| 1966年 | 全学連運動史第7期その2 |
| 全学連の転回点到来 |

更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年4.7日
これより前は、「第7期その1、べ平連、反戦青年委員会結成される」に記す。
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| この年、大学紛争が本格的に始まる。私立の早大、明大、中大、官立の横国大、東大で火の手が上がる。ベトナム反戦闘争が活性化し、三里塚闘争が始まる。新三派系全学連が立ち上がる。キャンパスの内外が政治闘争化し始めた。この過程を検証する。 |
| 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1966年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。 |
| (自治会執行部の争奪の動きとその関連) | ||||||||||||||||||||
この頃の各派全学連と傘下自治会は次のようになっていた。早大闘争が始まり、東大闘争、横国大闘争その他諸闘争を点火していくことになった。
|
| 【横浜国大闘争】 |
|
1月-3月にかけて横浜国大で、学部の学芸学部の学部名変更に反対する紛争がおこり、学生がキャンパスを封鎖、教職員を排除して、学生の自主管理を約1か月余にわたって強行した。この自主管理下のキャンパスでは、学生自治会が編成した自主カリキュラムによる学習が進められるという画期的なものとなった。 |
2.1日、中国「人民日報」に劇作家・田漢を批判する論文が掲載。文化大革命がスタートする。
| 【第1次早大闘争始まる】 | |||||||||||||
| 「早稲田大学百年史」の「第十編 新制早稲田大学の本舞台/第十八章 「学費・学館紛争」(下)/一 厳戒態勢下の入学試験」その他を参照する。 | |||||||||||||
| 早稲田大学で1965年末から学費値上げ、学生会館管理問題から始まった学生運動を第1次早大闘争と云う。1966(昭和41)年の休み明けとともに今度は学費値上げ問題が発生した。大幅な学費値上げに抗議して、一法・教育の両学部がストライキに入り授業放棄の挙に出たのを皮切りに、第一政治経済学部・第一商学部・第一文学部がストに入り、理工学部もストを開始して、遂に瞬く間に全学ストライキに突入していく事態になった。最初は発言力がある一部の学生だけが起こしていた学生運動もこうして全学生を巻き込んでテストさえも中止にならざるを得ない事態になっていった。政治党派に属する活動家学生だけでない広範な一般学生も闘争に参加したこと、闘争主体が全共闘を名乗ったこと、全学バリケード封鎖という実力行使という方法など、後に全国で活発化する学園闘争、全共闘運動の先駆となった。約150日間続いたこの闘争は、後に起こる闘争と区別して第1次早大闘争と呼ばれる。 | |||||||||||||
|
1.18-20日、早大で、「学生会館の管理運営権獲得」に加えて学費値上げ反対闘争が始まり全学ストライキに突入した。これは、前年の12月に、早大理事会が教授会にも諮らず、学生が冬休みに入ってから大幅な学費値上げを発表したことに対する憤激から始まった。約5ヶ月に亘って続くことにり、「早稲田を揺るがした150日(足掛け7ヶ月)」として刻印されている。 広谷俊二氏の「現代日本の学生運動」は次のように記している。
民青同系全学連加盟自治会であった第一法学部と教育学部自治会が無期限ストライキ突入。この時、日共の指導の下で高野孟らが民青同系を指揮している。
このあと、事態を憂慮した比較的若手の教職員から、総長・理事者の一層の努力を懇望するとの発言があり、最後に割れんばかりの拍手を浴びて総長以下理事達は12時に退場して散会した。この日午後2時より評議員会が東京会館で開かれ、学費値上げを既定方針通り進めることを確認し、国会稲門会の調停案についての理事者の意見を支持することを決めた。
この時、国会稲門会の示した調停案は、値上げ予定の学費から、授業料1万円値下げ、施設費1万円値下げ、奨学金を五百人分増加、学生の退学・除籍などの処分は行わない、学生会館の運営委員は教員・学生同数とする、3年間に5億円の寄附を集める、国会議員団は国の助成金増額に努力する(朝日新聞2.21日号朝刊)という内容であった。不成功に終った調停を新聞各紙はほぼ紙面の半分以上を費やして、「双方の胸のうちは/折れた大学当局、強気の学生側」、「国会稲門会はこう動いた/裏切られた自信」、「なぜ断わった学生側/結局、過激派がひきずる」、「『カベ』は堅かった/頭をかかえる先輩議員」などの見出しで、数葉の写真を添えて報道した。譲歩した大学側にとって、この調停不成立は時間的に万事休すであった。大学側は、入試会場確保のためには、警察の力を借りるより外に選択の途がなく、この夜警視庁に警官隊の出動を正式に要請した。小雨のそぼ降る構内は警官隊の導入を予期してか騒然たる雰囲気に包まれ、6百人ほどの学生が泊り込んだ。 この21、22日の機動隊出動について、学苑を所轄の対象とする戸塚警察署の一署員は次のように記している。
