点で組織保存ができた組織なのである。しかも、闘わんとする学生を虐殺することをしてもその小ブル利害を貫徹せんとした。だから早大解放闘争は、早大における反スタ・スタ二―リニストの支配を粉砕する闘いであると共に、日本階級闘争への小ブル的「寄生」を行なわんとする部分を根底から粉砕する巨大な意義をもっているのだ。 

 なお、以下の叙述は次のような目的と意図をもってかかれている。第一は、反スタ・スターリニストの骨格を要点的に描き出すことである。まさに宗教的組織であるために、プロレタリア運動にとってはなかなかなじみがたい「用語」で、誤ったことを展開している。したがって、それを全体として骨格を明確にしていくことが必要だと考えた。その意味で引用をできるだけ行なった。第二は、第一のことを通して粉砕していくべき対象の攻撃目標をハッキリさせんとしたことである。直接的な革マル派粉砕の闘争方針や戦略戦術をここで叙述することは適当ではない。それは『解放』紙・誌でのべられているし、今後も強化されるだろう。ここではその前提を明らかにせんとしたのである。 

【「ファシズムかプロレタリア革命か」】
 「はじめに―「ファシズムかプロレタリア革命か」  =「帝国かコミューン(ソヴィエト)か」」。
 73春闘は、70年代階級闘争の「原点」を凝縮して突き出している。「空前の交通ゼネスト―公労協統一スト」「民間組合のスト多発」「乗客暴動」という形で、それは突き出された。ここには二つの問題が集中的に表現されている。第一は、日本プロレタリア運動が、日本資本主義の政治・社会矛盾の激化の中で根底からの戦闘化を深めつつあり、民同、JCの官僚的抑圧をこえて突き出しつつあること。もちろん、今回の「ゼネスト」が、民同左派の枠を完全に突破したとはいえないが、民同も抑えがたい形で吹き上げたことは事実である。これは、様々な曲折をとるにしても、70年代のプロレタリア運動の行く手を指し示している。大幅な物価の上昇、労災、職業病の激発にみられる大合理化の進展、労働者の日常生活の破壊、また人民の血税によるアジア反革命戦争への道。これらに対する人民の反撃が当面「社共」・民同の枠内ではあれ、「公然」と吹き上げはじめ、さらにはその枠を打ち破る力を一歩一歩形成しつつあることを73春闘は示している。階級的プロレタリアートの任務は、この力を決して「社共」―民同に収約させることなく、行動委員会運動―ソヴィエト運動の展開、革命的プロレタリア党建設へ集中して行なわねばならぬ。しかも、明確な革命への展望をもって。

 第二の問題は、この戦闘化がもう一歩突破しなければならぬものをかかえているということである。それは、ストライキに突入しているプロレタリア運動が資本と民同の分断をこえていく路線・方針を確立し、展開しきれていないという問題である。資本主義社会における矛盾の激化は、たしかに一人ひとりのプロレタリア人民に、耐えがたい形でのしかかる。しかし、その一人ひとりにかかる資本主義社会の矛盾は、資本主義社会における分業の中で、外観上は様々な「差異性」としてあらわれている。しかも、資本の運動は、これを分断と競争として対立させる。

 したがってこれらの矛盾に対して、もしこのブルジョア社会の根本的突破・止揚を目指すソヴィエト運動が展開できていないときには、プロレタリア人民相互の深刻な「対立」が突破される展望のないまま激化する。そして、突撃していく部分も、「手づまり」状況にはいっていく。この「手づまり」状況を利用して、ファシストが登場し、分断されたまま矛盾が激化しているプロレタリア人民の一部をもまき込んで、プロレタリア革命運動に対する圧殺にはいっていく。上尾からはじまっていく「乗客暴動」は、この問題を突き出している。

 こうして、プロレタリア運動は、産別的団結をさらに強化し階級的・革命的産別ストライキの強化を目指すとともに、反合闘争をめぐる地区的団結を発展させ、さらには生産過程・消費過程の双方を貫くプロレタリア運動を発展させていかねばならぬことをハッキリと突きつけられている。今回の「乗客暴動」で、右翼の挑発が行なわれたことは、いうまでもなくハッキリしている。これに対して、断固たる闘争を強化していかねばならぬ。しかし、現在の民同左派の運動が、60年代に存在したストライキをめぐる「地区的支援」をますます切りおとし、「悪しき産別主義」におち込みつつあること、したがって、右翼につけ込まれるスキを与えていることもまた事実なのである。 ここに出ている問題は、「大企業プロレタリアートと中小未組織プロレタリアートの分断」「生産過程と消費過程の分断」の問題である。

 さらに、現在深刻に突きつけられているものとしての「公害」をめぐる「地域住民と工場プロレタリアートの対立」、また社会的・歴史的な差別分断をプロレタリア運動が突破しえない問題等々として、この問題は突きつけられているのだ。


 70年代階級闘争は、来年の参院選をふくんで、この1、2年に急速に深化をとげんとしている。全日本プロレタリアは、一定の限界をもちつつも下部プロレタリアートの吹き上げによってうちぬかれた「ゼネスト」の階級的中味を、地区・産別の行動委員会、課題別戦線、さらには圧倒的な政治闘争として発展させ、プロレタリアートの階級的独立の闘いを急がねばならぬところへきている。こうしたプロレタリア運動が、「権力展望」をもふくんだものとして急速に階級的・革命的に強化されねばならぬという課題を別の側面から突き出しているのが、「党派闘争」の問題である。

 歴史的には、1930年代の世界的な革命運動の高揚の中で、ドイツ、フランスとならんで革命と反革命の激突の焦点となったスペインにおいて、フランコのファシスト軍隊と闘いつつ、スターリニスト、トロツキスト、アナーキストが三巴の深刻な党派闘争を行ない、敗北していったという事実がある。もちろん、たんに党派闘争が存在したからスペイン革命が敗北したという総括は正しくない。そうではなくて、プロレタリア革命派(それは相対的にはスペインのトロツキズム潮流に体現されていた)が、アナーキスト、スターリニストを突破し、止揚する運動を展開し、そういう組織を建設しきれていなかったことによる。 「党派闘争」というのは、決して現実の階級闘争と無関係に、「セクトとセクト」が行なう闘争ではない。反ブルジョアジーの闘争のなかで、様々な階級、階層が決起していく。しかも、帝国主義の矛盾の激化の時代、プロレタリア革命の時代においては、小市民が自らの利害を「プロレタリア革命」という名のもとにおし出し、プロレタリア人民をその物理力にせんとする活動が強まる。こうして、プロレタリアの階級闘争とそれを物理力にせんとする小市民「左派」(スターリニスト、反スタ・スターリニスト)との闘争は、当然激化する。 

 われわれは、この闘争をプロレタリア革命連動の展望のもとに、断固としてやりぬかねばならぬ。しかも、重要なことは「宗派と宗派の闘争」、「分断強化のための闘争」、「階級闘争における手づまりを深化させる闘争」としてではなく、ソヴィエト運動およびそれを推進する階級的・革命的党派と小市民左派・右派との闘争としてこれをやりぬかねばならぬということなのだ。まさに、プロレタリア・ソヴィエト運動の発展のための、プロレタリアの階級的独立のための「党派闘争」でなくてはならぬ。この闘争は実力による闘争をふくめて、断固として闘い、勝利しなくてはならない。それは「大衆運動の防衛」、および「大衆運動の階級的・革命的発展」のために闘いぬかれねばならないのだ。 そのためには、まずわれわれは、宗派の本質を正確に分析し、その「宗派的他党派解体闘争」を粉砕しつつ、彼らの基礎をふくめて根本的解体止揚の方針を立てねばならない。そういう作業の一環として革マルの分析を行なう。 階級闘争の始元、原点を誤ってしまうと、本人は主観的に革命的、マルクス主義的たらんとしても、革命的プロレタリア運動に敵対する構造にはまり込み、あがけはあがくほど階級闘争の中から放逐されていくことになってしまう。その典型が革マル派である。小ブルジョアには小ブルジョアの世界があり、問題が出てくるたびにそのプチブル的中味の深化として路線確立が行なわれていく。そして、自己の破産が決定的になるや否や、過去においては「そんなことはしない」と必死で自己弁護していたようなことを、路線として公然と確立することによってしか「生きのびられ」なくなる。そして、いきつくはては、プロレタリア階級闘争と階級的政治組織への破壊攻撃が「革命運動」であるという全く疎外されきった小ブル宗派路線を確立して、そういう行動へ熱中していくことになる。

 革共同革マル派は、遂にそういう段階へ自分を切りつめ、むき出しの宗派活動にはいってきている。彼らは、70年安保決戦、沖縄闘争、教育闘争、反合理化闘争、早大における階級闘争としての破綻の中で、こういうところへおいつめられていったのだ。後でみるように、革マル派の指導部は、下部の同盟員を操作しながら、この点についての矛盾にいつもさいなまれており、だからこそ逆に様々な右翼的延命策と破壊活動に下部同盟員と自分を駆りたてているのだ。表面的にみれば、革マル派の組織は、一部において延命している。だが、それも、すでに中味はますます空虚なものとなり、民同的自己保身と大衆操作により―要するに、社共と同次元の方策により―維持されているにすぎない。ブルジョア社会において、ブルジョア的なものに真向から対決せず、むしろそれに乗って生きのびることは極めてたやすい。社会党も、共産党も、そうしてきたのである。後の展開でみるように、革共同革マル派は「実践的な小ブル中間主義路線」、「イデオロギーの自覚運動」、「組織的には他党派解体路線」として、これをもっとも反労働者的な形で行なっているのである。
特に注目すべき点は、70年代中期に向けて階級闘争が深化していく中で、革マル派はこの宗派路線を「確立」し、早大生川口君の虐殺を完全に居直り、階級闘争への破壊活動に、しかもそれのみに、さらに熱中しだしたことである。

 われわれは、プロレタリア革命運動のさらなる推進のために、この宗派革マルの本質と現段階をつかみとり、彼らの敵対を粉砕しつつ、最終的な解体・止揚のために、現在的になすべきことを貫徹していかねばならぬ
」。 

【革マル派の「前史」】
 「はじめに―「ファシズムかプロレタリア革命か」  =「帝国かコミューン(ソヴィエト)か」」。
1 革マル派の「前史」
 革命的共産主義者同盟の潮流は、日本に三つある。いわゆる革マル派、中核派、第四インターナショナル派である。第四インターの系列は「複雑」なので、詳しくみれば組織としてはもう少しふえるとは思われるが、ここでは第四インター派の分析が主目標ではないので、第四インター派としておく。要するに現在、革共同という組織名を使っているかいないかにかかわらず、革マル派、中核派、インターは、出発点を一つにしている。但し中核派の場合はブント(58年結成の共産同)と革共同の「合成」である。この革共同の分裂の歴史を簡単にみて、革マル派の結成に到る「前史」を必要な限りで要約しておこう。 
 「日本トロツキスト同盟の結成」―1957年1月

 これは、太田竜、現在の第四インターの流れ、および黒田寛一等が作った日本のトロツキズムの政治組織である。この57年の12月にこれは「日本革命的共産主義者同盟」として名称を変更する。 
 革共同「第一次」分裂―1958年7月

 「反帝・労働者国家無条件擁護」派と「反帝・反スタ」的傾向とに分裂。前者は太田竜を軸とする部分であり、後者は、西派(西京司)、黒田派の合成である。(日共の学生党員を軸に、日共脱党グループによるブント=共産同の結成―1958年12月) 
 革共同「第二次」分裂―1959年8月

 これは、黒田を中心とするグループと関西派との分裂。ここで黒田たちは、革共同全国委を名のる。安保闘争の終末でブント解体、分裂。大きくは四つに分裂。「革命の通達派」(東大学生グループ)、「プロレタリア通信派」(全学連書記局グループ、清水、北小路等)、「戦旗派」(ブント中央グループ、労対グループ)、および関西でこの中央段階の論争、分裂にまき込まれなかった「関西ブント」グループ。

 革共同全国委は、このブントの内部抗争に介入し、「プロレタリア通信派」「戦旗派」を解体、吸収。「革命の通達派」「関西ブント」の流れは、それぞれ再建ブント、再建社学同の流れとなる。革共同全国委は、ブントの全学連、労働運動の「実践グループ」を吸収して、一挙に拡大。全学連をのっとる。 
 革共同「第三次」分裂―1963年
 「統一行動論」「大衆運動とケルン作り」「地区と産別」等をめぐって、革共同全国委が中核派と革マル派に分裂。人的には、議長の黒田が革マル派の軸となり、旧革共同メンバーの武井(本多)が中核派の軸となるという形になり、旧革共同と旧ブントの再分裂という形ではないが、内容上および人的にも大多数は旧革共同と旧ブントの再分裂という色彩が強い。分裂の中味は、結局、小ブルイデオロギー派と小ブル大衆運動派の分裂である(但し、「第一次」とか「第二次」とかいうのは、革マル派を軸としてみた場合であり、第四インター系の革共同は、またその中で再三再四、離合集散している)。革マル派にとっては、全学連が60年安保闘争後混迷し、その中心だった.ブント(共産同)が四分五裂状態になることを利用して介入し、ブントを解体して全学連をのっとったことが忘れられなかった。中核派にとっては、急進的学生運動を指導し、それにのって拡大したことが忘れられなかった。こうして、小ブル派は、イデオロギー主義と大衆運動主義に分裂していく。革マル派という組織は、形式上はこの中核派との分裂によって生まれた訳である。 
 2 革共同革マル派の 反プロレタリア的宗派性の<展開>
 (1)革共同革マル派の宗派的展開の概要―革マル派自身による「歴史的整理」 
 中核派と分裂して以降、革マル派は四苦八苦しながら宗派的組織維持に熱中しはじめる訳であるが、63年以降の革マル派のその歴史を要約してつかんでみよう。その場合、まず革マル派自身による「歴史的整理」を紹介し、その後でその「階級的再整理」を行なうという形にしたい。 革マル派自身の手による「歴史的整理」「路線的整理」は最近様々な形で行なわれているが、まず彼らの「歴史的発展」の概要を、教祖黒田寛一の手によるそれを通してみてみよう。『日本の反スターリン主義運動 2』の中の「1 革命的マルクス主義派建設5ケ年の教訓」(80頁)によれば、次のようになっている。
「1、ブクロ官僚派との決別と革マル派結成のための闘い(1962年2月~63年7月)」。この中で次の点をあげている。 (。・ω・)ノ゙
 (1)統一行動とマル学同建設にかんする問題
 (2)キューバ危機をめぐる反戦闘争にかんする問題
 (3)動力車労組の運転保安闘争に対する二段階戦術をめぐる問題
 (4)参議院選挙闘争にかんする問題
 (5)地区の党組織建設と産業別労働者委員会の強化にかんする問題(。・ω・)ノ゙ 

 そして、この中で「前衛党建設における決定的な対立と分裂」が浮び上がってきたとしている。また、この中核派との分裂の過程で、革マル派自身の中に労働運動をめぐって「運動、組織づくりにおける原則主義」「ケルン主義」があらわれ、また学生運動の中では「立脚点主義」があらわれたとしている。要するに、中核派の政治技術主義、大衆運動主義への革マル派的反発の姿である。 (。・ω・)ノ゙
 「2、ケルン主義の克服とフラクション創造の闘い(1963年8月~64年3月)」 
 この時期においては、ケルン主義、あるいは「学習会を根底にすえた労働運動」という運動=組織路線における一面性を「反省」することを通して、「フラクション創造の理論」を明らかにしたという。それはコミンテルン型の党員だけによって構成されるものではなく、革マル派の組織戦術の大衆運動場面への貫徹において創造される一つの組織形態として、組合員としての革マル派同盟員が展開する組織活動(フラクション活動)を通じてつくり出される半非公然的な二つの組織形態として位置づけられた。これは、労働運動の内部においてそれを「左翼的」に推進するための、あるいは学生運動を「革命的」に展開するための直接的な推進母体として当面の戦術上の一致にもとづいてつくり出されると同時に、他方では、革マル派に結集し、その担い手となるべき「革命的労働者・学生」を自己変革するイデオロギー闘争の場でもあるという。 

 しかし、この中で「フラクションを形態主義的にのみとらえる傾向」と「理論闘争のやり方や内容にひきよせて理解する傾向」とが出てきたという。このような傾向を克服するために「運動=組織論そのものの理論的深化」「運動=組織づくり(論)にかかわる問題と運動組織方針(論)にかかわる問題との二重うつしからの脱却」「もっぱら『戦略の適用』のベクトルからフラクションをとらえたり、また、フラクション会議における理論闘争の内容を考えたりする傾向」などの内部理論闘争がひきつづきなされたという。 (。・ω・)ノ
 「3、激化した中・ソ対立のもとでの、反代々木左翼の統一行動と党派闘争の推進(1964年4月~65年1月)」
 中ソ論争の激化と国際情勢の激動のもとで、日本スターリニストも「4・8ストやぶり声明」などで大きく動揺していく。このなかで、「反代々木統一行動」が問題となり「8・2集会」、「春闘活動者会議」が実現される。革マル派はこの中で、統一行動をめぐって問題の整理にかかろうとして「全学連の二重性」などの「路線」をうち出す。この時期に革マル派内部としては次のような問題をかかえていた。(。・ω・)ノ゙
「(a)運動=組織づくりの理論的解明と闘争=組織戦術の提起およびその内容にかかわる問題の理論化とを二重写しにする傾向」 

「(b)方針提起における理論主義(たとえば、反合理化のための闘争論的解明を『合理化』論に、賃金闘争論的解明を『賃金』論に、それぞれ直接横すべりさせてしまう傾向)、そして組織作りにおける『理論』主義、つまり、主体形成主義ないし学習会主義、さらに、戦術の内容的展開における『理論主義』、つまり、原則主義や『原則』対置主義」 
「(c)場所的現在における大衆運動の組織化と前衛党組織づくり(革命的共産主義運動の現実形態としての)との関係を弁証法的にとらえること(つまり、運動=組織論)なく、むしろこの両者を『切断』してとらえ、そして、前者の解明が運動論であり、後者の解明が組織論である、とする誤り。あるいは、この両者(大衆運動づくりと前衛党組織づくり)の場所的現在における交互関係を、直接に時間的・歴史的な関係に横すべりさせ、現在的に展開される個別的な大衆運動から、人間の普遍的解放が実現される将来的な革命闘争への連続的な発展を想定し、しかもプロレタリアートの普遍的階級形成への過渡的段階における特殊的階級形成が前衛党であるとするような考え方」
「(d)もっばら『戦略の適用』というベクトルから、諸組織形態におけるイデオロギー闘争の内容を説明したり、またフラクションにかんする諸問題の理論化を試みようとしたりする傾向」(以上『日本の反スターリン主義運動 2』100~101貢、以下頁数のみ記す)(。・ω・)ノ゙
 「4、ベトナム戦争反対闘争の推進と内部理論闘争の発展(1965年2月~8月)」 
 この時期に革マル派は、次のような問題をめぐって「理論的深化」をなしとげたという。

