| 政治運動昂揚の為のれんだいこ提言 |
更新日/2026(平成31.5.1栄和改元/栄和8)年4.13日
| (れんだいこのショートメッセージ) | |||||||||||||
れんだいこは、毛沢東をそれなりに評価する。その毛沢東は「中国社会各階級の分析」で次のように述べている。
これは卓見である。これほどズバリと胸を打つ指摘があるだろうか。「党派運動の再生」論は、「中国の」とあるところを「日本の」と置き換える視角から論ぜられば良い。今日の我が国の政治運動の貧困は、未だこの観点さえ確立されていないところに発生しているのではなかろうか。更に云えば、この簡潔平明な公理に対する運動側の無自覚、その対極での難しく難しくこねて偉ぶる屁理屈、我々の戦闘意欲を削ぐのに資する糖衣錠理論の数々が却って、凡そ人民大衆の政治運動の接近を妨げているのではなかろうか。 マルクス主義的左派運動はプロレタリア階級の階級的利益に叶う新権力樹立運動に眼目がある。他にも無政府主義的なあるいはコロニー的な左派運動はあり得る。これらに並行して宗教運動がある。これらとの運動との協調と競り合い、あるいはマルクス主義的左派運動内部の穏和系と急進主義系との協調と競り合い、ここに運動の利益がある。しかしながら、各党派が、こうした「協調と競り合い」の重みに耐えかねて、「我さえ良ければ」式のセクト的利益に向かえば、事態はどうなるか。そこへ当局側からの意図的な分裂策動が加わればどうなるか。セクトを育成し意図的故意の分裂策動を画策すればどうなるのか。それらの格好例証教材として日本の戦後左派運動史がある、と云えばお叱りを受けるだろうか。れんだいこにはそのように見える。 我々が、そうした閉鎖系陰系のセクト的利益、運動のしがらみ、無能さからどう抜け出せばよいのか、その処方箋を求めて訪ねるのが本稿の企図するところのものである。但し、いつも書き付けているが、れんだいこ一人の手には負えない。これを契機に叡智を寄せ集めていただきたい。 次に、お願いというほど卑屈に云いたくはないが、この観点から既にれんだいこが為している分析は今のところ水準を抜いていると自負している。この提言を踏まえぬままの同種議論がどこへ辿り着くのか見てみるのも興味深いが、れんだいこの趣味ではない。我々の左派運動に漬物石の如く被さる理論以前の左翼狭量主義から左派運動を脱却せしめること、これが最初に為さねばならぬことではなかろうか。うん、又偉そうに云うてしもうたか。 2001.7月の参院選は、社共運動の最後的失墜を明白にさせた。捲土重来的に未練を持つよりも、今や再生という角度から総点検していくべきではなかろうか。このところの右派イデオロギーとその攻勢は、左派の防戦運動を尻目にますます台頭していくことが予想される。もはや座す訳には行かない。 では、具体的にどこを「構造改革」すべきだろうか。思いつくままに取り上げてみるとすれば、
等々のテーマが考えられる。これを纏めて一言でいえば、「左派内に醸成された気難し系運動を排斥し、陽性運動に転換せしめよ」ということになるだろうか。 残念ながら、こうした観点から見えてくることは、戦後左派運動の低迷と失墜は、「小泉旋風による台風一禍」ではなく必然の産物であるということである。れんだいこの場合にはとうの昔に愛想を尽かしている。しかし、そうした一身の弁明だけでは何の力にもなり得ないことも事実であるからして、今や何事か企てねばならない。 心せねばならぬことは、社共指導部がこれを苦衷恥辱と受け止める能力さえ欠如しており、むしろ本音は無痛にして今もダラ幹的座椅子に温もり続けていることである。これは能力を問う以前の問題であり、心構えが違うこういう人士の放逐から歩を進めねばならない。次に知能紳士を気取る追従屋とも対決せねばならない。次にはこの事象に冷淡に見えるその他左派戦線の嘲笑屋を凝視せねばならない、のではなかろうか。これらがさし当たっての一里塚となるべきであろう。 2004.3.6日再編集 れんだいこ拝 |
(私論.私見)