2.22日午後2時過ぎ、佐藤観次郎(昭三政、社会党)が、国会衆議院の本会議で、校友代議士学苑の紛争に関連して広く私学振興についての緊急質問を行っていた。佐藤議員は佐藤栄作首相、中村梅吉文相に、私学に対する財政援助および寄附金の免税措置等について政府の姿勢を質した。次いで午後4時過ぎには、中村文相が事務次官、大学学術局長同席の上、大浜総長を参議院別館の政府委員室に招き、「早大の入学試験が平穏に行なわれるよう、大学側も学生側も努力してほしい」と要請し、学苑の紛争について事情を聞いて早期解決を要望するとともに、入学試験の見通しなど具体策を質した。総長は「目下解決のため努力している最中だが、入学試験だけはなんとか無事に行なえるようにしたい」と述べ、「この紛争を契機に、政府の私学振興策をさらに促進してほしい」と要望した(朝日新聞2.23日号朝刊)。 3.6日夕方、大浜総長は大隈講堂に教職員の参集を求めて、入試が無事に終ったことについて謝意を表し、同日付で大学は入試無事終了の「声明書」を学苑内外に発表した。これは、多方面に対する謝辞を目的にして出されたものである。ここには、大学の対応が五項目に亘って記されており、その第二項で決意が次のように披歴されていた。
3.7日、封鎖を解かれた学内に学生がもどった。諸事の禁止掲示をよそに昼過ぎには共闘会議や民青系の学生が集会を開いた。そして、共闘会議は第一政治経済学部自治会室で記者会見を行って、一般学生の対応が分散してきているとの認識を示した。2.4日の総長説明会を境として共闘会議が分裂し戦術をめぐって占拠派と非占拠派に分かれ、2.14日には共闘会議の占拠派が調停に応じる姿勢を見せたので社青同系と革マル系とが対立し、こうしたセクト間の争いが表面化してくるのに伴い、一般学生は学費値上げには憤りを覚えつつも、セクト間の争いに食傷する気分も醸成されていった。共闘会議にとって、この状況を打開し、いかにして組織を再構築するかということが大きな課題となった。共闘会議は、来る25日の卒業式は大学に対する弾劾の集会にすると発表した。 3.25日、自主卒業式。例年ならば、晴れやかな雰囲気で学部合同の統一卒業式が挙行される日であった。しかし、商学部のみが大隈講堂で学部卒業式を行っただけであった。同学部以外は卒業式に類する行事は実施せず、卒業生は各学部事務所で学生証と引換えに卒業証書を受け取ったのであった。
3月下旬、在校生の関心は4.1日以降に延期されていた学年末試験であった。 5.1日、紛争で延び延びになっていた昭和41年度の学部入学式が一ヵ月遅れで、記念会堂で午前と午後の二回に分けて挙行された。開式に先立ち、グリー・クラブ、コール・フリューゲルによって校歌の指導が行われ、早大交響楽団の奏でる校歌とともに教職員が久しぶりに式服に威儀を正して入場して壇上の席に着いた。教務部長の開会の辞に続き、既に辞意を表明している大浜総長に代って時子山常任理事が式辞を述べた。「最初にお詫びしなければなりませんことは、清新潑剌たる諸君をお迎えするに当りまして、まだ学園の正常化が十分ではなく、バリケードなども残っていることでありますが、現在各学部で学園の正常化と改善に努力しておりますし、また、大学全体としても、今回の事件から学びとりましたいろいろな教訓に顧みまして諸君を迎えるにふさわしい大学づくりを目指していますので、今日から名実とも早稲田大学学生の一員となられた諸君は、新しい早稲田大学の歴史づくりに加わるのだという意気込み、自負をもって、今後四年間の学生生活を実り多いものにして頂きたいのであります」(『早稲田学報』昭和41.6月発行第762号10頁)と謝罪の言葉を述べたあと、「『永遠」の今を生き抜こう」との内容の新入生歓迎の式辞を行った。最後に全員が起立し校歌を斉唱して式を終えた。この入学式は、本部校舎にバリケードを残したままで挙行されたが、学苑はこの日を待ちわびた一万余の新入生とその父兄達で賑わい、あちこちで記念撮影がなされ、またサークルの勧誘が盛んに行われたりして華やいだ空気が溢れた。式場の記念会堂の前では共闘会議派の学生が集会を開いたが、妨害もなく式は二回とも無事に終了した。なお、大学院と専攻科の入学式は、学部に先立って4.18日に21号館(現10号館)の大教室で既に挙行済みであった。 5.10日、銀座東急ホテルで開催された臨時評議員会で辞表が受理され、同時に総長代行に阿部賢一評議員会長が選出された。毎日新聞5.11日号朝刊は次のように報じている。
各紙朝刊は、「学生の声を聞く/わたしは態度で示すよ」、「根気よく取組む/早大総長代行阿部さん語る」、「早大阿部総長代行語る/血の通う大学に」、「阿部氏が総長代行/凍った感情ときたい」などの見出しで総長代行就任の抱負を伝えた。阿部総長代行は、就任の翌日早速登校して、学生の前にその姿を現したばかりでなく、更に共闘会議の集会に前触れもなく、いわば分け入る形で出席するという積極的な行動を採った。 毎日新聞5.12日号朝刊が、この光景を大きな写真入りで次のように報道している。
阿部総長代行は、昭和初年の政治経済学部の新進の教授時代、大山郁夫教授の辞職(「大山事件」)が議題に上った政治経済学部教授会で、大山の辞職を求める高田早苗総長の教授会への臨席を不都合として高田に退席を求め、教授会の大勢に抗して大山を擁護し、また、毎日新聞(大阪毎日新聞、東京日日新聞)の主筆時代、対米英宣戦布告を直前に察知し、身体を張って、東条英機首相の弾圧を覚悟の上で開戦の一大スクープを国民に報知した、まさに昭和ジャーナリズム史上にその名を留めている人で、学識の豊かさ(本学苑が付与した経済学博士の第一号)に加えてその見識と気骨あるりベラルな人柄は知る人ぞ知るで、こうした人柄が、いきり立っていた学生達に期せずして好感を以て迎えられた。阿部の総長代行としての登場は学苑に爽風を吹き込む役割を果した。僅か十分ばかりの学生とのこの初の「対話集会」を伝える新聞が、「阿部さんニコニコ、学生もニコニコ/一緒にやろうよ/早大臨時総長、マイクに立つ」、「阿部さん、学生に第一声/魂のふれ合いを/ワセダを守るのは君たち/学生さかんな拍手」、「なごやかに学生と話し合う阿部総長代行/『阿部調』に爆笑と拍手/学生二千人に顔見せ」、「『名誉を回復しよう」/阿部早大総長代行集会で気軽な第一声」等々の見出しで詳報した。かくして、大浜総長の辞任の英断に続く阿部総長代行の登場は、紛争の流れを変える上で一大エポックとなった。 5.13日、阿部総長代行を中心とする新理事会が発足した。阿部は新理事とともに紛争解決に向けて積極的に行動した。