「(1)反戦闘争の場所的実現の論理、あるいは『のりこえの立場』にかんする問題」

 これは、他党派の政治的、イデオロギー的対応にもとづいて展開される運動をのりこえていくという形で、つまり「場所的、実践的立場において」革マル派の大衆闘争と方針は提起されねばならないという「実践的立場」が「確立」される。
これは「既成の種々の運動を左翼的あるいは革命的にのりこえつつ大衆闘争を展開するという、この具体化された実践的立場」「のりこえの立場」「闘争論的立場」と規定される。

「(2)情勢分析にかかわる問題」

 これをめぐっては、次のようなものが「核心的に」獲得されたという。政治経済構造の経済学的分析と相対的に区別されるべき情勢分析とは、階級的実体関係そのものを、それを規定しているイデオロギーや方針を媒介として分析すること(革命論の適用)。情勢分析は階級実体としてその動向にかかわるものだから、階級実体とその動向を規定しているイデオロギーそのものを分析したり、批判したりするものではないこと。 「革命的な左翼」や「反代々木行動左翼」が構成する「戦線」や大衆闘争そのものの動態的分析は、運動論的情勢分析である。 

「(3)戦術提起にかんする問題」

  大衆追随主義的な方針提起主義の批判、克服。

「(4)戦術内容の理論的展開にかんする問題」 
 戦術の内容的展開が原則主義や「原則」対置主義になったり、また「存在論主義的」なものになる問題。

 「(5)ベトナム革命論にかかわる問題」

  ベトナム戦争反対の闘争論的解明が「革命論」一般に横すべりさせられる傾向。これは、「のりこえの論理」の体得にもとづく大衆闘争論の追求によって克服されねばならないという。 
 「C」 労働運動をめぐって 
 革マル派の組織戦術の大衆運動の場面への貫徹にかんする主体的構造の運動=組織論的アプロ―チと、既成の労働運動内部においてそれを左翼的に展開し、フラクションや革マルの強化を行なうという闘争論的アプローチが未分化であり、また、「社共両党の歪曲から解放された典型的な労働運動」または「反帝・反スターリニズムの立場における労働運動」なるものをあらかじめ想定し、これを基礎として現存する労働運動を直接的にのりこえる「革命的労働運動の直接的創造から権力打倒の革命的闘争」へを論ずるような「労働運動論」の発生があったという。 (。・ω・)ノ゙
 「5、日韓闘争の敗北と内部闘争の深化(1965年9月~66年7月)」 
 日韓条約をめぐる分析については、次のようなことが問題になったという。日共の従属圏規定は、「締結された安保条約を基礎として、アメリカ帝国主義国家権力が日本国家の権力発動やその政治経済的諸政策の実施を規制するという構造を抹殺し、むしろ両権力の間でむすばれた『条約』(国際的な法的とりきめ)そのものを実体化するという誤謬の産物」であるという。また、代々木や、社青同や、ブクロ(中核派)の把握は、軍事力学的であるという。革マル派のこれらの批判の仕方は、彼らの全く階級性を欠落させた小ブル的分析の本質を暴露している(これは後でくわしくみる)。

 また、66年春闘および学生運動の中で、「のりこえの立場の空語化」や「フラクションとしての労働運動という左翼的偏向」を克服するために、「のりこえの論理そのものの追求」がなされたという。「基本的には、社共両党によって指導されている今日の種々の大衆運動をのりこえる(ただし、現在の労働戦線においては、その内部におけるわれわれの力量からいって、既成の労働運動の左翼的のりこえとなる)という実践的立場(=「のりこえの立場」)において、この運動をささえ規定している戦術やイデオロギーを批判しつつわれわれの闘争=組織戦術を提起し(=<理論上ののりこえ>)かつこれを物質化すること、またこの闘いは大衆運動・労働運動の場面への、そして既成の諸党派にたいする、われわれの組織戦術の直接的および媒介的なたえざる貫徹によって裏からささえられている(=<組織上ののりこえ>)場合にのみ実現される(=<運動上ののりこえ>)のだ、という大衆闘争のわれわれによる主体的組織化の論理が、すでに追求されてきた運動=組織論的解明との統一において明らかにされた」―「三つののりこえ」(26頁)(。・ω・)ノ゙
 「6、中国『文化革命』と代々木共産党の路線転換のもとでの反スターリニズムのための闘い(1966年8月~67年3月)」
 中国の文化革命をめぐっておきた日本左翼運動における混乱において、「唯一(→)これに対処しえた」と、例によって無内容な自己満足的な総括にひたりながら、革マル派は「ハンガリア革命を契機として創造された」日本における反スタ二ーリニズム運動の独自性の「主体的反省」、またハンガリア革命がソヴィエトを結成して闘いつつもなぜ再びスターリニスト官僚体制の中に没しさったかの根拠の解明をめぐって「内部理論闘争」が組織されたという。また、マル学同第8回大会(1967年春)において、同盟建設をめぐって「討論が深められた」という。(。・ω・)ノ゙
 「7、高揚した沖縄・反戦闘争と党派闘争の新たな段階(1967年~68年5月)」 
 70年安保決戦にむかっていく闘いの高揚の中で、革マル派は、またしても闘争の「ケチつけ」と、自分でケチつけをやっておいたことを後でおずおずと真似するということしかできなかった。この間、王子闘争、沖縄闘争、羽田闘争が闘われ、反戦青年委運動が高揚していく。反戦青年委については、彼らは結局、組織的位置を与えることができず―地区の位置が不明確であるため―この面で立ちおくれていく。その中で、何が彼らにとって問題となり、また彼らの内部で「発展」として確認されていったのか。それは次のようになっている。 
 「(1)当面の具体的な大衆闘争についての戦術スローガンと、実現されるべき革命にかんする戦略スローガンあるいは戦略的課嶺を実現するための過渡的(要求)綱領との関係にかんする問題」。

 この中では、次のようなことがいわれている。大衆闘争の中には、当面の大衆闘争の特殊性にもとづいて、当面の具体的な戦術スローガンはかりではなく、また前衛党がかかげる過渡的な要求の一部(たとえば、安保条約破棄、サンフランシスコ条約第3条破棄というような)が同時にかかげられねばならないという。後でもう一度くわしくふれるが、この問題は、革マル派の「大衆性と革命性の区別」にかかわるものである。つまり、大衆運動はその中に革命性をいかにはらむのか、またはらまないのかということであるが、ここでは「大衆闘争の特殊性」ということでごまかされている。
 「(2)沖縄における『祖国復帰』運動ののりこえと、本土における社共の『沖縄返還要求』運動ののりこえとの関係にかんする問題」
 「(3)沖縄や本土の軍事基地をめぐる内外情勢の分析にかんする問題」 

 ここでは、沖縄闘争における「民族主義的偏向」と、その裏がえしの「反日帝闘争」への批判が行なわれたという。また、これと関連して「施政権のプロレタリア的実現」とか「本土復帰のプロレタリア的実現」とかいう「方針上の誤り」も「克服された」という。革マル派は、この中で「剥奪されている権利をうばいかえす闘いを、また自治権を拡大し強化するための諸闘争を、反戦・軍事基地拡張反対=撤去のための闘いと結合させつつ『民政府制度廃止、琉球政府打倒』の闘いに集約するだけでなく、さらにすすんでこの闘いを世界革命の一環としての日本プロレタリア革命を実現するための闘いにまで連続的に高め、プロレタリア的自治=ソビエト権力をうち立てる、という戦略的展望のもとに、沖縄闘争を革命的に推進すべきことを明らかにした」(138貢)という。もちろんここでも、「ソビエト権力」樹立への闘いが、現在的に何であるかが全く明らかになっていないのが革マル派の特色であるが、この点については後で全面的に批判する。
 「(4)運動=組織づくりにかんする間題」 

 67年ごろから「全学連フラクションとしての学生運動」とでもいうべき傾向を、運動=組織論的に「反省」しつつ「克服」する内部理論闘争がおし進められたという。また、
(イ)革マル派の革命論(戦略および組織論)の現実的適用にもとづく具体的な闘争=組織戦術の提起
(ロ)この闘争=組織戦術を物質化するための闘い
(ハ)革マル派の組織戦術(一般)の大衆運動の場面への貫徹の問題等が問題になったという。
 「(5)地区の反戦青年委員会―その運営委員会―地区の労働者・学生細胞代表者会議・・・地区委員会・・・同盟細胞―地区反戦にかんする同盟指導部。これらにかんする組織論上の諸問題」 
 (2) 革マル派の反プロレタリア的宗派<展開> 
 われわれは、今まで、革マル派自身が語る「革マル派の発展」の歴史を、『日本の反スターリン主義運動2』をとおして概略的にみてきた。今、われわれがみてきたことは、より具体的にはどういう形であったのか、また、より本質的には何であったのかを整理していく必要があるだろう。それを、「のりこえの立場」が確立されていく日韓闘争の前後と、「のりこえ―高め―めざす」という「立場」が確立されていく安保決戦前後を軸としてみていくことにする。但し革マル派は、本質的には反戦青年委員会運動をくぐっていないので、労働者の政治闘争は民同の尻にくっついた形のものでしかなかった。したがって、革マル派の政治闘争をめぐる諸論争は、主に学生運動のそれを軸としている。したがって、労働運動については、独自にそれとして批判することにしょう。
 (ⅰ)革共同全国委の分裂から日韓・早大闘争まで

 革マル派と中核派の分裂以降の革マル派は、七転八倒しながら路線形成を行なう。ブントからはいった「大衆運動主義者」が大部分中核派に流れてしまったので、運動上は全く孤立していく。「運動作りと組織作りのラセン的円環構造を明らかにし、その実体論的解明(運動=組織論)をめざしていた分派闘争の段階(62~63年)、 ・・・ベトナム反戦闘争をくぐりぬけることによって大衆運動の主体的組織化の論理=<のりこえの論理>(大衆闘争論)を明らかにしてきた段階(64~65年)」(『共産主義者』No28、141頁)と整理している。

 要するに、中核派と分裂してからの革マル派は、再びもとの「イデオロギー集団」化していく危機に立ってしまう。この時期の革マル派は、再建されていく都学連の闘争に「おしかけ」ては「統一行動」を哀願するが、大衆や全党派からいやがられては「怒って」暴力的敵対をくりかえすというパターンをくりかえしていく。この時期に、革マル派は極めて重大な危機に立っていく。そして、そのまま日韓・早大闘争へ向っていく。彼らが、後に整理する「のりこえの論理」は、この時期から、日韓・早大闘争における完全な破産の中で「確立」されていく。要するに、この時期に、彼らは「のっかり」「のっとる」対象としての大衆運動から切断されてしまい、かといって自分で大衆運動を形成していく力ももてず、現実と無縁な「イデオロギー集団」として純化してしまい、「おしかけ的統一行動」を強行しては、批判をうけて消耗するという構造をくりかえしていく。
 (ⅱ) 日韓・早大闘争における破産 
 (a) 日韓・早大闘争における破産と内部抗争 

 こういう形で、極めて危機的状況のまま、彼らは日韓・早大闘争を迎えていく。60年安保闘争の後、沈滞していた大衆運動は、大管法闘争、原潜闘争から高揚をはじめ、日韓闘争の中で再び大きたうねりをはじめる。日本資本主義は、合理化を強行しつつ、帝国主義的海外進出の突放口を日韓会談によって切りひらかんとする。さらには、帝国主義的自立復活と共に、アジア反革命階級同盟の盟主への道を驀進しはじめる。労働運動も、工場における大合理化に抵抗する青年労働者が、政治的にも左翼化し、総評が物理力として作った反戦青年委は、青年労働者の突出の場となっていく。
こうして日韓闘争は、戦闘的学生運動と青年労働者の力により大きく盛り上がっていく。

 革マル派はこの時期に、以前と全く同じスタイルで「消耗な闘争」をくりかえす。彼ら自身がこの時期の総括でのべているように、日韓会談の分析に失敗し、「のりこえの立場」の空語化の中で組織が大混乱におち込んでいく。これに決定打を与えたのが早大闘争であった。
合理化に対応して進められた教育の帝国主義的再編に対する闘争が、早大闘争として爆発する。これは、日本学生運動が、教育をめぐる学生の社会的隷属に対して、はじめて闘った画期的な闘争であった。革マル派は、この闘争においても教育の帝国主義的再編の中味が全くつかめず、早大における当局との攻防戦においても、われわれに完全にヘゲモニーを奪われ、闘争のケチつけ以外一切何もできず、消耗しきっていく。合理化についても同様であるが、教育については全く社会科学的、マルクス主義的把握ができず、そもそも何に対決しているのかさっばりわからないということになる。

 あらゆる闘争についていえるが、革マル派は現実の大衆が決起して階級化、革命化した時には、茫然としてしまう。それは、彼らの理論が現実の解明になっていず、小ブル的な「自我」の世界のものでしかないからである。これは後に全面的に明らかになっていく。


  日韓・早大闘争をめぐって、革マル派は、中核派との分裂によってもった問題点が全面的に暴露されてしまい、深刻な内部抗争にはいっていく。この中で革マル派の全学連を支えていた早大の指導部(山元、蓮見等)が、責任をとらされてパージされていく。革マル派にとってはこの内部抗争とその結果定着させられていく路線が、その後を大きく規定していくことになる。この内部抗争は組織分裂という形をとらなかったが、内容的には中核派との分裂以降はらんでいた問題の一挙の顕在化と、その革マル的のりきりとして、大きな位置をもっていた。この時の論争の中味は、その後の革マル派の論争、ジグザグの骨格をなしているので、少しくわしくみてみよう。 
 (b) 革マル派の日韓闘争破産の総括 

 革マル派全学連の機関誌『学生戦線』No3にのせられた「日韓闘争の総括を深めるために」がその時の革マル派の混乱と論争をもっともよく示している。彼らは自分たちの闘争の限界を次の三点にまとめている。

 第一は、情勢分析において、日韓条約について「資本輸出」ということに一面化し、さらにこれを克服する過程で「軍事同盟」を接木するという一面化。および反対運動の現状について他党派の戦術批判をなすことだと思い込んだ問題点。

 第二に、①日韓条約の暴露についての「本質暴露主義」
②社共への戦術批判におけるレッテルはり的批判―「反米民族主義」「議会主義し等々。また「三派」に対しては、礼共批判がないという断罪に終り、「社共、三派をのりこえる」ことの空語化、および「社共批判の自立化」。③これらのことから闘争の高揚段階で「闘争方針がなく批判ばかりする」という反発を大衆からうけ、これに対して単純に実力闘争を対置した。 

 第三に、①反戦青年委や社共共闘への介入において「社共を批判するか否か」と単純化し、また「三派」へのかかわりを「投入か、革命的介入か」と二者択一的ふりわけを行なった。
②全学連統一行動において、「闘争目標の一致による統一行動」という原則を対置するにとどまり、全学連の組織強化になりえなかった
③全学連フラクの強化の闘いが、戦術対策組織に化したり、その裏がえしの学習会主義におち込んだりした。(以上『学生戦線』No3、97頁) 
 <情勢をめぐる問題>

 このように問題をあげた上で、さらに彼らは問題を次のように展開する。日韓条約を日帝の資本進出としてのみつかんでしまったことは誤りであり、その誤りを『克服』する方法」もまた誤っていた。誤りの「克服」の方法は「日帝の韓国への政治的進出」という形でなされたが、帝国主義の政治的進出とは、進出をうける国の独立した国家権力の破壊を通して、政治的従属化を産み出すことである。つまり、植民地国家としての包摂である。ところが日韓条約はそうではない。むしろ、韓国ボナパルティズム政権は、国内の支配体制の経済的基礎を作るために、日帝の国家権力と相互協力関係をうち立てんとしたのだ。また、軍事的進出ということも同様につかみとらねばならない(軍事的支配として)。しかし、日韓条約は共同防衛体制である。こうして、「資本進出」からのみみる「基底体制還元主義」への対決が、ただ、「政治、軍事面」をブラス・アルファーするということにおちいっている。これは、いかにして克服されるべきかというと、次のようにいわれる。

 「政治的側面、軍事的側面への分析は・・・物質的生産関係に根底から規定されながらも、これから相対的に自立して形成されるイデオロギーとその物質化としての政治制度、すなわち上部構造の分析なのである。・・・したがって、政治経済構造の分析において適用されるべき理論が経済学であるのと区別されて、われわれの革命論がそこに適用されるのでなければならない」。

 これは「革マル主義」が、マルクス主義とは全く無縁であることをある面でもっともよく示している。革マル派は、下部構造の分析(マルクス経済学的な分析)を情勢分析の原点とすることに対して「基底体制還元主義」というレッテルはりを行なって批判するが、実は、彼らはマルクスのいう「存在が意識を規定する」という意味がわからないのである。彼らにとって「物質的生産関係」と政治制度、上部構造を結ぶ方法が存在しない。こうして、「上部構造は、下部構造から相対的に独立している」だの「一対一的対応はない」だのといいわけをするが、それではどういう関係があるのかという点については全く語れない。そして、下部構造の上にどこからやってくるかわからないイデオロギーがベタンとくっつく。しかも、中味は社共と少しもかわらないのである。 

 
それが今みた日韓条約の分析に示されている。日・韓両国の関係が植民地支配か否かという点からしかみえないので、「相互的な条約」がなぜ結ばれるのかが全くわからない。プロレタリア革命に対抗する「反革命階級同盟」という「政治」が全くわからない。その意味では、社共と全く同じなのである。それでは、革マル派はこの上部構造と下部構造の関係をいかにうち立てるのかというと、「革命論」が適用されるのだという。それでは一体、その「革命論」はどこからきたのか→ そこにおける下部構造と上部構造の関係は→ 彼らは答えられない。なぜならば、彼らには「物質」と「イデオロギー」しかないのである。物質とは単なる「物」であり、イデオロギーとはまさに「観念」なのだ。要するに、「活動する人間」がいないのである。「存在が意識を規定する」というのは、<いかなる生産関係の中でいかなる階級に属するのかということが―いかなる生活様式、行動様式の下に生きているのか―その人間の意識を決める>ということなのだ。革マル派には現実の生きて活動する階級がみえないので―あるのは単なる「物質」と「イデオロギー」―今みたような矛盾におち込む(これは後に詳述)。 