阿部総長代行の言う「5.23日」は重要な意味を持つものであった。学苑当局は、実は、「五月危機」に直面していた。一つは、阿部が自伝「新聞と大学の間」で次のように回想している。
学校教育法第13条に、「六箇月以上授業を行わなかつたとき」には「監督庁は、学校の閉鎖を命ずることができる」と定められており、また一方、大学設置基準第27条では、「一年間の授業日数は、定期試験等の日数を含め、三十五週にわたり二百十日を原則とする」と定められていて、大学の存立に直接関わる非常事態に直面していた。この段階では、「学校教育法」に抵触するまでには暫くの日時が残されていたが、大学設置基準に違反する恐れは目前に迫っているという緊急事態にあった。従って、学苑はこの事態を学生達に十分に理解させ、現状打開を早急に訴えなければならなかった。「5.23日」の重要な意味を学生に周知徹底せしめるため、各学部では更に詳しく説明した掲示を張り出した。例えば第一政治経済学部では、28日付で、「学年度の完結について」と題する掲示を出している。こうした中でも、かつての規模ほどではないものの、少人数のデモが断続的に繰り返され、バリケードはそのままであった。
5.23日、全学一斉の授業再開日となったこの日、定時評議員会が開かれ、阿部新体制は学費の中の施設費を2万円引き下げる方針を打ち出した。この件は、この後、7.15日の評議員会で正式に決議され、即日施行となった。 5.25日、第一文学部新4年生、第二政治経済学部新2年生・新3年生の期末試験が実施された。 5.28日午後2時から21号館で共闘会議主催のティーチ・インが阿部総長代行と各理事が出席して開かれた。処分問題、学費値上げ・学生会館問題、機動隊導入問題について学生との質疑応答があり、堂々巡りの議論で阿部総長代行の疲労も加わり、遂に11時30分頃医師が制止して阿部総長代行の退場となった。翌日午前2時頃まで高木純一常任理事が代って答弁するという長時間集会となった。 6.1日、大学側と学生達のティーチ・インが行われ、各学部での学生大会も頻繁に開かれた。大学当局の熱心な働きかけと一般学生の授業再開への努力が次第に実り始めた。 6.4日、第一政治経済学部が、5日から7日にかけて第二文学部が、14日に第一法学部・教育学部(民青系)・第二政治経済学部が、15日に教育学部(革マル系)がそれぞれスト中止を決議した。そして、最後まで去就が注目された第一文学部では19日の学生大会が遂に深夜にまで及び、このため多くの女子学生も帰宅できない事態となり大隈会館や校舎内で宿泊あるいは仮眠する者が続出し、20日付で第一文学部長名による、「下記の者は、昨夜の当学部学生大会に参加し、深夜に及び、帰宅できなかったことを証明します」との証明書まで発行することになってしまった。こうした大会を経て、22日午後2時までに学生投票が終了してスト中止と決定し、同5時に学苑最後のバリケードが撤去された。ここに1.18日の第一法学部・教育学部のスト突入以来の断続して打たれてきた全学ストが155日ぶりに解除された。6月、最後となった文学部のスト解除で決着を見たが、「早稲田を揺るがした150日(足掛け7ヶ月)」として刻印されている。 |
|||||||||||||
| 百五十五日にも及んだ紛争の意味と、この事件がもたらした教訓。 | |||||||||||||
| 「学館問題」のその後の推移。 紛争終結後の41年10.14日、学部長会の要請に基づいて学生会館問題委員会が設置された。同委員会は各学部および体育局の教員代表、学生の会の会長代表、教務担当常任理事、学生部長、庶務部長ら24名から成り、以後、翌年5.6日まで19回委員会が開催された。しかし、学生側との折衝は実を結ばなかった。その後、44年に再検討され「学生会館管理運営大綱案」が作成されて、建物の管理責任・人事および予算の最終決定は大学側にあるが、実際の使用上の問題は、学生代表によって構成される運営委員会によって運営され、規約や予算などは大学と運営委員会との間に設けられた協議会によって協議されることが提案された。しかし、その後も、学生側との折衝がうまくいかなかったばかりか、引き続く学苑紛争によって閉館もやむを得ない状態が長年続いた。この間、46年夏に建物保全のため外装の一部が補修され、更に55年に1階から5階にかけて改修が施されて、遂に秋より、竣工以来実に15年ぶりに開館の運びとなった。 |
| 【早大闘争に対する各派の理論】 | |
| この背景は次のように考えられる。自民党政府の教育行政政策は、この時期増大し続けるベビーブーマーの大学生化に対して何ら有効な受け入れ対策をなしえず、私学へ追いやってきた。一方で、戦後直後の社会的合意でもあった「大学の自治」に対する介入を強め、お得意の官僚的統制を進めつつあった。「アメリカさんから頂いたものは日本の風土に合わぬ」というばかりの逆行コースへシフト替えしつつあった。私学経営者は、「大量入学→マスプロ教育→設備投資→
借入金増→学費値上げ→大量入学」という悪循環に陥っていくことになった。
自民党政府によるこうした教育費の切りつめという反動的な大学政策の一方で、財政投融資、軍事費にはどんどんと国家予算を投入していた。これらの動きにどのように対応していくのかが早大闘争の課題であった。 民青同系は、1.教育機会均等の破壊、2.大学運営の非民主的やり方、教授会及び学生自治会の自治権に対する侵害、3.一部理事による闘争弾圧の為の機動隊導入及び国家権力の介入等への批判を組織していくこ とを指針させた。併せて、4.ひものつかない国庫補助の大幅増額等を要求する学園民主化闘争を指針させていた。 社青同解放派は、資本と労働の対立という観点からの大学=教育工場論に基づき、闘争を、教育工場を経営する個別権力資本=早大当局と個別労働=学生の闘いであり、教授一般は労働下士官と捉えたようである。こうした「個別資本からの解放」、「産学協同路線粉砕」という理論は、その後学園闘争に対するストライキ、バリケー ド、武装、コンミューンの樹立へと発展する理論的基礎となった。民青同は、 社青同解放派のこうした理論を先鋭理論と位置付け、自民党政府の反動的貧困な大学政策に対する闘いを放棄し、免罪していると批判した。 革マル派は、国家政策としての大学管理化とこれに呼応する大学当局の産学協同政策に対する闘いとして位置付け、「学問を独占的な産業に従属させ、創造的で自由な、権力に抵抗するような学問を封じ込める結果になる」という立場から批判していた。 この後明大闘争を担うことになったブントは、この時の早大闘争を次のように総括した。
この理論はやがて「ポツダム自治会破産論」 を導き出していくことになった。こうした諸理論の発展が、後の全共闘運動とその大学解体論の下地をつくっていくことになった。 |
|
||||||||||||||||||||||||||||||
その他、長崎大=学館問題、同志社大=学館・寮開放、山形大=自衛隊説明会中止・寮問題、東京農大=新寮建設問題、近畿大=総長選問題、群馬大=学館問題、東北大=移転反対問題、高崎経済大=不正入学・私学化反対、都留文科大=新校舎落成式反対などさまざまな問題をとらえて闘争が展開された。その数、実に全国で65校に及んだ。
1.21日、都学連(三派系)主催・公共料金値上げ反対、原潜・原子力空母寄港反対決起集会〔清水谷公園〕、二百五十名結集、国会デモで四名逮捕。
1.23日、全国実行委主催・米原子力艦隊寄港阻止横須賀集会〔臨海公園〕に都学連(三派系)等五百名参加、米軍基地ゲート前で機動隊と衝突、二名逮捕。
|
【東大で、インターン制廃止闘争始まる】 |
|
|
1.24日、東大医学部自治会、インターン配置問題をめぐって卒業試験ボイコ ット闘争。これが後の東大全学部を巻き込んだ東大紛争→東大闘争に発展していくことになった。「全共闘グラフティー」は次のように記している。
1月から3月にかけて横浜国大で学部の名称変更に反対する紛争が起こり、学生がキャンパスを占拠、教職員を排除して学生の自主管理を約1ヶ月余にわたって強行した。その自主管理下のキャンパスでは、学生自治会が編成した、自主カリキュラムによる学習が進められるという画期的な事態が発生していた。3月には、民青系全学連、全寮連、大学生協連の共催で、大学自治と学生生活を守るゼミナールが開かれた。6.24日青医連・医学連、インターン制廃止統一行動。10月東大の大学院生を主とする「東大ベトナム反戦会議」が所美都子らの手で立ち上げられた。この動きが後の全共闘のさきがけとなって行く。 |
1.28日、教員養成制度改悪阻止全都学生総決起大会〔麻布公会堂〕、横浜国大学芸学部生中心に七百名参加、学芸学部の教育学部格下げ反対・教員免許法政悪阻止等を決議、文部省・国会にデモ。
2.1日、原水禁、結成.=あらゆる国の核実験反対。
2.2日、医学連関東ブロック主催・インターン制完全撤廃決起集会〔清水谷公園〕に千五百名参加、文部省デモで一名逮捕。
2.2-4日、郡学連(民青同系)第二回臨時大会〔東京経大〕、六大学八自治会脱退の自己批判、早大闘争支援を決議。
|
2.7日、米国がベトナム北爆開始。 |
2.20日、都学連(三派系)主催・大学設置基準改悪・教員免許法粉砕全都決起集会〔清水谷公園〕 に五百名参加、文部省デモで三名逮捕。
2.21日、全学連(民青同系)・全寮連、在日朝鮮人弾圧の学校教育法改悪反対で政府に抗議。
3.8日、佐藤首相、安保条約は70年以降も存続性を処理する必要があると発言。
3.12-13日、全学連(民青同系)第五回中央委〔明大〕、全国学園闘争重視を討議、中執三名辞任に伴い委員長代行に梓沢和幸決定。
3.14日、青学代表者会議主催・青学総決起集会〔日比谷野音〕に民青同系八百名参加、早大闘争支援を決議。
3.20日、諸要求貫徹全国大統一行動、中央集会〔晴海埠頭〕に全学連(民青同系)六千名参加等、全国各地で一万三千名が集会・デモ。
| 【日本のこえ派と社革、統社同が結集】 |
| 3.21日、日本のこえ派と社革、統社同が結集して「共産主義者の大同団結を呼びかける全国活動者会議」開催。組織統一準備委員会発足。委員長・志賀義雄。 |
3.26-28日、大学自治と学生生活を守る第一回全国学生ゼミ〔東京〕に民青同系千名参加、教育の軍国主義化反対等を決議。
3.27日、都学連(三派系)第十五回臨時大会〔法政大〕、日韓闘争を総括、大学設置基準改悪阻止・十二月全学連再建等を決定。
3.28日、都学連(三派系の中核派・社学同統一派・ML派・社青同)・京都府学連共催・全国自治会代表者会議〔東京〕、構改系を除く各派四百名参加、十二月全学連再建を確認。