 情勢分析をめぐる第二の問題は「他党派の戦術批判をもって情勢分析にかえる誤りの克服をめぐって」として展開される。このことをめぐる中心的問題は「情勢分析の方針化」であるという。これは、ベトナム反戦闘争を進めている諸潮流の戦術の批判をもって反対運動の情勢分析だと考え、この「情勢分析」を方針として打ち出すという考えとなっている点についての誤り。 この「情勢分析内容の方針化」が、なぜ誤りであるかといえば、「情勢分析とは、われわれの変革的実践が展開される場の対象的分析であり、その限りでは変革実践を行なうべきわれわれをもふくめた客観的現実の必然性への認識にすぎないものであり、われわれがこの現実を変革する実践の指針であるところの戦術とは明確に区別されねばならないのである」。 

 また「他党派の戦術批判とはイデオロギー批判のことであり、それは他党派の運動をのりこえたわれわれの運動の創造をなすために不可分の媒介として、戦術上、イデオロギー上でのりこえを実現するもの(主体の変革的実践の指標を表現するもの)すなわち、われわれの戦術内容にふくまれているのである」。 

 こうなってしまう理由は、「運動の現状」と「運動を支えている戦術」の混同を行なっているからにほかならないという。
この背後には、「戦術課題における戦略戦術論的分析」という考え方があり、それが誤りの原因であるという。この考え方の発生は「そもそも分析対象である既成反対運動をいかにのりこえて闘うかというのりこえの立場=闘争論的立場が喪失させられてしまっていることと関連している。いいかえれば、そこでは既成反対闘争をわれわれの変革対象としてとらえかえすのではなく、それとくつわをならべて戦術的有効性を競い合っていこうとする立場、いわゆる『有効性論議』の立場へおちいることと関連して生み出されてきたのが、この考えであった」(103頁)。 

 その後41中央委議案書で、「一応情勢分析と方針との区別を考えていながら、それは、前者は認識にかかわる問題、後者は実践にかかわる問題というようにとらえられ、かつ前者の展開に変革的立場をつっこみ前面化するならば後者に転化する」と考える「情勢分析に変革のモメントをいれて方針としてうち出す」考え方が生まれた。しかし、この考え方は、情勢分析も方針も認識活動としては何を分析したものなのか(階級関係と階級闘争の現実か、階級闘争の主体的推進のためのイデオロギーなのか)という点で区別できていない点で誤りとされる。それでは、どういう方針が正しいのかというと次のように説明される。

 「情勢分析は、(α)ソコ存在する階級関係の革命論的分析と、(β)かかる階級関係を担う実体が展開する階級闘争の運動論約分析、この二つから構成される。われわれが、国際的、国内的階級関係の分析に革命論を適用してその客観的法則を解明するにとどまらず、このようにつくりだされている階級関係に対する支配階級、被支配階級の動き=運動の構造を、その運動を組織している諸潮流の戦術を媒介して解明し、そうすることによって既成の反対運動をのりこえていくというわれわれの闘争戦術を打ちだしていくのである」。 

 「われわれの変革的実践、のりこえの主体的構造は、単なる『変革的構え』として単純化されるべきではなく、
(a)われわれの運動の展開において既成諸党派の運動をのりこえた運動を行なうこと 
(b)そのためには方針上で既成諸党派の方針をのりこえた方針、イデオロギーを提起しなければならない
(c)これらをなしとげることを実体論的にいうならば(b)の方針のもとに(a)を行なう担い手を組織的に形成すること、つまり全学連フラクションの組織強化がなされなければならないのである」(104頁)。 

 革マルという宗派は、マルクス主義的にはもっとも没理論的な宗派なのであるが、自分では極めて「理論的」だと思っている。実は、理論的というよりも、革マル宗派思想(イデオロギー)の枠内に現実をとじこめると「安心」できるので必死で出てきた様々な問題を革マルイデオロギーの中にとじ込めようとする。こうして、観念を操作して自分を納得させようとする。したがって、彼らが何者かということを理解するには、革マルイデオロギ一によっていろいろいわれていることが、プロレタリア運動の現実にとらえかえせば一体どういうことなのか、という一種の翻訳が必要である。

 ここで彼らが四苦八苦しているのは、次のことである。つまり、前にみた情勢分析と方針の関係をより方針の問題にひきよせているのだ。革マルというセクトは、情勢分析と方針と他党派批判がゴチャゴチャになっている。これは次のような表現にもっともよくあらわれている。

 「『情勢分析内容の方針化』といわれる闘争論に関する誤った考えが、いまだ克服されていないことにある。すなわちそれは、ベトナム戦争反対闘争の推進上において、ベトナム反戦闘争を進めている諸潮流の戦術を批判するということをもって反対運動の情勢の分析であると考え、かつこの『情勢分析内容』なるものを方針としてうち出すという考えが生み出されたことが、この日韓闘争の中にもち込まれているのである」(102頁)。

 日韓会談反対闘争の中で、革マル派がおち込んだのは―実は、それは、後でみるように革マル派の本質なのだが―他党派の戦術批判が、情勢分析であり、しかもその情勢分析内容がそのまま方針であるというもっとも革マル的混乱である。 
 これに対して、彼らがこの「総括」の中で整理したのは次のようになっている。情勢分析は「階級関係の革命論的分析」と「階級関係をになう実体が展開する階級闘争の運動論的分析」からなる。前者の問題については、すでに批判しているが、一応それを前提正して考えれば、国際的、国内的な階級関係の分析およびこれに対する支配階級、被支配階級の動き=運動の構造の解明が情勢分析であり、これを前提にして「戦術上、イデオロギー上ののりこえ」=「方針」が立てられるというのである。ここにおいて、革マル派が苦しんでいるものは、この小論でみる現在の革マルの根本矛盾にかかわるものなのである。現在の革マルの主流派は、日韓闘争の主に学生運動(早大)の指導にあたっていた部分の情勢分析と方針の混同を批判して今みたように整理し、「のりこえの立場」を革マル的に深化しようとした。だが、日韓闘争の中で批判された革マル派の指導部が苦しんだのはこんなことではない。

 
<革マルイデオロギーでは、情勢分析も方針も出てきはしない。出てくるのは他党派の批判ばかりだ>ということをめぐっている。これに対して、今みたようなことは、外見上は整理にみえても、本質的には矛盾の拡大なのである。なぜならば、今みたような整理にしたがってみた時に、それでは「情勢分析」と「方針」をつなぐものは何なのかという疑問が当然出てくる。一体、この二つは関係があるのか、ないのか→ これは別の面からいうならば、「のりこえる」というが、一体その中味は何なのか、その中味は情勢といかなる関係にあるのかがわからなくなるということなのだ。実は、先程みてきたように、「革命論」を適用した情勢分析なるものが、すでに「物」と「イデオロギー」の二元論的分析をふくんでいる。この問題は、情勢分析と方針の関係をめぐって拡大再生産される。 

 革マルの方針の軸になっている「のりこえの立場」なるものは、中味は空虚なものであり、後に定式化されるように、要するに革マル派以外の運動・組織の破壊攻撃のことである。
この「のりこえ」なるものが階級社会の矛盾と本質的に無縁なところで立てられている、いや、より正確にいえばプロレタリア階級の矛盾と闘争と無線な小ブルイデオロギーの世界で立てられているために、階級社会の現実(ブロレタリアの)分析とは完全に切断された形で―この面は、単なる物質的条件としてのみある―「のりこえ」が主張される。

 マルクス主義的に考えれば、この「のりこえ」の主体が階級矛盾の中に位置づけられ、したがって当然その主体がかかえている矛盾への闘争として「のりこえ」が立てられるとすれば、「いかなる中味をもって、何がのりこえられるのか」が問題になる。つまり、中味と無関係に「のりこえしだけが空虚に自立することなどありえない。ところが革マル的主体(革マル派の一人一人)は、自分のエネルギーそれ自体がいかなる階級矛盾の中で、いかなる階級、階層のものとして生まれるのかというマルクス主義の出発点的な問題から目をそらす。
こうすることによって、小市民インテリの「出世主義」「小ブル的自我による他人への征服欲」が、隠蔽され、それが「のりこえの立場」として理論化される。

 
こうして「のりこえの立場」の本質は、小市民の社会的不安を背景にした「精神労働者の自覚運動」=「プロレタリア運動への破壊、征服運動」なのである(もちろん、このことは彼らの内部からも歪曲された形で問題になってくる。つまり、中味の形骸化への批判である。これは、後でみるように二つの流れとして出てくる。一つは「小ブル的自我―小ブル的主体性」へ回帰することによって中味を得ようとするもの―これは「主体形成主義」として批判される。もう一つは、「沖縄のプロレタリア的解放」「ベトナム戦争のプロレタリア的解決」というような形で階級性を問題にしようとする傾向である。(これについては後述)。

 こうして、日韓闘争の総括の中で革マル派が行なったこの面での整理はまさに技術的なものであり、日韓闘争での革マル派の本質的破産は隠蔽され、むしろ再生産されていく。 (続く)

 はじめに
 06年6月26日、6・24―2・11反革命の指令者であり、革マル白色テロの「最高司令官」であった黒田が、埼玉県春日部市の庄和中央病院でわれわれの革命的テロルの影にうち震えながら権力の庇護のもとで死んだ。われわれは、自らの手で黒田を処刑できなかった痛恨をかみしめている。同時に、黒田が自らの後継者を革マル組織そのものとし、テロリストどもの黒田に対する反革命通信紙面での宗教的な永遠の帰依告白を見るまでもなく、われわれの革マルに対する怒りと憎悪は黒田をひき継ぐと称する政軍中枢をはじめ革マルの最後の一兵残らず打倒するまでやむことはない。われわれは、反革命革マル解体・絶滅を必ずやなしとげる。07年われわれは、2・11報復30ヵ年決戦に総決起する。2・11反革命の正面突破は、今日においても解放派にとって脱落転向反革命木元グループ根絶戦と並ぶ絶対的な基軸である。2・11反革命は革命党指導部暗殺をもっての革命党破壊―共産主義運動の撲滅攻撃であり、これに対する報復―正面突破こそが歴史的な共産主義運動における敗北の突破の血の教訓である。
日本階級闘争におけるこの反革命との死闘にたじろぎ、ここからずり落ちた者は国家権力・革マル(・ファシスト)に投降するほかなく、屈服して融和勢力として延命の赦しを乞うか、さもなければ木元グループのように第2革マルに転落するほかないのである。

 われわれは、70年代以降、対革マル死闘戦を基軸的に闘うなかで綱領的組織的前進を切りひらいてきた。
この地平こそが、解放派を帝国主義の戦争とファシズムへの突撃をうち破る非合法革命党として、その領導のもとで蜂起―革命戦争に勝利する革命軍建設を推進し、真にプロレタリア革命運動の発展を闘いとる党として成長させてきた。われわれは、2・11報復戦の最先頭にたち最期の一瞬まで牽引しぬいた同志狭間の格闘を胸に刻みつつ、この地平を堅持・発展させ、対革マル戦の新たな転換点を画すべく闘う。黒田の死は革マルの破産を鮮明にし、組織的瓦解を促進させている。革マル絶滅の絶好機が到来している。われわれの歴史的な地平をあらためて確認し、2・11報復30ヵ年決戦に勝利しよう。
 黒田―革マルの反革命性 
 革マルはその出発点から、党首黒田が松崎から紹介された(黒田と共謀して日共の情報を権力に売った)「大川」をスパイとして手引きしたように、スターリン主義=日共に対抗するためならと国家権力公安とも結託することを当然としてきた根っからの反革命集団である。黒田=革マルの綱領的核心である「反帝・反スタ」戦略は、「反帝」はプロレタリアートの普遍的課題ではないと主張していることに明らかなように、結局、「反帝イズム」の否定以上ではなく、事実上の反共主義である。黒田イデオロギーでは、スターリン主義以上の官僚主義的組織建設を「場所的現在における革命運動」とし、これが「永遠の今」としての意義を持つとされ、この宗教的反革命組織づくりと維持が唯一無二の目的となるのである。革マルの路線としては、階級闘争を現実の矛盾との闘いとはかかわりなく、大衆闘争―革命運動―革命闘争と主観的に分離させ、現実にある既成の運動はすべて大衆闘争であり、それは直接権力を問題にする革命闘争に発展することはなく、発展させてはならず、革マル組織づくりとしての革命運動に収れんさせることが「前衛党」としての任務だとする。

 その「革命運動」たるや、「黒田教」とその教化運動――教祖黒田を中心として思想的のみならず「人間的同一性」を獲得した組織の同心円的拡大――であり、既成の運動に寄生し、「のりこえの論理」と称してイデオロギー批判と「黒田教」の注入をもってゆ着することで「左翼」を仮象して生き延びようとするものでしかない。
だから、階級闘争の革命的発展を心底憎悪し、「のりこえ=組織現実論」として「他党派解体」が必然化する。革命闘争をいかに破壊するかという点から「理論」がたてられ、革命党破壊のための組織戦術――スパイ戦術など――が導かれ、核心的には白色テロへの突撃となるのである。解放派は、その出発点から黒田―革マル綱領体系の小ブル社会主義、反スタ・スターリン主義との非和解的対立をもって登場した。

 革マルは、日本階級闘争が70年安保決戦へのぼりつめていくなかで反戦・全共闘運動の爆発として荒々しい闘いをあらわし、政府・権力問題に直面し飛躍を闘いとりはじめようとしたとき、権力とは闘わず、権力と闘う革命派・戦闘派を襲撃する武装反革命として析出されたのである。したがって今日の対革マル死闘戦は、解放派が革マルの反革命としての純化・転化の対極にたち革命的飛躍をめざす限り不可避の闘いであり、革命期の成熟のなかでの革命党の確立―プロレタリア人民の階級的利害の貫徹にとって死活的闘いである。そして、革命党と反革命党の非和解性が徹底したものであるがゆえに、階級決戦を見すえつつそれに先行して徹底的、決戦的に苛烈に闘われる。
 69―70安保決戦と革マルの反革命敵対 
 すでに65年早稲田大闘争への敵対と早大解放派への武装襲撃、68年東京大闘争への敵対(―安田決戦からの逃亡)と東大教養での全国部隊どうしの苛烈な戦闘(この闘いで同志狭間、同志荻野はその闘いの最先頭で闘いぬいた)をもって、解放派は革マルとの死闘の端緒を切りひらいてきた。解放派は69―70決戦を不屈に闘いぬいたがゆえに、70年代初頭、革労協の真の革命党としての飛躍と、国家権力との全面的・根底的対決のための戦略的組織的格闘をくぐることになった。この過程で革マルは、「革命主義反対」―「小ブル雑派一掃」路線の全面展開にはいる。そのなかで解放派労働運動の前進に追いつめられ危機感を昂じさせた革マルは、72年大阪地青協集会で武装襲撃を画策し、われわれの反撃の過程で竹竿の一撃を受けた革マル学生メンバー木下が頓死した。これこそ戦後第2の革命期への突入のなかで、革マルの本質の全面化、反革命的純化と路線的破産を刻印するものとなり、革命党となろうとするわれわれにとって対革マル党派闘争の戦略的意義をつかみ取っていく契機となった。

 そしてその後の早大解放闘争と総評青年協をめぐる全面的攻防の端緒となっていく。
72年11月8日、革マルは、部落解放闘争を闘おうとした早大生川口君を虐殺した。解放派や闘う労働者・学生がベトナム戦争に送られようとするM48戦車搬出阻止のために相模原闘争で身体を張って闘っているその背後で、革マルは闘う早大生にテロ・リンチをふるっていたのだ。

 
これを契機に早大学生たちは、テロ・リンチによる数年にわたる革マルの学内支配と、それを学生の管理支配に利用してきた早大当局に対する闘いにたちあがった。革マルによって公然、隠然の死に追いやられたのは川口君1人ではなかったからであり、事態に対する革マルの居直り声明は早大生を憤激させずにはおかなかった。川口君虐殺が革マルにとって路線的必然であることを、早大生―闘う労働者・学生は見ぬいていたからである。革マルの居直りは、いわく"革マルの路線は虐殺と無縁であるが、外部の悪しき路線に汚染された下部活動家が誤りを犯した"と。革マル内部の不満や動揺と弾劾の嵐をまえに革マル官僚どもは、あらためて「学生指導部の未熟性」「組織的責任」を弁明せざるをえなかった。

 しかし、それ自身マヌーバーでしかないこともまた明らかだった。
02年5月に革マルが出版した『内ゲバに見る警備公安警察の犯罪』(以降引用する場合は『内ゲバ本』)下巻において、黒田は編者の玉川との対談に臨み、この時のことに触れている。すなわち、路線的破産を直感してうなだれる学生官僚どもを前にして「血をかぶった共産主義者として頑張れ」と、白色テロに確信を持てとアジったことを得意げに語っている。黒田は、「司令官」としてテロ・リンチに確信を持てと檄を飛ばしていたのだ。総評青年協運動を軸とした階級的労学共闘の推進と、学生運動の革命的飛躍をめぐりながら革マルと対決していた解放派は、早大解放闘争に決起する早大生とともに戦いぬいた。早大革マルの破産は、単に学生運動の一拠点の問題にとどまらなかった。早大は、70年代初頭に動労松崎が本部書記として林和美をひきぬいたように、黒田イデオロギーを体得した官僚を労働戦線に配置して白色支配を貫徹するための拠点であり、「他党派解体」のためのテロ部隊の再生産と訓練、出撃拠点という決定的な位置を占めていた。だからこそ早大解放闘争のただなかで、73年5―6月の全学連部隊による3度にわたるテロ基幹部隊の粉砕は、革マルを決定的に追いつめていったのである。

 
なお中核派は、72年暮れに年明けの早大登場を喧伝し、73年1月、数百の部隊を揃えて竹竿を担いで緊張感もなく早大正門前に「進撃」した。「K=K連合」との対決を主張するものにあるまじきこのアリバイ的登場は、革マルの没落に危機感を燃やす早大当局と権力の庇護のもと鉄パイプで武装した革マルテロ部隊の突撃のまえにあえなく粉砕されてしまう。後日、取り戻しを策した展開も、高田馬場駅で模様見をしているところを革マルに襲撃されてしまう。以降中核派は、その「戦略的防御」に閉じこもり、革マル戦への本格的参戦は73年「神大夜襲」後の9月21日東外大戦闘を待たねばならなかった。