3.30日、民主主義学生同盟第6回大会。
4.2-3日、全学連(革マル系)第四十三回中央委〔東京〕、早大闘争の支援強化等を決議。
4.17日、早大、期末試験再開を目論んで、体育会系学生とOBが教育学部のバリケードを撤去。これを阻止しようとした共闘会議の学生と乱闘になり、双方で二十名が負傷。
4.18日、全学連(民青同系)大学の自治を守れ等全国統一行動、全国各大学で学内集会・デモ。
4.20日、反日共系各派、大学設置基準改悪・教免法改悪反対で決起集会〔清水谷公園〕に三百名結集、文部省デモで三名逮捕。
4.22日、中央実行委主催・春闘勝利等総決起集会〔日比谷野音〕 に民青同系千名参加。
|
4・23 |
早大、大浜信泉学長が紛争解決のためと辞意を表明。 |
4.26日、国労スト支援に反日共系各派百五十名、品川駅構内で坐り込み・集会、機動隊の実力行使で三名逮捕、民青同系七百名、品川駅前で集会。
4.28日、全国学生統一行動。早大共闘会議・反日共系各派、大学設置基準・教免法改悪粉砕・外国人学校制度設置反対・早大闘争勝利全都総決起集会〔早大〕 に千五百名参加、のち早大生先頭に日比谷公園までデモ・五名逮捕。医学連は千五百人がインターン制度廃止を掲げ厚生省へデモ。
全学連(民青同系)等主催・早大闘争勝利を目指す中央集会〔早大〕に八百名参加、新宿までデモ。
5.10日、大浜学長の辞意が認められ、阿部賢一氏が総長代行に就任。
5.10日、全学連(革マル系)百名が、中国水爆実験に抗議し新橋駅構内で集会、のち華僑総会本部に抗議デモ、無届デモとして四名逮捕。
5.13日、全学連(民青同系)主催・早大闘争勝利・教免改悪反対等諸要求貫徹決起集会〔日比谷公園〕に千名参加し国会請願。
5.16日、中共中央委員会が、中央文化革命小組み設置を下部組織に通達。論争から実際の奪権に向かい、これが文化大革命の始まりとなる。文化大位革命は、トロツキーの永続革命論を採り入れ、更に進化させた継続革命論に依拠していた。次のように述べている。
| 「社会主義社会は相当長期らわたる歴史段階である。社会主義というこの歴史段階に於いては、依然として階級、階級闘争が存在し、社会主義と資本主義との二つの道の闘争が存在し、資本主義復活の危険性が存在している」(「北京周報」18号)。 |
5.17日、反戦青年委主催・ベトナム侵略反対総決起集会〔日比谷野音〕に労学四千名参加、国会デモ。
5.18日、都学連(三派系)主催・教免法改悪反対・大学設置基準改悪阻止全都決起集会〔清水谷公園〕に千五百名結集、国会・文部省に抗議デモ、十二名逮捕。
5.20日、早大共闘会議・反日共系各派、早大闘争支援全都総決起集会〔早大〕に二千五百名参加、国会・文部省にデモ、民青同系三千名も集会〔早大〕・米大使館デモ。
5.27日、都学連(民青同系)等主催・米原潜横須賀寄港阻止全都緊急集会〔清水谷公園〕に五百人参加、米大使館にデモ、三名逮捕。
5.28日、米原潜スヌック入港を翌日に控え、横須賀現地で労働者・学生八千人が原潜寄港阻止横須賀大集会を開く。都学連学生五百人と労働者百人は基地に向けて激しくジグザグデモ。
5.29日、原潜寄港阻止社共統一行動、横須賀大集会に反日共系各派五百名結集、基地ゲート前で機動隊と衝突、五名逮捕。
5.30日、米原潜スヌックが横須賀基地に入港。労・学1万5000名が次第に数を増しながら原潜寄港抗議行動。反日共系各派百名が、横須賀基地正門突破して基地内でデモ展開、機動隊・MPと衝突。刑特法違反で11名逮捕される。昼は神奈川県下の労組員を中心に抗議集会、夜は都学連三千人を中心にデモ。
5.31日、原潜寄韓阻止社共統一行動、横須賀大集会に民青同系千名参加。反日共系各派二千名が原潜寄港阻止決起集会〔横須賀〕。機動隊に規制されつつも基地正門ゲート前坐り込み展開、四名逮捕。
6.1日、労働者・学生三万五千人が原潜寄港抗議行動。都学連二千人は四時問にわたって機動隊と激突しながら基地ゲート前座り込み闘争を展開。神奈川反戦・社青同などの一部労働者と合流した。
6.2日、全学連(民青同系)主催・原潜寄港阻止中央決起集会〔日比谷野音〕に千二百名参加。
6.4日、共青が掌握していた教育大の文・理自治会失陥。共青系指導が崩壊。
| 6.7日、社革内の統一反対派である西川彦義、中村丈夫らが分裂。西川らが日本勤労者解放連盟を結成。11.12-14日、前期結党大会開催。 |
| 6.8日、平和と社会主義をめざす学生同盟が統一共産同盟に改称。 |
6.9日、都学連(三派系)主催・祝日法粉砕エンプラ寄港阻止決起集会〔日比谷野音〕に四百名参加、清水谷公園までデモ。
6.15日、六・一五記念集会実行委主催・安保六・一五記念政治集会〔九段会館〕。
6.15日、都学連(三派系の革共同全国委・共産同(マル戦派)・共産同統一委)等の学生、労働者二千名参加、十二月全学連再建等のスローガン採択。
6.20日、べトナム侵略・米軍王子野戦病院設置反対都民集会。全都から労働者など千五百人が参加。反戦青年委が、野戦病院設置予定地で座り込み。
6.21日、全学連(民青同系)全国統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に二千名参加し大学の自治を守れ等決議、代表団文部省で抗議文朗読。
6.23日、都学連(三派系)主催・エンプラ寄港阻止・小選挙制粉砕全都決起集会〔清水公園〕に六百名参加、日比谷公園までデモ・一名逮捕。
6.23日、早大、一文スト解除により、学費値上げ闘争が終結。
6.24日、青医連、医学連が、インターン制廃止統一行動。
6.29日、アメリカが、北ベトナムの首都ハノイを爆撃。
6.30日、反日共系各派百五十名、ハノイ・ハイフォン爆撃緊急抗議行動、米大使館にデモ。
7.1日、ハノイ 爆撃機抗議緊急集会に各派数千名集結。全国実行委主催・ハノイ爆撃抗議緊急集会〔清水谷公園〕に都学連(三派系)二百名参加、反戦青年委とともに米大使館にデモ。
7.2日、全寮連の第8回大会が開かれた。この時民青系と反民青系との間に暴力事件が発生している。
7.4日、関西の労働者・学生五千人が、ラスク米国務長官来日阻止の伊丹空港闘争を展開。京都で、反戦青年委・学生六百人が抗議デモ。
7.4日、政府が突然、新東京国際空港り建設地を、千葉県成田市三里塚と隣接する芝山町に閣議決定する。当初1965.11月に富里に内定していたが、地元住民の反対に遭い変更された。三里塚の住民には事前に何の打診、事前説明、協議も無いままの発表となり、地元が猛反発していくことになる。三里塚には明治初期から三里塚御料牧場があり、天皇・皇室用の農産物を確保するために広く国が管理している直轄地で、そこに戦後入植した農民たちが農業を営んでいた。土地収用をやり易いと見たのか三里塚に白羽の矢が立った。その情報を得て、閣議決定の前の6.28日、農民たちは「三里塚・芝山連合空港反対同盟」を結成した。この地域の農民は、戦争では大陸へと狩り出され後、開拓民として入植し、やっと農民としての生活を営んで来た人々が多かった。農具商で画家、クリスチャンの戸村一作さんが、みなに推されて反対同盟の委員長になった。農民の戦いは千葉県の社会党、共産党、労働組合も支持した。
| 【日共系と反日共系の暴力的乱闘始発】 |
| 7.4日、全寮連第八回大会で、日共系学生と反日共系学生が大会主導権を巡って乱闘が起きた。日共系学生暴力発動の最初であり、「あかつき行動隊」創設につながった。 |
7.5日、反戦青年委主催・ハノイ爆撃抗議集会〔清水谷公園〕に都学連三派系1千名参加、米大使館デモ。
7.5日、中央実行委主催・ハノイ爆撃抗議集会〔明治公園〕に全学連(民青同系)9百名参加。
7.5日、日米貿易経済合同委員会粉砕の社共統一行動、京都府学連千六百名、集会〔京都洛北高校前〕、のち国際会館にデモ。
7.6日、京都で、ハノイ爆撃抗議・ラスク訪日抗議の全関西決起集会。労働者・学生一万人が参加した。
7.14-17日、全学連(革マル系)第二十三回全国大会(委員長・成岡庸治)、日韓闘争・早大闘争を総括、三派系の十二月全学連再建粉砕等を決議。68大学・121自治会。
7.14日、民青系全学連が第17回大会(委員長・平田勝)を開いている。75大学・163自治会(189ともある)、オブザーバー自治会140、一般傍聴者を含めて千数百名が参加した。軍国主義復活につながる小選挙区制反対・全学連とIUSの正常な関係回復等を決議。
7.14-17日、都学連(三派系)第十六回大会〔明大〕、十三大学・二十六自治会、千二百人が参加。小選挙区制粉砕等を決議、十二月に全学連再建を確認。
7.18日、都学連(三派系)・京都府学連共催・全学連再建のための予備会談を開く。全国自治会代表者会議〔明大〕、十月全学連再建準備会開催・十二月再建大会開催を決定。
7.19日、和井田史朗さんが日韓条約反対闘争で死去する。
7.20日、都学連(三派系)主催・故和井田史朗追悼抗議集会、のち百五十名で警視庁に抗議デモ。
7.19日、65年6月の日韓条約調印抗議行動の際に、警官の弾圧で片足切断の手術をうけた日大生・和井図史朗君が患部の悪化で死亡。
7月、革マル派全学連、第二十回全国大会開催。
| 【「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」が結成される】 |
| 7.20日、閣議決定と同時に、地元の約千戸3千名の農民・住民によって、「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」(委員長・戸村一作)が結成された。これが後に成田闘争へと繋がることになる。 |
8.2日、8.2反戟集会〔九段会館〕、中核派系学生・労働者千五百名参加。
8.6日、八・六広島反戦集会〔広島〕、反戦青年委・学生八百名参加、十月ベトナム反戦全国ゼネスト決議。
8.11日、べ平連主催「べトナムに平和を! 日米市民会議」が開かれる(~14)。桑原武夫、丸山真男、日高六郎、久野収、北小路敏、藤田省三、中野重治などが出席。
8.26-27日、社学同(マル戦派)第二回全国大会〔東京〕、社学同統一派との合同を決議。3 社青同東京地方本部第七回大会〔社会文化会館〕、反主流・協会派が演壇占拠し混乱、主流・解放派がこれを実力排除し大会を続行(18日社青同中央本部、東京地本解散を決定)
8.28日、原潜スヌーク号佐世保寄港に抗議して集会、佐世保で一万人がデモ。稲城・多摩ホークミサイル基地設置反対集会。市民・反戦青年委など三千人が参加。
| 【第二次ブント再建】 | |
| 9.1日、 既に昨年4月関西派は、「マル戦派」と「ML派」の一部を結合して「社学同全国委員会」(社学同統一派)を結成していたが、このような曲折ののち更にこのたび「社学同統一派」と「マル戦派(マルクス主義戦線派)」の残存部分との合同がなって、ブントは「第6回共産同再建全国大会」(ブント再建大会)を開催するに至った。ここに、ブントは6年ぶりに組織統一をみるに至った。「社学同統一派」と呼ばれる。
これが、「第二次ブント再建」といわれるものである。 この経過は次のように簡潔にまとめられている。