 
73年5―6月期の集団戦の3連勝は胸がすく闘いであった。早大生の歓呼の声を背景に2倍3倍する革マルと正面対峙し、退路を断つ背水の陣をもって完膚無きまでに粉砕した。5月30日、革マルは日ごろの尊大さに似合わず、早大生の怒りと弾劾にひき出されるようにわが部隊の前に現われ、戦闘に対する道義性も勝利への確信もなく、個々に己の保身だけをあからさまにしており、わが部隊の突撃のまえに一瞬にして壊走した。6月4日、初戦の完敗の総括として各々キャッチャーマスクやプロテクターを着用し、背丈以上もあるロングパイプで自分への鉄槌を避けるためだけに腰のはいらぬ突きをくり返す脆弱部隊を、われわれはまたもや一蹴した。つづいて6月30日の戦闘では、自らの部隊の脆弱さに業を煮やした官僚の思いつきで挟撃戦術を採用し、屋上からの硫酸ビン投てき部隊まで配置して攻撃してきた。しかし、早大学友はすべて解放派を支持しており、革マルの動きなど筒抜けであり、何より集中したわが部隊は分断された革マル部隊を容易に各個撃破してしまったのである。われわれは、この戦闘の過程で200を越えていた革マルテロ部隊を150を切るまでうち倒した。

 追いつめられた革マルは、夏休み期間中に闘う早大生への個別白色テロを集中するとともに、解放派に対する軍事的冒険を準備していくことになる。
73年9・14―15、米空母ミッドウェー横須賀母港化阻止闘争の準備のために神奈川大学に泊まりこんでいた40名のプロ統部隊に対して、全国根こそぎでかき集められた革マル200名が官許の夜襲をかけたのである。わが部隊はよく応戦したが、23時から6時間におよぶ激闘の末、数を頼む革マルに最終的には防衛線は突破され白色テロルを受けた。夜更けに飛び交う怒号と鉄パイプを打ちあう物音に驚いた近隣住民からの110番通報に対して、権力はパトカーをアリバイ的に出動させたのみで襲撃に加担し襲撃そのものを隠ぺいした。さらに、革マル自身、権力の弾圧を気にするそぶりさえなく、夜明けを待って血まみれの姿のまま徒歩で退却した。しかし、革マルの夢想とは裏腹に、この死闘戦への突入で露わになったのは革マルの党派闘争路線の破産とその末路であった。

 
わが部隊は、革マルの陰惨なテロ・リンチのさなかにも報復を決意して必死に戦いぬき、同志の虐殺を許さなかった。逆にわが反撃戦は、遊撃隊として徘徊していた金築・清水2名の革マル分子を捕捉し完全打倒した。このことが白色テロにはしゃいでいた革マルを大混乱に陥れる。内部での責任のなすり合いにはじまり、結局、2人は「非戦闘員」なるデマとともに権力に解放派弾圧を泣訴して「取り戻し」を策した。権力もまた、「殺人罪」攻撃という弾圧のエスカレートをもって応えた。革マルの延命策動が権力の革命党破壊攻撃と一体のものであることは明らかであった。われわれは、神大戦闘をとおして党派闘争の新たな段階がひらかれたことをつかみ取り、戦後第2の革命期にふさわしい党―潮流総体の飛躍をかちとり、党派闘争の鉄火をとおして建軍闘争を前進させることとしてたて、2重の敗北――戦闘敗北と獄中闘争敗北――の突破をかけて反革命弾圧の集中と対決しつつ全国学園と総評青年協を戦場に革マルを粉砕して革命的学生運動と階級的労働運動を頑強に推進していった。

 
なかでも同年10・10ミッドウエー闘争における6月につづく革マルの粉砕は、組合引き回しを策した動労革マルを巻きこむかたちでの危機を促進させた。今日解放派は、神大戦闘弾圧による16年の地下潜行とでっちあげ逮捕後の16年にわたる獄中闘争を完黙―非転向で闘いぬき勝利した同志北條をわが戦列に奪還した。この革命的合流は、権力・革マルの攻撃をはね返して神大戦闘以降のわが解放派が闘いとってきた地平を象徴するものであり、われわれはこれを力とした対革マル戦の新たな進撃を開始することを誇りを持って宣言する。さらに、神大戦闘の死闘をとおして暴露された革マル「党派闘争論」の破産、脆弱性は、9・21東外大戦闘をもってする中核派の「対革マル戦争」宣言をひき出し、革マルは否応なく「2正面」を強いられ、その瓦解を促進させながら白色テロ路線のいっそうの純化と「謀略論」のデマにふみこんでいくことになる。

 74年春、革マルは「党派闘争勝利宣言」なるものを苦しまぎれにうちだした。
中核派政治局員2名へのテロと「前進」発刊停止、核心的にはわが政治指導部への4・30殺人襲撃(未遂)にはしゃいだ黒田の願望にほかならなかったが、その幻想はたちどころにうち破られることになった。にもかかわらず、この「勝利宣言」以降、革マルは自らの敗勢を「謀略」と主張していくことになる。これには3つの意味があった。
1つは、神大戦闘に明らかな革マルの権力との一体性を権力を「弾劾」するふりをして覆い隠すことであり、
2つに、自らの破産と瓦解的危機を外部要因とすり替えるためである。
3つに、動労革マルを防衛するために党派闘争ではない、あくまでも権力から攻撃されているのだという欺まんのためであった。

 しかし、権力に敗北することは当然だとし、「解体」したはずの革命党への白色テロに全力をあげるデマは内部的にも混乱をひきおこし、くり返し手直しを必要とすることになる。
数ヵ月ごとの「謀略の高次化」論はまさに必然的だったのである。さらに、内部的危機はどうか。「司令官」黒田は、先にあげた『内ゲバ本』の中で73年から75年にかけて5回も住居を変えさせられたと嘆き、あわや打倒されるところであったと危機感を吐露している。すなわち、脆弱分子黒田は、破産と瓦解の淵にある革マル組織とともにより深く権力の懐に抱かれるべく権力への恭順を路線化したのだ。われわれは、4・30襲撃を自らの組織的飛躍の途上性として見すえ、その一挙的確立にむけ決起し、労学全戦線における組織絶滅戦の死闘をひきうけるべく革マルへの攻勢へふみこんでいった。

 それは、第1波として、早大学館攻略戦闘を皮切りに、東大教養、國學院大、横浜国立大革マル、九州革マル官僚に対する連続した鉄槌がふり下ろされ、秋以降の第2波では、立教大、明治大、佐賀大潜入革マルをせん滅し、福岡教育大に突入し残存革マル粉砕、12月の上智大革マルせん滅として苛烈に闘われた。75年にはいると、3・1横国大新歓実に潜入しようとした2名=キャップ斉藤・安孫子をせん滅(安孫子は食堂テラスのガラス扉に自爆)、4・18和光大新歓集会に突撃、30名を粉砕し5名をせん滅した。そして、4・22エセ「全学連」本部「創造社」を攻略―占拠・爆砕戦闘へと登りつめる。また、3・24総評青年協では動労革マルをひき回してようやく革マル本隊が粉砕されるのを免れるまでに追いつめ、3・26には政治集会帰途の革マル5百名を一挙に粉砕・壊走させる戦果として実現された。

 これらの攻勢は、党―潮流総体の報復戦への集中と革命軍建設の前進においてかちとられた。
ここで特筆すべきは、「創造社」爆砕戦闘において革マル学生官僚どもは、わが部隊に抵抗する気概もなく、サイレンを鳴らし権力の来援を待ちながらうち震えていたことである。77年4・15においても、革命派からの攻撃に際しては車の中に閉じこもってサイレンを鳴らし権力を頼みにすることを路線化し、また81年にわれわれが暴露した久我スパイ問題で、九州革マルが公安スパイ久我に丸抱えされ「切迫の場合は警察に頼む」とキャップ仮屋薗が述べたように、自分たちの危急には信じてもいない「謀略論」ではなく、権力そのものにすがるという本質を表わしているのである。付け加えれば、転向反革命木元グループの芳永が、00年6・27九大戦闘でわが部隊の突撃に動転した末に「警察は何をしているんだ」と叫んだこと、反革命頭目山田のひとかけらの根拠も示せぬ「勝利宣言」もそうであるが、反革命どもの心情のなんと似たことか。
 75年6・24同志石井虐殺報復―革命的テロル戦闘の爆発
 決定的に追いつめられた革マルは75年6月24日、静岡県伊東市においてプロ統理論合宿を襲撃し、同志石井を虐殺した。テロ部隊は指導的同志の名を連呼しつつ指名白色テロを意図し、かつ一挙的大量虐殺をも企図したのである。革マルは、この白色テロに先立つ3月、中核派書記長本多をまさかりで頭部を一撃して殺したうえで「暴力行使を伴う党派闘争の停止」を宣言するというデマをふりまきつつこの凶行に突撃した。さらにその弁明たるや、解放派を「武装=反社会的集団」とするブルジョア社会の防備兵ぶりを公言するものであった。ここにおいて革マルの反革命としての純化・転化が決定的に刻印されたのだ。

 われわれは、歴史上はじめての革マルによる同志の虐殺を見すえ、石井同志の苦痛と無念さを自らのものとしてうけ止め、その報復戦に総決起していく。75年7月には福教大革マルせん滅として総攻勢の狼煙をあげ、ついに75年10・8、満を持した革命的テロルの巨弾を立正大秋本の頭上に炸裂させ完全打倒した。この闘いは、白色テロに赤色テロルをもって報復するという革命的原則を限りなく鮮明にした。同時に、戦後革命の敗北の総括から出発しながらも、ブルジョア民主主義のもとに武装解除された歴史から自由ではありえなかった日本階級闘争の主体の弱々しい残滓を脱ぎ捨てるべく端緒にたった偉大な戦闘であった。そして何より、階級闘争の前進に武装敵対する反革命徒党に対する実践的回答でもあった。さらに連続する革命的テロルによって、10・27東大教養部構内において東大梅田を完全打倒した。革マルが、中核派のアジト4ヵ所を襲撃し安堵を得ようとしたただなかでこの戦闘は炸裂し、革マルを動揺させていく。革マルは秋本打倒では解放派に対して「殺人鬼」なる悪罵をもってその恐怖を露わにしたが、梅田打倒では「実に手慣れたやり口」でやられたと敗北感を吐露するしかなく、それを唯一の「証拠」に謀略襲撃だとデマを叫びたてる。すなわち、解放派は「ひ弱」であらねばならず、梅田を打倒したのは「全員ががっちりした体格」=権力・ヤクザだった、と反撃もできずうち震えて梅田を見殺しにした長谷、真子らの言い訳と、根っからの小ブル的心性にもとづくおなじみの主張である。さらに、11・9わが革命的女性同志は、差別主義に浸りながら、赤色テロをふるうのは男だけだと野放図な反革命活動を展開している東京女子大革マルを、男の立ち入りが制限された構内奥深くで捕捉・せん滅するという戦果をかちとった。

 
75年、党派闘争の烈火のなかで切りひらかれた地平はそれにとどまらない。われわれは、革命情勢の接近のなかで、蜂起に連続する質をもった権力闘争の飛躍を条件に革命党の歴史的・革命的課題を果たすべく歴史的な天皇決戦に決起し、本格的軍事の論理に貫かれた権力闘争の端緒としてのゲリラ戦・パルチザン戦の連続した戦取を実現した。

 
党派闘争は、国家権力との直接的対抗としての権力闘争とは区別されるが、打倒し樹立すべき権力性格を規定するものである以上、権力闘争の媒介をなすものである。権力闘争と党派闘争の相互媒介的な飛躍・前進は解放派の戦略的基軸であり、階級闘争の革命化を憎悪する革マルの対極にうちたてられたものであるとともに、実践的にはその解体戦の前進ぬきには空語となるほかはない。今日のわれわれの〈両輪〉の闘いの頑強な推進は、これらの歴史的な格闘をふまえたものである。

 76年春期からの攻勢はより熾烈に闘われた。3・19総評青年協集会でまたぞろ動労をひき回しつつ解放派に敵対を試みた革マルに、動労内革マルの策動を許さず対決し、一挙に素手で粉砕していった。そして早大、沖縄と並ぶ革マルの精神的支柱ともいうべき動労革マルの破産を強制し、動揺する学生革マルに全国で10数波にわたるせん滅戦が叩きつけられた。九州「虚点」福教大、鹿児島大をはじめ、早大、大東文化大、上智大、茨城大、奈良女子大、東北福祉大――革マルの反革命活動すべてに報復戦の鉄槌がおよんだ。

 この闘いのまえに革マルは、当時戦略的闘争と位置づけた「政経闘争」の破産と革マル式「労学共闘」の惨状とも相まって、地方虚点での自治会展開の放棄・失陥を余儀なくされ、早大の危機的状況のために首都の学生革マルは団子展開を強いられテロ要員の再生産構造を断たれつつ、早大はもちろん、白色テロ部隊の策源でもあった日本大、上智大などからの脱落・逃亡を続発させていくことになった。

 
労働戦線でも同様である。たとえば全逓革マルは、民同別働隊として反日共をダシにして組織的延命を策したが、党派闘争の重圧のなかでその反革命性が大衆的に暴露され、民同に使い捨てにされ組織的にも破産し、民同の三部を闇討ち襲撃したが逆に組織内矛盾を昂進させ、ついには古参革マル岡部の轢殺未遂をひきおこすまでに内部対立を尖鋭化させていった。これは、77年の九州全逓吉見へのリンチ事件に連なり、全逓革マルの破局へと進んでいったのである。

 
こうしたなかで、組織的タガはめに持ち出されたのが「ハンガリア革命20周年」運動である。現実の矛盾と闘っているという体裁すら投げ捨て白色テロに一切を賭けながら、その敗勢と労働者人民の弾劾のまえになぜ「闘っている」のかすらわからず混乱し、動揺する下部活動家を「反スタ主体性」に問題があると断罪し、人間変革=革マルとしての「人間的同一性の獲得」こそが革命運動なのだから黒田=革マルに忠誠を尽くせというこの運動は、歯止めなき脱落・逃亡をむろん解決できず、むしろ内部粛清運動の一形態として革マル内部でひき継がれていった。革マルは結局、延命のテコとしての白色テロへのいっそうののめりこみと、瓦解するテロ部隊に対する粛清・締めつけを強化していくことになる。76年6・27、革マルは解放派の「分裂幻想」のもと、労働者同志たちの「動揺」を夢見てわが自治体・教育労働者に対する白色襲撃を凶行した。われわれは、労働戦線における対決を宣言し、ただちに報復戦にたち自治労、教組革マルに対する断固たるせん滅戦を闘いとった。
 77年2・11同志中原虐殺報復と4・15藤原ら4名せん滅・報復戦の爆発
 77年2月11日、革マルは、卑劣な手段をもって茨城県取手駅前においてプロレタリア革命運動の偉大な指導者であり、革命家として共産主義運動の前進のために闘ってきた同志中原を虐殺した。われわれは、この反革命テロが反革命党組織の破局的危機にのたうつ革マルの凶暴かつ絶望的な軍事的冒険であることを見すえ、6・24につづく凶行の意味を血涙を飲み下しつつうけ止め、あらゆる制約をとり払った報復戦に決起することを誓った。われわれは、不抜の共産主義者である同志中原の闘いと遺志をひきつぎ、プロレタリア・共産主義革命完遂にむけた蜂起・革命戦争を領導する堅忍不抜の革命的指導部を権力闘争の本格的飛躍を闘いとる格闘のただなかから、何よりも反革命革マル解体・絶滅戦を牽引する格闘のただなかからつくり出そうとしてきた。

 01年12月の死去のそのときまで非公然の内に解放派を指導した同志狭間の闘いは、まさにその格闘を体現するものであった。しかし、革マル解体・絶滅はいまだならず、同志中原の報復戦はいまだ途上である。同志中原の無念と同志狭間の格闘をひきつぐ闘いは、現在直下のわれわれの決意である。77年3・7早稲田大マル同渡辺、3・9九州大革マル菊池のせん滅をもってわれわれは、2・11報復戦に敢然と決起した。われわれの煮えたぎる怒りの火柱は、すぐさま革マル政治中枢に対する戦略的巨弾として炸裂した。4・15革マル政治組織局(POB)常任(実質的書記長)藤原、「こだま印刷」責任者関口、防衛隊伊藤修、伊東亘の4名の反革命分子の完全打倒である。4・15戦闘の意義は絶大である。それは第1に、藤原が黒田につぐ革マル中枢のナンバー2であったことである。早大革マルを出自とし、高校マル研出身でのちに全国マル研事務局長を務め黒田の駄本の編集を任された。POB常任・産別担当としては国鉄(動労)指導を担当していたことから明らかなように、指導部の中で革マル的総体性を備えた唯一のメンバーだったからである。藤原の打倒で革マルは黒田が直接指導の役割を強め、その後の時々の「組織問題」の発生のたびにナンバー2をトカゲのしっぽ切りよろしく切り捨てることで黒田の「無謬性」を確保してきた。しかし、80年代にはすでに小野田圭介、「山代」が、90年代には「林田」、賃プロ主義者「DI」らが公然・隠然と黒田に反旗を翻すことを止められぬほど中枢対立を尖鋭化させずにはおかなかったのである。さらに、反革命機関紙発行体制の環である関口、防衛態勢丸ごとの打倒も革マル組織体制を揺さぶらざるをえなかった。

 第2には、困難な戦闘条件を突破して戦闘目標を闘いとった展開として、対革マル総力戦態勢を組織的に実現し、それを条件とした革命軍の情報・作戦・戦闘展開の管制高地として勝ちとられたことである。だからこそ、敗残革マルは自衛隊を巻きこんだと称する第7次謀略を喚きたてデマで慰撫する外はなかったし、権力もまた己につきつけられた刃として恐怖したのである。

 第3に、何よりも戦闘の苛烈さ、徹底性において、2・11反革命正面突破にむけた解放派の非妥協性・徹底性を鮮明にし、指導部暗殺に対する革命党の実践的態度を革マルのみならず権力、ファシストに対しても公然とつき出したのである。
革マルは4・15戦闘直後から、「山代」の藤原をやゆした「焼き蛤」発言を黒田がとがめ、のちの「山代」粛清へと連なる中枢対立を噴出させた。一方、産別・学生革マルは、自らの暗たんたる未来を予感するほどに打ちのめされ、その瓦解的危機を促進させていった。この超ド級の戦果を合図に、われわれは、5・13革マル東北地方委議長城の完全打倒、5・30独協大革マルせん滅を挟んで、7・4千葉大マル同―学生革マル中枢矢萩完全打倒という革命的テロルの嵐を浴びせかけた。また、報復の2文字で意思統一したわが政治部隊は、3・26総評青年協において革マルの政治登場を封殺し闘いぬくことで政治的・組織的・運動的にも瓦解を促進し、党派闘争の攻勢をとおして階級的労働運動の前進を闘いとることを青年労働者のまえにつき出した。さらに、12・9東京大革マル兵頭を完全打倒し、われわれは2・11反革命1ヵ年へと勇躍進撃していった。78年、2・11反革命1ヵ年報復戦は、1・27茨城大革マルアジト4ヵ所を爆砕、中武、古橋、高井の3名を完全打倒し、中枢アジトである中武アジトにいた中島、嶋野、堀切ほか多数を重せん滅する闘いで幕を開けた。

 革マルは、わが革命軍の戦闘能力に動転し、またもや新たな謀略の開始と主張しはじめた。しかし、「唯物論的現実」を知る堀切らにとって己の卑劣漢ぶりを隠す役に立つにせよ、真実を知る「特行」どもの相互不信は決定的となり、組織としての破局はおしとどめようがなくなった。たとえば、中武アジトでなぜ中武が打倒されたのか。それは反革命特行どもが天井裏への脱出口―押入天井をくり抜いた穴に我先に殺到し、中武をイケニエとして差し出す形で堀切らが逃げようとしたからである。中島は、なぜ最初に血の海に沈んだのか。天井裏で脱出口の対角にある隙間に堀切、嶋野らが先に陣取ってしまい、そこに入れてもらおうとした中島が嶋野らに足蹴にされてバランスを失い、天井板をつき破ってあえなく落下させられたためである。われわれは、「人間的同一性」をめざしていると称する反革命「特行」どもの紐帯がどんなものかとっくりと見させてもらった。革マルは、76年6・24報復戦の10・8―27を頂点とする10数波のせん滅戦の嵐のまえに第6次謀略の悲鳴をあげ、77年4・15戦闘を突破口とする革命的テロルの連続した巨弾の炸裂のなかで第7次謀略を喚いた。そして、77年12・9を号砲とし78年1・27茨城大革マル完全打倒としてかちとられた2・11反革命1ヵ年報復戦の炸裂に対する第8次謀略の絶叫につづいて、7・20東大革マル中村の完全打倒をめぐって第9次謀略の呻き声をあげた。

 この数次にわたる革マル謀略論の言いつくろいを強制したものは、わが革命軍の的確・苛烈な戦闘であり、対革マル戦の攻勢をつかんで離さず、敗残革マルの危機を促進する打撃を強制しつづけた結果であった。したがって、6月駒大革マルせん滅に連続した7・20戦闘は、2・11報復戦の鉄火が革マルの組織的解体をおし進め、その内部危機もまた極限まで激化し噴出させるにいたるところに炸裂した巨弾となったのである。その確かな手応えは、78年8・7革マル政治組織局員「山代」の逃亡―内部粛清として現われた。森茂の後を襲った2代目書記長「朝倉」の失脚と藤原の打倒は、「山代」を実質ナンバー2におしあげることになった。この「山代」が情勢の激動に動揺し黒田と対立し粛清されたのである。

 革マルは74年以降謀略論の泥沼にあえいでいるのだが、謀略論そのものが革マル「組織現実論」、その具体的現われとしての「向自的党派闘争論」の破産を意味している。
元来革マルの路線からすれば、つまり組合主義的大衆運動の推進とそれをとおした組織づくりからすれば、党派闘争は「運動上ののりこえに従属した党派闘争」としての「即自的党派闘争」しか位置づかず、「他党派の直接的解体を目的とした向自的党派闘争」は「党派関係が異常に推移した場合」として例外的事態となるしかない。しかし現実には、革命期の深化のなかで革命党と革命運動の前進が開始され、これを破壊しなければ革マルは歴史のくずかごに投げ捨てられてしまう。このとき、革命党破壊のために革マル組織を恒常的に白色テロに動員するためには、「異常な党派関係」が常態でなければならないのである。だから、左翼的常識からすればどんなに荒唐無稽であろうとも、革マルは大真面目に、死活的な意味をこめて謀略論を緻密化しようとする。

 革マルにとって権力と闘う気なぞは端からなく、「異常な党派関係」に決着をつけ早く組合主義的運動に回帰したいがためのテロあるいはスパイ戦術に動員できるか否かだけが問題なのである。
革マルは、こうして小ブル改良主義と白色テロとの間をブレながら瓦解を進行させていくことになる。そのタガはめが「黒田教」への信仰告白であるが、黒田思想の破産の露呈、情勢の激動と革命党の軍事的攻勢はその無力さを暴露していくのである。「山代」の黒田への反発はそこにあった。当時、75年ベトナム革命の勝利をうけた世界プロレタリアートの再攻勢、武装的発展の胎動とくに朝鮮情勢を熱い焦点とする危機が深まり、日韓・天皇闘争が高揚していく。この過程で革マルは、「反天皇闘争はアナクロニズム」と天皇の赤子として登場したのである。こうした革マルが大衆的にも相手にされるはずはなく、運動的にも組織的にも破産と瓦解が促進されていく。

 こうしたなかで「山代」は75年秋、革マルの枠内であるが「革命情勢」「蜂起」や「ゼネスト―自民党政府打倒」「ゼネスト―ソビエト」を語るという「ハミ出し」をおこない、黒田との対立を尖鋭化させていき、ついには粛清されたのである。
79年は、3・16こぶし書房防衛隊角田の完全打倒を切っ先に、4・11総評青年協集会でのエセ「全学連」部隊の敵対を粉砕し、6・9専修大革マル大岡・越塚を完全打倒し3名を重せん滅する戦果に登りつめていった。

 革マルは、この専大戦闘に動転し、かの『内ゲバ本』の中でもデマを書き連ねて「謀略」を叫びたてている。
いわく「ヘルメットの色」云々と。革マル謀略論ではよく主張されるものであるが、革マル自身がかつて法政大を襲撃したときには中核派のヘルメットをかぶり、73年秋ミッドウェー闘争に向かうわが部隊を横浜駅で襲撃し粉砕された革マルは青ヘルをかぶっていたのである。さらには「デモに使ったならあるはずの傷のない新品のヘルメットが使われ」などとも言う。権力の弾圧を考える必要のない者だけが吐ける言辞であることはいうまでもない。同様に、わが部隊の高度な情報戦に捕捉されていたことを革マルは必死に否定しようとする。たとえば、打倒された時間を敗残革マルの言い訳を唯一の根拠に改ざんしている。学館ボックスの灯りをタイマーで調整して鉄槌を逃れようとしていた小手先の技術など、その仕組みもろともわが掌中にあったことに気づかなかったのか。われわれが次の戦果のために手の内を全部明かさないことをよいことに、デマで自己欺瞞する謀略論は、結局敗勢をより促進していくことになった。

 79年11・21、革マルはわが革命的労働者学生を襲撃した。果敢な反撃で撃退したとはいえ、権力と革マルとの結託を物語るように、襲撃された側が逆に「凶器準備集合罪」で弾圧された。さらに12・10関西大において部落民「障害者」に対する差別主義白色テロを凶行した。この白色襲撃と解放派内から生み出した社民的サンディカリスト集団との党内闘争にはしゃいだ革マルは80年3月、笑止なことに党派闘争の「完勝宣言」なるものを開陳した。何よりもそれは革マルの厭戦を表わしており、解放派壊滅願望ともいうべき夢想にほかならなかった。社民的サンディカリスト集団は、70年代中―後期の権力闘争・党派闘争の飛躍をめぐって、とくに党建設の闘い、とりわけ2・11反革命正面突破とそれを巡る組織問題の格闘に対する反動として開始された一部悪質分子の組織破壊活動を底流とし、79年にわれわれが断固として踏みこんだ内部糾弾闘争に対する差別主義をもっての敵対として組織された。われわれは2・11の正面突破をはたしきり、内部糾弾闘争の躍動する闘いこそが革命党か否かの分水嶺であるとくり返し確認してきたし、脱落分子発生の意味を見すえきり、対革マル戦の死闘を切りひらく闘いをとおしてこそ社民的サンディカリスト集団の解体・止揚も展望できるものとしてたてた。したがってわが革マル解体戦は、むしろより熾烈に、容赦のないものとなったのである。

 
わが報復戦は、革マルが鉄槌から逃れる夢想にひたったのであろうさなかに、80年2・15政治集会の当日に東京大革マル箕田の重撃沈として闘いとられた。そして「完勝宣言」の舌の根も乾かぬ間に革マル頭上に炸裂したのが、5月攻勢―東西2連打である。5・5「非常任POB」桑原完全打倒―駒澤大「特行」10余名を粉砕し、5・27には大経大Ⅱ部学友会委員長3浦(ママ=三浦?)を重撃沈したのである。わが鉄槌に怯えきりほどなく逃亡した箕田は、『内ゲバ本』の中では一般学生とされている。しかし、当の箕田が「もうやめるから許して下さい」とわが部隊に哀願したことを、またいうところの「女友達」もまた「わたしたちもうやめるんです」と弁明したことをなんと言い訳するのか。桑原は「良心的知識人」とされていたが、その後革マルは「同志桑原洋」と記し「非常任POB」であることを自己暴露した。

 この「完勝宣言」のだぼらに断を下した戦果のまえにうち出されたものが「ネオファシズム」論である。
謀略論が74年「勝利宣言」の破産をとりつくろうためにうち出されたように、またもや笑止な乗り切りを策したのである。この「ネオファシズム」論は、しかし革マルの危機をより深く刻印するものでしかなかった。何よりそれは、革マルの背骨であったはずの「反スタ」の破産を認めざるをえず、日共を右傾化の波に巻きこまれていないと賛美して、日共の分裂を夢想しながら「反ファシズム統一戦線」の名のもとにスターリニズムの懐に逃げこもうというものだったからである。さらに、公安のスパイであり、水本「謀略」運動の九州世話人久我との結託に見られる権力公安の庇護を条件とした白色テロへの衝動を極限化させるものにほかならず、7・3わが労働者へのテロはその証左であった。
 

 日共との共闘の場であり、その水路としてあったのが革マルの「聖域」動労革マルをはじめとする産別革マルだったことからしても、人民戦線派の帝国主義的労戦統一の尖兵として、「ネオファシズム」規定をもって革命党や闘う労働者人民への白色テロに一切を賭ける反革命としての姿をより鮮明にせざるをえなかったのである。わが報復戦はただちに、9・22動労本部革マル小谷、9・25関西全金革マル吉岡の頭上に炸裂した。革マルの延命環であり、「聖域」願望を粉微塵にした小谷せん滅、車両による敵対を阻止しより確実な打撃を強制するための武装の高度化に悲鳴をあげ打ちのめされた吉岡・関西革マル、産別革マルの瓦解はこれにより一挙に進んだのである。
 2・11報復戦が強制した革マルの崩壊的危機 
 産別革マルの解体状況は、学生革マル=「特行」の敗軍化にいっそうの拍車をかけた。すでに80年には「反ソ・反共」につっ走る革マル中央に対して「ソ連脅威論批判」として不満をくすぶらせてきた学生革マルは、朝倉らによってその「反帝イズム的偏向」をどう喝されていたにもかかわらず、81年になるとエセ「全学連書記局」問題を噴出させる。反革命通信670号に「安保廃棄→直ちにプロ独樹立」なる主張を公然化させたことである。これは、わが解体絶滅戦の前進―久我スパイ問題の暴露に打ちのめされた「中央学生組織委員会(SOB)」―マル学同の左翼としての仮象をとりたいがためのあがきであった。

 さらに、直接にはマル学同・エセ「全学連書記局」としてうち出されたものであったとしても、掲載した小野田らの反革命通信編集局の黒田に対する反発をも伏流としていたがゆえにその危機は深刻なものだったのである。情勢の激動と階級闘争の前進は、「反帝反スタ戦略」に孕まれる反共主義と権力打倒をめざす「一定の情勢」という欺瞞との矛盾をくり返し爆発させる。森茂の「高め主義」、「山代」的偏向、この「SOB」問題はまさにそれである。「反帝反スタ」=「帝とスタの千年王国」論の破産をまえに黒田は、その補修に乗り出さざるをえなかった。「3つのナショナリズム」論(帝、スタ、イスラム)がそれであるが、核心は現実の矛盾をナショナリズムの対立から説明し、階級闘争の前進を否定することである。

 今日われわれは、黒田がその晩年国粋主義的地金を全面化し「中華ナショナリズム」に悪罵を投げつけ、反共の一点においてイスラム主義賛美にのめりこんだことを知っている。その源流、黒田・革マルをしてその露呈を強制させたものが解放派とその闘いであったことが明らかだ。われわれは、革マルの危機を組織的絶滅として実現すべく軍事的攻勢を叩きつけていった。何よりも、革マル解体戦における軍事的基軸性ということであり、軍事が政治の延長であることを一面的に強調して脱落グループのように政治技術主義に堕すのではなく、革命的政治は情勢と敵との関係において軍事的に転化されなければ貫徹されないことを対革マル死闘戦は鮮明にしている。81年7・11國學院大革マル「特行」高橋、82年2・24同じく國學院「特行」荻原を秘密アジトを爆砕し、完全打倒した。この敵「虚点」への継続した戦果は相乗して革マルを追いつめた。とくに、荻原アジトにあった膨大な資料は、革マルの惨状を余すことなく暴露するものだった。

 まず荻原は、高橋が打倒されたことに驚愕し、國學院大革マルの再生産が完全に破綻していることを吐露している。
そして、わが解体戦への恐怖から櫛の歯が欠けるように続発する学生革マルの脱落逃亡を嘆き、九州革マルの権力の庇護を唯一の拠り所とする心情は己をふくめて革マル総体を覆っているものだということを認めている。さらに特筆すべきは、この久我スパイ問題に表わされた権力との公然たる結託は、革マル中枢のおし進めている路線そのものであることが暴露されたことである。すなわち、右翼ファシスト児玉誉士夫主治医盗聴テープの存在である。この盗聴で革マルが意図していたのは、これを材料にファシストとのパイプを作ろうとすることにほかならない。久我をとおした警察との癒着、児玉をとおした右翼人脈を革マルは延命のテコとしようとしたということであり、「酒鬼薔薇事件」で謀略を叫びながら検察資料を右翼雑誌に持ちこんだりして作ろうとした人脈作りの思惑は、社会防衛=「社会問題化」と同時に一貫した革マルの手口なのである。国鉄分割民営化の尖兵となった松崎が右翼・警察人脈を誇示してはばからないことは周知だが、転向でも何でもない。まさしく革マルの本質なのだ。

 瓦解にのたうつ革マルに庇護の手を差しのべたのは権力である。82年5・7革命的指導部に対する反革命弾圧に踏みこみ、獄死獄殺攻撃を公言しさえしたのである。われわれはすぐさま7・1、警視庁交番に怒りの火炎攻撃を叩きつけ、反革命弾圧に対する全人民的反撃の前進を牽引しぬいた。この革マル謀略史観の対極に立つ闘いもまた革マルを追いつめた。わが解体戦の猛攻は、白色テロの主力「特行」を瓦解させてきただけではない。その衝撃力をもって危機の内部発酵を促進させていく。1つは、革マルいうところの「心情主義」の蔓延と内部思想闘争の空疎化である。敗残革マルにとって打倒された「特行」は、言ってみれば明日はわが身なのである。
したがって、その恐怖からする心情的一体感が昂進する。一方、「人間的同一性」論によって教祖黒田への同化を要求する茶坊主は、当然できるわけもない構成員に対して「主体性の弱さ」を断罪するばかりで「いじめ」として反発され、他方、同じ論理で温情主義的に向きあい恐怖の心情を「分かってくれる」ブント主義=土門への心情的一体感を蔓延させたということだが、まさしく、解体戦が強制した黒田イデオロギーそのものの惨状なのである。

 2つ目は、産別革マルの瓦解である。
革マル自ら「長期にわたる党派闘争で、組合運動上の基盤が瓦解しているところが少なくない」と自認しているように、脱落するか革マルであることを危険な重荷とし「俗人化」して延命する者ばかりだったのである。こうした状況を、より右翼的に合理化して展開した部分が動労革マルであった。83年年頭の国鉄委員会の主張は、左翼的展開ができていないのは、「労働運動の敗退局面・・・・・に規定されたもの」だから当然だという居直りが核心である。松崎の言う「冬の時代の労働運動」ということだ。しかし動労革マルは、水本「謀略」運動への組合引き回し(自ら編纂した「動労30年史」の中で内部的に反対意見が多かったことを吐露している)にはじまり、78年津山大会で「三里塚闘争と一線を画す」と敵対を宣言し、79年には「貨物安定輸送宣言」を採択した。そして80年以降、「大胆な妥協」の名のもとに反合理化闘争の全面的な放棄・破壊にはいっているのであり、この路線の必然的帰結として国鉄分割民営化の尖兵として、反革命戦争とファシズムへの突撃的推進力として、闘う労働者の不倶戴天の敵として析出されたのである。

 こうしたなかでわれわれは、白色テロ部隊「特行」と並ぶ革マルの「背骨」である動労革マルに2・11報復戦の集中的連続的な攻勢を浴びせることをとおして、黒田をはじめとする政軍中枢打倒に登りつめていくべく決起していった。87年10・30、5年間の戦果の空白をつき破り動労拠点であった田端機関区出身の荒川一夫をせん滅した。重せん滅とはいえ、荒川の活動を不能にし、10年後の死という意味で革命的テロルに準ずる戦果として、全人民の歓呼で迎えられたのである。この闘いは、87年5月政治集会以降、どんづまりの思想的路線的危機の打開策として開始された黒田=「地上の太陽」とする絶望的な黒田崇拝運動に冷水を浴びせ、天皇訪沖―上陸阻止闘争の権力闘争としての爆発をも背景として、「戦闘的労働運動へのノスタルジア」を自己批判させられた沖縄革マルへの衝撃となって、90年代の沖縄教労革マル高橋の内部テロ殺害―沖縄革マル創始者山里の脱落へと波及していく号砲となったのである。88年9・6には神戸大潜入革マル小川を血祭りに上げ、学生革マル追撃戦を叩きつけるとともに、89年10・22にJR総連本部革マル田中豊徳を完全打倒、93年8・27にはJR貨物革マル中村辰夫を完全打倒し、そのつれあいであり民間産別指導部・「虚点」エーザイ革マル中村シズエを重せん滅した。