他方、「ML派」の一部は、こ のブントの統合に反対し、毛沢東の思想である「人民戦線路線」を取り入れ党の路線とし、「帝国主義を打倒するための人民革命」を目的として、68年「日本マルク ス・レーニン主義者同盟」(ML同盟.書記長鈴木*夫)、・学生部隊=学生解放戦線を結成し、 「第二次ブント」とは違った方向に進むことになる。 |
9.3日、社青同東京地本九三事件。社青同東京地本大会で、大会の主導権を巡って解放派と協会派が乱闘、協会派側に百人を越える負傷者をだす。東京地本大会乱闘で、社青同解放派が組織的に排除され、以降解放派は社会党とは別の組織となった。
9.4日、都学連(三派系)百五十名、原潜寄港阻止緊急抗議行動〔横須賀〕、正門前デモで二名逮捕。
9.5日、原潜横須賀寄港抗議闘争に五千人が参加。都学連七百人がデモ。
9.5日、都学連(三派系)六十名、横須賀基地正門にデモ・三名逮捕、夜、社共統一集会〔臨海公園〕に合流、六百五十名で再度基地正門にデモ・六名逮捕。
9.7日、原潜横須賀寄港抗議闘争。ベトナム戦争反対・総評ゼネスト支持中央集会に3万名。民青同系五百名、三派系千二百名参加、新三派系都学連1200名が基地ゲート前で機動隊のサンドイッチ規制をうち破り、反戦青年委を中心とした労働者は基地ゲート前に座り込み、ジグザグデモ。この頃各地の大学で抗議闘争発生。
9.14日、社学同統一再建実行委主催・全都学生討論集会〔明大〕に三百五十名参加、社学同の統一・十二月全学連再建を決議。
9.18日、ジャン=ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーボワール来日。東京と京都で「知識人を弁護する」という題で講演。
9.22日、全学連再建実行委、べトナム反戦全国統一行動。全学連再建実行委主催・ベトナム反戦・小選挙区制粉砕全都総決起集会〔清水谷公園〕に七百名結集、デモ。
9.22日、全学連再建準備会結成大会に全国から二十六大学・五十五自治会、千四百人参加。十二月に新三派系全学連再建を決議。全学連再建に反対する革マル派と衝突、機動隊介入し兇器準備集合罪で十数名逮捕。
9月、成田空港反対同盟の初総決起集会が三里塚公園で開かれ、農民千五百名が参加した。老人行動隊も組織された。
10.2日、成田空港反対同盟-三里塚.芝山連合新東京国際空港反対同盟結成後初の総決起集会。
10.7-8日、全学連(革マル系)全国自治会代表者会議〔早大〕、十月闘争方針を決定、二日目、百五十名で明大構内デモ・三派全学連再建を弾劾。
10.7-8日、全学連(民青同系)全国自治会代表者会議〔日本橋公会堂〕、大学の危機突破等を討議。
10.8-9日、全学連(三派系)再建準備会結成大会〔明大〕、十二月再建大会結集のアピール採択、準備会役員(委員長・斎藤克彦)を選出。
10.14日、ベトナム反戦社共統一行動、中央集会〔明治公園〕 に全学連(革マル系)四百名、都学連(三派系)九百名、ベトナム反戦学生共闘委(構改系)二百五十名、全学連(民青同系)三千名が参加。京都・大阪でべトナム反戦統一行動。京都で労働者五千人と学生五百人が、大阪では学生を含め労働者二万人が集会とデモ。
10.18日、京都・大阪で反戦青年委・学生がべトナム反戦統一行動。京都で六百人、大阪で千五百人が集会とデモ。
10.19日、ベトナム反戦直接行動委(アナキスト系)の青年、十五、六人が、武器の生産中止を要求し田無市の日特金属工業に突入、事務所の電話や電源スイッチを破壊し三名逮捕される。日特金属は機関銃の製造会社とされていた。
10.20日、新三派系が全学連再建準備会を56自治会で開き、12月再建方針を確立。全学連(三派系)再建準備会主催・ベトナム反戦・総評統一スト支援総決起中央集会〔日比谷公園〕に二千五百名結集、米大使館に向かうも機動隊と衝突、銀座デモで十七名逮捕、全学連(革マル系)五百名、日比谷野音に結集、清水谷公園までデモ、全学連(民青同系)三千名、芝公園で集会・デモ。
10.21日、ベ トナム戦争阻止・総評・中立労連第三次統一行動。中央集会は労働者三万人で開かれ、全学連再建準備会の学生1600名が参加。集会後、デモ。大阪で一万人、京都で七千人の労働者。学生が集会とデモ。
10.21日、全学連(革マル系)三百五十名、国労支援で大宮操車場構内集会・デモで三名逮捕。
10.21日、総評主催の中央決起集会〔日比谷野音〕に三派系千名・構改系三百五十名結集、米大使館デモ・坐り込みで六名逮捕、京都府学連(三派系)千二百名、集会・デモで九名逮捕、大阪府学連(反日共系)千名、集会・デモ。
10.24日、紀元節復活公聴会阻止闘争、全学連、東京・大阪・広島・札幌で紀元節復活公聴会阻止闘争。広島大生ら三百名、会場〔広島婦人会館〕にデモ、一部会場内突入で四名逮捕、大阪府学連六十名、会場〔府庁〕内デモ・坐り込みで一名逮捕。
11.23日、明治大学、学費値上げに反対して、明治大学学生会が和泉校舎を封鎖。文・法・商・政経・経営学部の一、二年生が無期限の授業放棄闘争に突入。
11.30日、明大全学闘委、学費値上げ阻止の大衆団交。四千人が結集。
11月、明大にも学費闘争が発生した。
11.4日、米国務次官バンディ来日反対でベトナム反戦共闘委(構改系)二十名、米大使館に抗議行動。
11.6日、広島大学の学生五十人、第三次防衛計画粉砕をかかげて自衛隊武装パレードに抗議。
11.9日、全学連再建準備会(三派系)主催・ベトナム反戦集会〔清水谷公園〕に三百名結集、全学連(革マル系)百五十名合流、米大使館に抗議デモ、山王下で機動隊と衝突し六名逮捕、全関西決起集会〔神戸〕に六百名結集し米領事館デモ・三名逮捕。
11.9日、京都府学連の七百人が、アメリカの神戸領事館にべトナム侵略戦争反対の抗議デモ。
11.12日、「社革新」と「日本の声」 派が合同し、「共産主義労働者党(共労党)」結成。議長に内藤知周、書記長にいいだもも氏が選出される。党内には、多様な考えが共存するユニークな「前衛党」であったが、構造改革路線を支持する者が多数であったため、外部からは「構造改革路線の党」と目されていた。
11.18日、ベトナム反戦共闘委(構改系)七十名、輸送船建造契約破棄を要求し、三菱重工業ビル正門前で抗議行動、機動隊と衝突し三名逮捕。
| 【明大.中大闘争】 |
|
11.18日、全明大臨時学生大会が開かれ、賛成271.反対138.保留38.棄権1で先制的ストライキに突入した。 |
11.19日、東学館館生大会、地裁の強制立退き仮処分執行にバリケード構築で阻止を決議(20日機動隊導入、支援学生とともに三百名で枚動隊と衝突・一名逮捕、明大学館で抗議集会の後、奪還デモ・二名逮捕)。
11.23日、反戦高協主催・ベトナム反戦・能研テスト反対全都高校生集会〔日本橋公会堂〕 に高校生五百名参加、全国四百万高校生へのアピール等採択。
11.24日、東学館生・早大生ら三百名、東学館強制執行に抗議して学徒援護会にデモ、新東学館に突入し三名逮捕。
11.25日、反戦青年委主催・全都反戦決起集会〔両国公会堂〕に反日共系各派二千名参加、錦糸町までデモ。
12.1日、明大、駿河台の本校もストライキに突入。
12.2日、全学連(三派系)再建準備会主催・ベトナム反戦全都決起集会〔清水谷公園〕に八百名結集、米大使館にデモ・三名逮捕。
12.3日、医学連、インターン制度固定化阻止の抗議集会とデモ。無期限ストの東大医学部・東京医科歯科大を中心に一千人が参加。
12.9日、全学連(三派系)再建準備会・東学館自治会共催・教育学園闘争勝利全関東学生総決起集会〔中大〕に千五百名結集、文部省デモで四名逮捕。
12.9日、中大自治会、学費値上げ反対、学生会館の学生管理・処分撤回を要求して全学スト突入。社学同の指導によって最終的に大学側に「学生の自主管理」を認めさせ、処分の白紙撤回を勝ち取るという学生側が勝利を飾った。その他にも関西学院大や西南学院大では学部新設反対の闘争が起こり、また各医大ではインターン制反対闘争が続いており、東京医歯大はストに突入といった状況を現出しつつあった。
| 【全学連(三派)再建大会開催】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
|
12.17日、既に三派都学連を結成させていた新三派連合(社青同解放派・
社学同・中核派)は、明治大学で全学連再建大会を開き、この頃ML派なども合流させた上で三派系全学連を結成
した。これで三つ目の全学連の誕生となった。35大学.71自治会・178代議員他1800名。この時、党派はそれぞれの色のヘルメットを着用した。これが学生運動でヘルメットが着用された最初となった。
この「全学連再建大会」は結成されたものの呉越同舟的な寄り合い所帯の諸問題をはらんでいた。まず、再建大会を第何回大会として位置付けるかをめぐって対立した。社学同と社青同はマル学同が独占した17回大会以後を否認した。マル学同中核派は20回大会以降を否認した。何時の時点で破産したかの認識が異なっていたからであった。これにより明示できなかった。なお、60年安保闘争の総括が蒸し返され見解が一致しなかった。こうした対立を乗り越えて、総括を中核派の秋山勝行が、状勢分析を社青同の高橋幸吉が、行動方針を社学同の斎藤克彦という分担制で妥協しつつ何とか「三派系全学連」の結成に漕ぎ着けるという多難な出航となった。
こうして、この時期全学連は、革マル派、民青同、新三派系の三つの全学連を誕生させることとなった。そのうち三派系全学連が最も行動的な全学連として台頭していくことになり、この過程で中核派の主導権掌握がなされていくことになった。この頃よりベトナム戦争が本格化していき、これに歩調を合わすかの如くベトナム反戦闘争に向かうことになった。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
| 確か三派全学連の結成準備会か結成大会、それぞれの党派の代表が招待されてアジり、ブントは水沢なんだかさんという人で宙だけを睨んで絶叫、解放派は佐々木慶明(けいめい)さんという頭の中は立派だがいざとなると腰が据わらぬ御仁、中核派は本多延嘉さんが気張らずソフトな印象で演説をした。 |
12.15日、明大のストに右翼学生が殴り込み、学生二名が瀕死の重傷を負った。
12.17-19日、全学連(革マル系)第四十五回中央委〔早大〕、中大・明大闘争支援、三派全学連結成弾劾等を決議。
12.18日、ベトナム反戦共闘百名、三菱重工の米ロッキード社との兵器買付け契約に抗議し本社前で集会・デモ、機動隊の実力排除で四名逮捕。
12.25日、中大学館闘争、学生会館の学生運営権を獲得、全面勝利する。
1966年から70年にかけてGNP実質成長率が年平均11.5%と推移し、「いざなぎ景気」と呼ばれる超大型景気をもたらした。新三種の神器としてカラーテレビ、カー、クーラーという言葉が登場した。
66年、週刊プレイボーイが創刊される。ヌード写真や車、ファッションなどの話題をとりいれた編集方針がうけ、「11PM」とともに若者の風俗革命におおきな役割をはたした。
これより後は、「第7期その3、ベトナム反戦闘争と学生運動の激化」に記す。
![]()
(私論.私見)