 そもそも動労革マルの延命のために採用された「冬の時代の労働運動」=「A=B」路線(合理化攻撃に反対するふりをして、実は資本・当局と一体化して合理化を推進し革マル組織を温存する路線)は、しかし総評解体―連合結成にむかうなかで、松崎に追随する「酒とゴルフの労働運動」として革マル全産別に波及していく。
これが蔓延することは黒田イデオロギーを不要にし、白色テロへの動員を困難にするものであるがゆえに黒田・革マルにとって許しがたいものであった。黒田の89年「3・5提起」は、この「組合主義的偏向」の是正をめざすとされたが、革マル労働運動の本質に根ざし、それが松崎との妥協の産物であった以上、「A=B」路線は「企業再建のための特殊な戦術」と容認するしかなかった。そのただなかへ田中打倒の巨弾が炸裂し黒田路線の破産を暴露したのである。また、JR資本は革マルの使い捨てに走り、黒田―松崎の「A=B」路線をめぐる対立へと発展させずにはおかなかった。こうしたなかで松崎を批判し、返す刀で黒田を叩く形で登場したのが「賃プロ魂注入主義」者=「DI」(長井岳)であった。DIは、「右翼組合主義」指導部批判をテコに92年「3・1提起」で「3・5提起」を発展させると称して「資本との対決」をおしだし、労働運動を媒介に革マル組織を創るという主張を盾に黒田とは逆のベクトル、黒田を必要としない組織再編をおし進め、一方、ソ連・スターリン主義の崩壊と91年第一次対イラク―中東反革命戦争を画期とする国際階級闘争の激動が黒田の反帝なき反スタの破産をより鮮明にしたことから、それを積極的に放てきするにいたったのである。

 これに対する黒田のまき返し、テロによる再制圧という中枢対立のまっただなかで、またもや93年中村完全打倒の火柱が上がった。この決定的打撃は、沖縄革マル創始者山里以下の沖縄産別革マルの全面逃亡に端的な革マル組織分裂と崩壊を強制していったのである。血の粛清の結果、党内闘争は黒田派が制圧した。しかしその原因、わが解体戦が強制した黒田反共イデオロギーの破産、JR革マルの崩壊的危機という現実はまったく変わったわけではない。もともと「賃プロ主義」の台頭は黒田の指令の帰結であり、黒田―松崎路線そのものの破産である。黒田にとって産別革マルが資本・権力の尖兵になることは当然である。ただし、そのなかで黒田を中心とする同化運動が解体していくことが問題なのである。一方、帝国主義労働運動の尖兵たることをもって延命を図ろうとする松崎・JR革マルは、革マルと当局のテロ支配と対決しながら闘いぬく戦闘的国鉄労働者の闘いに追いつめられ、民同の反発も理由に当局の使い捨て攻撃にさらされ「革マル隠し」といっそうの資本の尖兵たることに踏みこんでいく。

 ここにおいて革マルは、反黒田の根深い底流と黒田―松崎の中枢対立を深刻化させていった。われわれは、96年5・14國學院大革マル7名をせん滅、「SOB」として派遣されていた早大マル同五十嵐修を完全打倒した。この戦果に「黒田処刑」を予感した黒田はグラグラとなり国家権力の保護下に逃げこんだ。同年10月の反革命集会で革マル派議長「辞任」を発表したのである。「最高司令官」たる黒田の逃亡は、革マルの破局と絶望的凶暴化を告げ知らせた。なぜなら、この時の権力への命乞いのための「最後の訴え」は、黒田の自己弁護と解放派を名指しした白色テロを唯一の任務と宣言していたからである。革マルが直面した破産の第1は、黒田イデオロギーが内部的にも権威を失いボロボロ化したことによる革マル中枢の崩壊である。

 第2は、JR革マルに対する戦闘的労働者の闘いの前進による労働者白色支配の危機とJR資本との蜜月の破局である。第1と第2は分かちがたく結びついており、2000年には、松崎・JR総連革マルの組織的総脱落へと進み、02年には組合利権をめぐってJR革マルそのものが分裂するにいたったのである(松崎―嶋田)。第3に、5・14戦闘が明らかにした反革命「特行」の脆弱化である。反革命党総力をあげて支えた早大革マルすらも当局にも見離され白色支配の瓦解を全面的に露呈させた。最後に、権力との相互利用関係の破綻である。反革命アジトの摘発、「窃盗」・盗聴での指名手配は、敗走する革マルが権力との取引をめざし権力の思惑をはみ出したことへの制動であり、権力は革マルをより取りこみつつ白色テロに駆りたてようとし、革マルもまた、延命嘆願のために解放派―闘う労働者人民に対する絶望的白色テロ衝動を強めたのである。そして、それもまた末期的な瓦解の一里塚になるしかないであろう。今日、革マルとJR総連革マルは、ともに解体的危機にのたうっている。それは解放派の革命的党派闘争の推進と国鉄、三里塚などの戦闘的労働者人民の闘いが切りひらいてきたものである。何よりも、25名におよぶ反革命分子の完全打倒と間断なき解体戦の攻勢が革マルを破局の淵に叩きこんできたことをあらためて確認しよう。黒田の死によって革マルの破産はより浮き彫りになっている。黒田の死をめぐって残存中枢は2ヵ月にわたって沈黙し、無方針・無展望をさらけ出した。われわれにとって攻勢の絶好機である。

 われわれは、対革マル戦を清算し、『崩壊』紙上で黒田―革マル賛美を書き連ねるほどの親革マル分子―転向反革命木元グループ根絶戦を基軸とした〈両輪〉の闘いの戦略的一環として、2・11報復30ヵ年決戦の爆発をかちとる。
朝倉、土門、西條ら残存革マル中枢を打倒せよ。エセ「全学連特行」・産別革マルを総せん滅せよ。戦争とファシズムの反革命尖兵、国鉄決戦破壊と戦争動員の尖兵、三里塚決戦の敵、差別主義反革命革マルを解体・絶滅せよ。
 思想的破産をとげた黒田の死 
 06年6月、同志中原虐殺の指令者=黒田が死んだ。
同志中原虐殺報復30ヵ年決戦にあたり、黒田の「畢生(ひっせい)の大著」(革マルの自讃)=『実践と場所』を壊滅的に批判し、黒田の死が同時に革マルの思想的破産=死滅であったことを明らかにする。

 すでにわれわれは、黒田がプロレタリア革命運動―すべての左翼運動の破壊のために潜入した反革命であり、マルグロ=革マル派が構改派スターリン主義の反共主義的反マルクス主義的に改編された亜流にすぎないことを明らかにした(機関誌「解放」№19所収「谷川昌彦」署名論文)。谷川論文で壊滅的に批判され、まさに「理論的処刑」された黒田は、一言の反論もできぬまま、死んだ。宗教的同心円組織=革マルにあっては、教祖黒田こそがアルファでありオメガである。黒田の死は、政治組織として綱領的路線的に死んだこと、かつその延命も絶望的な組織崩壊状況にあることを鮮明にした。

 こんにち革マルは小ブル「社会主義」の転化した反革命として、権力と一体化して革命派破壊の敵対を強め、反米民族主義的な国粋主義者として登場している。この意味でファシスト集団への全組織的・全面的純化への分岐点にあるといえる。
すべての左翼が、黒田の「反スタ」の外観をまとったスターリン主義そのものの思想的枠組み・骨格を批判できていないなかで、ただわれわれ解放派のみが、「反スタ」を自称するが、その実古色蒼然としたスターリン主義としての思想的本質を容赦なく暴露し、だからこそ断固とした革マル解体戦を一貫して闘いぬくことができた。解放派の思想的生命力がこれを可能としてきた。反革命木元グループが革マルの軍門にくだり共存=共闘するにまで転落を深めている。80年代初頭に全面化し90年天皇決戦に対する反動=破防法攻撃をとおして段階を画した新左翼に対する路線転換攻撃が、対革マル戦の歴史的清算=革マルとの共存を決定的なメルクマールとして進められてきたなかで、黒田=革マルの国粋主義反革命としての無残な末路を暴露することも、30ヵ年決戦の課題のひとつである。
 思想的破産の紋章=『実践と場所』
 黒田は2000年から01年にかけて『実践と場所』を出版した。黒田自らが認めているように「遊びと重複箇所」だらけで「随筆風のものに堕している」長大なだけ(2200ページ)の代物だが、そこには黒田が国粋主義的な反革命として死んだ思想的帰結点が記されている。この(思想的)破産の紋章、国粋主義の信仰表白を革マルはマルクス『資本論』と「並び立つ偉大な所産」と自讃している。ここには、黒田が1950年代初頭より書きつらねてきた反革命著作活動の帰結点が、国粋主義反革命として鮮明に示されている。
 反米民族主義・国粋主義の信仰表白
 そこには幼児期、少年期の追憶にふける老いた黒田の思想的残骸が横たわっている。自撰歌集『日本よ!』と死にいたる最後の過程で詠んだとされる短歌において、黒田は解放派にせん滅された革マル分子の亡霊におびえ迫りくる死への恐怖と自らの思想的営為に対する絶望感・徒労感を吐露する心情を書きなぐっているが、この駄本の中でも左翼を偽装する以前の反共・国粋主義的心情に回帰して破産と絶望に満ちた末期的現実をのがれようと必死にもがく黒田の寒々とした心象風景が広がっている。ファシスト石原と同じ題名のこの駄作集を「一級の哲学者は一級の歌人である」と誉めそやす革マルは、徹頭徹尾の国粋主義者、反共反革命である。
 日本主義と天皇主義
 そこには「日本人性(=民族性)」(黒田)の優秀さに対する賛辞が延々とつづく。いわく「日本の土木技術の高さ」、宮大工の「木工技術の素晴らしさ」、「義理がたく"もののあわれ"を情感できる日本人らしさ」、「縄文以来の自然信仰・祖霊信仰の信心深さ」などが恥ずかしげもなく誉めたたえられる。日本の自然風土のこの礼賛は天皇(制)の賛美に行きつく。最近の「おおやけ(天皇)の思想の蒸発」を痛憤慨嘆する黒田は、ここから一気に国粋主義的排外主義を露わにする。漢字は「文字の最高傑作」であり「線の連続と非連続」からなる欧米系の言葉に比較すると「優れた形相」をなしており、英語の「非学問性、文章構成の結果解釈性」に比べると「民族語としての日本語」は優秀であると、あたかもファシスト石原がフランス語では計算ができないと国粋主義的排外主義をあおったのと同断のむきだしの「日本礼賛」がつづく。反米愛国の民族主義として出発した黒田は50年間の反革命活動を経て、いままた反米主義的愛国主義を煽動する。かつて51年12月『ヘーゲルとマルクス』を出版するにあたり、「植民地化されつつあるわが国の民族的な危機を見つめることによって目覚めさせられた一青年」(「まえがき」)として反米愛国を称揚した黒田は、この駄本で「アメリカ国家こそは、現代技術文明の悪の権化」であり「ヤンキー精神」の「自己過信」「傲岸な言辞」に「天罰」(!)が下るだろうと反米民族主義を煽動する。こうした反米民族主義の開き直りをとおして黒田は、その最大の思想的確信として、「〈愛国〉噴炎」と題して「いくさ場に散華せし兵想ふべし、『中華』ナショナリズム捨つるべし」と中国人民―アジア人民に対するブルジョア的・帝国主義的排外主義を満開させているのである。
 ブルジョア科学技術信仰
 『日本よ!』で「綿工業の発達はイギリス植民地主義の御蔭なりなむ」と詠い植民地支配で帝国主義も「良いことをしたのだ」と擁護した黒田は、この駄本で「20世紀の科学技術をうみだした科学者・技術者たちの偉大な頭脳の働きには感嘆の念を禁じえない」とブルジョア科学技術の発達に心底共感する。ブルジョア技術の発達が労働者にとっては抑圧・隷属の強化であり、そもそも技術がその生産様式のもとでの生産力の一要素であり、したがって本質的に支配階級に属するという基本的なことが黒田にはまったくわかっていない。
 差別主義者=黒田
 この駄本には部落差別、「障害者」差別、女性差別、民族差別など被抑圧人民・被差別大衆への露骨な差別言辞が満ちあふれている。差別主義者として被抑圧人民・被差別大衆の差別虐殺を煽動し指令・実行してきた黒田の、革マルのいっそうのファシスト的な差別主義集団としての純化・転落への遺言が記されている。こうして黒田は『実践と場所』で無残な思想的破産(・政治的組織的=実践的破産)と反米民族主義・国粋主義への純化を刻印した。黒田は、革マル随伴文化人として75年6・24反革命―77年2・11反革命をはじめとした革マルの白色テロを賛美し「水本謀略運動」を推進してきた高知聡にまで、"黒田の「幼児返り」や「老化現象」"となじられている。高知の黒田「批判」は、黒田・革マルの破産のなかで自分の命だけは助かりたいという反革命的エセ・インテリ特有のこずるさであり笑止である。黒田の反革命的純化は、黒田の反革命思想そのもの、西田的な「循環論」をもって50年間におよぶ反革命活動の果てに出発点的に自身の初期3部作(『ヘーゲルとマルクス』『社会観の探求』『プロレタリア的人間の論理』)の反革命性に環帰した黒田の思想そのものにその根拠があったのである。
 黒田の反革命としての思想的出発点とその帰着点 
 黒田思想批判はすでに中原同志や竹海同志が詳細に展開し壊滅的批判をもって思想的に粉砕しているので、ここでは黒田の50年にわたる反革命活動の果てにたどりついた思想的破産の姿を暴きだすことに限定する。
 「プロレタリア的自覚」論
 黒田においては、上記の初期3部作が思想的原点を示しており、「黒田思想の集大成」とされる『実践と場所』は、堂々巡りの悪循環の末にフリダシに戻り、反革命としてより純化した姿をもってたちあらわれている。これは黒田思想が、絶対精神の壮大な運動の果てにみすぼらしい「遅れたドイツ」(国家)を見いだすヘーゲル弁証法や、「無の場所」を日帝―天皇制に対する礼讃(=自己滅却)として追い求める西田の悪循環の論理と同様に、体制内的・宗教的観念論にすぎないことを示している。われわれは黒田思想(黒田観念論)を、(他党派のように)「黒田哲学」としてひとつの体系性をもった哲学的思潮としては認めない。黒田思想なるものは、小ブル思想の寄木細工・雑炊にすぎない。前提的に、さまざまなブルジョア哲学に対して"革命の哲学"を対置するのではなく、(経済学批判と同じく)哲学批判こそが哲学に対するわれわれの態度でなければならない。黒田の出発点は、プロレタリア階級闘争が小ブルに与えた衝撃を「反スタ」の風潮の始まり(56年ソ連共産党フルシチョフ「秘密報告」)に便乗して否定し、「『反スタ』=反共として受けとめること」(谷川)にあり、これが黒田の出発点でありそしてその帰結点であった。その全体を貫いているのは西田哲学であり、黒田は梯の「経済哲学」を媒介として西田→梯→黒田の系譜に位置している。黒田のイデオロギーは、西田哲学を基底としながらも、その「社会へのかかわり」の思想構造は、日本のファシズム哲学=田辺元の哲学に負っているところが多い。「永遠の今」や「場所的立場」は西田哲学固有の用語であり、黒田の「主体性論」や「組織論」も、西田(―田辺)哲学に基礎づけられている。黒田は、後述するように梯の「物質的主体性論」にすっかり共鳴して丸呑みした。宇野経済学を、『資本論』冒頭「商品論」を「労働力商品」として読みこむという「独自性」を加味しただけで、そのままとりいれた。宇野はその体系の根底に、「本来商品として生産されたわけでない労働力が商品になるという無理」という、小ブル思想を置いている。労働力は資本制生産の発生と一つのものとして商品となり、資本制生産様式のもとで労働者階級が資本家階級の支配・隷属下におかれる階級関係のもとで再生産されている。これをあえて「無理」と主張するのは、この支配・隷属を廃絶することをとおして解放を求める革命思想を回避・忌避し、自分の生産手段で自分が労働するという小生産者を理想化する社会性があるからである。そして黒田はこれにとびつき、「直接的にはそれは・・・・・労働力商品そのものでなければならない」と「対置」するが、これは小生産の理想化という点で宇野とまったく同一である。そして武谷技術論についても、「客観的法則性の意識的適用」という規定の「意識性」の部分にとびつき、その生産力主義的限界を逆におのれの確信とするというブルジョア科学技術への信奉を露わにしている。技術とは人間=諸個人の他者との対象的関係、相互関係による自然への対象的関係(の所産)であり態様である、という原則的把握については考えつきもせず、資本制生産の論理そのものである技術者の「意識」「主体性」を思想的拠り所とするのである。要するに「黒田哲学」とは、これら小ブルジョア思想の文字どおりの「ごった煮」以上でも以下でもないのである。黒田は、戦後「主体性論争」から天皇制ファシズムへの屈服―転向の総括としての側面を削り落とし、転向を擁護し開き直り、梯のヘーゲル「絶対精神」を「物質」に置き換えただけのタダモノ論そのままに「物質の自己運動の最先端であることの自覚」を「物資的自覚」とした。資本主義(帝国主義)の展開によって没落する小所有者・小生産者の大資本に対する反発を「主体性」と表現し、マルクス「疎外」論を反プロレタリア的小ブル的に歪曲して、戦後階級闘争に潜入してきた。人間は社会的=歴史的な自然的存在であり、社会的にのみ協働を基底にした共同においてのみ個別化しうる。人間は、自然に対して協働によって変革的にかかわることをとおして同時に自らの共同性=団結をより豊かに作り出す(対象的存在)。

 人間は、「労働者階級の解放・全人民の解放=共産主義社会の樹立によって、・・・・・奴隷的労働の自己労働への転化を核とした、人間の対象的相互関係は、敵対的制約的なものから相互発展の不可分の条件に転化し、諸個人は、精神労働と肉体労働の分業を止揚しそれ以前の社会におけるごく一部の個人にあった個性=一面性を根本的に越え、全面的に多様な、かつ、そこにおける個性的な発展を初めて語ることができる。そして、こうした関係は、今日の闘いと団結において萌芽的にもはらむものである」(谷川)。

 ところが黒田においては、この社会的生産と対象的存在、プロレタリア・共産主義革命における奴隷的労働の自己労働への転化という核心点がぬけ落ち、「根源的蓄積過程」における「生産と所有の分離」を「歴史的に自覚」し、そこから「生産と所有が本質的に統一」された「共産主義」を「自覚する」ことが「プロレタリア的自覚」だとされる。この「プロレタリア的自覚」はプロレタリアが「物質の自己運動の創造的尖端として歴史の革命的主体たることを自覚する」ことだとされる(『プロレタリア的人間の論理』)。なぜならプロレタリアは「自己疎外と物化についての実践的直観をバネに」「弁証法的唯物論の原理である物質」を「わがものとし」、「この物質の主体的自己形成の歴史的過程が、天体史→生物史→社会史へと質的飛躍において段階的に発展する、物質の形態転換過程」であることをつかみとるからだとされる(『ヘーゲルとマルクス』)。

 この「自覚論」は『実践と場所』においてもそのまま維持されており、「根源的蓄積過程についての歴史的自覚」から「世界の統一原理が物質」であるというプロレタリアの「唯物論的自覚が獲得」されるという。この反プロレタリア的反革命的な「プロレタリア的自覚」論を解放派以外のどの党派も批判できていない。この点への批判がなされないかぎり、黒田密教集団である革マルを解体しきることはできない。そしてまた、革マルに対する死力をつくした闘いをとおして、黒田―革マルの反革命思想を粉砕する力を養うことができるのである。先述の「谷川論文」の黒田批判を他党派に不可能にさせているものこそ、その資本制生産様式にもとづく社会と国家に対する批判の限界―労働者階級の社会的隷属に対する無視であり、したがってその共産主義論の誤りである。そのひとつが「疎外論」であり、社会的生産における敵対的対象化として厳密につかまず、他党派においてはイデオロギー的疎外としてしかつかまれていない。この結果、共産主義運動を小ブル的な「自覚の運動」に切りつめる黒田を批判できない。またこの黒田「疎外論」批判の限界もふくめて、黒田の「物質論」を批判できていないことが、「秘密の通路」をとおって「反スタ」をかかげながらスターリン主義そのものに回帰する黒田を批判できない根拠となっている。

 マルクスはこのブルジョア社会の矛盾の根底に人間と自然の矛盾をおき、社会的生産をとおして人間の活動をつかむ。しかし、エンゲルスの『反デューリング論』の「物質論」と「反映―模写」説、レーニンの『唯物論と経験批判論』―『哲学ノート』の「物質の最高の所産としての脳髄」と「その反映としての概念」、それとはっきり段階を画しつつもその戯画としてのスターリンの『弁証法的唯物論と史的唯物論』における機械的唯物論、この系譜を「運動する物質」「実践的模写論」をもって批判するとして登場した黒田が、その実、この論理的枠内(スターリン主義的な弁証法的唯物論の枠内)から一歩も踏みだしていないのである。「外的自然の先行性」(『ドイツ・イデオロギー』)を確認することは唯物論の出発点である。そしてこの外的自然の内在的論理は、人間の自然に対する対象的活動(=社会的生産)の総括としてのみ認識しうることを、したがって、社会自身の矛盾の内在的批判・止揚の活動(団結)こそが前提をなすことを同時に確認しなければならない。スターリン主義はここを捉えようとせず、社会と歴史の論理を外的自然(物質)の運動の論理と同様な、あたかも機械の規則的運動のように理解する。そして黒田はこのスターリン主義の延長―極端化として、外的自然の論理に「弁証法的」などという何の根拠もない意味付与をおこなったあげく、物質を「自己運動」の主体にまつりあげるのである。これこそマルクスの認識論とは対極にある、近代的ブルジョア的世界観の典型としての自然(物質)の観念化にほかならない。ここにおいて黒田の出発点における「プロレタリア的自覚」論は、(構造改革派的)スターリン主義哲学の亜流として、革マルの反米民族主義的、天皇主義的日本主義的な反革命的現在と、すっぽりと矛盾なく接合する。
 「国家論」
 黒田は『探究』7号(59年7月)で「レーニン『国家と革命』への疑問」を書いた。そこで黒田は「『国家の粉砕』といっても、なにも、ブチコワシやコロシをやるわけではありません」「プロレタリア革命は常に必ず武力闘争として実現されるわけではありません・・・/ブルジョア支配階級は、警察・軍隊をたえず動員して、プロレタリアートの示威運動や政治=階級闘争を弾圧しつづけています。これをぶち破りうる力は、火焔瓶でもなければ、竹ヤリでも、ピストルでもありません。全世界のプロレタリアートの団結!団結!そして団結!です。武力闘争は、ただ、この闘いの一補助手段にすぎません。先進資本主義国における革命において、まっさきに武器などをつかわなければならぬというような事態が発生することは、むしろプロレタリアート敗北の一要因に転化するでしょう」といっている。

 長々と引用したが、これが彼らの「革命論」のペテンぶりを明らかにしている。現在において「革命闘争」の質を一滴も孕まぬものが、将来、突然、蜂起・革命戦争を実現したり、労働者人民の一挙的な大量の革命的意識を産出するなどということは決してありえない。ましてや黒田は、戦後階級闘争への潜入にあたって、暴力革命―プロレタリアートの武装に対する「綱領的」な嫌悪と否定をもって出発しているのである。こうして70年代の階級闘争をとおして革マルは、「革命主義」反対、「反社会的集団」論などをもって、権力との闘いではなく革命派破壊を「現在的な革命運動」とする世界的にも希有な反革命集団として転化した。
 組織論
 革マル批判においては、組織論批判がそのキーポイントであり、「永遠の今」「行為的現在における場所的立場」の実現態とされるその組織の反革命的性格を明らかにしなければならない。
革マルは政治的に破産してもその宗教的組織性において延命できるのであり、政治的運動的解体と同時に思想的批判と軍事的解体が独自に組織されなければその組織的絶滅は実現できない。
黒田組織論においては「永遠の今」=前衛党建設がすべてであり、これは実際には革命の彼岸化と一体であるがゆえに、革マル組織は前衛性のひとかけらもない反革命組織となるほかない。
革マル組織は徹底したスターリン主義組織であり、不可避に個人崇拝(黒田神格化)と官僚的位階制をもつ。
たとえば、内部では「プロレタリア的道徳」と称してブルジョア道徳が強制され、あいさつや「不潔、不作法」を戒めるマナーが厳しく求められ、ブルジョア的な両性関係や趣味の一つひとつまで組織的に点検される(黒田『政治判断と認識』)。
これはスターリン主義のブルジョア道徳主義とまったくかわらない。
これが同時に党内闘争―粛清の手段とされ、権力・資本との対決において団結が作られるのではなく、唯一の「組織的生動性」とされる「内部思想闘争」において(究極的には黒田の恣意的な宗教裁判的断罪において)、革マル組織が作られることになる。
黒田組織論の精華とされる「内部思想闘争」においては「人間的同一性」が革マル成員に問われる。
それは無限に黒田への従属を強いるものとなり、あらゆることがケチつけの理由となり、黒田以外の組織構成員が黒田の気分次第でとばされたり抜擢されたりする。
たとえば、朝倉は中核派にせん滅されたとき(いわゆる「なでしこ問題」)、机の整理のしかたも問題だとされて書記長を解任され、いままた森茂は吉川の『27歳』感想文で黒田賛美が足りないとして謹慎処分にされ黒田死後の一切の政治活動から排除されている、といった具合である。
 党派闘争論
 黒田の「のりこえの論理」からすれば、他党派解体の党派闘争が「場所的現在における革命運動」とされ、他党派解体のためには、権力と結託し(いわゆる「首根っこ急所」論であり「敵の敵は味方」論)スパイ戦術を駆使し(決して権力には向けない)反革命軍事を行使することになる。注意すべきは、他党派解体の核心はそのイデオロギーの「実体」の解体すなわち指導部の虐殺だとしていることである。大川問題(黒田が松崎の紹介で知りあった大川〔当時民青の中央委員〕を革共同に参加させ、日共に打撃を与えるために57年、黒田が大川をたきつけて民青の情報を警視庁に売った事件)にみられるように、黒田は出発点から権力と一体であり他党派解体のためには権力を利用することを路線化してきた。
 「謀略論」
 解放派(・中核派)の攻撃に追いつめられた黒田は74年「謀略論」を主張しはじめる。その後「謀略論」は革マルの政治基調と化し、黒田は97年の「神戸謀略デマ運動」に全組織を引きずりこみ、疑問を出す革マル分子に「非合理的で非対象的なモメントをも導入しながら予測や展望をうちだすことが必要だ」、「『事実』に拘泥するのは、クソ・リアリズムだ」と罵倒しつつ(『政治判断と認識』)、"事実認識は黒田の政治判断でどうとでも歪めていいのだ"という黒田が認めるか否かがすべてという恣意的な「認識」を革マル組織に強制する。こうして01年9・11同時多発テロも黒田の一声で謀略ではなくなり「軍事芸術の精華」とされ、多くの革マル分子が「自己批判」することとなった。

 理論的論争も黒田が絶対であり、どんなデタラメな主張であっても黒田が勝つことがあらかじめ決まっている。たとえば、92年のソ連論をめぐる「林田・黒田論争」では、黒田の「正統派スターリン主義への回帰」「フェドセーエフ型世界革命過程戦略への転換」論の誤りをついた林田が政治的にとばされた。こうして黒田は、思想的な総破産と絶望のなかでみじめに死んだ。

 「闇の世を自棄のやんぱち生きしかど滅び迫りて屍うきいづ」(『日本よ!』)。
 黒田の死に危機深める残存革マルをせん滅せよ 

 黒田が死んで革マルは黒田を神格化することでその危機を乗りきろうとしている。駄本『実践と場所』も『聖書』や『資本論』なみに扱われる始末である。革マル内部で黒田の著作を読経のように音読する運動が進められている。"脳を破壊されて「実質的死」をとげた(人間の本質を諸関係の総和としてではなく脳髄においてつかむという革マルの人間観!)吉川が「死復活」して黒田を賛美する本を出した"ということで、吉川本学習運動が進められている(吉川は74年に中核派にせん滅された元革マル「九州地方委員会議長」)。しかし、黒田死して「組織内思想闘争」の「絶対的裁定官」はいなくなった。党内闘争の激化とその分裂は避けられない。わが解体戦の革命的テロルはそれをギリギリと加速するだろう。黒田は一貫して白色テロルとスパイ工作の最高司令官であり、反革命「特行」がその実動部隊である。次から次へと権力に投降しながら革命派への白色テロルを策動する白色テロリストどもを総せん滅する。黒田思想と動労革マル組織はイデオロギーとその「物質化」という関係にあり、黒田と松崎はそのようなものとして相互補完関係にある。国鉄労働運動破壊の尖兵として全人民の敵として析出されたJR総連革マルに新たな危機が進行している。嶋田グループのJR東労組からの離反と独自労組結成の動きである。拡大する危機にあえぐ松崎を、革命的テロルの絶好の標的として打倒する。木元グループを第2革マルとして飼い慣らしながら解放派へのテロルと破壊を狙う革マルに2・11報復30ヵ年決戦の革命的テロルを炸裂させる。〈戦争―恐慌(ファシズム)〉情勢の到来と労働者人民の戦闘的革命的決起は、(闘いが前進すれば組織が危機に陥るという「独自性」を発揮してきた)革マルを組織的危機にたたきこむであろう。

 2・11報復いまだならず。〈両輪〉の闘いをもって、2・11報復30ヵ年決戦の勝利におしあげよう。残存指導部・テロリスト・JR総連革マルを革命的テロルで打倒せよ。
 2・11同志中原虐殺に報復せよ 

 1977年2月11日、革マル=マルグロ派は卑劣な手段をもって取手駅西口で同志中原一を襲い、頭部を鉛管、ピッケルで乱打・破壊し虐殺した。われわれは報復を宣言し首謀者黒田のせん滅と組織としての革マルの解体・絶滅を誓った。それから30年、われわれはひたすら報復、解体・絶滅の流血の死闘を闘いぬいてきた。対革マル投降を主因のひとつとしたいくつかの脱落・逃亡を乗り越えて、30ヵ年の今日、あらためて2・11報復と革マル解体・絶滅をすべての労働者人民に誓う。60年代初頭解放派結成以降の対革マル戦史上、2・11同志中原虐殺は最大の敗北であった。最高指導部の虐殺をそのまま許すことはその党派の死を意味し、同志中原虐殺報復なくして解放派の未来とプロレタリア革命の勝利はないことを肝に銘じて、われわれはこの30年を報復、解体・絶滅のために闘いぬいてきた。革マルは「他党派解体が現在的革命運動」とする反革命的徹底性を有しており、とりわけ「他党派の組織的解体はそのイデオロギーを体現する指導部の暗殺である」として指導部虐殺に集中しており、そのためにスパイ戦術―スパイの送り込み、広範な盗聴とその技術的高度化、「権力の革命的利用」=権力との情報交換を組織的に進めてきた。われわれはこの反革命的集中を粉砕する指導機関建設と指導機関・指導部防衛の闘いに遅れを取り、同志中原を防衛することができなかった。最高指導部の虐殺はその人格に体現された党派としての政治的・組織的な綱領的・思想的な総体性、歴史的継承性の破壊であり、取り返しのつかない敗北である。レーニンの防衛とロシア革命の勝利、ローザの虐殺とドイツ革命の敗北、トロツキーの暗殺とスターリン派の勝利を歴史的に教訓化し、われわれは指導部防衛を党建設の第一級の任務として革命党建設を推進してきた。権力と革マル、ファシストと木元グループの指名虐殺攻撃を粉砕し、みずからと党を、階級と革命を最期の瞬間まで守りぬいた同志狭間嘉明の不屈の闘いに学び、同志中原虐殺報復、革マル解体・絶滅を闘いとらねばならない。反革命革マルの支柱であるテロ部隊、動労(JR総連)・早稲田大学・沖縄の部隊は、いまそのいずれもが革マル派結成以来の最大の危機にある。革マル組織=宗教的同心円組織にあっては黒田=教祖こそアルファでありオメガであり、黒田の死はこの絶望的危機を決定的に促進している。黒田イデオロギーは反共国粋主義としての地金を満開させ、ファシストへの転化のため以外の生命力を有していない。革マルは政治組織として綱領的路線的に死に、かつその延命も絶望的な組織崩壊状況にある。革マル白色テロリスト(かつて「特行」=「全学連特別行動隊」と称していた革マル軍事組織)は、「神戸事件」ほかの反革命活動で図に乗りすぎて権力に規制された途端に全員が自首し逮捕され、寛刑を受けて反革命テロのために野に放たれた。飼い主=権力の規制にはからきし意気地がない彼らは、革命派へのテロのためには権力・ファシストの支援を力に元気になるが、しかし根本的な脆弱性を露呈している。早大革マルは、早大資本から学内反革命支配の相互協定を一方的に破棄され、使い捨てられつつある。動労革マル=JR総連革マルは、まさに"走狗煮らるの危機"として飼い主=権力・JR資本から使い捨ての危機にある。権力は革マルに対して、「いつでも解体することができる」とねめ回しながら革命派・戦闘派を反革命的テロルで潰すために重宝に使い回している。そしてその「頂点」において、黒田が権力に守られ権力の掌で絶望死したのである。2・11報復の絶好の戦機が訪れている。木元グループ解体戦を基軸とした〈両輪〉の闘いを貫徹し、三里塚決戦の勝利を闘いとろう。その勝利は2・11報復―革マル解体・絶滅の勝利を闘いとる決定的飛躍点となるだろう。
 革命的党派闘争と革マルの危機 
 解放派は、その出発点において黒田―革マルの小ブル「社会主義」、反スタ・スターリン主義との綱領的な非和解的対立をもって登場した。1964年7月2日に、早大の新左翼全党派が革マルによる第一文学部自治会乗っ取りと武装対決した。全国党派として形成途上にあった解放派はこの最先端を担い、以降早大―全国学園で革マルの白色テロルと実力対決してきた。そして67年10・8―11・12羽田闘争をとおして、全学連(「三派全学連」)と反戦青年委員会が69―70安保決戦への水路を切りひらき、全国教育闘争の大波が革マル学生戦線の延命根拠を揺るがすにいたって、68年12月、革マルは早大で全面的な白色制圧をもくろんだ。これに対してわれわれは、全国学園で革マルを粉砕し、早大―東大教養学部(教職員会館)を貫く全国部隊戦闘と、その継続としての九州での精鋭部隊間戦闘を闘いぬいた(教職員会館で前線指揮をとったのが同志中原・同志狭間であった。そしてこの戦闘での最精鋭が、同志荻野佳比古であり、同志石井真作であった)。

 この闘いをとおして全国反戦・全国全共闘は革マルを追放して戦闘的に結成され69―70安保決戦を牽引した。他方革マルはこの過程を経てあらゆる戦闘的闘いへの敵対者として全大衆的に刻印され、その裏切り者としての姿を69年1月安田講堂死守戦における権力への陣地引き渡しによって示した。そして69―70安保決戦にむけては、「武装蜂起主義反対」という、反革命への転落を決定的に準備する主張を基調とし、「他党派解体」にのめりこんだのである。われわれは、69―70安保決戦に対する反革命弾圧を突破しながら権力闘争・党派闘争での戦闘性を堅持し、72年以降の総評青年協をめぐる闘い――戦闘的労組青年部の戦闘的労働者とともに革マルを一掃していく闘い――を切りひらいた。そして、早大、青年協をめぐる大部隊正規軍戦を含む対革マル党派闘争をへて、73年9月神大戦闘を転換点として組織絶滅型の死闘戦へとふみこんだ。神大戦闘での革マル2名の死は革命的テロルでの打倒ではなかったが、歴史的必然性をもって死闘戦へとふみこむ飛躍点となった。

 73年にはわれわれの後を追って中核派も参戦し、革マルに「2正面作戦」を強制することとなった。70年安保闘争で革命派・戦闘派に武装敵対した革マルは、権力の弾圧によって大きな打撃を受けたわれわれにその背後から襲いかかってきた(革マルは「首根っこ急所」論=「権力が首根っこをつかみ革マルがその急所を蹴り上げる」と称した)。70年代初頭、革マルの初期的優位性とわれわれの反撃、たちまちにして露呈した革マルの敗勢は、革マルに「謀略論」、「敵の敵は味方」論、「権力の革命的利用」論を強制し、革マルと権力の癒着・一体化が一挙的に進んだ。74年4・30指導部の頸椎を狙い打ちにしたテロルに対してわれわれはいちだんと戦闘力を強化し、75年6・24石井同志虐殺―指導部指名テロ・大量虐殺(未遂)としての革マルの虐殺攻撃に対して、史上はじめての革命的テロルの行使をもっての報復戦闘として10・8、10・27のふたつの完全打倒戦闘を闘いとった。77年2・11同志中原虐殺は革マルの側からの目的意識的な最高指導部の虐殺であった。われわれは全党・全潮流あげて革マルを反革命として規定=対象化し、敢然としてその報復、解体・絶滅の闘いにふみこんだ。

 藤原ほか4名を一挙打倒した4・15戦闘は、その戦闘の苛烈さ・徹底性において、2・11反革命正面突破にむけた解放派の非妥協性・徹底性を鮮明にし、指導部暗殺に対する革命党の実践的態度を革マルのみならず、権力、ファシストに対しても公然とつき出した。87年国鉄分割民営化と89年総評解散は、権力・国鉄当局の先兵として革マルがたちあらわれることをとおして、対革マル戦が何をめぐって闘われているのかを全人民のまえに鮮明なかたちで明らかにした。われわれのJR総連革マル解体の連続的なせん滅戦は闘う労働者人民の強固な支持のもとに闘いぬかれた。88年本格的権力闘争の開始と90年天皇決戦の爆発は、対革マル戦を権力の尖兵、「天皇の赤子」との闘いとして鮮明につきだした。91年ソ連邦崩壊は革マルの「反帝・反スタ」戦略の世界史的破産として、われわれはその時代認識をつきだし解体戦をいっそう加速させた。

 歴史的にも、危機に臨んで革マルは内部での粛清と追放をくり返し(高島「自殺」、白井〔山代〕・小野田・山里・坂入の拉致監禁、高橋の殺害、鈴木〔森茂〕・池上〔朝倉〕の書記長解任など)、そのたびに黒田の神格化を強めてきた。危機乗り切りの常套手段はつねに白色テロルだった。黒田直属の革マルテロ部隊に革マル組織内の反黒田分子の粛清と対立党派への白色テロ、とりわけ指導部を殺害させることをもってその危機を乗り切ろうとしてきた。その手段として対立党派の内部情報収集と内部攪乱のためのスパイ戦術を公然と方針化し行使してきた。


 (解放派に潜入しかつてスパイを働いた革マル分子にブルジョア的な「時効」はないことをここで通告しておく。われわれは何年たとうと草の根分けても追跡し、その手にかかって殺害された同志たちの無念を必ず晴らす)。

 危機が深まるたびに革マルは「権力の革命的利用」と称してわれわれを権力に「告訴」し、われわれが弾圧を受けるたびに手を叩いて喜んだ。そして権力との情報交換をもってわれわれに白色テロを行使してきた。この今日的帰結として革マルの危機は革マル派結成以来の危機として結果している。革マルは、黒田の死を受けて次のように解放派に対する恐怖を開陳している。

 (解放派との)「党派闘争は、根本的には〈スターリン主義ののりこえそこない〉の三形態を止揚する闘いとしての意味と意義をもつ」(06年8月「植田・政治組織局」連名の黒田「追悼文」)

として、革マル派結成以降の三つの敵対潮流のひとつとして解放派を名指しし、許しがたいことに同志中原虐殺をその戦果として誇り、「その時点(77年2月11日)において本質的にわが闘いの勝利を収めた」などと寝言をたれている。

 われわれはこうした反革命的雑言を一つとして許さない。われわれは、この連載で革マルの今日的危機を暴き出してきた。すなわち、黒田の死が宗教的組織における教祖の死として黒田の模倣者や解釈者はゆるされても、その後継者は黒田自身が許さなかったこと(いみじくも黒田は「後継者は革マル組織だ」と遺言し、森や朝倉、前原や柳葉が後継者面することを許さなかった)。残存指導部が黒田なしには組織内部ではなんの権威もなく、「内部思想闘争」を収約する「絶対的権威」が不在になったこと。これらは革マルにおける中央指導部の中枢危機として爆発するだろう。組織的には、JR総連、早大、沖縄の組織が革マル派結成以降最大の組織的危機にあり、白色テロリストの瓦解が進んでいる。そして思想的には、「反帝・反スタ」戦略が崩壊し、反米愛国の日本主義的国粋主義を全面化し「中華ナショナリズム」に排外主義的に悪罵を投げかけ、反共の一点においてイスラム主義賛美にのめりこむにいたっている。こうして革マル派はこんにちファシスト集団への全組織的・全面的純化への分岐点にあり、われわれにとっては2・11報復、解体・絶滅の最大の好機にある。結成以来のこの最大の危機を衝き、2・11報復30ヵ年決戦に総決起せよ。
 対革マル党派闘争の歴史的意義 

 日本階級闘争において、かつてこれほど激烈な党派間戦闘が30年の長きにわたり闘われたことはなかった。流血の死闘をとおして、日本階級闘争の微温的歴史を根底から戦闘的に塗りかえる闘いとして闘われた。われわれはロシア革命におけるトロツキー派のスターリン主義に対する敗北、スペイン内戦におけるトロツキー派とアナーキストのスターリン主義に対する敗北を、歴史的戦略的に教訓化し反スタ・スターリニスト=革マル派との党派闘争を闘ってきた。この闘いを闘いぬいた部分しか、日本階級闘争において、本質的に暴力革命としてあるプロレタリア革命に勝利する革命的党派を建設することはできない。そして、この組織絶滅型の党派闘争は世界革命を担う日本のプロレタリア革命派にとって決して避けて通ることのできない、いやむしろ戦略的にみて、そこをくぐらないかぎり、そもそもプロレタリア革命党の建設さえできないという重大な闘いであった。

 
党派闘争は、国家権力との直接的対抗としての権力闘争とは区別されるが、ブルジョア国家権力の打倒と樹立すべき権力の性格をめぐった党派闘争である以上、権力闘争の飛躍を媒介的に促進する。権力闘争と党派闘争の相互媒介的推進は解放派の戦略的基軸的闘いであり、こんにちのわれわれの〈両輪〉の闘いは、この歴史的な戦略的組織的格闘をふまえて推進されている。対革マル党派闘争はほかの党派との党派闘争とは区別された独自性をもっている。基本的に党派闘争は反帝闘争の推進をめぐって闘われる。ところが革マル派の「反帝・反スタ」戦略においては反帝闘争は位置づかず、「反スタと直接的に統一された反帝」としてしか反帝闘争はないとされている。革マル内部で反帝闘争を独自に闘おうとする部分は、くりかえし「反帝主義的偏向」としてパージされてきた。ここから革マル派との党派闘争は、われわれの側から反帝闘争の推進にくりかえし意識的に返しつつも、しかし独自に党派闘争それ自身を組織絶滅型党派闘争として闘う必然性が生まれてくる。

 
さらに革マルにおいては「権力打倒」が革命の不可欠な課題としてはなく、むしろ権力と闘ってはならない、権力と闘う党派と「闘う」(破壊する)ことが革マルにとっての革命運動だとされる。それを武装反革命として白色テロルをもって敵対・破壊するという反革命的徹底性を革マルは有している。われわれは、70年代以降の対革マル死闘戦のただ中で綱領的組織的前進を切りひらいてきた。同志中原、同志狭間の強力な指導性をもって、70年代の党建設の集中環として対革マル戦を闘った。とりわけ狭間同志は対革マル戦を先頭で闘う部分のなかから70年代、80年代の党建設と指導部建設をおしすすめた。非合法地下革命党建設は対革マル戦の経験なしには不可能であった。その闘いのなかで、軍事を指導し展開しうる政治指導部建設、本格的非公然活動―非公然的党活動の組織化、スパイ攻撃の粉砕・摘発の闘い、産別戦争の組織化と労働運動の頑強な階級的革命的推進、三里塚闘争からの革マルの追放と革マルと対決する戦闘的大衆運動としてのその発展、被抑圧人民・被差別大衆の差別主義反革命=革マルとの闘いをおし進めた。

 
革マルとの攻防が先端的・先行的に激化した学生戦線において、同志たちは日常的な戦闘―革命軍建設の先頭にたち、また、早大攻略を展望し組織化と波状的攻勢を堅持しながら、74年明大拠点化に着手し全国学生運動の戦闘的拠点の一つを復権し(その先頭に立ったのが、国学院大学出身で革マルと公然と対決し、わが学生戦線の突撃力であり続けた同志小田切弘美であった)、77年には東C(東大教養学部)拠点化にふみこみ、全国学園での対革マル戦―拠点攻防をおし進めた。

 動労革マルをはじめとした産別革マルに対するせん滅と解体・一掃の闘いをおし進めた。
革命的労働者は革命軍に志願し、76年6・27労働者襲撃に反撃し、反戦青年委員会をはじめとした政治部隊の一員として日常的な対革マル戦を闘いぬいた。労働組合・争議現場において革マルによる日常的なテロルを迎え撃ち粉砕した。差別主義・排外主義を煽動し、日帝の攻撃の尖兵としてたち現れた革マルに対して、全戦線から解体・一掃の闘いをおし進めた。この過程で幾たびかの脱落・敵対が発生したが、そのすべてにおいて、三里塚闘争からの召還、権力闘争への反対―破防法攻撃への屈服と対革マル戦反対という性格は共通していた。

 とりわけ社民的サンジカリスト集団が2・11報復戦に反対し、建軍とスパイ摘発を進めればスターリン主義化するという(内糾反対の差別主義と重なった)その日和見主義に対決し、許さず粉砕して、2・11報復戦の頑強な発展が闘いとられた。上記の労学―全戦線での闘いの蓄積が、対革マル戦からの逃亡を大きな要因とするわが解放派における組織問題の発生にあっても、われわれが戦闘性と階級性を堅持し磨きあげながら解放派の旗を守り路線転換を突破してきた根拠となった。

 また革命軍は、対革マル死闘戦のなかから建設された。突撃的部隊から広範な地区部隊建設まで、全国的に本格的な建軍闘争を推進した。対革マル党派闘争は本格的権力闘争の飛躍を媒介的に促進し、権力闘争の本格的展開のまえにプロレタリア人民が死闘戦の経験を積み重ね、その革命的軍事への習熟を進めた。プロレタリア都市ゲリラ戦を闘う本格的非公然態勢の建設、情報活動や兵站・軍事技術の習得、不可避に発生する反革命弾圧と長期投獄・極刑攻撃との闘い、これらの組織的格闘をへて、死闘戦として対革マル戦を闘う強力な部隊の建設がかちとられた。革マルとの闘いは、思想闘争・学習活動の独自的意義を対象的に明らかにし、革マル解体戦の一環として黒田思想批判の重要性をつかみとった。われわれは対革マル党派闘争のなかから、建党・建軍における思想闘争・学習活動の組織化を意識的に進めた。
われわれは対革マル死闘戦が不可避によびおこす反革命弾圧との闘いを、長期投獄・極刑弾圧との闘いとしてくぐった。
革マルに対する無数のせん滅戦、完全打倒戦闘は、長期投獄・極刑弾圧との対決・粉砕をわれわれに問うた。この闘いに勝利し、「殺人罪」弾圧を粉砕して、同志北條は16年の非合法地下活動と16年の完全黙秘―非転向の獄中闘争に勝利し、05年10月、元気に革命的最前線に復帰した。

 その対極に、指導部の中から、同志を売り渡し権力に屈服してでも自分だけが卑劣に生き延びようとする永井の裏切りが生みだされた。われわれはこの最大の反革命的裏切りを許さず除名し反革命的裏切りに対して闘いぬき、指導部が先頭となって獄中完黙―非転向闘争を推進してきた。こうしてわれわれは、対革マル党派闘争の頑強な推進のなかから、こんにちの建党・建軍の革命的地平を築いてきたといえる。
 2・11報復30ヵ年決戦の爆発を闘いとれ
 われわれは解放派の対革マル党派闘争の歴史的格闘のすべてを継承して、革マルを解体・絶滅する。木元グループの脱落と敵対は、山田の2・11報復戦の清算と対革マル投降を主要な動機のひとつとしていた。山田の公然合法主義と軍事反対派としての思想性は対革マル死闘戦の推進と相容れない。山田はみずからの公然合法活動領域での存在とその革マルによる容認と引き替えに、2・11報復戦の清算と、その証として対革マル死闘戦を闘う部隊の解体を革マルに誓った。こんにち『崩壊』紙上で黒田―革マル賛美の親交雑文を書きつらねる親革マル分子を、革マルと串刺しにしてせん滅する。

 われわれは三里塚決戦に総力で決起し、新たな挑戦をもって本格的権力闘争の飛躍を闘いとる。そのなかで転向反革命木元グループ根絶戦を基軸とした〈両輪〉の闘いの戦略的一環として、2・11報復―30ヵ年決戦の爆発を闘いとるであろう。対革マル戦を徹底的にその帰結まで闘いぬく党派こそが、新左翼運動の全体を制するであろう。最高指導部を虐殺されてその報復をなしえないならば、労働者人民から信頼されることはけっしてない。対革マル戦の推進のなかから革命的労働者党と革命軍の強力な建設をおしすすめる。革マルの革命党指導部虐殺攻撃に対決し、非合法地下態勢と党指導部を防衛し、ここを対革マル戦の重心としつつ公然大衆運動と党派拠点建設を進める。

 対革マル戦の過程で、第4インター派を中心として「内ゲバ反対」論が生みだされた。革マルを革命の隊列の「内側」と見なす誤りとともに、革マルの宗派性、武装反革命としての徹底性、その敵対性格を見ない日和見主義であり、それは革命運動の内側からの解体をもたらす。われわれは、大衆運動主義的で日和見主義的な60年代の「降りかかる火の粉」論(革マルの敵対を大衆運動の推進に降りかかる「火の粉」としてとらえ、大衆運動の推進に邪魔であるかぎりで革マルと闘うという日和見主義)を、早大―全国学生戦線、戦闘的労組青年部をめぐる闘いをとおして克服してきた。

 また、反内糾の社民的サンジカリスト集団が、同志中原虐殺に対する報復戦それ自体に反対し、組織から脱走するために「革マルと闘えば自分たちがスターリン主義化する」なる投降路線を主張したことに対しては、革マルが革命闘争を廃墟化するのを許さないという革命党の階級闘争の革命的利害をかけた任務と死活性において、決して許容することなく対決した。そしてわれわれのこの一つひとつの闘いや決断の正しさは、以降の歴史のすべてが証明している。

 問題は大衆運動と党派闘争展開の対立だったのではなかった。労働者の敵、三里塚の敵、差別主義反革命=被抑圧人民・被差別大衆の敵、全人民の敵である革マルを許すのか否か、その大衆運動の戦闘的・革命的発展それ自身をかけて、その大衆運動自身が対革マル戦に決起する闘いの質・内容をわれわれが作れたのか、それとも解体的にしか関われなかったのか、という性格の問題であった。革マル解体は、「内ゲバ反対」論や「大衆運動で革マルを包囲する」論では実現できない。反帝闘争の推進を頑強におこないつつ、相対的独自に対革マル党派闘争を推進しなければ勝利することはできない。そのためには、革命的軍事組織を建設し戦闘に習熟すること、(会議や財政、機関紙といった)党組織活動を強固に作りあげ、思想闘争・学習活動を日常活動として組織すること、三里塚や国労闘争団、部落解放闘争や「障害者」解放闘争の戦闘的闘い、沖縄の戦闘的人士や救援センターに結集する戦闘的反弾圧活動家(団体)など革マルを許さず対決する戦闘的共同戦線―戦闘的大衆運動を強力に作りだすことが必要である。党派拠点はそのような闘いの総体をもって、それを体現するものとして建設される。

 われわれ解放派は、潮流的創成の当初より黒田に対する綱領的な非和解的対決をかかげ闘いぬいてきた。われわれは解放派創成以降の対革マル戦の歴史のすべてを継承し、とりわけ2・11以降、30年間にわたる革マル死闘戦の歴史に責任をとり、宣言したことは必ず闘いとる。それを木元グループの対革マル戦の清算と投降の対極に、2・11報復完遂、革マル解体・絶滅として闘いとる。革マルが木元グループの敵対・逃亡を解放派への攻撃のチャンスとみて(一方で中核派への「とどめ刺し」=テロ宣言を発し)、解放派への白色テロ策動を強めている。権力に尻を叩かれながら、黒田絶望死の危機を乗り切るために残存官僚どもは排外的にわれわれに向かおうとしている。

 われわれは、反革命革マル解体絶滅を必ずや成しとげる。07年、われわれは、2・11報復30ヵ年決戦に総決起する。2・11反革命正面突破は、転向反革命木元グループ根絶戦と並ぶ解放派の絶対的な闘いの基軸である。革マル解体・絶滅はいまだならず、同志中原虐殺報復戦はその途上にある。同志中原・同志石井の無念と同志狭間の格闘をひき継ぐ闘いは、現在直下のわれわれすべての決意である。対革マル戦途上に倒れた同志小田切の無念、そして木元グループの白色テロに倒れた不抜の対革マル戦士であった5同志――60年代後半から70年代の対革マル戦の先頭にたち全党の先頭で新たな地平を切りひらいた同志荻野。同志石井につづいて九州において革マルを粉砕しつづけ、同志石井虐殺報復、同志中原虐殺報復の最先端で九州組織を支えぬいた同志安部。73年9・14―15神大戦闘以降の公然・非公然にわたる対革マル戦を不屈に切りひらいた同志柿沼。つねに対革マル部隊行動の先頭にたち、総評青年協をめぐる党派闘争を牽引した同志仲野。コンビナートにかかげた赤旗を振りかざして青年協をめぐる党派闘争で、国鉄決戦で仁王立ちして闘った同志矢野――この同志たちの無念、そして73年早大連戦戦士、9・14―15戦士であり、幾たびも革マルを血の海に沈めてきた勇敢な対革マル戦士平野(山田裕行)の病に倒れざるをえなかった無念の思いに、われわれは断固としてこたえ、その遺志を継承し、革マルの完全な解体・絶滅のために、30ヵ年決戦に総決起する。明大・九大の不抜の拠点化をテコに、早大攻略、東大拠点化、全国学園からの革マル解体一掃と戦闘的拠点拡大をかちとる。国鉄分割民営化の尖兵―JR総連革マルをせん滅し、闘う闘争団―国鉄労働者と連帯して国鉄決戦の勝利をかちとる。同化主義反革命―沖縄革マルをせん滅し、同化・皇民化攻撃と対決し、米軍・自衛隊解体、沖縄人民解放にむけて前進する。差別主義・排外主義攻撃と対決し、国粋主義を煽動し日帝の天皇(制)攻撃―翼賛化の尖兵である反革命革マルを全戦線から解体・一掃する。

 三里塚闘争破壊と反対同盟解体攻撃が07年にはいり一挙に強まっている。革マルが、三里塚闘争破壊・敵対を強めている。全力をあげて三里塚決戦に総決起し、空港廃港、飛行阻止の戦略的ゲリラ戦を闘いとろう。三里塚決戦の本格的権力闘争としての爆発は、革マルを危機に追いこみ、その敵対を強めさせるだろう。
三里塚決戦に集中し、その勝利のなかから2・11報復30ヵ年決戦勝利の革命的テロル戦闘を植田、柳葉、前原、土門、朝倉、西條らの残存革マル中枢、松崎―JR総連革マル、白色テロリストに集中し、革マルを打倒しよう。多岐川走

 出典: 革労協「解放」880~884号2007年3~5月






(私論.私見)